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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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181.  続・男はつらいよ
昨年の正月にシリーズ第一作目の「男はつらいよ」を初鑑賞して、一年ぶりに第二作目の今作を鑑賞。 来年以降も、年のはじめに“寅さん”を観ることを恒例化していこうと思っている。  自分自身が今年で40歳になる。 「不惑」という言葉の意味に対して、自分の精神年齢が程遠いことは否めないけれど、それでも人生の機微というものを何となく感じ取れるようにはなってきた。 自分の人生において何が大切で、何がそうではないのか。そういうものがおぼろげながらも見えてきた今、この国民的喜劇映画が描き出す「娯楽性」は、ことほど左様に心を満たす。  渥美清演じる「車寅次郎」というキャラクターはもちろん強烈だけれど、劇中において何か劇的なことが起こることはない。 が、しかし、なんでもないシーンで笑いを生み、なんでもないシーンでしみじみとした感動を生む。 これぞこの国の「喜劇」の真骨頂だろうと思える。  このシリーズ第二作においては、脇を固める豪華俳優陣の存在感も際立っている。 寅次郎の恩師役の東野英治郎は、個人的に幼少期に観ていた「水戸黄門」の印象が強く、あの特徴的な声の響きがとても懐かしかった。 若き山崎努は、30代前半にして既に映画俳優としての稀有な雰囲気を醸し出しており、今作ではヒロインの恋人という「普通」の役柄を演じていることが逆に印象的だった。  そして何と言っても、寅次郎の生き別れの母親役として登場するミヤコ蝶々の存在感が抜群。 数少ない登場シーンの中で、稀代の女漫才師ならではの“しゃべくり”と、この国の喜劇を牽引し続けていたのであろうコメディエンヌとしての表現力が圧倒的だったと思う。  渥美清も、東野英治郎も、ミヤコ蝶々も、既に亡くなって久しい。 けれど、彼らが昭和の時代に生み出した数々のまだ観ぬ「娯楽」を、これからまだまだ堪能できることは幸せなことだと思える。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-28 13:15:21)
182.  宇宙大怪獣ドゴラ
本多猪四郎監督によるれっきとした特撮映画ではあるけれど、特撮描写というよりは、全編通して展開されるスパイ映画テイストの娯楽性の方が印象的で、その部分に面白さがある少々異質な映画だった。  先日鑑賞したゴジラシリーズ初の長編アニメ映画「GODZILLA 怪獣惑星」の冒頭シーンで「ドゴラ」が一瞬登場し、「随分マニアックだな」とほくそ笑んだところで、今作を未鑑賞だったことに気付き、早速Amazon Prime Videoでレンタル鑑賞。 多少マニアックな映画でも、思い立って1分とかからず自宅鑑賞出来てしまう今の世の中は、ほんと便利なものだなあと、レンタルビデオ世代の映画ファンとしてはつくづく思う。  ただ、冒頭に記した通り、この特撮映画において“ドゴラ”なる宇宙怪獣の印象は極めて薄い。 なぜなら登場シーン自体が極めて少なく、大々的に映し出される描写においても、ポスターに描かれている“宇宙クラゲ”的な造形ではなく、ただ巨大な軟体動物を空に合成したような「お粗末」と言わざるを得ないものだったからだ。  特撮映画としては満足に足るものでは到底なかったけれど、その一方で時代感のある娯楽描写は中々楽しいものだった。 隙だらけの国際犯罪組織と日本警察、そして某国際組織のエージェントとの三つ巴の攻防戦は、極めてチープだけれど、そういう部分も含めて娯楽としての味わい深さを醸し出していたと言える。 日本を舞台にした007映画「007は二度死ぬ」の数年前の映画であるが、同年代の作品であることを実感させる日本各地の街並みや風俗描写、そしてボンドガールにも抜擢された若林映子の存在感が光る。
[インターネット(邦画)] 6点(2021-01-25 23:13:54)
183.  GODZILLA 星を喰う者
愚かで傲慢な“旧時代”の人類は、「存続(=勝利)」し続ける限り、憎しみと虚栄を捨て去ることができない。 絶対的な「畏怖」の対象と、それがもたらした「新しい世界」を目の当たりにして、旧時代の英雄は、自ら“憎しみの螺旋”を断ち切るために飛び立つ。 三度、あまりにも強大な宿敵と対峙し、憎しみと怒りをぶつける彼が見せた“最期の安堵”。それは、自分が本当に”滅ぼすべきもの”が何だったのかということに到達した儚くも、勇ましい帰着だった。   というわけで、れっきとした“ゴジラファン”でありながら、世評の悪さから鑑賞を先延ばしにし続けてきたこの長編アニメ版「GODZILLA」トリロジーを一気に完走。 各レビューサイトとも、世評はやはり「否定」の嵐だったが、僕自身は、この三部作を通じて、想定外の世界観の深さと、ストーリーテリングの振り切り方に驚き、感動したと言っていい。  ハリウッド版含め30作以上に及ぶ玉石混交の「ゴジラ」映画全シリーズ作品を根底に敷き詰め、まるで原作版「風の谷のナウシカ」のような人類文明終末の虚無感と運命への抗い、そして、永井豪の「デビルマン」のクライマックスを彷彿とさせる人間の本質的な「業」がもたらす罪と罰の様相が、豪胆なストーリーテリングの中で展開されていたと思う。 無論、今作が、過去のゴジラ映画シリーズ随一の映画だとか、上に挙げた伝説的漫画作品に匹敵する作品だとは決して言えないけれど、そういった偉大な過去作に対する明確なリスペクトを掲げつつ、この製作チームが目指した高みは、素晴らしくチャレンジングで、間違いなくエキサイティングだった。  大多数からの“拒否感”は認める。だが僕は、ゴジラ映画ファンのはしくれとして、過去の全30作を鑑賞してきたことを踏まえて、敢えて全方位的に「肯定」したい。  日本の映画史、そして世界の特撮映画史に燦然と輝くゴジラ映画シリーズだが、控えめ言ってその7割以上は「駄作」である。 特に、このトリロジーの直接的な原作とも言える1964年「三大怪獣 地球最大の決戦」をはじめ、以降の昭和時代に製作された各作品は極めて陳腐で子供だましのものが圧倒的に多い。 ただ、そういう駄作群も含めて、長きに渡り世界中の映画ファンに愛され続けているのが、「ゴジラ」という歴史であり、魅力であろう。「三大怪獣 地球最大の決戦」にしても、ゴジラ・モスラ・ラドンのまるっきり“コント”のような共闘の滑稽さに呆れつつも、キングギドラ登場のインパクトと精巧さには惚れ惚れする。そういうアンビバレントな感覚を堪能することこそが醍醐味だと思う。  このトリロジーの諸々の強引な設定や中二病的なストーリー展開に対して鼻白み、批判する評が多いようだが、個人的には、そういう部分こそが特撮映画っぽさ、ゴジラ映画っぽさでもあり、全くもって許容範囲だった。 むしろ、そのある意味伝統的なチープさを取り込みつつ、最新のSFアニメとして最大限増幅し、振り切ってみせていることが、ファンとして高揚感を高められた最大の要因だったと言える。  ゴジラ映画としても、アニメーション映画としても、歪だし、独善的な映画であることは否定しない。ただそれ故に印象的で忘れ難き作品になっていることは間違いない。  ただ……、“モスラ”はちゃんと孵化させて、ゴジラ、ギドラと同様に圧倒的なアニメーションで見せて欲しかった。 アレンジされた「モスラの歌」が双子姉妹によって奏でられるのを今か今かと心待ちにしていたのだけれども。
