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1.  エル ELLE
淡々と十歳の頃、父親がもたらした修羅場の記憶を語るミシェル。その常軌を逸した惨劇を体験していれば、自身に降り掛かったレイプ事件など相対的に大した事ではないのだろう。17人もの大量殺人を犯したミッシェの父親は今も尚服役中。殺したのは人間に限らずハムスターを除く、馬や犬に猫など、人間と密接な動物であるペットも含まれる。ハムスターを除外したのが謎だが、命の重みとしては軽く観たのだろうか。世間の誹りを浴びて育ってきたであろうミシェルの少女時代を考えるなら、レストランで食事中、意図的に残したスープなどの残飯を高価な衣服にかれられても黙って怒りを抑えるしかないのだろうし、明らかに似ても似つかない黒人の遺伝子を受け継ぐ、赤ん坊を産んだ息子夫婦の妻に対して、ミッシェルが不審の念を抱いたとしても、当人の息子がその状況を全肯定するのであれば敢えて口を挟むべきでは無いと達観する。ミッシェルの立場は戦後の日本やドイツの立場とひどく似通っている。降りかかる敵対行為や謂れのない批判など、様々な理不尽に対して反駁・告発できない不条理。自身が起こした事件でもないのに永年に渡り、嫌がらせが継続するミシェルが、感受性にフィルターを掛け、強く生ざる得ない酷な状況に同情を禁じ得ない。  ヴァーホーヴェンの描く女性達は大抵自己利益の為に打算的・功利的に行動する、合理性で動く強い女ばかりだ、ミシェルもその例外ではない。ミシェルの経営するゲームソフト会社が新作として製作中の内容が、誰と特定できない化物である触手に犯される女性レイプものであるのもミッシェルが既存のモラルや常識にとらわれない、突き抜けた感性の持ち主であるのが解る。出血がないなんてリアルさの欠片もないないなんて、実体験がそうした事を平気で言わせるのか、修羅場を潜り抜けてきたものだけが言える真実。触手物なんて、こんなところにも日本の変態物の影響が及ぶとは意外(笑)。
[DVD(字幕)] 7点(2018-05-15 10:44:39)
2.  ユキとニナ
曖昧で植物的なユキの顔の様に、散漫にして散らかったまま、確たるシナリオもなく感性だけで撮ったような印象の映画。フランスの森から、何処かの日本の田舎にワープしたかのような幻想に帰着させるには、全体の流れからいっても不適合で無理な感じ。更にUAが唄う沖縄or 奄美民謡風の曲で、えっ、此処ってもしかして沖縄もしくは奄美なの?、と混乱してくる。あれほど日本に行きたくないとゴネていたユキは何時何処で妥協したのやら、日本での撮影はどこか河瀨直美調。
[インターネット(字幕)] 5点(2017-07-12 16:51:41)
3.  悪童日記 《ネタバレ》 
遠く離れた田舎に独り暮らす疎遠な母親(少年達にとっては祖母)の元に、双子の少年を託した母親の動向が、その後全く分からないのは、あくまで父親の提唱で双子が書き始めた日記文に拠るもので、子供の知りうる範囲の主観的記述による日常の断片が綴られている設定のものだから。一見、強欲で醜悪に映る祖母が何故そう成ってしまったか、少年達は何も知らないし、ただ、意地悪く接してくる現象としてのおばあさんを肌で認識しているに過ぎない。少年達の不潔な服を洗濯してやり、一緒のフロにも誘った女の奇態。憐憫からゴム長靴をただで二人分も呉れた、心優しいユダヤ人の店主を、その女は残忍にも、ユダヤ人狩り隊列に教えてしまう。それは少年達には許し難く、復讐されて然るべき対象に変えた。  戦争は少年達たちから親と穏やかな日常を奪い、殺伐とした弱肉強食の世界へと変えたと感じた事だろう。母恋しさや、痛み、寒さ、欠乏感に耐え、生き抜くには心身ともに強靭であらねばならぬと、お互いを打ち合うなど、常軌を逸した訓練を始める。彼等をかくも異様な心理状態に追い詰めて行ったものこそ、この映画が表現したかった本質なのだ。映画が映し出す状況は終始、陰惨なのに、達観したかの様な少年達の心境と、簡潔で乾いた虚飾のない描写は、削ぎ落とした後に残る、ミニマムの美学に通じ、美しいと感じさせた。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-05-19 23:23:23)
