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41.  愛のむきだし 《ネタバレ》 
まるでVシネマか深夜ドラマのようにペラペラな映像と、素人に毛がはえた程度の演出。手のこんだ冗談かと思いきや、どうやら本気らしい。目も当てられないとはまさにこのこと。役不足極まりない渡部篤郎の神父っぷりも、鼻白むほどトントン拍子にユウがチンピラグループの一員となりさらには簡単にアクロバット盗撮をマスターしてしまう展開も、そもそも魅力的でなければ話が成立しない「さそりさん」のあまりの魅力の無さも、それらご都合主義のすべてが「B級映画の愛すべき荒唐無稽」と呼べる域にすら達しておらず、もはやただただ神経を疑うばかりの酷さで続いていく。それを237分間ノンストップで見せつけられる苦痛は筆舌尽くし難い。けれどそんな苦痛も、腹を決めて237分間つきあい続けると、いつしか不思議な現象が起こる。うすらぼんやりとではあるが、愛着が湧くのだ。本作を、それでも簡単に一蹴できない理由があるとすれば、それは主演を務めた無名の若手俳優三人に因るものだろう。バカバカしい性衝動と深刻な葛藤の両面を相反することなく見せる西島隆弘、若くしてすでに怪優の風格漂わす安藤さくら、そして青少年のエッチな妄想をヤングジャンプのグラビアアイドル的エロで具現化する満島ひかり、彼ら(若手ではないが渡辺真起子を加えてもいい)の上手下手を超えて見せるその気迫と凄みには間違いなく魂がこもっている。そうしてじっくり時間をかけて私は、ユウに、ヨーコに、コイケに、そしてセンスのかけらもないクソみたいなこの映画に、いつのまにやら心を許していく。無駄に冗長な237分間、その猶予の間に。言い換えれば237分間の気の遠くなるばかりのその苦痛あればこそ、この映画は成立するのだ。それがいいのか悪いのか、判断する余力は237分目にはもはや残っていない。それでも流れるゆらゆら帝国にジンときたのなら、おそらくそれでいいのだ。
[DVD(邦画)] 5点(2010-01-08 18:12:07)(良:2票)
42.  キル・ビル Vol.1(日本版) 《ネタバレ》 
皮膚を突き刺し血を吸う蚊、着火する銃弾、そして美しいユマ・サーマンのあまり美しくない外反拇趾。それらをシネマスコープの巨大スクリーンぎりぎりいっぱいに接写するタランティーノは、世紀のバカだ。かつてカンヌまで制したこのバカは憧れのルーシー・リューを起用したいばっかりに、カタコト日本語がせいいっぱいの彼女をあろうことかジャパニーズヤクザの女親分の座にゴリ押しし、異を唱える日本人代表としての田中の親分=國村隼の首をバッサリはねて片付けてしまう。ルール無用なこのバカはそうしてまさにユマ・サーマン扮する主人公×××よろしく、悪趣味なプッシーワゴンに乗って自らの信じる道をひたすらに危険な曲乗りで爆走するのだ。ブライアン・デ・パルマばりの分割画面だの、ダリオ・アルジェントばりの色彩マジックだの、深作欣二ばりのバイオレンスだのにはじまり、闘う制服美少女モノから梶芽衣子主演映画に至るまで、俺的フェイバリット・ムービーに節操なく熱烈なオマージュを捧げまくるバカ。そんな世界一幸福な映画オタクとしてこのバカな映画監督が描き出すのは、服部半蔵が寿司屋兼刀鍛冶としてOKINAWAに潜伏し、日本刀ホルダー付きのシートが用意された航空機AIR Oが首都TOKYOのネオン街を低空飛行するトンデモ大国ジパング。そして悪趣味で出鱈目でいてどこか魅惑的なこのパラレルワールドを孤高に勇往邁進するユマ・サーマンの姿だ。彼女はそんな異界におけるさらなる異物として、二重の孤独を抱えそこに立つ。その姿はバカバカしいけど美しい。『修羅雪姫』や『女囚さそり』のように「復讐」を美しく描くためには、卑劣な敵にも真っ向から臨む気高い志と生命を賭した文字どおりの死闘が必要なことを、このバカはバカなりに知っているのだ。たとえ18禁ゲームのような醜悪さではあっても、満身創痍になりながら人を斬るサムライ気取りのこの細長い白人女は、その暗い瞳にちゃんと梶芽衣子の魂を宿している。タランティーノはよっぽど梶芽衣子が好きなんだろうな、と思うと、ちょっと泣けてくるほどだ。(それなのにバカバカ言っちゃってごめんねタラちゃん。 でも一転、変態殺人鬼と同じレベルに堕ちて「復讐」を乱痴気騒ぎで楽しんじゃう最新作『デスプルーフ』は美しさのかけらもなくてただただ不愉快なだけだったよ。)
[映画館(字幕)] 9点(2009-11-29 01:44:37)(笑:1票) (良:1票)
43.  夏時間の大人たち HAPPY-GO-LUCKY 《ネタバレ》 
父親役の岸部一徳を除けば、主人公タカシを含めた登場人物たちは無名の俳優ばかりである。根津甚八や石田えり余貴美子ら顔の売れた俳優は、現実世界と同様にブラウン管の中で陳腐な昼メロを演じるか、C.C.ガールズの青田典子のように夢に登場するだけ、というのが面白い。サエない小学生タカシの日常と、そこにシンクロしていく彼の父母それぞれの子ども時代。彼らは当たり前に父であり母であり子どもである。けれど父であり母であり子である彼らからその当たり前な時系列を取り除けば、そこに残るのは、アツオとジュンコとタカシという対等にサエない3人の子どもの姿だ。中島哲也監督は魔法もSFも用いずサラリとそれを見せてくれる。妹のイタズラ描きを誤魔化すためダイナミックに塗りたくっただけの風景画がコンクールに入選してしまうこと。欲しくもない賞状をもらうこと。それがちっともうれしくないこと。あるいは病弱で寝たきりのお母さんがヘビ女であること。お母さんの部屋につづく階段を昇るとき、だから少し足がすくむこと。だけど、雨に濡れ自分もヘビ女になったって構わないくらい、お母さんが大好きなこと。本当はお母さんに甘えたいこと。