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1.  哀愁
こういう、恋人や夫が戦死したと思い込み、女性が身を持ち崩してしまう悲劇は、この日本でもいっぱいいっぱいあったらしい。この「哀愁」の、日本での翻案もの「君の名は」が、ここまでのド悲劇にしなかったのは、日本だとあまりにリアルになり過ぎてしまうからだったんではないか。<br> この「哀愁」では、登場する男性陣はみな大甘で、ヒロインのことにあまりに寛容。これと対象的に、女性の眼は厳しい。まずはバレエ団を取り仕切る教師だかの存在。恋愛にうつつをぬかし規則を守らないヒロインをバレエ団から放逐する。これは考えれば当然ではないかという面もある。相手の男も、彼女のことをもっと思いやるべきだ。次に、その男の母親の厳しい眼の前に、ヒロインは何も隠せないことを悟る。母親は彼女をとがめ立てたりはしていないのだけれども、ヒロインに、その過去を決して捨て去ることは出来ないと認識させる「現実性」を持っている。この母親の視点は、おそらくはこの映画を観ている、観客の視線ではないのか。観客も彼女の幸福を願うけれども、過去の過誤は彼女をこれからもずっと責め苛むのではないのか、男もいつか彼女の過去を知ってしまうのではないのか、そう思いながら画面を見ているだろう。ヒロインは、そういう視線にさらされることで、忌わしい過去をごまかして生きていくことは出来ないと悟るのではないだろうか。その観客の眼の中にこそ、メロドラマを構成するひとつのポイントが、厳として光っている。そんな観客の加担ゆえに、このメロドラマはいっそうその悲劇性を観客に際立たせる。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-25 23:15:25)(良:3票)
2.  愛、アムール 《ネタバレ》 
 けっこうおそろしい話を、ぜったいにエキセントリックにならない落ち着いた演出でみせられ、やはりハネケだなあと感心した。  映画の終盤に部屋のなかにハトが窓から迷いこんできて、それをだんなさんのジャン=ルイ・トランティニアンがつかまえる。‥‥いままでのハネケの作品では、こういう鳥だとか動物はたいてい殺される。たとえば「隠された記憶」でのニワトリだとか、「白いリボン」でのインコだとかをおもいうかべてしまうから、「ああ、また殺しちゃうんだな」なんて不遜なことをおもってしまう。でもそういう展開にはならず、ジャン=ルイ・トランティニアンは、おそらくは彼の遺書になるのであろう手紙のなかで、「ハトが部屋に迷いこんできたのをつかまえて逃がしてやった」と書く。映画ではそういう逃がしてやるシーンはないので、「ほんとうはあのハトは殺しちゃってるんじゃないのか」なんて、またもや不遜なことをおもってしまうわたし。‥‥しかし、そのハトを捕らえるとき、ジャン=ルイ・トランティニアンは、布をハトにかぶせて捕らえる。かんがえてみれば、この「布をかぶせる」という行為が、この映画での別の重要な行為を想起させられることになるわけで、そうすると、ここで彼はそのハトを殺したりするわけがないのである。それで、たいていの演出ではここで彼が窓からハトを逃がしてやるショットを入れるのだろうけれども、ハネケはそういうことはやらない。なんか、ここにこそ、この作品の「キモ」があるんじゃないかとおもった。「かんじんのことはみせない」というハネケ監督の演出術が、ここでも生きているんだなあという感想をもった。
[映画館(字幕)] 8点(2013-04-29 16:18:47)(良:3票)
3.  ドラゴン・タトゥーの女 《ネタバレ》 
●二時間半があっという間だった。面白いのは先行するスウェーデン版の、美術やセッティングを意識的に踏襲しているあたりで、「ミレニアム社」の編集室や、犯人の「処刑室」など、「そこまで同じにしなくっても」と思ってしまうぐらいに、その部屋の間取り、美術、照明など、まるでおんなじ、なのである。脚本もおそらくは原作からそんなにいじっていないんだろうけれども、やはりスウェーデン版とまるでおんなじ、というところが多い。 ●スウェーデン版とちがうところ。それはまさに、主人公のリスベットという女性の解釈である。まずはもちろん役者がちがうわけで、ある意味でスーパーウーマン的な、強烈な個性をにじませた、食肉系の猛禽類をも思わせるスウェーデン版のノオミ・ラパスと対比すると、ここでのルーニー・マーラという役者はあまりに弱々しく植物的な印象で、「これではたしてリスベットを演じられるのか」と心配になるわけだけれども、つまりはこの演出において、フィンチャー版はスウェーデン版とは対称的な差異をみせている。