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すぺるまさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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41.  ヒューゴの不思議な発明 《ネタバレ》 
メリエス(のみならずリュミエール兄弟でもハロルド・ロイドでもどれでもそうだが)の映画が流れる度に涙が溢れそうになるのだが、それは別にメリエスの映画に涙しているのではなく、ぬけぬけと懐古的な映画愛を恥ずかしげも惜しげもなく披露してしまう、この映画の全体の一部に涙している。何故なら、スコセッシがそう仕向けてくるのだから。 であるからこそで、ふたりが映画館へと忍び込むところだ。暗闇を切り裂いて、光が、ただ光が、スクリーンを突くと、浮び上がる新たな世界。『ロイドの要心無用』の名シーン、ビル登り、をふたりが興奮して食い入るように観る。そう、子供の頃の映画という体験の興奮を忘れることが出来ず、ひとは繰り返し繰り返し、暗闇へと脚を運ぶ。  さて、どうして、こんなにも愚直で、稚拙で、恥じらいのない、映画愛に満ち溢れた映画を作ってしまったんだろうか、スコセッシは。何時にも増した下手くそさと、観客を選ぶような映画愛表現と、幾つものレイヤーを重ね合わせただけのような3D映像。こんな欠点だらけの映画、最高に好きである。 これは暴力やセックスを描いてきた作家の、映画が暴力やセックスと手を結ぶまでの映画。映画は未来のない発明だという劇中でも登場するリュミエール兄弟の台詞とは裏腹に、映画は、音、色、そして、デジタルへと変容し続けている。人々が暗闇へと脚を運び続ける限り、映画は死なない。
[映画館(字幕)] 8点(2012-03-08 01:10:41)
42.  ザ・ファイター 《ネタバレ》 
映画は最初の数分を観れば、その映画の善し悪しであったり、それがどんな映画なのか大体はわかるとはよく言ったもので、「ザ・ファイター」は冒頭の路地を物凄い勢いでトラック・バックした時点でこの映画の良さというのは一目瞭然伝わってくるのだ。 ディッキーの薬中ドキュメンタリーが放送された夜、シャーリーンがミッキーに会いに来た時の彼女の表情の説得力こそがこの映画の凄みであり、監督デヴィッド・O・ラッセルと女優エイミー・アダムスがこの映画で一番のシーンを生み出した瞬間であった。何故か。それはこの放送中の一連のシーンで、シャーリーンは一切登場しない。しかし、扉を開けた時のシャーリーンの表情が、スクリーン外で起こった彼女の物語を途轍もない説得力で表現しているからだ。彼女もテレビを見ていた。しかしそのあまりにも酷な内容を前に、あれだけ拒絶したミッキーにどうしても会わなければならないと決意し、今、扉の前に立っている、という物語があの表情にはあるのだ。デヴィッド・O・ラッセルはあえて彼女の登場をあそこまで引っ張った。そしてエイミー・アダムスはそれを理解しあの表情をあそこで出した。この映画はもうそれだけで充分ではないか。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-24 16:12:17)(良:1票)
43.  トゥルー・グリット 《ネタバレ》 
 父の復讐という正当さを盾にしようとも、幾つもの骸を生み出す契約を結んだ彼女に、契約の代償という名の矛は突き刺さるのは当然であり、またそれを受け入れること、それを受け入れた力強さこそが、あのラストショットの背中なのだ。  彼女が蛇に咬まれた以降こそがこの映画で最も重要であることは誰にでもわかるだろう。彼女はコグバーンに馬に乗せられ、幾つもの骸を見つめ、峠を越え、そして愛馬をも失う。果たして復讐とは一体何なのかと自問自答するのだ。正当な交渉と契約をも無効にしてしまう復讐に意味はあったのであろうかと。 しかし過去は取り返せない。復讐を果たした彼女の宿命、それは片腕を失い、孤独となり、また過去の戦友と再会することをも許されない。それでも彼女は凛と力強く歩いて行ける。そんな彼女をいつまでも見守っているかの様にコグバーンの墓石が彼女の背中を見つめている。この時のショットの力強さに圧倒され、この力強さにはイーストウッドと似たものを感じた。
[映画館(字幕)] 8点(2011-04-13 11:27:56)(良:6票)
44.  アンストッパブル(2010) 《ネタバレ》 