子どもたちそれぞれの悩みや人には決して言えない思い。彼らかつての子どもたちを現在のタカシの延長線上に置かず、そっと並列させるのがいい。タカシの目下の悩みは逆上がりができないこと。おっぱいの大きな女の人が好きなこと。ダメ人間になりたくないこと。人には言えないそんな思い。それは逆上がりができない自分が許せないトモコも、さらには何度叱られても校則違反の買い食いをやめないヤスノキヨミだってそうだ。悩みは尽きなくて、だれにも話せない自分だけの思いがあって。逆上がりができたら今度は跳び箱が「乗りこえなきゃいけない人生の障害」として立ちはだかって。世界の仕組みは謎だらけで。だけど河原に吹く風はとても気持ちよくて。そうこうしているうちに鉄棒でつくった手のひらのマメはいつのまにやら消えている。それが人生だ。ラスト、神様に願いごとをするタカシ。逆上がりの悩みはまた別の悩みに変わっている。トモコが好きで、そんなトモコも同じように悩みを抱えていて。でもトモコが悩みを一つだけでも乗りこえたら自分のことのようにうれしくて。だけどトモコのおっぱいは小さくて。やっぱり悩みは尽きなくて。人生、それでいいのだ。
[DVD(邦画)] 10点(2009-11-29 01:42:11)(良:3票)
44.  殺人の追憶 《ネタバレ》 
サスペンス映画には必ず「犯人」が要る。フィクションとしての犯罪は勿論のこと、現実の未解決事件を題材とする場合も同様に、映画はまずもっともらしい有力な仮説を打ち立て、それに基づいた犯人像を描く必要がある。なぜなら描かれる事件の真相や核心に触れないサスペンスなど、サスペンス映画として成立しないからだ。だがそんな定石を、ポン・ジュノは軽々と凌駕する。一般のサスペンス映画において用意される「描かれる犯人」たち。彼らがどれほどにおぞましい醜悪な姿であっても、実は我々にとってそれはたいした恐怖ではない。たとえば『羊たちの沈黙』の人肉ドレスを縫う殺人鬼も『セブン』のジョン・ドゥーも、観る者を真に恐怖させることはない。その正体とカラクリを知り、悪魔の形をはっきりと認識できることに、我々は心のどこかで納得し安堵するからだ。しかしポン・ジュノは安全なその装置を、嘲笑うかのように破壊する。悪魔的な事件だけが白日の下に曝され、肝心の悪魔の姿は最後の最後まで藪の奥底に潜んだままという、得体のしれぬその恐ろしさ。それはまさに現実世界で日々我々が直面する恐怖と同種のものだ。納得も安堵も決してもたらされることのないその恐怖にこそ、我々は戦慄する。画面には不安に裏打ちされたそんな真の恐怖が隈無く充満し、むせ返るほどだ。ソン・ガンホ演じる脂ぎった刑事の無能さや滑稽さ、彼の見せるそうした生々しい人間の営みが、迫るような臨場感をもって我々の耐え難い不安にさらなる拍車をかける。雨のシーンが秀逸だ。繰り返される雨は、闇にも似た不透明さで世界を覆う。それは人間の抗えぬ不安の象徴でもある。決して止められぬ事件。なすすべなく土砂降りに打たれ、びしょ濡れで立ち尽くすばかりの刑事たち。最後まで姿を見せぬ悪魔。トンネルの壁に撥ね返る銃弾。そして世界を覆い尽くす雨と絶望。ハンマーで殴りかかってくるようなこの気迫はなんだろう。渦巻くばかりの映画的興奮が全編に渡り漲っている。いつしか私も刑事の一人となりそこに立ち、土砂降りの雨の中、ただただ自らの無力に打ちひしがれる。スクリーンで観なかったことをこれほどに後悔させる映画は他にない。傑作だ。ポン・ジュノは事件の核心にも真相にも触れぬ掟破りのこの映画を、けれどそうすることで、超一級の恐るべきサスペンス映画に仕立てあげたのだ。
[DVD(字幕)] 10点(2009-11-29 01:38:23)(良:2票)
45.  ぼくは怖くない 《ネタバレ》 
波打つ黄金色の麦畑、顔を這う蟻、窓辺に迷いこむ鳥、ミミズ、蜘蛛、針ネズミ、蜂、いなご、フクロウ、蛇、カエル、そして人間の大人たちと、その子どもたち。田舎町の美しい風景の中で自由に輝くそうした様々な生命と、廃屋の穴に隠され大人たちに脅かされるフィリッポの囚われた生命、その対比がなんともやりきれない。秘密の穴でフィリッポと出会う主人公ミケーレは非力な子どもだ。だが、彼はいくら大人たちにねじ伏せられようとも、フィリッポを救うべくひたむきに突き進むことをやめない。守護天使たるそんな彼の手引きで穴を抜け出し、麦畑で笑い転げ、ようやくつかの間その生命を謳歌するフィリッポ。英雄ではなく同じ非力な生命として、そんな当たり前を当たり前に彼に与えるミケーレは、まるで罪深い人間の胸にそれでも宿る最後の光のようだ。同様に、ラスト、逃げきる道を選ばず危険を承知で当たり前に瀕死のミケーレのもとへと舞い戻るフィリッポは、一転、今度は彼こそがミケーレの 守護天使となる。満身創痍となりながら、まっすぐに手をさしのべあう二つの良心。この映画が描くのは勇敢な少年の正義やヒロイズムなどではない。ここにあるのはただ、非力な人間がそれでも人間として根底に持ちうる良心の、ささやかでいて途轍もなく力強い、慈しむべきその姿だ。
[DVD(字幕)] 7点(2009-11-26 00:34:16)
46.  告発 《ネタバレ》 
