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1.  神の道化師、フランチェスコ
説教もあってセリフの多い映画なんだけど、サイレント映画見てるような気になる。画面の感じがそうなのか。水の音や、ライ病患者(ハンセン氏病ってよぶと歴史的な厚みが感じられず、ここではこっちを使わせて)のカランカランとたてる音など、トーキーならではの効果が随所にあるんだけど、サイレンとタッチなんだな。画面の組み立てのせいなのか。対象だけを素直に捉えて、凝ったことをしないと決めているよう。単純者ジョバンニ老人が出てくるとさらにいい。彼とジネプロとの、純朴を画に描いたような中世コンビ。宗教が権威を持ってくると、原点へ・単純へ戻りたがる傾向を持つんだけど、フランチェスコってそうなんでしょう。その体現がこの二人。単純はまた独善に傾きたがり、種が乱れ飛ぶ中で完全なる喜びについて実験する話も他人に迷惑を掛けるわけで、単純と独善は紙一重なの。その延長には魔女狩りもあるわけだが、この映画は単純が単純として輝くギリギリのところを捕まえている。修道女が訪れるシーンの野の晴れ具合・広さの感じなんかいいですな。迎えに行くほうをずっと見せてて、切り替えして向こうに木が一本立ってる緩やかな斜面をやってくる四人の修道女になるの。一番張りつめるのは、ライ病患者に会うシーン。カランカランという音がなにやら幽玄と言うか。疎外者であり異端者であり、しかしキリスト教をキリスト教たらしめている核になっている素材、と納得させられるシークエンスであったが、能の世界と通じ合ってもいるような。でラストぐるぐる回って倒れた方角へ、布教にそれぞれ歩いていく。この教団について何か説明しようという感じではなく、いい連中だ、と作者が思っているその気持ちが、観客として見ててやはりいい気持ちになる。すがすがしさ。この複雑になった世界で単純さを求めることは、ある意味必死であり、かつそれを成せればすがすがしい。青空の中の雲、雲、雲。
[映画館(字幕)] 9点(2013-12-13 10:14:24)
2.  カオス・シチリア物語
この映画のメモは私のノート4ページに渡って記されている。当日に書けたのは第ニ話までで、その翌日に第四話・エピローグまでを何とか記している。上映時間よりかかったか。それほど記憶にとどめておきたい作品だった。オムニバスなの。鈴をつけたカラスが飛びながら目にした物語、という趣向で、そのイマジネーションだけでまいっちゃう。私が思うにイタリア映画黄金期の最後を飾る名作だったと思う。汚い字を読み返すだけでも大変なので、いちいちには触れない。四つの物語は「定住と自由」といったテーマで括れそうで、4「レクイエム」の土地からも、やがて1に登場するようなアメリカへ向かう者が出てくるだろうし、彼らの前身は3「甕」の農民たちだったかも知れず、2「月の病い」の妻が1「もう一人の息子」の狂女になってもおかしくない(3だけスタイルが変わっていて民話的、第三楽章ということでスケルツォに相当するのか)。その編み込まれた感じが全体を豊かな世界にしている。私が好きなイタリア映画の味って、こういうのなんだと深く納得したのであった。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-27 09:58:27)
3.  狩人
