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21.  リトル・ミス・サンシャイン 《ネタバレ》 
『悪魔のいけにえ』『ホテル・ニューハンプシャー』『アダムスファミリー』『アメリカン・ビューティー』などなどアメリカ人の大好きなモチーフの一つである「フリーキーな家族像」の映画は、周囲をドタバタと迷惑なトラブルに巻き込んで進行するのが常だが、この映画もまさにそれそのものだ。オフビート気取りのシニカルタッチもこう頻発されると食傷ぎみだなぁとイジワルく観ていたつもりが、ロードムービー開始早々しょっぱなでポンコツワーゲンが故障するあたりからおやおや?っと思いはじめる。みんなで力をあわせなければ動かないし乗り込めない役立たずなポンコツワーゲン。けれど、てんでんバラバラだった一家がワーゲンのために仕方なしの一致団結をくりかえすたびに、それぞれの心の垣根がどんどん消えていく。ついでに気づけば観ているこちらの垣根までもがいつしかスルリと取り払われている。そんな中、負け犬と勝ち馬の法則にこだわる父親リチャードだけが、最後までその垣根を完全には捨て去れずにいる。そんな彼が意を決して幼い娘オリーブのために選ぶ行動は、だからこそ涙が出るほどうれしく、頼もしく、そして感動的だ。とってもとってもとってもバカらしくはあるけれど、それでも。力の限りに頑張る家族が人に後ろ指をさされ笑われるのなら、自分も胸をはって笑われよう!家族みんなで胸をはって笑われよう!それは単に親バカになることとは違う。愛するものを誇りに思い、愛するままに両手をひろげて、恥ずかしがらずに力いっぱいその胸に抱きしめるってことだ。それはあの悪態ばかりの下品なジジイが、率先して実行していたことでもある。まるでその遺志を引き継ぐ決意表明のようにリチャードが踊りだす時、彼はオリーブを家族を、そして亡き父を、ありったけの愛で力いっぱいに抱きしめるのだ。生まれてはじめての泣き笑い(それも爆笑と号泣)をこの映画に捧げてしまったが、こんなにすてきな彼らのためなら後悔はない。やっぱりみんなに迷惑をたっぷりかけたうえ最後っ屁までカマして去っていく彼ら。鳴り響くポンコツワーゲンの壊れたクラクションもまた、やっぱり迷惑で、そしていとおしい。それにしても、ダンスレッスンしてるはずが豹のモノマネごっこに興じるジジイと孫、のシーンにちゃんと意味があったなんて!
[DVD(字幕)] 10点(2009-07-25 00:03:46)(良:3票)
22.  ガタカ 《ネタバレ》 
近未来を舞台としたSF映画でありながら『ガタカ』は、建築、自動車、衣装、さらには登場人物たちの髪型などといったあらゆるデザインを、ことごとくクラシックに描いている。そんな未来像がまず目をひく。そしてそれはうわべの美術的なデザインだけにとどまらない。遺伝子工学の発達という設定こそ未来的ではあるものの、生まれながらにして階級が決定しその階級が人の人生を左右するという思想は、旧時代にこそ色濃く社会を支配していたものだったはずだ。科学は飛躍的に進歩しても、ファッションや社会構造は循環し過去に遡行するという発想が面白い。つまりこの物語は、近未来に舞台を借りて現代人が描いた古典映画なのである。たとえば、兄弟での遠泳競争といった未来どころか前時代的な男同士のチキンレースは『理由なき反抗』を、そして不適正者としてのコンプレックスや屈折を見せる主人公ビンセントの姿は『エデンの東』のジェームス・ディーンを彷彿させるほどだ。あるいは宇宙飛行士として旅立つ「ジェローム」を見送る検査官が、旧き佳き時代の遺物のような伊達男っぷりを発揮するのもまた、それゆえだろう。そう考えるとアンドリュー・ニコル監督は、現代劇や時代劇として描くにはあまりに率直でアナクロニズム溢れるこの物語を語る照れ隠しとして、あえて近未来を選んだのではないかとさえ思えてくる。そんなすばらしきこのクラシック映画の中でもっとも現代的なのは、輝かしいはずの適正者の側の屈折を表現するユージーンの存在だろう。不適正者であるがゆえあらかじめ可能性を奪われたビンセントと、適正者でありながら自らその可能性を唾棄せざるを得なかったユージーン。対照的なはずの二人でありながら、それぞれに隠し持つ魂のその等しい痛みが重なりあいジェロームという1人の人物を創り出す展開が見事だ。ユージーンの最期は、尿や血液のサンプルとしてのみかろうじて存在してきたその肉体の抹消に他ならない。宇宙に旅立ったのはユージーンのサンプルをまとったビンセントではない。2人で1人のジェロームなのだ。ビンセントとユージーンそれぞれの魂を共に乗せて、ロケットは新たな地平を目指すのだろう。
[ブルーレイ(字幕)] 10点(2009-07-24 23:59:13)(良:1票)
23.  台風クラブ 《ネタバレ》 
『ションベンライダー』が思春期一歩手前の少年少女の子ども時代との決別を描いていたとするならば、『台風クラブ』は望まぬ思春期を真っ只中にむかえてしまった少年少女の反撃の映画である。画面には常に後ろめたいような性の匂いが横溢し、いまだ無邪気に見える彼らの背後には、小学生でも高校生でもなく中学生特有の自分の体が大人になっていくことへの畏れと悲しみがそこはかとなく漂う。そんな台風到来直前の思春期的性衝動と渦巻くような胸さわぎ、そして後半の原始的な台風がもたらす不思議な昂揚感と開放感、さらにはそれらをねじ伏せんばかりに見せつける生々しい映画的興奮とがないまぜとなり、まさに台風のように徐々に強大化し、また収束していくさまが圧巻だ。この規格外の豪速球っぷりは、ただごとではない。それほど衝撃的で、それでいてこの映画の粒子一つ一つがまるで自分の細胞の一つ一つであるかのような、あたかも自分の心象風景をまるごと映写されているかのような、そんな懐かしさがこみあげるのはなぜなんだろう。夜のプールの空気感、木造校舎のたたずまい、大西結花が朗々と読みあげる高田敏子の詩「忘れもの」もたまらなくいいが、相米印の型破りな選曲センスも抜群だ。バービーボーイズからはじまりPJのレゲエ、歌謡曲わらべの「もしも明日が」に、エンドロールは運動会の実録音源って!そんな破天荒なDJされちゃった日にはもう、全面降伏でシビレるしかない。恐るべし相米慎二。台風がのこした爪痕である校庭の巨大な水たまり。それを軽々と進んでいく工藤夕貴は、心にのこるであろう爪痕もまた乗り越えていくんだろうか。
