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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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321.  ザ・ムーン
人類が「冒険」をしなくなって久しい。「アポロ計画」は、人類が臨んだ最後の「冒険」となっているのではないかと思う。  1本のロケットもまともに打ち上げられなかった時代、「人類を月に送る」と宣言したJFKは、その計画に対しどれほどの「確信」があったのだろう。 作品の中でも語られているが、彼(JFK)は、ヒーローだったのか、夢想家だったのか、狡猾な政治家だったのか、そのすべてだったのか。 ただ何よりも重要なのは、大国の歴史的リーダーが、自国の威信と誇りをかけて「未知」へと進むための具体的なアクションを起こしたということだと思う。 失敗も成功も、何かをしなければ得られないわけで、すべてはJFKの宣言から始まったのだろう。  月へ向かった宇宙飛行士たちが語るアポロ計画の真実、そして「未知」を経験した価値。それぞれのコメントも実に印象深いものばかりだったが、それ以上に感じたことは、彼らの「目」の輝きだった。皆、80歳前後の老齢のはずだが、その目の輝きは、おそらくかつて月へ向かったかの日のままなのだろうと感じた。  莫大な予算を投じ、多くの犠牲もあった。しかし「冒険」の価値は、そのすべてを凌駕する。 有史以降、未知に向けてのチャレンジは、人類自体の成長そのものだったと思う。 即ち、人類としての「冒険」を止めてしまうことは、人類という「種」自体の退廃に直結する。  大偉業から40年。人類は再び、冒険に向かうべきではないか。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-05-25 22:02:02)(良:1票)
322.  ミスター・ノーバディ
土曜日の深夜にこの映画を観た。 映画を観終わり、エンドロールが終わっても、しばし呆然とした。 そして、それほど眠気は無かったが、すぐに眠ることにした。 いつもならば、映画鑑賞をした後はすぐにレビューの文章を綴るのだけれど、この映画の感想を綴るには、とてもじゃないが一日使い古した深夜の思考回路ではおぼつかないと思えた。 それに、一旦眠りに就き、一晩夢見の中でこの映画の余韻に浸りたいと思った。   「死」がなくなった新世界、世界で最後の「死」を迎える老人が118歳の誕生日に自身の人生を顧みる。  あの日、あの時、ああすれば良かった……。という思いは、人生という限られた「時間」を生きゆくすべての人間が思い巡らせることだろう。 自分の人生はただ一つだが、実は同時に「選択」の数だけ無限のパラレルワールドが存在し、それと同じ数だけの人生が存在するということが、あまりに美しいビジュアルの中で表現される。   「選択をしなければ、すべての可能性が残る」 と、人生において最初の「選択」を迫られた少年時代の主人公が語る。  映画は展開し、無限のような広がりを見せた果てに、その少年時代の台詞に帰結する。 死を目前にした老人が“過去の記憶”を辿っていく物語に見えていた映画世界が、その瞬間から、9歳の少年が自らの「選択」による“未来”とそれに伴う“可能性”を辿った物語に転ずる。  それまでに脳内に注ぎ込まれていた膨大で不可思議なイメージが、一瞬で整合した感覚を覚えた。  この映画のすべてを自分自身が正確に把握し理解しているとは思わないが、圧倒的に凄い映画であることは間違いないと思った。 「人間」の営みそのものを宇宙的視野の中で捉え、見事としか言いようがないビジュアルで表現した世界観は、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」を彷彿とさせる深遠さと崇高さを備えていた。 そして、この映画が表現する「概念」そのものは、手塚治虫の傑作短編集「空気の底」の映像化を見ているようだった。  決して万人に受け入れられる映画ではないだろうし、個々人の精神状態次第で酷く退屈な映画になり得る作品だと思う。 ただ僕は、自分自身が己の人生を通して考え続けているあらゆる要素が溢れているこの映画から目線を外すことが出来なかった。  敢えてもう一度言う。凄い映画だ。人生を通して何度も観たい。
[DVD(字幕)] 10点(2011-11-27 01:37:41)(良:1票)
323.  すばらしき世界 《ネタバレ》 