アンゲロプロスの映画では、しばしば歴史から伝説へと登場人物が漂い流れていったが、この作品では逆に現代の中に伝説が一個の死体となってドンと置かれるところから始まる。わずかな青空がゆっくりと雲に閉ざされていく冒頭、その雪原の中で狩人たちは四半世紀前のゲリラの死体を発見してしまう。苛烈な歴史に生き残った者たちの前に、生き残れなかった者が闖入してくる。『旅芸人の記録』が歴史を下から眺めていた「演じる者たち」の物語とするなら、これは上から眺めている「椅子を並べ観劇する者たち」の物語だ。栄光館のロビーで彼らは互いが演じた過去の歴史を見物し検証し批評することになる。見えるはずのないゲリラの死体に見守られながら、見えない国王と踊るまでの二十数年の歴史がこの一室で繰り広げられていくのである。見事なシーンの連続だが、あのテロシーンの密度はどうだろう。新聞記者や車が排除され道が静まる。車が去ったところから「踊りながら」やってくる右翼たち、表情は読み取れない、平和行進のデモ隊とのにらみ合い、デモのリーダーが歩み寄ってきたところで不意に画面に飛び込んでくる車、そして銃撃、すぐに死体を確保してしまう警察。この数シーンワンカットの迫力はリアリズムから来ているのではない。出来るだけ静けさを引き伸ばしておいてから一気に畳み込んでいく演劇的なクレッシェンド。ギリシャ現代史のやりきれなさを監督の心の中でじっくりと圧力を掛け続けた果てに、ワンカットの中に沸騰して流し込んでいる。そのとき彼の映画は限りなくミュージカルに近づいているようなのだ。あの右翼が示した踊りながらやってくる動き、彼らのふてぶてしさなり民主化を願う人々を小馬鹿にしたような気分が、表情を持たないロング映像の中で、生々しく匂い立っていた。彼の映画では歌がよく歌われ、音楽が演奏される。楽団が登場しない作品があっただろうか。しかし個人の恋愛を歌うハリウッドミュージカルと違うのは、それがしばしば集団の歌なのだ。個人を覆い隠してしまう音楽、明るく響けば響くほどその中心点がウツロになっていくような音楽(大島渚との近親性)、ハーモニカやアコーディオンといった鄙びた音色への偏愛も特徴的。アンゲロプロスはギリシャの陰鬱な空を発明し、長回しの技法を洗練してロングの雄弁さを再確認させてくれた。しかしそれにもまして私が興味あるのはミュージカル作家としての彼なのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-01 10:10:24)
4.  髪結いの亭主 《ネタバレ》 
主人公アントワーヌに、竹取りの翁を思った。不意に訪れたかぐや姫が成長していくのを喜びながら、別れの予感の不安とともに見守っている。今現在の幸福を忘れさせるほどの、時間の経過に対する不安。翁はついにその時間との戦いに敗れ、姫の昇天を目にしなければならなくなったが、このフランスの竹取りの翁も同じだった。彼は自分の理髪店から時間の流れを感じさせるものを排除していく。目の前で成長していく子どもは作らない、思い出になる旅行には出かけない、今日が昨日とまったく同じ日であるように心がけ、また明日が今日と同じ日であるように理髪店に立て籠もり、同じ音形を繰り返すアラブ音楽を聴きながら時間を溜め続けていった。しかし常連客は少しずつ老けていく。目を背けていても、時間は室内に溜まり続け、そしてついにマチルドが夕立の気配のなかで「人生って嫌ね」と呟き、自分たちの敗北を認めた瞬間、溜まりに溜まっていた時間が濁流となって溢れ、彼女を押し流していってしまう。この映画の中のアントワーヌは少年か初老かだ。夫婦の愛の日々を描く映画でありながら、少年の憧れと老年の思い出だけがあって、そのなかの壮年の人生が抜けている。つまり、「まだそこには存在しない」と「もうそこには存在しない」ものとしてのみ、夫婦の愛の日々は捉えられるのだ。幸福であるとは、なんと不安なことだろう。この映画で最も凶々しいシーンは、オーデコロンを飲んで酔い潰れ“死んだ”ようになって迎えた朝、少年時代のアントワーヌがこの店を覗き込んでいるところ。憧れの女性理髪師の死を夕立の予感の中で発見したときのポーズで。これは妻である女性理髪師マチルドにも昇天の日が近づいていることの予言なのだろうか。アントワーヌは自分の戦いが負けることを最初から、少年の時から分かっていたのだろう。それを承知しながら、彼は幸福を究めようとした。人生とはこういうものなのだ。ほんの80分ほどの映画なのに、しみじみと人生の詠嘆を描ききって感服させられた。