映画はヘンリーが受けた残虐な仕打ちも彼が犯す殺人も、克明に描く。けれど克明でありながら、その描写はとても冷静だ。より露骨に声高に描ける可能性を、映画は勇気をもって捨て去る。裁判のシーンもその判決も、観客の求めるカタルシスをもっとドラマチックに感動的に満たすことはいくらでも可能だっただろう。しかし映画は誠実に、それをしない。ヘンリー・ヤングは弁護士ジムに言う。自分のように暗闇でクソにまみれて這い回っていたわけでもないのに野球中継を見ないなんて、と。俺は女を知らないと。穴蔵に迷い込んできた蜘蛛が唯一の友だちに思えたと。おまえと俺は一体どこが違うのかと。裁判の過程や事件の真相とは直接関係のないヘンリーのその焦点のズレた発言の数々は、けれど彼の台無しにされた悲しい人生を静かに物語る。看守の目を盗みジムがヘンリーに娼婦をあてがう一見下世話なそのシーンの持つ意味は、あまりに切実で痛ましい。人間の尊厳をあらかじめ奪われながら、人生の大半をただ生き延びたヘンリー。そんな彼がジムとならんで座り、トランプのカードを飛ばして遊ぶシーンが忘れられない。彼の人生たった一度きりのその幸福な瞬間が、肝心の判決が下る待ち時間の出来事というのは象徴的だ。ヘンリーが望むのは身の潔白や無実などではなく、ありふれた人間としての当り前の価値、ただそれだけなのだ。人としての価値を踏みにじり続けた副所長を裁判中もずっと直視することができなかったヘンリーは、けれど再び戻るアルカトラズの入り口で、ついにまっすぐしっかりと彼の目を見据える。恐ろしい穴蔵へと続く階段を降りながら、それでもその瞬間彼はようやく価値ある一人の人間として、誇り高き勝利のその意味を噛みしめる。彼はもう哀れなヘンリーではない。ようやく美しき一人の人間として、気高くそこに立つ。裁判でも判決でもなく、その時にこそ、彼は本当の意味で勝ったのだ。
[DVD(字幕)] 7点(2009-11-24 21:10:22)(良:1票)
47.  クワイエットルームにようこそ 《ネタバレ》 
かつて爽やかで健康的なアイドルとしてTENKAをとった内田有紀を「鬱陶しい女」役に起用する底意地の悪い松尾スズキに対し、正々堂々真っ向から受けて立つ内田有紀が頼もしい。おかしな連中ばかりの入院患者たち。その中で主人公明日香は自分と同じ頭のまともな人間を二人、嗅ぎ当てる。正常であることを証明するように退院していく栗田と、拒食症の少女ミキだ。栗田は、退院記念にみんなから貰った寄せ書きや連絡先は病院を出たら全て捨てる、と明日香に打ち明ける。「シャバに戻るっていうことはそういうことよ」それが健康に退院する彼女にとっての暗黙のルールなのだろう。それでも(頭のまともな)あなただけは別だとメールアドレスを書いたメモを渡す栗田に、明日香は喜ぶ。携帯電話を持ち込めない病院では役に立たないメールアドレス。自分も栗田のように退院してシャバに戻った時に初めて意味をなすそれは、明日香にとってお守りのようなものだ。だが、自分たちだけがまともだと信じる明日香がやがて嫌でも気づかされるのは、共に残ったミキがふと見せる異常、そして目をそらし続けた自分自身の異常。「触るなバケモノ!」明日香がミキに投げつけてしまうその言葉は、自分自身にはね返る。ようやく鬱陶しいバケモノである自分を認め、長い闘いのはてに退院する明日香。彼女は栗田がしたようにミキに連絡先を渡したりはしない。ミキもまた寄せ書きに「1時間以内に捨てないと、この色紙は爆発します。」と冗談めかして書く。そんな二人の別れに私はふと一抹のさびしさを感じる。病院を出た明日香はミキのメッセージ通り色紙をゴミ箱に捨てる。「シャバに戻るっていうことはそういうことよ」そう教えながら、その場所に残る者とのつながりを完全には捨てきれなかった栗田。彼女が明日香と入れ替わるように病院に舞い戻るのはまさに当然の帰結なのだ。一方トンネルを抜けて清々しく「お守り」を風に飛ばす明日香は健康そのものだ。彼女がクワイエットルームに帰ることはおそらくもうないだろう。それでは、と思う。明日香の発した「バケモノ」の言葉が今度は観ているこちら側にはね返ってくる。それではミキとの別れをさびしく感じたお前はどうなんだ?life-is-happyを謳うハッピーエンドの裏側で、そんな自問自答がひたひたと語りかけてくる。クワイエットルームにようこそ。つくづく恐ろしいタイトルだ。松尾スズキはやはり底意地が悪い。
[DVD(邦画)] 5点(2009-11-24 21:06:38)
48.  アヒルと鴨のコインロッカー 《ネタバレ》 
カワサキのカワといえば大抵は三本川の川なのに珍しく、河童の河だと名乗る河崎。30分もかけて本屋を襲撃したのに肝心の広辞苑を広辞林と間違えるそそっかしい河崎。シャロンとマーロンの小噺を「楽勝」で語る河崎。ボイスレコーダーに遺った、失ってしまった者たちのその声を、彼は一体どれだけの回数聞いたのだろう。河崎曰く「可笑しいな」の「しいな」と同じ響きの名前をもつ椎名は、人は好いけれど、隣室の住人が孤独なブータン人だと分かるとそれ以来深入りを避け、バスの乗り方が分からず声をかけてくるインド人の前を逃げるように通過する、典型的な日本人でもある。Bob DylanのBlowin' In The Windを口ずさみながら引っ越しのダンボールを片付ける椎名と、その背後に、奇跡に出会ったような笑顔で立つ「となりのとなり」の河崎。彼らが鴨とアヒルであるならば、「鴨とアヒルは違う」と悪気なく言う鴨の本をアヒルはどんな思いで盗んだのだろうか。それを思うと、どうしようもなく胸が痛む。原作に忠実な映画の宿命として、本作は原作を超えてはいないだろう。ミステリーに付き物である謎解きの答え合わせのような冗長さ、社会的弱者が鬱屈の捌け口として単独で行う場合がほとんどであるだろう動物虐待の犯人像を見るからに素行の悪そうな三人組にあてがうウソ臭さ、あまりに流暢な現在のアヒルの台詞回しなど、小説であれば誤魔化せても映画だからこそ浮き上がってしまうそれらを映画として巧く消化しきれない下手さは、どうしても拭えない。けれどそれでも下手なりに誠実に物語ろうとするこの映画が好きだ。ラスト、「もう一度」犬を救おうと車道に飛び出すアヒル。反復は過去と現在の状況の変化を強調する。彼のしたこと、そして失ったもの。一度目の時のように「犬を助ける俺が殺されるわけがない」という絶対的な法則を、罪を犯した彼はもう、もたない。映画はそんな彼にどんな結末が下されるかを不遜に描いたりはせず、誠実に、省く。彼のしたことが善いか悪いか、そしてアヒルは赦されるのか赦されないのか、その答えは神のみぞ知る。描かれるのはただ、車道に迷わず飛び出し行く彼の、それでも決して失わなかったもの、それだけだ。そして鴨がそうしたように、コインロッカーの中で電池が切れるまでBlowin' In The Windを歌いつづける神様に、映画もまたアヒルのため、ただただ切に祈るのだ。