また、この差異をきわだたせるためにこそ、あえて背景をスウェーデン版とおなじにしている、とみることもできる。 ●背なか一面に、大きなドラゴンのタトゥーを入れたノオミ・ラパス版のリスベットが、それこそアウトサイダーな生き方にどっぷりという空気だったのに対して、ちょっと遠慮がちに、背なかの左半分にドラゴンを彫ったルーニー・マーラのリスベットには、どこか「こうしたくてやっているわけではない」というような空気もあり、「まわりから追いやられてこうなってしまった」という哀しさのようなものも感じてしまう。彼女の設定は二十三歳とかそのくらいだったと記憶しているけれど、なんかフッ切れてしまっている感のあるノオミ・ラパス版にくらべると、このルーニー・マーラには、たしかに二十三歳らしい、そして女性らしい、愛し愛されたいという願望をもっていることもわかる。これがまさにラストでの、スウェーデン版とこのフィンチャー版との「違い」というものに如実にあらわれているのだろう。 ●もちろんわたしにはノオミ・ラパスの強烈な個性を否定するなどということはできないし、あちらはあちらですばらしい作品だったと思うのだけれども、わたしもやはり男だからか、こちらのルーニー・マーラの「愛おしさ」みたいなものも、やはり大好きなのである。
[映画館(字幕)] 7点(2012-04-11 08:17:39)(良:3票)
4.  パイレーツ・ロック 《ネタバレ》 
ポップス/ロック好き魂をゆさぶる楽しい佳作、と云いたいところだけれども、ロック好きだけに気になってしまった箇所がいくつか。 まずその一、この点はファンタジーとしてみれば、見逃して楽しめばいいのだけれども、かかる音楽と時代設定が合わない。この映画の時制で考えればジミヘンはまだデビューしていないし、ストーンズの「Jumpin' Jack Flash」もまだリリースされていない。 その二、これは趣味の問題だけれども、単純に登場人物の名前のついた曲を選ぶだけの、安直な選曲が多い。ダスティー・スプリングフィールドの「この胸のときめきを」の選曲が最高だっただけに、ああいう(ストーリー展開に合わせた)選曲をもう少しやってほしかった。 その三、これはわたしがいちばん訴えたいことがら。劇中で船が沈みそうになり、ダサい時代遅れのDJと皆からみなされているボブが脱出するとき、一枚のアルバムが他のスタッフに「ダサい」と捨てられてしまう。このアルバムは実はわたしのいちばんの愛聴盤であり、ここで波間に沈んで行くジャケットを見ながら、わたしの心も沈んでしまう。アーティストはThe Incredible String Band、アルバムタイトルは「The 5000 Spirits or the Layers of the Onion」という。さらに説明が必要なのだけれども、この映画の中で「最高にヒップな伝説のDJ」と紹介されるリス・エヴァンス演じるギャヴィンには、実在のロック史を動かしたJohn Peelというモデルが存在する。そのJohn Peelが、この1967年に海賊放送で実際にへヴィーローテーションでかけていたアルバムこそが、この捨てられたアルバムなのである。この件は英語版のWikipediaにはっきり書いてある事柄。つまり、この当時、ここで捨てられたLPこそ、最高にヒップな音楽とみなされていたのだ。このことは、この映画を見る人に是非とも知っておいて見ていただきたいことで、大げさに言えば、この点で、この映画は事実を彎曲して(正反対に)描いているのですよ。大事なのは、実際には、この映画でたくさん流されているポップ・チューンの方こそ、当時は「ダサい」とみなされていた方なのだ、ということです。時代は巡って、そんな「ダサい曲」こそ、当時を懐かしんでノスタルジックに聴かれるようになってしまった。まあそういう映画です。 ビル・ナイはかっこよくって、見惚れましたが。
[映画館(字幕)] 3点(2010-01-17 23:13:48)(良:2票)
5.  インセプション 《ネタバレ》 
「人の夢に介入して思考の条件付けをおこなう」なんてメインの話はまったく面白いわけでもなんでもなく(つくっている方でもメインのストーリーなんかどうでもよかったんじゃないかという気がする)、サブのストーリーというか、主人公のパーソナルな部分で展開されるストーリーこそが、この作品でもっとも面白い部分に思える。そこにはいくつかのギリシア神話からの引用が垣間見られるわけで、まず主人公の「家族の待つ家に帰りたい」という願望はオデュッセウスの航海をほうふつとさせられ、この作品全体を支配するのはこの「オデュッセウス神話」ということになる。そして、この作品であらわれる「夢」はつまりは「迷路」ということであって、ミノタウロス神話こそがこの「夢の世界への介入」というコンセプトを支える。