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-23 21:58:42)(良:3票)
24.  マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ 《ネタバレ》 
魔法をかけられたみたいに回をかさねて観れば観るほどに大好きになっていく不思議な映画だ。主人公イングマルはまだ子どもなのに、決してさびしいとは言わない。悲しいとも言わない。人工衛星に乗せられて死んだライカ犬や新聞で読んだ不幸な事故に遭った人たちと比べて自分は幸せだ、とただ思うだけだ。それは悲しみをやり過ごす手段というよりも、それこそが、彼にとってできるただ一つの悲しみの表現だからだ。だから、ライカ犬を思う時、それはつまり彼が年相応に泣くことすらできない時なのだ。それがなんともたまらない。両手を広げてむかえてくれるやさしいおじさんおばさん、友だち、そんなあたたかい村の人たちに囲まれて、笑ってはいても彼はいつもどこか所在なさげだ。彼にとっては、どんなに恵まれていようがそこは本当の居場所ではないのだ。彼が行きたい場所は、浜辺でのでんぐり返りに笑ってくれた母親とのまぶしい光景の中にしかない。そんな彼がはじめて泣きわめき、庭の東屋に立てこもるエピソードは、彼が等身大の自分に還るために必要な通過儀礼でもあったのだろう。人工衛星のような闇夜の東屋で、彼は何を思ったのか。やがて朝が来てライカ犬とは違い無事帰還をはたしたイングマルが見つけたのは、あらかじめ用意されていたその場所こそが自分の本当の新しい居場所であるということ。彼はもうライカ犬と自分を比べたりはしないだろう。悲しい時は悲しいと、さびしい時はさびしいと、言うだろう。自分の手でようやくそんな居場所を勝ちとったイングマルが遊び疲れてソファでうたた寝するラストシーンは、戦士のつかの間の休息のようで、ほほえましくも、とてもたくましい。
[DVD(字幕)] 10点(2009-07-23 21:56:37)(良:5票)
25.  天使の涙 《ネタバレ》 
ウォン・カーウァイの映画では、登場人物たちは縦横無尽に街を疾走し、すれ違い、出会い、別れ、また出会い、あるいはまたすれ違う。せわしない彼らの疾走が止むことはない。それは60年代の香港であっても現代の香港であってもブエノスアイレスであってもニューヨークであっても、変わらない。街の動きとはそういうものだと言わんばかりに。撮影監督クリストファー・ドイルが描出する過剰にスタイリッシュな、色と光の洪水のごとき映像。行き当たりばったりなストーリー。ときにポップ、ときに絢爛な美術。スター俳優ばかりを起用した贅沢なキャスティング。カーウァイ映画は、とかくこれらの要素ばかりに着目して毀誉褒貶が下されがちだが、それはとても無意味に思える。なぜならそれらはウォン・カーウァイ独特の目くらましにすぎないからだ。手を変え品を変え装飾されたその表層の下には、常に同じシンプルな主題が恥ずかしそうに息を殺して隠れている。広角レンズを多用し、ひときわ強調される目くらましとはうらはらに、『天使の涙』は彼がもっともすなおにその素顔を見せた作品でもある。ウォン・カーウァイの映画は憑かれたように一瞬を描きつづける。腕時計の秒針の一周を共に見守る一瞬、明け方のグラウンドでポケベルが鳴る一瞬、固い握手をかわす一瞬、そして二人乗りのオートバイの背中に体温を感じる一瞬。心と心が通いあい、魂がことりと音をたてるようなその一瞬。ときに人は永遠を夢みてしまう。『欲望の翼』でマギー・チャンがせつなく演じたスーのように、一瞬の輝きに囚われ、それをつなぎとめたいと必死に願う。そして打ち砕かれる。『天使の涙』では、過去に出会ったはずの男女の片方がまるごとその記憶を失くしているというおよそ現実ばなれしたシークエンスが二度くりかえされる。失恋女は失恋の痛手から救ってくれた武(モウ)をきれいさっぱり忘れ、金髪女は今度こそ忘れられない一瞬を刻むため自分を忘れた殺し屋の腕に力の限りかみつく。人と人に永遠などない。すれ違い、出会い、別れ、またすれ違っていく。それでも人は疾走を止めない。いとおしいその一瞬を少しでも引き延ばすかのようにスローモーションへと変わっていくラストシーンは、奇跡のように美しい。ウォン・カーウァイは描く。その一瞬こそが、永遠なのだ、と。
[映画館(字幕)] 10点(2009-07-22 22:57:13)(良:2票)
26.  さびしんぼう 《ネタバレ》 
映画の冒頭、主人公ヒロキはそのモノローグの中で、手の届かない女子校の生徒たちに過度な幻想を抱き、反対に女性らしい潤いのかけらもない母は子どもの頃から美しい夢など一度も見たことなんかないのだろう、と語る。ものごとの片側だけしか見えない夢見がちなそんな少年の前に、母親の隠されたもう片側の美しい夢(さびしんぼう)が形となって現れるという展開が秀逸だ。けれど彼にとっては見たくない側のさびしんぼうの存在は迷惑でしかなく、思いをよせる少女百合子にたいしても、ヒロキはそのもう片側を決して見ようとはしない。自転車を押しながら憧れだった百合子と歩く奇跡の中でさえ、いつも見つめていた自分の知る側の彼女だけを見ようとする彼は、恥ずかしいからと家の前まで送られるのを拒んだり、ありふれた口うるさい母親の話になぜかステキねとほほえむ百合子のもう片側に、気づくことができない。「あなたに好きになっていただいたのはこっち側の顔でしょ?