この映画に登場する人物のほぼ全員は、主人公・三上正夫に対して、悪意や敵意を示して接することはない。 むしろ皆が、偽りなき「善意」をもって彼に接し、本気で彼の助けになろうとしている。 そして、三上自身も、その善意に対し感謝をもって受け止め、“更生”することで応えようと、懸命に努力している。 その様は、「やさしい世界」と表現できようし、この映画のタイトルが示す通り、「すばらしき世界」だと言えるだろう。  でも、それでも、この世界はあまりにも生きづらい。 その、ありのままの「残酷」を、この映画は潔くさらりと描きつける。 西川美和という映画監督が表現するその世界は、いつも、とても優しく、そしてあまりに厳しい。   僕自身、ようやくと言うべきか、早くもと言うべきか、兎にも角にも40年の人生を生きてきた。 平穏な家庭に育ち、平穏な成長を経て、そして自らも平穏な家庭を持っている。 決してお金持ちではないし、生活や仕事において不満やストレスが全く無いことはないけれど、今のところは「幸福」と言うべき人生だと思う。  だがしかし、だ。 その平穏という幸福を自認し噛み締めつつも、僕自身この世界における“生きづらさ”を否定できない。 人並みにアイデンティティが芽生えた少年時代から、40歳を目前にした現在に至るまで、「生きやすい」と感じたことは、実はただの一度も無いかもしれない。 人の些細な言動に傷つき怒り鬱積を募らせ、僕自身も“本音”を吐き出す程に周囲の人間を困らせたり、怒らせたり、傷つけたりしてしまっている。 どんな物事も思ったとおりになんて進まないし、「失敗」に至るための「行動」すらできていないことが殆どだ。 自分自身の幸福度に関わらず、人生は失望と苦悩の連続で、この世界はとても生きづらいもの。 それが、殆ど無意識下で辿り着いていた、現時点での僕の人生観だったと思う。  そしてそれは、この世界に生きるすべての人たちに共通する感情なのではないかと思う。 そういった個人の閉塞感を、この世界の一人ひとりが持たざる得ないため、その負の感情は縦横無尽に連鎖し、社会全体が閉塞感に包まれているように感じる。  この映画で西川美和監督が、社会に爪弾きにされた前科者の男の目線を通じて描き出したことは、決して一部の限られた人間の人生観ではなく、この世界の住人一人ひとりが共有せざるを得ない“痛み”と一抹の“歓び”だったのだと思う。  確かに、この世界はすばらしい。 美しい光に満ち溢れているし、エキサイティングで、エモーショナルで、ただ一つの命をまっとうするに相応しいものだ。少なくとも僕はそう信じている。  そんな世界の中で、人は皆、誰かに対して優しくありたいし、誰しも本当は「罪」など犯したくはない。 それでも、結果として「罪」が生まれることを避けられないし、すべての人が無垢な「善意」のみで生きられるほど、人間は強くない。 この映画の登場人物たちは皆優しい人間だと思うけれど、主人公に対する「善意」の奥底には、それぞれ一欠片の「傲慢」が見え隠れする。 取材をするTVディレクターも、身元引受人の弁護士とその妻も、スーパーの店長も、役所のケースワーカーも、ヤクザの老組長も、心からの善意で主人公を助けているけれど、同時にその心の奥底では彼のことをどこか見下し、自分の優位性を感じていることを否定できない。  無論、だからと言って、彼らを否定する余地などはどこにもない。 彼ら自身も、この生きづらい世界の中で、自分の心の中で折り合いをつけながら、必死に生きているに過ぎないのだから。   自分の感情に対して「正直」に生きることしかできない主人公は、それ故に少年時代から悪事と罪を重ね、人生の大半を刑務所内で過ごしてきた。 理由がどうであれ、犯した罪は擁護できないけれど、誰にとっても生きづらいこの世界が、益々彼を追い詰め、ついには自分自身で、文字通り心を押し殺さざるを得なくなっていく様を目の当たりにして、悲痛を通り越して心を掻きむしられた。 それは、単なる暴力による報復などとは、比べ物にならないくらいに残酷な業苦を見ているようだった。  ラストの帰り道、どこか都合よくかかってきたように見える元妻からの電話による多幸感は、果たして「現実」だったのだろうか。 そして、とある人物から貰った秋桜を握りしめ、最期の時を迎えた主人公の心に去来していた感情は、如何なるものだったのだろうか、救済だったろうか、贖罪だったろうか、悔恨だったろうか。 僕自身、様々な感情が渦巻き、鑑賞後数日が経つがうまく整理がつかない。  空が広く見えた。 人間は、この「すばらしき世界」で、ただそれのみを唯一の“救い”とすべきなのか。
[映画館(邦画)] 10点(2021-03-01 12:30:15)(良:1票)
324.  バッドボーイズ(1995)
アクション大作として人気が高く、続編も公開される今作であるが、個人的にはそれほどの面白さを感じなかった。ウィル・スミスとマーティン・ローレンスの掛け合いは愉快な部分もあるが、かみ合っているという感じはなかった。アクションシーンにも目を引くほどの派手さはなく、全体的に中途半端な仕上がりに終始していた。