[映画館(字幕)] 9点(2009-07-02 12:22:12)(良:2票)
5.  鍵泥棒のメソッド 《ネタバレ》 
この人の映画に登場するのは、どこか気が弱くてその結果優しい人が多く、その気の弱さのせいもあるのか、瞬発的に思い切った行動にでられるバネもある。気の弱さのせいで自殺を企んだものの、うまくいかず、それならもうすべてを放擲してもいいのに、風呂屋でそばの客が転べば半ば無意識に鍵泥棒になっている。そして根の優しさのせいで、手に入れた金で借金の精算をして回っている。お詫びのビデオを録画している。ここらへんに納得できるか出来ないかが分かれ目だろうが、私は納得できて楽しめた。「まったく違う人生」を人は俳優のように演じ替えられる、ってのが基本モチーフの映画だろう。だから後半やくざに凄むあたり、前半の気の弱さから飛躍しすぎかとも思えるのだが、「まったく違う人生」モチーフを思い出して、これもありか、と妥協できる。ドラマとしても、やくざを納得させきれない展開にして、配慮。過去の作品と比べて、後半の流れがギクシャクしたのは否めないが、新作を楽しみ待ちする監督ではあり続ける。香川の部屋の偽造身分証明カードの一つ一つを、じっくり手に取って眺めたかった。
[DVD(邦画)] 8点(2014-02-25 09:24:49)
6.  咬みつきたい
このころ緒形拳は出すぎだったんだけど、こういう軽めのもけっこう選んでたな(『グッバイ・ママ』に続いて)。途方に暮れる役どころ。決断を回避して、当惑して、真正面の遠くを見ているような。自分の居場所を失った仕事人間という設定なの。その困惑ぶりが、やっぱりうまい。吸血鬼なのよ。ファザコンの安田成美とのコンビで、当然のように娘と父の関係も重なる。焼き場で喪服の女が謎めいた接近をしてくる、っていいんだよな。人の生き血を飲むなんてそんな非人道的な、と言ってたのが、ちょっと酸っぱい、とか飲み比べをするようになる。こういうホラーコメディを夏に企画していた時期もあったんだっけ、東宝。というか金子監督は日本では貴重なライトコメディの線を歩んでいた。こういう路線が大きな流れになってたら、邦画界ももっとバラエティ豊かになったのに。
[映画館(邦画)] 8点(2013-07-25 09:13:49)
7.  哀しみのトリスターナ
鐘の鳴り響くなか、おしの少年たちのサッカー(脚の競技)と、普通なような異常なようなブニュエルの世界に入っていく。フェルナンド・レイが、特別卑しい人間なのではないが(世間では立派な人間で通ってる)、内側を知る人間(たとえば姉)にはだめなわけ。かすり傷で勝負がつく決闘には激怒し、少年のコソドロをわざと逃がしてやったり、「偽善者」という分かりやすい分類では捉え切れない男。「茶番よりは悲劇がいい」と言ってて「悲劇的な茶番」になってしまう最期。ヒロインは自分で決めた散歩道に入ったとき、実質的に脚を奪われていく道にも入っていったってことなんでしょうな。廊下で繰り返し松葉杖を響かせる「散歩」に凝縮していく。そしてラスト、突然時間の流れが一方向から解放されたように、ファーストシーンへ向けて逆流が起こる。最初はヒロインが回想してるフラッシュバックかと、ブニュエルらしからぬことやってるな、と思ってると、それが止まらず、なんだなんだ、と思ってるとFINに行き着く。これ一回きりしか使えないアイデアでしょうが、単なる趣向じゃありません。あのときああしてれば(あのとき殺してれば)という後悔がヒロインの胸に押し寄せてきたところと見たが、どうだろう。それぞれの瞬間に、もう一方の道を閉ざしてきたわけで、しかし彼女は「自ら選ぶ誇り」も自覚してきた女であって、そういったもろもろ「これでいいのよ」という気持ちも感じられ感動です。私はこのように生きてきたという確認。
[映画館(字幕)] 8点(2013-07-16 10:02:41)
8.  監督失格
