541. この空の花 長岡花火物語
いわゆるナチュラルさを装った小芝居を潔しとせず、あえて棒読みさせてまでも俳優に 「日本語」を的確に発音させる事を重視してきた監督である。 ここではさらに徹底し、台詞は元より新聞記事から擬音語・字幕まで動員して 画面に活字を展開させ、言葉へのこだわりを見せつける。 映画と演劇とアニメーションが合成され、渾然となる炎のクライマックス。 フィクションとドキュメンタリー。言語と身体。過去と現在。花火と爆弾。 そして現実とファンタジー。 それらがパワフルに一体化し、エモーションを形成する。 花火もよく撮れているが、やはり一輪車に乗った少女の 中空で揺れるようなモーションとイメージがなかなか秀逸だ。 [映画館(邦画)] 7点(2013-04-21 04:46:36) |
542. ムーンライズ・キングダム
一方で『ダイ・ハード』最新作のようなタフな役柄があるからか、 ブルース・ウィリスの人間味滲む警官役が実に新鮮に感じられる。 ちょっと小生意気な感じの少年少女たちとの相対効果もあろう。 冴えない彼とジャレット・ギルマンの、テーブルを介しての対話がユーモラスだ。 そして青いシャドウが印象深いカーラ・ヘイワード。 彼女が覗く双眼鏡も映画の小道具としていいアクセントである。 二人の逃避行に幾度か訪れる危機。追いつめられて絶体絶命となる少年。 その突破方法にせめてもう少し工夫が欲しい。 これでは安易すぎて、単にはぐらかされただけのようにも見える。 『ナイト&デイ』等のように、その出鱈目さが味になる作品もあるが、 ここではそぐわないようだ。 結果的に活劇にもなり損ね、クライマックスのサスペンスにも繋がっていかない。 [映画館(字幕なし「原語」)] 6点(2013-04-20 00:38:11) |
543. 舟を編む
宮崎あおいの「上で食べよう。」のシーンから、十二年後のシーンへ転換する鮮やかさ。 のちに登場する「香具矢さんは馬締さんの配偶者なの」といった台詞の妙が 石井監督らしくて面白い。 または、加藤剛の死去の場面。 病院の廊下に立ち尽くす松田龍平の横顔から、喪服姿の松田・宮崎が傘を差しながら 坂道を登ってくるロングショットへと画面は転換する。 そして二人が蕎麦を一口すする静かな食卓のショットが窓の雪を映し出す。 そのカメラワークが情感に溢れ、素晴らしい。 この手の物語でありがちなパターンである、 結婚式やら恩師の死やらの劇的イベントに時間を割いて感傷的に盛り上げるといった 媚びになるシーンをことごとく割愛してみせる節度ある姿勢に 非常に好感を持つ。 酒を飲めなかった黒木華が、ビールを一気に飲み干す。 吃音っていた松田龍平が、自然に仲間たちと会話を交わし、チームを統率する。 ツマを盛りつけていた宮崎あおいが、凛とした立ち姿で主菜をふるまっている。 外見の変化だけに頼ることなく、具体的な行動の変化によって 時の流れと人の成長を描く。そうした演出方法も真っ当だ。 ほぼ全てのキャラクターが善良すぎる点は玉に瑕だが、 オダギリジョー、小林薫、伊佐山ひろ子などなど、いずれの配役も味がある。 書物の積み重なる編集部や下宿の内装美術も相当に凝っており、素晴らしい。 [映画館(邦画)] 8点(2013-04-19 08:35:33) |
544. オズ/はじまりの戦い
2D版を鑑賞。 噴煙の中に浮かび上がる『イングロリアス・バスターズ』のような映画内映画。 『蜘蛛巣城』のように、白霧と共に押し寄せてくる軍隊の影。 枯葉の落下や草の揺れなど細やかな動きに満ちた、高精細に造形された森の美術。 これらの立体的イメージはぜひ3D版で味わいたかった。 映画こそ魔法。その主題が声高でないところが好ましい。 透過光と火炎を派手に使った魔法合戦もよいが、マリオネットのレトロな味わいを残す 陶器の少女の愛くるしい仕草も絶品である。 あるいは幻燈のキスや、シルエットによるメタモルフォーゼなど、 簡素で古典的で不可視の表現ほど観客の想像を掻き立て、 画面に引き込む事も弁えているようだ。 暴力と正義のテーマ性を含ませたドラマだても『スパイダーマン』の監督らしく、 ラストの魔女同士の対決なども、地味ながらサム・ライミらしさがあっていい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2013-04-16 00:19:39) |