4点(2003-10-17 14:04:24)(良:1票)
325.  人のセックスを笑うな
そもそも映画の評価など"個人的な価値観”の極みだと思っているので、この映画の場合、永作博美は悪戯な笑みが魅力的すぎて、蒼井優は久々に脇役ならではの素敵な存在感を放っていて、それだけでもう満足してしまうというもの。  全編通したまったりとした空気感の中で、息づくそれぞれの何気ないロマンスをぼやっと眺めているだけで、この映画は成立していると思う。 ただ、そういう雰囲気を楽しむ作品としては、少々尺が長い気もする。 ストーリー自体に特別な抑揚はないのだから、もう少しさらっとまとめてくれた方が、もっと心地よい余韻が残ったと思う。  あと主人公である永作博美演じるユリの人間性を終盤もう少し描いて欲しかった。 ミステリアスで魅力的な美術講師としての存在感はとても素晴らしかったけど、結局彼女はどういう人間なのか?という部分が曖昧なままで、その心象風景が見えてこなかったのは残念だし、そういう部分が思ったよりも感情が揺れなかった原因だと思う。 終盤の露出が減り、最終的に蒼井優に食われてしまった感がある。その辺りの切替えが監督の狙いかどうかは分からないが、この作品の場合は永作博美の「存在」を最後まで押し通すべきではなかったかと思う。
[映画館(邦画)] 6点(2008-03-22 16:44:51)(良:1票)
326.  モダン・タイムス
チャールズ・チャップリンの映画を初めて観た。 と言うと、映画ファンとしての見識を我ながら疑ってしまうが、事実なので致し方ない。 自分自身、何らかの作品は観ていた“つもり”になっていた。 が、どうやらその曖昧な記憶は、数々の映画において“引用”されるチャップリンの映像によって刷り込まれていたものらしい。 言い換えれば、それくらいチャールズ・チャップリンという映画人は、世界中の映画ファンの記憶の中に最初から埋め込まれているような存在なのだと思う。  そうなると、初めて観るチャップリン映画を何にすれば良いのか?ということを悩まざるを得なかったが、何となく感覚的にこの「モダン・タイムス」を選んだ。 常に揺れ動く社会において、「仕事」とは何なのか?「働く」とは何なのか?ということをひたすらに描いた今作は、今まさに「仕事」に対して思い悩む日々を過ごす自分にとって相応しく、運命じみたものを感じた。  資本主義社会の中で、文字通り機械的に働き続ける男の姿を発端として、世知辛い世の中を風刺した今作。 働けども働けども光明が差してこない厳しさを、チャールズ・チャップリンによって笑い飛ばすこの映画は、きっと公開以来現在に至るまで世界中の“働く人々”に様々な影響を与えてきたことだろう。  素晴らしいと思うのは、人間味が薄れた厳しい社会情勢を下敷きに物語を展開させつつも、この映画は決してそのすべてを否定しようとはしてないことだ。 主人公の言動が終始一貫表しているように、たとえ世の中がどんな状況であろうとも、それでも人は働かなければならないし、働けるということに喜びを感じなければならないということを、きちんとこの映画は伝えている。  だからこそ、主人公は常に前を向いていられるし、ヒロインが打ちひしがれるラストでも、“スマイル”を促し彼女の手を引いて進み出せるのだ。 辛い世の中だからこそ、すべてを否定するのではなく、肯定すべき部分に目を向けなければならない。 この映画が長きに渡り世界中の人々に愛されているのは、そういった“力強さ”に溢れているからだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2013-02-17 01:48:23)(良:1票)
327.  ラストナイト・イン・ソーホー
“ソーホー”とは、ロンドン中心地に位置する1エリアのこと。古くは性風俗店や映画施設が並ぶ歓楽街として栄え、現在では高級レストラン、メディア関連企業が立ち並ぶロンドンにおける文化・ファッションの中心地となっているようだ。 そういうイギリス及びロンドンという街の歴史や、文化的な文脈に精通していれば、より一層この映画の魅力は増大したことだろう。 僕自身はそういったロンドンの風俗や文化に傾倒しているわけではないので、何となくの「雰囲気」のみでしか本作の魅力を感じ取ることはできなかったけれど、それでもこの映画世界が発する色香や艶めかしさ、そしてのその真裏に蠢く罪や闇は、如実に感じることができた。  往年のロンドンの歓楽街が発する輝きとそれに対する憧れ。表裏一体に存在する悲しみと憎しみ。 国内外問わず、過去の文化やファッションに対するリスペクトは尽きないけれど、それらが成立していた当時の社会の本質が、現代社会の価値観によって露わになったとき、そこには「恐怖」や「憎悪」として蘇る要素が溢れかえっている。 