「マイ・ボディガード」146分、「ドミノ」「デジャヴ」127分、「サブウェイ123」106分、そして遂にトニー・スコットの映画は100分台をきった。「アンストッパブル」近年最速の上映時間99分。 ありとあらゆるアングルからカメラを構え、空撮、ハンディやクイックズームを活用し、動いていることそが映画であると、総てにおいてを「動き」として収め、そしてその総てをアクションで繋ぎ、一切の「間」を観客に与えない。子供は平和の象徴でありながらも同時に危機に直面する不安定さであり、野次馬は出来事の重大さと日常生活の中にある危機を表し、テレビと路線図は簡潔な説明の他の何物でもない。スクリーンに映し出されるものは総てが必要な情報だと処理し、途轍もないスピードで駆け抜ける。  暴走する列車を止める、たったそれだけの話だ。  徹底してそれだけだ。だから巻頭間もなく列車は直ぐに走り始め、エンドロール直前まで列車は止まらない。更にデンゼル・ワシントンとクリス・パインですら列車を止めるひとつの装置として処理される。彼らは「列車を止めることが出来る唯一の男たち」という装置だ。であるから、とにかく列車は走り出し、後から貼付けられるべたべたの人情劇があるが、はっきり言って本作に関してはそんなものは、トニー・スコット含め我々観客も殆どどうでもいいと思っている。更に言えば、労働環境がどーのとか触れるのだがそれもどーでもよい。これは鑑賞後「何も残らない映画」であって、考えることなどない。ただ最高に面白い映画がある、それだけだ。重要なことは列車が止まるのか、止まらないのかということだけ。この列車の周りで起ること総ては、この列車を止めようとするそれぞれの装置。ふたつの過失から始まるこの映画は誰をも悪として描かない。列車に追いつけない、いかにもドジでのろまな風体を醸し出したあの男ですら、悪としては描かれない。会社の上層部は自分達の立場としての態度であり、それは悪ではない。悪と対峙しない、刃物や銃器も登場しない、しかしあそこまでの激しさを演出するトニー・スコット。もはや他の追随などに関心など示さず、全く別の次元で映画を作っているとしか言いようがない。
[映画館(字幕)] 8点(2011-01-08 17:04:50)(良:3票)
45.  行きずりの街 《ネタバレ》 
男は過去から抜け出せずに生きているのだった。 彼は過去の彼女が振り返る中を少女の手をしっかりと握り締め駆け抜けて行く。 過去の彼女の視線にとらわれることなく、現在を駆け抜けて行く。 そうして男は過去から抜け出して行く。 女は過去に取り残されていた。廃校舎の中に取り残されていた。 過去の彼女は振り返る。彼が自分を連れ去ってくれるのを待っている。 しかし過去は取り戻せない。 だから過去の彼女と現在の彼の視線が合うことなどない。 しかし過去の彼女はそれでいい。 彼が少女と過去を反映した廃校舎から抜け出してきたとき 彼女もまた過去から抜け出すのだから。 自分の境遇を重ね合わせることのできるもう一人の少女。 すべては現在に集束されていく。 過去という名の廃校舎をバックに現在を生きるスリーショット そしてストップモーション、ここに美しさを感じずにはいられない。
[映画館(邦画)] 8点(2010-12-14 00:45:01)(良:1票)
46.  告白(2010) 《ネタバレ》 
はじめに映画と関係ない話。未成年の殺人検挙者は戦後1960年代をピークに減少し、2002年以降では年間100人を越えたことはない。これはピーク時のおよそ1/4以下の数字だ。  映画「告白」は全く衝撃的でも問題作でもない。これを観て命の重さとか少年法とかそんなことを真面目に考える馬鹿が出てくるなら、その面でこの映画は多少なりとも罪深いんじゃないかと思う。 何故なら、これは中島哲也と湊かなえの悪意によって、子供たちを悪の化身的モンスターに仕立て上げ、血みどろの犯罪劇を描いたエンターテイメントでしかないからだ。 また映像も新鮮味はなく凡庸で、よくテレビで見るような広告的あるいはミュージッククリップ的な映像の羅列だ。それを映画として用いたことで映像的センスがどうのこうのと勘違いし、また逆にそれは非難の的ともなる。ただ思う。そんなのどーでもいいよと。これはこれでいいじゃん。イメージとしての映像。意味を求めたショットでなく、あくまで悪というイメージを表象化しただけのショット。であるから、そこにリアリズムなどというものは存在し得ないという表現ともなる。そんな現実味を感じさせないところから、問題提起や答えを見出そうとするのは阿呆くさい作業だ。 この映画が徹底して悪のイメージを描こうとしていることは、登場人物に潔白な正義というものが殆ど皆無であることからもわかる。松たか子ですら正義ではない。木村佳乃が言う通り、彼女は自分の子供可愛さに娘を学校に連れ込み、先生としての職務を怠慢している。それは事実で、端からこの学級は崩壊していて、彼女の話に耳を貸す者など殆どいない。そう、この映画の唯一のメッセージらしきもの、それは子供をしっかり育てろよ馬鹿親!ということだ。渡辺修哉をモンスターにしたのは、息子に自己を押し付け終いには放置した母親だ。涙を流し散ってゆく姿は母性的だが、あの母親もまた悪の根源だ。モンスターの親はモンスターだ。 そう、この映画は人間という名のモンスター・エンターテイメント。意味なんてない。悪と悪が対立する、リアリティの欠片もない、ただの映画。それとしてこの映画は面白い。  最後にもう一度関係ない話。この映画と同様、未成年の犯罪が増幅されているように見えるのは、報道の自由という名のエンターテイメントが創り出した幻想であり、それは子供たちをモンスターにしているのは大人だという事実だ。なーんてね