そしてもうひとつ、おそらくはもっと重要なのが、主人公が過去に「夢」のなかで失なった妻へのオブセッションであって、主人公の夢の世界にひんぱんに混入してくる妻の幻影が主人公の行動を狂わせる。これまたオルフェウス神話からの引用で、オルフェウスは冥界で妻を振り返ってしまうことで妻を永遠に失ってしまうけれど、この作品の主人公においてはこの点はちょっと変更され、夢にあらわれる現実には再会の困難なふたりの子どもの姿の(この子どもたちに再会したいという願望が「家に帰りたい」ということになるのだけれども)、その振り返った顔を見てはならない、という意識になってあらわれている。 このような、メインのストーリーからはみ出した、三つの神話の組み合わせのなかを迷う主人公のストーリーを追うことこそが、この映画を観る楽しさではないかと思ってしまう。しかし、だからすばらしい作品なのかどうかというと、やはりそのあたりは映像と観念とが合致してイマジネーションを豊かにしてくれている印象でもないわけで(映像によるイマジネーションがまるで喚起されないのがこの監督の特徴だと思う)、じつは非常に似通ったプロットなのだといってしまえるタルコフスキーの「惑星ソラリス」を観たときのような感動を受けるわけではない、ということになる。  あと、映画の字幕で「現実」に拮抗するものとして「アイディア」ということばがなんども使われていたけれども、これは当然「イディア」のことで、ふつう日本語として使われる「アイディア」よりもずっと広い意味を持っている。
[映画館(字幕)] 6点(2010-08-26 17:25:35)(良:2票)
6.  ヒア アフター 《ネタバレ》 
■イーストウッド監督の作品としては、まえに観た「グラン・トリノ」が一面で「自死」を肯定するような内容だったということの揺り戻しからか、「死後の世界よりも、いまの<生>がだいじ!」というような映画だった。■少年のおかげでマット・ディモンは何かをつかむし、そのことは少年にとっても大きな「救い」になるわけだ。ラストのマット・ディモンの「いかにも人間らしい」夢想(「妄想」といってもいい)が、かわいいではないか。これが、彼もまた救われている証拠、なのだろう。■とにかくイーストウッドがこういう題材の映画をつくろうとは思っていもいなかったのだけれども、「グラン・トリノ」をさいごにして、みずからが主演するという足かせを外したのだということで、まだ観ていない前作もサッカーを主題とした話のようだし、「硫黄島」二部作、「チェンジリング」、そしてこの「ヒアアフター」と、これらを並べてみると、それこそまったく性格のちがう作品の連続に思える。イーストウッドには、これからは全方位でいろいろなジャンルの映画製作をしたいという欲求を満たそうとする気もちがあるのかもしれない。そういう意味で、この作品のプロデューサーがスピルバーグであるということも、わかりやすいことではないかとも思う。■冒頭の津波のシーン、それに続くニュースレポーターの臨死体験での、波間にただようクマのぬいぐるみの映像の意外さにこそ、イーストウッドの意欲を感じとってしまうことになるし、マット・ディモンが料理教室でとなりの女性の(けっきょくは彼の<霊能>にじゃまされてみのらない)誘惑を受けるシーンの、目にアイマスクをしたその女性(ブライス・ダラス・ハワードが演じているのだけど、すばらしい!)の「唇」に注目させる演出など、やはりイーストウッドは「みごと」な演出手腕を発揮するわけである。なのだけれども、「チェンジリング」をおなじ「人間ドラマ」と考えて並べてみると、「チェンジリング」に感じとれた周到な演出プラン(編集、撮影、色彩などなど)という側面は、ちょっとばかしこの作品では希薄に感じられてしまう部分もあって、イーストウッドとしてはちょっとばかり撮り急ぎすぎているんじゃないかという印象もある。あ、いつもこのひとは撮るのはめちゃ早いのだったか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-02 14:08:13)(良:2票)
7.  ツーリスト 《ネタバレ》 
