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BOWWOWさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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41.  プレシャス 《ネタバレ》 
『ヘアスプレー』のニッキーちゃん以来の大型新人ガボレイちゃんもまた、ニッキー同様歌って踊れるおデブちゃんだ。だがそれは、あくまで彼女扮するプレシャスの空想する、夢の中でのお話である。幸せな人間にも不幸な人間にも唯一平等に与えられる夢想だけを握りしめ、プレシャスは直視できぬほど悲惨な現実からなけなしのその夢想へと幾度となく全速力で逃避を試み、そして無惨に引き戻される。歌もダンスもラブストーリーもあらかじめ奪われた彼女にただ残されるのは、盗んだフライドチキンを貪り食ったあげく懺悔するようにゴミ箱にゲロを吐く、そんな現実だけだ。だが、映画は彼女の抱えるそうした悲惨を、良くも悪くも中和する。彼女の受ける虐待の描写は、観る者の気分を適度に害する良心的レベルにとどめられ、安全な濃度に希釈される。もちろんそれは悪いことではない。だが節度あるその良識ゆえに、この映画がプレシャスをとりまく地獄の実態を曖昧なものにしてしまっているのも、また事実だ。それでも映画は開きなおったように言う。私たちは第三者なのだ、と。第三者なら第三者として出来る範囲で彼女を抱きしめたいのだ、と。そしてまさに良識的第三者たる彼女の担任教師やケースワーカーに委ねて、それを実行する。もちろんそれも悪いことではない。ボランティアとは多かれ少なかれそうした精神に基づくものだからだ。だが一方の当事者はどうだろう。「ボーイフレンドの一人もいなかったのに」、子を孕み出産し、さらにはHIVにまで感染するプレシャス。彼女の胃につまったグロテスクな「塊」が、易々と消化されることは決してないだろう。まるで彼女がいつか吐き出したフライドチキンのように、それは消化されることなく留まり続ける。プレシャスの記す「Why me?」その問いにも、答えなどない。それでも彼女は生きていく。逃げ場所としての夢想のかわりに、逞しく産み落とした子どもたちをその手に。そしてどんな答えなどよりも切望しつづけた、かけがえのない一言「I LOVE YOU」をその胸に。と、こう書くとそれなりに素敵なラストではある。だが、この結末に安易な希望を見出せるのは、結局のところ私たちもまた第三者であるからだ。少なくともそのことを、私たちは決して忘れてはならない。プレシャスのためにではなく、世界中のプレシャスのような女の子のためにでもなく、中途半端に慈悲深く尊大な私たち自身のために。
[映画館(字幕)] 0点(2010-05-13 17:30:21)
42.  藍色夏恋 《ネタバレ》 
 時代は現代なのにどこか懐かしい台北の町並み。その町の風景に溶け込むように描かれる清く正しい少年少女。傷つき悩みながらもまっすぐな彼らの姿からは、襟を正して生きることの大切さが真摯に伝わってくる。おそらく自分が女の子にモテることを知っているのであろう少年の不敵で屈託のない笑顔。その自信とうらはらのほほえましい悩みと純情。そして頑なな潔癖さと負けん気でそんな少年を突き放そうとする少女。この二人が、なりゆきで校舎の中庭の床に貼られたラブレターを足で蹴ってはがそうとするシーンが面白い。躍起になって互いの足を蹴っ飛ばしているようにも、それでいて二人楽しそうに軽やかにステップを踏んでいるようにも、見える。さらに後半で対比的に描かれる、もう一人の少女が恋の遺品焼却を思い直して火を消そうとする場面の、ひとりぼっちで踊るためらいと嘆きのステップもいい。彼らの足の生き生きとしたその躍動が、青春のジタバタを文字どおり体現していて見事だ。あるいは夜の体育館で二人が衝突するシーンでは、体当たりでぶつかりあう二人を表情が判然としない距離から延々と長回しで写し、彼らが体全体から思いをほとばしらせ格闘する様をまるごと切り取るように描き出す。風をうけて走る自転車の心地よさ、夜のプールや体育館のその秘密めいた緊張感、だれかとならんで眺める校庭と青空、だれかを好きになる気持ち、片思いの胸の痛み、だれにも言えない思いをこめたそれぞれの壁の落書き、そして夏の匂い。そんな青春映画的ガジェットの過剰さが良くも悪くもこの映画の持ち味なのだが、その反面、易智言監督の描写は意外なほどに簡潔で無駄がなく、そして的確だ。少女が少年に告白するある秘密。それが本当なのかあるいはうそなのか、最後まで答えはわからない。それは彼女自身にもまだわからない答えなのだろう。この映画はとってつけた説明や答えなど、一切提示したりはしない。そうして描かれるのはただシンプルに、彼らがその夏を共にしたということ、真正面からぶつかりあい、認めあい、そして最後に笑いあえたということ、それだけだ。その潔さがとてもいい。ならんで自転車に乗る二人。友だちでも恋人でもなく、けれどその夏を懸命に生きたかけがえのない同志として、それぞれの足で未来へとペダルを漕いでいく彼らの姿は、力強く、美しく、まぶしいばかりだ。
[映画館(字幕)] 10点(2010-04-25 18:06:25)(良:2票)
43.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