545. ヒッチコック
劇場内の観客の反応をロビーでリズムを取りながら聴くアンソニー・ホプキンスの 満足げな姿は、『フレンチ・カンカン』のジャン・ギャバンのようでもある。 『映画術』での、「大衆のエモーションを生み出すために映画技術を 駆使することこそが歓び」であり、「観客を本当に感動させるのは、 メッセージでも名演技でも原作小説の面白さでもなく純粋に映画そのものなのだ。」 との監督の台詞がこのシーンに体現されている。 その意味では、ヘレン・ミレンのいかにもな「名演技」臭に少々くどさも感じるが、 いずれの役者もモデルに似せる以上のアプローチを目指していて、 演劇的な楽しさに満ちている。 セロリを齧る咀嚼音や、ソファの軋む音など、 さりげなく不穏を掻き立てる音使いとその積み重ね。 装置としてのプール、水着などのドラマへの活かし方もいい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2013-04-14 22:04:42) |
546. フタバから遠く離れて
映画中盤に、双葉町へ一時帰宅する避難家族たちの模様が映し出される。 舩橋淳監督ら撮影クルーも同行しているが、幾つもの家族を追うには限界がある。 監督から預かったビデオカメラだろうか。取材対象であった中井裕一さんは 自ら機材を持って、被災地の様を記録していく。 墓参に訪れた墓地は荒れ果て、あちらこちらで墓石が崩れている。 中井さんの慨嘆の声。カメラは激しく動揺し、忙しない。 時間がない、と怒鳴りながら親を急かす中井さんの切迫した声が胸を衝く。 限られた時間の中、頼まれてきた思い出の品々を家具の中から慌ただしく探し出す 一時帰宅者たちには悲しむ余裕も無い。 一方で、避難所の家族たちに寄り添うローポジションのカメラ、 牛舎の中で餓死している牛たちの惨い姿に正対するカメラの意志的な構えと スタンスは揺るぎなく、厳しい。 民主党の海江田・細野らによる恐るべき珍セリフも忘れがたい。 [映画館(邦画)] 7点(2013-04-12 23:51:40) |
547. ジャンゴ 繋がれざる者
《ネタバレ》 ロバート・リチャードソンによる、ライトの強弱を極端につけた メリハリのある画面が西部劇によくはまっている。 会食シーンの張りつめた緊張感も、このライティングあってのものと云っていい。 松明の並ぶ夜襲場面の斜面のスケール感や、 バウンティ・ハンター:ジェイミー・フォックスの初仕事となる場面の 崖上からの俯瞰ショット。 または玄関口を見下ろすレオナルド・ディカプリオ邸の広間など、 高低を活かした空間処理が随所でドラマティックな効果をあげている。 ポイントを押さえた高速度撮影ショットのケレン味も、アップとロングの配分も、 作品トータルのドラマツルギーも、ジャンルのルールに忠実すぎるほど忠実であり、 その安定感こそ逆に不満要素かも知れない。 イーストウッド後では、本来タメとなるべきヒーロー&ヒロインの身体的被虐シーンも まるで物足りなく映ってしまう。 逆に、フォックスとクリストフ・ヴァルツが作中で二重の芝居を貫くために ポーカーフェイスを己に課す、その冷静を装う表情と内なる怒りのせめぎ合いが呼び込む 映画のエモーションこそ強烈だ。 上に並べた映画テクニックの巧さより何より、そこが本作の要だ。 あくまでクールな素振りと表情のまま、臨界点を超え 復讐のアクションに突入していく二人の姿に揺さぶられる。 [映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2013-03-23 23:25:38) |