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-25 03:19:41)(良:3票)
47.  バリエラ 《ネタバレ》 
とにもかくにも、男と女の横をヘッドライトが幾対も通過していく一連が美し過ぎるというこの映画である。この男女の出会いのシーンは徹頭徹尾美しいわけで、煙草の火をつけるだけとか、電車で鉄橋を渡ったりとかするだけでもそれはどこか儚く感じてしまうのだった。  そんな男女間は映画後半で一気に男の視点から女の視点にスライドするがこれがとてもいい。そして男の時にやった360度以上パンが女のときにも出てくるわけだ。2回目でやっと気付いたのだが、背景に鏡みたいのを建てているようだ。あるタイミングでどこか一部を外すと信号機が出てくるという単純な仕掛けだ。  そしてカメラ前のシャッターとか物の動かし方と配置が上手過ぎる。路面電車の整備工場などでの様々な物の配置がもう堪らなく良くて、映像美を極めている気がしたのだ。それに伴って凄いのがズームであった。この時代のスコリモフスキのスタイルとして長回しとズームが多様されているのだが、その路面電車の整備工場でも、フルサイズくらいで撮っていた人物の手前を電車がシャッターしている間にズームバックされていて、電車が通り過ぎると人物が豆粒くらいの凄い引き画になっていたりするのだけど、それが映像美を極めている気がするくらい、はまっていて、単純にかっこいいのだ。  ま、あとはジャンプ台とかも滅茶苦茶やっているわけで、スコリモフスキ20代というのは正に彼の青春と情熱が炸裂している時期であり、「バリエラ」はそんな才気迸る映画であった。  そして音(音響/音楽)、凄し!
[映画館(字幕)] 8点(2010-06-20 15:05:00)
48.  ローラーガールズ・ダイアリー 《ネタバレ》 
何も新しいことなどない。このフィルムがスクリーンに映し出すもの殆どが既にどこかで観たことのあるようなものであり、その物語も驚くべき何かがあるものでもない。しかし、それでいいのだ。そこにはアメリカ映画が培ってきたアメリカ映画としての、そして映画そのものとしての喜びに満ち溢れているから。  人間の感情というのは複雑でありながらも単純なものでもあり「喜怒哀楽」などという四つの漢字を複合することで表現することもできる。しかしながらやはりその四つの間は複雑さという幾層ものグラデーションとなり、それを映画に於いて描くことがどれだけ困難であるかは過去の成功には至らなかった映画たちが雄弁に物語っている。しかしながらこの映画はそんな映画たちを尻目に、満ち溢れた幸福感から途方もない絶望感へという途轍もなく広いふり幅を限りなく単純ながら繊細に描き切ってしまう。そしてそのふり幅をも圧倒的に振り切る喜びと爽快さをこの映画は魅せつける。それがアメリカ映画の素晴らしさだ。  そう、アメリカ映画の素晴らしさ、それは勝つことでの感動ではなく、「We are No.2!」という負けても自分たちを肯定する美しさを描くこと。つまり負けても、それは本質的な負けではないということ。だからこそより感動的なのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-06-12 23:51:25)(良:2票)
49.  コロンブス 永遠の海
こういう映画こそが、豊かな映画だなぁって思えるのは、潤沢なバジェットだとか、一流の役者の起用とか、大規模なオープンセットや海外ロケとかとは無縁なところで、時間と大陸を軽々と飛び越えてしまうからで、それが正に映画の魔術とか奇跡とか、まぁなんでもいいんだけど、映画ってそういうもんじゃんってことだと思う。  学のない自分なんかは、この映画って一体何の映画なんだかさっぱりわからんわけで、ハネムーンの前くらいまではこの映画って何についての映画なんだったけかと本当に疑問だったりして、コロンブスはコロンって呼んでねとか、ポルトガルの偉人の像を建てようぜだとか、更にはご老人たちのロマンスまで絡まっちゃって、最後はノスタルジアな曲を歌い出して、でも根本的にはアメリカ映画なんじゃないのかって思えたりして、でも本当にこれ何の映画なんですかって聞きたくなるのだけど、まぁそんなことは実際にはどーでもいいっちゃどーでもよくて、ちゃんと物語もやってるし、というのも、基本的にオリヴェイラの映画は歴史を物語るというよりは、歴史が物語ってくれるという感じで、それっぽいけど、出鱈目な風景の連続を映画の中に落とし込むことで、それで事実としちゃってるから、いつも、映画なんてそんなもんでしょって納得させられちゃうのだ。  101歳(撮影時は98歳か?)の老体が車を運転している姿が映画になるっていうのも恐ろしいことだし、霧の処理の仕方とか、信号の件とか、まぁ終始驚かされっ放しだったというのが正直なところだし、やっぱ笑っちゃうよね。