どうかこっちの顔だけ見ていて。」別れの場面で少女は言う。その台詞は、それがヒロキの失恋であると同時に百合子の失恋でもあったことを意味している。ラストシーンのようにヒロキのかたわらに百合子がいる日がくるとすれば、おそらくそれはヒロキがもう片側をも抱きしめられる男になれたときなのだ。もう1人のヒロキが弾いてくれた別れの曲のメロディとその恋を一生忘れないと16才のヒロキに語る16才のままのさびしんぼう。邪険にあつかってきたそんな母親の悲しい片側をわけも解らずそれでもせいいっぱい強く抱きしめる彼の姿や、木魚ばかり叩いて何を考えているか解らない父親がもう片方の顔を見せて語る風呂場の台詞は、それゆえに熱く深く胸にしみる。極私的な意見だが、坂道で自転車に乗った橘百合子がすれ違うヒロキに見せるそのお辞儀の美しさは、時をかける少女で芳山和子が深町君の家の縁側で靴を揃えるシーンとならんで、大林映画のベストショットだと思う。秋川リサ先生の三度にも及ぶパンティーはワーストショットであるけれど。そしてそれもまた大林映画のもう片側だと言えなくもないけれど。
[DVD(邦画)] 10点(2009-07-20 22:51:59)(良:3票)
27.  BU・SU 《ネタバレ》 
森下麦子はキャリー・ホワイトである。ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』は、家庭にも学校にも居場所を見出せない孤独な少女を悲劇的に描いた傑作だが、市川準監督は怒りと悲しみのなかで死んでいくしかできなかった少女キャリーへのレクイエムとして、この映画を撮ったのではないか。そう思えてならない。『BU・SU』の主人公森下麦子は、キャリーのようにいじめの標的にされるわけではない。むしろ陰湿ないじめを目撃すれば独り敢然と立ち向かうような少女である。つまり彼女の孤独は周りのだれかのせいではなく、彼女自身が選んだ自分自身で乗り越えなくてはならない問題として描かれていく。周囲の人々も、キャリーを助けようとした熱心な教師や同級生のような慈善的な人物は描かれない。彼女の叔母や担任教師ら大人たちの、柔らかくも程よく距離感をもって接するような描写が秀逸だ。麦子は決して救いの手を乞うているわけではないからだ。世界の片隅でじっと押し黙り所在なさげに生きるこの少女を、カメラもまた一歩引いた距離をおいて捉え続ける。切り取られた東京の風景、そこに異物として埋もれるように溶け込む麦子、あるいは学校の駅を乗り過ごし千葉の住宅街をあてどなく彷徨する彼女の姿は、孤独な青春の心象のように忘れがたい印象をのこす。文化祭の演目で失態を演じ、会場の笑い者となる麦子。市川は、『キャリー』においては悲劇の引き金となったそのシーンをそっとスライドさせ、その哄笑のなかにキャリーが決して見ることのできなかった、笑わず真剣に彼女を見守る幾人かの顔を映し出す。それはおそらく麦子を見つめる市川準の視線でもあるのだろう。その目はさりげなくも温かく、そしてとてもやさしい。キャリーのように体育館を火の海にすることなくファイヤーストームに火を灯す麦子。彼女にそうさせたのは同級生津田君の半ば強引な牽引なのだが、劇中麦子にだれかの手がさしのべられる唯一のそのシーンの、なんと力強く感動的なことか!青春とはバイオレンスのない闘いなのだろう。自分との孤独な闘いを一旦終え、晴れ晴れとした顔を蛇口で洗う麦子。青春は決して美しいものではない。けれどだからこそ最後の最後ではじめて見せる彼女の笑顔は、たまらなくいとおしい。個人的には、青春映画において森下麦子を超えるヒロイン像はこの先も出ないだろうと思う。
[レーザーディスク(邦画)] 10点(2009-07-20 00:11:26)(良:2票)
28.  藍色夏恋 《ネタバレ》 
 時代は現代なのにどこか懐かしい台北の町並み。その町の風景に溶け込むように描かれる清く正しい少年少女。傷つき悩みながらもまっすぐな彼らの姿からは、襟を正して生きることの大切さが真摯に伝わってくる。おそらく自分が女の子にモテることを知っているのであろう少年の不敵で屈託のない笑顔。その自信とうらはらのほほえましい悩みと純情。そして頑なな潔癖さと負けん気でそんな少年を突き放そうとする少女。この二人が、なりゆきで校舎の中庭の床に貼られたラブレターを足で蹴ってはがそうとするシーンが面白い。躍起になって互いの足を蹴っ飛ばしているようにも、それでいて二人楽しそうに軽やかにステップを踏んでいるようにも、見える。さらに後半で対比的に描かれる、もう一人の少女が恋の遺品焼却を思い直して火を消そうとする場面の、ひとりぼっちで踊るためらいと嘆きのステップもいい。彼らの足の生き生きとしたその躍動が、青春のジタバタを文字どおり体現していて見事だ。あるいは夜の体育館で二人が衝突するシーンでは、体当たりでぶつかりあう二人を表情が判然としない距離から延々と長回しで写し、彼らが体全体から思いをほとばしらせ格闘する様をまるごと切り取るように描き出す。風をうけて走る自転車の心地よさ、夜のプールや体育館のその秘密めいた緊張感、だれかとならんで眺める校庭と青空、だれかを好きになる気持ち、片思いの胸の痛み、だれにも言えない思いをこめたそれぞれの壁の落書き、そして夏の匂い。そんな青春映画的ガジェットの過剰さが良くも悪くもこの映画の持ち味なのだが、その反面、易智言監督の描写は意外なほどに簡潔で無駄がなく、そして的確だ。少女が少年に告白するある秘密。それが本当なのかあるいはうそなのか、最後まで答えはわからない。それは彼女自身にもまだわからない答えなのだろう。この映画はとってつけた説明や答えなど、一切提示したりはしない。そうして描かれるのはただシンプルに、彼らがその夏を共にしたということ、真正面からぶつかりあい、認めあい、そして最後に笑いあえたということ、それだけだ。その潔さがとてもいい。ならんで自転車に乗る二人。友だちでも恋人でもなく、けれどその夏を懸命に生きたかけがえのない同志として、それぞれの足で未来へとペダルを漕いでいく彼らの姿は、力強く、美しく、まぶしいばかりだ。