548. ダウンヒル
この作品に登場する階段も、エスカレーターも、エレベーターも大半は下降の為のもの。 意識朦朧状態の主人公(アイヴァー・ノヴェロ)が、マルセイユからロンドンへと向かう 船のステップを肩を支えられながら船室へと降りていく。 階段を降りる主人公の下向き主観ショットとして撮られた、難儀な移動撮影。 その少しぎこちない揺れが、精神不安定の主人公とシンクロしあって生々しい。 レコード盤の回転運動と二重写しになりながら迫る彼の妄想。 町をほぼ無意識に彷徨う彼の主観ショットを幾重にもオーヴァーラップさせる テクニックも、街の情景の生々しさもあって決してあざとさを感じさせない。 背もたれの深い椅子によって手前と奥の人物が互いに見えないといった、 縦の構図の活用によって生まれるちょっとしたサスペンスの面白さ。 強いライトを利用した印象的な画づくりなど、他にも見所は数多い。 [DVD(字幕)] 8点(2013-03-23 04:32:49) |
549. 横道世之介
いきなり洗車中のフロントガラスだとか、いきなり漁師の顔のアップだとか、 意表を衝くシーンの繋ぎを用い、 それをそのまま意欲的な長回しに移行させて映画を持続させていく面白さがある。 その上、不意に時制の飛躍も織り交ぜて観客を映画に引き込んでくるので、 長丁場も飽きさせない。 明らかに撮影中のアクシデントと思しき出来事を そのままアドリブで活かして成立させている長回しショットの数々も、 作り手たちが映画を楽しんでいる事を伝えてくる。 真っさらな白い雪に足跡を刻印しながらはしゃぎ、 静かにキスをする高良健吾と吉高由里子。 そんな二人を見守りながら真上へと上昇していく、 まさに一発勝負のクレーンショットが見事に決まっている。 そうしたロングテイクにこだわり単調な切返しショットを極力制限していることで、 「祥子」「世之介」と楽し気に呼び合う二人の正対した切返しショットが 強さを増して迫ってくる。 その吉高の幸福な表情が、 カーテンにくるまって恥じらう彼女の愛らしさと併せて、素晴らしい。 『南極料理人』の監督らしい食事シーンの数々 (ステーキをバーガー風にしてパクつく吉高、 飄々とスイカにかぶりつく高良、 味気なさそうなカロリーメイトに長崎の豪勢な食卓など、、) も充実しており楽しい。 [映画館(邦画)] 8点(2013-03-13 22:18:13) |
550. アルゴ
車窓を流れていく、クレーンに吊るされた見せしめの死体。 夜の路側で炎上している車両。 マイクロバスの窓を叩いて威嚇してくる、デモ行進の市民。 それらはベン・アフレックの無言の視線を介して捉えられることで強調され、 同化を促し、不穏と緊張を巧妙に増幅する。 つながらない電話のシーンをさりげなく布石として配置しておき、 クライマックスに反復を仕掛ける手練。 人物の忙しない動きをスムーズに追いかけていく移動撮影もまた、 映画に緩急のリズムをもたらし、最終盤の盛大な横移動で テンションをマックスに高めていくよう、運動感の構成もよく出来ている。 細々した映画ネタが色目使いに見えなくもないが、あくまで適度におさめる品の良さがいい。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2013-03-10 00:00:44) |
551. 旅するパオジャンフー