 ‥‥これって、むかしはハリウッドによくあった「ロマンチック・サスペンス・コメディー」ってヤツですね。「シャレード」とか、ああいうヤツ。まあこの作品ではコメディー度はちょっと抑えられているけれども、だいたい観ていれば「真相」は予測がつくようなつくりになっているわけで、そうすると観ているものがその「予測」にもとづいて役者の演技とか注視してみると、かなり楽しい作品になるという感じ。思わぬところに主人公のピンチがあったり(捜査官、あとひと押し、だったのにね)、「ほら、やっぱりね」とか、「え!そうなるの?」とか、ニコニコしながら観てられる。やっぱティモシー・ダルトンはいいところに出てくるし、ラストの「税金払ったから無罪放免」っていうのもまさに「ロマンチック・サスペンス・コメディー」。そうやってみれば、「だささ」を喜々として演じているようなジョニー・デップの(二重の)演技ぶりを楽しんで観るのがいいのかも。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-02-26 10:06:43)(良:1票)
8.  雨の朝巴里に死す 《ネタバレ》 
男性主人公の奇怪な感情表現演技/演出が延々と続き、ほとんど笑い出したくなるほどコミカルな印象になってしまう。これはフィッツジェラルドであるわけがない。おそらくこの映画の背後には、規範としての「幸福な家庭生活」というものが思い描かれていて、そこから崩れ落ちて行く男女のドラマを想定しているのではないかと思えるのだけれども、フィッツジェラルドはそんなことは書かないだろう。もっと狂おしいまでのデカダンスの世界であるべきでないのか。   作家志望のジャーナリストという設定、セレブらの享楽的世界に巻き込まれて行く主人公というのは、フェリーニの傑作「甘い生活」を想起させられる。そう見ると、ヴァン・ジョンソンとマストロヤンニとの格差、リチャード・ブルックスとフェリーニとの力量差のみ目立ってしまうことになる(リチャード・ブルックスには、もっと良い作品もあるのだけれども)。   舞台がパリなのに、あまりそういうヨーロッパらしさも感じられない映像でもあった。
[ビデオ(字幕)] 2点(2010-01-28 08:32:52)(良:1票)
9.  トゥームレイダー
 この作品の脚本はすごい。動機もストーリーも裏付けも何もないなかで、ただデティールだけが暴走している。あちこち移動しているようでも、これだけ一直線映画というのもみたことがない。観て思考することなどまったく不要なのだ。いくらゲームの映画化だからって、これはあんまりだろうと思う。作品としては「インディ・ジョーンズ」だとか「ハムナプトラ」などの系譜から来ているのだろうけれど、とにかくここまで歴史的背景とかも描かないで勝手気ままにつくりあげる(でたらめ、ともいう)技には感服してしまう。これはこれでひとつの映画のあり方を示しているのだということだろう。「ハムナプトラ」が、まるで歴史の教科書に思えてしまうではないか。この脚本で撮り上げてしまう監督の手腕もすごい、ということになる。「ダメ」という評価と、「いいんでないの」という評価のあいだで、こころがゆれ動いた(いい方に評価したけど)。カンボジアの六手の魔神像は、ハリーハウゼンの「シンドバッド」へのオマージュ、なんだろうなあ。もうちょっと活躍してほしかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-02 17:30:19)(良:1票)
10.  トゥルー・グリット 《ネタバレ》 
●コーエン兄弟の作品なんだけれども、「こういうストレートな作品も撮るんだ」という、これはほんとうに正統な西部劇ではないかという印象と、やっぱりどこか「ファーゴ」みたいな、奇妙にずれてねじれた感覚もあるか、という印象とがわたしのなかでせめぎあう感じ。演出のはじはじにただよう微妙なユーモア感覚はやはりコーエン兄弟の持ち味だろうし、とつぜん、あたまからすっぽりとクマの(おかしら付きの)毛皮をかぶった男が馬に乗って登場するところなんか、びっくりしてしまった。そのクマの歯がなんだか気になって観ていると、この作品、やたらと歯の話が出てくる。悪役のひとりを下からあおって撮影している場面でも、その悪党の歯並びが気になってしかたがないし、観ていても知らずに歯のことばかり考えていたりする。やっぱり、そんな変なことを考えてしまうのも、コーエン兄弟の作品だからこそのことかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-04-11 08:21:49)(良:1票)
11.  天国の門
