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パブロン中毒さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 914
性別 女性
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自己紹介 After shutting down my former blog, I'm writing some boring stories at new site. Anyone who's interested in, come along if you'd like to.

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281.  ほえる犬は噛まない 《ネタバレ》 
とても退屈だった。 ポン作品は、脚本参加も含め、これでほとんど見ていることになってしまったが、これほどつまらなかったものはない。 私のカンだけれど、これは初長編監督作ということで、監督のコンプレックスが前面に出てしまったのだと思う。 それはなにかというと、「映画人として芽が出始め、これから世界に出ていくであろう自分が、アジアに育ったアジア人であること(アジア部分韓国でも可)」でしょう。 まあ簡単にいうと欧米コンプレックス。 「殺人の追憶」とか「グエムル」においては、韓国の「雑草性」に対する強い愛情と自信が感じられた。それを恥じることなく世界へ向かって堂々と表現できる彼が居たと思う。 たぶん「ほえる犬」の段階では、「雑草性」に対する愛情の部分より、恥ずかしく情けなく思う近親憎悪的感情が勝っていた。 それでどうなるかというと、「露悪的」になる。 「ほえる犬」の場合は、「オレっちの国では犬、喰いますけどそれが何か?」という(当時の彼にしてみたらそれが最強ネタだった)西洋文化へ向けた「露悪的」な開き直り、誰かに尋ねられる前に「オレは黄色人種だけどそれが何か?」「オレは韓国人だけどそれが何か?」と先に予防線を張ってしまう感じ、に出てしまったのだと思う。「ほえる犬」がまとまりもなくカタルシスも生まずパンチの効かない作品に仕上がったのは、とりあえずポン・ジュノは「犬食文化」が出せればそれでよかったから。 ある程度仕方がないことなのだろう。アジアに生まれたアジア人の宿命かも。 けれどポン・ジュノはその後近親憎悪を克服し、すばらしい作品を撮ったので「ほえる犬」は芸の肥やし的作品といえるだろう。
[CS・衛星(字幕)] 3点(2008-06-19 14:15:09)
282.  ロード・トゥ・ヘル 《ネタバレ》 
あえて80年代を持ってきたあたり、「続編」志向が無い話ではない、と思うのは、これは「因果な一族」のストーリーであるからだ。ていよくショーンJrもいることだし。 犯罪学の先生によれば「人殺し」も能力のひとつで、訓練しなくても、最初からすんなり人を刺したり撃ったりできてしまう、そういうのが平気な人たちが一定の率で存在するのだそうだ。だからといって必ず人を殺してしまうわけではないが、戦時などにはそういう人が大変役に立ってしまうらしい。普通の人はためらってしまい、人を殺すことはなかなかできないそうだ。戦時には、普通の人にも人殺しができるように、軍は訓練をしなくてはならなかった。 で、サリバンの一家というのは、少なくともオヤジにその能力があった。そして、兄のフランシスも、血を受け継いでいて、父の教えにより能力を磨いた。 が、父はショーンに対しては大学に行って学問をつけ街を出てゆけと言って、家業について何も教えず、ショーンは父と兄が人殺しで稼いでいることを知らなかった。 それなのに、ああそれなのに、誰にも教わっていないのにショーンは無抵抗の敵を背後から3人も殺すことが「できた」。なんの警告も与えず、なんのためらいもなく。 どんな理由があっても、ショーンのような無慈悲な殺し方は、「能力」が無ければできることではないのだ。…つまり、ショーンは父よりも兄よりも「能力」に秀でており、なおかつ「罪の意識が欠如している」。 ヘルズキッチンの人びとの額に灰の十字架が常にあるのは、誰しも何らかの「罪」を自覚しているという意味だ。人を殺しても全く心が痛まない…ショーンの額に一度も印が書かれないことは「罪の意識が無い」ことをあらわしている。 劇中、身内をショーンに殺されたモランが「正当な裁きが行われたといえるのか」と問う場面がある。 実は、ショーンが3人を殺した「罪」は、「母親の命」によってあがなわれていた。神は母親を重病にすることによって、サリバン家に裁きを与えていた。フランは「そのこと」がわかっていたので、ショーンが墓参りすることを許せず激高したのだ。 さて、今回もサリバン家はボスのスミスの協力を得て首尾よく敵を始末した。けれど、また「裁き」は行われた…ラストでフランがショーンと間違われて殺されることで。 罪と罰の繰り返しの話なんである。まあ日本人ウケはあまり期待できない。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2008-06-18 18:01:10)