[映画館(字幕)] 8点(2010-05-30 11:35:16)
50.  インビクタス/負けざる者たち 《ネタバレ》 
久しぶりに死の影をほとんど感じさせないクリント・イーストウッドの映画であったわけだが、彼の映画における「幽霊」という存在はこの映画でも健在であった。マット・デイモン演じるフランソワが皆を引き連れてロベン島に行くが、そのときに独居房や採掘上に現れるモーガン・フリーマン演じるマンデラは、生きる魂、正に生霊的である。そう、肉体を魅せるのではなく、魂を描くことこそがイーストウッドの映画なのだ。 冒頭、黒と白という二項対立構図を一本の道を挟んだだけの俯瞰ショットで描き、その黒と白は徐々に混ざり合っていくのだが、それが決して図式的に陥らず(肉体ではなく魂を描くからこそ図式的に成らない)、さも現実的であるかのように描き切ること、それもまたやはりイーストウッドである。しかし実際、全く現実的とは思えない。例えば、過労で倒れるマンデラや負傷してしまったチェスターが、何のきっかけもなく突如として全快してしまうという全く真実味を感じさせない流れ。しかしその流れに何も違和感を感じさせない力があるのは一体何なのだろうか。それは本作がとにかく簡潔であるからだ。無駄なものなどすべて根こそぎ削り取られ、そこには出来事のみが集約されている。彼がカメラを向けた瞬間にそれはさも現実的であるかのように立ち上がり、出来事が起こり、フィルムに定着し、映画と成り、そしてそれは「あったこと」となってしまう。それは力強く、そして熱く、凛として感涙的な事実と成ってスクリーンに投影されるのだ。 それにしても最後の試合のシーンは凄い。選手たちの動きのみならず、審判が時計を確認して笛を吹き鳴らす瞬間までハイスピードで撮影している。更には選手たちがぶつかり合う音までもが間延びしているのだから凄い。ここまで間延びさせると逆に躍動感を失いそうなものだが、平然とそれを乗り越えて、心震え上がるようなシーンに仕上げてしまう手腕にはやはりただ驚愕するばかりだった。
[映画館(字幕)] 8点(2010-02-22 23:53:57)(良:3票)
51.  アバター(2009)
殆どのことを棚上げし、「アバター」という映画をIMAXデジタル3Dで観るという体験についてのみを書こう。  創成期、映画は体験された。リュミエール兄弟が初めて「ラ・シオタ駅への列車の到着」を上映したとき、観客は列車がスクリーンから飛び出てくるのではないかと驚いて逃げ出しだという逸話がある。これの真偽は確かではないが、正に映画を体験するという言葉通りの話である。 現代、そういう逸話が産まれることは決してないだろう。しかしこの映画にはそれに匹敵するような圧倒的な映像がある。それは実に映画的な体験として観た者の感性に刻み込まれるに違いない。  この映画はほぼ実写ではない。だから映画ではない、ただのお絵描きだといういうような愚言などは正直どーでもよい。問題は映画を魅せつけるための、アングル、引き画、寄り画、トラヴェリングショット、カット割り、光と影があるかということだ。この「アバター」にはそれが映画史百年が培ってきた証として刻まれている。これはお絵描きをしてきただけで到達でるものではないのだ。  映画はついに実写と(モーションキャプチャーによる役者の演技があってこそ成り立つ)CGIが何の違和感もなく同じフレームに収まり、感動的な出逢いをする瞬間を迎えたのだ。CGIが実写を抱え上げ、涙し、実写はCGIの頬をそっと撫で、また涙する。これはあるひとつの映画の到達点だ。 (物語などはさて置)誰もが圧倒的な映像に打ちのめされ感嘆させられるだろう。これを単なるCGIだと言うのであれば、それは自分の感性を呪詛するべきだ。  IMAXデジタル3Dで観るという体験はひとつの体験として実に新鮮であり、破格のものである。
[映画館(字幕)] 8点(2009-12-26 04:04:08)(良:1票)
52.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 