[インターネット(邦画)] 9点(2021-01-23 22:21:05)
184.  GODZILLA 決戦機動増殖都市
ゴジラ映画初の長編アニメシリーズ(三部作)の第二弾。 世間の評判の悪さから長らく敬遠してしまっていたのだが、ようやく鑑賞した前作「怪獣惑星」が、思いのほかゴジラ映画ファンの琴線をくすぐってきたので、同日に続けて今作を鑑賞。  「決戦機動増殖都市」というこの副題が、中二病的でとても良い。 このタイトルを堂々と掲げることで、この映画は“そういう映画だ”ということを宣言しているのだと思う。 詰まりは、この国が長年に培ってきたアニメ文化、特撮文化、そしてオタク文化を愛し続けた者たちが、寄ってたかって“自己満足”を積み上げた作品であるということ。 そして、「それの何が悪いのか?」ということを、開き直るように力強く叩きつけている作品であるということだ。  前作のラストで、ようやくゴジラを討伐した歓喜も束の間、ほぼ間髪入れずに現れた真の絶望。 あまりにも巨大な絶望に対する次なる対抗手段として描き出されるのは、共闘する異星人がかつて地球に持ち込んでいた“メカゴジラ”の「構成素材」で2万年の間に勝手に出来上がっていた“増殖都市”という、完全にワケガワカラナイ代物。 ワケガワカラナイが、だからこそケレン味に溢れ、極めてSF的だと断言したい。  “メカゴジラ”のビジュアルを一切登場させることなく、その“素材”と、それを扱う異星人たちの異質な“思考原理”のみで、もはや地球環境そのものとなっている“ゴジラ”と対峙し、ストーリーをテリングしていくこの作品のあり方は、やっぱりマニアックでぶっ飛んでいる。  肝心要のゴジラの描写すらもそこそこにして、舞台であり、兵器である“増殖都市”そのものの禍々しさを突き詰め、その中で異なる思考をぶつけ合う人間同士の消耗戦と、それに伴う悲劇に主眼を置いていくストーリーの顛末が極めて興味深かった。  そして、そんな異質なストーリーテリングを展開しながらも、しっかりとゴジラファンの高揚感を煽る描写、伏線が張り巡らされている。 双子の美少女、卵を崇める民族、隠された異星人の思惑、そして「ギドラ」という忌まわしき言葉。  世間の評価がどんなに低かろうが、前作に続き今作もしっかりと“ゴジラ映画”であり、“SF映画”であったと思う。 主人公を見つめるヒロインの目線が絶妙に合っていない不気味さすらもはや味わい深い。 さあ、次はいよいよトリロジーの最終作。“地球最大の決戦”に向けて準備は万端だ。
[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-18 23:20:40)
185.  GODZILLA 怪獣惑星
まず冒頭のプロローグ的なニュース映像の中で最初に登場する怪獣が、カマキラス、そしてドゴラだったことがマニアックで、思わず喜色を浮かべた。 地球が滅亡したくだりを伝えるこのオープニングクレジットは、非常に端的であり、かつ東宝特撮映画ファンの心をくすぐる娯楽性に溢れたものだった。(“ヘドラ作戦”が気になる!)  “ゴジラファン”でありながら、今作に対してはあまり良い評判が聞こえてこなかったので、今の今まで鑑賞を先延ばしにしまっていた。 随分とハードルを下げきったことが逆に良かったのかもしれないけれど、今作は、想定を大いに超えた満足感を得られるれっきとした“ゴジラ映画”だったと思う。  タイトルが「GODZILLA」となっているように、そのキャラクター性を含めたゴジラの造形や世界観のテイストは、2014年のハリウッド版「GODZILLA」の方向性に限りなく近い。 ゴジラ自体の姿形もハリウッド版とほぼ同じフォルムであり、「破壊神」と称されるに相応しいその巨躯はこのアニメ版においても迫力があった。 その一方で主人公をはじめとするキャラクターたちの台詞回しや、作戦進行を中心としたストーリーテリングにおいては、2016年の「シン・ゴジラ」を彷彿とさせる要素も垣間見れ、個人的には適切なバランスで両国版の「ゴジラ」が融合している印象を受けた。   一般的な評価はやはり低く、「ゴジラ映画として認められない」という意見も多いようだけれど、「ゴジラ」を初めてアニメーション作品で描く上で、実写での特撮映画では実現が難しい試みに挑んでいることは、正しい映画作りのあり方だったと思う。  そして、この映画には「ゴジラ映画」として相応しいテーマがしっかりと備わっているとも思う。 そのテーマとは、ゴジラに対する人類の「畏怖」の念だ。 第一作目の1954年「ゴジラ」しかり、「シン・ゴジラ」しかり、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中で確固たる傑作として輝いている作品は、ゴジラという大怪獣に対する「畏怖」をどれも等しく描きぬいている。  今作に対しては手放しで「傑作」とは言い切れないけれど、人類のゴジラに対する「畏怖」については、どの過去作よりもダイレクトに描きつけられていると思う。 突如地球に出没した“破壊神”ゴジラの「災厄」としての存在感を突き詰め、人類文明を明確な「滅亡」に至らしめたのは、今作のゴジラが初めてである。 「ゴジラによって地球の人類文明は滅亡しました」というイントロダクションから始まる今作の豪胆なストーリーテリングは、今作が実写シリーズとは一線を画したアニメ映画だからこそ成し得たものだったと思う。  SF、アニメ、トリロジーというフィールドを最大限活かして、これまで誰も見たことがない「ゴジラ映画」を見せようと試みたこの映画プロジェクトの精神は、まったくもって正しいと思うのだ。  極限的に壮大なストーリーのわりに、主人公をはじめとする登場人物たちの言動が直情的でやや希薄に感じたり、諸々の設定がさすがにぶっ飛びすぎているというような「粗」が溢れかえっている作品ではある。 ただ、そういった雑多な映画的テイストもまた「東宝特撮映画」の文化であろう。  とりあえず今は、続編2作品を続けて観られることが楽しみで仕方がない。
[インターネット(邦画)] 7点(2021-01-18 16:18:47)
186.  ソウル・ステーション パンデミック