283.  ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還 《ネタバレ》 
こんなにたくさんの人が見ているということにはとても驚くし、見た上にレビューまで残す人がこれだけいることにも驚く。さらに絶賛する人が多いことにも…ちょっと驚いてしまった。 悪口を言ったら袋叩きにされそうだが、私はここのレビュワーさんたちを信じている。少数意見を蔑視しないところだと思っている。 放送日の都合で2と3を見た感想だが、もう1を見なくてもいいという気になった。 私にはピーター・ジャクソンは凡庸な作り手に思われる。それは、リドリー・スコットとかキューブリックとかフリードキンとかいうアクの強い天才と比べて。ジャクソンはいかにも健全に見えます。「健全」で「健康」なのです。よって、彼のような作り手は、子供向けの作品で才能を発揮できるでしょう。 映画「ロード・オブ…」3部作はいったい、誰に向けて発信された作品なのか。ジャクソンはどんな観客に見て欲しいと思っていたのか。それは明確に「お子様」です。 そのために、ジャクソンは大人の観客の中で、「画」以外の要素に多くを求める一定の種族については無視してもいいと決めた。というようなことだと私は思う。 よって、すばらしい映像に平坦なストーリー展開、「意外性」のかけらもない作品ができた。 私はこのながーいヤツを見ているうちに、いいかげん字幕を追うのも英語のセリフを聞き分けるのも「もういいや」と思ってしまった。だって、皆が皆それらしいセリフしか言わないんだもの。 セリフを言う前に、だいたいどんなことをしゃべるか決まっているんだもの。アクションをする前に、次に何をしそうか予想がついてしまうんだもの。王は王らしく、姫さまは姫さまらしく、ホビットはホビットらしく、邪悪なものは邪悪らしく。これ以上つまらない展開もない。 戦闘の前の気勢を上げるセリフなんかもう、同じようなのを何回も聞きすぎて耳タコ状態に。「誇り」がどうとか「○○の息子たちよ」とか大マジで言われるととても恥ずかしい。こうした決めゼリフは1回まででしょう。 とにかくどこまでも平坦なので、危険な作戦とわかっていても誰も悩まないし、たいした衝突もなく裏工作するやつもなく、皆が皆勇敢。そして危険をくぐりぬけ、勝利を手にしてメインのメンバーが生き残ってOK。コアとなるキャラクターは決して死ぬことはない。なんてつまらないんでしょう。 つまりはお子様向けの戦争映画です。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2008-06-17 15:38:46)(良:5票)
284.  ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔 《ネタバレ》 
おおっ、エルフになったホモ系美男のオーランド・ブルームがいい感じ。 しかし、私はこいつをどっかで見たぞ。見たどころか何度も戦った覚えがあるそれは、ドラクエⅧの竜神様の祭壇じゃ。オーランド・ブルーム=竜神様。どっちがどっちを…という余地もないほどウリ2。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2008-06-17 13:56:33)
285.  隣人13号 《ネタバレ》 
・監督のセンス・力量は確かである。音楽やカットの多さでごまかさず、ずばりを映し出す手法には自信を感じる。人物描写にも手を抜かず、ヤンキー一人一人に対しても存在感を吹き込んだ。 ・沈黙したまま数秒以上経過させるなどの演出を多用したことにより、冗長さを感じさせる。テンポの早い場面と、静止場面のバランスがあまり良くない。 ・グロ・スカトロ場面の思い切りが良すぎて残念。  子供の虐殺場面により、海外での公開は望めないこの作品。しかし、監督の並々ならぬ才能を確実に示している。だから、スカトロ場面が残念なのだ。宮崎勤事件以来、悪評高まったグロ・スカトロ系のとんでも映画との違いを示しにくくなってしまう。 「隣人13号」がその手のとんでも映画と同じなのかと聞かれれば、誰でも「それは違う」「なぜなら有名俳優が出演しているから」と言うだろう。けれど、小栗旬や中村獅童を知らない観客が見たらどうだろう。グロ・スカトロ以外の描写がいかに優れていても、とんでも映画との違いを説明するのが難しい。この監督に、日本では珍しいセンスを認めるからこそ、私はグロ・スカトロからは手を引いてほしい。井上靖雄はリドリー・スコットではないので、アンソニー・ホプキンスやジュリナン・ムーアを起用することができないのだから、同じくらいにグロい場面を撮ったときでもそこには決定的な違いがあるということを意識しなければいけない。「貴族の芸術的お遊び」と「特殊な愛好者向けの供給物」という違いが。 もうひとつ、過去のいじめられっ子の怨念を昇華させ、現在のいじめられっ子へ救いと問いかけを投げ、現在のいじめっ子に対してはある種の脅しとなり、過去のいじめっ子の良心を問うという映画の目的が明確すぎる点。 例えば、「麻薬はこんなにおそろしい~ドラッグの恐怖」という中高校生向けの啓蒙映画があったとしよう。そこにはどれだけの芸術性があるだろうか。「飲酒運転の恐怖~飲んだら乗るな」はどうだろう。「悲惨ないじめ~見て見ぬふりはやめよう」とか「みんな同じ人間だ~手を取り合って」とかいういじめ撲滅啓蒙映画があったらどうだろう。 目的が明確すぎるということは相対的に芸術性が落ちるということなのだ。 だから「昇華」を目的に作品を作るのは私はあまり感心しない。これはなかなかわかってもらいにくいことだが。 今後におおいに期待する。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2008-06-16 15:04:01)