フィルムのみならず、小さなビデオカメラも手にしたマイケル・マンのカメラワークは自由自在で狭い部屋の中も縦横無尽に動き回る。冒頭の脱獄シーン、車で仲間の手を離すまでの一連のカット割なども見事であり、そういう角度にカメラを入れるのかと感嘆する。勿論、熱を持った銃声だけが響き渡る森の中での銃撃戦の音響処理はいつも通り見事であり、マイケル・マンの映画である烙印だ。この銃撃戦のシーン、音楽も一切排し、緩慢に間延びしきっている。しきってはいるが、それが退屈へと陥らず、ぎりぎりのところでサスペンスとして完璧に成立しているのだ。これもまたマイケル・マンの烙印と言っていいだろう。そして単純ながらもジョニー・デップ演じるデリンジャーとマリオン・コティヤール演じるビリーのカットバックを撮ること。これがこの映画のすべてなのだ。 だからこそ最後が泣きなのだ。 デリンジャーは映画館でクラーク・ゲーブルが演じるブラッキーの潔い死に際を目にする。これは「男の世界」という映画だが、電気椅子を自ら選ぶブラッキーに、ウィリアム・パウエル演じるジムが「Bye Bye Blackie」と言うのだ。デリンジャーとブラッキーというカットバック、デリンジャーは何を想い、映画館の席を立ったのだろうか。そして彼は最期を迎える。彼の死に際のひとことをスティーヴン・ラング演じるウィンステッドがビリーに伝えにやってくる。「Bye Bye Blackbird」。これがアメリカ映画の本質的な泣きの瞬間だと信じてならない。そして涙を流すビリーのクロースアップ。映画はそこで幕を降ろすと思わせるが、最後にもうワンショットある。ビリーのPOV。素晴らしいではないか。
[映画館(字幕)] 8点(2009-12-23 20:04:30)(良:2票)
53.  スペル 《ネタバレ》 
サム・ライミという監督が登場した当時のUNIVERSALのロゴマークで始まる本作は、彼がこの映画で何を描きたいのかということの表明だ。「死霊のはらわた」が処女作の彼は、ホラーというジャンル映画の監督の枠で収まることなく、西部劇や野球ものを描き、そして「スパイダーマン」という大衆向け商業映画を大成功に導いた。そうやって培ってきた映画的感性を自分の原点にフィードバックさせた、原点回帰がこの映画である。  風や物音、カーテンに映るシルエット、蠅などの虫や、体内から吹き出るどろどろな液体の数々など、もはや使い古された手段ばかりがスクリーンを駆け巡るが、彼の円熟の域に達した演出力は決してそれを飽きさせない。 白い封筒の中に丸い何かが入っているというそれだけでラストのサスペンスを盛り上げていく巧さなど見事だ。車中でアリソン・ローマン演じるクリスティンが誤った封筒を手にした瞬間、誰もがそれに入っているのはボタンではないくコインであると気付く。その真実を知るのは観客のみであるというところにサスペンスの巧さがある。つまりコインは重要で、だからこそ、ジャスティン・ロング演じるクレイと彼の父親との会話の中にもさりげなく登場させ、その存在を決して観客に忘れさせないのだ。 またクリスティンがローナ・レイヴァー演じるガーナシュ老婆の口に白い封筒を突き刺す泥々のシーンを雨で浄化させていき、そのままフェードでシャワーシーンに移行するところから始まり、彼女のハッピーエンドを期待させるような明るいシーンの連続はホラー映画だけを撮り続ける監督では出来ない晴れ晴れしさであり、また、地獄への素晴らしい前ふりであった。 そして彼女がいきなりコートを買う。これがおかしい。このシーンを見ているとき、何故ここでこんなシーン挿むのか不思議でならなかった。確かにとても大切な旅行だ。しかし突拍子もない。だがそれは、ボタンが入った封筒を出すきっかけへの絶妙な伏線だったのだ。あざとさをまったく感じさせない巧さだ。  そして謝れば許されるという結論には決して辿り着かせない潔さ。何があってもクリスティンを守ると誓ったはずなのに、彼女を守れなかったクレイのクロースアップ。そしてスクリーンいっぱいに映し出される「DRAG ME TO HELL」の文字。「俺も地獄に連れて行ってくれ!」素晴らしいではないか。 真のアメリカ映画とはこういう映画のことだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-11-29 01:47:24)(良:4票)
54.  リミッツ・オブ・コントロール 《ネタバレ》 
 拳銃を使わない映画 セックスをしない映画 携帯電話を使わない映画 復讐すらも無意味な映画 そこにあるのはふたつのカップに注がれたエスプレッソ そして幾度も同じ台詞が繰り返される 目的はひとつ「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送る」こと そんな殺し屋の映画  物語の起伏となる要素をすべて排し ただただ淡々と時間だけが直線上に流れていく  イザック・ド・バンコレ演じる孤独な殺し屋は 仕事中の堕落を一切禁じる またパス・デ・ラ・ウェルタ演じるヌードの女は すべてを破滅に導くファム・ファタールのような素振りだが ファム・ファタールとしてはまったく機能していない そしてティルダ・スウィントン演じるブロンドの女は 「上海から来た女」の話をし始める しかしラストのビル・マーレイと対峙するシーン 一面鏡張りの部屋にしたりはしない つまりこの映画はフィルム・ノワール的要素を散りばめながらも それらを一切禁欲する 新たなるフィルム・ノワールと言えるだろう  ジム・ジャームッシュのスタイリッシュさはとても正しく どのアングルも どのカットの繋ぎも どのハイスピード撮影も どの音楽の挿入も すべて納得させられるものだ  想像力さえあれば 映画には限界はないし 映画の行く路を決めることなどできない