台湾の旅芸人:パオジャンフーの生活を追うドキュメンタリーであると同時に、 その職業柄ゆえに、本作は一種のロード・ムービーでもある。 予算と撮影期間は限られているようで、本来なら望ましい長期密着取材はままならない。 不幸な生い立ちの娘へのインタビューでは、やはり「話したくない」という 答えも返ってくる。他者には語れない過去の重さが、彼女の表情をふと翳らせる。 柳町監督の談話では家族へのインタビューは同時通訳で行ったらしいが、 それも彼らとの距離を出来る限り縮める関係つくりの工夫なのだろう。 日本語と台湾語で交わされるインタビューのスムーズな間が、なるほど面白い。 毒蛇を相手にする危険な芸の稽古の最中に、あえて間近に寄り添って 取材している柳町監督と田村キャメラマンも楽ではないだろう。 あるいは夫婦や恋人同士など複数の相手に語らせることが、 彼らをリラックスさせてもいるはずだ。 そうした工夫あっての、生き生きとした表情の数々だろう。 すぐにやきもちを焼いて他愛無い痴話喧嘩をする恋人たちのやり取りの微笑ましさ。 海辺で寛ぐパオジャンフー一家のロングショット。 その開放感が印象的だ。 [映画館(邦画)] 8点(2013-03-02 01:27:05) |
552. アウトロー(2012)
レザーを纏い、獣性を帯びたカマロを駆る流れ者トム・クルーズ。 勾配のロケを舞台とした狙撃戦から、雨中の徒手格闘へなだれ込むアクションの流れ。 決斗の場となるアジトの四角いドア枠に、細かいところではバスタブの意匠など。 映画は古典的なウェスタンの趣を漂わせる。 殺し屋の持つ携帯電話に、幾度も発信しては語気鋭く相手を挑発する主人公。 あるいは、ロザムンド・パイクの部屋にかかってくるトム・クルーズからの電話。 彼女の背後に立つ二者のどちらかが裏切り者だと伝えられる、その表情とリアクションのサスペンスが素晴らしい。 公衆電話と携帯電話を介した緊張感漲る駆け引きが光る。 ロバート・デュヴァルとの再共演もやはり感慨深い。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2013-02-22 01:42:28) |
553. 闇の子供たち
どこそこのディティールが「現実的にありえない」だの、 「突っ込みどころ」だのというのは 概してフィクションというものを理解出来ない者の常套句だが、 映画作家は「その不自然さを前提にしたところで、それとは別のところに ドラマを作り出しているのだから、それを見なければ映画を見たことにならない」 (上野昴志「映画全文」)わけで、 Wikipediaあたりの拾い読み程度の薀蓄に頼った批判など、 物語に対しては有効でも、映画に対しては決して届かない。 少女を詰めた黒いビニール袋は、『トカレフ』でのそれのように、 あるいはペドロ・コスタの『骨』のように、 その生々しい物質感の露呈として映画内に要請されているのは云うまでもないだろう。 宮崎あおいは、その異質なビニール袋を目撃するや、とっさに走り出す。 無我夢中に。非現実的に。だからこそ映画的に。その走りと横移動のカメラワークがいい。 そして本来、映画の批評として肝要なのは上野氏が「非対称の視線―『トカレフ』論」ですでに書かれている、登場人物の視線の劇としてのあり方だろう。 建物の二階部から屋外を見下ろす主観構図の反復。その一方向的な視線の不穏な感覚。 江口洋介が、妻夫木聡が見詰める鏡。そこに反映する自身を見つめる眼差し。 クライマックスの取材現場での複雑な視線の交錯。そこに漲る形容不能な情感。 そうした視線によるドラマ作りを継承する本作は、劇中で幾度も主題を強調する。 具体の視線によって「見ること」を。 [映画館(邦画)] 8点(2013-02-12 20:03:20) |
554. 東京家族
