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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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281.  おじゃる丸 約束の夏 おじゃるとせみら 《ネタバレ》 
【梅】さんのレビューで小生の言いたいこともほぼ書き尽くされているのですが、ちょっとだけ・・・。  不思議な少年せみらを、いつもの丘の上の大きな木の下で待っているおじゃる丸たち。でも、せみらは現れない。ふと見ると、夏の終わりを告げるかのようにセミたちが死んでいる。その時、おじゃる丸の見開かれた瞳が、かすかにゆれるのだ。そして、「まろは、夏が少し好きになったでおじゃる」とつぶやく…。  一緒にいたカズマや金ちゃんたちではなく、おじゃる丸だけがせみらという少年の“正体”に気づく。それを台詞ではなく、ただ瞳の中の光のゆらめきだけで表現する繊細さに、ぼくという大人の観客は胸を打たれる。あるいは、映画の半ばで、トミーじいさんたちがせみらを見て、まだ子どもだった時の夏休みに出会ったことを思い出す場面。モノクロームの写真風に描き出されるそこでのせみらは、いかにも昔の少年らしくランニングシャツ姿だ。そんなささやかなディテールにひとつにも、上質のノスタルジーが香ってくるかのようじゃないか。  誰にでも、忘れられない夏がある。そしてそれは、いつも過ぎ去ってからはじめて気づかされる…。そんな、多分にセンチメンタルな、でもかけがえのない感情を思い起こさせてくれたこの作品。ぼくはとても好きです。  ・・・と、また例によって長くなりました。スミマセン!
[地上波(字幕)] 8点(2005-07-22 15:55:08)(良:1票)
282.  ラブ・アンド・ウォー
劇場公開当時に見たっきりなので、きちんとしたレビューが書けそうにありません。でも、少し思うところがあるので、ちょっとだけコメントさせてください。  …この映画で未だ印象に残っているのは、サンドラ・ブロック扮する看護婦が、常に“小声”でしゃべっていたことです。いや、彼女だけじゃない。年下の青年ヘミングウェイも、その他の登場人物も、誰もが決して大声を出したり、怒鳴ったりしなかったんじゃないか。第1次世界大戦の戦場を舞台としながらも、そこでは、みんなが小さな声で愛を告白し、喜び、嘆き、生き、死んでいく…。まるで、人々がすべておのれの「運命」をあらかじめ知り、受け入れているかのような、そんな小声。そしてそこから醸し出される、不思議な哀しみの感情。  たぶんそれは、この映画の物語が、ヒロインである看護婦の視点から描かれているからだろうと思います。それも、遠い昔の出来事として振り返る者のまなざしによって。  …単に懐かしいんじゃなく、今も悲哀と心の痛みをともなった「過去」を想い返すとき、それはきっとこうした“小声”の光景に他ならない。大声で泣いたり、わめいたりするより、こんな風に静かな声で語られる「過去」の方が、より深く、哀しく、その感情を伝えられるのではないか…。  ちょっとだけ、と言いながら例によってまた長くなりましたが(笑)、ぼくにはこれが、そういった“小声”のデリカシーを持った最近では稀有な映画だという「感動」が今なお鮮明に残っているんです。美しいメロドラマだと想います。
8点(2005-03-25 12:08:40)
283.  火星人地球大襲撃 《ネタバレ》 
【なにわ君】さん、ぼくはかなり以前に見たっきりですけど、この映画が大好きなんです! 地下鉄工事現場で謎の宇宙船が発見され、触れた者は奇怪な幻覚に錯乱状態になるという序盤から、何となく『ミミック』を想わせるサスペンスフルな趣にもうワクワク・ドキドキ。やがてその幻覚が火星人の「思念パワー」によるもので、宇宙船の中から巨大な昆虫型の火星人の死骸が現れ、博士が火星での「最終戦争」のカタストロフィを“幻視”するあたり、「ああ、エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』でもこの設定を頂戴していたっけ」と、もう完全にストーリーに没入。そして火星人の思念パワーが全開となり、ロンドンの街に邪悪なエネルギーが実体化して人々を狂乱させるクライマックスは、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』と同じじゃん! と大興奮でありました。何より、あのゆらゆらとそびえるエネルギーの塊の、実に「悪魔」的な視覚イメージの卓抜さ!  そう、このたいして予算もかかっていそうにないSFスリラーは、前述の通り、その後に作られた数々の大作映画の「原典(オリジン)」として、未だその魅力を喪っていないとぼくは思っています。いわゆる「侵略ものSF」でありながら、エイリアンを未知の怪物とせず、“攻撃本能”と“憎悪”の感情の増幅されたもの、とするあたり、これがまぎれもないH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の、巧妙な翻案であることを証明するものでありましょう。そしてウェルズの小説が、戦争と破壊の「黙示録的世紀」だった20世紀への予言と警鐘として読み得るように、この映画もまた、ひとつの「アポカリプス」の現前化として創られていることを、ぼくは信じて疑いません。  …クライマックスで、あの巨大なエネルギーの塊を「アース線」の原理で“消滅”させるあたりも、戦いの神「マルス(=火星)」に対する地球(=アース)の勝利を謳う《寓話》としてお見事! 怪奇ゲテモノ映画専門のハマー・フィルム製作であるこの作品、なかなかどうしてスミに置けない小さな大傑作だと思いますですよ。