公開中のゾンビ映画「新感染半島 ファイナル・ステージ」に続き、一応シリーズ作の一つであるこのアニメ映画を鑑賞。 シリーズ一作目の「新感染 ファイナル・エクスプレス」の前日譚となる作品で、人をゾンビ化させる最凶ウィルス蔓延の“はじまり”を描いている。  各実写作品の監督も務めるヨン・サンホ監督は、元々アニメーション監督だったようで、アニメ作品はお手のもののようだ。 一作目の「新感染 ファイナル・エクスプレス」が成功した要因の一つとして、アクションの見せ方のフレッシュさが印象的だったが、それもアニメ制作で培った構図づくりが活かされているのだろうと思う。  韓国製アニメを観る機会はあまりない。随分前に「マリといた夏」というアニメ映画を観たが、それ以来の韓国製アニメの鑑賞だったと思う。 アニメーションとしての精巧さにおいては、日本のアニメ文化と比較するとチープだと言わざるを得ないけれど、韓国映画独特の雰囲気はアニメ映画にも映しこまれていると感じた。 恐怖映画であることもあり、キャラクターの何気ない一挙手一投足に不穏さや不気味さがにじみ出ており、クオリティーのチープさを補う秀逸な空気感を携えていたと思う。  感染者(=怪物)と、人間(=怪物)に板挟みにされる絶望。 文字通り、「進むも地獄 退くも地獄」のその様は、絶望にまみれたこの世界そのものを表しているようだった。  そのシーンも含めて、やはりこの監督は、ストーリーを効果的に映し出すための舞台立てや構図づくりが巧い。 前日譚でもあり決して大きなストーリーテリングを見せるわけではないのだが、各シーンの舞台づくりが尽く巧いので、恐怖やスリリングをきちんと表現すると同時にシーンに相応しいドラマ性を生んでいたと思う。  ある夜に突如発生したパンデミックが、瞬く間に広がり、その絶望の極みと共にこの映画は終幕する。そのラストカットが美しい朝焼けであることもまた印象的だ。  今まさに世界はパンデミックによる恐怖と絶望の只中でもがき苦しんでいる。  明けない夜はないと言うけれど、果たしてこの夜はいつ明けるのだろうか。 そして、朝日が照らす世界はどうなっているのだろうか。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-01-17 16:52:45)
187.  新感染半島 ファイナル・ステージ
娯楽映画として、“楽しい”映画ではあったと思う。ただし、「新感染 ファイナル・エクスプレス」の続編として期待したならば、楽しみきれない。  前作は、韓国という国の社会性や人々の人間性を踏まえつつ、このジャンルの映画に相応しい「風刺」を併せ持ったゾンビ映画の傑作に仕上がっていた。列車を舞台にすることによる“パニック”の上乗せ加減も見事だったと思う。 しかし、この続編は、その後の世界を描きつつも、映画的なテイストはリセットされ、まったく別物の映画として作られていた。 前作が持っていた“韓国製ゾンビ映画”としてのフレッシュさを期待していた者としては、正直「思ってたんと違う」感は否めない。  文字通りの「地獄」に取り残された人間たちの狂気と、そこから生まれる恐怖やさらなる絶望を娯楽映画として描き出そうとした試み自体は興味深かったけれど、その世界観の作り込みがありきたりで希薄だったことが、「別物」の映画としても楽しみきれなかった要因だろう。  また、登場するキャラクターの一人ひとりは個性的で魅力的な要素を持っていたと思うけれど、それらをストーリー的にあまり活かしきれておらず、中途半端な人物描写に終始してしまっているとも感じた。  人がゾンビ化するウィルスの蔓延を止めることができず、4年間放置され、韓国国内のみマッドマックス的に崩壊しているという設定は豪胆で潔い。 北緯38度線(南北境界線)により、北朝鮮から先の大陸には感染が広がっていないという設定も無茶苦茶ではあるが、娯楽映画としては許容範囲だろうし、原題「Peninsula(半島)」が表す意図も際立っていると思う。  もう少しその「半島」というテーマが孕むこの国の特異性や、ある意味での孤立感みたいなものを、ストーリーに盛り込むことができていれば、このシリーズの続編としても、ゾンビ映画としても相応しい批評性が生まれたのではないか、と思う。
[映画館(字幕)] 5点(2021-01-17 15:50:25)
188.  ミッドナイト・スカイ
世界の終末。放射能汚染によって住むことができなくなった地球を残して、人類は宇宙へと逃げ出す。 だが、人類が生き残るための道筋を誰よりも早く見出していた科学者は、一人北極の観測所に居残る。 彼が自らの命をとしてその選択をした理由が、淡々と、そして情感的に描き出される。  「メッセージ」や「インターステラー」など、壮大なSFの上で綴られる普遍的な人間ドラマが大好物な者としては、とても好ましく興味深い映画だった。 人類が滅亡の危機に瀕している具体的な理由などの細かい状況説明を意図的に廃して、ジョージ・クルーニー演じる主人公の残された時間と、それと並行して展開する帰還船の描写に焦点を絞って映し出されることで、より一層登場人物たちの「孤独」と「絶望」が浮き彫りになっていくようだった。  そう、この映画が表現しようとすることは、まさにそういった人間の孤独感と絶望感、そして悔恨だった。  恐らくは核戦争によって地球を捨てざるを得なくなってしまった人間全体の愚かさ。 宇宙への望みを追い求めるあまり、結果的に愛すべき人を捨てることになってしまった一人の男の哀しさ。 人間という生物全体の後悔と、その中の一個体の後悔が入り交じり、この映画全体を覆っている。 それは、決して遠くない未来の現実の有様のようにも見え、鑑賞中とても安閑とはしていられなかった。  地球全体を覆い尽くすような99%の絶望。そんな中で、ただ一つの“光”が描き出される。  ただ一人残ったはずの主人公の前に突如現れた“少女”は、彼にとって、悔恨と希望そのものであり、同時に、人類が存続するために与えられた最後の奇跡だったのだと思う。     ジョージ・クルーニー自身が監督も担った作品だけあって、登場人物の感情を主軸にした極めて内面的な映画に仕上がっている。 前述の通り、ストーリーテリングの上で論理的な説明が無い分、話自体のシンプルさのわりに分かりにくい映画になっていることは否めない。 難解という程ではないけれど、これほど主人公の内情に焦点を当てるのであれば、ジョージ・クルーニーは俳優業に専念すべきだったのではないかとは思う。 彼の豊富な監督実績を否定はしないし、今作においてもそつない仕事ぶりを見せてくれてはいるが、監督か俳優どちらかに専念したほうが、もっと深い映画表現にたどり着いたのではないかと思えた。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-01-02 00:26:34)(良:1票)
189.  映画ドラえもん 新・のび太の日本誕生 《ネタバレ》 
1989年のオリジナル版「ドラえもん のび太の日本誕生」は、僕自身が小学校低学年時に劇場公開されたこともあり、その後小学生の間に繰り返し鑑賞したことも含めて、ドラえもん映画シリーズの中でも特に馴染み深い作品の一つだ。 劇場公開前のスペシャル番組で、主題歌を歌った西田敏行と作曲を担った堀内孝雄がレコーディングスタジオでインタビューを受けている映像まで鮮明に覚えている。  タイムマシンで大昔の世界にやってきたのび太たちが、その時代の人たちと交流を深めつつ、共に横暴な未来人と闘うというプロットは、「ドラえもん」のお話の中ではどちらかと言うと“ありがち”な部類であり、ストーリーラインそのものに驚きや斬新さがあるというわけではなかった。 けれど、のび太たちが“7年前の日本”を目指したきっかけは「家出」であり、そのあまりにも小さな理由から広がる時空を超えたあまりにも壮大なアドベンチャーが、とても「ドラえもん」らしく、F先生らしい“SF”性に満ち溢れている。  そして、黒幕である“精霊王ギガゾンビ”の悪役としての存在感が非情に大きいことも特徴だった。 その正体は23世紀の科学力を駆使して、人類史の“塗り替え”を成し遂げようとする未来人なわけだが、その「犯罪行為」の恐ろしさには説得力があった。 もし本当にはるか未来のイカれた科学者が、同じような犯罪行為を繰り広げたならば、僕のこの世界はどうなってしまうんだ、と幼気な少年だった僕は恐怖を感じた。  “タイムパトロール隊”の内偵により、文字通りの歴史的大犯罪が未然に防がれるという顛末も含めて、やはりF先生らしいストーリーテリングだったと思う。  長々と30年も昔の過去作の回顧録を綴ってしまったが、そのリメイク版である本作も、概ねストーリーラインに変化はなく、良い意味でも悪い意味でも、新しいドラえもんたちによる“焼き直し”に留まっている印象は否めない。 オリジナル版や原作漫画と比べると、“子どもたちの家出”という要素に少し踏み込み、子は親を思い、親は子を思う「情感」は加味されてはいたが、「改変」というレベルではなかったと思う。  同じく、過去のオリジナル版をリメイクした「のび太の恐竜2006」や「のび太の新魔界大冒険」、「新・のび太と鉄人兵団」等の改変部分が、とても挑戦的な現代的アレンジに溢れていたこともあり、そういう新しい解釈が本作には無かったことはいささか残念だった。 (面白半分で遺伝子を弄んでしまったのび太の功罪や、実際は圧倒的暴力に従わざるを得なかったクラヤミ族の悲哀など、新解釈を加味できる要素はあったように思う。)  そして、個人的に最も不満だったのは、前述のタイムパトロール隊による「内偵捜査」のくだりが本作では存在しなかったことだ。 本作においては、ギガゾンビの謀略はドラミちゃんの「通報」により発覚するようになっており、それによりのび太たちが自分たちだけで危機を乗り越えるようには描き直されているけれど、一方でストーリー的な機知とカタルシスには欠ける印象を覚えた。 もしも、のび太たちが「家出」をせずに、古代人たちとの奇跡的な邂逅を果たさなければ、ギガゾンビの「歴史破壊」は成就してしまっていたわけで。 そう考えると、本作のタイムパトロール隊には苦言を呈したくなる。  が、しかし、本作もとい、本作のタイムパトロール隊には、そんな「苦言」を帳消しにし得る小粋な演出が用意されていた。 最後に登場するタイムパトロール隊の隊長が、原作漫画やオリジナル版では恰幅のいい“おじさん”だったのに対し、本作では妙齢な女性隊長に変更されている。 そして、そのキャラクターは、明らかに、同じく藤子・F・不二雄先生原作のSF漫画「T・Pぼん」に登場する“リーム・ストリーム”ではないか!  「T・Pぼん」では一介のタイムパトロール隊員だった彼女が、立派に成長を遂げ、「ギガゾンビ 歴史破壊未遂罪で逮捕する!」なんて颯爽と言い放つ姿を見せられては、共に観ていた5歳の息子の頭の上で、黙って親指を立てるしかないわけで。 そりゃあズルいよ。
[インターネット(邦画)] 6点(2020-12-30 14:27:15)
190.  ザ・コール
序盤から充満している不穏な空気感は、やはり韓国映画ならではのものであり、洗練された映像世界の中で主人公にひたひたと迫りくる「恐怖」が、この映画のクオリティーの高さを物語っていた。  「ザ・コール」という端的なタイトル、インフォメーションビジュアルから伝わってくるテイストは“ホラー映画”のそれだったが、実際、今作で展開されたストーリーは、ホラーでもあり、サスペンスでもあり、スリラーでもあり、SF・ファンタジーでもあり、普遍的な親子ドラマでもあった。 様々な映画的エッセンスが、重層的に、巧みに混ざり合い、独創性に溢れたストーリーテリングを見せていたことが、素晴らしく、なかなか忘れ難い作品に仕上がっていると思えた。  1本の電話が20年の時間を超えて、過去と現在を繋ぐ。 似たような着想やアイデアが組み込まれた映画は世界中に沢山ある。 ただそれらの作品の多くは、心温まるファンタジーや、家族愛を描いたものが多く、ここまで恐怖に振り切った映画は記憶にない。  オカルト、タイムパラドックス、シリアルキラー、映画的娯楽要素を極めて大胆に織り交ぜつつ、主人公の苦悩と絶望が二転三転しながら確実に深まっていく展開が斬新だった。 そして、ヒロインとして立ち回る主人公の合わせ鏡のように、存在し、悪魔的な存在感を高めていく過去の世界の連続殺人犯のキャラクター造形も素晴らしかった。  この殺人犯が、その異常性と残虐性を深めつつ、徐々にヒロインと対峙する“ダークヒロイン”として際立っていくことが、この映画のエンターテイメント性を更に高めた要素であることは間違いない。  このヒロイン、ダークヒロインを演じた二人の若い女優たちが両者とも素晴らしい。 主人公を演じたパク・シネは、この直前に鑑賞した「#生きている」での勇敢なヒロイン像も印象的だったが、華やかさと哀愁を併せ持った良い女優だなと思う。(コロナ禍の影響で主演映画が2作とも劇場公開中止になってしまったことは不憫だ) 一方、殺人鬼を演じた新星チョン・ジョンソは更に強烈だった。病んだ心を更に拗らせ、悪魔的な素養を覚醒させていく“禍々しさ”を見事な狂気で表現し切っていた。 今年観た「The Witch/魔女」の主演女優キム・ダミの見せた狂気も鮮烈だったが、韓国映画界の肥えた土壌は、若手女優層の面でも芳醇だなと思う。     映画は最後の最後まで加速を緩めずに、恐怖と絶望を突き詰める。  20年の年月を超えて鳴り響くコール音。 「奇跡」は、文字通り悪魔的な「災厄」に転じ、恐怖の螺旋が未来をぐるぐると絶望へと追い込んでいく。 絶望の“ベール”をめくられた主人公。その戦慄の極地で彼女は痛感しただろう。  誰が、悪魔を“コール”したのか?  私が、悪魔を救ってしまったのか?  いや、私が悪魔を生んだのか……と。
[インターネット(字幕)] 8点(2020-12-29 00:18:15)
191.  ワンダーウーマン 1984
先ず言っておくと、決して「精巧」な映画ではない。ストーリーは強引だし、様々な側面においてはっきりと稚拙な部分も多い。 映画的なテンションの振れ幅が大きく、まとまりがない映画とも言えるかもしれない。 でも、「彼女」は時を超えて、変わらずに強く、美しい。それと同時に、等身大の儚い女性像も内包している。 世界の誰よりも強く美しい人が、世界中のすべての女性と同じように、悲しみ、苦しみ、戦う。 その様を再び目の当たりにして、僕は、前作以上に高まる高揚感と、殆ど無意識的に溢れる涙を抑えることはできなかった。  舞台は、前作の第一次世界大戦下から70年近く時を経た1984年。“ワンダーウーマン”ことダイアナ(ガル・ガドット)は、最愛の人スティーヴ・トレバー(クリス・パイン)をなくした傷心を抱え続け、それでもたった一人正義と平和のために日夜身を投じている。 そんな折、古の神の力を秘めた“願いを叶える石”によって死んだはずのスティーブが数十年の時を経て甦る。奇跡的な邂逅の喜びに包まれるダイアナだったが、その裏では或る男の陰謀が世界を破滅へと導いていた。  序盤は、1980年代のアメリカ特有のサイケ感と、前作に対するセルフパロディを楽しむべき“コメディ”なのかと思った。 当代随一のコメディエンヌであるクリステン・ウィグが放つ雰囲気と存在感も、その印象に拍車をかけていた。 この序盤のテイストは、かつて70年代〜80年代に製作されていたアメコミヒーロー作品に対するオマージュでもあったのだろう。(エンドクレジットにおいてサプライズ登場する或る人物も、当時のアメコミ映像化作品に対するリスペクトだ)  1984年の世界のビジュアル的な再現に留まらず、良い意味でも悪い意味でも“おおらか”で“ユニーク”な80年代の娯楽映画の雰囲気までもが、今作には充満していた。 