286.  推定無罪 《ネタバレ》 
シドニー・ポラックの追悼放送。 しかしオチ割れの状況で見直してみると、妻の態度がソラ恐ろしいこの作品。法廷ものとしては、個人ベスト10に入れていい。 私はキャロラインを単なる悪女として切り捨てることができない。キャロラインはもしかすると究極のフェミニストといえるかもしれないと思う。 その理由を説明すると、まずキャロラインはおそらく20代後半~30前半の年齢。その若さですでに6年半前に卵管結索手術を受けている。 避妊手術を受けた理由は間違いなく、望まない妊娠により中絶手術を余儀なくされ、完全な自衛手段に打って出たということ。未婚の女性が避妊手術を受けるということは、「私は結婚していませんが、セックスはしますから」と宣言したに等しい。キャロラインの場合は「目的」のためにセックスを濫用するつもりでいたからこそ、合理的に考えて手術に踏み切った。なんたる思い切った女性だろう。とても真似はできぬ。 さてその「目的」は、多くの男性と同じように「ポストを伴った権力」のゲットであった。キャロラインの権力に対する執着ぶりはちょっと異常なほどに強い。私は冗談抜きに彼女の最終目標は女性大統領だったのではないかと思っている。 彼女の方法は「正攻法では得られぬポストの奪取のために権力を持った男と寝る」で、次に「まわりの男がポストを得たことに嫉妬して足を引っ張るので、黙らせるためにその男とも適当に寝ておく」というちょっとすごいことになり「適当に寝ておいたまわりの男の中から、次の権力者になりそうな有望株が居たらそいつをプッシュして自分も引き上げてもらう」というものだった。罵られても差し支えないような小物は無視して寝ていない。 キャロラインの計画では、これで問題はないはずだった。 キャロラインは道徳観念がゼロなのではなく、「利用していいのは権力をもった男性と犯罪者だけ」という内なるルールを守っていた。 けれど、「グロウ アップ」していなかったラスティのせいで、前途洋々たるキャロラインの人生は突然終わった。一撃必死の矢は予想外の方向から飛んできた。皮肉なことに、「女の足は女が引っ張る」ことに。 ただ、グレタ・スカッキは微妙に違うかなあ、と思う。キャロラインはセクシーなだけではなかったという気がする。私の嫌いなハリソン・フォードが、色ボケストーカー中年を好演(キモいという意味で)。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-06-15 16:02:09)
287.  タッチ・オブ・スパイス 《ネタバレ》 
日本人から見たら全く違いのわからないギリシャ人とトルコ人の問題で「楽園」から追放された少年の回想物語。 ええと、ギリシャ人が住んでいたキプロス島にオスマントルコ帝国が侵攻して、オスマンが崩壊したあとはイギリスが植民地にして、戦後は独立したが人口の多いギリシャ人と少ないトルコ人の間がうまくゆかず(宗教が違うし)、ギリシャ人の政府がトルコ人を迫害したためトルコ本国が怒り…ああややこしいったら。 というような事情が、ファニス少年を「楽園」イスタンブールから追い出したのです。ファニスのその後の人生は「楽園落ち」として営まれていくのだ。本人がそのように自覚していたのだからして。 ファニスが成人しても長らくイスタンブールを訪れなかったのは怖かったからです。自分の記憶の中にある「楽園」がこわれて違うものになっているのではないか。もしかして初恋の少女に恋人が居たり、結婚していたりするのではないか(その方が普通だろ)。ファニスは「内なるイスタンブール」を守るためにイスタンブールに行くことができない。 が、おじいさんの死でイスタンブールを訪れたファニスは、恐れていた「初恋の少女の結婚」を知るけれど、別居しているということで「自分の居場所があるかも=楽園はまだ自分を拒否していないかも」といっぺんに浮かれてしまう。この時点でファニスはまだ「楽園落ち」の世界を生きている。 けれど彼女が夫の元に戻り、去って行ったときはじめてファニスの「楽園落ちワールド」が終わって夢から覚めた。という話だと思う。 さておじいさんがギリシャのファニス一家をいっこうに訪れてくれなかった理由、私はこう思う。 おじいさんは少年ファニスにとってまるで魔法使いのようだった。スパイスや料理をネタに周りの人を巧妙に操ったりする。子供にとっては魔法使いそのものだ。 しかしおじいさんの魔力は、イスタンブールの街及びあの店と屋根裏という装置とセットだったのだ。 ギリシャに来たら、おじいさんの魔力は発揮できない。彼は普通の老いぼれだ。おじいさんはそんな自分を孫に見せたくない、昔のイメージを守りたかった。 おかげでファニスの記憶には、魔力にあふれた活気あるおじいさんだけが残った。 なにかこう、「男のセンチメンタル」全開な話だが最後は「女のリアリズム」で終わったなあ。トルコやギリシャの食文化へのこだわりは一見の価値があるかも。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2008-06-13 14:39:22)(良:1票)
