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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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81.  デストラップ/死の罠 《ネタバレ》 
映画におけるサスペンス作品は、舞台設定と登場人物が限られる程、「上質」になると思っている。  そもそも“サスペンス”とは、ある状況における「不安」や「緊張」といった心理描写を描いたものであり、設定に制約がある程に、その緊迫感は高まることは必然だと思う。  ただし、もちろんそこには、限られた映画世界の中で、緻密な人物描写と研ぎ澄まされた台詞回しが絶対不可欠なわけだが。  この映画は、そういった「上質なサスペンス映画」に不可欠な要素を充分に備えた傑作と言える。  落ち目の舞台作家が、ある日届いた作家志望の青年の作品が引き金となり「殺人」を画策することから物語は転じ始める。  以降、ストーリーの舞台となるのは、作家の豪邸内のみ。後はほぼ作家と作家の妻と作家志望の青年ら限られた登場人物たちが織りなす会話劇で展開される。  二転三転……いや四転五転とするストーリー展開の中で、互いが見え隠れする心理を探り合い、あぶり出そうとする掛け合いこそが、この作品のハイライトだ。  観ている側は、まるで登場人物たちの滲み出ては覆される心理の裏側を、覗き観ているような感覚に陥り、思わず息を呑む。   中盤以降の心理戦は、同じくマイケル・ケインがジュード・ロウと共演した「スルース(2007)」を思い起こさせた。 (というよりも、原作は同じなのではないかと思わせる程だった。少なくとも今作に対するオマージュが含まれていたことは間違いない)  「スルース」は、マイケル・ケインとジュード・ロウの男同士の“妖しさ”が印象的な映画だったが、今作のクリストファー・リーブとの絡みにも独特の緊張感と妖しさが溢れていた。  今作は、クリストファー・リーブが「スーパーマン」になってからの作品であるから、彼がキャラクターに頼らない確かな演技力を持ち合わせた良い俳優であったことを改めて認識させられた。  もちろん、25年の月日を経ても変わらぬ魅力を放ち続ける、ナイトの称号を持つ英国俳優に対する尊敬は尽きないが。
[DVD(字幕)] 9点(2010-08-12 12:39:19)(良:3票)
82.  アントマン 《ネタバレ》 
アントマン=“蟻男”って、なんだその地味なヒーローは……。と、この新ヒーロー登場に触れそういう嘲笑を含んだ印象を拭えなかった。 今夏公開された「アベンジャーズ2」は、非常に満足のいくマーベル映画の集大成的な作品だった。 が、その映画的物量の凄まじさにより、スーパーヒーロー映画そのものに対して“お腹いっぱい”だったこともあり、今作においては劇場鑑賞をスルーしようと思っていた。 と、そんな矢先、某友人からふいに絶賛メッセージが届き、一転して映画館へ足を運んだ。 正直、実際に鑑賞に至るまで半信半疑なところもあったが、何の事はない、序盤から心の中の“親指”が立ちっ放しだった。  最高。傑作。マーベル映画史上最も“楽しい”映画であると断言してしまっていいとさえ思える。  何よりも楽しかったポイントは、「蟻男」が想像以上に「蟻男」だったことだ。 ただ単に新開発された奇想天外なスーパースーツを身に付けた主人公がミクロサイズになり、“一寸法師”的な活躍をするだけの新ヒーローだと想像していたが、そうではなかった。 「蟻男」は文字通り、“蟻”のリーダーとして無数の蟻軍団を率いて巨悪に立ち向かうのだ。 その想像を超えたあまりにマンガ的な展開が、決して馬鹿馬鹿しくなく、エンターテイメント性に溢れ、感動的な程に楽しかった。 (アリンコ一匹の死にこれほど悲しみを覚えた記憶も無い!)  有名なハリウッドスターがトップクレジットに据えられていなかったことも、イントロダクションの段階で今作が娯楽大作として地味に映ってしまった一因だったが、キャスティングされている俳優たちも皆素晴らしいパフォーマンスを見せている。 主演のポール・ラッドは、コメディ畑の俳優らしい表現力で、軽妙な映画世界の中での軽妙な新ヒーローに見事にフィットしていた。 脇役ではマイケル・ペーニャが最高に良い。近年様々な作品で印象的なバイプレーヤーぶりを見せる俳優だが、彼の「語り口」がなければ、今作は色々な意味で成立しなかったろうとすら思える。 そして唯一のビッグネームであるマイケル・ダグラス。この重鎮俳優独特の怒りと憂いと狂気に満ちた存在感があったからこそ、下手をすればただ軽々しいだけに仕上がっていただろう今作に一本の筋が通っていたと思える。  今作は、「アベンジャーズ2」という“大祭”が終わったばかりのマーベル映画シリーズにおけるシーズンオフ前の最後の作品でもあるらしい。 次のシーズンに向けての区切りとなる作品として、マクロ的に肥大しある意味においては食傷気味だったアベンジャーズの世界観を、一旦ミクロの世界へ凝縮させることにより、魅力を増大させてみせたと思う。 それは、まさに“アントマンスーツ”とまったく同じ論理であり、見事だという他ない。   幼い愛娘のファンシーな部屋の中で、ラスボスとの死闘を繰り広げるスーパーヒーローがいまだかつていただろうか。もちろん、いるわけがない。 “マクロ”から“ミクロ”へ、ヒーロー映画の視点そのものを見事な塩梅で転換してみせたこの映画の優れたエンターテイメント性に脱帽だ。
[映画館(字幕)] 9点(2015-10-06 22:59:02)(良:3票)