それはそれで娯楽映画としてなかなか味わい深いテイストであったし、実際楽しい展開だったと思う。  だがしかし、そこから展開された今作のストーリーテリングは、「時代」という概念を超えて、極めて現代的なテーマと、まさにいまこの瞬間の「世界」における辛苦をまざまざと突きつけるものだった。 その語り口自体はどストレートであり、王道的だ。だが、“ワンダーウーマン”だからこそ伝えきるメッセージ性のエモーションに只々打ちのめされる。  オープニングのダイアナの幼少期のシークエンスからてらいなく描き出されていたことは、真実を偽ることへの「否定」と「代償」。  この現代社会において、“偽る”ことはあまりにも容易だ。不正することも、嘘をつくことも、いとも簡単にできてしまう。 そして、名も無き者の一つの「嘘」が、さも真実であるかのように世界中に拡散され、後戻りのできない悲劇を生んでしまう時代である。  今作においてヴィランとしてワンダーウーマンの前に立ちはだかるのは、文字通り「虚言」のみを武器にしたただの「男」である。 彼は野心的ではあるが、世界中の誰しもがそうであるように、夢を持ち、家族を持ち、ステータスを得て、“良い人生”を送りたいと、努力をし続けてきた普通の男だと言えよう。 ただ、一つの挫折が、この男を屈折した欲望と偽りの渦に落とし込む。  その金髪の風貌や、クライマックスの全世界に向けた“演説”シーン等のビジュアルからも明らかだが、このヴィランのモデルは“前アメリカ大統領”に他ならない。 あまりにも利己的で傲慢な者が、異様な力(権力+発言力)を持ち、世界に向けて「発信」することによる社会的な恐怖と鬱積。 この映画に充満した“絶望”とそこからの“解放”は、アメリカという大国のこの“4年間”そのものだったのではないかとすら思える。  傲慢で愚かなヴィランは、怒りや憎しみを超えて、もはや憐れに映し出される。 そんなヴィランに対して、ワンダーウーマンが取った行動は、攻撃でも封印でもなく、「対話」だった。 それはまさに、今この世界に求められる“真の強さ”であろう。  「欲望」は世界中の誰もが持っていて、それを追い求めること自体はあまりにも自然なことだ。 しかし、世界の理を無視して、世界中の欲望のすべてが「虚像」として叶えられたとしたら、この世界はどうなってしまうのか。人間は何を「代償」として失うのか。 その真理と恐怖を、この映画(彼女)は、信念を貫き、力強く叩きつける。
[映画館(字幕)] 9点(2020-12-26 22:54:29)(良:1票)
192.  #生きている
ホラー映画は苦手だが、アクション性の高い“ゾンビ映画”であれば何とか見られる怖がり映画ファンにとっては、程よく恐ろしく、程よくエキサイティングな映画だった。  韓国映画とゾンビ映画の相性の良さは、昨年鑑賞した「新感染 ファイナル・エクスプレス」でも確認済みだったので、一定のクオリティは期待でき、実際そつなく仕上がっているし、終始ドキドキ、ハラハラしながら鑑賞することはできた。  主人公の設定が、団地に住みオンラインゲームに熱中する男子高校生ということは、韓国の現代の社会性をストーリーの中に反映する上で、効果的だったと思う。 舞台設定を主人公が済む団地の室内及び敷地内に限定して最後まで描き切ったことも、過剰なスペクタクル演出に頼らずに、突如として日常生活が一変したパニックを描き出すことができた要因だろう。  また、今年(2020年)に公開された映画に相応しく、“コロナ禍”による今現在進行中の「混乱」や「制限」を風刺する描写もあり、この映画がこの年に製作され、劇場公開中止の憂き目にあいつつも、Netflix配信で何とか世界配信に至ったことには意義があったと思う。  ただ、その一方で、タイムリーな題材、フレッシュな設定に対して、もう一歩、二歩、踏み込みが足りなかったとも思う。 アプローチこそ新しかったが、描き出されたストーリー展開や、その帰着は、あまりにもオーソドックスなものであり、ホラー映画としても、ゾンビ映画としても、サバイバル映画としても、捻りが足りないなと思ってしまった。 安易などんでん返しというようなことではなく、何かハッとさせられるラストの顛末が見たかったなと思う。  まあそれは、韓国映画の“土壌”が豊かであることをよく知っているからこその贅沢な注文なのだろうけれど。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-12-19 22:11:48)
193.  愛してるって言っておくね
自分自身が、「親」という存在になって9年半。 この12分の短編アニメに登場する「娘」は、愛娘とほぼ同じ年頃だ。  無論、悲しくてやりきれないし、理不尽さに対する憤りに心が張り裂けそうになる。 映し出される両親の虚無感は、極めてシンプルだけれど情感的なアニメーションによって、静かに、ゆっくりと、鑑賞者の心をも覆い尽くした。  この20年あまり、同様の悲劇のニュースが、かの国から絶えることはない。 自分の子が生まれてからも、幾度となく、無差別な銃乱射によって理不尽に奪われた子供たちの命を知る度に、とても他人事とは思えず身につまされてきた。  この短いアニメーションの中では、「惨劇」そのものが映し出されることはない。 ただ、大きな“星条旗”の下で、凶弾と子供たちの叫び声が響き渡る。その「意図」は明らかだろう。  「If Anything Happens I Love You(愛してるって言っておくね)」  この短いメッセージを、誰が、誰に対して、どのような状況で伝えたのか。 それが明らかになったとき、堪えてきた涙腺は一気に決壊した。   12分という短い時間は、必然的に“悲しみ”の感情でほぼ埋め尽くされている。 でもこのアニメは、ただ悲しいだけ、ただ辛いだけの作品では決して無い。  彼らにとって何よりも大切な娘を失ってしまった喪失感は、絶望と共に深まると同時に、彼女が確かに存在したことも確実に浮き彫りにしていく。  転がったミートボール、おかしな壁の修繕跡、Tシャツの残り香、思い出の写真や音楽、そして、彼女と過ごした記憶そのもの。  彼女の短い人生の中の無数の思い出は決して無くならず、思い出すことがまた思い出となっていく。 悲しみが消えて無くなることはないけれど、それでも生きていく。 人間は、そういうふうにできている。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-12-19 22:10:49)(良:1票)
194.  シカゴ7裁判