オスカーの栄誉に輝いた本作だが、お世辞にも上質な映画とは言い難い。ご都合主義的ストーリー展開は勿論のこと、せわしなく切り替わる画つなぎも、まるでMTVの出来損ないのような粗雑さだ。だがおそらくそれでいいのだろう。エンドロールの破壊的かつ感動的なミュージカルが示すように、本作は、オスカーよりもラジー賞こそがふさわしい、そんな壮大にして素晴らしい超一級のB級映画なのである。華やかなクイズ番組とカットバックして描かれるのは、主人公ジャマールがそこに至るまでの苛烈な運命だ。引き裂かれた初恋の少女ラティカの存在が象徴するように、運命のままあらゆるものを奪われるばかりだったジャマールの人生。スラムでことごとく奪われたそれらを懸命に取り返すかのように彼は解答者席で答えを導いていく。彼が生きていく上で学ばなければならなかった、だからこそあらかじめ知っている、つまりは過酷な人生と引きかえに彼が手にしてきた、なけなしのその答えを。自分の人生にまつわるクイズに一つ正解するたびジャマールは、スラムでの痛ましい日々のその一つ一つを、それでも価値ある答えへと変えていく。かけがえのない生の意味を、空っぽに思えた自分の人生に吹き込んでいく。悲しみのままに負ってきたたくさんの傷にも、一つのこらず肯定する意味があるのだと。そして観客たちの拍手や歓声が、まるでジャマールのその人生を讃えるかのように、力強く彼を包みこむ。ラストに至りようやくラティカを抱きしめるジャマールは、彼女の美しい唇より先に、その頬に刻まれた痛ましい傷に口づける。悲しい傷をも、生き延びた勲章としていとおしむように。そうして彼は野良犬のような人生を、それでも一心に信じつづけた愛を、逞しく力強く、何より誇らしげに、肯定するのだ。そしてお待ちかねのエンドロールだ。歌えや踊れやのバカバカしいミュージカルが、彼の人生を、生きることを、そして生き抜くことを、それはもう涙が出るほどバカバカしく全肯定する。この映画は素晴らしきB級映画だ。そして素晴らしき人生讃歌でもある。
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-10 12:47:09)(良:3票)
44.  空気人形 《ネタバレ》 
吉野弘の詩「生命は」に併せて是枝裕和監督が描くのは、心を宿した空気人形と、心を持つがゆえに空っぽな人間たちの姿だ。詩が謳うように、生命はその内にあらかじめ欠如を抱き、かつ自分自身では完結できない不十分な存在だ。その欠如を満たしうるのは、花に訪れる虻や風、つまりは他者だ。だが、空気人形の持ち主である中年男は頑なに「他者」を拒む。はなから面倒な心など持たない道具だからこそ彼女を選び、そして文字通りの自慰行為により、空っぽを満たそうとする。過食症を患う若い女も、若さを失う恐怖に憑かれた中年女も、同様だ。失った妻と幼い娘の密かな思い出(映画『リトル・マーメイド』)を自分も識ることで、耐え難い欠如を満たそうとする父親もそうだ。彼らは自らの心が抱える欠如を他者が満たすなどとは、ゆめゆめ思わない。他者を拒絶し、不毛な自家受粉に励むばかりだ。そんな中、件の詩を彼女に教えた老人だけが、空気人形を価値ある他者として受け入れる。彼は、心ない子どもが「冷たい」からと無下に払いのけた、体温を持たぬ彼女のその手を評し、「手が冷たい人は心が温かい」と告げる。その言葉にほほえむ空気人形と彼は、その瞬間、まさに互いに幸福な他者として向きあう。そして奇跡のようにそれぞれの心を満たしあう。一方で、愛する男と息を吹き込みあう空気人形。美しい愛の行為が悲劇に転じるのは、男が真に求める「他者」が彼女ではなく、写真の中の女、だからなのだろう。空気人形は代用品であるがゆえ、彼を満たす幸福な試みに失敗するのだ。彼女はそれでもなお誰かのための他者となるべく、最期の吐息で蒲公英の綿毛を吹き飛ばす。過食症の女は部屋の窓を開け、こと切れた彼女の亡骸を見つける。そしてゴミ捨て場で光を纏うこの美しき他者に、ようやくその心を震わせるのだ。空気人形に扮したペ・ドゥナが兎にも角にもすばらしい。白痴美めいたダッチワイフとしての表層を纏いながらも彼女が繊細に体現するのは、まさに人間の内なる心の普遍的なその有り様だ。無機質なビニールの質感で表情を覆われた冒頭から、心を宿すがゆえ生き生きとした笑顔をこぼすまでに至る中盤、そして一転、心を宿すがゆえ心の抱え持つ空洞に呑み込まれ次第に笑顔を失っていく終盤へと、是枝は注意深く彼女の心とその移ろいを捉え続ける。心を宿した空気人形と人間、両者に一体どれだけの違いがあるだろうか、と。
[DVD(邦画)] 8点(2010-04-09 23:57:50)
45.  セーラー服と機関銃 《ネタバレ》 
相米映画は荒唐無稽な反面、いつもその「重心」をしっかりと大地におく。主人公たちは絵空事の住人でありながら、まるで万有引力に則るようにその足を地に着ける。相米慎二は本作の薬師丸ひろ子をはじめ起用した数々のアイドル女優たちにシゴキの一環としてたびたび四股踏みをさせたというが、四股はまさに大地を両の足で力強く踏みしめる行為だ。彼女らは突飛な世界を生きながらも現実世界の私たち同様、ふわふわと空を翔る自由ではなく、重力に従い地上につながれる不自由=体重を持つのだ。たとえば『台風クラブ』の工藤夕貴は教室の窓枠に頭を挟み、自らの体の重みを感じる。『雪の断章ー情熱ー』の斉藤由貴も、バイクの後部座席でのけぞりアスファルトすれすれに重心を傾ける。重力を体感するように幾度となくプールや川の水に落ちる『ションベンライダー』の河合美智子もそうだ。幽霊として存在する『東京上空いらっしゃいませ』の牧瀬里穂ですら、つかのまの生命と引きかえに確かな重みをもって地上へと落っこちてきた。相米映画において「生きる」ということはつまり、大地を踏みしめる自らの体のその「重み」なのだ。重力に負け、落下するピンポン球よろしく「重み」を汚泥に突き刺す『台風クラブ』の三上祐一はその逆説だろう。