[DVD(邦画)] 8点(2009-11-21 15:21:00)(良:2票)
49.  嫌われ松子の一生 《ネタバレ》 
毒々しい人工甘味料で過剰にデコレートされた画面の中あふれかえる雑多な登場人物たち。中島哲也監督によって人形のように配置され操られる彼らは、もはや俳優である必要がない。キャストの相当数がお笑い芸人やミュージシャンで占められるのはそのためだ。そんな中、松子を演じる中谷美紀だけが、喜怒哀楽も血も涙もある人間として強烈なバイタリズムの輝きを見せる。監督が用意する緻密で窮屈な枠組と、そこからはみだそうと目を瞠るばかりの生命力を発散させる女優。反目しあう二人ながら、往年のハリウッド映画さながらにスクリーンいっぱいに浮かぶMIKI NAKATANIの冒頭のクレジットが、この主演女優への最大の敬意と賛辞を表していて素敵だ。映画が主人公松子の一生をミュージカル調に語るのは、パンケーキを食べ百貨店の屋上でミュージカルを観た父との幸福な時間に彼女が生涯囚われつづけるからだろう。パンケーキが象徴するのは松子が何度も挫けそれでも信じた、愛だ。おどけ顔で必死に父の愛を望んだ彼女は、よりによって思い出の場所でその死を知り、「どうすれば私、愛される娘になれるの?」と悲痛に歌う。ただいまと言ってもおかえりと言ってもらえず、おかえりと言ってもただいまと言ってもらえぬ嫌われ松子。彼女が最後の最後に見つけるのは、切望しながら自ら見過ごしてきた、けれどちゃんとそこにあった、いくつもの愛だ。ラスト、襲われ突っ伏した松子は仰向けになり、星空を見上げ立ち上がり、その愛の一つを握りしめ、一歩二歩と前へ進む意志を持ってうつ伏せに倒れる。幾度となく「人生が終わった」と思いながら、それでもさっさとその人生を終わらせたりはしなかった彼女にふさわしいその最期。たとえ同じ犬死にであっても、彼女の倒れる向きとその意味は180度違う。美しい背中で階段を昇る松子を待つのは妹久美だ。階上の部屋で姉の愛を求めた妹。そして父の拒絶に苦しみながら、自らこそが妹を拒みつづけた姉。人に何をしてもらうかではなく何をしてあげるか。劇中示されるその言葉のとおり、愛されるためでなくただ愛するため、松子はその階段を昇る。その時彼女はあれほど必死に追い求めた愛を、思いがけずその手にしている。おかえりとただいまをかわしあえるこの上ない幸福、そして滑稽なおどけ顔など見せずとも浮かぶ父の笑顔。松子は愛されていた。そんな素晴らしき愛を、川尻松子はようやく心のままに噛みしめるのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2009-11-21 15:17:52)(良:2票)
50.  東京夜曲 《ネタバレ》 
結ばれぬ二人、叶わぬ恋。そんな胸を痛める激しいラブストーリーが幕を閉じた後も、男と女それぞれのその人生は延々と続いていく。この映画が描くのはそんな、ラブストーリーのその後だ。あとがきのような人生を日々に埋もれるようにひっそりと生きる康一もたみも久子も、かつての輝かしい恋愛物語の忘れられたその主人公たちである。彼らは、まさに市川準映画の主人公にふさわしい。市川が描くのは常に、世界の片隅で忘れられたように日々を暮らすそんな人々の姿だからだ。様式ばった美しさで切り取られる東京下町の風景、作為的なまでに静謐な時の流れ、そうした市川準映画の悪癖とも言える人工臭や退屈さが拭い去れない本作だが、それでもその中に主人公たちの灯す情感をゆっくりと滲ませていくその描写の繊細さには、心惹かれずにはいられない。商店街の人々に噂され、時にヤクザのようだと揶揄される康一は、実際粗野で無口なうえ、陰気な男だ。けれど、思いをよせあったはずの青年の結婚に打ちひしがれ宴席で所在無く一人唇をかみしめる近所の娘に、そんな彼が真っ先に声をかける。こっちにおいで。その声の別人のようなやさしさ。現在進行形の悲しみを必死に堪える若い娘は、かつての康一であり、たみであり、久子なのだろう。うれしそうに顔をほころばせる娘。その様子を柔らかな表情で見守るたみ。ただそれだけのそのショットに、たみがなぜかつて彼を愛したのか、言葉少なな彼女の思いが静かに滲むのだ。映画は東京をはなれ岡山で新たな暮らしをはじめるたみの姿で終わる。でこぼこ道を走る衝撃で自転車のカゴから飛びだすジャガイモに、不恰好な声をあげるたみ。ラブストーリーのその後を終えた彼女が行くのは、ラブストーリーのその後のその後だ。そうしてその後のその後のその後まで、彼女の人生はまだまだ続いていく。ひたすらに生き続ける、ただそれだけのことのなんというすばらしさ。人々をそんなふうに見つめる市川の視線は、限りなくやさしい。現在は過去のあとがきなどでは決してない。今を慈しむこと、それこそが、生きるということに違いないのだから。
[DVD(邦画)] 6点(2009-11-14 23:18:18)
51.  母なる証明 《ネタバレ》 