とにかくまずは、ヴィルモス・スィグモンドの撮影がすばらしい。最初の卒業式でのダンスの場面、人物にピタリと照準を当ててびゅんびゅんと廻っていくカメラ。逆光線の中に立体的に群集を捉えるカメラ。赤い砂塵の舞う荒れ地での残虐な戦いを記録するカメラ。これを観ているだけで作品の長尺は乗り切ることが出来る。ヴィルモス・スィグモンドでも、この作品が最高ではないだろうか。  物語は、国家が移民を抹殺しようとした過去のアメリカの大きな恥、そこでの無力な知識人の問題を主題としている。この作品で描かれたことが史実とはずいぶんと異なるらしいというのも、この作品への嫌忌気分の原因になっているらしい。わたしには、この作品で描かれる主人公のジム(クリス・クリストファーソンが演じる)の行動がどうもよくわからなくて、何をどうしようとしていたのか、まあそこにこそ知識人の無為を読み取れるように思うけれども、どうもいまいち納得が行かない。ラストにポーツマスだかで船に乗っているジムは、そこが移民たちのアメリカ上陸への窓口だったということを想っているのだろうか。そこに彼の過去の行動への悔恨があるのか。死んだ女性を思っているだけなのか。船室で傍らに坐る妻らしい女性へタバコの火をつけてやるときの彼のぎごちなさが、意図的な演出なのか、マイケル・チミノ監督の演出力やクリス・クリストファーソンの演技力に由来するものなのかもわからないから困る。  やはりわたしの印象に残ったのは、ネートという男で、これはクリストファー・ウォーケンが演じているのだけれども、観ていてこのルックスは誰かを思い出させると思っていたら、近年のジョニー・デップを思わせるのだった。とにかく、移民としてアメリカという国に同化しようと努力する姿が痛々しい。ホーソーンの小説を読んで英語の書き取りを勉強し、住まいの壁には壁紙として英語の新聞をいちめんに貼る。ジムと娼婦の女性(イザベル・ユペール)をめぐって争うけれども、ジムへは友情を感じていて、ここに彼の人間味が読み取れる(この作品には人間味を読み取れるような人物が少ない。このネートと、娼婦のエラぐらいか)。殺し屋まで引き受けてアメリカ人になろうとするけれども、さいごには国家の不条理に抵抗して死を迎える。住まいの壁の新聞紙が、燃え上がって剥がれていくシーンが悲しく、美しい。
[DVD(字幕)] 8点(2010-05-08 11:21:17)(良:1票)
12.  氷点 《ネタバレ》 
登場人物が皆、途中で180度世界観を変えてしまうことになるという「大逆転」映画、または「手のひら返し」映画。いちばん楽しい(大逆転の大きい)のはこの養女の陽子ちゃん(安田道代のニコニコほっぺの隆起がすごい!)で、自分の出生の秘密を知るまでの、何があってもいつもへらへらニコニコしている「太陽ちゃん」ぶりからして、「そもそもこの子には人間としての大事な感情が欠如しているのではないのか」と思わせるキャラぶりが凄いんだけど、これが真相を知ったとたんに、手のひらを返したように度クラ少女に変身する。すごい。沸騰点から一気に「氷点」へのクール・ダウン。 母(若尾文子)の手のひら返しぶりもすごい(娘の交際相手を誘惑!)けれども、娘の大逆転にはかなわない。 けっきょく、すべてを承知していながら父(船越英二)を騙した父の友人の、父への何かの意趣返し、復讐劇だったのではないか?などと、さらに大逆転な深読みしたくなってしまったりしますよ。  現在まで綿々と続く「出生の秘密」ストーリーの源流、「ケータイ小説」系(主人公に不幸が重なる、イジメにあう)の源流のような雰囲気で、日本人のメンタリティのどこかに、昔からこういうのがあったんだろうなあと、勉強になるけれど、よく思い出してみると、この映画では何も解決していないではないですか。「殺人犯の娘」だからと、その娘を憎んでしまう気持、そうなるだろうと想定した父の復讐心、このような感情は「ああ、あの子は殺人犯の娘ではなかったんだ」と、なしくずしに棚上げにされてしまう。 「殺人犯の娘」はその出生のために、それだけで呪われなくてはならないのか(差別されてしまうのか)、という根底の(わたしには根本の)問題は、きっと制作側には最初から問題になどされてはいないのだろうけれども、いま見ると、いささかなりとも、「それで終わらせていいのか?」と思ってしまうのは、いたしかたないところ。  演出面の、人物へズームアップしていくカメラの多用とかも、かなりクリシェっぽいではないか。
[ビデオ(邦画)] 3点(2010-01-17 17:16:49)(良:1票)
13.  カプリコン・1 《ネタバレ》 
宇宙飛行士のひとり、サム・ウォーターストンの逃亡中のひとりごとがすばらしい。「屋根の上」が「崖の上」につながるというオチ。‥‥意外とカメラとかがんばっていて、思いもかけない長回しとかクローズアップに惹き付けられてしまった。むかしのハリウッドは意欲的だったんだなあという感慨。ヘリコプターのオペレーションとかも、観ていても「そりゃあ危険だろうが」というギリギリのところをやってる感じで、この「ヤル気」には感銘を受けた。カレン・ブラック、ブレンダ・バッカロ、そしてテリー・サラバスらの客演もみごと。脚本でいえば、エリオット・グールドは(本来ならば)もっとかんたんに抹殺されちゃうことが想像できるからアレだけれども、皆さんに不評のラストは、コレでいいんだと思ってます。 