本作『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子も例外ではない。まるで両手で地球を支えるような「えび反りブリッジ」という異様な体勢で登場し、地べたに座り込み、さらには堂に入った四股踏みまで見せる彼女は、ヤクザの居並ぶ校門へとおっかなびっくり、けれど一歩一歩踏みしめ進む。彼女はその意味でまさに相米映画の申し子と言える。だからこそ彼女に迫る危機は、クレーンやら十字架やらに吊るされること=その足を地上から切り離されることとして表現される。遠景の長回しで延々捉えられる雑居ビル屋上での終盤、表情すら識別できぬ豆粒のような薬師丸がそれでもやるせないかなしみを強烈に発散させるのも、豆粒ながらけなげに動き回る彼女の一歩の重みがちゃんとそこにあるからだ。王道アイドル映画的ラストも同様だ。地下鉄の通風孔の上、翻るスカートから覗く薬師丸の脚。履きなれない赤いハイヒールでそれでもゆるぎなくしっかりと、彼女はそこに立つ。はちゃめちゃでくだらないこの物語を駆け抜けた薬師丸ひろ子の、そして星泉の、小さな、けれど確乎たるその生命の輝きと重みが、間違いなくここにはある。
[DVD(邦画)] 9点(2010-04-02 16:32:27)
46.  ピアニスト 《ネタバレ》 
エリカは感情を麻痺させる術に長けている。他人を求め拒絶されることは恐怖だ。あらかじめその恐怖の芽を摘みとることで、彼女は孤独と引きかえに心の平穏と均衡を手に入れてきた。それは彼女なりの生きる智慧だ。ポルノショップで男たちの好奇の目に曝されること、ドライブインシアターでカーセックスに耽る恋人たちを窃視すること、彼女の秘密の二つの行為はどちらも視線を媒介する。見られる時、あるいは見る時、そこに生じるのは他者との距離だ。視線という距離を測ることで彼女は他者との隔たりを認識し、安心する。母親以外を隔絶して生きる彼女はまるで羊水に浮遊する胎児だ。けれどミヒャエル・ハネケはそんなエリカのぬるま湯のような無痛の孤独に、残酷な揺さぶりをかける。彼女の鉄壁を乗り越え迫るワルター。彼のその無邪気さは、常に茫とした第三者として世界に存在していたはずのエリカに、当事者としての甘美な実感を与えてしまう。あえなく氷解してしまった感情のままにたどたどしくワルターと向き合うエリカは、雛鳥のように無防備に愛を乞う。痛ましく無様なその姿と、やがて語られる赤裸々な被虐願望。それは隠し持つ己れの醜さすら曝け出した上で赦されたいという切実な愛の告白であり、罪深い彼女にとってのある種の告解だ。だが頑なな心を開いた彼女を残忍に待ちうけるのは、愛した者に拒まれ、切り捨てられる絶望だ。健やかな笑顔を見せ、他人事のように軽やかに去っていくワルター。それら出来事のすべてが彼女の妄想であれ現実であれ、重要なのはその痛みを前にしたエリカが、麻酔も鎧も、身を護るその一切を失っているということだ。母との蜜月を断ち切り、産道を抜け、血まみれで産み落とされた彼女はもうぬるま湯に逃げ帰ることはできない。胸に突き立てたナイフは、鋭い痛みの実感を彼女に与える。その表情によぎる誤魔化しきれぬ苦悶。エリカは血を流す生身の体で再び、貫くような孤独の痛みの中を、ひたすらに歩いて行く。この不愉快な映画はまさにエリカの持つ尖鋭なその刃の切っ先だ。ハネケの見せつける本物の痛みを前に、私はその不愉快を滑稽と嗤い飛ばす。けれどそれはエリカを庇護し続けた偽りの麻酔とどこが違うのか。ハンドバッグの中に包み隠されたそのナイフを、私もまた確実に持っている。ハネケは言うだろう。ナイフを突き立てろ、そしてその痛みから目を逸らすなと。
[DVD(字幕)] 9点(2010-03-21 03:24:40)(良:2票)
47.  トゥルーマン・ショー 《ネタバレ》 
モニターに映るトゥルーマンの頭を撫でながら、我が子をいとおしむように、年老いたプロデューサーは言う。「君をずっと見てきた。君が生まれた時、最初のヨチヨチ歩き、学校に上がった日、最初の歯が抜けた時。」彼はトゥルーマンにとって創造主でもあり、また父でもあるのだろう。町は大掛かりなベビーサークルだ。その箱庭の中、意のままに息子を操ってきた父にとってたった一つの誤算は、従順な駒として動かし得た息子にもけれどいつしか一個の人間として自発的な恋という感情が芽ばえてしまうということだ。父が選びあらかじめ用意した娘とではなく、父の思惑ではエキストラに過ぎなかったはずの娘とアクシデントのような恋におちるトゥルーマン。それは予定調和の庇護の下、安全に飼い殺されるばかりだった彼に芽ばえるはじめての自我だ。情報はすべてパブリックに管理・操作され、一片のプライベートな秘密すら許されぬ筒抜けのその世界で、それでも彼が胸にひた隠し貫く恋。全てが監視下に置かれているとも知らずこっそりとファッション雑誌を切り抜き、初恋の記憶を辿るままに遥かフィジー島を目指すトゥルーマンの姿が感動的なのは、絶対なる父の手をもってしても決して届かぬ私的なその感情だけが、盤石でありながらすべてが作り物の彼の人生において、ただ一つの、ウソ偽りない「本物」だからなんだろう。そうしてトゥルーマンは絶対的な神の手を、つまりは強大な父の支配を、かいくぐり突き進む。まるで永遠のモラトリアムから脱出を図るように。一方の父は、かつて神が人間にそうしたように、自我を持ち意に背く恩知らずな息子に、罰を下す。巻き起こす天変地異により愛する息子を死の危険に曝してでも、その巣立ちを阻害しようとする。そんなすさまじい父と子の姿から浮かび上がるのは、自立とは決死の闘いであるということ。この一人のいい年をした男の遅咲きの成長譚は、だからこそ意外性に富み、実に感動的だ。ついに遂行されるトゥルーマンの力強い羽ばたき。彼の勇敢なその突破に我々は快哉を叫ぶだろう。だがそんな私たちもまた結局は見世物としてトゥルーマン・ショーを消費しているに過ぎないという痛烈な皮肉が、安直なカタルシスを頑なに拒む。扉の向こうからやってきたトゥルーマンが辿り着くのはハッピーエンドなのか、それとも次なる関門なのか。それを決めるのは、まさに私たち次第なのだ。