人類史において「正義」というものほど、絶大なパワーを持つ言葉でありながらも、それが指し示す意味と範疇がひどく曖昧で、都合のいい言葉はない。 世界中の誰でもが強い意志を持って掲げられる言葉だからこそ、とてもじゃないが一括にできるものではなく、本来、その是非を裁判なんてもので問えるものではないのだと思う。  今作で描き出された「裁判」においても、それぞれの主張はどこまでいっても平行線であり、折り合える余地などそもそもない。 なぜならば、被告として裁かれる活動家の面々は勿論、悪辣に描かれる裁判官にしても、微妙な立ち位置で己の職務を全うしようとする検事にしても、この映画に登場するすべての登場人物たちは、ただひたすらに己の「正義」を貫こうとしているのだから。  この裁判劇は、様々な側面から「正義」という言葉の意味とその本質を問い、その価値も、その危険性も、平等にあぶり出している。 正義を掲げる者たちが、突発的な怒りによって、いとも簡単に暴力を生み、無秩序な憎しみの螺旋に引きずり込まれるという事実。 すべての争い、すべての戦争も、詰まるところ「正義」と「正義」の衝突であるというあまりにも空虚な皮肉。  エディ・レッドメイン演じる主人公は、その現実に、自分自身が無意識のうちに呑み込まれていたことに気づき、思わず言葉を失う。  だが、それが愚かな人間の拭い去れない本質である以上、もはや絶望しても仕方がない。 自分自身の愚かさと罪を認めつつ、それでもなお、自分自身を駆り立てる「正義」を、自分の言葉で叫び続けるしかないのだ。 ラスト、主人公の“最終陳述”で発されたものは、主張でも、弁明でもなく、彼らを突き動かした「動機」そのものだった。  2020年、全世界的に混迷を極めたこの年にこの映画が“公開”されたことの意義はあまりにも大きい。(コロナ禍の影響による劇場公開断念を受け、いち早く権利を買い取って世界配信したNetflixの功績は大きい!) 大統領選に伴う大国アメリカの分断は、今年の混迷を象徴的に表しており、この映画で描かれた時代の空気感とも類似する。 この映画の主人公の手元にある“リスト”と同様に、今この瞬間も、社会の犠牲者はリストアップされ続けている。 映画の着地点と同じく、今この世界に必要なことは、一方的な「正義」の主張などではなく、大局的な見地で、この酷い「現実」を今一度直視することだろう。  次のメッセージが大衆の声によって高らかに発せられ今作は終幕する。  The whole world is watching !(世界が見ている!)  今まさに、私たち一人ひとりが、自分の目で世界の現実を見て、動き出さなければならないのではないか。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-12-19 22:09:32)(良:1票)
195.  ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 Birds of Prey
2016年の「スーサイド・スクワッド」は、その年の期待値No.1クラスのエンターテイメント大作だったけれど、率直な感想としては、「“ハーレイ・クイン”に扮したマーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画」であり、もし彼女の存在が無かったとしたら年間ワースト級の作品として記憶されていたに違いない映画だった。 恐らくその感想は、世界中の多くの映画ファンにとっての共通認識だったようで、映画作品としての失敗をよそに、割と早い段階で、“ハーレイ・クイン”の単独映画の企画は持ち上がっていたような気がする。  そういうわけで、今作に至っては、問答無用に「ハーレイ・クインがワルくて、カワイイだけでサイコー!」な映画になるはずだった。 そして、概ね、そのような映画に仕上がっているとは思う。 映画の鑑賞中は、作品の主人公らしく終始大立ち回りを繰り広げる我らがダークヒロインの活躍を楽しく見ることができた。  ただ、エンドロールを終えて芽生えていた感情は、一抹の物足りなさだった。いや、一抹では足りないかもしれない。時間が経つほどに、二抹も、三抹も、“求めていたもの”との乖離に気づき、不満として膨らんでいる。  ある程度時間が経ち、冷静になってみると、不満の出どころは明確だった。 詰まるところ、前作「スーサイド・スクワッド」に登場した“ハーレイ・クイン”と比較して、今回の彼女はその“悪辣さ”がまったくもって希薄になってしまっている。 前作のハーレイ・クインは、もっと悪く、もっとイカれていて、だからこそそこに同居する文字通り悪魔的なキュートさが堪らなかった。  そもそもが「バットマン」に登場するヴィランズの一人であるわけだから、悪くてナンボ、イカれててナンボのキャラクターだろう。  しかし、今作では主人公らしく振る舞いすぎており、彼女の感情が露わになるほど、その魅力が半減していくように感じた。 いくら原作アメコミとは一線を画する単独のスピンオフ映画だとはいえ、キャラクターとしての性質そのものがブレ過ぎだったのではないかと思う。  ただ、彼女がそういう“らしくない”キャラクターに陥ってしまった理由も至極簡単で明らかだ。 ずばり、“ジョーカー”との破局により、恋狂う対象が不在だったことにほかならない。 “ハーレイ・クイン”というキャラクターは、立ち位置が悪役だろうが、正義の味方だろうが、主人公であろうが、先ず第一に悪のプリンス“ジョーカー”に恋し、狂っていなければ、成立しないのだ。  もしこのスピンオフ映画の企画において、昨今の映画のストーリーテリングにおける一つの潮流とも言える、独立した女性像、男に媚びない女性像、そういう類のテーマを定型的に掲げていたのだとしたら、それはお門違いで、ナンセンスだったと思う。  たとえディズニーのプリンセス映画が、「王子様不要!」「ありのままで!」と力強く氷の牙城を建てたとしても、ハーレイ・クインだけは、誰に馬鹿だと言われようと、誰に愚かなだと言われようとも、ひたすらに恋に溺れ、乱れ、破滅的に暴れまわり、ひたすらに“王子様”の愛を求める。 それこそが、僕たちが彼女に求めた「娯楽」だったのではないかと思う。  「恋愛至上主義」という生き方が小馬鹿にされる時代だからこそ、悪も正義もないがしろにして、只々惚れた男のためにバットを振り回す姿を見たかったなと。  来年(2021年)公開予定のリブート版「ザ・スーサイド・スクワッド」においても、マーゴット・ロビーは“ハーレイ・クイン”役として続投が決定しているとのこと。そして監督はジェームズ・ガン! 過剰に品行方正を求めるちょっと窮屈な時代だからこそ、ぶっ飛んだダークコメディ、そして、また悪魔的に魅力的なハーレイ・クインを観たい。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-12-07 23:09:11)
196.  見知らぬ乗客
初冬、久しぶりのヒッチコック映画を鑑賞。  列車に乗り合わせた厚かましいくらいにフレンドリーな男が、徐々にその異常な本性を現していく様が怖い。 序盤のシークエンスのみでは、列車内で初めて顔を合わした二人の男のどちらが、この映画の主導権を握っていくのか判別が付きづらい。 というのも、私生活においてトラブルを抱え、明確な「殺意」を表すのは、フレンドリーな“見知らぬ乗客”の方ではなく、主人公のテニスプレイヤーの方であり、彼が激情のあまり殺人を犯してしまうのかとミスリードされる。  しかし、次の展開では、見知らぬ男の方の狂気が、不気味に、淡々と映し出され、主人公と同様に、我々観客も戦慄させられる。  このあたりのストーリーテリングのテンポや間の取り具合が、1950年代の映画としては非常にサスペンスフルで洗練されていると思う。 殺人の舞台となる夜の遊園地や、犯行の瞬間をメガネのレンズ越しに映し出す演出など、流石はアルフレッド・ヒッチコックだと思わせる映画術がしっかりと冴え渡っている。  序盤は「交換殺人」というキーワードを主軸にしたサスペンス映画の様相だったが、男(見知らぬ乗客)の本性が現れてからは、この男がストーカー的に主人公の前に出没し続け、殺人を強要していくスリラー映画として、映画作品自体がその“本性”を現す。 その映画的な塩梅も、古い映画世界に相反するようになかなかフレッシュだった。  