288.  ひかりのまち 《ネタバレ》 
この感じ、意地でもクリアに見せたくないこの感じ、そおかあ、「CODE46」のカントクさんだったわけか。なんとなく納得。 一言であらわすなら「ロンドンの労働者階級の人々それも中より下・ダメな男たちと働く女たち」というのがあまりにもしっくりくる。 出てくる男出てくる男、老いも若きもみな壊れていてマトモなのが全然居ない。居たと思ったら遊び人で女をモノのように扱う。 かたや女たちは、身の回りにマトモな男が居ないということがよくわかっていて、それでもダメな男と共存していく。ダメな男しか居ないんだから、少しでもマシな生活ができるように祈るしかないじゃないの。こいつが私や子供に及ぼす災難が、少しでも小さくなるよう祈るしかないじゃないの。 結婚しようが子供が生まれようが男がお金を持って帰ってきてくれることの保証はどこにもなく、何回恋人募集をしようがマトモな男が現れることはなく、ダメな夫と別れても子供が居るから縁が切れないうえ金の無心までされる。身内の男は父親も弟も現実から逃げている。まったく、どちらを向いても男が当てにならない。いろんなトラブルは女だけで解決するしかない状態。 なにか女にとっては身も蓋も無く救いのない世界…というところで、ひきこもり黒人青年と次女が接近するエピソードでラストを迎え、一筋の光明が示されたかに見える。 こういう美しくない現実を美しくない出演者によって見せるにあたり、「クリア」な映像で見せない、というのが一つの方法だったのだろう。 個人的には可もなく不可もないが、「日常を切り取って見せる」というだけで映画として成立するのかどうか疑問だ。もちろん脚本もあって演出もしたのだろうが、「美しくない出演者」「どれも中途半端に終わるエピソード」ときて、「(あえて言うけど)汚い映像」とくると、「…どうしてもそれを見なきゃいけませんか」という気になる。「映画ってなに」。 最も驚いたのは妊娠中の三女の無化粧の顔のシミのドアップではなくて、次女の前歯全面差し歯で思い切りスマイルだった。前歯が差し歯の女優が主役…イギリスだなあ、と思った(正直それが映画の感想)。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2008-06-12 16:55:45)
289.  ペリカン文書 《ネタバレ》 
長いっ。 ストーリーの面白さというグリシャムの職人技に頼り切った冗長な作品。 ジュリア・ロバーツは相当にやる気がなかったようで、本人がアクターズスタジオのインタビューで言っていたように場当たり的な演技。モノローグにおいてはほとんど棒読みという適当さ。デンゼル・ワシントンは出番が少なく、相手が白人女性であることで、観客に対する配慮からであろうが、あっても当然のラブ・シーンすらなし。 ベストセラーの映画化というのは、うまいくほうが珍しいのだなあやっぱり。 ペリカン文書の内容とか弁護士の死を追ったTV番組とか宣誓証書だというビデオの内容とかいう核心部分をすぐに観客に見せず、気をもたせてひっぱるあたりは単に的外れな演出というほかはない。。 なんとなく全体に名作「ジャッカルの日」的な演出を感じたので、映画ジャッカルへの憧れがあったのかもしれないが似ても似つかぬ駄作となった。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2008-06-10 15:03:20)
290.  スリー・リバーズ 《ネタバレ》 
火サスのような後味だがそれでもハリウッド映画なんだな。 カーアクションはちょっとすごいけど、それはそれ、という感じで終わってしまう。 なんといっても脚本がダメ。 サラ・ジェシカ・パーカーがハミ乳ミニドレスというハダカ同然の衣装でいきなり色気を出して迫ってくるところ、あまりの不自然さにプロの脚本とは思えない気がする。何をどうすればあの状況から迫る女が発生する?バツ一子持ち女があまりにもわかりやすいハミ乳ドレスで? 2人でさんざんシケこんだあと、お約束の「女の裏切り」を持ってくるところも、作り手の頭の中が「火サス状態」であることの証拠だなあ。「どうだ、驚いただろ?」とうれしそうに聞かれても、「火サス的には常道を踏んでいる」としか感想を述べようも無い。 帰ってきた怪しい弟をウロウロさせて注意を引かせておいて、犯人が死んだはずの男、というのはズルだし私は感心しない。この場合は犯人を当てられなかったから脚本が優れているというものでもない。 唯一の収穫はパーカーのハミ乳ではなくブルース・ウィリスの短パン姿であると私は断言する。
[CS・衛星(字幕)] 4点(2008-06-10 14:59:02)
291.  マイ・ハート、マイ・ラブ(1999) 《ネタバレ》 