[CS・衛星(字幕)] 7点(2014-01-17 16:55:11)(良:1票)
14.  武器人間 《ネタバレ》 
予告を観ていなければスルーしていただろう。期待はしていたが、期待以上の面白さだった。フランケンシュタインの末裔と、ナチスと、ソヴィエト軍との絡み。どいつが生き残ってもろくなことになりゃあしないというあたりの設定がいいし、結末には軽く笑わされた。監督はポール・バーホーベンの映画や「ホビット」などにも関わられているらしいが、これが監督第一作。CGをいっさい使用しない「手づくり感」がすばらしい。死体と武器とを縫合、結合させて、「シザーハンズ」で「ロボコップ」な、「鉄男」しているゾンビ軍団が、いっぱいいっぱい登場する。監督は「鉄男」の大ファンでもあるらしい。エイリアンのスペース・ジョッキーとしか思えない造形も一瞬登場する。堪能した。
[映画館(字幕)] 8点(2013-11-17 18:46:26)(良:1票)
15.  キラー・インサイド・ミー 《ネタバレ》 
●原作のように主人公のモノローグを入れての進行なのだけれども、じつは核心のところでその主人公がなにを考えているのか、ということはモノローグからはみごとにオミットされている。これがこの作品ではうまくいっていて、モノローグのぶぶんは主人公のノーマルさを浮き立たせ、ところが映像では主人公ではそのノーマルさを裏切る非道さを際立たせることになる。だから主人公のなかにごくふつうの常識人と、そこからは想像できない人非人ぶりとが同居しているということが、原作以上にはっきりと示されることになると思う。「愛してる。すぐ終わる」と語りながら唐突に女性を殴り殺そうとする主人公が観るものに与えるショックは、そのケイシー・アフレックのなにげない顔とあわさって、尋常のものではない。ウィンターボトムの演出も、原作のストーリーを追うように見えながら、おそらくはストーリーなんて重視していないというか、この異常な主人公の造型をきっちりと組み立てることにのみ専念しているようではある。 ●わたしはもうほとんど原作をおぼえてなどいないのだけれども、おそらくたしかにこのようなストーリーだったとは思う。しかし、あきらかにある一点から先はこれは主人公の妄想というか、まちがいなく非現実として演出されている。お膳立てはとにかく現実と見まがうようにストーリーは続くのだけれども、もうここからあとはほとんどデイヴィッド・リンチの世界というか、現実とも非現実ともつかない、主人公にとっては甘美なことであろう破滅の世界がくりひろげられる。 ●医師の息子として教養ある環境に育った主人公は、書斎にすわってマーラーを聴く。書棚には膨大な量の書物が並んでいる。いっぽうで舞台となったアメリカ西部の荒んだ環境はBGMのカントリー・ミュージックなどでもあらわされ、とくにラストのSpade Cooley & His Western Band による「Shame On You」の、その一見陽気な曲調と辛らつな歌詞との対比は強烈である。ぜんたいにそういうカントリー・ソングの連なりでストーリーを引っぱって行く演出はみごとなもので、ここはさすがに音楽の取り入れ方のうまいマイケル・ウィンターボトムであると、うならされてしまうのである。  
[映画館(字幕)] 8点(2011-06-01 14:28:43)(良:1票)
16.  チャイナタウン 《ネタバレ》 
 観終わっての印象はやっぱり、この「脚本」のすばらしさに圧倒されるところがあるのだけれども、場面によっては、その脚本が絵をリードしすぎているように感じるケースもある。でもわたしはラストのシーンでの三人の男、警官のひとりが去って行くフェイ・ダナウェイの車に発砲しようとして、それを脇にいたジャック・ニコルソンがまずは止める。するとその脇の警官がニコルソンのとなりに出て来て、そこから車に発砲する、このシーンの演出が大好きである。どこか、「歌舞伎」の世界の所為を思わせられたりもする。‥‥そう思うと、この作品でのジョン・ヒューストンという強烈な存在がまた、まるで舞台空間のなかの世界を思わせてくれる気がした。みごとな映画である。   フェイ・ダナウェイが保護していた女性が彼女の「娘」であり「妹」なのだという告白のあたりで涙がこぼれ(ここのニコルソンの反応がいいんだ~ただひっぱたくだけだけれども~)、その、例のラストのセリフ、「忘れろ、ここはチャイナタウンだ」でまた泣いてしまった。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2014-07-05 10:57:29)(良:1票)