83.  宇宙人ポール
昨年「SUPER8」を観た時に、作品としての完成度には不満を持ちつつも、溢れる“映画愛”に対して無下に否定することが出来なかったことが思い出された。 あの映画と今作は、映画としての立ち位置はまったく違うように見えるけれど、本質的な“理念”はむしろ全く同じと言っていい。 即ち、かつて世界中が熱狂し愛したスティーブン・スピルバーグをはじめとする偉大な映画監督たちが生み出した数々のアメリカ娯楽映画に対する「敬愛」。まさにその一言に尽きる。  ただ、今作が「SUPER8」と少し違うところは、そんな理屈抜きにして問答無用に面白い映画であるということだ。 往年の娯楽映画に対するオマージュに溢れてはいるが、そんなものはあくまで“おまけ”であり、きっと誰が観たって「面白い!」そういう映画としてきっちりと成立している。それが、「娯楽映画」として最も素晴らしいことであることは言うまでもない。  英国の“ボンクラオタク男子”の二人組が、憧れのアメリカ旅行中に宇宙人に遭遇する。紆余曲折を経つつ意気投合し、宇宙人の彼を仲間の元へ送り届ける。 実際ただそれだけの話である。ただそれだけの話が極上の「娯楽」になる、だからこそ映画は素晴らしいのだということを、この映画は再確認させてくれる。  何と言っても、宇宙人“ポール”の存在感が凄い。 実写映画の中の一キャラクターをフルCGで描き出すという試み自体はもはや珍しくもない。 しかし、そこに娯楽映画の主人公に相応しい愛着と、周囲のキャラクターと同様に息づく存在感を持ち合わさせることは、並大抵のことではない。 決して仰々しくなく、さりげなく描き出されているように見えるが、このクオリティーの高さは「凄い」としか言いようがなく、それを生み出しているものこそが、製作スタッフの紛れも無い「映画愛」に他ならないと思えた。  最高に楽しくて良い映画だったと思う。ただし、惜しむらくは自分自身が“SF映画オタク”になりきれていないこと。 前述の通り、過去の名作SF映画を観ていなくても存分に楽しめる映画であることは間違いない。 しかし、オタクだったならばもっともっとはしゃげたんだろうと思うことも事実。 「ああ、これは何かの映画のオマージュなんだろうな」と気付きはするが、それが何なのか明確にならない悔しさは随所で感じてしまった。  とりあえず「未知との遭遇」は早急に観よう。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-07-14 22:54:32)(良:3票)
84.  ソーシャル・ネットワーク
映画の中で、主人公は自らが創り上げたサイトの在り方に対して頑なに言う。 「クールじゃないと駄目だ」と。 そのセリフどおり、この映画は、ひたすらにクールにそしてシンプルに、「今この時代」の成功と挫折を描き切っている。  「事実をもとにした映画」というものは、星の数程もある。今年のアカデミー賞において、今作と賞レースを争っているのも、実在の英国王を描いた作品だ。 ただし、数多のそういった映画に対して今作が特異なところは、描かれる「事実」が遠く過ぎ去った過去ではないということだ。 「フェイスブック」という、今この瞬間もそのテリトリーを全世界に広げていっているソーシャルネットワークサイトの成り立ちと、創業者の生き方。この映画で描かれるすべてのことは、ほんの数年前のことであり、継続中の「事実」である。  主人公の生い立ちやバックグランドなんて一切描かず、彼の感情さえも大部分において明確には描かれない。 ただただシンプルに、主人公がこの数年の間で、“何をどうしたか”そして“何が起こったか”ということのみを、クールに描き連ねているだけだ。 普通に考えれば、酷く淡白で退屈になりそうなプロットにも関わらず、映し出される映画世界は、クールやシンプルという形容に反して生々しく、不思議な程にドラマティックだ。   主人公が発する膨大で慌ただしい台詞は、そのまま、今の世界に溢れ行き交う「情報」を表している。 目まぐるしい映画のスピード感は、変化し続ける世界と、そこで急激な成長を遂げたSNSの姿そのものであり、その一つの「中心」に存在する人間の避けられない“在り方”を如実に表現していると思った。  正直なところ、鑑賞前は今流行りの媒体を描いた軽快でポップな映画なのだろうと思っていた。 しかし、そうではなかった。この映画は、今この時だからこそ描けて、そして今この時だからこそ観られる決して“普遍的ではない”ドラマだと感じた。 逆に言うと、今この時だからこそ、最大の価値を見出せる映画だとも思う。  その特異性も、自らが生み出したSNSの「価値」をひたすらに高めていった一人の男の「成功」と「孤独」を描いたこの作品に相応しい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-02-27 09:33:13)(良:3票)
85.  セッション