[DVD(字幕)] 9点(2010-03-21 03:03:04)(良:1票)
48.  パッチギ! 《ネタバレ》 
井筒監督がここで描くのは単なる暴力ではなく、あくまでコミュニケーションの一形態としての喧嘩だ。たとえ不毛ではあっても、血気盛んなアンソンたちにとって喧嘩上等はある種の身体言語であり、彼らなりのせいいっぱいの自己表現なのだ。アンソンの弟分チェドキが主人公康介に打ち明けるように、本当はそれが怖かったとしてもだ。だからこの映画が描くアクションは、一つのこらずそんな彼らの「生きる」そのことに直結している。生きるということはつまり、この困難な世界にそれでも頭突き=パッチギをかますべく立ち向かう、そのことにほかならないだろう。時に流血するほど過激にエスカレートする彼らだが、その姿が一方でどこか清々しいのは、解りあえず敵として立ちはだかる憎き相手もしかし自分と等しく生きるべき人間なのだということを、当たり前のこととして野蛮なはずの彼らが知っているからだ。人間はそれでも等しく人間なのだ、と。この映画が終始一貫ひたすらに語ろうとするのは、つまりそれだ。友情を誓いあったチェドキの葬儀の席で「お前は日本人だから」と遺族に糾弾される康介。一人涙にくれ、橋の欄干で大切なギターを叩き割る彼の姿は、朝鮮部落のみすぼらしいあばら家の、チェドキの棺も入らぬ小さなその入り口を、泣きながら懸命に叩き割るアンソンの姿にぴたりと重なる。日本人であることと朝鮮人であることが、同じ大切な友人を失ったこの二人の等しい悲しみすら別次元に分断してしまう現実。それぞれにその厄介な現実にどうしようもなく打ちひしがれる二人は、けれどそれでも同じように傷つき、そして同じように涙をこぼすのだ。そんな中、急速に浮き上がってくるのは、アンソンとの子を身籠る桃子の存在だ。ライオンと豹のあいの子レオポンをしきりに見たがった彼女の出産は、まさにこの物語の軸となる。そうしてイムジン河の「分断」から「融合」としてのレオポンへと、堰を切ったように雪崩込んでいく大団円。それぞれの熱くほとばしる血潮が一つの心臓へと巡っていくように、桃子の腹に宿る生命めがけて、映画はいつしか漲る力強さで確かな鼓動を脈打ちだす。それは日本人だからでも朝鮮人だからでもなく、人間がただ人間として生まれ来る上で等しく奏でる、逞しく尊いその心音だ。井筒はそうして、生きることを、生き抜くことを、つまりはパッチギることを、惜しみなく、ただひたすらに祝福するのだ。
[映画館(邦画)] 9点(2010-03-21 02:37:38)(良:3票)
49.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 
大林宣彦版(1983年)と、細田守版(2006年)、多くの人々の記憶に刻まれたこの二作の間にもドラマを含め数々の『時をかける少女』が撮られてきた。そのすべてを観たわけではないが、両作に匹敵するレベルに達した作品は一つとしてなかったように思う。細田版以降初の再映画化となった本作もまた、残念ながらその一つとなってしまっている。監督谷口正晃は演出家としてあまりに底が浅く、その稚拙さばかりが目につく。奥ゆきのない平板な映像に映画ならではの魅力はなく、バストショットからアップで人物を捉える構図の多用もまた俳優たちの小手先の表情をくどくどと説明するだけで、まるで出来の悪いテレビドラマのようだ。夢物語としての幼稚さや突飛さは大林版も細田版も同様であり、SFジュブナイルとしての原作の性質上、在って然るべきものだ。だが、夢物語にひそむ、少女や思春期の普遍的な有り様を、きちんとその荒唐無稽の中に描ききれていないのが致命的だ。筒井康隆の原作以上に初恋の抒情と痛みを鮮烈に焼きつけた大林版にも、そんな大林版を覆し初恋を晴れ晴れと解放することで新たな金字塔を打ち立てた細田版にも、遥か遠く及ばない下手さだ。だがこのド下手くそな映画は、それでも下手なりに、ひたすらけなげに『時をかける少女』であろうとする。そのけなげさは主人公芳山あかりにも通じる。ふにゃふにゃと周囲に甘えるばかりで幼く頼りない彼女が、雨の中傘を差し自分を待つ涼太を前にふざけようとして、真顔になり黙りこむ。物語上まるでとってつけたような二人の恋ではあっても、この瞬間にだけは間違いなくウソいつわりない初恋の有り様が活き活きと映っている。さらに本作は、細田版が省き、省くことで新たなスタンダードを創造しえた意味で旧作の遺物となった「記憶の抹消」というテーマと、愚直なほど真摯に向きあおうとする。初恋を消去されるあかりの痛みは、あからさまなバス事故や死を用いずとも表現できたはずであり、やはり出来の悪さは否めないが、それでも愚鈍なこの映画は、軽やかな細田版が切り棄てた「深町くんの手のひら」の計り知れないその重みを、泣けてくるほど馬鹿正直に、まっすぐ見据えるのだ。逆立ちしても傑作とはなりえない本作は、けれどそんな風にバカが付くほど誠実な、愛すべき『時をかける少女』である。
[映画館(邦画)] 6点(2010-03-20 22:18:25)(良:3票)
50.  ファニーゲーム 《ネタバレ》 
ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーは似ている。共に世界的に注目を浴びた欧州の映画監督であるというだけでなく、ヨーロッパ映画特有の陰影に富んだ映像も、観る者の神経を逆撫でするような挑発的なその作風も、まるで双子のように似ている。だが、二人が決定的に違うのは、不快感を煽るその挑発の種類である。フォン・トリアーの映画は、執拗にダークサイドを描きながら、ある種のねじくれた幻想として存在する。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも『ドッグヴィル』でもフォン・トリアーが描くのは、哀れな主人公を矢継ぎ早に襲う、幾多の悲惨な出来事だ。非現実的なまでに畳み掛けるそれらの不幸は、明確な作為をもって生贄たる彼女たちに与えられる。そうすることでフォン・トリアーは恐怖や絶望を第三者として愉快犯的観点から支配しようとするのだ。そして安全地帯からそれを見つめる私たちを共犯者に、恐怖や絶望を見世物=他人事とする、どす黒くも安全な「幻想」としての映画が出来上がる。一方、ハネケは身も蓋もないほどにありふれた現実として、恐怖を描こうとする。私たちは目撃者でも傍観者でもなく、当事者となる。そうして冷淡にハネケが突きつけるのは、今日も世界のどこかで起きているはずの、そして明日は我が身を襲うやもしれぬ、身近な、それゆえ恐ろしく生々しい、そんな絶望だ。ぎりぎりのところで精神の均衡を保っていた『ピアニスト』のエリカも、ささやかなバカンスを楽しむはずだった本作『ファニーゲーム』の家族たちも、ハネケは彼らを、明日の私たち自身の血腥い絶望の姿として、そこに置くのだ。そんな中にあって、あからさまに緊張感を削ぐテープの巻き戻しやカメラに語りかける犯人の構図だけが異質だ。場違いに(それこそフォン・トリアーのような悪意と作為で描かれる)「幻想」的なこの二つのシーンは、あまりに生々しくおぞましいスナッフフィルムの如き本作における、ハネケなりの良心だったのだろうか。そんな彼は自身によるハリウッド資本でのセルフリメイクを、ただ俳優を替えてそのまま焼き直しただけの、単なるコピー商品として完成させた。それはまるでヒッチコックの傑作『サイコ』を、変えるべきところなど一つも無いとばかりに、まるごと模したガス・ヴァン・サントのように。
[DVD(字幕)] 8点(2010-03-14 00:47:49)
51.  ぼくは怖くない 《ネタバレ》 
波打つ黄金色の麦畑、顔を這う蟻、窓辺に迷いこむ鳥、ミミズ、蜘蛛、針ネズミ、蜂、いなご、フクロウ、蛇、カエル、そして人間の大人たちと、その子どもたち。田舎町の美しい風景の中で自由に輝くそうした様々な生命と、廃屋の穴に隠され大人たちに脅かされるフィリッポの囚われた生命、その対比がなんともやりきれない。秘密の穴でフィリッポと出会う主人公ミケーレは非力な子どもだ。だが、彼はいくら大人たちにねじ伏せられようとも、フィリッポを救うべくひたむきに突き進むことをやめない。守護天使たるそんな彼の手引きで穴を抜け出し、麦畑で笑い転げ、ようやくつかの間その生命を謳歌するフィリッポ。英雄ではなく同じ非力な生命として、そんな当たり前を当たり前に彼に与えるミケーレは、まるで罪深い人間の胸にそれでも宿る最後の光のようだ。同様に、ラスト、逃げきる道を選ばず危険を承知で当たり前に瀕死のミケーレのもとへと舞い戻るフィリッポは、一転、今度は彼こそがミケーレの 守護天使となる。満身創痍となりながら、まっすぐに手をさしのべあう二つの良心。この映画が描くのは勇敢な少年の正義やヒロイズムなどではない。ここにあるのはただ、非力な人間がそれでも人間として根底に持ちうる良心の、ささやかでいて途轍もなく力強い、慈しむべきその姿だ。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-11 12:27:10)
52.  転校生(1982) 《ネタバレ》 
『転校生』のプロットはまさに画期的かつ奇想天外だ。だが本当に面白いのは、この突飛な設定に反し本作が実は一貫してオーソドックスな青春映画でありつづけようとすることだ。一美が一夫であり一夫が一美であるという彼らの身に起こる一大事は、言わば本人たちがただ勝手にそう主張し上を下へと大騒ぎしているだけに過ぎない。つまりは彼らがいかにハチャメチャな騒動を巻き起こそうと、映画はひたすらに何の変哲もないありふれた青春の、それゆえ美しい日々を、ただありのままに捉えるのだ。そんな風にして描かれるのは、だれしもがかつて学校の音楽室で耳にしたはずの入門編クラシックと、郷愁をさそう尾道の町並み、そしてそんなノスタルジアを背景に先述の二人がくりひろげるそれこそ古典的なまでのドタバタ喜劇。それらを奇を衒うことなく綴っていく大林宣彦監督のその視線はいつにも増しておおらかだ。彼が前作『ねらわれた学園』や次作『時をかける少女』では一転、角川映画の製作費を投じ大林印のきらびやかな特撮を駆使していたことを考えると、そうした特撮を徹底的に除いた本作のカラーは低予算ゆえの決断だったかもしれない。だが逆に言えばその英断ゆえ、本作は大林印に免疫のない観客層にも訴求する力を持つ作品となってもいる。一美役に起用した小林聡美がいわゆる大林印の美少女でないことも然りだ。主人公二人の内面だけに起こる目に見えない奇想天外、それを特撮もデコレーションも排したありきたりな風景の中でファンタジーとして体現できる女優は小林聡美をおいて他にいないだろう。「さよなら私」「さよなら俺」、手をふりあう一美と一夫。それは転校生とそれを見送る者とのセンチメンタルな別れであると同時に、子ども時代というファンタジーの終焉でもあり、さらには人知れず悩める思春期との決別であり、また、初めて意識しあった「異性」との別れでもある。望遠レンズでも追いつかないほどにどんどん小さくなっていく「俺」はいつしか「あなた」となって、別れに胸を痛めながら、それでも健気に軽やかなスキップでまたその先を進んでいく。そうして八ミリの中の豆粒のような斉藤一美は、消える寸前、ついに芳山和子や橘百合子に負けない大林映画の美しきヒロインとしてフィルムにくっきりと焼きつくのだ。「さよなら俺!」、やさしくささやくような一夫の、その言葉と共に。