ファッションデザイナーを志す主人公の田舎娘が、上京に伴うあらゆる刺激と共に感じ取ったものは、長い年月の中で累々と積み重ねられた女性たちの“怨念”そのものだったのだろう。  描き出されるストーリーの顛末自体は、ありふれており、サスペンスとしてもホラーとしてもオーソドックスだと言える。 ただしそこには、監督エドガー・ライトのシネフィルらしいエッセンスが散りばめられ、必ずしもストーリー展開に依存しない映画的魅力が詰まっている。  現代と60年代の“ソーホー”という歓楽街自体が巨大な“キャラクター”として存在し、この特異な映画世界の骨格を担っている。 そして、その中で文字通りくるくると入れ替わるように立ち回る二人の若き女優が、互いに輝き、照らし、光と影を表現している。 トーマシン・マッケンジーとアニャ・テイラー=ジョイ、幾つもの話題作で印象的な存在感を示している両女優の競演こそが、本作の最大の魅力だと言ってもいい。 ストーリーの展開共に、合わせ鏡のような二人が置かれた立場と心象風景は交錯し、作品テーマとしての陰と陽を織りなしていたと思う。  前述の通り、練られたストーリーや深いドラマ性があるタイプの作品ではなく、歪に偏った映画であることは間違いないが、それ故に忘れがたきカルト性を備えた作品に仕上がっている。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-07-03 00:04:58)(良:1票)
328.  ドライブ・アングリー3D
この映画をクソ真面目に「否定」することしか出来ない人は、映画ファンとして勉強不足だと言わざるを得ない。 なぜならば、これこそが、もはや一つのジャンル映画として確立しつつある、“ニコラス・ケイジ映画”なのだから。  勿論、端から「期待」なんて言葉は持たずに某動画配信サービスで鑑賞を始めた。 すると、序盤から想定外の“おかしな”テンションの高さに、ニヤリとしてしまった。 「あれ?これはもしかしたら中々の馬鹿映画かもしれない」と、別の意味の「期待」が膨らんできた。  ニコラス・ケイジ演じる主人公が、ショットガン片手に問答無用に暴れまくる。 その凶暴さは、明らかに常軌を逸していて、この主人公が“フツーの人”ではないことは容易に理解できる。 どうやらその凶暴さの動機は、愛する娘を謎のカルト教団に殺され、残された孫娘を救い出すため……ということらしいが、はっきり言ってそれに見合った悲愴感など全く漂わせずに、襲来する悪漢を蹴散らし、行きずりの女とのセックスに興じる様は、ニコレス・ケイジ史上に残る無頼漢ぶりかもしれない。  その主人公の無頼漢ぶりに“悪ノリ”するかのように、映画の核心となると或る「設定」が明らかになり、「暴走」は益々激しさを増し、それと同時にストーリーは益々どうでもよくなってくる。  主人公のキャラクター性も良いが、それを上回るくらいに脇のキャラクター達も立っている。 アンバー・ハード演じるヒロインは、絶妙なビッチ感を漂わせつつ、ダイナーのウェイトレスを好演していた。 そして何と言っても、ウィリアム・フィクトナー演じる「監査役」が最高だった。得体の知れない独特のキャラクター性が、映画の重要なアクセントになっていたことは間違いなく、娯楽性を高める要因となっていたと思う。  物理的におかしな激しさを見せる銃撃戦とカーアクションに眉を潜めてしまったら負けだ。 映画全体の馬鹿馬鹿しさに対して、ストレートに「馬鹿だ!」と大笑いできた者の勝ち。 それが、“ニコラス・ケイジ映画”を楽しむための鉄則だろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2013-11-13 22:41:32)(良:1票)
329.  七つの会議
現在、「半沢直樹」の第2シーズンにハマり中。 過剰なまでに“舞台調”の大仰な演出にはもはや笑ってしまうが、その振り切った表現も含めて、あのドラマの娯楽性であろうし、あれくらい臆面もなく勧善懲悪を描ききってくれるからこそ、カタルシスは高まるというものだ。  「倍返し」の流行語も生んだ2013年の「半沢直樹」第1シーズンの社会的ヒット以降、作者・池井戸潤の原作は、ありとあらゆる作品が映像化されてきた。 すべての作品を観てきたわけではないけれど、どの作品も、日々声に出すことができないこの国の社会の鬱積や理不尽に対して、作品の主人公たちが痛快に立ち回ってくれることが、多くの日本人にとって高揚感となり活力となっていることは想像に難くない。  現代社会における「時代劇」という寸評も、言い得て妙であり、それは江戸時代の人々が「歌舞伎」や「講談」に興じた風景と似通っているようにも思える。  今作「七つの会議」の原作は、この映画化作品が劇場公開されるタイミングで読んでいた。 中堅電機メーカー社内で巻き起こる「小市民」たちの葛藤と鍔迫り合いが実に生々しく描かれていた。 