群像劇もやたらと乱発されるようになって、その質が問われる時期になってきたと思う。 群像劇といえばヒューマンドラマ。ヒューマンドラマといえば「心温まる」が枕詞。 しかし、「心温まれば」それでいいのかというと、やはり群像劇にもピンキリある。作り手の方々は、心温まって適当にお茶をにごして終われば合格点とは思わないでいただきたいものだ。 さてキャストだけを見れば超豪華版の本作はいかがなものかというと、「不発」とか「良すぎる素材を使って適当に調理」とかいう言葉がぴったりくると私は思う。 ジーナ・ローランズとOO7の夫婦ゲンカが見られるのはなかなか嬉しいものだし、全然似ていない3人の有名女優が姉妹という強引さも悪くはない。 大型犬を飼うのが家風だとか、「おこりんぼさん」という共通の口癖だとか、3人が姉妹だということをなんとなくわからせるあたりも、洒落た演出といえなくもない。 3人と007夫婦が親子なのかなあというあたりも、なんとなくわかってきて、ラストで全員集合させて終わりというのもありがちだ。父親の葬式でなかっただけマシというところ。 そう、これといって目新しいものが見つからない映画なのだなあ。 3人の中では、スカリー捜査官の無理が目立ったと思う。ジリアン・アンダーソン本人は、明るくサバサバした性格だそうだから、あのような役は想像を超えていただろうに。モルダー捜査官同様、何に出てもスカリーとモルダーでしかないのだから、もう映画で一発当てることなどあきらめたほうがいい。 それから、エイズについてイージーに扱いすぎていないか? 片や、末期で死んでいくゲイ青年、片や、感染者と知りながら愛が芽生えてハッピーにベッドインて、どうなのか。その感染者くんも、死期のせまった感染者の彼女からエイズを貰いたくてわざわざ貰ったと。それってどうなのよ。 ジョジョは、この先彼氏の発病の兆候にびくびくしながら暮らすわけですね。それと自分への感染の危険に細心の注意を払いながら。 それって、「愛してるから」ですべて片付く問題なのか? …やっぱりエイズについてはイージーに扱ってはならないと私は思う。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2008-06-08 19:43:24)
292.  メルシィ!人生 《ネタバレ》 
邦題がひどいがこれはけっこうすごい大人むけのコメディー。 私はアメリカ製のコメディよりも、イギリス製のコメディの方が好きだったけどさらにフランス製の方が好きかもしれない。 なんというか笑わせ方の違い。ドタバタや大声を極力省いて笑わせるそのテクニック。…かなりすごいかもしれない。洗練、という言葉が浮かぶ。 からかわれている対象が見ていないところですかさずスマイル、というのが一つのパターンで、とても「愉快」な感じがする。この感じは、一部の日本の少女漫画にもあった気がする。 ピニョンも含め、登場人物たちが笑う時は、目は笑わず口元を両方釣り上げる。これがなんとも愉快。 ドパルデューのサンティニが、簡単に暗示にかかっていくのもとっても愉快。3人の意地悪な同僚たちが、入れ替わり立ち替わりすれ違いざまに笑っているのがなんともおかしい。がこれも、悪意に満ちたからかいでないところがいい。 考えてみると、落ち込んでいるときのピニョンとあまり変わらない状況の私が、何度も大声で笑ってしまった、そんなコメディ。ラストのエロシーンは余計だったが、ただそこに居るだけでおかしいオートゥイユに免じてあげよう。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-04-14 17:36:25)
293.  わが街(1991) 《ネタバレ》 
スルメのような味わい深い映画だ。 冒頭では暴力の匂いが充満し、ひたすら暗い画面で危機感をつのらせる。通り魔に撃たれるフィルムメーカー、捨て子を拾ってうっとりしている危ない雰囲気の主婦。ほほう、これはきっとハギスの「クラッシュ」みたいな、人種間の亀裂をえげつなくバイオレンスタッチに描いた作品であろう。 と、思っていると、後半45分くらいの部分に、作り手の主張したいことが次々に現れる。 たぶんこうだ。暴力は憎しみから生まれる。憎しみは、持たざる者が持てる者に対して抱く。これをどう攻略すれば良いのであろう。 カスダンは、「人生を投げ打つような捨て身の福祉活動」とか普通の人に実現不可能なことではなく、身の回りで行う「見返りを全く期待しないふとした親切」こそ、それぞれの人が取り得る最良の方法、と言いたいようだ。 たとえばマックはジェインをサイモンに紹介するが、これはふとした偶然の思いつきで、後日サイモンに「感謝」されてしまうマックは意外に思うのだ。 マック夫婦が捨て子を引き取る事にも、見返りは何もない。 「広げよう親切の輪」それも無意識にね、という感じ。 私は特にサイモンとジェイン(若き日のアルフレ・ウッダード!)のラブストーリーが気に入っている。 英語には「(男女が)つきあっている」という意味の言葉がなく普通は「ゴー アウト」とか「デイティング」とかいう。まさに、「連れ出って外に出る」のが男女交際なんだなあ。確立されたデート文化である。 その形式は厳格に決まっていて、男性が女性の家の「玄関まで」迎えに行って、連れ出す。帰りは、「玄関まで」送り届ける。これが紳士的なデートの手順であって、「どっかで待ち合わす」ということばかりされたらそれは女性がバカにされている、お手軽に扱われているということになる。 わがサイモンも、手順どおりにジェインを迎えに行く。そして…あちらの男性にとって「デート文化」がいかに大切な存在であるかは、サイモンに見るとおり。 バツ一で大学生の娘がいて40超えであろうと、初デートでは高校生のように緊張する。 もしも、デートがうまく行って、帰りがけに彼女がキスのひとつでもしてくれればもう、天にものぼる気持ち…。 サイモンのデレデレ顔を見ていると、「デート文化」ってなかなかいいものだなあ、と思うのだった(日本には存在しない)。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2008-04-11 18:21:42)