『猿の手』という有名なイギリスの小説がある。三つの願いごとを叶える猿の手を譲り受けた夫妻に起こる奇怪な出来事を描いた恐怖譚だ。夫妻は一つ目の願いで猿の手に大金を無心するが、皮肉にも最愛の息子が事故死し、その見舞金を受け取る形で願いが叶う。嘆き悲しむ夫妻が死んだ息子を生き返らせるという悪魔的な願いを二つ目に唱えると、ある晩、だれかが彼らの家のドアをノックする。次第に気違いじみた激しさで叩かれる扉。尋常ではないその気配にも関わらず母は息子の帰宅に喜び勇みドアを開けようとするが、危険を察知した父が咄嗟に三つ目の願い事を唱えるとノックの音がはたと止むという話だ。等しく息子を愛しながらも、違いを見せる母性と父性。母の愛は時に理屈も常軌も逸し、子のためならば悪魔にその魂を売ることすら厭わない。ある意味愚かで、けれどそれゆえにその愛は底無しに深い。『殺人の追憶』で見せた骨太でアクの強い作風はそのままにポン・ジュノが本作で執拗に捉えるのもまた、そんな鬼気迫る母の愛だ。息子トジュンの無実を晴らすため憑かれたように突き進んでいく母。トジュンの友人でありながら協力と引き換えに金銭を要求する信用ならないジンテに、それでも縋るようになけなしの金を握らせる母のその姿は、まるで我が身の肉を削ぎ悪魔に差し出すかのようだ。やがて彼女が対峙するのは『猿の手』に喩えるならばドアの向こう側の見知らぬ邪悪な息子だ。一心に母を求める無垢なノックに為す術なく扉を開くその時、まさに彼女は息子の帰宅と引き換えに悪魔と地獄の契りをかわすのだ。無能な刑事が用意するスケープゴートの如き真犯人が、トジュンと同じく知的障害をもつ青年だという皮肉は、あまりにも痛烈だ。不運な青年には父も、そして彼のため悪魔に魂を売る母も、いない。生贄となる彼のため慟哭するトジュンの母。やりきれないのは彼女の涙が、子をもつ「母」としてのそれでもあるということだ。もはや彼女に出来るのは、記憶を消す鍼を内腿に打つことだけだ。悪夢の荒野で彼女が見せる滑稽で愚かで常軌を逸したダンスはまさに、滑稽で愚かで常軌を逸した、けれど底無しに深い、母性そのものだ。鍼を打ち同世代の「母」たちの気違いじみたダンスに再び加わる彼女は、そうして狂ったように踊り続けるしかないのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2009-11-14 23:15:29)(良:3票)
52.  ラースと、その彼女 《ネタバレ》 
日曜日の教会で、主人公ラースは顔見知りの老婦人から、新しく町に来た若い娘マーゴにプレゼントするようにと、一輪の花を渡される。極端に内気なラースはマーゴを前にして、渡されたその花を明後日の方角へと天高く放り投げてしまう。心優しく繊細なラースにおよそ似つかわしくないその行動は、まさに、気になる女の子を前にした時の幼い男の子のそれだ。人を特別に意識する初めての気持ちにとまどうラースは、何をどうしたらいいのか、皆目解らないのだ。ビアンカが彼の家に「届く」のは、その出来事の直後だ。完全無欠の美女ビアンカとのロマンスと死別を、愛情とおかしみをもって綴るこのストレンジラブストーリーは、内気なラースが可愛いマーゴと向き合えるまでの彼の壮大な恋の予行演習でもある。ビアンカがラースを大人の男に成長させた偉大なる女性として、その役目を終えても、きちんと最期まで敬意をもって描かれ、さらに弔われるのが実にすてきだ。その上で描かれるLars and the Real Girl。リアルガールは勿論ビアンカではなく、マーゴだ。二人が見つめあうだけのささやかなデート。そんなありふれた恋愛映画のオープニングが、この映画ではエンディングだ。ようやく、そしてついに、はじまるだろう愛すべきラブストーリー。そのスタートラインに立ったラースと「その彼女」に、幸あれ!
[DVD(字幕)] 7点(2009-11-10 01:10:17)(良:5票)
53.  あしたの私のつくり方 《ネタバレ》 
父が去り、家族で過ごした家は売りに出される。そんな中、寿梨は、頼りない母を支える長女の役をひたすらに演じる。彼女にそうさせるのは、自分さえもっと頑張れば幸せな家族のままでいられたかもしれないという思いだ。お前は嘘がうまいから行いだけはよくなさい、引用される太宰治の言葉のままに彼女は懸命に演じる。そんな寿梨に、母の再婚相手が言う。「まだ子どもの君にはつらい役だったよね。もう大丈夫だよ。その役、おじさんに任せてもらえないかな。」その言葉に、寿梨は思う。「君はもういらないよ。その役、もっとうまくできる僕がいるから。君が今までやってきたことは、ぜんぶ無駄なんだ。」まるでそう言われているようだ、と。自分が世界に存在するための大切な役割すら失い、売り払われた家を一人見にいく寿梨は、まるでみなしごだ。忘れられない幸せな思い出の家は新しい家族の新しい幸せに占拠され、彼女の居場所はもうどこにもない。家が戻れば家族が戻ると本末転倒して願う寿梨。彼女が信じる幸せは、その家で与えられそして必死で演じた役割り、その中にだけある。寿梨が日南子に「ヒナ」という役を演じさせ彼女を幸せにすべく奔走したり、自身が役割を奪われてから一層その「ヒナ」の物語に没頭するのは、そのためだろう。あえなく役を降ろされてしまった寿梨は、今度は裏方であるプロンプターとして、理想の大役を日南子に託すのだ。市川準監督はこの物語を、かつての枯れた味わいのその作品群からは想像もつかないほど、説明過多に語る。けれどその一見饒舌で表層的な説明は、実は額面どおりであるとは限らない。好意に基づく動機なら匿名で人を操つることも良しとする寿梨の軽率で未熟なある種の傲慢さ、そして映画自体が終始それを肯定的に描いているかのような違和感、それをさらりと覆す終盤が素晴らしい。「臆病な私も、演じてる私も、ぜんぶ私なの。逃げたい私も、ウソつく私も、傷つく私も、私なの。」寿梨に支えられていたはずの日南子。彼女が語るその言葉が今度は、本当はだれよりも支えてほしかった寿梨を力強く支える。それは、役を演じた「きのうの私」も、役を脱ぎ捨てる「あしたの私」も、どちらもせいいっぱい両手を広げて抱きしめる「今の私」の言葉だ。「まだちょっと恐いけど」それでもそうやって、彼女たちは勇敢に、あしたの私を、本当の私を、そして本物の私を、つくっていくのだろう。
[DVD(邦画)] 8点(2009-11-06 16:42:40)