テニス会場のラリーの応酬に対して一斉に左右に首を振る観客席の中で、一人微動だにせずこちらを見つめてくる男の不気味さや、ラストの“超高速回転木馬”のスペクタクルに至るまで、終始観客の心理を鷲掴みにして離さないヒッチコック監督の映画づくりを堪能することができた。 そしてその“ラリーの応酬”や、ちょっと“廻りすぎなメリーゴーラウンド”は、映画の中で対峙する二人の男の「運命」を象徴させているようで、そういう隠喩表現も巧みだ。  キャストの中では、サイコパスな殺人者を演じたロバート・ウォーカーがやはり印象的。 非常に真に迫った名演だと思えたのに、名前を聞いたことが無いことを不思議に思ったが、この映画の後に32歳の若さで急死したとのこと。 どうやら少年時代から心に傷を追った生い立ちだったらしく、俳優になった後も妻の不倫やアルコール依存等が重なり、精神的な不安と混乱を抱え続けていたようだ。  そんな彼にとって、この作品の役どころはある意味まさに「適役」だったのだろうが、俳優本人の人生の不遇を思うと複雑な思いにかられた。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-12-05 20:31:59)(良:1票)
197.  映画ドラえもん のび太の新恐竜
「科学」とは、“未知”なるものを想像し、探求することだと思う。  未だ知らぬモノやコトを追求し続ける学問である以上、導き出されていた事実が、新たな探求によって訂正されたり、覆されたりすることも当然起こり得る。 そういう観点を真摯に踏襲したこの映画は、稀代のSF漫画家が生んだ「ドラえもん」の冠に相応しく、極めて科学的な秀作だったと先ず断言したい。  昨年の春に前作「のび太の月面探査記」のエンドロール後に映し出された次作のインフォメーションを観た時には、正直、「また恐竜か」とは思った。  思わずそう感じてしまうくらいに、ドラえもんファンにとって「恐竜」という題材は王道的だ。 ドラえもん映画の第一作が「のび太の恐竜」であることは言わずもがな、声優陣が一新された新映画シリーズにおいても同作のリメイクである「のび太の恐竜2006」が一作目であったことからも、ドラえもんにおいて「恐竜」という題材が原点であることは明らかだろう。  それ故に、「またか」という新鮮味に欠ける印象を持ってしまったことは否めない。 「無知」を承知で言うと、「新恐竜」というタイトルに対しても、「のび太の恐竜」の更なる新バージョンかとやや懐疑的に捉えてしまっていた。  そして、映画の冒頭、今作はまさに「のび太の恐竜」のプロットを辿るような既視感を、我々オールドファンに与えてくる。無論、疑念や不安は益々増大した……。  が、それらはすべて自分の「無知」故の安直な所感であり、製作陣の巧みなミスリードだった。  先ずは「新恐竜」という言葉に対しての己の無知と誤解を恥じたい。 「新恐竜」とは、6500万年前に恐竜が大量絶滅したというかつての定説に異を唱え、一部の種が環境に適応し、鳥類などに進化をして地球上に生き続けたという新たな考察を指す言葉だった。 恐竜が鳥に進化したという説については勿論知っていたが、「新恐竜」というワードを把握していなかったことが、自分の中で誤解に繋がってしまったようだ。  だが、その誤解により、製作陣のミスリードにまんまとハマってしまったことは、今作のエンターテイメント性を堪能する上で、幸福なことだったとも言える。  「のび太の恐竜」のプロットを三度踏襲するようなストーリーテリングと、のび太が育てた恐竜たちとのウェットな描写に対して、少々テンションが落ち始めた頃に、今作は、劇的な転換を見せてくれる。  それはまさしく、“ミッシングリンク”をこの作品が見出した瞬間だった。  「恐竜たちを元の時代に返す」という既視感に溢れた物語が、新しい科学的知見に基づいた「生物の進化」を描き出した壮大な物語に転じる。 のび太が救ったのは、双子の恐竜ではなく、この星の進化そのものだったわけだ。  少年の小さな勇気と優しさが、あまりにも大きな時流を生み出す。 これぞ「科学」、これぞ「SF」、これぞ「ドラえもん」だと思った。   F先生が描き出した「のび太の恐竜」が名作であることは勿論揺るがない。 ただ、かの作品が、科学的空想(SF)の物語である以上、科学の進化に伴う事実とされていたことの変遷は不可避だ。 恐竜はもっとカラフルだったかもしれないし、酸素濃度の高い世界で人間は生きられないかもしれない。そして、恐竜は鳥に進化して今も生き続けているのかもしれない。  そういう新しい考察に目を輝かせることこそが、F先生が愛した「SF」の醍醐味であり、「ドラえもん」の世界観だろうと、改めて強く思う。    その偉大な原作者に対するリスペクトを根底にしきつつ、新しい時代に相応しい「SF」を導き出した今作の製作陣を称賛したい。 「新恐竜」と題しながらも、あの愛すべき“フタバスズキリュウ”をエモーショナルに登場させてくれた心遣いに、涙が止まらなかったことは言うまでもない。
[映画館(邦画)] 8点(2020-12-03 23:36:00)
198.  ジョジョ・ラビット 《ネタバレ》 
強く美しい母親が、愛する息子に向けてカチッと独特の“ウィンク”をする。 もしかしたら、あのウィンクは所在不明の夫が、彼女に対してよくしていた“仕草”なのかもしれないな。と、思った。  そんなことを暗示する描写は特に何もないのだけれど、非情な戦乱の中、優しく、明るく、息子を愛し、「できること」をし続けるこの気高き女性は、きっと壮絶な経験と、深い愛情に包まれた、濃密な人生の上に立っているのだろうということを想像させた。  そういうことを何よりも先んじて言及したくなるくらいに、スカーレット・ヨハンソン演じる主人公“ジョジョ”の母“ロージー”のキャラクター造形が素晴らしく、この映画の根幹を担っていたことは間違いない。 詰まるところ、彼女の一つ一つの言動こそが、息子に対する“愛情”と“導き”であると同時に、この映画のテーマに対する「真理」であった。  「愛は最強の力よ」と、母親は息子に言う。  戦禍の混乱と、人間の心の闇が渦巻く状況下でのその彼女の台詞は、字面のみを捉えれば、無責任で能天気な印象を受けるかもしれない。 しかし、母親であり、一人の女性であり、信念を持って生きる人間である彼女が放つその台詞には、彼女の「人生」そのものに裏打ちされた言葉以上の重みと意味が内包されていた。 彼女はその言葉を息子に向けて発してはいるが、彼に対して背を向けており、目線はどこか遠くを見ているようでもあった。  その他の数々の台詞や行動においても、その一つ一つが魅力的かつ説得力をもって、息子と、我々観客に突き刺さるのは、それらの言動の裏に見え隠れする彼女の人生に、ドラマ性と真実味を感じるからだ。  劇中、主人公の母親についての描写は、敢えて意識的にぼかされている部分が多い。 2年間音信不通の夫の正体、長女の死の真相、サム・ロックウェル演じるクレンツェンドルフ大尉(最高!)との関係性、そして「できること」をする理由と、“あのようなこと”になってしまった事の顛末。  そこには、メインストーリーとして描かれる主人公の少年の葛藤と並行して展開していたのであろう重厚なサイドストーリーがあるに違いない。 (そのサイドストーリーの映画化も充分にあり得るのではないか。