主要記録媒体がフィルムからビデオに移ったことで、事件や事故が記録されやすくなったことに加え、プライベートな場が公に開かれ出した。フィルムも最初は金持ちのプライベートな場に入っていったが、手軽さがぜんぜん違う。本作はフィルムの作家では作られなかった。由美香さんの死の通報を受けてやってきた警察はビデオが回っていたことで疑ったが、それはそうだろう。前半の平野勝之監督の手法・というかいつもカメラを回している姿勢を知らなかったら、おかしいと思う。それが自然になるほど、ビデオカメラが日常的になりつつあったから、この記録は採れたのだ。かつて羽仁進は教室の自然な記録を採るために、子どもたちがカメラの存在に慣れるまで空回ししていた。いまビデオカメラがその状態になりつつある。個人的な場にカメラがあっても構えなくなった(平野さん太ったんじゃないですか、とエレベーターの中で挨拶するママ)。そしてプライベートな部屋に入っていく。恐ろしいほどの臨場感。腐臭が立ち込め、飢えたペット犬がはしゃぐ廊下、その奥の部屋の暗がり、かつてフィルムが秘境を収めたように、ビデオも現代の秘境を覗きかけるのだ。北海道への旅で、彼女が映した夕焼けと月の広々とした映像の対極のような、狭い暗がり。あの旅はあくまで平野の旅であって彼女はテントの中でも化粧をやめなかった。男女が相手に合わせようとすること、それでも合わないこと、それを無理に合わせようとすること。映像には現われなかったが、タケウマで日本一周をやっている人の危なっかしい歩みが想像の中に浮かんでくる。まったく人生とは、タケウマで日本を一周するようなものだ。彼女は人生の広さの中で脚をもつれさせ、数年後、狭い部屋に倒れ込んだのではないのか。
[DVD(邦画)] 8点(2013-07-14 09:31:59)
9.  風の中の恋人たち
とんでもない邦題にもかかわらず、なかなか良作、とりわけ前半。原題は「ナヌー」、ヒロインの名前。フランスを旅するイギリス娘。列車の中で沈黙のまま、パン、卵、塩(!)などを交換し合っていくあたりの演出のきめ細かさ。その村に降りるかどうか迷ってコインを投げ、それでも走りかかった列車から飛び降りてしまう(カメラを忘れてそれが後の伏線となる)。男の無骨さが、いかにもフランスの地方人なのか。外国を一人旅する女性のスケッチとして味わえる。後半政治が絡んできて、ちょっとトーンが濁るんだけど、ラストがまたいいんで印象は良。男の不器用さに好感が持て、どこか幼さの残る若者の恋のドラマとして良。この女流監督、その後どうしてるのか。
[映画館(字幕)] 8点(2013-03-08 10:19:11)
10.  風の又三郎(1940)
賢治ものってとかく解釈が加わって矮小化しちゃうのが多いんだけど、これはそれが少なかった。家畜や森の生きものたちの効果がよかったのかな。カタツムリやフクロウのほかにも教室の中にカエルや鶏、病床にもチャボがはいってきて、外のものが自然に内へ内へと流れ込んでくる。これ賢治のユートピアですな。そして風。映画にとって風ってのは重要なモチーフのようで、舞台ではざわざわ揺らぎだす瞬間の緊張ってのは出せないもんな。風についてやり込める「それからそれから」のシーンで、一つ一つその映像を入れるユーモア。風車の仕掛けのアニメーションが出たのには驚いたが、あんがい科学者賢治の精神を受け継いだ手法かもしれない。大泉滉がかわいかったのにはびっくり。
[映画館(邦画)] 8点(2012-12-03 10:14:38)
11.  カルメン(1983年/カルロス・サウラ監督)