54.  ピアニスト 《ネタバレ》 
エリカは感情を麻痺させる術に長けている。他人を求め拒絶されることは恐怖だ。あらかじめその恐怖の芽を摘みとることで、彼女は孤独と引きかえに心の平穏と均衡を手に入れてきた。それは彼女なりの生きる智慧だ。ポルノショップで男たちの好奇の目に曝されること、ドライブインシアターでカーセックスに耽る恋人たちを窃視すること、彼女の秘密の二つの行為はどちらも視線を媒介する。見られる時、あるいは見る時、そこに生じるのは他者との距離だ。視線という距離を測ることで彼女は他者との隔たりを認識し、安心する。母親以外を隔絶して生きる彼女はまるで羊水に浮遊する胎児だ。けれどミヒャエル・ハネケはそんなエリカのぬるま湯のような無痛の孤独に、残酷な揺さぶりをかける。彼女の鉄壁を乗り越え迫るワルター。彼のその無邪気さは、常に茫とした第三者として世界に存在していたはずのエリカに、当事者としての甘美な実感を与えてしまう。あえなく氷解してしまった感情のままにたどたどしくワルターと向き合うエリカは、雛鳥のように無防備に愛を乞う。痛ましく無様なその姿と、やがて語られる赤裸々な被虐願望。それは隠し持つ己れの醜さすら曝け出した上で赦されたいという切実な愛の告白であり、罪深い彼女にとってのある種の告解だ。だが頑なな心を開いた彼女を残忍に待ちうけるのは、愛した者に拒まれ、切り捨てられる絶望だ。健やかな笑顔を見せ、他人事のように軽やかに去っていくワルター。それら出来事のすべてが彼女の妄想であれ現実であれ、重要なのはその痛みを前にしたエリカが、麻酔も鎧も、身を護るその一切を失っているということだ。母との蜜月を断ち切り、産道を抜け、血まみれで産み落とされた彼女はもうぬるま湯に逃げ帰ることはできない。胸に突き立てたナイフは、鋭い痛みの実感を彼女に与える。その表情によぎる誤魔化しきれぬ苦悶。エリカは血を流す生身の体で再び、貫くような孤独の痛みの中を、ひたすらに歩いて行く。この不愉快な映画はまさにエリカの持つ尖鋭なその刃の切っ先だ。ハネケの見せつける本物の痛みを前に、私はその不愉快を滑稽と嗤い飛ばす。けれどそれはエリカを庇護し続けた偽りの麻酔とどこが違うのか。ハンドバッグの中に包み隠されたそのナイフを、私もまた確実に持っている。ハネケは言うだろう。ナイフを突き立てろ、そしてその痛みから目を逸らすなと。
[DVD(字幕)] 9点(2009-11-03 18:00:27)(良:2票)
55.  ジョゼと虎と魚たち(2003) 《ネタバレ》 
足が不自由なジョゼは一人で歩くことすらままならない。けれど映画はジョゼをいわゆる身体障害者としては描かない。恒夫をはじめとした登場人物たちも彼女を特別視するようなことはなく、同情も美化もなく描かれる彼女は、単なる変わり者でわがままな一個の人間として、当たり前に存在する。そこがいい。乳母車に乗ったジョゼの頬を平手で打つ恋敵の少女は、敢えて乳母車の前に顔を差し出し公平にその頬を打ち返させる。恋を前にした彼女たちはあくまで対等だ。そんな中、ジョゼの祖母だけがジョゼを「特別」に扱い、彼女を「こわれもの」として部屋に閉じ込める。囚われて生きるジョゼが世界にふれられるのは、祖母の曳く乳母車に乗せられ散歩するわずかな時間だけだ。その乳母車が祖母の手をうっかりはなれたことによりジョゼと恒夫が出会う序盤は、おとぎ話の始まりに実にふさわしい。まだ見ぬ世界を恒夫と共に進むジョゼ。恋人の心強さを盾に獰猛な虎を見ることは、愛する人といっしょになら世界に潜む不安を乗り越えられるということだ。それは閉じ込められた部屋の中で日々、彼女が切実に思い描いた夢であったかもしれない。彼女のそんな幼い願いを一つ一つ叶えてくれる王子さまが、けれどやがて直面し思い知るのは、お姫さまをお城に閉じ込め続けた悪い魔女の手が、か弱いこのお姫様をいかに盤石に守り支えていたかということだ。そのことの困難さ、その重み。彼女を守り抜くには王子さまはあまりに弱く、弱い彼に夢中でしがみつくお姫さまはあまりに幼い。そしておとぎ話は終わる。祖母の手も、ついには恒夫の背中も失ったジョゼ。それでも彼女に一人生きる力を与えるのは、全身全霊で彼を愛した記憶だろう。恒夫の抑えきれぬ嗚咽もまた、どうしようもなく失った彼女の存在のその計り知れない大きさを止めどなく物語る。守ることも守られることも失った彼らはようやく対等だ。共に弱く、そして強い。冒頭のモノローグ、恒夫の声は穏やかで、ほほえんでいるようにやさしい。あるいは台所の床に尻もちで着地するジョゼ。ズシンと響く音。ぶかっこうでいとおしいその音は、彼女が日々を生きる音だ。二人は虎も魚も住むこの世界を勇敢に、今度はそれぞれに、進んで行く。一生忘れることのないおとぎ話を、かけがえのないその血肉として。
[映画館(邦画)] 9点(2009-10-31 23:50:13)(良:1票)
56.  ヒストリー・オブ・バイオレンス 《ネタバレ》 
さびれたモーテルから出てくる二人の男。蝉の声がさんざめく長閑な昼下がり。彼らの他に人影はない。車に乗り込んだ若い男の肩に、しきりに蝿がたかっている。キーを回し車をわずかに移動させ、停止する。始動したエンジン音とカーステレオが途切れ、周囲は再び蝉の声に支配される。やがて若い男がウォータークーラーの空容器を手に、管理人室へと入って行く。二人の男の退屈な動向をただ延々と長回しで捉えたこの冒頭から、画面には異様な気配が漲っている。その怠惰な画面は、単なる平穏ではなく、それに続く暴力への凶兆として存在するからだ。この二人によってある日突然脅かされる主人公トムの安穏な日常もまた然りだ。『ボーリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアは、隣接するカナダとの比較を絡めて「暴力への不安」に蝕まれたアメリカ社会を描いたが、本作の監督がその「カナダ人」であるデヴィッド・クローネンバーグだというのは興味深い。