主人公・八角民夫も含めて、登場する人物が皆この社会のどこにでも存在する「小市民」だからこそ、おそらくこの国のすべての「会社員」は身につまされる事だろうと思った。無論、自分自身を含めて。  この映画化作品も、原作のイメージを損なうこと無く、概ね忠実に仕上がっていると思う。 まさに“池井戸ドラマオールスター”といって過言ではない勢揃いのキャスティングが、まず楽しい。 出演はしていないけれど、「半沢直樹」の堺雅人や、「下町ロケット」の阿部寛が登場してきても不思議じゃない世界観は、まるで一つのユニバースを構築しているようだった。  主演は野村萬斎。原作においても“変人的”に描き出される主人公像を、更に過剰な演技プランで強烈に表現しており、この稀代の能楽師がキャスティングされたことの意味を見せつけている。  「半沢直樹」においても、歌舞伎役者や落語家などの有名所が数多くキャスティングされているが、池井戸原作を映像化するに当たっては、前述の“時代劇性”も含めて、やはり古典芸能との相性が良いのだろう。 (今や飛ぶ鳥を落とす勢いの講談師・神田伯山が何かの作品でキャスティングされるのも時間の問題だろうな)  原作小説の段階から現実感のない破天荒ぶりを見せる主人公だったが、それを野村萬斎が演じることで、更に現実感は無くなっている。 ただ、その様相は、もはやこの社会原理の善悪を問う“メフィストフェレス”のようでもあり、ラストの滔々と語るモノローグも含めて、ずばり悪魔的であった。  「半沢直樹」や「下町ロケット」のように分かりやすく英雄的な主人公が不在の作品なので、より生々しい分、分かりやすいカタルシスは得られない。 結果として、非常にモヤモヤしたものを抱えつつ、今自分自身が身を置く社会や会社の風景を訝しく眺める羽目になるだろう。  原作小説のように章立ての構成になっていないので、「七つの会議」というタイトルについては正直意味不明なことになっていたな。
[インターネット(邦画)] 6点(2020-09-04 23:10:21)(良:1票)
330.  天空の城ラピュタ
今までに私はこの映画を何度観たのだろう。しばしばよく観た映画を「もう何十回も観た」などと多少おおげさに言ったりするけど、この映画は誇張なく「何十回」と観ているだろう。それでもなお、色あせることなく観たくなる。「深遠」という言葉さえ、この映画の前では陳腐な表現に思える。明らかに人の手による創造物であるが、この作品はひとつの人生である。
10点(2003-10-21 12:35:36)(良:1票)
331.  チャーリーとチョコレート工場
工場を巡る途中、主人公の少年が言う「チョコレートの美味しさは理屈じゃない」というセリフが、そのままこの映画全体を表現している。と、思う。 奇想天外なチョコレート工場と工場主、その世界の愉快さの前に理屈など意味を持たない。ただ単に“楽しい!”というほか何もないのだ。 そして、こういう映画におけるティム・バートンの支配力はもう尋常じゃない。完璧以上に完璧にその世界観を作り上げる。更にそこに、ジョニー・デップが加わった時、もう言葉などが入り込む余地は何処にもないのだ。もう“ひたすらに楽しい!”そう言う以外に何が必要か。 板チョコを手に映画館に入れば、尚更に楽しいと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2005-09-16 02:29:07)(良:1票)
332.  MIND GAME マインド・ゲーム(2004)
世の中のほとんどすべてのものには、“限界”がある。悲観的な響きは拭えないが、それはほぼ間違いないことだと思う。だがその中にあって、そうでないもの。“ヒトのイメージ”ただこれだけには「限界が無い」ということを改めて感じた。怒涛のごとくおし流れていくイメージの羅列に、リアルに呼吸を忘れそうになる。なんて果てしない世界をヒトは持っているのだろう。なんだかおこがましい言い方だけれど、その無限の世界を携えたヒトという生物に生まれたことを誇りに思う。自分の精神・肉体の限りに果てしなく“感じる”ことを許されているまさにこの状況に身が震える。
9点(2004-12-22 19:00:25)(良:1票)
333.  マッドマックス 怒りのデス・ロード