17.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 
●デリンジャーにはあまり似ていないジョニー・デップが主演。マリオン・コティヤールが演じるビリー・フレシェットという女性とデリンジャーとの関係を縦軸に、かれを追うFBI捜査官のメルヴィン・パーヴィス(クリスチャン・ベール)らの追跡ぶりを織り込んでいく。いわゆる「ドラマティック」な展開というのではなく、ナラティヴな話法にしたがわずに、映像的にポイントポイントを重点的に描いていく感じ。だからデリンジャーの脱獄にしても、史実である木製の銃に似せたものを使ってのくだりの描写なんか、「木製銃だった」とチラリとセリフで語られるだけで、へえ、そこに重点は置かないわけだ、などと思わせられる。いくつかのシーンの白昼夢のような光景が印象に残り、たとえばそれは冒頭の刑務所からの集団脱走のシーンの、刑務所の壁や周辺の風景、そして銀行強盗シーンの異様に高い銀行の天井だとか、ほとんど人影のない銀行の外の風景とかになる。それらのシーンではいっしゅの沈黙が画面を支配しているようなのだけれども、ただ銃声だけは鳴り響いている。ずっと、そういう画面のちからのようなものに魅せられて観ていて、こういうのも新しいタイプの映画のあり方だな、などと思う。好きな映画である。 ●マイケル・マンという監督の作品はほとんど記憶になく、監督の名を記憶にとどめようともしていなかったのだけれども、こういう作品をつくるひとなのであれば、ほかの作品もちゃんと観てみたい。ただ、このひとの作品というのはそりゃあ「男と男の映画」だろう、ぐらいの思い込みは持っていて、そうするとここでデリンジャーのジョニー・デップに相対するのはメルヴィン・パーヴィスのクリスチャン・ベールかよ、と思って観ていくわけだけれども、どうもこのメルヴィン・パーヴィスというのは好きになれない男で、まあそういうふうに描かれているわけだ。そう思っているとラストも近くなってから、そのメルヴィン・パーヴィスの部下の捜査官が「デリンジャーはシャーリー・テンプルの映画なんか見ない」などとイイこというわけで、そうするとその捜査官こそが選ばれた人物で、ラストにとっても重要な役割を果たすことになるのだった。いやあラストはまたないてしまったではないですか。この捜査官を演じていたのはスティーヴン・ラングというひとで、「アバター」でマッチョなかたき役を演じて大暴れするひとだった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-06-01 14:50:49)(良:1票)
18.  ランナウェイズ
 とても楽しい作品だった。Runaways の事実に則した演出などというのは適当に放棄していて、まあ基本はCherie Currie を主人公としての「ロック業界の虚飾」のなかで崩壊する精神という、誰でもが聴いたことがあったり想像することもできるあたりの着地点で、Cherie Currie の家族関係の描写あたりはそれなりにきちんとやっているわけだけど、Runaways というバンドの歴史なんて、ポイントポイントを押さえているだけで、そんなにち密なものではない。それで、この演出がいいのは、そういうストーリーとしてバンドのユニークさを語ろうとするのではなく、もうバンドの歴史なんか類型のなかに押しこめてしまって、ヴィジュアルでもって何かを語らしめようという演出姿勢がいい、ということになる。Kim Fowley なんかの描写もかなり類型化して、商売人としての側面をおもてに出しているあたり、正解だと思う。トレーラーでのバンドの特訓、彼女たちのステージ、そして圧巻の日本でのライヴ、その後の分裂への道をしめす混乱のレコーディング風景と、つまりはアラン・パーカーの「ザ・コミットメンツ」と同じような展開(かなり参考にしていると思う)なのだけれど、「じっさいがどうだったのかなんて追求したってしょうがない」といっている感じ。ライヴの映像のカメラとか、彼女たちのバンドの規模にあわせたというか、あまりパースペクティヴを効かせずに、それでもいい効果を出していたと思う。わたしは楽しめた。■この映画でここ、というシーンを書けば、彼女たちの日本でのステージの冒頭のシーンで、ダコタ・ファニングの演じるCherie Currie が、そのはいている高いヒールで床にちらばるドラッグの錠剤を踏み砕き、床に突っ伏してその飛び散ったかけらを舐め取ってから起き上がり、歌いはじめる場面こそ、であって、その場面でこそCherie Currie の音楽に賭けた根性をおもてに出すと同時に、ダコタ・ファニングという女優がその、もう子役ではないのだという女優根性を見せつけるわけになる。演出もいい。■欲をいえば、バンド解散後恵まれず、多くのミュージシャンのレスペクトを集めながら近年亡くなったドラマーのSandy West に対して、もうちょっとレスペクトがあってもよかったような気はした。