294.  グリーン・カード 《ネタバレ》 
大嫌いなマクダウェルとべつにどうでもいいドパルデューが演じるラブコメだ。 マクダウェルは「セックスと嘘とビデオテープ」「フォーウェディング」と何を見ても不快だし、顔はともかくスタイルが悪すぎる=ますます女性に好かれないタイプ。 と、ズルズルしたスカートで体型をごまかすマクダウェルに鋭い視線を送りながら見るのだった。 が、かたやドパルデューもいいかげんメタボだし、そういう意味では釣り合いが取れていると言えなくもない。(「美女と野獣」などとは決して認めん。) ラストまで見て思った。この映画はドパルデューにしてやられていますね。メタボなうえに鼻がデカすぎハンサムとはとても言えず英語もヘタな彼。…どこもいいところはなさそうだが、それをラストで観客を泣かせてしまうという離れ業。 特に、渋滞してタクシーを降り公園を走る二人、別々の部屋で質問に答える二人、肝心な所でヌケているドパルデューや、自信に満ちたマクダウェル、エンディングに向けて盛り上げ方の演出はうまい。そして感動のラスト。移民局の役人を背に抱き合う二人。「ふり」が「本物」に変わる瞬間の爽快さ。 しかしフランス男はこれだから侮れないなあ。マチュー・アマルリックとかチビなのに色気があったりするし。フランス男は規格外の魅力、なのかもしれない。なんかちょっとくやしいわー。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2008-04-09 18:54:47)(笑:1票)
295.  ジョージ・マイケル 素顔の告白 《ネタバレ》 
スカパーでやっていたので、ほとんどミーハー的興味のみで見始める。 確かに、日本も巻き込んで一世風靡した彼の「素顔」が垣間見られる作品だ。(新作のPR的匂いもラストでぷんぷんするが) それにしてもジョージ・マイケル、この人興味深いわー。 80年代の男性版セックス・シンボル(かたや女性はもちろんマドンナ)として女子の皆さんの萌えに堂々のアピールをしていた彼がゲイ。女性として裏切られた気持ちは否めない。 ゲイであるのに、女性の萌えに訴え稼ぎまくるということは、彼の内面でどのように処理されていたのか非常に興味がある。ジョージはそれを決して語らないが…。 そして、驚くべきは彼のような完全右脳人間が、ドラッグやアルコールや犯罪や肥満や宗教でつぶれることなくエイズで死ぬこともなく、芸能界でサバイバルすることができている(現在進行形)という事実である。 クラウス・ノミのように、ジョージ・マイケルも翼を持つ者。翼を持つ者は、現実処理能力に欠けるのが常であり、各種依存症に陥りやすい。彼らには有能な補佐役(お守り役)が常に必要だ。 それが、トイレで逮捕とか、ブッシュを攻撃してバッシングにあうとかいった程度で済んで生き延びていること。これって、奇跡的なことだと思うのだが…。もっと驚くべき、と思う。 見るに耐えないボーイ・ジョージの肥満ぶりや、アンドリューのオヤジ化と比べると、40過ぎてもルックスを維持しているジョージ・マイケルの自己管理能力は、意外にもけっこう高そうだ。 私は完全右脳人間ジョージがサバイブできた原因について考えてみる…という無駄な事ばかりに頭を使うのだが、「強運」はもちろんとしてどうやら正解は家族、特に母親のようだ。 多くの芸能人と比べて、彼は比較的まともな家庭に育ったらしい。両親が揃っており、母親はきれい好きで掃除が得意。成人してからも、ジョージの身の回りの面倒を見てくれた。なんて幸せなジョージ。 その分、後年母親の死で大打撃を受けるわけだが、やはりマトモな家庭に育ったというのは、芸能人が身を持ち崩さないための最後の砦と言って間違いなさそうだ。 そしてもうひとつ、宿題が出来てしまった。飛びぬけて才能あるアーティストはなぜほとんどゲイなのか。 なにか右脳と関係ありそうな無さそうな…。(続く。)
[CS・衛星(字幕)] 7点(2008-04-09 17:45:24)(笑:1票) (良:1票)
296.  天使にラブ・ソングを・・・ 《ネタバレ》 