「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。  公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。   映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。  実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。  今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。   随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。  “激アツ”  あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。   終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。  手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票)
334.  バベル
「言葉」をバラバラにされた不器用で愚かな人間の生む「混乱」。それはすなわち、この“世界”自体のそれに直結する。 鬱積する空気の中で、登場人物たちは、ひたすらにもがき苦しむ。一体、その先に見えるものは何なのだろうか。 この作品が顛末で伝えるものは、「光」なのか「闇」なのか。その答えは、きっと誰にも不確定で揺れ動くものだろう。  それにしても、映画として外国人が外国人を描き出すことは、やはり難しいものなのだろうということを、改めて実感した。 日本人なので、どうしても日本のシーンが気になるのは否めない。この監督の独特の毒々しさというものも多分に影響しているのだろうが、「混沌」ぶりがあまりに常軌を逸している印象を受けた。アカデミー賞にノミネートされた菊池凛子は確かにモノスゴイ演技をしていたと思うが、女子高生役というのは無理があった気がする。体を張った演技が必要だっただけに尚更にそう思ってしまった。(まあ外国人には日本人は総じて幼く見えるらしいから問題なかったのだろうが)  グローバルな人間の本質を描き出すテーマ性は、濃厚だったと思う。 が、全体的に毒々しすぎるというか、“おぞましさ”みたいなものを必要以上に感じさせる映画だったとも思う。 それこそこの映画で監督が伝え描きたかった部分なのだろうが、観客にとっての“不快感”に達するかどうかは微妙なラインだろう。
[映画館(字幕)] 5点(2007-04-30 01:28:57)(良:1票)
335.  金環蝕(1975)
報道番組では連日のように国内政治の「弱体化」とそれに伴う社会情勢の不安定さが伝えられている。 「弱体化」と言うが、ならば過去の政治が今と比べて優れていたのかと言うと、決してそんなことはないだろう。 戦後の混乱からたとえ強引にでも劇的な復興を成したことは認める。ただその内幕では、真っ黒な混沌が渦巻き、幾重にも膿が蓄積され続けたのだろう。 その深くこびりついた膨大な膿が、時代が変わりゆく今になって徐々に表面化している。 詰まりは、この国の政治は「弱体化」しているのではなく、元々それほど強大な力なんてなくて、長きに渡って覆い隠してきた混沌が目に見えるようになった今、一体どうすれば良いのか分からない状態なのだと思う。  そういうことを、この映画で一部始終描かれる数十年前の日本政治の混沌の様を見ていて思った。  この映画に善人は出てこない。政治の内幕を描いた物語でありながら、登場する人物は揃いも揃って“悪い奴ら”ばかりである。 各々が「甘い汁」を吸おうと躍起になり、それらの行為に良心の呵責などは微塵も無い。当然、善が勝るというようなカタルシスは得られない。だから怖い。  悪行が公然とまかり通り、混沌は闇の中に埋められた。この国には、そんな時代が確実にあって、その上に今の社会が成立している。もちろん、その名残は方々で残っているだろう。 その現実を一般人がもっと認識し、何が善で何が悪なのか、その一つ一つを考えなければ、この国の先は無い気がする。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2010-08-19 14:42:50)(良:1票)
336.  ゴジラVSキングギドラ
(高笑いw) それで勝ったつもりか! 我々は、コンピューターもキングギドラももう要らない! 代わりにゴジラが我々の目的を達してくれる。 核兵器の信奉者どもが復活させたゴジラによって、20世紀のニッポンは叩き潰されるだろう!   というチャック・ウィルソンのセリフの物真似を仲間内での飲み会の鉄板ネタにしている奴が他にいるだろうか。いるわけがない。 「VSビオランテ」に続き、自分が子供の頃のタイムリーなゴジラ映画として、今作への愛着も極めて高い。  チープな未来人設定、強引なタイムパラドックス展開に対してイチャモンをつける人も多いようだが、それはこの映画の本質を分かっていない。  今作で初めてタイトルにもその名が冠された“キングギドラ”が登場するゴジラ映画である以上、チープなSF描写は何を置いても必要不可欠な要素であり、作品全体から醸し出される“B級感”こそが、ゴジラ映画もとい“キングギドラ映画”の味わい深い「伝統」なのだ。  