8点(2005-03-23 14:16:52)(良:1票)
284.  ターミナル 《ネタバレ》 
別にトム・ハンクスが出演して、「空港」が重要な舞台になっているからと言うんじゃないけれど、この映画はやはり『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』との関連で語られるべきなんだと思う。設定も、物語にも、何のつながりはない。でもこの2本は、ひとつの〈主題〉において連続している。つまり、〈父〉という主題において。  あの作品のディカプリオ演じる主人公は、実の父親を“捨てる”ことで、トム・ハンクス扮するFBI捜査官という理想的な「父親(的存在)」を得る。つまり主人公は、父親を心の中で「殺す」ことによって、ようやく立ち直ることができたのだった(その後、主人公の父親は本当に死んでしまう…)。そして今回はトム・ハンクスが「息子」を演じ、亡き父親とのある“約束”を果たすために、空港内で何ヶ月も足留めを食らうという不条理な悲喜劇をサバイバルしていく。あきらかに『キャッチ・ミー~』で見捨てた父親との“和解”こそが、この映画ではめざされているのだ…(そう考えたなら、なぜキャサリン・ゼタ=ジョーンズの客室乗務員とのロマンス部分があれほど“淡白”な描かれ方だったかが、納得できる。あの老インド人同様、彼女もまた「自己犠牲」によって主人公を救う、人間の“善意”の象徴であり、こう言って良ければ主人公の「主語天使(!)的存在」として配されていたのだと)。  少年時代、母親が弟と妹を連れて家を出たというスピルバーグ。「自分は捨てられた」、という悲しみと、残された父親との確執は察するにあまりある。そして彼は、そういった心象を常に密かなモチーフとして、自作品にしのばせてきた。特に近年の作品には、ますます私小説ならぬ「私映画」的傾向が色濃くなってきたように思える(たとえば、“母に捨てられた子ども”の物語としての『A.I』…)。しかも、それをあくまで大ヒット狙いの商業映画として成立させようとしているところに、ヒットメイカーとして宿命づけられた彼の“困難さ”があるんだろう。でもぼくは今回のこの映画を、ひとりのアダルト・チルドレン(!)だった監督による、おかしくて悲しい、けれど「救い」に満ちた美しい〈ファミリー・ロマンス(家族の精神史〉だと信じて疑わないのです。
8点(2005-01-21 17:26:02)(良:2票)
285.  冒険者たち ガンバと7匹のなかま 《ネタバレ》 
このアニメがテレビ放映されていた時、熱狂しつつ見ていました。で、改めてその総集編といった劇場版を見直して思ったのは、その絵のタッチの斬新さ。まるでエッチングのような線描画めいた背景は、色彩も、遠近感も、極端に簡略化と誇張が施されている。そこを愛らしいネズミたちや、十分に禍々しさを感じさせるイタチたちなどのキャラが、ストップ画を多用しながらも驚くほどダイナミックに動き回っているあたり、作画と演出は自らのセンスにこだわりつつ、あくまで「子ども向きアニメ」である一線を越えるぎりぎりのところで作品を成立させている。確かにダイジェスト風ではあるものの、苦難の旅をへて7匹のネズミたちが、イタチによって全滅の危機にある島のネズミたちを救うといったプロットに絞り込んだ構成は、1本の作品としても十分まとまっている。いたずらに衒学趣味に走ったり、キャラクターを特化することで“萌え”ることのみがすべてといった「オトナ(と言うより、大きなお友達)だまし」なアニメとは違う、作り手がおのれの全力を注いで「子どもたち」に勝負を挑む本作を、今さらながら高く評価したいと思う。
8点(2005-01-05 18:23:31)(良:2票)
286.  命ある限り(1949) 《ネタバレ》 
舞台は、戦争が終わって間もないビルマの野戦病院。その一室で帰国の時を待つ連合国の兵士たちは、リーダー格のアメリカ兵をはじめヤンチャ坊主のよう。そして、彼らを見守る美しく聡明な看護婦は、憧れの女教師といったところか。そんな彼らのところへ、誰にも心を閉ざしたスコットランド兵が送られてくる。さあ、ますます「学園ドラマ」風になってきたぞ。彼は、自分が余命いくばくもないことを知らない。この偏屈者で困った“転校生”の残りわずかな生を何とか幸せなものにしてやろうと、心優しきヤンチャ坊主どもの奮闘努力がはじまった…!   原作は舞台劇ということで、役者たちのアンサンブルが主体。確かに映像的な面白味には欠けるかもしれない。けれど、この作品全体から発散される「健康さ」はどうだろう。その屈託のない笑顔が素晴らしくチャーミングなロナルド・レーガン(!)をはじめ、「内面」を演じることが優れた演技だとするスタニスラフスキー・システム風の演技にまだ“毒されていない”俳優たちの、すがすがしい佇まい。そんな彼らを常に複数で画面におさめるため引き気味に置かれたキャメラと、思わせぶりな陰影など邪魔だと言わんばかりにたっぷり注がれたフラットな照明。今じゃ少年マンガですら取り上げられない「友愛」という主題ひとつをストレートに押し通すことで1本の映画を創ってみせた演出の、控えめな、だが慎ましい“野心”。…どれをとっても、そこには心洗われる清潔感とまっとうさがある。  1930年代の黄金期も過ぎ、やがてテレビの台頭で衰退期を迎える映画。それが決定的になる1950年代の直前に製作された本作は、たぶん映画が「健康」であり得た最後の時代の産物であり、“証人”だ。ぼくたちがこの地味な作品を見て、今なお感動し心打たれるのは、きっとそういった「健康さ」こそがもはや失われてしまった映画の「本質」のひとつだからに違いない。  映画の中で、スコットランド兵にみんなが贈った民族衣装のスカート(「キルト」でしたっけ?)。アメリカ兵たちは、「あの下に、下着をはいているかどうか」でスッタモンダする。で、最後の最後に彼らは「答え」を知るんだけど…ズルイぞ、観客にも教えろよっ!(笑)