ストレスを極力排除した楽しいコメディ。別の言い方をすればご都合だらけ。なんだけど、こんなに愛される映画となった理由の第一はもちろんウーピーだろう。あと、「カソリックの尼さん」ネタをうまーく扱ったところ。 「尼さんは撃てない」とか「尼さんの要求は断れない」とか「尼さんだらけで見分けがつかない」とか…非常にうまいと思う。尼さんギャグをいくつも考えるのはさぞ楽しかっただろう。 非カソリックどころか非キリスト教国である極東日本の観客としては、「カソリックの尼さん」の位置、意味について、興味深く学べるところがある。あのお衣装には「禁欲」以外にも「威圧」とかいろんな意味がありそうだなあとか。「坊さん」より「尼さん」のほうが「より聖なる」存在とされているようだなあとか。それは禁欲と深い関係がありそうだなあとか。 カソリックの尼僧の衣装というのは、いついかなる時でもすべてのエクスキューズになるみたいだなあ。それを本作は最大限に生かしている。 「デッドマンウォーキング」という映画で、スーザン・サランドンがとある宗派の尼僧を演じていたことを思い出す。そこの宗派では、尼僧は例の衣装を着ないのだ。普通の私服なんである。…普通の格好で刑務所に乗り込む彼女に、飢えた囚人たちの無遠慮な視線が浴びせられる。刑務官も迷惑そうに「なぜ尼僧の格好をしないのか。囚人には目の毒だ」と言う…なんて場面がありました。あの衣装は、「禁欲」と引き換えに、尼さんたちをすべての世俗的な害から守る役割があるみたいです。 非美人女優のウーピー・ゴールドバーグが堂々の主役を張り、しかもマフィアのボスの愛人…有り得ないような気がするが、最初から最後まで出ずっぱりでも「非美人」がマイナスにならず楽しめてしまうという本当にふしぎな女優さん。「包容力」という言葉が最もふさわしいと思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2008-04-07 13:01:57)(良:1票)
297.  THE THING ザ・シング 《ネタバレ》 
これはないだろうと確信して検索したら、やはりここのレビュアーさんはすごいものでちゃんとありました。 コレはちょっと、パッケージと邦題で50%くらい損をしている作品ですね。翼を広げた怪物が思い切りパッケージに踊っているようでは、手に取った瞬間げんなりするというものです。しかし、なぜだか妹がレンタル流れ品を購入してきたため、一応見てみるのだった。 や、これは超低予算映画のワリにはマトモな作品だ。まず脚本がなかなかのものだ。 彼氏も死んでヨウムのホッピーちゃんとしか会話ができなくなる状況とか、ダニーの罪の意識の見せ方とか、埋めても埋めても戻っている死体とか、よく考えられた脚本だと思う。というか、けっこうセンスが感じられる。 演出、私はちょっと、揺れまくるカメラワークが×だった。カメラが揺れるのは嫌いだって言っているだろ!と虚空に叫んでみる。 さて問題の女優さんだが、美人というのではないが見るからにカソリック顔で巨乳だ。そして、決してデブと相まって巨乳なのではなく、ハラは引き締まり尻は小さく足は細くスラっとしている。 んで、結局その超ナイスバディの無名の女優さんを、舐めるように撮りまくる…というのが演出方針だったようだなあ。それは大きく正解だろう。同性の私とて、この女優さんのボディには釘付けになってしまった。が、よく見れば、演技も悪くない女優さんだ。しかし、顔からすると大作で主役を取ることはあるまい(涙)。 ホッピーが戻ってくるラスト、有り得ないけど私は好きですね。けっこう、女性に好まれそうな作品なんだけど、いかんせんパッケージと邦題で…。
[DVD(字幕)] 5点(2008-04-01 10:10:46)
298.  真夜中の弥次さん喜多さん 《ネタバレ》 
でいでいでいでいっ。サンデーマンデーてやんでい。 面白いっ。 クドカンという人は外見が果てしなくショボイのであるが、やはり才能ある人の例に漏れず、己の見た目などに構わず余分なエネルギーを全部クリエイトに回しているタイプだったのだなあ、と再認識。 原作のマンガについては未読だが、傑作であるとの批評は目にしていた。 しかし、クドカンが脚本のみならずメガホンまで取らなければ、よくある陳腐な作品として忘れられていく凡作になったであろうまちがいなく。そのくらい、「俗」に流れずにシュールに笑わすのは難しいと思う。 長瀬については1%も期待していなかった私だが、冒頭から「てやんでい」の切れの良さに感心しきりとなる。おお、長瀬、悪くないかもよ。長瀬にこんなに突っ込みの素質があったとは意外だ。地蔵突っ込み、コダマ突っ込みなど、いずれも悪くない。 そして、なんと「明治天皇(ラストサムライ)」から「ホモで薬中の金髪」へと大変身を遂げた七之助。すでにその役柄の落差だけでいかにもシュール。 ジャニーズと歌舞伎がホモの恋人どうしで絡み合っているという、有り得ないシュールな光景はこの映画ならではなり。ヘタウマの絵や「おまえ」「おいら」「ゆかた」などの殴り書きもばっちり合っている。 私は、日本人はブラックな笑いを作るのが下手だと思っているけれど、クドカンについては全くそんなことはない。クドカンはすごい。これを見た松本仁志は嫉妬にかられて初メガホンを取ったのではないかと私は思う。まちがいなく松本のライバルは北野武ではなくてクドカンである。 「何がリアルか」「リアルには自分の思い込みが入っているのではないか」「思い込んだらそれは現実か」という深遠なテーマに沿って、次から次へと有名人が登場しては笑わす。これはこたえられない面白さだ。ぜひともクドカンのすごさを堪能してほしい。 ひとつ残念なのは、これだけ有名人を出しているのだから、バーテンはぜひともクドカンとも親交のある及川光博にしてほしかったところ。こういうチョイ役よくやってるのになあ。忙しかったのかなあ。 とにかく面白いです。イケてます。イチオシのギャグはナカムラ父の「夜でもアーサー」。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2007-12-24 15:51:42)(良:2票)