汗、涙、血、身体中からありとあらゆる水分を撒き散らして、音を奏でる…いや音を殴りつける。 それは音楽学校を舞台にした“スポ根”だなんて生やさしいものではなく、狂気と狂気のせめぎ合いだった。 常識的な価値観のその先に突っ走っていく二つの狂気。 ついに“一線”を越えてしまった愛する息子を、舞台裏の扉の隙間から遠く眺める父親の眼差しが哀しい。  “偉大”なドラマーになることのみに固執する主人公は、自らを取り巻くあらゆるものを妄信的に確信的に排除していく。 友人を排除し、恋人を排除し、ついには誰よりも自分を愛してくれている父親をも排除する。 不意に訪れた「事故」は、彼にとっては最後の“救い”だったはず。 けれど、彼はその救済までも排除して、自分の中に巣食う狂気を唯一認めてくれる存在の元へと舞い戻る。 音楽に対する理想を共有する二人だが、彼らは最後まで憎み合っている。 二つの狂気は、憎しみ合ったまま、ついに求める音楽を奏でる。 憎悪の中で恍惚となる二人。 その異様な契りは、まさに、悪魔との契約に相違ない。  彼らはきっとこの先も「幸福」なんてものとは無縁の人生を送ることだろう。 常に他者を憎み、自身に怒り続ける日々を送り、精神をすり減らし果てていくことだろう。 ただし、それすらも彼らが望んだことであり、もはや他人の価値観が入り込める隙間など微塵もない。  ほとばしる狂気を目の当たりにして、真っ当な価値観を持つ凡人たちは、ただただ呆然と見守るしかないのだと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2015-11-18 19:16:51)(良:3票)
86.  サマーウォーズ
ネット上の仮想世界が、現実世界のライフラインをも司るようになったごく近い未来社会。 そんな中、田舎の“おばあちゃんち”に集まった家族一同が、結束して世界を救う。という話。  “バーチャルリアリティ”の世界と、旧家の“おばあちゃんち”という相反する「場面」の融合。 このユニークな題材を、「時をかける少女」の細田守×マッドハウスがどうアニメーションとして描き出すのか。 それは興味深さと同時に、大いなる疑問符を持たざるを得なかった。  が、その疑問符は、圧倒的に高い「創造物」としてのクオリティーの前に、早々に一蹴される。  作り込まれた仮想世界のディープさと、“おばあちゃんち”という普遍的な日本の様式を見事に共存させ、映画に引き込まれるにつれ、この上のない“居心地の良さ”に包み込まれる。 ストーリー自体ももちろん面白かったのだが、マトリックス的に入り組んだ世界観を、決して小難しく表現するのではなく、日本独特の居心地の良さの中で極めて身近な感覚で表現できたことが、この映画のこの上ない価値だと思う。  仮想世界の中でのアバター同士の“つながり”を、現実世界の家族同士の”つながり”、そして世界全体の人間同士の“つながり”にまで昇華していく。 その様は、ネット上でしか繋がりを持てないでいる現代人、すべてを“数字”で処理してしまう現代社会に対する警鐘であり、同時に“救い”のように思えた。  そういうことを、難解なフレーズを並び立てて描き出すのではなく、主人公の少年をはじめ、一人の人間の心の成長の中で瑞々しく描き出す映画世界に、泣けた。  梅雨明け初日、夏のはじまりの日に見る映画として、実にふさわしい。実にスバラシイ映画だ。
[映画館(邦画)] 9点(2009-08-01 12:48:58)(良:3票)
87.  ゴーン・ガール 《ネタバレ》 
「怖えぇ…」 苦笑いを引きつらせつつ、そう思わず呟いてエンドロールを迎えた。   映画は、妻が突如として失踪した夫の“戸惑い”から始まる。その“戸惑い”の描き出し方が先ず巧い。 あらゆる可能性を秘めたストーリーテリングの中で、夫を含めたすべての人物が怪しく見えてくる。 夫を演じるのはベン・アフレック。愚鈍さと狡猾さが次々に見え隠れするこのスター俳優の配役は、まさにベストキャスティングだったろう。 今作は基本的には彼の視線から描かれるわけだが、彼自身の人物像が結局最後まで掴みきれないので、観客は終始絶妙な不安定を強いられる。  そして、妻役のロザムンド・パイクが物凄い。 殆ど無名に近いこの女優のパフォーマンスには、度肝を抜かれた。 一人の女が持つ明確な多面性と狂気。その様はもはや悪魔的であり、登場人物たちも観客も「どうしようもない」と諦めるしかなくなってくる。 キャラクターとして凄いのは、決して恐怖の対象として留まっているわけではないということだ。狂気が顔を出すまでの彼女は、間違いなく美しく、魅力的だ。馬鹿な男が次々に惚れてしまうのも無理はない。そして、狂気がさらけ出された後でさえ、この女はどこかキュートで虜にされてしまうに値する魅力を携えている。 その様は、やはり「悪魔」と形容するに相応しいかもしれない。  恐怖と狂気に溢れたサスペンスとして、それだけでも充分に完成度は高い。ただこの映画が最終的に行き着く先はそういう類いのことではなかった。 上質なサスペンスに彩られて終に描き出されたのは、「○○」というあまりに普遍的な“形式”が孕む“恐ろしさ”。 笑いが相応しい映画ではないはずだが、この映画には随所に滑稽さが内包されている。ある意味でこの映画は、テーマとなるその“形式”を極めてショッキングに誇張した“コメディ”なのではないかとすら思えてくる。  男と女。その二種類の人間という生物が関わりあうことで生まれるおぞましさにも似た恐怖と、呆れてしまうほどの滑稽さ。本来相反すると思われるそれらの要素が絡み合う濃ゆい映画だった。   実は、僕自身が「○○」をしてちょうど5年目。問題はないつもりだけれど、その慢心こそが、この映画で描かれている「恐怖」に直結するような気がして、思わず震える。 夜遅くまで映画を観て帰り、冷蔵庫に残された妻が作ったエビチリを食べながら、また震えた。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-12 23:42:06)(良:2票)
88.  15時17分、パリ行き