[映画館(字幕)] 10点(2009-07-20 00:03:32)(良:2票)
29.  恋恋風塵 《ネタバレ》 
少女の名が雲(ユン)であることはとても重要な隠喩だ。カメラは頻繁に上空を流れる雲を捉える。時にゆっくりと時に急速に、形を変え流れていく雲。さらに候孝賢は全編に渡り幾度となくこの「雲」を連想させるさまざまな装置を散りばめ、そしてくり返す。開巻劈頭からしてそうだ。トンネルを抜けた列車が走る鮮やかな緑の木々は、心なしか微かな靄につつまれている。少年遠(ワン)の乗るオートバイが別れを告げた印刷工場の玄関口に残す排気煙もそうだろう。たばこの紫煙や、線香や冥銭を燃やす煙、畑の野火に至るまで、それらは「雲」の変奏たる風塵として画面に刻まれていく。なかでもいちばん強く印象をのこすのは、兵役に就くため駅へと向かう少年のかたわらで彼の祖父が淡々と鳴らしつづける爆竹だろう。爆竹からたちのぼり、しばし漂い、そしてあっけなく消えていく白煙の儚さは、背景の美しい田舎道の光景とあいまって強烈に胸に沁みる。少女が働く仕立て屋の隣りの建物が家事になるという不穏な煙の挿話もまた、雲の暗喩の一つといえるだろう。やがてカメラは再び上空の雲を捉える。少年が軍務に服する金門の林の梢を一面蔽う、その雲だ。少女の結婚を知り慟哭する少年をじっと見据えたのちに映し出されるこの雲は、それまで描かれてきたそれらとは明らかに違う様相を呈している。それはあたかも永遠に時を止めたかのように、重苦しくそこに停滞している。だが真に驚くのは次の瞬間だ。この不動の雲を捉えたカメラはやがて、カメラのほうが、横滑りに動いていくのだ。悲しみと悔恨で一処に滞り続ける彼の痛みを、まるでそっと押し流すように。単なる横移動に過ぎないこのオーソドックスなカメラワークに、けれど私ははっきりと映画の奇跡を見た。ラスト、分厚い雲間から洩れる陽光が山あいをゆっくりと移動しながら照らしていく。再び流れはじめたその雲と同じ速度で。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2013-04-28 01:18:28)
30.  エターナル・サンシャイン 《ネタバレ》 
人類にとって最も深い悲しみとは何だろう。おそらくそれは大切な何かを、或いはかけがえのない誰かを、「喪失」することだ。家族を友だちを愛犬を恋人を、つまりは愛した誰かを、私たちは時に失う。そうしてある日突然訪れる深く耐え難い悲しみに、私たちは傷つき苛まれる。そんな時、私たちは自らの弱さにまかせて願うだろう。この記憶をまるごと消し去ることが出来たならどんなにかいいだろうと。耐え難い「喪失」をひとまわり大きな「さらなる喪失」でまるごとくり抜いてしまえたなら、と。だが『「喪失」による悲しみをも喪失』した時、人間は本当に幸福なのだろうか。本作『エターナル・サンシャイン』は、一筋縄ではいかない小賢しい話法を用いて恋愛の本質を綴る類いの正直いけ好かない映画だ。だが、いけ好かないはずなのにそれでも私の胸を悔しいほどストレートに打つ。それはこの映画がまさに人類の切ない夢=『「喪失」とさらなる喪失』の物語を驚くほど真摯に見つめているからだ。愛しあい、そして別れたジョエルとクレメンタイン。彼らが再び惹かれあうラストは、恋の奇跡を謳った安直なハッピーエンドにも見える。だが消去した過去と同じように、2人はいつかまた同じ別れに辿り着くだろう。クレメンタインが言うように、2人は同じ道を、永遠ではないその道を、再びいたずらに辿るだけだ。耐え難い「喪失」に靴先を向けて。それでもジョエルは言う。オーケーだと。それでオーケーなのだと。永遠ではない愛に、はたして価値はないだろうか。答えは否だ。断じて否だ。クレメンタインが氷上の記憶を決してぬりかえられなかったように、永遠ではなかった愛にもかけがえのない価値がある。同じ道を行きやがて「喪失」に辿り着いても、おそらく彼らが再び「さらなる喪失」を選択することはないだろう。その時、彼らは耐え難い「喪失」をついに真正面から受け止める。そうしてそれぞれがそれぞれに、耐え難いその悲しみを今度こそ幸福な血肉とする。ラストショットは雪に戯れる2人の姿だ。それはその先のハッピーエンドを示す夢のような未来の光景ではない。ニット帽に隠されたクレメンタインの髪の毛は、それが過去であることを示す赤色だ。それでも、そう、それでも、だ。永遠を叶えられなくてもそれでも、消去されることなく残った記憶は永遠の煌めきで輝き続ける。映画は言う。オーケーだと。それでオーケーなのだと。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-04-02 19:30:32)(良:2票)
31.  ファイト・クラブ 《ネタバレ》 
タイラー・ダーデンが人畜無害な家族向け映画のフィルムに挿し込むたった1コマのサブリミナル映像は、なぜ「男根」なのか。この行為が猥褻物陳列を意図した単に道徳に反するだけのイタズラであるのなら、それは女性器でも構わないはずだ。レイティング規制の問題でそれが無理ならば、ソフトなポルノグラフィであってもいい。だがタイラーは、そして監督デヴィッド・フィンチャーは、大いなる意味をもって、あからさまな「男根」をそこに挿入する。またこの映画は、タイラーとマーラ・シンガーの獣じみたセックスやトイレに浮かぶコンドームなどの性的ニュアンスを多分に含むが、血色の悪いマーラや乳癌のクロエら登場する女たちにことごとく(アメリカ人男性の好む)グラマラスなセックスアピールが欠如していることが象徴するように、実は徹底的にセクシャルの対極にそのベクトルを向けている。つまり本作は言わば、女性器を拒む「男根」の映画なのだ。細胞レベルから、グロテスクに拡大された毛穴や皮膚へ、そしてジャックの喉奥に挿入されたそれこそ「男根」の如き銃創へと這い上がっていく導入部からしてそうだ。