[映画館(字幕)] 8点(2009-10-01 16:40:52)(良:3票)
55.  クリーン (2004) 《ネタバレ》 
駅の中でマギー・チャンがニック・ノルティを探し回るシーン、長玉で軽く修正移動をかましながら、カメラが彼女を追っかけ回すが、とても素晴らしい。あれを李屏賓がやると超絶にうまいのだけど、ゴーティエは(彼の場合彼自身がオペレートしてるのかはわからないが)決して丁寧とはいえないし、寧ろ、雑、というか下手上手いというか、味があるとでもいったらいいのだろうか、あれがいいのだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」でも長玉、手持ちとかでぶんぶん振り回すのだけど、それもまた雑でありながら、どこか味があってよい。  そのことはさておき、マギー・チャン演じるエミリーが友人の家に居候をするのだが、その友人が犬を連れ家を出て行くが、忘れ物をして家に戻ると、エミリーが涙を流しているというシーンなどは格段に素晴らしく優しい。ただひとりぼっちになってしまった孤独感で泣くというシーンだが、友人が外出し気が緩んだというこの見せてはいないが見えるワンクッションこそが素晴らしいだろう。このシーンまでは常にマギー・チャン、あるいはニック・ノルティを切り取るカメラが、ふいに友人を主軸に動き出すのだが、映っていないところでのエミリーの感情というのが友人が扉をそっと開けた時に一気に動き出すということだ。これこそが映画の巧みな演出だ。 そしてこの映画のニック・ノルティのまなざしこそがアサイヤスのまなざしで、見守るよという、やはり他のアサイヤスの映画同様にこの映画もまた優しさに溢れている。
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-16 17:31:08)
56.  サブウェイ123 激突 《ネタバレ》 
デンゼル・ワシントンが笑顔で我が家の門を押した瞬間にすべてが終わるが、またしてもストップモーションで幕を閉じてしまうという潔さだ。 結局ガーバーと彼の妻はこの映画で一度たりとも同じフレームに収まることはなかった。何故、最後、ふたりは抱擁しないのか。そんなことはこの映画においてどーでもいいことだからだ。ミルクを買って家に帰るという約束を果たせるか果たせないかということが重要で、ふたりの愛を確認し合う作業などトニー・スコット含め我々観客も全く興味がない。だからこそ、帰り道にミルクのパックが入っているであろう白いビニール袋を右手に持って歩くデンゼル・ワシントンというショットと彼のクロースアップのストップモーションが感動的なのだ。その後の抱擁し合うふたりなど幾らも感動的ではない。これこそがトニー・スコットなのだ。 また市長の描き方など絶品で、いかにも金の虫のような風体を晒しながらも、憎めない人の良さも醸し出し、犯人の割り出しも自らやってしまう、善でも悪でもない人物を平然と登場させる。罪悪感からか正義感からかで突っ走りだすガーバーや、金だけのライダーなどに比べ、あまりにも平凡な人物という描き方が素晴らしい。故に不倫というワードこそが現実的で必要不可欠なものとなり、そのためには市長を囲むマスコミすらもトニー・スコットには重要な登場人物たちなのだ。 現金輸送中のパトカーの事故、鼠のせいの誤射、PCによる映像、こんなものほとんど無駄な羅列にも見えるが、それらはただ「偶然」あるいは「運命」という得体の知れない厄介なものによって、ペラム123に連結され地下を疾走しているに過ぎない。だからこそその連結をいつ切り離そうが所詮それは「偶然」や「運命」であり、そうなったという事象のみがそこには存在することとなるのだ。 ガーバーとライダーの橋の上での対峙なども素晴らしい。いくらガーバーが警察官たちを呼べども全くもって近づいている感じがしない。その都合の良さこそ映画であり、その都合の良さが、ライダーのいつものカウントダウンでガーバーに極限の選択を迫らせるのだ。そしてこの時の単純なふたりのカットバックが見事な物語を構築している。 それでいての106分。スクリーンに映し出されるすべてを必要な情報として処理し、途轍もないスピードで走り抜ける、この潔さはトニー・スコットが唯一無二の存在になっていく証だ。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-09-05 02:41:00)(良:5票)
57.  ワルキューレ 《ネタバレ》 