299.  有罪判決/法廷に隠された真実 《ネタバレ》 
ひさびさに見ごたえのある法廷ものを見た。 これは殺人事件とか法廷に場所をとっているというだけで、本来は心理モノとして見るのがいいと思う。ハリーが3人を殺害するについては、事前準備や殺害の詳細についてさえ全く描写されない。観客は「罪を犯した」という動かぬ事実として知らされるのみ。事件モノでは全然ない。 主人公の弁護士ロイが、自宅に帰らずあちらこちらを忙しく往復する様子を時間軸に沿って描く話だが、その訪問先の空気感の違いに注目したい。 ロイ対ハリーの場面では、交わされる言葉は少なく、すべてが深く重く、心の奥に突き刺さる。教会とか、病院のカウンセリング室とか、そういう空気感がする。 ロイ対「俗悪にまみれた勝ち組の人々」の場面では、すべての会話が「利益」を中心に回っていて、「利益」を超える価値観はそこには無い。ハリーとの対話で「神」とか「罪」とか「償い」とか「慈悲」についてしみじみ語り合った後に、思い切り脂ぎって「次の検事選に」とかいう会話をしているわけだ。この落差が見事である。 そしてもうひとつ、忘れてならないのはロイ対メル(事務所の手伝いのおっさん)だ。 メルの役どころとは何か。それは「俗悪にまみれて勝ち組を目指しているロイの心に埋もれた良心」である。ロイは、己の行動に自信が無くなったとき、メルに「これでいいのか」とたずねている。 バーでのウィスキーによる「洗礼」場面は、奇異に感じられるだろう。ロイに「これでいいのか」と聞かれていたメルの答えは「洗礼」だった。洗礼を受けるということは、メルの言うとおり、「天国へ行くか、地獄へ行くか、どちらかしかなくなる」ということで、メルは「ここから先は、常に〝何が正しいか〟を意識して行動しろ。さもなくば地獄行きだ」と言っているのだ。自分で決めるしかないのだ。 ハリーの妻との密会については、法廷でハリーに妻を責めさせる材料とするための強引な設定だったと思う。ハリーの無念さをそそってドラマ性を高めるための材料とはいえ、主役がアレック・ボールドウィンなのだから、依頼人の妻を食ってしまうなんてあまりにも当たり前に過ぎて、気に入らない。これは非常に残念だ。 が、全体としては見事な脚本とキングズレーの怪演で良作に仕上がっている。私には、ハリー、ロイ、ハリーの妻、メルのセリフは、ひとつひとつ深く心に落ちるものだった。なかなかそういう作品はない。
[CS・衛星(字幕)] 9点(2007-12-17 14:34:20)
300.  やかまし村の春・夏・秋・冬 《ネタバレ》 
前作では、ほとんどが子供中心の描写で、極力大人を描かないように意識して撮られたように思った。 続編では、けっこう大人が出てきたりセリフも少しある。あくまでも、「子供の耳に聞こえた大人の話し声」としてではあるけれど。 私はリサのお父さんが大好きなのです。あのもったりした口ヒゲの。 なんというか、大人の男性が備えていなくてはならない美質をちゃんと持っている、という感じがする。 吹雪の帰り道、リサたちが偏屈な靴屋の家に避難していたとき、お父さんがソリで現れる。 子供たちは火のそばにも勧められず、温かい飲み物も提供されず、ただ、屋根の下を借りていただけの状況で、扉の開け閉めにも靴屋に怒鳴られていた。…現れたお父さんは、一瞬のうちにそんな状況を察していただろう。 けれど、「子供に対してひどいじゃないか」とか「もっと手厚くしてもバチは当たらん」とか「あんたは冷たい」とか一切文句を垂れずに、お父さんはただこう言うのだ。「グドー、グドー(こんにちわ)」と。 これは、優しくない靴屋に対して「あなたは、共同体のメンバーとして最低限の事はしてくれた。子供たちに軒を貸してくれただけでも、じゅうぶん感謝していますよ。ありがとう。」という意味である。そして、相手が非礼だからといって、己も非礼を真似することは潔しとしない、という子供たちへの教育にもなっている。なおかつ、「あなたが優しくなくても、私はこうしてあなたに対して礼を尽くしますよ。それに対してあなたの態度は恥ずかしくありませんか?」という相手への一撃でもある。…そして、グドー、グドーと言われた靴屋は、それ以上何も言えなくなってしまう、というワケだ。 ああお父さん、あなたはすばらしい。すべての大人の男性のみなさんよ、お父さんを真似ましょう。そして平和な世の中が…やかまし村にしか存在しませんね、やっぱり。 「やかまし村」は、ハルストレムがフィルムに焼き付けた人類の理想郷だった。もしかして監督は、「宇宙へのメッセージ~私たちの地球ではこんな暮らしをしています」といって、無人ロケットに搭載するような気持ちでこれを作ったのではないかしら。あながちマチガイではないと思う。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2007-12-13 20:14:45)
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