4.  ヴィオレッタ 《ネタバレ》 
この映画の監督エヴァ・イオネスコ自身にまつわる自伝的映画には違いないが、この作品には母親への怨嗟と母親は真に自分を愛して呉れていたのか、単なる搾取の対象でしかなかったのかという、相反する母親への複雑な想いが強く滲み出たものになっている。母親からこれは芸術であり、マレーネ・ディートリッヒが醸したデカダンスの美学を新たに写真表現するというような話で言い含められ、児童ポルノ紛いの猥褻写真の被写体にされていた十歳前後の頃の記憶に基いている。  本棚にある「芸術新潮」1994年2月号に、当時のエヴァ・イオネスコを撮った写真が表紙として採用されている。モチーフはアダムとイヴなのか、思春期の男女が全裸で手を繋ぎ挑発的な視線をレンズに投げかけている。このキッチュな写真を撮ったのもおそらく母親なのだろう。無垢だった少女の自分を操り、母親からいかがわしい写真のモデルとして使役されたことへの思い、ひいては児童虐待の被害者としての側面。いいように搾取されてきたとの怨嗟。それでも母親への想いは複雑に交差し一元的に収斂できかねている様子。  ただこの映画から感じ取れるのは、寧ろそうした負の側面より、他の児童より抜きん出て美しく、嫉妬からいじめに遭ったという記憶。特異な世界の大人たちの視線を浴び、世間から耳目を集めた特別な存在であったのだという自負の感情も隠しきれない。稀なる美貌のアナマリア・ヴァルトロメイに自分の少女時代を演じさせるという過剰な美化、ある種の倒錯した自己愛が透けて見える。この映画を通して母親の自己欲求の犠牲になった、自分の過去を振り返るという体裁を取りながらも、再びその忌まわしい筈の世界を再構築し蘇らせる事が、母親と同じ穴の狢に成ってしまっているという矛盾と名声への打算が露呈
[インターネット(字幕)] 7点(2017-04-19 18:22:15)
5.  黄金の肉体/ゴーギャンの夢 《ネタバレ》 
ポール・ ゴーギャン役にドナルド・サザーランド、顔なども意外に似ているし殆ど憑依感のある演技で、思いのほか没入で見入ってしまう、とても魅力ある作品。自信満々、タヒチから意気揚々と凱旋気分で帰国した頃の短い期間の出来事を中心に描いている。ゴーギャンの性格描写、人となりは、サマセット・モーム作「月と六ペンス」に描かれる、チャールズ・ストリックランドに基準したような印象。  この本はモームがゴーギャンを題材として書いた小説として知られている。「月と六ペンス」の主人公(ゴッホであるとする説もある)は、交友関係に於いてストリックランドから散々酷い目に遭わされおり、怒り心頭の筈の彼が、残していった作品を前に、ナイフで引き裂く積りが、作品に圧倒され押し留まる。ストリックランドの画家として才能を高く評価、敗北感に打ちのめされるという話。ストリックランドを利己的かつ極めて傲慢な男として描写しており、こうした部分の多くが、映画のポール・ゴーギャンに引き継がれており、人物造形に多くの影響、共通点がある。  時期はタヒチ渡航以降の事であり、この映画にはヴァン・ゴッホは全く出てこない。代わりにボヘミアン・グループとの交流から、ゴーギャンとストリンドベリの二人の間で芸術談義を交わすシーンもあったりする、その会話内容も示唆的で実感がこもる。ストリンドベリ役を、同じ出身国スウェーデン人俳優、マックス・フォン・シドーが陰気な顔で演じているのも興味深い。  