鏡が効果的。単に虚構の世界との対比というだけでなく、それに挑みかかっていくようなところがあり、主人公が次第に妄想の世界に突入していくのとダブる。『愛と喝采の日々』でも鏡の前でのバレー練習シーンが使われたが、あちらは平行移動だったのに、こちらは前後の向かい合う運動。練習が続くうちに、現実と虚構が混交していってナイフのシーンの緊張になる。マジなのかダンスなのか。ここらへんうまい。またエスカミリオが美男でなく何となく性的に強い男という印象の作りになっていて、老いを自覚した主人公の妄想が生臭い下意識にまで広がっていったような凄味があった。おそらくスペイン人はメリメ/ビゼーのフランス製カルメンに、日本人がイタリア製蝶々夫人に対して抱くような違和感を持っていたのだろう。それに対する落とし前を一度はつけておきたい、という気持ちもあったんじゃないか。ミカエルとカルメン、役と本人、エスカミリオとホセ、恋と嫉妬、芸術と妄想、向かい合うことに徹底した映画だ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-11-30 10:02:21)
12.  川の底からこんにちは 《ネタバレ》 
ずいぶん笑ったけど、「しょうがない」と無気力だったサワコさんが「あたし頑張る」になる話の展開に対してではなかったな。「え」とか「あ」とか、ささいな「言いよどみ」を含む場の笑いに反応してたみたい。「え」と言うときは、相手の言ってることに同意はしていない、と言うかかなり反発を感じているのに、でも反発しても「しょうがない」から、「え」と言って「同意はしてないよ」ということだけ控え目に表明し、あとはビール飲むだけで、なし崩しに受け入れていってしまう。そこらへんが、分かる分かるって感じで、笑ってしまうんだろう。そうやって生きてきたサワコさん。旦那が出てって一寸の虫の五分の魂が爆発したのか大演説をし(「あ、青春の勢いで駆け落ちした女です!」)、でもそのあとですぐ「偉そうに言ってすいません」と謝るところでまた笑う。そのヤル気のアイデアが社歌の変更ってのが、また馬鹿にしててよろしい。社歌が「中の下」たちの革命歌に変わっただけで、ヤル気が満ち、しじみパックが売れてしまう。サワコさんを挟むように、おばちゃん連中と子どものカヨコちゃんが登場する。どちらも批判者のように登場し理解者に変わっていく。カヨコちゃんが椅子に後ろ向きに座って、背もたれの隙間から脚を出してるスケッチがいい。ラスト、帰ってきた旦那に親父の骨を投げつけると、後ろに控えていた「新しいお母さん」の喪服姿のおばちゃんたちが、「ああ社長の骨…」とソワソワするとこも笑った。撒いた糞尿は大きなスイカを実らせたが、撒いた骨はお母さんたちを呼び寄せたのだ。
[DVD(邦画)] 8点(2012-01-26 10:28:17)(良:1票)
13.  家族ゲーム
あえて焦点を絞りきらない作品という気がした。何か滑稽でいながら不気味なものが描かれているんだけど、それがはっきりしない曖昧なままくっきりと(!)提示されてる感じ。くっきりと提示された曖昧さ、ってつまり「夕暮れを完全に把握しました」っていうようなこと。曖昧さは周囲に充満しているんだけど、それを焦点を絞らないまま明晰に描ききった労作。それは思春期の曖昧さでもあり、家族というものの曖昧さでもある。映画は登場人物の人物像を結ばない。いわゆる「人間が描けてる映画」にはしていない。登場人物は人と関わることでのみ描かれ、ぼそぼそとした会話と行動だけが手掛かりだ。その会話を含むリズム感が抜群で、二度目に殴られても鼻血が出ないあたり、先生のガールフレンド美人ですか? と尋ねられてゆっくりハンカチを取り出すあたり、おかしい。これを最初に観た当時は想像することも出来ないことだったが、ラストのヘリコプターの音、サリンを撒いてるオウム真理教を今回はふと思った。カーラジオで事件が起こってないか確かめたり、そういうことにつながってもおかしくないような不穏の気配は、曖昧な夕暮れのようにひしひしと迫っていたのだ。それにしても監督が亡くなっても、もう夭折と言われないだけの時がたってしまっていたのだなあ。その間に松田優作の若死、伊丹十三の自殺、と不幸もあった。戸川純より健全そうだった妹さんの自殺もあった。ちょっとだけ顔見せた清水健太郎の逮捕は何度もあったなあ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-01-14 10:06:55)(良:1票)