何という豪胆で巧い「映画的話法」だろうか。 キャスティングにおける「特異性」は当然認識した上で鑑賞していたが、現実のフランス大統領本人から勲章を授与されるラストシーンを観ながら、思わず「うまく合成してんなー」と思ってしまった。 「あ、いやいや本人だ」と一寸遅れて思い直すくらいに、主人公らを演じたこの事件の“当事者”たちの演技には違和感がなかった。  2015年、実際にヨーロッパの高速鉄道タリス内で発生した銃乱射事件を描くにあたり、その現場に遭遇し、事件に立ち向かったアメリカ人の若者3人をはじめとする当事者(無論演技素人)たちを主演に起用するというあまりに常軌を逸した映画企画を立案し、成立させ、きっちりと良作を生み出してしまうクリント・イーストウッドという“映画人”は、本当に本当に映画に愛されているなと思う。  イーストウッド監督は、「アメリカン・スナイパー」、「ハドソン川の奇蹟」、そして本作と、この数年特に現実世界の中で実際に起こった社会的事件を精力的に映画化している。 題材の種類自体はバラバラだけれど、その根幹にある性質と、描き出そうとするテーマ性には揺るがないものを感じる。  それは即ち、現代社会における「アメリカ人」の在り方を問うということに尽きる。 それぞれの映画の主人公たちは、みな一つの「正義」や「信念」を背負って生きている。 ただし、彼らは一様に惑いと脆さを孕み、あらゆるしがらみや重圧に耐えながら苦闘する。 そこには、様々な側面でアンビバレントな理想と現実を抱える現代のアメリカ社会の中で生まれ、生きるアメリカ人の生き辛さのようなものが如実に映し出されているように感じる。  それはまさに、クリント・イーストウッド自身が今現在何よりも強く感じている、自国に対する憤りと悲しみなのだろう。 だからこそ、この御年89歳(2019年8月現在)の巨匠は、実際の事件発生から間髪を入れず、アメリカという国と、アメリカ人の「今現在」を映画として描き出すことに情熱を注ぎ続けているのだと思える。  そして、アメリカ映画史を代表するスター俳優でもあるクリント・イーストウッドは、観客に対して「娯楽」と「希望」を提示することを忘れない。 息が詰まりそうな世の中(アメリカ)だけれど、それでもこの国の人々は、何時だって誰だって“英雄(ヒーロー)”になれるんだ。ということを映画の主人公たちを通してひたすらに伝え続ける。 本作の主人公に演技経験がまるでない「素人(ただのアメリカ人)」を起用したのは、まさにそのメッセージの具現化に他ならない。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2019-07-28 00:23:32)(良:2票)
89.  メランコリア
はっきり言って、非常に感想の表現が難しい。 とてつもなく深遠な映画のようにも思うし、至極退屈で浅はかな映画のようにも思える。 監督自身が“鬱病”を患い、その自身の内情をそのまま映し出したかのような“悪い夢”のような映画だった。  自分自身の中に「鬱」がまったく存在しないのなら、何の迷いも無くこき下ろすことができたのかもしれない。 しかし、世の中の大部分の人がそうであるように、現代人のはしくれとして、自分の中の「鬱」と寄り添い折り合いをつけながら何とか生きてきた者としては、この映画が描き出す“果てしない憂鬱”を無視することなど出来るはずもなく、ただただどう向き合っていいものかと呆然としてしまった。  荘厳な終末感を描いた後半に対して、ただただグダグダな結婚式の模様を描いた前半が退屈過ぎるという評が多いようだが、僕はむしろ、幸せな風に見えた結婚式が徐々に確実に破綻してく様を描いた前半の方に、よりこの監督独特のおぞましさが溢れていたと思った。  冒頭の地球滅亡シーンは、恐ろしいまでに美しく、圧倒的な光景を見せてくれる。 ただそれよりも印象強く残ったことは、何と言っても主演女優の表現力だ。キルスティン•ダンストのパフォーマンスが物凄い。 映画は、彼女の恐ろし過ぎる表情を画面いっぱいに映し出して始まる。その表情には、実は怒りを伴っていないということに、殊更の恐怖を覚えた。 監督のラース•フォン•トリアーは、主演した女優の潜在能力を限界以上に引き出すことを強いる過酷な映画作りで有名だが、今作においてもその特徴は遺憾なく発揮されたようだ。 その“強要”に応えた若き実力派女優はやはり本物で、見事だった。  と、あらゆる側面で印象深い映画であったことは間違いない。ただ、だからと言ってイコール「面白い映画」だと断言できないのが映画の難しいところだろう。 結局、詰まるところ最初に記した感想に尽き、語弊を覚悟で表現するならば「鬱病患者の夢」のような映画だ。 非常に魅力的で興味を引かれるテーマではあるが、「他人の夢の話ほど、実際聞いてみてつまらないものはない」ということなのかもしれない。
[ブルーレイ(字幕)] 5点(2012-12-04 23:29:51)(良:2票)
90.  GOEMON
賛否が大いに分かれた(というよりも殆どは“否”だった)前作「CASSHERN」から5年。紀里谷和明という映画監督の、創作者としてのエゴイズムと方向性が、圧倒的に正しいということを、改めて確信させるに余りある作品に、この「GOEMON」は仕上がっている。  既存のヒーローを描いた作品でありながら、、独創的で独善的なストーリー展開に突っ走った「CASSHERN」は、多数がどう言おうと素晴らしい映画だった。しかし、その分観客の許容範囲を狭めてしまったことも事実。  しかし、今回は史実に伝説として残りつつも、想像の部分が多分に含まれる”石川五右衛門”というヒーローを扱うことで、自由な表現が出来るから故に、単純明快なストーリーの上に、至高の娯楽が構築されたのだと思う。  当然のことだけれど、この映画に歴史的リアリティやその他もろもろの「常識」を求めるなんてナンセンス極まりない。 あらゆる固定観念を捨て去り、本当の意味でフラットな状態でひたすらに突き詰められた映画世界に没頭すべきだと思う。  日本映画に大きく欠けているもの。それは創造物に対する絶対的な「自信」と、それを持つためのエゴイズムだと思う。 そういうものを備えているからこそ、紀里谷和明という人間の創造物は、「日本」という枠を大きくはみ出るほどの、圧倒的なパワーに溢れている。 今後もそのスタンスを貫く限り、再び彼は「絶景」を見せてくれるに違いない。 