8点(2004-12-28 18:04:07)
287.  恋は舞い降りた。 《ネタバレ》 
生死の境をさまよう唐沢寿明の主人公に、玉置浩二扮する死神(天使だっけ?)が、「これから最初に言葉を交わした女性を幸せにすると、あなたは生き返れます」と言う。で、その相手が、江角マキコ扮するバツイチ女…。でも、その時の唐沢寿明は、生きている人間には姿が見えないハズじゃないの? この明らかな“設定上のミス”あるいは説明不足に「あ~あ」と思う向きは、以後この映画のアラばかりが目についてしまうに違いない(事実、アラが多いのだから…)。  じゃあ、こう見方を変えてみよう。唐沢と江角の出会いそのものが、玉置の死神だか天使の仕組んだことだったとしたら? …と。 映画の中じゃまるでそういった説明や暗示すらないけれど、たぶん間違いないっ! そう考えることで本作は、「出来損ないのファンタジー」から「心優しいクリスマス映画」へと様変わりしてくれるでありましょう。  そう、不幸な男女が、運命(というか、それを操る神様や天使や“優しい”悪魔)の悪戯でスッタモンダの末に幸せを掴む。そんなささやかな“奇跡”を描くのが「クリスマス映画」と定義するなら、本作は日本映画史上最も正統的(!)な「クリスマス映画」だ。幼い頃、母親に捨てられた記憶から、愛を信じられない売れっ子ホストの主人公と、ダンナに浮気されて別れたヒロイン。共に愛することに臆病なふたりは、ハチャメチャな珍騒動を繰り広げつつも少しずつお互いの心を開いていく。その様子をヴィヴィッドに見つめていく眼差しは、「ああ、映画だなぁ…」という瞬間をいくつもぼくたちに用意してくれているのだ。いや、ホンマに。  つかこうへいゆかりのスタッフ・キャストが揃った本作には、確かに「小劇場っぽさ」が、例えば唐沢のセリフ回しなどにもうかがえる。けれど主人公が、今は社宅の賄い婦をやっている母親にそっと会いに行く場面をはじめ、人の心のひだをかくも深く、優しく描けるのは、やはり「映画」だけだ。そのことをあらためて教えてくれるこの作品は、ぼくにとって、ささやかだけれど忘れ難い「クリスマス映画」なのであります。    《追記》テレビ放映で再見。唐沢と江角の出会い、ちゃんと「見えるようにしときましたから!」という台詞があったんですね…(^^;) でも、やはりあれは玉置エンジェル(死神?)が、はじめっから仕組んでたんですよっ! そして、やっぱり「好き」です、この映画。
[映画館(字幕)] 8点(2004-12-25 13:04:57)(良:1票)
288.  大怪獣出現 《ネタバレ》 
この映画は、まだ中学生だった頃テレビで見ました。その後、数年してもう一度再見。なかなかのインパクトを与えてくれる出来映えで、未だに強烈な印象が残っています。(日本では、大幅にカットされた短縮版でのみ公開とか。でも、近年WOWOWで「完全版」を放映したんですって? …いいなあ、見たかった!)  ストーリー的には、1950年代に流行した“放射能によって変形・巨大化したモンスターもの”のひとつ。海底で甦った古代のカタツムリ(と、いろんな文献で紹介されているけれど、どうみてもトンボの幼虫のヤゴかイモムシやんか)軍団と、アメリカ海軍との攻防がメインになっているあたり、特に『放射能X』に似ている。  とは言え、パラシュート訓練中に海で行方不明になった兵士をめぐる冒頭(捜索中、血を吸われたミイラ状の死体が、突然海上に浮かんでくるショック演出の巧さ!)から、映画はサスペンスを途切れさせることなく見る者をグイグイと引き込んでいきます。何よりモンスターの、醜悪さと昆虫的攻撃性が見事に表現された造型の素晴らしさ!(…後に『魔獣大陸』とかいう映画を見たら、ソックリな顔したモンスターが登場していた記憶がある。この怪物クン、意外とあちらじゃ「有名」なのかしらん) どうにか彼らの巣を見つけて爆破し、やれやれと思ったら、調査用に回収してあった研究室の卵がふ化してヒロイン(と、その幼い娘)が絶体絶命のピンチというのも、ありきたりな展開ではありながら、伏線の張り方やその語り口がうまいものだから、思わず手に汗にぎってしまう。いやぁ、この映画の脚本と演出は、間違いなく一級品です。  当時のこの手の作品には、明らかに「政治的」寓意性(アカ狩り、冷戦といった“共産主義”のメタファーとして、当時の「モンスター」や「エイリアン」たちは描かれていたものだ)を持っていたり、「核」と“放射能”への恐怖を煽るものが大半だったのに対し、本作は、そういうイデオロギー臭や社会ヒステリー的な要素をほとんど意に介していない。その上でただ純粋に「怪獣映画」としての面白さ、それだけを主眼とした潔さこそが、ぼくには好ましい(皆さんがバカにするローランド・エメリッヒ監督の映画も、同じ意味でぼくは評価しています)。作品的には単なる「B級モンスター映画」なれど、山椒は小粒でもピリリと辛い、とは、こんな作品のことを言うんすよね!