この映画でのゴーギャンは、主に下宿先の14才の娘の視点で語られる話であって、その点がこの映画のユニークなところかも知れない。彼女は何故か初対面からゴーギャンに強く惹かれる様子で、好奇心を隠さない。浴室のドアをわざと開け、己の裸身を見せつけゴーギャンを誘惑しようとするなど多感な少女。帰国したゴーギャンは絶対的な成功を信じて疑わず、華々しく個展を開くが惨憺たる結果に意気消沈する。  幸いな事にそんなゴーギャンに遺産が転がり込む。離別した妻メットの親族との金銭を巡っての下世話なトラブル、褐色の肌を持つ異国の少女との同衾など、モラル欠如でスキャンダラスな女性関係など、様々なエピソードを通し、破天荒なゴーギャンの人となり、生き方をあぶり出す演出。ゴッホを扱った映画作品は数本あるのに対し、ゴーギャンを単独で主人公とした映画は本作以外しらない。後には嫌悪の対象でしかなかった、妻、メットの生地であるデンマークの映画であるのも興味深い。
[ビデオ(字幕)] 8点(2017-04-12 19:06:12)
6.  エレニの旅 《ネタバレ》 
オデッサで想起するのは、ソ連映画「戦艦ポチョムキン」。ロシア革命の引き金となった兵士の叛乱事件を描いた歴史的作品。この映画はそのオデッサから逃れてきたギリシャ人の一団の中にいる、未だ幼い戦災孤児の少女、エレニの物語には違いないが、叙事詩としての側面が濃厚。1919年が起点となっている他、特にこの映画の中で説明はないものの、オデッサからの逆難民であると冒頭にある様に、ロシア革命の余波から戦乱に拡大した頃の時代背景を基に描いていて、アンゲロプロスの一貫したテーマ、悲劇的歴史に翻弄されるギリシャ人の姿を描いている。  この後、画面は思春期の少女に成長したエレニが、付き添いと共に小船で定着後の村に戻るシーンにとぶ。会話の内容から未婚のエレニが双子を出産、否応なく里子に出され、失意からベッドに打ち拉がれている様子が映し出される。それから更に話は跳び、妻を亡くした村の有力者で養父でもあるスピロスが、エレニを妻に迎え入れる婚姻の準備がエレニの意思などお構いなしに進行していて、それに危機感を抱いたスピロスの息子、アレクシスとエレニが示し合わせ、ウエディング姿のまま手に手を取り合って出奔する。  逃げたエレニを追って、座の一員として居た劇場にまで現れたスピロスから再び逃避行をする羽目に。スピロスはアレクシスにとっては実父、エレニにとっては養父で夫という面倒な関係にある。ここまでの話は結構ドロドロとした下世話な展開なのに、主要人物を捉えるカメラ視点が常にロングで撮られているので、エレニとアレクシスの不幸なカップルにさほど感情移入がし難い。情動表現を嫌うロベール・ブレッソンの映画と違い、エレニの情緒は演技で普通に表現しており、哀感の涙が頬を伝って落ちている筈のショットですら、顔のクローズアップは意図的に外されている。  映画を観る観客とエレニの間に、アンゲロプロスの撮影は常に一定の距離的空間で隔たれているので、観る側としては感情移入することなく客観的にエレニの不幸を観てしまう心理状態に置かれる。アンゲロプロスの撮影にもズームアップが無いわけではないが、主人公でさえ、殆ど顔のアップは避けられている。せいぜい遠景に広範に撮られていた群集や風景に緩慢なズームアップで僅かに寄る程度のもの。何故にこうした手法に固執するか解らないが、ギリシャ劇場の伝統的舞台劇を観る観客の視点に基準したものかも。  アンゲロプロスの映画にいつも思うのは登場人物達に生活感(臭)がしない事。養蜂家であったり詩人だったり、旅芸人や本作の場合は旅一座の音楽団という設定。どれも定住せず流離う人々だ、流転・流浪を余儀なくされた魂の象徴とでも言いたげ。いずれにせよ労働者階級を描くことはせず、アンゲロプロスの映画はひたすら芸能で生きる人々や、何を生業としているのか判然としない人々を描く事が多い。  