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-03 07:44:57)(良:3票)
53.  デス・プルーフ in グラインドハウス 《ネタバレ》 
冗長なガールズトークは嫌いじゃない。無意味にスクリーンいっぱいに接写されるメール送信画面にブライアン・デ・パルマ監督『BLOW OUT』の流麗なサントラをこれまた無意味にかぶせてしまうタランティーノ流お遊びも、楽しい。だがこの映画には決定的に欠けているものがある。復讐を描くには美意識が要る。例えば悪趣味かつ馬鹿丸出しな『キル・ビル』が、それでも一方で張りつめんばかりの緊張感を持ち得たのは、『修羅雪姫』や『女囚さそり』シリーズへのリスペクトを基にタランティーノが描くその復讐劇が、前述の映画に存在した(梶芽衣子式とでも呼ぶべき)気高い美学にきちんと則っていたからだ。わが身に降って湧いた卑劣な裏切りへの報復を誓い、時に敵の四肢を斬り落とすほどの非情さを見せるユマ・サーマンだが、彼女はその前提として自らの命を賭すだけの悲壮な決意をもって、血みどろの闘いに臨んでいた。それこそがつまり、復讐の美意識だ。だが一転、『デス・プルーフinグラインドハウス』にそんなものは微塵も存在しない。何のためらいも葛藤もないまま変態殺人鬼と同じレベルに堕し、野放図にそして嬉々として行われる汚らわしいだけの復讐。それは、真珠湾攻撃の報復に原爆を投下しカタルシスに浸る、そんな類いの正義にもどこか似ている。低俗なB級C級映画を敢えて再現するというコンセプトの上に成り立つこの映画にとって、批判こそが最大の賛辞なのは百も承知だ。そうして小狡く舌を出すタランティーノの茶目っ気もよく解っているつもりだ。そもそもそれ以前に、復讐などに美醜を求めることこそが間違っているのかもしれない。だがそれでも、と、爆笑と歓声に沸くとある被爆国の映画館で、私は一人寒々しく思った。復讐という名の下ただ卑しいだけのこんな蛮行に愉快痛快と拍手喝采を送る感覚を、少なくとも私は、持ちあわせていない。
[映画館(字幕)] 0点(2010-01-28 22:56:27)(良:1票)
54.  ぐるりのこと。 《ネタバレ》 
処女作『二十才の微熱』から一貫してゲイを主人公に作品を撮り続けてきた橋口亮輔監督だが、『渚のシンドバッド』の浜崎あゆみや『ハッシュ!』の片岡礼子のように、主人公のかたわらには常に、自身も心の奥底に何らかの傷を抱えた女たちが、それでもか弱い彼らを護り支える女神のように毅然と立っていた気がする。彼女らは時に自らの自由や可能性を犠牲にしてまで、弱者たる主人公たちを力強く庇護する存在としてそこにいた。『ハッシュ!』を観た時、魅力的な映画とは思いつつ、ふと、どこかしら共感しがたいものを感じた。それは片岡礼子演じる孤独な朝子に、それでもいつか生涯の伴侶と巡り会うかもしれない可能性を軽率に唾棄させてしまう(それがたとえ本人の強い意志でむしろ彼女自身から強引に持ちかける提案として描かれてはいても)ことへの違和感だった。彼女の存在意義が、主体となるゲイのカップルにとってある種都合のいい、母なる女神として、そこに置かれてしまっているように思えたのだ。ゲイであるどうこうは、このさいどうでもいい。『ぐるりのこと。』でリリー・フランキー扮する夫もまた、ゲイではないが、橋口がこれまで描いてきた心やさしくも不甲斐ない男性像をそのままに踏襲している。だがここで彼が描くのは一転、糸が切れたように力尽きてしまった出来損ないの女神と、そんな彼女を今度は自分が支え返そうとする男の、その姿なのだ。橋口が初めて、か弱い男を庇うヒーローとしてのヒロインではなく、傷を負った一人の生身の女を腰を据えて見つめようとした本作には、だからこそとても大きな意味がある。少なくとも私にはそう思える。そして橋口映画史上もっとも弱々しくカッコ悪いそんな女性像を託された木村多江が、その意味に、見事に温かい血を通わせている。癇癪を起こし泣きじゃくる妻と、そんな彼女にそっと洟をかませる夫。これほどみっともなく、けれどこれほどに美しいラブシーンを、私は他に知らない。夫婦とは何なのだろう。共に生きるとはどういうことなのだろう。それは支えあうこと、そして見つめあうこと、時には横たわり同じ天井を見上げること、足でそっと蹴りあい手をつなぐこと。たったそれだけのことなんだと映画は語りかける。金屏風の前でささやかな記念写真を撮る前も後も、それこそ病める時も健やかなる時も、彼女たちはただシンプルにけれど力強く、夫婦なのだと。
[DVD(邦画)] 9点(2010-01-28 15:26:50)
55.  Wの悲劇 《ネタバレ》 