8点(2004-11-20 14:25:12)(良:1票)
289.  女は夜の匂い(1962)
もう30年近く前(いやはや…)にテレビ放映で見て、その後10年ほど前にビデオで再見。以来、見直す機会に恵まれないものの、今なお小生には忘れ難い作品のひとつです。日本でのタイトルはレレレだけど(検索すると、まっ先に日本の小林旭主演作『ネオン警察・女は夜の匂い』だの、洋画ピンク作だのがヒットする…悲しい)、とっても小ジャレたフレンチ版赤川次郎(?)とも評すべきライトなロマンチック・ミステリーであります。  もっとも、何人もの女性と同時に付き合っているものの、一度も真剣に愛したことのないプレイボーイが主人公。コイツが女のひとりに偽証され、殺人犯として追われるものの、いつも女たちに匿われて救われる…というストーリーにゃ、思わず「ケッ!」とくる御仁も多いことでしょう。しかし映画は、そんなお調子者の男のスッタモンダを描きつつ、ちっともイヤミじゃない。むしろ、こんな男を好きにならずにはいられない女性たちの「愚かさ」を、むしろ“女ゆえの「可愛さ」”としてユーモアたっぷりに描いている。このあたり、監督のミシェル・ドヴィルと女性脚本家ニナ・コンパネーズの才気が光っています。  そして主人公は、逃亡と真犯人探しの中で、はじめて女性に心奪われる。けれどそれは人妻で、いくら彼が生まれてはじめての“純粋な愛”を捧げても、彼女の心は夫のものだと悟らされてしまう。その時、主人公は、鏡に映る彼女の後ろに立ち、彼女の顔を両手で包み込みながら「ほら、これが笑っている時のきみ。これは泣きベソ顔のきみ、おこりん坊のきみ、(目尻を吊り上げて)中国人のきみ…」と、百面相(?)ごっこのイタズラをするんだけど、そこには、はじめて女性を好きになったのに、どうしようもない男の悲しみとあきらめが痛いほど感じられる。そう、ぼくはこれほどロマンチックで、洒落ていて、でも切なくて、叙情的なシーンを、今にいたるまで見たことがない。だからこそ、このほとんど語られることのない映画のことが、未だ忘れられないのであります。  ヌーベルヴァーグ全盛の頃に作られながら、いかにもフランス的なコケットリーとソフィスティケ-トを持った、むしろ「古い」タイプの映画には違いない。けれど、ぼくはこんな「おフランス」な味わいも心から愛していきたい。…自分にゃ縁のないものだから、いっそうのこと(笑)
8点(2004-11-01 13:45:04)
290.  暁の用心棒
アメリカから渡ってきた売れない役者のトニー・アンソニーは、イタリア西部劇ブームの恩恵で何とか主役の座を得る。が、それは、スペインの僻地で細々と撮られた低予算のBマイナス・ランクの代物。彼自身の弁によれば、クライマックスなど単なるビルか何かの工事現場で、ブルドーザーをどけて撮影されたものだったという。 しかし、アメリカ政府がメキシコに貸与するドル金貨を巡り、盗賊一味と流れ者ガンマンが渡り合う映画は、マカロニ特有のサディズムだけではない、ある奇妙な「詩情(!)」を漂わせることとなった。…もちろん、それは“狙った”ものじゃあるまい。けれど、どんなに安っぽいものであろうと、その「詩」は、間違いなく作品を忘れ難いものにした。   …この映画には、科白が極端に少ない。主人公はほとんど喋らないし、誰かが何かしゃべっても、それだけで終わってしまう。つまり、「会話」がないのだ。 代わりに、拳銃やライフルの発射音、馬のいななきや蹄の音、鞭が風を切り肉を裂く音…など、ここには殺伐とした「音」が満ち満ちている。特にクライマックスの、ガトリング銃(ほら、『ラスト サムライ』で政府軍が撃ってた機関銃っす)を乱射する盗賊のボスと、トロッコで弾をかわしつつショットガンでボスを追いつめるガンマンの対決など、廃虚内に響きわたるガトリング銃とトロッコの軋む音の二重奏がほとんど「官能的」ですらあるだろう。この、沈黙と音の〈異化効果〉が、観客を「超現実的(!)」な世界へといざなっていく…。  そして、低予算ゆえにエキストラを雇えずほとんど人間のいない町や、貧相なセットが、逆にやはりシュールな異様さを画面に与えることになったということもある。人物の極端なクローズアップが多いマカロニものにしては、引き(ロング)の画の多いことも、超現実感をより強調していることも指摘しておきたい。例えるなら、それはパゾリーニの『奇蹟の丘』と同じ効果を作品にもたらしている…  いったいこれは、監督の才能ゆえなんだろうか。それとも、単なる偶然? …いずれにしろ、「酷い・汚い・どうでもいい」代物がほとんどのマカロニ・ウエスタンにあって、これはそのすべてにあてはまりつつジャンルを超越するに至ったものだと、少なくとも小生は信じている。  この名もない1本は、ささやかだけれど、「奇蹟」を実現した映画だ。
8点(2004-10-01 17:16:02)(良:1票)
291.  風の季節 《ネタバレ》 