そして、このゴジラの最大のライバルとも言える宇宙怪獣の特性として、常に“誰かに操られる”ということも外すわけにはいかない。 過去の登場作においても、キングギドラは常に金星人やらX星人やらに操られてきた。その絶対不可欠な性質を、今作はストーリーに合わせて巧く利用している。 中盤では謎の未来人に操られ、クライマックスでは“メカキングギドラ”となり文字通り操作(操縦)される。  「三大怪獣 地球最大の決戦」のキングギドラ初登場シーンを彷彿とさせるメカキングギドラの帰還シーンなど、まさしく“キングギドラ愛”に溢れたゴジラ映画だと言える。  前作ではスーパーX2のオペレーター役という完全な脇役だった豊原功補が主人公に抜擢され、決してゴジラ映画の主人公らしくない軽妙な存在感を見せてくれたり、冒頭のセリフを堂々と言い放つチャック・ウィルソンをはじめ外タレの何とも言えないパフォーマンスがクセになったりと、キャストも色々な意味で特徴的で良い。  特に、新堂会長を演じた土屋嘉男がたまらない。往年の東宝特撮映画には欠かせなかった名優の久々のゴジラ映画復帰には、それだけで涙ものだったファンも多いはずだ。 新堂会長が一人ゴジラと対峙する最期の場面は、今作のみならず、ゴジラ映画屈指の名シーンだろう。 
[映画館(邦画)] 9点(2003-09-29 12:42:57)(良:1票)
337.  バイオハザードIII 《ネタバレ》 
ゲームの「バイオハザード」を知らないので、実際のところこの作品のシリーズ性に整合性があるのかどうかは不明だが、個人的な“結論”としてはやはり「もういいね……」というところだろう。  パート1は、ゲーム的な要素を存分に盛り込んだホラー性とスタイリッシュなアクション性、そしてスーパーヒロインの地位を確立したミラ・ジョヴォヴィッチの魅力が見事に融合した秀作だった。 パート2ではさらに“進化”したヒロインの超絶ぶりに対して、ホラー性は衰退したが、アクション映画としては充分なパワーを含んだ作品に仕上がっていたと思う。 そんなわけで、今回のパート3に対しても、ここ数年の駄作揃いの“スーパーヒロイン映画”の醜態を踏まえても、「期待」の方が大きかったと言える。  しかし、ものの見事に「脱線」してしまったようだ。  まず、「エイリアン」シリーズなどでも戸惑う部分ではあるが、前作で必死に守り抜こうとしたものを、のっけから「消失」させてしまうのはやめてほしい。 あれほどまで地球規模で「滅亡」してしまっていては、一体前作までの苦労はなんだったのだ?そもそも首謀者の思惑自体もはやどこかにいってしまっているのではないか? そういうストーリー自体の不合理性によって、「マトリックス」のネオ並みに益々進化するヒロインと反比例するかのように、映画はどんどん退化していってしまった印象を受ける。  予定調和たっぷりのアクション映画に眠気が耐えられたのは、短い前髪が可愛い主演女優の麗しさという唯一の売りがあったからだろうか。 
[映画館(字幕)] 5点(2007-11-04 18:17:24)(良:1票)
338.  ホビット/思いがけない冒険
 「壮大」というよりは「膨大」な映像の“物量”に気圧された。 それがそのままエンターテイメント大作の質としてのパワーに直結して感じられたなら良かったのだけれど、鑑賞日は三が日の最終日、年末年始の疲労の蓄積がピークに達した状況では、正直呆然と眺めるしかなかった。 コンディションを整えられていなかったことに対しての自責を感じつつも、"見慣れた”映画世界に「退屈」を感じてしまったことは否めない。    「ロード・オブ・ザ・リング」(以下「LOTR」)三部作が映画史に燦然と残るファンタジー映画の傑作であることは間違いないと思っている。  その“前日譚”を同じピーター・ジャクソンが描き出すということに対しては、大いなる期待と同時に、「二番煎じにならないのか?」という危惧はどうしたって拭いされなかった。  結果として言えることは、やはり危惧した通り、何だか見慣れた映画世界がまた一からスタートしたのだなという印象に帰結してしまったということだ。  世界観の作り込みは当然ながらもの凄い。ただし、そこに前三部作を超越した何か“新しいスゴさ”があるかというと、そういうものは感じられなかった。 ガンダルフをはじめとしてお馴染みのキャラクターが登場するシーンは、かつての高揚感が彷彿とされ確かにアガる。ただそのアガり方も、あくまでスピンオフ的な盛り上がりに過ぎず、「前日譚」である以上「LOTR」を越える程の物語性は望めまいという固定概念が先行するため、今ひとつ高揚感に浸ることが出来ない。  またキャスティングの地味さも厳しい。俳優の名前で客を呼ぶタイプのエンターテイメント作品ではないということは分かっているが、新キャラクターの殆どが無名俳優ばかりで印象が薄いので、登場人物の多さがただの雑多さに繋がってしまっている。 たとえ現時点での知名度は低くとも、たとえばヴィゴ・モーテンセンやオーランド・ブルームクラスの実力やスター性を備えた俳優を起用してほしかったところだろう。  とはいえ新たな“三部作”は始まったばかり。顧みてみれば、「LOTR」の一作目を初めて観た時の印象もそれほど良くはなく、二作目、三作目の盛り上がり方で一気にシリーズ全体が昇華していった。 とりあえず前三部作を観直しつつ、次作「スマウグの荒らし場」の公開をじっくり待つことにしよう。