恐らく誰もが言うだろうが、ゲッペルスが青酸カリらしきものを口に含むシーンや、トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルクが失われた左手を高々と挙げて「ハイルヒトラー」と叫ぶシーンであるとか、そして電信所の女たちが総統の死の知らせを知り「ハイルヒトラー」という様に手を挙げる様などが素晴らしい。  この映画の簡潔さ、例えばシュタウフェンベルクの家族に対する愛情というのを鬱陶しく描かないことからもわかる通り、個々の内面、ひととひととのぶつかり合いや葛藤などという今更という陳腐なことを描くナチス映画ではないことを雄弁しているだろう。こんなにも簡潔な映画の中でひととひととのぶつかり合いなどという面倒被ることを延々と描いてもつまらないだけだ。この登場人物たちは互いを理解し合って決起するのではなく、軍事クーデターを行うということに感染して集うだけの駒だ。シュタウフェンベルクが暗殺を行い戻ってきてから、皆が同士である印のカードを次々と取り出すシーンなどは正に感染でしかない。軍事クーデターを行うことが重要であって、理解を深めることは問題ではないのだ。だから極端な話をすれば、この映画は「ワルキューレ」なのだから、ワルキューレ作戦が描かれていればいい。シュタウフェンベルクでさえもこの映画においてはワルキューレ作戦に感染した駒のひとつだ。彼は現実、今や英雄かもしれないが、この映画での彼の最期は国を愛する正義というよりは、ワルキューレ作戦という軍事クーデターに雄叫びをあげて殉じた狂信者としか映らない。ただそれでいい。「ハイルヒトラー」と叫んで死ぬか、「ドイツ万歳」と叫んで死ぬか、このふたつは簡単に入れ代わりが可能なほどの差異なのだ。  ただ、この事実を忘れてはならないということ、それを終幕直前のふたつのショットがそう言っている。 ひとつめはシュタウフェンベルクが処刑され、地面に倒れた時のクロースアップ。彼の目は閉ざされることなく、こちらをじっと見つめている。 ふたつめは一度登場したショットの続きとなるラストショット、シュタウフェンベルクのアイパッチをした左側頭部を入れ込んだ、彼の妻との別れのときのショットだ。 このふたつのショットは明確に示している。刮目せよ(忘却するな、という意も込められているだろう)、あなたたちはわたしの左目となって事実を目撃したのだから。 それでこの映画は充分だ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-04-15 00:57:36)(良:2票)
58.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 
美術館へ辿り着くまでの尾行、そして美術館での銃撃戦は見事としか言いようがない。真っ白で螺旋状の内壁に次々と撃ち込まれる弾痕。クライヴ・オーウェン演じるサリンジャーと殺し屋のやりとり。建物の形状を完璧なまでに駆使したカット割り。素晴らしい。 それ以前に、サリンジャーが殺し屋を追い掛けるシーン、キャメラは必死に走るサリンジャーを横移動で追っかけ、それと平行モンタージュで逃げる殺し屋の車を見せ、サリンジャーが大通りに出ると、キャメラは横位置から一気にクレーンアップして俯瞰構図となり、犯人の車が赤信号で停止している車の大群に混ざっているという一連及び最後のクレーンショットがまた素晴らしい。 人物の会話の殆どが人入れ込みの切り返しショットで処理されているのが少し物足りないというか、逆にしつこいかと感じる。サリンジャーが氷水の中に顔を突っ込み殺し屋らしき人影を思い出すインサートカットや、屋上での殺し屋はこうしていただろうという推論の回想映像は必要なのだろうか。殆どを無闇矢鱈に説明せずに見事なまでに簡潔に展開しているのに、この2点だけ過剰に説明していると思える。無くても理解できるから余計無駄だと感じる。 しかしながらこの映画は見事だ。ナオミ・ワッツ演じる検事とさよならしてからこの映画は急に晴れ晴れとした青空の中に舞台が移される。それは中から外へ出るという機能が働いたからだ。システムの中=法に司られた社会の中にいては解決できないのだが、システムの外=法を無視した世界に出て行けども決して辿り着けないという「どこかにある答えが見つかりそうで、どこにも答えがない」という<世界>にやはり着地してしまう。そこに至るまでを逮捕権のないインターポール職員とニューヨークの検事局員が追うことで、「答えが出そうで、出ない」という柵が更に主人公たちに絡み付くからいい。 ファーストショットのサリンジャーのクロースアップ(この次のショットは駅でなく、本当は車であるべきだったと思うが)はどこかにある答えを見据えていたが、ラストショットのサリンジャーのクロースアップはどこにも答えがないと盲目的になっている。それは幾らでも置換可能な現実=この近代社会のシステムを目の当たりにしてしまったという嘆きの表情だった。