この映画、中学生の時に名画座(…って、もう“死語”だけど)で見ました。なつかしいなぁ。  フランスの片田舎で、歳のはなれた学者の夫や子どもたちと暮らす妻。そこへ夫の助手としてひとりの青年が現れ、彼女に恋をしてしまう。“あなたはまだじゅうぶん若くて魅力的です”と告げられ、揺れる女ごころ。…ああ、実に「おフランス」な展開ザマス!  確かに、お話としては実にありがちな「年上の人妻と青年のロマンスもの」なんだけどね。でもこの映画、登場人物たちの心理を、風で揺れる木立や波立つ草原、沈みゆく夕陽などの自然描写によって語らせるあたりが心憎いんだな。決して科白などコトバに頼らずとも、南フランスの豊かな自然と、何度も奏でられるモーツァルト交響曲第21番の甘美な一節があれば、かくも繊細な陰影に富んだ心理のあやを描きうる。…ドラマというより、これは一編の“詩(ポエジー)”に他なりませぬ。  結局、肉体的に結ばれないまま、年上の女は元の平穏な生活に戻る。でも二人が別離を迎える前日の夜、映画はこんなシーンを用意する。夜更けの散歩から帰り、それぞれの部屋で床につくふたり。女が服を脱ぎ、青年も服を脱ぐ。そしてベッドのシーツを女がめくれば、青年もシーツをめくり上げる。ベッドに身を横たえる女。青年もベッドに横になる。女の眼差し。青年の眼差し。…と、それぞれを交互に映し出すことで、あたかもふたりが同じベッドで眠ろうしているかのよう錯覚を観客に与えるんである。…まだ中房だった小生にも、このシーンは深く印象的だった。単に小手先の編集トリックを弄したんじゃなく、彼らが少なくとも意識の内において「貫通(!)」したことを、この短いカットバックは鮮やかに描いてみせたのだった(そしてその、何とエロチックだったこと!)。  『美徳のよろめき』とは、たぶん三島由紀夫の小説の題名だったと思うけど、フランスの映画や小説において人妻が“よろめく”のは、間違いなく「美徳」だ。そしてこの映画は、スタンダールの『赤と黒』にはじまる「人妻の不倫の美」の系譜の、慎ましくも美しい継承なのだと思う。(主演の人妻を演じたのが、マリー・デュボワ。彼女の名前も、フランス文学にその名を残すヒロインの名を芸名にしたものだ。う~ん、隅々までさり気なく凝ってますね。さすが、元『カイエ・デュ・シネマ』誌編集長のバルクローズ監督!)
8点(2004-09-29 19:59:26)(良:1票)
292.  ヴァン・ヘルシング
そう言えば、あの『ハムナプトラ』だって本来は、ユニバーサル映画の古典的ホラー『ミイラ再生』だったんだよなぁ。 で、今回はいよいよユニバーサル・ホラーの主演モンスターたち揃いぶみできたかあ! …たぶん、先に発表された『リーグ・オブ・レジェンド』の内容を聞いて、「あ、俺もそのネタいただき!」てなもんで、嬉々としてデッチあげた企画なんじゃないかな。  そして出来上がったのは、例によってノーテンキな笑いとアクションとサプライズ満載の、まさにマンガ的世界。例によって、観客の微笑・失笑・爆笑を買っているようだ。正直、ぼくもその1人です。ただ、ソマ-ズ作品の場合、至る所にあるツッコミどころやアラも、笑っているうちに、何だかあらかじめ計算している…意識的に仕組んでいる気がしてこなくもない。まさかとは思いながら、実はデタラメすらわざと“ギミック”として用いているんじゃないかと…。 そうだからこそ、単なる新奇なスペクタクルやもの珍しさばかりを見る者に押し付ける、昨今のCGだらけのアメリカ製エンターテインメントの典型に見えて、ソマーズの映画はハッキリと一線を画すものだと言えるだろう。彼の映画を見るぼくたちは、「おいおい、そりゃ何だ!」とか、「そこんとこ、ウソっぽい!」とか否定的な向きであろうと、知らず知らず作品に「主体的(!)」に関わっていることになるからだ。 特にここ最近の映画の場合、ぼくたちは、「見る」んじゃなく、「見せられている」という“受け身”の立場にたたされていることが多い。その時、ただ「面白さ」や「刺激」をスクリーンから与えられているばかりで、もはや何も考えない。結局のところそれはただ映画に“反応”しているだけのことだ。 しかしソマーズは、この映画においてもそうだけど、どこまでも「おバカ」に徹しているようで、観客の積極的なツッコミを“要請”している。「楽しませる」だけじゃなく、「楽しむ」ことを見る側に求めている。ボケとは、漫才がそうであるように高度な“知性”の産物なのだ。  映画とは、本来そういった映画と観客との「間」において、はじめて成立するものだったはずだ。人と人との間に、愛が成立するように。 そんな、「何より大切なこと」を、あろうことかスティーブン・ソマーズの映画に教わるとは…。だから映画は、あなどれまへん。  以上、与太めいてますが、ぼくはマジです(笑)  
8点(2004-09-15 17:03:33)(良:2票)
293.  マングラー