14.  飾窓の女 《ネタバレ》 
もう不安がいっぱい。唐突な殺人から雨あがりの街へ。死体を運び出そうとすると帰ってくる住人、公園の入り口の料金所、ザザッと降ってくる木の露、信号がストップになって笑いかけてくる警官。しかしホントに怖くなるのは死体が発見されてからで、友人から捜査の進展が逐一報告されてくるの。女を突き止めたそうだと言われたとこで話が中断されたりするジラシ。ラジオのニュースの前に胃薬のCMが入るジラシ。こうやってジラすのがうまい。つい喋りすぎてしまう、というパターンは少し使いすぎたか。現場検証の場が一つのヤマ。「何の缶詰でした?」。尾行がついていたはずだ、とまず会話でユスリ屋を登場させるのもいい。このユスリ屋が部屋の中を探し回るのが次のヤマ。やけにきれいだねえ、とテーブルをなでたり、クネクネした動きが実にいやらしい。最も甘美な夢は、実は悪夢である、ということ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-11-10 10:08:10)
15.  風の丘を越えて~西便制 《ネタバレ》 
典型的な芸道ものなんだけど、新鮮に感じた。神話的な旅芸人を、素直に現実の中にはめ込んでいる。一族だけの至福感は、もう田舎道をやってくる長回しのシーンで満ちている。ここは本当に神話から抜け出してきたような雰囲気がある。一族の宴。けっきょくこれが彼らが一緒にいられた最後の時になるわけだけれども。このあとは、歌ってるとベサメムーチョの楽隊に音は消されていく。没落感覚。薬のPRしたり、お酌させられたり、兄弟弟子は麻薬に溺れていく。美しい文字絵も流行らなくなる。映画はただただ滅びる側に寄り添って、現実の中に埋没していく神話を記録していく。で失明。彼女が盲目になってからの風景描写は一段と凄味を増し、「蕭条」と言うんですか、芸の奥の世界へ分け入っていく感じ。現実の中から神話が蘇ってくる。そして更なる伝承を思わせる旅立ちのラスト。いつもは「湿っぽい」というのは、映画の感想としては否定的に使っていたものだが、これなんか実に「上品に湿っぽい」。どんな方向にも洗練されれば感動があるのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-07-06 12:10:24)(良:1票)
16.  カッコーの巣の上で
病院内のディスカッションが優れている。演技による興奮で演劇的な場面のようだが、ほかの人が発言しているときにマクマーフィーの表情を捉えておくなんてことは舞台では出来ないのだから、やっぱり映画的なんだ。野球のテレビ中継、再投票、タバコに固執する男。一方船のエピソードやお別れパーティの騒ぎのあたりはやや弱くなってしまったが、ここらへんは個人個人を捉えきれないシーンだからだ。個人個人の細部、どんな個人もが持っている個性の輝きが素晴らしいのだ。これ一種の聖人伝なんだろうな。変化をもたらすために遣われてきた男。パーティのあと逃げられるのに窓を眺めたままじっとしていて、やがてかすかに微笑むシーン。あの瞬間から彼は聖人になったのかも知れない。使命感が生まれた瞬間。そしてラストの感動、伏線がピタリと決まる。ゆったりとした三拍子の音楽も効果的。
[映画館(字幕)] 8点(2009-12-04 11:59:59)(良:1票)
17.  カンゾー先生 《ネタバレ》 