そのためのスカーレット・ヨハンソン起用だったことも充分に考えられる。)  随分と主人公の母親の話を長々と綴ってしまったが、無論この映画は10歳の純粋な少年の目線から描き出される確固たる「戦争映画」である。 ただし、その表現方法はまったくもってオリジナリティ豊かなイマジネーションに満ちあふれていた。 その特異な映画世界には、「マイティ・ソー」を次元を超越した“極彩色映画”に転じさせてみせたタイカ・ワイティティ監督の異才がほとばしっている。  今まで観てきたどの戦争映画よりも“可笑しい”。そして、だからこそあまりにも“悲しい”。  混乱の最果て、“滑稽さ”が極まる戦禍の只中に放り込まれる少年。 戦場シーンは数多の映画で観てきたけれど、少年が信じた全てのものが、脆く、愚かに、崩壊していく様を目の当たりにして、只々涙が止まらなかった。 そこに映し出されていたものは、通り一遍的な激しい戦場の凄惨さではなく、10歳の少年の心を蝕み覆い尽くす「絶望感」そのものだった。  “世界の終わり”を、その小さな身体一つで受け止めて、あまりにも大切なものを失い、深く大きく傷つき、それでも少年は命をつなぐ。 結べなかった靴ひもをぎゅっと結び止め、“独裁的”なイマジナリーフレンドを窓の外に蹴り飛ばす。 それは「鏡」に映った自分が、本当の意味で大人になった瞬間でもあった。  ジョジョよ、さあ踊ろう。好きなだけ、自由に、踊ろう。
[映画館(字幕)] 9点(2020-12-03 23:08:30)
199.  キャッツ
本格的な舞台ミュージカルを観劇した経験が無いので、勿論「キャッツ」というミュージカルを観たことはない。 無論、タイトルくらいは聞き馴染みがあるけれど、どのような物語なのかすら無知な状態で、映画鑑賞に至った。  映画作品として食指が動いた理由は、ミュージカル映画そのものは好きであるということ、「レ・ミゼラブル」のトム・フーパーが監督であるということ、そして何よりも“猫”の造形に言葉にならない“異様さ”を感じたからだ。  「キャッツ」が猫の世界を描いていること自体は物語を知らなくても何となく想像できていたけれど、予告編で流れた映像から、キャラクター造形が常軌を逸していることは明らかであり、そのビジュアルはある意味衝撃的だった。 絶妙なセクシーさと、絶妙な気味悪さ、総じて言える「奇妙」さは、何かフツーじゃない映画を観させてくれるのではないかという期待感を生んだ。  結果的に言うと、その期待感は決して外れてはいなかった。  全身CG処理された“猫人間”が繰り広げるパフォーマンスは、予告編を観た時と同様に衝撃的だったと言える。 世間一般では、そのCG合成による“気味悪い”レベルの艶めかしさに対してストレートに嫌悪感を抱く人も多いようだが、個人的にはその行き過ぎた感じがキライじゃなかった。 アレが「猫」かどうかは置いておいて、人間界以外の世界を描く物語として、生々しい“別モノ”の生物感を表現しようとした試みは、方向性的に正しかったと思える。  ただし、明確な難点の一つとして、映像世界全体をCGに頼り過ぎてしまっている印象は覚える。 CGとリアルな撮影素材の境界が混濁してしまっていることにより、演者たちのパフォーマンス自体もどこまでが生身の動きなのかの判別が付きづらくなっている。 つまり、リアルなダンサーたちのライブ感がエモーショナルに伝わってこないのだ。 それはミュージカル映画が孕むべき「熱量」の欠落に直結することであり、決して小さくないマイナス要素だったと思う。  そして、個人的に何よりも衝撃的だったのは、「物語」がほぼ「物語」としての形を成してなく、「狂騒劇」とでも言うべき、理性が消失した“騒ぎ”の中で終止するということだ。 主人公の若猫がとある猫コミュニティに迷い込み、年に一度の“舞踏会”の狂騒に巻き込まれたかと思えば、入れ代わり立ち代わり“お披露目”される「演目」が延々と繰り広げられる。 そこには分かりやすい成長譚もなければ、恋愛模様や対立劇も無い。(実際は無いことはないが、どうでもいい感じで流される)  ただひたすらな猫たちの宴。まさに、猫の猫による猫のための猫映画。 ストーリーらしいストーリーが無いまま、どんどんとクライマックス的な展開に進んでいく常軌を逸した映画世界に対して、“マタタビ”を嗅がされたかのように茫然自失状態であった。   面白かったか面白くなかったかで言うと、きっぱりと「面白くない」し、極めてバランスの悪い失敗映画だろうとは思う。  ただ同時に圧倒的に「変な映画」であったことも間違いないし、予想通りにその「奇妙」さはフツーじゃなかった。(ネズミとゴキブリを調教する“おばさん猫”のくだりとか最高にイカれてる)  大団円のラストシーンでジュディ・デンチ御大が“カメラ目線”で我々に宣言してくる通り、要は「(私たち)お猫様の映画にとやかく言うんじゃないよ!」ということなのかもしれない。
[映画館(字幕)] 4点(2020-11-26 00:07:16)
200.  プロメア
“縦横無尽”と“縦横無尽”が掛け合わされたようなアニメーションが、冒頭から怒涛のごとく繰り広げられる。 そして、主人公をはじめとするキャラクター紹介カットのみならず、一つ一つの技名や、悪役の登場シーンにも漏れなく挟み込まれる“大見得”カット。 主人公のキャラクター性を指して、「馬鹿」というワードが連呼されるが、まさしく問答無用の“馬鹿映画”の世界観に順応することに時間はかからなかった。  ストーリーは極めて「類型的」ではある。「馬鹿」がつくほどに真っ直ぐで熱い主人公が、社会と社会から“悪役”と名指しされる側との狭間に立ち、真の正義を見極めて、世界を救う話。 世界中の数多のアドベンチャー映画、ヒーロー映画で描きつくされてきたストーリーライン(型)だろう。 けれど、その「型」こそが、この映画の主人公の美学でもあり、作品としての本質でもあろう。 或る極東の島国の“火消し”の様式を信奉する主人公の生き様と、そのストーリーの性質は、しっかりと合致している。  実際、ストーリーそのものに新しさは無いのかもしれない。 だが、圧倒的にアグレッシヴなアニメーション表現と、臆すること無く馬鹿馬鹿しい娯楽性が、稀有なエンターテイメントを生み出す。 鑑賞者の趣向には大いに左右されることだろうが、ここまで振り切ってくれれば、個人的には大好物であり、終始ニヤニヤが止まらなかった。  声優陣では、元祖キャラクター俳優の松山ケンイチが主人公像にマッチしており、バディとなる早乙女太一との声質の相性も良かった。 そして、珍しく悪役にキャスティングされた堺雅人は、野望と陰謀を振りかざす権力者を嬉々として演じており、キャラクターのビジュアル的な変貌を超越して憑依しているようだった。  「ジャパニメーション」なんて言葉が定着して久しいが、連綿と継承されてきた表現を更に進化させて、新しいセカイを見せてくれるこの国のアニメ制作の現場には頭が下がる。 何百人、何千人、何万人のアニメ制作スタッフの、何十年にも渡る創意と工夫と犠牲の上に、この文化は醸成されてきた。 それは、この映画の主人公と同じく、「馬鹿」がつくほどに愚直で熱い信念によって貫き通されてきた「正義」だと言えよう。 そう、彼らは、これからもアニメで世界を救い続けるんだ。
[インターネット(邦画)] 8点(2020-11-26 00:03:48)
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