[映画館(邦画)] 9点(2009-05-05 09:26:21)(良:2票)
91.  探偵はBARにいる
観終わってみて、何よりも疑問に思ったことは、「なんでテレビドラマでやらなかったんだろう?」ということ。 それは安易にこの作品の素材がテレビドラマレベルだと揶揄するわけではない。 「表現」の方法として、映画との適合性、テレビドラマとの適合性を照らし合わせてみて、この作品のスタンスは限りなくテレビドラマ向けであると感じたからだ。  基本的にゆるく、駄目男ぶりが際立つけれど、キメるときはキメる主人公が、殆ど“事務所”と化しているBARでいつものようにくすぶっていると、“或る事件”が舞い込む。  探偵ものとしてありふれたプロットではあるけれど、主演の大泉洋のキャラクター自体はオリジナリティがあり、これまた“個性的”な相棒役の松田龍平とのコンビネーションは意外な程に良かった。 要するに、「ああ、また来週もこの二人の活躍が見たいな」と思わせるキャラクター性を充分に備えていて、だからこそテレビドラマ向けだと思ったのだろう。  二人が常駐しているBARに、様々な「事件」が週代わりのゲストと共に現れる。 まさに“探偵ドラマ”の王道ではないか。 おそらく人気のドラマになったろうし、ドラマシリーズで愛着を深めた上で、テレビ局の常套手段である「映画化」に繋げれば、“商売的”にも成功したろうにと思わざるを得ない。  そういうふうな印象が強かったため、映画作品単体としては物足りなさが先行してしまったことは否めない。 主人公らのキャラクター性が掴めぬまま、話はどんどん進むので、キャラクター自体は魅力的なのに思ったりよりも感情移入が出来ない。 その一方で125分という尺は、描き出されるストーリー的にはやや冗長で、観賞後の満足感が伴わなかった。  ストーリーや演出は全体的に凡庸(というか古風)だけれども、キャラクターの面白さと、それを演じる俳優のフィット感により、作品として“愛される要素”は多分にあった。 それだけに、もう少しアプローチの方法を熟考してほしかったと思う。
[DVD(邦画)] 4点(2013-07-04 22:09:51)(良:2票)
92.  ピラニア 3D
ラストシーン、いや“ラストカット”を目にした瞬間、この映画は絶対的に低俗で馬鹿馬鹿しい“愛すべきB級モンスター映画”の一つとして、僕の脳裏に住みつくことと相成った。  今さら「ピラニア」なんてタイトルのモンスターパニック映画のパッケージを見たところで、普通なら食指は伸びない。 ジャケットのイラストの仰々しさだけに注力したC級以下映画だろうとスルーすることが定石である。 しかし、某ラジオ番組のPodcastでやけに評価が高かったことで記憶に残り、陳列されていたパッケージを手に取った。   湖で繰り広げられるフェスタで浮かれまくり、乳と尻を振りまくる若者たちの“大群”が、古生代の凶暴過ぎるピラニアの“大群”に問答無用で襲撃され、お色気満載のボディがおびただしい“肉塊”へと無惨に変貌してしまうという、詰まるところ悪趣味極まりない映画である。  でも、エロくて面白いんだからしょうがない。   ビッグネームとしては、クリストファー•ロイドとリチャード•ドレイファスがキャスティングされいる。 両者ともちょい役だけれど、その配役にも映画ファンとしては実に軽妙なセンスを感じ堪らなかった。
[DVD(字幕)] 8点(2011-12-27 01:01:07)(良:2票)
93.  ターミネーター4 《ネタバレ》 
この映画は、「ターミネーター」という映画シリーズのSF性をどういう風に捉えているかによって、その是非は大いに変わってくるのだと思う。 まず理解しなくてはならないことは、この映画シリーズの各作品は必ずしも一連の時間軸上で連なってはいないということだ。  今作はそうしたシリーズのSF性を、根底に据えた上で、過去の名作に依存しないオリジナリティーをもって描き出されていると思う。  コンピューターに「自我」が芽生えたことに端を発した終末戦争のおいて、人類としての「自我」を忘れまいと戦いに臨むジョン・コナーの姿は、過去の作品において「未来からの情報」として語られつつも、決して描かれることのなかった抵抗軍指導者の圧倒的なカリスマ性を見事に表現し切っている。  そして、過去と未来、更に未来と過去を繋ぐためのキャラクターとして登場するマーカス・ライトの存在性は、まさにキーパーソン。その役割は本作のみにおけるものだけでなく、シリーズ全体をある意味において繋ぎ止める重要なキャラクター性を秘めている。  そして、崩壊し乾き切った空気の中で繰り広げられる圧倒的にメカニカルな迫力性は、明らかに独自の世界観を構築している。   シリーズの各作品それぞれで描かれる「未来を変えるための戦い」とその顛末は、結果的に幾つもの”パラレルワールド”を生じさせたのだと思う。  第一作目の「ターミネーター」で、ボディビルダー上がりのアクション俳優が、文字通りの「殺人マシーン」として過去に送られた時点で、未来のパターンは無数に枝分かれした。 美少年のエドワード・ファーロングがジョン・コナーである「T2」も、醜男のニック・スタールがジョン・コナーである「T3」も、それぞれが枝分かれした時間軸での“別世界”だと考えれば、途端に納得しやすくなる。  今作の最大の価値は、そういった一連の時間軸上に存在する様に見えて、実はバラバラの世界観を描いていた映画シリーズを、更に全く違う時間軸と、世界観を描き出した上で、繋ぎ止めてみせたことに他ならない。  密かに期待していたT-800(=?)の絶妙な登場シーンも含め、色々な意味で楽しみがいのある秀逸なエンターテイメントだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-06-17 01:15:15)(良:2票)