少数意見だと思うが、私は晩年の今村作品の中ではこれが一番好きなの。60年代のこの人の気分が感じられて。カンゾー先生、和尚、モルヒネ医らの怪しい男集団に、初期の彼の作品の猥雑感が思い出されてくる。学究の徒となり中央で認められる成功話になりかけるところで、ニガみが湧き出してくる構成。せがれが生体解剖やってやせんかというためらい、顕微鏡探し回っててバアちゃんを死なせてしまう失敗、その葬式で聞こえてくる東京の拍手、ここらへん最後まで迷う医者なのである。周囲の連中も、なにやら道を踏み外していく。その踏み外させる元凶としての肝臓炎=戦争に焦点が絞られていく。そしてラストが『神々の深き欲望』を思い出させる舟に漂う男女。そりゃ最盛期のバイタリティーには及ばないものの、これ『復讐するは…』以後では、一番今村らしい作品になったんじゃないか。
[映画館(邦画)] 8点(2008-12-28 12:17:36)
18.  カサノバ(1976) 《ネタバレ》 
おそらくフェリーニで一番ペシミスティックな作品。醜女が次から次へと現われてくる前半はいささかうんざり気味だが、昆虫みたいな衣裳を着けた貴族の屋内オペラあたりからか。思わず「待ってました!」とかけ声を掛けたくなるフェリーに顔の男で、クネクネしたその気味悪さが実に気持ちいい。ローマでの精力競争の馬鹿騒ぎぶり、芝居が終わった後の劇場の空漠、ドイツでのオルガンの狂い演奏(ここはニーノ・ロータの独壇場)と、名場面はいろいろあるが、どこか悲痛な気配が常に漂っている。カサノバは女性の人格を、口では尊重していた。おそらく貴族的に崇拝はしているのだろうが、しかしコトに至ると、女性嫌悪・女性恐怖としか思えない相貌に女は変わって見えてくる。そして精力競争で相手の女が浮かべた哀れな表情は、目にしていない。彼は人格としての理想の女性を求めすぎて遍歴を続け、最後にたどり着いた相手は、心を持たないものだった。乱痴気騒ぎの連続の果てに訪れた孤独の平穏、凍りついたベネチアでのラストダンスで悲痛は極まった。
[映画館(字幕)] 8点(2008-10-10 12:13:20)
19.  花様年華
メロドラマとしての格調の高さは大したものだ。狭さを意識した画面、その息をひそめている感じがいい。新聞社の無表情な大時計、赤いカーテンの揺れる廊下、と舞台もふさわしい。下の屋台へポットを持っての往復で、ちらちらと意識しあう男女。そのかすかな空気の揺れのようなものがメロドラマの味わい。ここぞというときに入ってくる憂鬱なワルツ、あるいはキサス・キサス・キサス。連れ合いが不倫をしている二人は、意地でも関係を結ばない。それが全編に緊張をはらませている。時代や社会やあるいは女の生き方についての思索など、余計なものを排除して純粋な織物を織りあげたって感じ。だからこそラストのカンボジアが引っかかる。あの時代の新聞社を舞台にしながらベトナム戦争に触れずに綴ってきて、ラストで竹の文化圏から石の文化圏のカンボジアに跳ぶあの画面の質感の急変、分からないからこそ、すごく引っかかる。
[映画館(字幕)] 8点(2008-08-12 10:52:15)(良:1票)
20.  戒厳令(1973)
これ私が初めて見た吉田喜重作品だった。とにかくその構図の美しさに見とれた。どうも一番最初に見た本作の印象が強く、今回再見してみたが、やはり喜重映画で一番好きな作品だと思う。凝った画面はときに薄っぺらになったりするものだが、この人の場合、凝視しすぎて構図が美的に固まったような感じで、装飾性は感じられない。本質がみっちり詰まって黒光りしているような重苦しさがあり、それが北一輝の「持ちこたえることによる革命」の重さと釣り合っている。硬い質感の喜重世界と、どちらかというと柔らかい質感の場面で味を見せる別役実の脚本とが、ここ1973年において奇跡的に融合した。「エロス+虐殺」も傑作だとは思うが、現代篇のことさらトンがってみせてるようなところが今見るといささか恥ずかしいのに対し、こちらは時代に集中することで純度の高さを保った。
[DVD(邦画)] 8点(2007-12-25 12:20:22)
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