[映画館(字幕)] 6点(2013-01-03 22:24:53)(良:1票)
339.  search #サーチ2
インターネット配信による新作映画の視聴がどれだけ普及しようとも、映画は劇場のスクリーンで観るべきで、それが幸福な映画体験をもたらす信じていることに変わりはない。けれど、前作「search サーチ」に続き本シリーズだけは、映画館ではなく自宅で、しかも自室のPCのモニターで鑑賞することが、特異な映画体験をもたらすと思う。  前作に続き、主人公が駆使するラップトップPCやスマートフォンやスマートウォッチの画面を、ほぼ全編に渡って映し出し、ストーリー展開が繰り広げられることでサスペンスが加速していく。 自分のPCでこの映画を観ていると、あたかも主人公のPCモニターをそのままハッキングして観ているような感覚に陥り、この映画特有の“臨場感”が増していく。  更に本作では、ある人物が実際に主人公のモニターをハッキングしているくだりがあったり、前作や本作の顛末がドラマ化されたらしいNetflix作品を主人公が観ていたりして、まるで二重三重に映し出される合わせ鏡のように、現実と映画世界、更にその先のドラマ世界が果てしなく繋がっているような感覚を覚える。  各種インターネットデバイスや、SNS、様々なインターネットサービスを駆使して、18歳の主人公は、母親の失踪と、その裏に隠された真実を追求していく。 前述の特異な映画的手法が功を奏して、主人公と同じ目線で、我々観客も不安を掻き立てられ、たどり着く真相に驚くことができる。  序盤から中盤の展開的には、成功した前作の二番煎じのようにも見えがちだけれど、用意されていた顛末には、前作とは異なるテーマ性がしっかりと備わっており、“パート2”として相応しい出来栄えだったと思う。  まあよくよく考えてみたならば、主人公の母親は、もう18歳になる娘に対して事前にしっかりと“自分たちのこと”を説明しておくべきだと思うし、それが新しい恋人との再婚間近というタイミングであれば尚更だろう。 (そもそもこの母親は男を見る目が無さ過ぎるというのは野暮なので言わないが……)  この手のシチュエーションスリラー特有の強引なストーリーテリングは否定できないが、日常的にGoogleアカウントで様々なサービスを利用している現代人としては、危機管理の必要性を感じずにはいられない映画だった。 定期的なパスワード変更は大事だけれど、いざという時に近親者にも見当がつかないのも危ういな。
[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-04 23:41:59)(良:1票)
340.  ボビー
恥ずかしい話だが、映画の終盤までこの作品に核心である“ケネディ”は“JFK”のことだと勘違いしていた。ほんとに無知さが情けない。 でも、その無知がこの映画の終着点までの道程における「深み」を、固定観念なく染み渡るように感じることが要因になったとも思う。  つまりは、スバラシイ映画である。  1968年、泥沼化したベトナム戦争、混迷を極めるアメリカ、残された最後の希望、アメリカ大統領候補ロバート・F・ケネディの暗殺。 アメリカ史上に残る血塗られた悲劇の日、現場となったアンバサダーホテルに集った人種もステータスもバラバラな22人の「視点」と「感情」をグランドホテルスタイルで巧みに切り取っていく。  この悲劇の事実を知らなかったので、描かれた「顛末」の衝撃は殊更に大きかった。 そして同時に、この映画を22という多種多様なアンサンブルによって描いたことの意味を知った。  それぞれが描いた「希望」がついえたその瞬間、彼らは何を見て、何を思ったのか。 きっとそれは22人の視点以上に複雑で、混沌と共に混ざり合う。  ついえた希望に反して、今なおついえることのない愚かしい悲劇の数々。 それは、アメリカという絶対的な大国に課された恒久的な「業」なんだと思う。 それは、凄まじく辛く、堪え難い。 が、しかし、諦めることは許されない。どこまでも続く悲劇を、どこまでも乗り越えていくしか、人類に未来はない。
[DVD(字幕)] 9点(2007-08-05 23:26:42)(良:1票)

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