94.  キャビン
「面白かった」 映画を観た感想を表現する言葉は様々だろうが、もっとも単純で且つもっとも重要なことは、鑑賞直後にこの一言が頭に浮かぶかどうかだろうと思う。 観る者を、“恐怖”に直結した好奇心でまず掴み、数多の映画を観てきた者でさえ想像し難い“驚き”をもって揺さぶり、未体験の“高揚感”で包み込んで、爆発させる。 映画としての「粗」はありまくる。しかし、この映画の新しさは、そのすべてを一蹴し、「見事」の一言に尽きる。  「ホラー映画」の定石。そのお決まりのベタさに、そうでなければならない「理由」があったとしたら? そのアイデアを具現化し、問答無用の娯楽映画として貫き通した時点で、この映画の勝利は確定したと言っていい。  滅茶苦茶な映画ではあるけれど、ちゃんと真剣に滅茶苦茶なので完成度が高い。 この映画はそういう類いの作品で、どれくらい“本気”でこの「設定」を受け入れられるかどうかで、“是非”の判別は大きく揺れ動くことだろう。 “非”と判別する人も多いのかもしれないが、それは非常に不幸な事だと思わざるを得ない。 ストーリーの根底にある一つの「設定」を受け入れ、「そういうことならば仕方がない」と認識すれば、強引に思える数々の描写のすべてがきちんとまかり通るように出来ている。  極めて強引な映画ではあるけれど、強引な設定をしっかりと強引に引っ張り上げることで、ちゃんと整合性を付加していると思う。 例えば、一見するとあまりに非人道的でふざけすぎていると思えるある人間たちの描写も、諸々の設定と彼らが置かれている立場を冷静に鑑みれば、その心情と言動にも整合性が見えてくる。  そういう意味では、この映画は“アイデア一発”のように見えて、非常に練られたシノプスが魅力的な作品であることが分かる。  詰まるところ、要はノレるかノレないか。 そして、大概の場合、映画なんてものはノッたもん勝ち。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-24 16:41:11)(良:2票)
95.  図鑑に載ってない虫
日常生活の中に実は蔓延している些細な“笑いどころ”を、抜き出し、唯一無二のコメディに仕立て上げる「業」において、今三木聡は独壇場だと言える。  限りなく意味の無い“可笑しさ”のオンパレード。そのストーリーも限りになく無意味に近い。しかし、この監督の作品には、そのギリギリの部分で物語性を含み、感情を生む。 弾けとんだキャラクターたちは不思議な魅力に溢れ、物語が進む程に愛着が生まれる。 結果として、愛すべき作品、愛すべき映画へと進化していく。  しょうもなさや毒々しさを多分に含んだコメディなのに、最終的には何故か小気味良い“爽快感”に包まれる。 これはもはや、新しいエンターテイメントの形と言えるかもしれない。
[映画館(字幕なし「原語」)] 6点(2007-10-08 23:30:57)(良:2票)
96.  パラサイト 半地下の家族 《ネタバレ》 
金持ち家族に「寄生」することで、束の間の“優越感”を得た半地下の家族たちは、今までスルーしてきた家の前で立ち小便をする酔っ払いを、下賤の者として認識し、“水”をかけて追っ払う。 その様をスマートフォンのスローモーションカメラで撮りながら、軽薄な愉悦に浸ってしまった時点で、彼らの「運命」は定まってしまったのかもしれない。  世界中に蔓延する貧富の差、そして生じる「格差社会」。世界の根幹を揺るがす社会問題の一つとして、無論それを看過することはできないし、自分自身他人事じゃあない。 ただし、この映画は、そういった社会問題そのものをある意味での「悪役」に据えた通り一遍な作品では決してない。 確かに、“上流”と“下流”、そして更に“最下層”の家族の様を描いた映画ではあったけれど、そこに映し出されたものは、富む者と貧しい者、それぞれにおける人間一人ひとりの、愚かで、滑稽で、忌々しい「性質」の問題だったように感じた。  どれだけ苦労しても報われず、働いても働いても豊かになるどころか、貧富の差は広がるばかりのこの社会は、確かにどうかしている。 でも、自分自身の不遇を「社会のせいだ」「不運だ」と開き直り、思考停止してしまった時点で、それ以上の展望が開けるわけがないこともまた確かなことだろう。  そう、どんなにこの社会の仕組みがイカれていたとしても、どんなに金持ちが傲慢で醜かったとしても、この主人公家族の未来を潰えさせてしまったのは、他ならぬ彼ら自身だった。と、僕は思う。  千載一遇の機会を得た半地下の家族たちは、能力と思考をフル回転して、或る「計画」を立て、実行する。そしてそれは見事に成功しかけたように見える。 しかし、彼らの「計画」はあくまでも退廃的な“偽り”の上に存在するものであり、「無計画」の中の虚しい享楽に過ぎなかった。  “無計画な計画”は、必然的に、笑うしか無いスピード感でガラガラと音を立てて崩壊し、大量の濁流によって問答無用に押し流される。 そして同時に、己をも含めたこの世界のあまりにも残酷で虚無的な現実を突き付けられて、父子は只々愕然とする。  