トビー・フーパーの映画は、たとえどんなに世評の悪い「失敗作」だろうと、必ず見る者の深層意識に冷んやりと、あるいはざらりと触れてくる“おぞましい”瞬間がある。それは、彼がただ単に“恐怖”を表現するのに長けているというんじゃなく、“恐怖とは何か”を本質的に知っているからなんだと思う。 その“おぞましさ”は、言うならば、見知らぬ穴に手を突っ込んで指先が何かぬるりとしたものに触れた瞬間みたいなもの、と言い換えてもいい。その時にぼくたちが感じるだろう不快感や恐怖心を、フーパーの映画は何気なくひょいと投げ出してくる。『悪魔のいけにえ』では、それこそ全編にわたって。『ポルターガイスト』のような映画であろうと、いかにもスピルバーグ風の「光」が画面を覆おうとも、例えば部屋の片隅の薄暗がりや、子役の少女の後ろ姿などにぬぐい難く。 この、悪魔が取り憑いた巨大洗濯用プレス機と人間の死闘を描くという、相当にバカバカしい、そしていかにもスティ-ブン・キング原作ならではのグロテスクさとユーモアに忠実であろうとした映画にあっても、ふとした場面に“フーパーらしさ”が顔を出すだろう。それは、主人公の刑事が深夜の死体安置所で時を過ごす何気ないシーンであったり、彼の義理の弟が住む家のテラスをとらえたショットに見ることができる。実際これらの映像は、プレス機が人間をきちんとプレスして折り畳んだり(!)、果ては動き回って大暴れするクライマックスなんぞよりもはるかに不気味で、不安で、おぞましい気配を漂わせているのだ。 フーパーは、「恐怖とは、人の心の“闇(=病み)”と直接触れる瞬間にある」ことを知っている。彼自身が、そのことに震え、おののいている。一方で、そんな「闇」を何とか「商業映画」として折り合いをつけようと苦闘し続けるフ-パ-作品は、それゆえの“いびつさ”が逆にスリリングであり、こう言ってよければ何よりも魅力なのだとぼくは信じて疑わない。
8点(2004-09-06 18:59:57)
294.  クマのプーさん(1965)
先日、近所の公民館で東映アニメの『西遊記』と2本立で上映。息子(小3)と一緒に見ました。  A.A.ミルンの原作は昔から大好きで、今でも時々、もうボロボロになった本(『くまのプーさん』と『プー横丁にたった家』)を読み返したりしています(息子は興味を示しませんが…)。そこには、ミルンの「人生の慰めをめぐるささやかな省察と啓示」が、慎ましく投影されている。プーと仲間たちの、“目の前にあるささやかな幸せ・不幸せ”に対する素直な反応には、どんどん複雑なものになってしまった我が「人生」を顧みずにはいられない。 そして、ディズニーによるアニメ映画化のこれが第1作目なんですよね? ぼくが見たのはこれ以外だと長篇の『ティガー・ムービー プーさんのおくりもの』だけなんですが、正直言ってどんな国の、どんな物語であろうと同じ「世界観」に改編するディズニ-・アニメにあって(それは、紛うことなき〈文化帝国主義〉だ)、この『プーさん』シリーズは、まだしも原作の味わいが残されているのではないかなあ。まあ、あまりにもキュートで「可愛いすぎる!」ってのは確かだけど…  何はともあれ、ぼくはあの、「あれ、ぼくなにをかんがえてたんだっけ?」と考えるプーさんの、片目をちょっとしかめる表情が大好きです。あれだけは、ディズニ-版の最大の魅力だと思う。この映画を見てからそのマネばかりやって、家族のヒンシュクを買っています(笑)
8点(2004-07-28 19:10:33)
295.  キリコの風景
昔、失恋(笑)の痛手を抱え、函館で半年ほど暮らしたことがある。今思っても、温泉と、旨いサカナと、競馬場&競輪場がコンパクトにまとまったあの街は、「天国」だったなぁ…。 といった函館の空気感が、実に巧みに映像化されていることにまず好感大。小生同様この街が“大好き”らしい森田芳光の脚本によるシュールな世界を、これが初監督(だっけ?)の明石知幸は、あくまで日常的リアリズムで映像化しようとしている。そのシナリオと演出の緊張関係が画面から伝わってくるあたりも、実にスリリングです。 奇妙な精神的連帯を生きる3人の男たちが、どこか抽象的な、“地に足が着いていない”存在なら、そんな男どもが執着する小林聡美ふんするヒロインの、何ともアッケラカンとした“現実的生活感”あふれるドスコイぶりという対照の妙も、見事だと思うなぁ。 う~ん、やっぱり好きだなぁ。この映画。失恋して函館に行ったことのある人なら、きっと気に入っていただけるハズです(…そんな奇特な方がどれくらいいるのか、知らないけど)。
8点(2004-07-14 21:12:36)
296.  母の眠り