『息子』(1991)において、聾唖である和久井映見と永瀬正敏の間で交わされた FAXのやりとり。 そのやり取りには説話的な納得性と同時に、その手書き文字を秀逸な人物描写と する細やかな演出が施されていた。 対して、本作で蒼井優と妻夫木聡の間に交わされるメール文字の何と味気なく、 無意味な事か。観客は事態の推移を既に知っているのだから、 蒼井の表情変化なりを見せるだけで事は足りるわけで、 メール画面の文字は説話的にも無駄な二重説明でしかない。 一方では、妻夫木らの馴れ初めを写真一枚で物語らせるスマートさを持ちながら、 一方では上のような蛇足・無駄もあちらこちらに見受けられる。 または、『息子』でのコンロにかかったおでんの鍋のような、 簡素にして情緒豊かな小道具の類に欠けるのも寂しい。 作為性も露わに画面を賑わすエキストラ達は、 おそらくは山田流のリアリズムなのだろうが、蒼井と吉行和子が対話している奥で、 向かいの窓に姿を見せるアパート住人などはどうなのかと思う。 末っ子の部屋の開放性を以て彼の性格を演出したものとは思うが、 シーンの阻害要因となってはいないか。 貶しどころも多々あるのだが、俳優陣は文句無し。 高級ホテルの窓から見る観覧車の夜景シーンは本作オリジナルのイメージとして 印象深い。 [映画館(邦画)] 7点(2013-02-12 00:09:53) |
555. 脳男
オレンジ色の太陽が登場するのは2シーンのみ。 その2度の夕焼けシーンとラストの快晴以外はほぼ雨か曇天。 登場人物を赤く照らすのは、忌まわしい火事の炎と爆発の火焔、そして血糊だ。 それらが、ローキー設計の見事な屋内シーンの中に浮かび上がる。 半逆光のシルエットの中に瞬く、生田斗真の左目の冷たい眼光がいい。 閉所でのしなやかな格闘動作も流石だ。 まるで松田優作を思わせる江口洋介のキャラクターはご愛嬌といった感じである。 物語上の様々な説明が多いのは止むを得ないとして、 護送途中のアクシデントと混乱の中で、生田がどのように姿をくらましたのか、 そのあたりは省略しないでアクションとして提示して欲しかったところ。 あるいは病院を舞台としたラストの二階堂ふみとの決戦も、 病棟の空間と構造をもっと有効に提示して両者の位置関係を明瞭にするよう 工夫すべきだろう。 いずれも、台詞説明に頼っていて肝心な画面自体による説明が不十分である という事が云える。 [映画館(邦画)] 7点(2013-02-11 21:40:15) |
556. 007/スカイフォール
序盤のウォーターフォールと終盤のスカイフォール。 幾度も己自身を見つめさせることになる鏡面あるいは水面と、 様々にメタ的な着想を凝らして内面描写というトレンドに倣っている。 公聴会での暗殺阻止からそのままクライマックスのアクションに なだれ込めばいくらでもテンションを上げられたところを、 内省やら回帰やらの要素を持ち込んで新味を出さねば気が済まないところが シリーズものの枷というところか。 例によって、本作の「小悪党」も卑小な内面ばかりを語りたがり、 犯罪の動機付けに汲々とする。ゆえに悪役に恐さがない。 高層階のネオンライトを背景とした シルエット同士の格闘などは実にスタイリッシュであったり、 籠城戦前の夕暮れから夜の闇へと推移する緊迫の描写も良かったり、 日本版予告編で使われたショットの数々も個々にはケレンがあって 様になっているのだが、いずれもが単発止まりである。 一連のアクションの繋がりとして見ると平板で うねりを欠いてしまうのが勿体ない。 いわゆる人間ドラマに比重が掛った結果だろう。 [映画館(字幕なし「原語」)] 5点(2013-01-06 08:00:04) |
557. ドリームハウス
ヒーローを演じつつもどこか邪まさを匂わせるダニエル・クレイグの キャラクターイメージが次第に活きてくる作劇の転換が サスペンスを呼び込んで面白い。 夜の窓外に蠢く人影より何より、主人公の変貌ぶりにインパクトがある。 家の映画としても、二階に続く階段、地下への階段がそれぞれドラマの舞台に 組み込む配慮が為されていて如才ない。 ラストの業火の中、レイチェル・ワイズとのやり取りが感動的で、 温かい余韻を残す。 [映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2012-12-30 00:29:56) |