本当に裕福な者たちは、自らが“上流”に居ること自体の意識がない。 “下流”に住む貧しい者たちの存在などその認識から既に薄く、蔑んでいることすら無意識だ。 “臭い”に対して過敏に反応はするものの、その正体が何なのかは知りもしないし、知ろうともしない。 勿論、大量の“水”で、押し流していることに対しての優越感も、罪悪感も、感じるわけがない。その事実すら知らないのだから。  なんという「戦慄」だろうか。 そのシークエンスの時点で、観客として言葉を失っていたのだが、もはや「世界最高峰」の映画人の一人である韓国人監督は“水流”を緩めない。  「惨劇」の果てに、計画どころか「家族」そのものが崩壊し、消失してしまった父と息子は、それぞれに、「無計画」であり得ない逃避と、あり得ない希望に満ち溢れた「計画」を立てる。 すべてを失った者たちが、それでも生き抜く力強さを表現している“ように見える”描写を、この映画は、最後の最後、最も容赦なく押し流す。 父親が言ったとおり、「計画」は決して思い通りにはいかない。父と息子は、地下と半地下でその短い命を埋没させていくのだろう。  完璧に面白く、完璧に怖く、完璧におぞましい。だからこそこの映画は、完膚なきまでに救いがない。 とどのつまり、このとんでもない映画が描き出したものは、「格差社会」などという社会問題の表層的な言い回しではなく、その裏にびっしりと巣食う際限ない人間の「欲望」と「優越感」が生み出す“闇”そのものだった。   世界中に蔓延するこの“闇”に対して“光”は存在し得るのだろうか。  金持ち家族の幼い息子がいち早く感じ取った“臭い”。 彼はその“臭い”に対して、どういう感情を抱いていたのだろうか。 “トランシーバー”を買ってもらうことで自らの家族と距離を取ろうとした彼の深層心理に存在したものは何だったのか。  このクソみたいな世界の住人の一人として、せめて、そこには一抹の希望を見出したい。
[映画館(字幕)] 10点(2020-01-15 21:59:02)(良:2票)
97.  クロニクル 《ネタバレ》 
「童貞をこじらせる」なんて表現がしばしば使われるけれど、この映画ほど“童貞をこじらせた”主人公を描いた作品は他に無い。 この映画の主人公は確かに不幸な境遇にあるけれど、彼の暴走と発狂の発端は、決して特殊なことではなく、世界中の「男子」の誰にでも起き得ることであり、普遍的であるが故に、同時に彼に対する同情の余地はあまりない。  しかし、だからこそこの映画が“描くこと”は極めてリアルで、身につまされ、ちょっと笑えない。  登場するキャラクター自身が撮影している体で映し出される「POV方式」で、ふいに超能力を得た3人の男子高校生の顛末を描いた今作。 「アイデア一発」の映画に捉えられがちだろうが、決してそんなことはない。 多くのPOV映画が、「リアル」というものをビジュアル的に安直に追い求めて失敗しているのに対して、この映画は必ずしもビジュアル的な要素に「リアル」の焦点を当てていない。  この映画がPOV方式をとった意味は、主人公をはじめとする現代の若者たちの「自己表現」の手段、詰まるところの「自画撮り」をストーリーテリングの「主眼」に据えるために他ならない。 他ならぬ僕自身もまさにそうだが、SNS、スマートフォン……取り巻く環境に伴い、「自分を撮る」ということは、もはや屈折でもなんでもなく、世界中の若者にとって普遍的な自己表現の一つとなってきている。 「他者」との関わりを拒絶し、その距離感が広がれば広がるほど、自身の主眼はより内向きになり、必然的にカメラのレンズも自らを映し出すようになる。 それこそが、この映画がこの撮影方式によって求めた「リアル」だったのだと思う。  映画は、非常にミニマムで内省的な青春映画のように始まり、コメディからアクション、悲愴感が溢れる破壊衝動を経て、ヒーロー映画の秀逸な「前日譚」のような帰着を見せる。 綻びもあるにはあるが、そんなものどうでも良くなる程に、なんという発想の豊かさだろうと思える。  そんな映画世界を殆ど無名の若いスタッフとキャストで作り上げていることに、眩い輝きを感じる。 キャストで印象的だったのは、やはり主人公を演じたデイン・デハーン。 独特な鬱積を秘めた目と、滲み出る危うさは、若い頃のレオナルド・ディカプリオを彷彿とさせる。 既に注目作へのキャスティングも決まっているらしいが、今後の注目株であることは間違いないだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2013-10-14 23:05:08)(良:2票)
98.  オーメン(1976)
よりによって妻子が実家に泊まり誰もいないひとりぼっちの夜に、この有名過ぎるホラー映画を観なければならなかった一週間レンタルの最終日。 ホラー映画に限ってはまだまだ“ビギナー”なので、どうなることかとビクビクしながら観すすめたが、流石はホラーというジャンルを超えた「名作」の呼び名に相応しく、“しっかり”と面白かった。  “恐ろしい”映画であることは言わずもがなだが、描き出される物語をどう「解釈」するかによって、この映画の“恐ろしさ”は大いに様変わりすると思う。  映画が伝える雰囲気のまま、悪魔の申し子“ダミアン”の禍々しさに恐怖することも勿論正しかろう。 一方で僕は、この映画が伝える「恐怖」のもう一つの側面に震えた。  それは即ち、この映画において、ダミアンは「実は何もしていない」という事実だ。  描き出される“おぞましさ”の殆どは、彼を崇める悪魔崇拝者の言動によるものであり、主人公のグレゴリー・ペックらを襲う恐怖の正体も、神にしろ悪魔にしろ狂信者たちの煽動によって導かれたものに過ぎないのではないかということ。  ラストの顛末に明らかなように、端から見れば、主人公の姿は完全に気が狂った父親にしか見えず、この映画が描く本当の恐怖は、「悪魔」の存在などではなく、人間が元来持っている不安定さとそれに伴う危うさそのものであることに気付かされる。  ジェリー・ゴールドスミスの荘厳な調べに誘われて、深く暗い「恐怖」というエンターテイメントを堪能した夜だった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-03 01:01:37)(良:2票)