そこに同性愛的な意味合いを見出すのは早計だろう。『ファイト・クラブ』はあくまでポルノやセックスではなく「男根」そのものの映画だからだ。先述したサブリミナルの「男根」が勃起した状態のものでないのは、その意味でも必然だ。IKEAの家具を買い占め、コーヒー浣腸で美容と健康を追い求め、トレーニングジムで筋肉を美しくデザインする男たちは、さして必要に迫られているわけでもない鬱病対策に高価なプロザックを過剰服用し、その副作用で勃起不全となる。理想的な都市生活という強迫観念に去勢され「男根」を勃たせることすらままならない彼らは、それがゆえ、性衝動ではなく野蛮な暴力衝動を取り戻すことで「男」になろうとするのだ。高層ビルの窓辺に立ち、崩壊する夜景を見下ろすジャックとマーラ。キスすらせずにただ手をつなぐ彼らは、まるで少年と少女だ。だがそれは永遠に去勢されたはずの少年が、ついに性衝動に目醒める、その瞬間なのかもしれない。フィンチャーは最後の最後にイタズラめいた目配せをする。それはフィンチャーなりのメイヘム計画だ。頭を垂れた「男根」が、お前らはどうだ?と問いかける。「男」になれ、そして勃起せよ、と。それは映画を観る男たちへの覚醒の合図だ。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-01-02 21:13:01)
32.  さんかく 《ネタバレ》 
吉田恵輔監督は宮崎あおいの熱烈なファンであるに違いない、と推測してみる。宮崎との結婚で世間の反感を買った高岡蒼甫が扮する本作の主人公百瀬のキャラクターは、結婚騒動で高岡を逆恨みする宮崎ファンが憎き彼に抱くマイナスイメージそのものなのだ。ビッグマウスでナルシストのくせに器の小さいダメ男。女癖だって絶対に悪いに違いない。こんな奴が俺のあおいちゃんを幸せにできるもんかい畜生!という、やっかみ120%なイメージ。だが面白いのは、吉田監督(および観客)のこのどす黒い悪意を真っ向から受けて立つ当の高岡が 実に生き生きと、このいけ好かない軟弱男を演じ切っていることだ。不敵な面構えを見せた『パッチギ』での好演をも凌ぐ高岡の凄まじい本気っぷりは、演じるキャラクターに反してもはや清々しいほどだ。そして田畑智子。彼女もまた、 かつての天才子役というナメられたレッテルを、ここでついにぶち破る。田畑智子という役者をここまで見事に活かし、さらに神がかったそのポテンシャルを引き出した映画監督は、それこそ彼女のデビュー作『お引越し』を撮った相米慎二以来だろう。多少なりとも角のとれた感のあった前作『純喫茶磯辺』は別にしても『なま夏』『机のなかみ』と、吉田の意地の悪さはすでに折り紙付きだ。だが本作で吉田はさらにその上をいく。ラストシーン、田舎町の畦道にたたずむ男と女と少女のストーカー三角形。幕切れは女、佳代の笑顔だ。佳代=田畑の慈愛に満ちたその表情の何という 美しさ!だがこれは能天気なハッピーエンドなどではおそらくない。劇中、佳代にとっての「愛」は相手をうんざりさせるほどヒステリックに泣き叫びまた見苦しく追いすがるイタい行為として終始描かれる。ではそんな彼女が笑顔を見せる瞬間とは何なのか。自ら両腕を掻き切るほど必死で追い求めたその男の正体を前に、彼女は別人のように柔和にほほえむ。それは「百ちゃんがバカなのは知ってる」はずの彼女がついに真実を悟り、はたと我にかえる瞬間だ。怒濤の愛から醒め呪縛から解き放たれた彼女は、その時本当の意味で男のすべてを赦し、男のすべてを包み込むことができる。菩薩の如き慈愛は、裏を返せば女としての拒絶でもあるという残酷。美しい映像や照明に騙されてはいけない。柔らかく照らし出される田畑智子快心の笑顔。そのラストショットに、吉田恵輔は、愛が今まさに終わる無慈悲なその瞬間を描いている。   
[DVD(邦画)] 9点(2010-11-29 00:01:26)(良:3票)
33.  机のなかみ 《ネタバレ》 
ヒロイン望月望にまるで魅力がないことにまず驚く。覇気もなければ存在感もなく、若い生命力のちょっとした輝きすらない。彼女が日々何を考えどう生きている少女なのか、画面からは微塵も伝わってこない。彼女は空洞のお人形のように、もっと直截に言えば安物のダッチワイフのように、ただそこにいるだけだ。でもそれでいいのだ。彼女は変態家庭教師馬場が創り上げた、まさに妄想上の愛玩人形だからだ。殺風景な勉強部屋は、もはやこの変態と人形を淫靡に繋ぐ装置でしかない。しかしそんな勉強部屋の扉が第三者によってこじ開けられた時、変態男の妄想はあっけなく弾け飛び、そして映画はこの弾け飛んだピースを用いて一から新たな物語を再構築しはじめる。お人形だったはずの望月望は、恋に七転八倒する主人公として、つまりは血の通った生身の少女として、ここに至りついに息を吹き込まれる。なんと冗長かつ馬鹿馬鹿しいイントロダクション!蛍光灯の勉強部屋から一転、柔らかい陽光差す学園風景へと降り立つ望。そうしてようやく描かれるのは、彼女の机のなかみ、そこに仕舞い込まれた等身大の恋の物語だ。世界を朗らかに肯定するジュディマリの『ドキドキ』をはにかみながら歌う望のなんという可愛らしさ!吉田恵輔監督は実に意地が悪い。彼女のこんな生き生きとした表情を件の変態は逆立ちしても見ることができない。望が見るきらきらとしたその世界に、彼の居場所は無いのだ。デートを終え家に帰りさらに翌日になっても望の歌声は続く。幸福な胸のときめきと、高らかなその余韻。けれどやがて物語は意地悪な監督があらかじめ提示したタイムリミットに辿り着いてしまう。扉は再び容赦なく開かれ、不純な馬場と同様に望もまた手痛い罰を受ける。可憐に涙をこぼすより先に少女は無様な鼻血を垂れ流す。だがそれは、彼女が血の通った生身の女の子であることの強烈な証でもある。どれほどの醜態を曝してもどれほどの痛みを経験しても、この少女は生きている。そして生きていく。望の見る世界に馬場の存在など実は無いに等しかった。それでも彼と訪れたバッティングセンターだけは、いつしか彼女の立つ世界の一部となっている。それはとても幸福なことだ。彼にとっても、彼女にとっても。そうして経験も痛みもかさぶたに変えて、望はそこに立つ。壁に貼られたみすぼらしいホームラン賞の短冊は、少女のかけがえのない勲章だ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-09-17 23:24:22)(良:2票)