憔悴し横臥したエレニがうわ言のように、様々な色の制服に拘置されたと何度も同じ台詞を繰り返すのは、ギリシャの近現代史に疎い外国人には意味が伝わり難い。内戦や様々な外国軍の占領支配や、干渉を受けた負の歴史を簡易に台詞で語らせているのは解るが、3時間近くの長い映画なら映像でそれを観せ、観客に解らせるべきではないかと思う。  本作に顕著な水辺の風景シーンは、全てのものを倒立像として映しだし、官能的なまでに美しいのだが、タルコフスキーの癒しの水と同じ様に、水に何らかのメッセージ性を込めているのだろう。冒頭からラストシーンまで水尽くしで、常に彼らの傍には水面が静かな佇まいでを観せ、人の世の移ろいに対して、悠久とした時間、抗えない運命・歴史を感じさせた。ラストで遺体となった息子の傍らで慟哭するエレニの背景も水辺なのも印象的。
[DVD(字幕)] 8点(2017-04-10 12:05:40)
7.  かもめの城 《ネタバレ》 
某、映画評論家さんが本の中で感情も露わに「アレからたった3年でこれだ」と怒っていて、何に彼が憤っているのか斟酌して言うと、多分、清純無垢の象徴のような大切なシベールが、3年後には脱獄囚の男と親しくなり、あまつさえ性行為にまで至ってしまったという、壊わされ霧散してしまった幻想に怒り心頭なのだ。そりゃ、主演女優こそ同じパトリシア・ゴッジではあるものの、本作と『シベールの日曜日』とは全く無関係の別作品。名前も、あまりイメージがよくないアグネス。彼だって、そんな事は百も承知でやはり文句を言いたくなるのだろう。それくらいP・ゴッジと役名のシベールとが不可分に結びつき、至宝のものと愛されてきたのだ。  しかし本作のアグネス、歳のわりに精神年齢が未熟なのか、カモメしかいない閉じた孤独さ故か、いつまでも人形遊びに執着。なかなかその想像世界から脱っせず、空想と現実との境も曖昧。案山子に着せた服と同じだからと、現実に出会った男とを混同する。或いは自分を誤魔化し、行動を正当化するため、その振りをしているだけなのか。いずれにせよ、思春期の性のめばえが根底にあるのは間違いない。そうなるともう誰にも止められない、冷静さを欠いた行動が、冒頭で、父親により断崖に投げ棄てられた人形と同じ、執着し愛する者を破滅へと向かわせてしまう。  解っていても映画評論家さん同様、どうしても「シベールの日曜日」との兼ね合いで観てしまうのは致し方ない。何が違って何が同じなのかを考えると、やはり、この映画は「シベールの日曜日」を大いに意識していると感じる。P・ゴッジの起用もそうだが、孤独な魂が、自分を認めてくれ、愛し合い、慈しむ対象を求めるところは共通する。違いが大きいのは「シベールの日曜日」が、ある暗黙の法則に則った様式を踏まえているのに対し、この『カモメの城』は年齢差、その他の理由で、重要な要素の無垢性が成立し得ないのだ。  先ず、アグネスは父親も家族同様の家事手伝いの女性も家に居て、天涯孤独な身の上ではない事。リュック・ベッソン監督「レオン」のマチルダも、「ロスト・チルドレン」のミエットにしても、シベールも身寄りなく絶対的孤独に置かれ、パートナーとなる相手も、共通してアウトサイダーの身の上である。そして正統な社会成員とは見なされないような何らかの世俗的欠損要素を備えており、持たざる者の聖性を持ち得ている。彼等は比喩的に言って、少女のパートナーとして神が遣わした守護天使のような存在と見做せる。そして命に変えても少女を守ろうとする。  肉欲に浸ることを覚えた「カモメの城」のアグネスは、絶対少女の年齢枠にも外れ、聖なる彼等の列に加わる資格を既に失っている。
[DVD(字幕)] 7点(2016-07-28 12:41:08)
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