99.  ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還 《ネタバレ》 
映画史百余年、おびただしい数の映画が生まれ数多くの傑作が誕生しているが、その歴史に燦然と残るという映画はやはり数少ない。ひとつの映画において映画史に残るという肩書きには凄まじいパワーが必要だからだ。そして、この強大な3部作はまさしく「映画史に残る作品」にふさわしい映画としてその全貌をあらわしたと思う。あらゆる娯楽映画を超越したそのエンターテイメント性にもはや言葉がない。ただただその映画世界に包まれ没頭することしか一観客としては許されない。そんなとてつもないエネルギーを感じずにはいられなかった。 旅の仲間たちによる指輪をめぐる壮絶な冒険を綴ったこの物語は、指輪を葬り、大団円を迎えただけではその結末を許さない。ラストに描かれる指輪を背負った者の宿命。その果てしなく深遠な喪失感こそ、この壮大なファンタジーの真のテーマだったのだと思う。指輪をめぐる旅は終わった。しかし本当の旅はこれから始まる。
[映画館(字幕)] 10点(2004-02-08 10:35:21)(良:2票)
100.  騙し絵の牙 《ネタバレ》 
“斜陽”という言葉を否定できない出版業界の内幕を生々しく描きながら、その小説そのものが「映画化」を前提とした“大泉洋アテ書き”という異例のアプローチで執筆・刊行された原作「騙し絵の牙」を読んだのは去年の秋だった。  劇中の出版業界と現実社会のメタ的要素も多分に絡めつつ重層的に物語られた原作は面白かったけれど、それよりももっと前に見ていた映画の予告編を思い返してみると、「あれ?こんな話なんだ」と小説のストーリー展開に対して一抹の違和感も覚えていた。 映画の予告編が醸し出していた斬新でトリッキーな雰囲気に対して、原作のストーリーテリングは、極めてミニマムな内幕ものに終始しており、語り口自体も想定していたよりもオーソドックス(悪く言えば前時代的)な印象を脱しなかった。 「真相」を描いたラストの顛末もどこか取ってつけたような回想録となっており、やや強引で雑な印象も受けた。  そうして、コロナ禍による半年以上の公開延期を経て、映画化作品をようやく鑑賞。 案の定、原作のストーリー展開に対しては、映像化に当たり大幅な“アレンジ”が加えられており、そこには全く別物と言っていいストーリーテリングが存在していた。 その“アレンジ”によって、前述のような原作のウィークポイントは大幅に解消されていて、映画単体としてシンプルに面白かった。 程よく面白かった原作小説を、より映画的にブラッシュアップし、見事に映画化しているな、と思った。     が、そこではたと気づく。果たして本当にそうなのだろうかと。  そもそもが、出版業界全体の低迷と、活字文化の凋落を念頭に置いて、「小説」と「映画」が同時に企画進行した作品なのだ。 であるならば、通常の「小説の映画化」という構図はそもそも成立しないのではないか。 この企画において、「小説」と「映画」は、まったく対の存在として最初からあり、相互に作用するように創作されたに違いない。  となれば、原作小説の存在そのものが、この“騙し”を謳った映画化作品の大いなる布石であり、小説を読み終えた時点で、“読者=鑑賞者(即ち私)”は、まんまとミスリードされてしまっていたのだと思える。 そしてそれは全く逆のプロセスだったとしても成立し、この映画を先に鑑賞した人は、映画作品によるミスリードを抱えて小説世界に踏み入ったことだろう。きっとそこにはまた別の“騙し”と“驚き”が生まれるはずだ。 その体験はまさに、小説と映画、メディアミックスによって創出された立体的な“騙し絵”そのものだ。     この映画のクライマックスにおいて、主人公の大泉洋が、豪腕経営者役の佐藤浩市に対して「遅すぎた」と非情に言い切るシーンが象徴的なように、“新しい斬新なアイデア”は、無情な時間の経過により瞬く間に、“古臭いアイデア”となってしまう。 常に新しい“面白いコト”を求められ続けるこの世界は、あまりにも世知辛く、厳しい。 そう、つまりは、原作小説で描かれた「結末」すら、この映画化の時点ではきっぱりと「古い」のだ。  そういうメディア業界全体の現実を端から想定して、このメディアミックス企画は練られ、小説家も、映画監督も、俳優も、編集者も、そこに身を置くすべての者達の、苦悩と虚無感を込めて生み出されているのだと感じた。  コロナ禍による大幅な公開延期、それと並行して半ば強制的に変わらざるを得なかった時代と価値観の変化、そういうものすら、このメディアミックスの目論見だったのではないかと、過度な想像をせずにはいられなくなる。  無情な時代の移ろいに苦悶しながらも、それでも彼らは追い求める。結局、今何が一番「面白い」かを。
[映画館(邦画)] 7点(2021-03-27 23:15:44)(良:2票)

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