34.  下妻物語 《ネタバレ》 
下妻と代官山の往復はちょっとした小旅行だ。そんな一人旅もステキなお洋服のためなら桃子にとって苦にはならない。彼女してみればむしろその距離は、誰にも邪魔されることなくロココ時代のおフランスに思いを馳せ、うっとりと夢見心地でいられる至福の時間ですらあったかもしれない。しかしイチゴと二人出かけた代官山から(水野晴郎のせいで)一人下妻へと帰らねばならなくなった桃子に、唯我独尊を突き進むいつものパワーは無い。それは至極単純な、けれどおそらく桃子にとっては革命的な、さびしいという感情だ。あの子がいなくてさびしい、という気持ち。そのさびしさは幸福の裏返しでもある。出先でケンカ別れしても結局は同じ駅に戻ってくる、別の電車で先に帰り着きながらも雨宿りを装い自分を待っていてくれる、かけがえのない友だちがそこにいてくれる幸福。このすばらしき幸福を前に桃子は、かつて家を出て行く母に幼い彼女自身がうそぶいた人生哲学そのままに、臆病に立ちすくむ。そんな桃子を一点の曇りもなく信頼し、大切な宝物=特攻服を託すイチゴ。そしてそのイチゴの宝物を胸に、自分の宝物=BABY, THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服が濡れるのも構わず雨の中へと飛び出して行く桃子。意を決し今まさに幸福へと踏み出す桃子のその一瞬の後姿を、中島哲也監督は心憎いストップモーションで、ほんの少しだけ引き延ばす。一方、「会いたいよ」とガラにもなく弱音を吐く桃子のためなら地球の裏側まででも原付で駆けつけるイチゴ自身は、桃子に自らの弱さを決して見せまいとする。借りは絶対に返す主義のイチゴとって、自分の弱さを他人に曝け出すことなど御意見無“様”な恥にほかならないからだ。そんなイチゴが最後の最後、ついに桃子に打ち明ける。借りは返さないと。あまりにデカすぎて返せるわけがないと。それはまるで愛の告白ならぬ、友情の告白だ。かけがえのない友だちが心強くそばにいてくれること、そんなデカい借りを一体だれが返せるだろう。思えば当初イチゴに語られた桃子の主義は、自分は返さなくていいものしか人に貸さないというものだった。つまりは貸すのではなく、あげるのだと。冷淡なロリータ娘のこのねじくれひねくれた思想が、いつしか一転、まっすぐに友情の真理を貫く。そう、友情は貸すものでも借りるものでもなく、ただ互いに、あげるものなのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-07-22 17:20:29)(良:5票)
35.  息もできない 《ネタバレ》 
主人公サンフンは見知らぬ女を執拗に小突いている男を殴り倒し、うずくまり怯える女の頬を今度は自分が叩きながら「お前は殴られてばかりでいいのか?」と問う。その直後、彼の後頭部めがけて振り下ろされる強烈な一撃。わずか数カットで主人公の生き様を示唆するこの冒頭から以降も、映画は幾度となくこうした「反撃」を繰り返す。反撃とはつまり暴力の連鎖だ。ヒロインたる不敵な少女ヨニとの出会いすら、彼女の勝気な平手打ちへの過剰な反撃として描かれる。だが、ひるむことなくこの暴力男と渡りあうヨニが彼に突きつけ求めるのは、反撃へのさらなる不毛な反撃などではなく、缶ビールの形を借りたささやかな詫びと落とし前だ。石段にならんで座る二人に流れる静謐は、サンフンの凶暴な人生哲学が初めてゆらぐその一瞬でもあっただろう。かつて暴力により家族を奪った父に「反撃」として制裁を加える彼にとって、暴力とは元来憎悪すべきものであったはずだ。殴る男(父)への憎しみから受動的に端を発した彼の暴力が、けれど次第に能動的衝動へと肥大し、かつての父のそれと相似形を描いていく恐ろしさ。その矛先は取り立て屋として訪れた先の債務者や手下の弟分に向かう。制裁を超えた私刑として下される父への「反撃」もまた然りだ。原題が示す「糞にたかる蝿」のように強迫観念にも似た暴力衝動に囚われ、自らこそが怪物となるサンフン。一方そんな彼にとっての菩薩となる、自分自身傷だらけのヨニ。互いの過去を嘆くでもなく胸に秘めたまま、夜の漢江のその畔で、痛々しい膿を搾り出すが如く涙をこぼしあうサンフンとヨニ。だが慟哭するサンフンに膝を貸し嗚咽をこらえるヨニが彼女自身の膿を出し切ることはないのだ。容赦のない連鎖の罰を受けながらも魂を浄化するように息絶えるサンフンと、その亡骸を前にやはり懸命に嗚咽を殺すヨニ。そして膿を吐き出せぬままの彼女が回想する、膿の元凶たる母の死。その余白にちらりと過る男の影がやがてくっきりと焦点を結んだ時、ヨニはサンフンの遺した幸福な光景と、等しく彼の遺した拭い去れぬ糞の痕跡、そのはざまに息を呑んで立ち尽くす。彼らのささくれだった魂がまるで閃光のように強烈に、フィルムにそして私たちの眼に焼きつく。恐るべき傑作だ。
[映画館(字幕)] 9点(2010-05-13 17:20:14)(良:3票)
36.  セーラー服と機関銃 《ネタバレ》 