件の二人が(まるで暴力大陸アメリカをあっけらかんと具現化するような)タランティーノ映画の登場人物をどこかしら髣髴させるのは、偶然ではないだろう。本作においてクローネンバーグが執拗に描くのは、アメリカ人が潜在的に抱え持つ「暴力への不安」だ。家でくつろいでいてもダイナーで働いていても不吉に忍び寄る、得体のしれない黒塗りの車。つきまとう「暴力への不安」が常にトムと家族を脅かす。あるいは彼の息子がハイスクールで直面するいじめっ子たちの不穏な威圧。それもまた暴力への不安、その変奏の一つだ。「反撃」という形を借りて土壇場で反転する暴力。その息子の姿は父に重なる。クローネンバーグはそうした反転をたびたび用いることで、月並みなバイオレンス映画の一方向性を封じる。暴力は無限に反転し、転調する。それこそがクローネンバーグが本作で見据える暴力の本質だ。家族たちの畏怖や憎悪の根源が不気味な片目の男から夫であり父であるトム(ジョーイ)へと移行することで、得体のしれない彼らの不安が確固たる恐怖へと転調していく様は圧巻だ。ラスト、不安材料をすべて摘み取り帰宅するトムと、それを知ってか知らずか彼を迎え入れる家族たち。出会った頃のように瞳を読みあうトムと妻。けれどおそらくその先も、彼らは再びの平穏のその裏側で、いつ現れるとも知れない黒塗りの車の来訪を日々恐れ続けていくのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2009-10-25 17:46:05)(良:1票)
57.  僕の彼女はサイボーグ 《ネタバレ》 
「彼女」は言う。「実は私、すごく遠い未来から来たの。いまから100年も先の遠い未来から。タイムマシーンに乗って。驚いた?」そりゃ驚く。そしてあきれる。21世紀現在、こんな恥ずかしい台詞を臆面もなく人気女優に言わせる気骨ある映画監督が、世界に一体あと何人いるだろうか?クァク・ジェヨン監督は言わばシーラカンスだ。この古式ゆかしいシーラカンスは、アラをさがしては鬼の首を獲った気になるひねくれた「映画鑑賞」がいかにつまらないものかを、そっと教えてくれる。なにしろジェヨン映画はいつでもアラだらけだ。無限に溢れるアラを指折り数えあげたところでキリがないし、何の自慢にもなりゃしない。それじゃあここは一つ、この子ども騙しな監督にあえて真っ向から、丸腰で騙されてみようじゃないか!そう思えたら、しめたものである。この幼稚で荒唐無稽で破廉恥なトンデモSFが、まるで宝箱のようにきらきらとした輝きを放ちはじめる。『猟奇的な彼女』をワンパターンに踏襲する「強い女の子と弱い男の子」像も、お得意の未来人も、イグアナ鍋にカピパラのウンコにゲロといったお馴染みの悪趣味なジェヨン節さえも、だ。スクリーンやブラウン管を食い入るように見つめた子ども時代のように夢中になり、笑い転げ、胸を熱くさせる。そんな至福の映画体験が間違いなくここにはある。夢物語に騙される喜び、それこそが映画じゃないかと言わんばかりに。ジェヨン監督は魔法使いだ。魔法は、それを信じた者にだけ力を持つ。階段でくり返されるいつか見た光景はまさに魔法だ。一度目は涙声で強がる「彼女」を遠景で捉えていたカメラが、二度目のシーンで初めてその美しい泣き笑いを接写する。彼女の心を感じる、感じることができる、ように。強く美しい綾瀬はるかと、それをおっかなびっくり笑顔で包み込む可愛らしい小出恵介のコンビは、単なる『猟奇的な彼女』の焼き直しを超えて実に魅力的だ。本作はまさに綾瀬はるかの映画である。サイボーグの「彼女」と未来人の「彼女」、二人は同じ顔をし記憶チップを共有はしていても、別人だ。その別人の二人を一人に融合させる強引なハッピーエンドは、「彼女」がどちらもまず「綾瀬はるか」であるからという非論理的な子ども騙しにほかならない。けれどそんな反則技に騙されてみるのも、このさい悪くない。そう思える私は、シーラカンスの魔法に、まんまとかかってしまったようだ。
[DVD(邦画)] 9点(2009-10-25 00:51:23)(良:3票)
58.  ラブストーリー 《ネタバレ》 
気恥ずかしいメロドラマだ。CGで描かれた虹や蛍が、チャチな玩具のようにきらきらと画面を彩る。現代の主人公ジヘの女友達が悪役的恋敵としてとことんカリカチュアされるように、脇役たちがまさに脇役としてのみストーリー上都合よく存在する人物造形もまた、ひどく深みに欠け幼稚だ。現代のジヘとサンミン、過去のジョヒとジョナ以外の登場人物たちは一様に、 まるで現代のシーンで描かれる美術館の絵画のように、それぞれの「二人」を取り囲む書き割りとしてのみ存在する。けれどまさしくそれこそが恋、なのだろう。恋はそんな風に傲岸に世界を二人だけのものにする。それが喜びに溢れる世界でも、悲しみに溢れる世界であっても。本作の冒頭、箱の中に隠された過去の手紙(写真)が魔法の風に吹き飛ばされ、母の悲しい初恋が解き放たれるという展開は、大林宣彦監督の『さびしんぼう』を髣髴させる。大林は『さびしんぼう』に寄せた文章の中で「純粋な恋の物語の向こう側には、残酷な愛の物語もまた存在する。」と述べているが、ジェヨン監督が本作で描くのは、まさに大林が言うところの現在の純粋な恋の物語と、その向こう側に痛ましく隠された残酷な愛の物語である。ジョヒとジョナ、ジヘとサンミン、それぞれのまぶしいばかりの恋の有り様をジェヨン監督はまっすぐに照射する。彼らは遠くから近くから、いつでも全力で愛する人のもとへと駆け寄る。互いを探し求め、走り、階段から駆け降り、抱きつき、互いの距離を埋めるべく一心に相手へと近づく。それはまるで、一直線なその動きそれ自体が恋であると高らかに告げているかのようだ。雨のキャンパスを傘を差さずに走っていくジヘは、体を打つ冷たい雨粒すら喜びに変えて走る。彼女を歓喜させ衝き動かすのは、言うまでもなくその先にサンミンがいるからだ。愛する人への距離を縮め「一人」から「二人」となるために走る。その一歩一歩の、この上ない幸福。突き抜けた恋の喜びと躍動がそんな彼女の疾走からきらきらとほとばしる。「傘があるのに濡れるのは私だけじゃないのね。」ジヘの言葉は雨宿りに始まり決して叶うことのなかった母の初恋をも、そっと慈しむように包み込んでいくようだ。恋は喜びだ。たとえそれがどれほど悲しい恋であっても。訪れる悲しみも、引き裂く別れすらも、二人の胸に刻まれた喜びのその虹を消し去ることだけは、決して出来はしないのだから。