558. レ・ミゼラブル(2012)
舞台劇との差別化として「顔面」の映画が狙いであるのはよく判るし、 そのクロースアップに関するキネマ旬報の篠儀道子氏の 好意的な解釈も理解できるが、やはり長丁場での顔面づくしは 構図取り放棄の印象が強い。 アン・ハサウェイのソロの表情は、 確かに『裁かるゝジャンヌ』のように力強いものの、 その後は、それなりの美術を背景に人物の顔さえ配置して歌わせれば どう撮っても話は繋がる、とでも言うような安易な画面が続いて正直苦痛である。 あらすじを絵解きする以上の余裕がみられない。 エディ・レッドメインとアマンダ・セイフライドの柵越しのデュエットは まるで別撮りしたかのような単調な切り返し。 ラッセル・クロウの屋上シーンもまた暑苦しく単調な構図を幾度も反復する。 孤独な者たちがそれぞれ孤独を歌い上げるなら、 ただただ寄りすぎるカメラは映画話法的に逆効果となりはしないか。 大半の後景はソフトフォーカスで判然とさせず、 観客はこの顔面・この部分だけを見、この歌だけを聴けと強要される。 蜂起前の若者たちの合唱も一部の主要人物の顔面偏重で、 背景の「その他大勢」の顔などはまるでどうでも良い というようにぼかされている。 映画はその謳い上げるお題目とは裏腹に非民主的で、 観客に後景の美術やコスチュームや脇役の表情を楽しむ「自由」はまるで無い。 [映画館(字幕なし「原語」)] 3点(2012-12-25 16:23:28) |
559. ゴモラ
映し出される登場人物と同等以上の存在感をもって、 独特な構造をもった居住空間や街の景観が、深いパースペクティブを活かした 画面の中に印象深く捉えられている。 被写体をひたすら粘り強く追っていくハンディカメラによって、 画面の中の都市空間はより立体性を増して迫ってくる。 その中で、突発的に起こる銃撃のバイオレンスが幾度か繰り返されることで、 何気ない日常のシーンがそれだけで張り詰めたものとなっていく。 罠に嵌って郊外へとおびき出される青年たちのバイクの迷走を 後方から見下ろすように追うカメラ。 それだけで、ただならない不穏と緊張が漲らせている。 さらに、凄惨なシーンに被さる軽快な音楽も対位的に効いており巧い。 防弾着で銃弾を受ける度胸試しの順番を待つ少年たちの、 演技には見えぬ迫真の表情などは忘れ難い。 [DVD(字幕)] 7点(2012-12-22 23:52:43) |
560. グッモーエビアン!
楽しい食事シーンを持つ映画には無条件に魅了されてしまう。 物語と離れて、演技に拠らない素の「食べる」表情が キャラクターの人間的な魅力を増すのだと思う。 この映画も、カレーや焼き鳥や団子やクレープや目玉焼きを美味しそうに食べ、 ビールを幸せそうに飲む麻生久美子・大泉洋・三吉彩花らの家族の姿がより一層、 好感度を増す。 普通なら欠点ともなる俳優のクロースアップもさして苦にならないどころか、 俳優の表情に対するカメラマンの惚れ具合までが伝わってきて心地いい。 その極めつけが、ラストでストップモーションとなる三人の 「美味しい」笑顔の素晴らしさだろう。 ご当地映画ながら、商店街やフリーマーケットなど、 生活感のあるロケーションへの俳優の溶け込ませ方も巧く、 移動撮影による二度の自転車のがむしゃらな走行感もいい。 そして、映画に携帯電話というコミュニケーション手段を 安直に持ち込まない点も褒めたい。 女性たちが並んで座るベンチのシーン、校舎屋上のシーン、ライブのシーン。 そして能年玲奈の卒業写真と手紙のショット。 そこには携帯に拠らずに直に言葉を伝えること、直に触れあうことの温かみがある。 [映画館(邦画)] 8点(2012-12-17 13:34:27) |