[映画館(字幕)] 8点(2009-04-12 20:55:12)(良:1票)
59.  レイクサイド マーダーケース 《ネタバレ》 
巻頭、仰向けとなっている状態のモデルを俯瞰で撮影する眞野裕子演じる英里子は、ファインダー越しに自分自身の未来を覗き見ているかのような構図にもなるわけだが、このことは後にするとして、まずこの行為から、彼女が覗き見る/まなざしを向けるというところにこの映画の焦点があるのだということから始めたい。 これは彼女がまなざしを向けたことによって起きる事件なのだ。 名門私立中学の不正入試を暴くまなざし、自らの子供時代を思い返すように子供に向けるまなざし、不倫相手の妻に向ける敵視したあのまなざしがある。 ただすべてが彼女だけのまなざしで成り立ってはいない。 「そんな目で見るな」という役所広司の台詞にもある通り、これはすべてのまなざし/視線を意識しなければならないのだ。死体を湖に投げ捨てるとき、大人が皆森の中で立ち尽くすとき、車がそこを通り過ぎる。この実体のない見られているかもしれないという視線をもこの映画は適切に紡ぎだす。 もうこれは見るということへの執着だ。犯人が誰であるといったことが最重要視される映画ではないのは一目瞭然。つまり犯人をこの目で確かめることが重要ではない、そんなことよりここに出てくる人々を見なさい、行為を見なさいと言っている。 そして湖の奥深い底で仰向けとなることを余儀なくされた英里子は、レンズ越しに(これは映画を撮影したキャメラという隠喩も含まれるだろう)過去の自分自身と視線が交差しまうという見事な構図となる。すべてが巻頭に回帰する瞬間だ。そして結果としてライターは彼女の瞳に突き刺さりすべてを塞いでしまい物語の幕を下ろすのだ。 実はこの彼女のまなざしこそが、受験によって変化を遂げていく人々の唯一の救いの手であったのだろう。それがあの青空の中、深々とした緑に彩られた森を背に、湖畔の上をそよぐ彼女のまなざしへとここでも結実して暴かれる。 救いの手をもこの世から消し去ろうとするこの湖畔での殺人の場合、または受験というものの場合の恐ろしさが、あるいはひとというものの醜さが、狂ったかのようにひとを一変させてしまうのだが、それをすべて見たのは他でもない我々観客なのだという事実は誰にも回避できない。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 01:36:43)
60.  野獣の青春 《ネタバレ》 
誰が野獣で、何が青春なのかさっぱりわからない、日活時代の鈴木清順にしては珍しくコミカルさを廃したハードボイルドものだ。 冒頭、花だけが赤いという、要するにそこに注目を置きたい強調したいだけに過ぎないことを、そうやって派手にやるのが日活時代後期の鈴木清順なのだ。世には美学美学、美しいと言われるのだが、大きな間違いで、ただのデフォルメに過ぎないのだ。 当時の日活撮影所で作られる映画の本数など数えきれないほどだった。ではその中でどうしたら目立てるか、どうしたら人と違うことが出来るかということ、それがデフォルメということだ。やくざの事務所などという設定はあまりにもありふれている。しかしそれで映画を撮らなければならないのが、撮影所所属の鈴木清順の仕事なのだ。そこで思いついたのがキャバレーのミラー越しの事務所、映画館のスクリーンの裏の事務所、更には黄色い砂風荒ぶ荒野にまで及んだということだ。つまり何度も言うが、美学なんかではない、どうすれば他とは違うかという、既存の映画に対するデフォルメでしかないのだ。要するに文化祭の模擬店などで他の店より目立とうと屋台を派手に飾り付けるようなものだ。売っている焼きそば自体はどこも味は大して変わらないのにだ。 そして宍戸錠というなんとも覚束ない歩き方をするこの役者、この人が鈴木清順の最高の共犯者なわけで、とてもじゃないが二枚目でかっこいいなどとは言えないこの男、むしろ泥臭くてかっこ悪いのだが、宍戸錠は宍戸錠を自分でデフォルメする力を持っているらしく、それがかっこ悪いのだけれどかっこいいのだ。やること為すことあまりにも出鱈目で無茶苦茶過ぎてかっこいいのだ。あの笑顔が似合わない憎たらしい顔といったらこの上ないくらいにかっこ悪いけどかっこいい。 日活時代の鈴木清順の映画は、当たり前のように美味しい焼きそばは作る(ま、それ自体が凄いのだけど)。ただそれだけでは売れない。だから屋台を飾り付ける。つまり本当は目立ちたがりでちょっと気恥ずかしくなるなというようにかっこ悪いはずなのだが、あまりにもそれが出鱈目過ぎ(るにも関わらず、鈴木清順のたちの悪い知性が見え隠れしてしまっ)てかっこいいのだ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-23 03:54:29)(良:1票)
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