相米映画は荒唐無稽な反面、いつもその「重心」をしっかりと大地におく。主人公たちは絵空事の住人でありながら、まるで万有引力に則るようにその足を地に着ける。相米慎二は本作の薬師丸ひろ子をはじめ起用した数々のアイドル女優たちにシゴキの一環としてたびたび四股踏みをさせたというが、四股はまさに大地を両の足で力強く踏みしめる行為だ。彼女らは突飛な世界を生きながらも現実世界の私たち同様、ふわふわと空を翔る自由ではなく、重力に従い地上につながれる不自由=体重を持つのだ。たとえば『台風クラブ』の工藤夕貴は教室の窓枠に頭を挟み、自らの体の重みを感じる。『雪の断章ー情熱ー』の斉藤由貴も、バイクの後部座席でのけぞりアスファルトすれすれに重心を傾ける。重力を体感するように幾度となくプールや川の水に落ちる『ションベンライダー』の河合美智子もそうだ。幽霊として存在する『東京上空いらっしゃいませ』の牧瀬里穂ですら、つかのまの生命と引きかえに確かな重みをもって地上へと落っこちてきた。相米映画において「生きる」ということはつまり、大地を踏みしめる自らの体のその「重み」なのだ。重力に負け、落下するピンポン球よろしく「重み」を汚泥に突き刺す『台風クラブ』の三上祐一はその逆説だろう。本作『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子も例外ではない。まるで両手で地球を支えるような「えび反りブリッジ」という異様な体勢で登場し、地べたに座り込み、さらには堂に入った四股踏みまで見せる彼女は、ヤクザの居並ぶ校門へとおっかなびっくり、けれど一歩一歩踏みしめ進む。彼女はその意味でまさに相米映画の申し子と言える。だからこそ彼女に迫る危機は、クレーンやら十字架やらに吊るされること=その足を地上から切り離されることとして表現される。遠景の長回しで延々捉えられる雑居ビル屋上での終盤、表情すら識別できぬ豆粒のような薬師丸がそれでもやるせないかなしみを強烈に発散させるのも、豆粒ながらけなげに動き回る彼女の一歩の重みがちゃんとそこにあるからだ。王道アイドル映画的ラストも同様だ。地下鉄の通風孔の上、翻るスカートから覗く薬師丸の脚。履きなれない赤いハイヒールでそれでもゆるぎなくしっかりと、彼女はそこに立つ。はちゃめちゃでくだらないこの物語を駆け抜けた薬師丸ひろ子の、そして星泉の、小さな、けれど確乎たるその生命の輝きと重みが、間違いなくここにはある。
[DVD(邦画)] 9点(2010-04-02 16:32:27)
37.  パッチギ! 《ネタバレ》 
井筒監督がここで描くのは単なる暴力ではなく、あくまでコミュニケーションの一形態としての喧嘩だ。たとえ不毛ではあっても、血気盛んなアンソンたちにとって喧嘩上等はある種の身体言語であり、彼らなりのせいいっぱいの自己表現なのだ。アンソンの弟分チェドキが主人公康介に打ち明けるように、本当はそれが怖かったとしてもだ。だからこの映画が描くアクションは、一つのこらずそんな彼らの「生きる」そのことに直結している。生きるということはつまり、この困難な世界にそれでも頭突き=パッチギをかますべく立ち向かう、そのことにほかならないだろう。時に流血するほど過激にエスカレートする彼らだが、その姿が一方でどこか清々しいのは、解りあえず敵として立ちはだかる憎き相手もしかし自分と等しく生きるべき人間なのだということを、当たり前のこととして野蛮なはずの彼らが知っているからだ。人間はそれでも等しく人間なのだ、と。この映画が終始一貫ひたすらに語ろうとするのは、つまりそれだ。友情を誓いあったチェドキの葬儀の席で「お前は日本人だから」と遺族に糾弾される康介。一人涙にくれ、橋の欄干で大切なギターを叩き割る彼の姿は、朝鮮部落のみすぼらしいあばら家の、チェドキの棺も入らぬ小さなその入り口を、泣きながら懸命に叩き割るアンソンの姿にぴたりと重なる。日本人であることと朝鮮人であることが、同じ大切な友人を失ったこの二人の等しい悲しみすら別次元に分断してしまう現実。それぞれにその厄介な現実にどうしようもなく打ちひしがれる二人は、けれどそれでも同じように傷つき、そして同じように涙をこぼすのだ。そんな中、急速に浮き上がってくるのは、アンソンとの子を身籠る桃子の存在だ。ライオンと豹のあいの子レオポンをしきりに見たがった彼女の出産は、まさにこの物語の軸となる。そうしてイムジン河の「分断」から「融合」としてのレオポンへと、堰を切ったように雪崩込んでいく大団円。それぞれの熱くほとばしる血潮が一つの心臓へと巡っていくように、桃子の腹に宿る生命めがけて、映画はいつしか漲る力強さで確かな鼓動を脈打ちだす。それは日本人だからでも朝鮮人だからでもなく、人間がただ人間として生まれ来る上で等しく奏でる、逞しく尊いその心音だ。井筒はそうして、生きることを、生き抜くことを、つまりはパッチギることを、惜しみなく、ただひたすらに祝福するのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2010-03-14 00:45:30)(良:3票)
38.  転校生(1982) 《ネタバレ》 
『転校生』のプロットはまさに画期的かつ奇想天外だ。だが本当に面白いのは、この突飛な設定に反し本作が実は一貫してオーソドックスな青春映画でありつづけようとすることだ。一美が一夫であり一夫が一美であるという彼らの身に起こる一大事は、言わば本人たちがただ勝手にそう主張し上を下へと大騒ぎしているだけに過ぎない。つまりは彼らがいかにハチャメチャな騒動を巻き起こそうと、映画はひたすらに何の変哲もないありふれた青春の、それゆえ美しい日々を、ただありのままに捉えるのだ。そんな風にして描かれるのは、だれしもがかつて学校の音楽室で耳にしたはずの入門編クラシックと、郷愁をさそう尾道の町並み、そしてそんなノスタルジアを背景に先述の二人がくりひろげるそれこそ古典的なまでのドタバタ喜劇。それらを奇を衒うことなく綴っていく大林宣彦監督のその視線はいつにも増しておおらかだ。彼が前作『ねらわれた学園』や次作『時をかける少女』では一転、角川映画の製作費を投じ大林印のきらびやかな特撮を駆使していたことを考えると、そうした特撮を徹底的に除いた本作のカラーは低予算ゆえの決断だったかもしれない。だが逆に言えばその英断ゆえ、本作は大林印に免疫のない観客層にも訴求する力を持つ作品となってもいる。