いつも…というか、折にふれて思うのだけど、やはり母親ほど「強い」ものはない。そんな《真理》を、あらためて納得させられる映画。 幼い頃から大学教授の父親を尊敬し、家庭を守ることが幸せという母親を軽蔑していた娘が、末期癌の母を看病するため仕方なく実家に戻ってくる。あらためて生活を共にするなかで、娘は母の“平凡な人生の非凡さ”を学んでいく。 と書けば、いかにもありがちのピューリタン的な「オンナたちよ、家庭に還れ」と唱える保守主義プロパガンダ映画みたいだ。別にフェミニストを気取るワケじゃないけど、そういう言いぐさはあまりにも反動的だろう。実際この映画には、そういった面がないとは決して言えないんである。 けれど、メリル・ストリ-プ扮する母親が最後にとった選択を、「個人」としてでなく「母」としての“尊厳(!)”を守るためだとする主張は、その雄弁さ(というより、メリル・ストリープの名演)に、ぼくもほとんど説得されてしまった。「自分のために選ぶ〈死〉が、同時に家族をも救う」のなら、それもまた立派な「主体的」な生きざま(=死にざま)じゃないか、と。そう言われたなら、「…かもしれない」と考えこまされてしまわざるを得ない。そして、その答えは、この映画を見てもう何年もたつのに、未だぼくのなかで見つからないのだ。  前述の通り、メリルはもちろんのこと、レニー・ゼルウィガー、ウィリアム・ハートの主演3人ともが、素晴らしい。そして、こんな「重い」主題を扱いながら、まるで上質のフィルム・ノワールみたいな《倒除法》の語り口を駆使した技ありの脚本・演出もまた、見事だと思う。 …地味だけれど、クヤシイくらいに「巧い」映画だ。
8点(2004-07-07 20:40:49)
297.  デイ・アフター・トゥモロー
エメリッヒの映画の本質は、その「生真面目さ」にあると思う。いや、「優等生(おりこうさん)」だというんじゃなく、どこか“バカ”がつくほど「一本気(まっすぐ)」なところがあるのだ。  たとえばH・G・ウェルズの古典SF『宇宙戦争』を現代にリメイクしたなら(『ID4』)、やはり「タコ型(イカ型?)」風のエイリアンを登場させてしまう。あるいは、ファンのひんしゅくを買おうとも、あくまでゴジラの造型に生物的なリアリティを優先させる。さらに『パトリオット』みたく、善玉・悪玉をマンガチックなまでにはっきりと区別するのも、むしろ彼の「真面目さ」ゆえだろう。 その上で語られる「世界観」も、これまたボーイスカウト的(!)な単純さ・一本気ぶり。そこではアメリカ大統領が自ら戦闘機に乗って空中戦を演じ、(スパイク・リ-監督には「黒人奴隷の歴史を美化した」と批判されたが)黒人だけのユートピアめいたコミューンが、奴隷制のアメリカに存在しているのだ。いずれもエメリッヒにとって、「かくあらねばならぬ」という大上段の啓蒙的説教くささとはちがった、「かくあってほしい」という“まっすぐ”な理想として。 今回の映画においても、彼のその「生真面目さ」はいつにもまして発揮されている。ここでエメリッヒは、何よりも“寒さ”をいかに面白い映画に仕立て上げられるか、という一点においてひたすら「真面目」に取り組む。そして人類の危機に直面したとき、国家や人々は「どうあるべきか」ではなく、「こうであってほしい」と謳うのだ。…大国はエゴを捨て、人は最期まで愛と気高さを失ってほしくないという。  それを、あまりに単純すぎると失笑するのはカンタンだろう。というか、今どきそんなナイーブな「生真面目さ」など、ほとんど“バカ”扱いされるにちがいない(事実、エメリッヒ作品を「バカ映画」呼ばわりする風潮が、確かにある)。 けれど、“おりこうさん”ばかりがはびこる中、こうしたひたすら“まっすぐ”な人なり映画なりが存在していることは、少なくともぼくにとっておおいなる「救い」に他ならない。何だかんだ言われても、エメリッヒ作品にかくも観客が集まること自体、きっと多くのひとびともその「すがすがしさ」に惹かれてのことなんだ…と、ぼくは勝手に思うことにしている。  ローランド・エメリッヒ(の映画)は、理屈じゃなく、ただただ愛おしい。
8点(2004-06-19 17:47:13)(良:5票)
298.  黄線地帯
石井輝男カントクの映画に漂う、あの一種独特の“いかがわしさ”。犯罪活劇であろうが、エロ・グロものであろうが、この人が撮るとどこか怪しく(=妖しく)、うさん臭い、英語でいう“ビザール”という語がピッタリなものになるんである。 それは、どこか「見世物」小屋風の味わいと言ったらいいだろうか。おどろおどろしい看板と口上で見物客を呼び込み、たいていはコケオドシや安っぽい出し物にすぎないのだけど、何故か惹き付けられてしまう。あの奇妙に「官能的(!)」ですらある(今やノスタルジーの対象でしかない)縁日の見世物小屋こそ、石井ワールドに最も近しいものではあるまいか。  倒産寸前の頃の新東宝で脚本・監督した本作。アラン・ドロンの『サムライ』を先取りしたかのようなニヒルでストイックな殺し屋(天知茂)が、依頼主に裏切られ、その復讐のため偶然出会ったダンサーを人質に神戸へと向かう。セットで造られた、ほとんどカスバのような無国籍的「神戸」には、これまた日本人ばなれした怪人物やら、明らかに白人女性の顏を黒く塗った「黒人女」やら、「ババァじゃないよ、マダムと呼びなっ!」と凄む安ホテルの女主人やらがゾロゾロご登場。…この、どこまでもバタ臭く、戦前のフランス映画(中でも、デュヴィヴィエの『望郷』だろう)を気どった暗黒街ドラマは、あたかも味噌汁を「ブイヤベース」だと言われて飲まされたような(?)