[DVD(字幕)] 9点(2009-10-25 00:49:22)
59.  ナポレオン・ダイナマイト 《ネタバレ》 
出来のいい映画とはとても言い難い。脱力的なオフビート感も、緻密な計算というよりは単に下手クソな間の悪さが怪我の功名を効しただけにしか見えない。間がズレてるだけの大根役者陣もまた同様だ。しかし、だ。それでも面白いんだから困ってしまう。主人公ナポレオン・ダイナマイトは、その名のとおりバカバカしく滑稽で、なによりも気持ち悪い。しかし気持ち悪いんだが、憎めない。彼が面白いのは、そんな風貌のくせに(?)いじけた劣等感も卑屈さもなければ、逆に変人が変人として生きる糧としがちな尊大な負けおしみ的自意識もまるで持たないということだ。変人としての自覚すら、彼にはない。はたから見れば変人でも、彼にとっては当たり前な自分を当たり前に生きているだけだからだ。だからポケットにつめこんだおいしいポテトフライをクラスメイトにねだられても強気でNOと言えるし、それにより派手な蹴りを食らっても、負け犬根性ではなく単純に痛さに凹んで、面と向かってfreaking idiot(バカタレ)と罵ったりもできる。学園の花形として我が物顔にふるまう体育会系やチアリーダーたちが、その実ナポレオンとそれほど大差ないサエない風貌なのが、彼らの人間的対当性を表しているようでなんともおかしい。自慢できる才能も見当たらないし女の子に声をかけてもフラれるナポレオンは決してハッピーではないけれど、だからといってアンハッピーだと嘆いたりもしない。そのニュートラルさがなんとも魅力的だ。生徒会長選挙に出馬した友だちペドロのための応援パフォーマンスでヘンチクリン(だけど超クール!)なダンスを披露したり、出会い系サイトでナイスバディな黒人美女をゲットした兄キップのハネムーンために荒馬を調教してプレゼントするナポレオンは、彼らの幸運をLUCKY~!(いいなぁ~!)と羨ましがりながらも、持ち前のニュートラルな心意気で無邪気に祝福する。そんな彼に訪れるラストシーンはとびきりチャーミングだ。いつでも一人遊び専用だったナポレオン御用達ボール。退屈なその遊具を二人でプレイする喜び!そんな幸福感を校庭のスプリンクラーがささやかな噴水できらきらと彩る。可愛らしいデビーとのハイタッチ。これまたささやかに響くその音は、けれど間違いなく一人ではなく二人で発した音なのだ。実にナポレオンにふさわしい、ささやかでいて奇跡のようなハッピーエンドだ。
[DVD(字幕)] 6点(2009-10-25 00:47:23)(良:1票)
60.  僕の彼女を紹介します 《ネタバレ》 
チョン・ジヒョンを主演に勝気な女の子を描くというプロット、さらにはことあるごとに『猟奇的な彼女』と同調させてしまうジェヨン監督の節操のなさから、どうしても二番煎じの印象は拭い去れない。けれどこの映画は決して単なる焼き直しなどではなく、『猟奇的~』と表裏一体の、もう一つの愛の物語なのである。『猟奇的~』が二度めの恋と向き合えるまでの少女の葛藤と奇跡を描いていたとするならば、クァク・ジェヨン監督が本作で描くのは、猟奇的な「彼女」が痛ましくも一途にその胸のうちに抱え紐解かれることのなかった、隠されたもう一つの主題、つまりは一生に一度の忘れえぬ初恋の記憶である。本作の前半における、他愛なくもきらきらとまぶしいばかりの輝きは、まさに初恋のそれだ。水しぶきをあげて車の行きかう土砂降りの往来で、歓喜のダンスを見せるギョンジンとミョンウ。前作『ラブストーリー』でも熱心に描かれていたように、恋する二人にとっては雨に濡れることすら幸福な瞬間なのだ。愛を誓いあう時、人はだれしも永遠を信じる。けれどその永遠の魔法が解けた時、人はどう生きるべきなのか。コミカルな描写を織りまぜつつも、やがて世界に一人とりのこされるギョンジンを見据えるジェヨン監督の視線は真剣そのものだ。ロミオとジュリエットのような心中への希求、あるいはマグマのように沸きこぼれる悲しみや憎しみ、そのどうしようもなさ。それは一生に一度のかけがえのない愛を奪われた私たちの姿でもある。生まれ変わったら風になりたい。前半で語られるミョンウの言葉。紙飛行機に風車、そして頁を繰るパラパラ漫画は、風の存在なくしては意味をなさない。それはギョンジンの心象でもあるだろう。彼女の部屋を過剰なまでに埋め尽くすそれらのガジェットは、同時に決して埋めることのできないギョンジンのその胸の空洞を物語り、ミョンウの不在を浮き彫りにする。彼女の魂を浄化するようなラストは、まさに映画ならではの陳腐なファンタジーである。けれど陳腐なファンタジーを信じるその力こそが、私たちに人生を生き続けさせもする。唐突にキョヌが登場し強引に『猟奇的な彼女』へとシンクロするラストシークエンス。けれどそれは単なるお遊びではない。なぜなら、彼女の進むその先、その指標こそが、エピソード2としてあらかじめ用意されていた『猟奇的な彼女』という物語にほかならないのだから。
[DVD(字幕)] 9点(2009-10-13 22:05:21)
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