時代の移り変わりを経て、幸か不幸かその毛色がガラリと変わってしまう映画がある。『Wの悲劇』はまさにそんな映画の代表例だろう。女優の野心やエゴ渦巻く演劇界を描いた本作だが、20年以上の時を経た現在、公開当時のシリアスドラマとしての機能は完全に破綻し、もはやブラックコメディーのごとき様相を呈している。驚くのは、作者本来の意図に反してサスペンスからコメディーへとそのジャンル自体がガラリと一変してしまったこの映画が、それでも途轍もなく面白いということだ。密室殺人を描いたありきたりな原作ミステリーを敢えて劇中劇とし、そこで起きる殺人と、それを演じる女優の身に起こるスキャンダルとが「身代わり」という共通項でシンクロしていく二重(W)構造。そしてその身代わり役としての和辻摩子を「演じる」ためにスキャンダル女優を「演じる」劇団研究生三田静香をさらに「演じる」薬師丸ひろ子の姿から、人間の人生における二重三重の演劇性にまで言及する脚本の巧さ。この練りに練られた巧みさが本作に骨太な厚みを与えているのは間違いない。たとえ表層のシリアスが時を経て突っ込みどころ満載の滑稽な笑いに変色はしても、その根本の重厚な骨組み自体はゆるがないということだろうか。さらに言えば薬師丸ひろ子、三田佳子、高木美保(新人)ら女優陣の過剰に大仰な舞台型熱演もまた、もはや迫真性を超えて観る者の笑いを誘いつつ、けれど本物の人生を虚構のように「演じ」ざるを得ない人間の滑稽や悲しみを根底に謳う本作には実にふさわしい。駆け出しの劇団研究生におろおろと泣きすがる三田佳子も、スキャンダラスな裏事情を腹式呼吸で説明しながらナイフ片手に突進していく高木美保(新人)も、そしてスカートの裾を拡げていじらしい泣き笑いを見せる薬師丸ひろ子も、彼女たちはいついかなる時も悲しいほどに、その役を演じる一人の女優として、そこに立つ。たとえ心から愛した男のためにフラッシュライトを浴び涙を流せなくても、たとえそのナイフが本物の血に染まってしまっても、あるいはたとえその別れが本物の永遠の別れであっても、彼女たちが人生を演じるその舞台から降りることは、決してないのだ。
[DVD(邦画)] 9点(2010-01-24 02:48:10)
56.  ブタがいた教室 《ネタバレ》 
例えば英語圏でPIGをPOAKと呼び換えるように、一頭の家畜が「肉」となり店先に並ぶまでの過程を、人は忌み嫌う。他の生命を奪い食べるという自然の摂理、その正当性と残酷を正しく認識する以前に人はそこから目をそらしてしまう。大人ですら真に理解しているとは言い難い(そしてそれゆえに避けて通ろうとする)この難題を子どもたちに語りあわせるコンセプトは素直にすばらしいと思う。しかしそれをきちんと描ききるだけの確固たる志が、残念ながらこの映画には無い。通り一遍の大風呂敷を広げ、あたかもタブーに挑むかのように見せながら、映画は肝心の核心に近づくたび安全地帯へと逃げ帰る。これが子ども向け映画で出来る限界であったと言われればそれまでだが、禁忌を語るに足る厳しさや中立性を一切欠いたその姿勢はあまりに生ぬるい。子どもたちが仔ブタを家畜ではなくペットとしてPちゃんと名付けてしまう発端の姑息な「誤算」からして、物語はさっそく肝心の食育から弱々しく目をそらし、語るべきテーマから大きく逸脱してしまっている。さらにはその生半可さが、ペットとして可愛がったブタを家畜として送り出すという、食育とはまるで別次元の(本来なら不必要な)辛い決断を子どもたちに迫るのだからなんともたちが悪い。トラックの荷台に乗せられたPちゃんを、まるで転校生を見送るように泣きながらセンチメンタルに追いかける子どもたち。だがPちゃんの行き先は、新しい学校などではなく、血腥い精肉工場なのだ。それでも映画は美しい別れの感傷にただひたるばかりだ。彼の行き先を自分たちで決定した(させられた)ということ、そのことの重い意味を子どもたちに最後まで理解させることなく。中途半端な食育の名の下に訳もわからぬまま決断を下させられた子どもたち、そんな彼らの胸に去来するのはおそらく学舎を共にしたクラスメイトとの単なる別れの悲しみでしかないだろう。例えば性教育を語るのに即物的なポルノ映像が必要ないように、精肉工場で屠殺され血を抜かれスライスされるブタを子どもたちに見せる必要は勿論無い。しかし食育を題材としながら終始核心から目をそらし続けるだけの無害きわまりないこの映画は、血の痕跡を丹念に洗われ清潔にパック詰めされたスーパーの豚肉と何ら変わりない、無難で欺瞞にみちたシロモノだ。私たちは今日もその安全な肉を買い、能天気においしいねと舌鼓を打つのだろう。
[DVD(邦画)] 0点(2010-01-24 02:30:59)(良:2票)
57.  母なる証明 《ネタバレ》 
『猿の手』という有名なイギリスの小説がある。三つの願いごとを叶える猿の手を譲り受けた夫妻に起こる奇怪な出来事を描いた恐怖譚だ。夫妻は一つ目の願いで猿の手に大金を無心するが、皮肉にも最愛の息子が事故死し、その見舞金を受け取る形で願いが叶う。嘆き悲しむ夫妻が死んだ息子を生き返らせるという悪魔的な願いを二つ目に唱えると、ある晩、だれかが彼らの家のドアをノックする。次第に気違いじみた激しさで叩かれる扉。尋常ではないその気配にも関わらず母は息子の帰宅に喜び勇みドアを開けようとするが、危険を察知した父が咄嗟に三つ目の願い事を唱えるとノックの音がはたと止むという話だ。等しく息子を愛しながらも、違いを見せる母性と父性。母の愛は時に理屈も常軌も逸し、子のためならば悪魔にその魂を売ることすら厭わない。ある意味愚かで、けれどそれゆえにその愛は底無しに深い。『殺人の追憶』で見せた骨太でアクの強い作風はそのままにポン・ジュノが本作で執拗に捉えるのもまた、そんな鬼気迫る母の愛だ。息子トジュンの無実を晴らすため憑かれたように突き進んでいく母。トジュンの友人でありながら協力と引き換えに金銭を要求する信用ならないジンテに、それでも縋るようになけなしの金を握らせる母のその姿は、まるで我が身の肉を削ぎ悪魔に差し出すかのようだ。やがて彼女が対峙するのは『猿の手』に喩えるならばドアの向こう側の見知らぬ邪悪な息子だ。一心に母を求める無垢なノックに為す術なく扉を開くその時、まさに彼女は息子の帰宅と引き換えに悪魔と地獄の契りをかわすのだ。