トホホ感に満ち満ちているのだ(きっと、少し意地の悪い観客なら「失笑」の連続でありましょう。確かに、滑稽ではあるし…)。 しかしこの、すべてにチープでキッチュ(まがい物)ないかがわしい「フランス犯罪映画もどき」には、天真爛漫なコケットリーを見事に体現したダンサー役の三原葉子の素晴らしさを筆頭に、不思議な「愛嬌」にあふれている。そして、作り手たちの「本気」が確かに伝わってくる。見世物小屋で「生きた本物の人魚」を見たら、ただの水着を着たオバサンだった(笑)…という風のインチキみたいな作品だけれど、その涙ぐましい「サ-ビス精神」だけは、どんなにエライ監督の映画やそこいらの「A級」大作なんぞより持ってるぜ! という心意気がほとばしっている。  そんな作品を前に、映画ファンなら誰が愛さずにいられようか。
8点(2004-06-15 17:33:47)(良:1票)
299.  キル・ビル Vol.2
その過剰なまでの「趣味性」や「遊び」ばかりが語られるタランティーノだけど、彼の最も本質的な「才能」は、常に役者たちを“輝かせる”ところにあるのだと思う。彼の映画では、トラボルタやロバート・フォスター、パム・グリアーなど「あの人は今」みたいな“過去”の役者をこれまでも見事に再生させてきた。というか、それぞれのスターとしての魅力を最大限に引き出し、あるいはあらためて発見することに成功してきた。今回も、特にこの『vol 2』におけるデヴィッド・キャラダインやダリル・ハンナ(その怪演は、ハッキリ言ってユマ・サーマンすらも食った)、マイケル・マドセンといった面々を、一見コミックすれすれの設定や描写のなかにあっても、驚くほど「映画」そのものとして画面に定着させている。タランティーノは、彼なり彼女なりの持つ個性や魅力を、演じさせるキャラクターに“同化”させることにおいて天才的な演出家なのだ。だから、どんなに荒唐無稽な映像世界にあっても、人物たちは確固たる「リアリティ」(「リアル」ではなく、だ)を持ってぼくたち観客に感情移入をせまる。というか、感情をわしづかみにする。…繰り返そう、映像遊びに凝ったただのオタク監督のようで、その実この男は役者の魅力にこそ映画の“本質”を置く、その意味で最も正統的(!)な「演出家」なのである、と。その1点において、ぼくはこの映画(とタランティーノ)を支持したい。
8点(2004-05-19 21:30:58)(良:1票)
300.  パーマネント・レコード
…おそらく10代の頃にこの映画を見たなら、もっと素直に感動できたんだろうなあ。親からも、学校からも、友人たちからも期待され続けた青年が自殺する。その死が、周囲に与えた衝撃と動揺を描いた群像劇としてある本作。若い頃なら、死んだ青年の「苦悩」や「純粋さ」(…歳の離れた幼い弟に対してだけ、素直に心を開くあたりの描写は、どこかサリンジャーの小説の主人公たちを想わせる。特に、最後にやはり自殺する「バナナフィッシュにうってつけの日」のシーモア・グラースに)に“共感”し、あるいは、彼のことを結局何も分かってやれなかったことに激しく後悔する親友(演じるのは、若きキアヌ・リーブス。ナイーブでナーバスな心の揺れを見事に演じてみせる)の「苦悩」や「純粋さ」に“感動”できただろう。が、今のぼくには、「自殺とは、どれほど無責任で身勝手な愚考であることか」という、まったく逆の〈メッセージ〉こそをこの映画から受けとめてしまう。…そのひとつの死が、どれだけ周りの人間たちを蝕み、心を“殺してしまう”か。決して映画がめざそうとした方向とは正反対の、「ある残酷さ」を読み取ってしまうのだ。もっとも、そういう「両義性」を持ちえたことが、この作品を、単なる感傷的な凡百の青春映画を越えたものにしたことは間違いない。そのひとつの死を、彼や彼女たちはいかに乗り越えたか、そんな「喪の仕事」にきちんと心をくばった本作の作り手たち(というか、この程度の脚本からかくも“深い”視点を観客に読み取らせた監督)の誠実さを、ぼくは称えたい。後にデヴィッド・リンチ作品で開花することになる、アメリカ地方都市の光と陰の部分を繊細にすくいとった撮影監督フレデリック・エルムスの映像も、ジョー・ストラマー(!)のしみ入るような旋律も、作品に贅沢なプラスアルファを与えている。そして…これはあくまで個人的にだけど、わが愛しのジェニファー・ルービンがかくも初々しく画面を彩り、あまつさえクライマックスをまかされている、このことだけでもぼくには忘れ難い映画なのであります。思えば、もはや“B級”映画でやたら脱ぎまくる「ジャンク女優(トホホ)」程度にも知られていない彼女の映画をレビューしたくて、ぼくはこのサイトに書かせていただくようになったのだった。…それだけでも、「8」点を献上する価値ありでしょ(笑)
8点(2004-05-14 20:43:26)(良:1票)
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