一美役に起用した小林聡美がいわゆる大林印の美少女でないことも然りだ。主人公二人の内面だけに起こる目に見えない奇想天外、それを特撮もデコレーションも排したありきたりな風景の中でファンタジーとして体現できる女優は小林聡美をおいて他にいないだろう。「さよなら私」「さよなら俺」、手をふりあう一美と一夫。それは転校生とそれを見送る者とのセンチメンタルな別れであると同時に、子ども時代というファンタジーの終焉でもあり、さらには人知れず悩める思春期との決別であり、また、初めて意識しあった「異性」との別れでもある。望遠レンズでも追いつかないほどにどんどん小さくなっていく「俺」はいつしか「あなた」となって、別れに胸を痛めながら、それでも健気に軽やかなスキップでまたその先を進んでいく。そうして八ミリの中の豆粒のような斉藤一美は、消える寸前、ついに芳山和子や橘百合子に負けない大林映画の美しきヒロインとしてフィルムにくっきりと焼きつくのだ。「さよなら俺!」、やさしくささやくような一夫の、その言葉と共に。
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-03 03:05:57)(良:3票)
39.  トゥルーマン・ショー 《ネタバレ》 
モニターに映るトゥルーマンの頭を撫でながら、我が子をいとおしむように、年老いたプロデューサーは言う。「君をずっと見てきた。君が生まれた時、最初のヨチヨチ歩き、学校に上がった日、最初の歯が抜けた時。」彼はトゥルーマンにとって創造主でもあり、また父でもあるのだろう。町は大掛かりなベビーサークルだ。その箱庭の中、意のままに息子を操ってきた父にとってたった一つの誤算は、従順な駒として動かし得た息子にもけれどいつしか一個の人間として自発的な恋という感情が芽ばえてしまうということだ。父が選びあらかじめ用意した娘とではなく、父の思惑ではエキストラに過ぎなかったはずの娘とアクシデントのような恋におちるトゥルーマン。それは予定調和の庇護の下、安全に飼い殺されるばかりだった彼に芽ばえるはじめての自我だ。情報はすべてパブリックに管理・操作され、一片のプライベートな秘密すら許されぬ筒抜けのその世界で、それでも彼が胸にひた隠し貫く恋。全てが監視下に置かれているとも知らずこっそりとファッション雑誌を切り抜き、初恋の記憶を辿るままに遥かフィジー島を目指すトゥルーマンの姿が感動的なのは、絶対なる父の手をもってしても決して届かぬ私的なその感情だけが、盤石でありながらすべてが作り物の彼の人生において、ただ一つの、ウソ偽りない「本物」だからなんだろう。そうしてトゥルーマンは絶対的な神の手を、つまりは強大な父の支配を、かいくぐり突き進む。まるで永遠のモラトリアムから脱出を図るように。一方の父は、かつて神が人間にそうしたように、自我を持ち意に背く恩知らずな息子に、罰を下す。巻き起こす天変地異により愛する息子を死の危険に曝してでも、その巣立ちを阻害しようとする。そんなすさまじい父と子の姿から浮かび上がるのは、自立とは決死の闘いであるということ。この一人のいい年をした男の遅咲きの成長譚は、だからこそ意外性に富み、実に感動的だ。ついに遂行されるトゥルーマンの力強い羽ばたき。彼の勇敢なその突破に我々は快哉を叫ぶだろう。だがそんな私たちもまた結局は見世物としてトゥルーマン・ショーを消費しているに過ぎないという痛烈な皮肉が、安直なカタルシスを頑なに拒む。扉の向こうからやってきたトゥルーマンが辿り着くのはハッピーエンドなのか、それとも次なる関門なのか。それを決めるのは、まさに私たち次第なのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2010-02-27 11:18:25)(良:1票)
40.  ファントム・オブ・パラダイス 《ネタバレ》 
「何の取り柄もなく人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る」最後の最後で歌われるこの歌詞の、何という身も蓋もなさ!そして何という負け犬根性!けれどこの負け犬の滑稽とかなしみこそが、デ・パルマ節なのだ。出ばなから一見して挙動不審で変人丸出しの主人公ウィンスロー。けれど彼は、だからこそデ・パルマ映画の主人公たりえるとも言える。焼き払いたいほどに憎悪する屈辱のレコードの型を、よりによって自らの顔にプレスしてしまう彼の姿は、豚の血をあびる『キャリー』や『BLOW OUT』において愛するサリーを救い損ねるジャックのように本作以降もデ・パルマが繰り返し変奏していく一つの主題、つまりは非力な負け犬にまさに烙印として下される逃れられない絶望、その原型でもある。仮面とマントと人工声帯をもって暗がりにのみかろうじて存在しえるこの怪人は、自分の歌も声も顔も人生もそして存在すらも奪った男スワンと愛する女フェニックスとの閨房を、ただ天窓の外から悲しく覗き見るしかできない。雨に打たれ慟哭するその無防備な背中を監視カメラに曝して。ラスト、それでもただまっすぐに愛するフェニックスへと差し出される彼の手。狂喜乱舞する観客たちの歓声は遠のき、美しい旋律に変わり、流麗なスローモーションでカメラが捉えるのは、ステージをみじめに這いずり回りそれでもまっすぐにフェニックスへと最期まで手をのばし続けるウィンスローの姿だ。それは哀れな負け犬の無様なセンチメンタルかもしれない。目を覆うほどに醜くみっともない男の滑稽な死に様かもしれない。フェニックスの声は彼の耳にはついに届かなかったかもしれない。それでも、そう、それでも。フェニックスはようやく言うのだ。その亡骸を抱きしめて。存在を奪われ、この世から消されてしまったはずの彼の名を。ウィンスロー、と。
[DVD(字幕)] 9点(2010-02-23 02:01:01)(良:1票)
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