[映画館(字幕)] 7点(2011-04-15 11:35:25)(良:1票)
19.  リバティ・バランスを射った男 《ネタバレ》 
●町の女性に恋して、彼女(ヴェラ・マイルズ)とのしあわせな生活を夢見ているジョン・ウェイン。しかし、東部から弁護士志望のヤサ男(ジェームズ・スチュアート)がやって来て、ジョン・ウェインは彼をなにかと助けているうちに、彼女のこころはそのジェームズ・スチュアートの方に行ってしまうんだね。●ジョン・ウェインがそのままヴェラ・マイルズと結ばれるならば、それは同じジョン・フォード監督の「静かなる男」になるんだろうけれど、つまり、この「リバティ・バランスを射った男」では、つまりは「静かなる男」の主人公ショーンがジョン・ウェインとジェームズ・スチュアートのふたりに分裂してしまっている。というか、ジョン・ウェインはまさしくジェームズ・スチュアートの陰の存在という立場になってしまう。そういう運命なのである。肝心のところで表面には出ず、陰からジェームズ・スチュアートを助けるべく定められている。運命を受け入れられないジョンはみずからを消滅させようとさえするけれど、つまりは運命を受け入れる。そういう物語が、いわゆる西部のガンマンの時代の終焉とかさねられて描かれるから泣けるわけである。●無法者のリバティ・バランスを演じるのがリー・マーヴィンで、この無法者は西部の自立を押さえ込もうとする北部の牧畜家らに雇われているらしい。そういう背景も、もう「西部劇」の時代ではないのだということになるのだろう。リー・マーヴィンの手下のひとりをリー・ヴァン・クリーフが演じていて、これがいつもリー・マーヴィンのやりすぎにブレーキをかけるあたりがおもしろい。なさけないちゅう房のエプロン姿で決闘に向かうジェームズ・スチュアートも、もちろんいい。  
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-07-12 12:43:05)(良:1票)
20.  アラビアのロレンス 完全版
 とにかく、ロング・ショットで映される砂漠の景観の雄大さ。やっぱりこれは映画館の大スクリーンで観なくっちゃダメでしょ、という感じになる。デヴィッド・リーンとしては、ジョン・フォードのお得意のモニュメント・ヴァレーなんか、この砂漠の雄景に比べたら箱庭みたいなもんだぜえといわれるようにしてやるという対抗意識もあったかもしれない。ベドウィン族はどうみても西部劇のインディアンだし。これ以後の映画でいえば「スターウォーズ」の砂漠、「風の谷のナウシカ」の腐海とかに受け継がれる光景ではないだろうか。こんかい観て、「風の谷のナウシカ」なんかぜったいにこの「アラビアのロレンス」の変奏曲ではないかと思ってしまう。  しかし、そんな映像の雄大さにくらべ、このドラマの屈折ぶりは半端ではないということになる。基本的には砂漠を舞台として、「砂漠を愛してしまった男」の一大叙事詩を描くという演出なのだけれども、どう観てもこの作品のドラマ展開にはホモセクシュアルな香りがプンプンと匂い立つ(とにかく、女性というものがまったく、これっぽっちも登場してこない映画というのも珍しい限りなのだけれども)。そこに、あまりに象徴的に「銃」という小道具(これはもちろんいうまでもなくペニスの象徴である)が何度も登場するわけである。あきらかにホモセクシャルな傾向をもつ主人公のロレンス(ピーター・オトゥールがはまりすぎ!)に対して、ナヨナヨフニャフニャしたファイサル王子(アレック・ギネス)という存在と、あまりにマッチョなベドウィン族のアウダ(アンソニー・クイン)とが彼を両サイドからはさみ、ノンケな顔をしていながらロレンスに異常な愛憎感情を持つアリ(オマー・シャリフ)がいつもロレンスのわきにいる。これにさらに、ホセ・ファーラーみたいなトルコ軍のサディストじみた将校も登場して、SM趣味まで加わってくる。こんなイヤらしい映画に誰がした!という感じであるけれども、まあわたしのなかではヴィスコンティの「ベニスに死す」にも拮抗する、偉大なるホモセクシャル映画、ということになる。そうそう、モーリス・ジャールのスコアが、素晴らしいのである!        
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-02-15 13:02:35)(笑:1票)

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