無能な刑事が用意するスケープゴートの如き真犯人が、トジュンと同じく知的障害をもつ青年だという皮肉は、あまりにも痛烈だ。不運な青年には父も、そして彼のため悪魔に魂を売る母も、いない。生贄となる彼のため慟哭するトジュンの母。やりきれないのは彼女の涙が、子をもつ「母」としてのそれでもあるということだ。もはや彼女に出来るのは、記憶を消す鍼を内腿に打つことだけだ。悪夢の荒野で彼女が見せる滑稽で愚かで常軌を逸したダンスはまさに、滑稽で愚かで常軌を逸した、けれど底無しに深い、母性そのものだ。鍼を打ち同世代の「母」たちの気違いじみたダンスに再び加わる彼女は、そうして狂ったように踊り続けるしかないのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2010-01-24 02:20:57)(良:3票)
58.  ナポレオン・ダイナマイト 《ネタバレ》 
出来のいい映画とはとても言い難い。脱力的なオフビート感も、緻密な計算というよりは単に下手クソな間の悪さが怪我の功名を効しただけにしか見えない。間がズレてるだけの大根役者陣もまた同様だ。しかし、だ。それでも面白いんだから困ってしまう。主人公ナポレオン・ダイナマイトは、その名のとおりバカバカしく滑稽で、なによりも気持ち悪い。しかし気持ち悪いんだが、憎めない。彼が面白いのは、そんな風貌のくせに(?)いじけた劣等感も卑屈さもなければ、逆に変人が変人として生きる糧としがちな尊大な負けおしみ的自意識もまるで持たないということだ。変人としての自覚すら、彼にはない。はたから見れば変人でも、彼にとっては当たり前な自分を当たり前に生きているだけだからだ。だからポケットにつめこんだおいしいポテトフライをクラスメイトにねだられても強気でNOと言えるし、それにより派手な蹴りを食らっても、負け犬根性ではなく単純に痛さに凹んで、面と向かってfreaking idiot(バカタレ)と罵ったりもできる。学園の花形として我が物顔にふるまう体育会系やチアリーダーたちが、その実ナポレオンとそれほど大差ないサエない風貌なのが、彼らの人間的対当性を表しているようでなんともおかしい。自慢できる才能も見当たらないし女の子に声をかけてもフラれるナポレオンは決してハッピーではないけれど、だからといってアンハッピーだと嘆いたりもしない。そのニュートラルさがなんとも魅力的だ。生徒会長選挙に出馬した友だちペドロのための応援パフォーマンスでヘンチクリン(だけど超クール!)なダンスを披露したり、出会い系サイトでナイスバディな黒人美女をゲットした兄キップのハネムーンために荒馬を調教してプレゼントするナポレオンは、彼らの幸運をLUCKY~!(いいなぁ~!)と羨ましがりながらも、持ち前のニュートラルな心意気で無邪気に祝福する。そんな彼に訪れるラストシーンはとびきりチャーミングだ。いつでも一人遊び専用だったナポレオン御用達ボール。退屈なその遊具を二人でプレイする喜び!そんな幸福感を校庭のスプリンクラーがささやかな噴水できらきらと彩る。可愛らしいデビーとのハイタッチ。これまたささやかに響くその音は、けれど間違いなく一人ではなく二人で発した音なのだ。実にナポレオンにふさわしい、ささやかでいて奇跡のようなハッピーエンドだ。
[DVD(字幕)] 6点(2010-01-24 02:19:50)(良:1票)
59.  告発 《ネタバレ》 
映画はヘンリーが受けた残虐な仕打ちも彼が犯す殺人も、克明に描く。けれど克明でありながら、その描写はとても冷静だ。より露骨に声高に描ける可能性を、映画は勇気をもって捨て去る。裁判のシーンもその判決も、観客の求めるカタルシスをもっとドラマチックに感動的に満たすことはいくらでも可能だっただろう。しかし映画は誠実に、それをしない。ヘンリー・ヤングは弁護士ジムに言う。自分のように暗闇でクソにまみれて這い回っていたわけでもないのに野球中継を見ないなんて、と。俺は女を知らないと。穴蔵に迷い込んできた蜘蛛が唯一の友だちに思えたと。おまえと俺は一体どこが違うのかと。裁判の過程や事件の真相とは直接関係のないヘンリーのその焦点のズレた発言の数々は、けれど彼の台無しにされた悲しい人生を静かに物語る。看守の目を盗みジムがヘンリーに娼婦をあてがう一見下世話なそのシーンの持つ意味は、あまりに切実で痛ましい。人間の尊厳をあらかじめ奪われながら、人生の大半をただ生き延びたヘンリー。そんな彼がジムとならんで座り、トランプのカードを飛ばして遊ぶシーンが忘れられない。彼の人生たった一度きりのその幸福な瞬間が、肝心の判決が下る待ち時間の出来事というのは象徴的だ。ヘンリーが望むのは身の潔白や無実などではなく、ありふれた人間としての当り前の価値、ただそれだけなのだ。人としての価値を踏みにじり続けた副所長を裁判中もずっと直視することができなかったヘンリーは、けれど再び戻るアルカトラズの入り口で、ついにまっすぐしっかりと彼の目を見据える。恐ろしい穴蔵へと続く階段を降りながら、それでもその瞬間彼はようやく価値ある一人の人間として、誇り高き勝利のその意味を噛みしめる。彼はもう哀れなヘンリーではない。ようやく美しき一人の人間として、気高くそこに立つ。裁判でも判決でもなく、その時にこそ、彼は本当の意味で勝ったのだ。
[DVD(字幕)] 7点(2010-01-24 02:18:46)(良:1票)
60.  クワイエットルームにようこそ 《ネタバレ》 
かつて爽やかで健康的なアイドルとしてTENKAをとった内田有紀を「鬱陶しい女」役に起用する底意地の悪い松尾スズキに対し、正々堂々真っ向から受けて立つ内田有紀が頼もしい。おかしな連中ばかりの入院患者たち。その中で主人公明日香は自分と同じ頭のまともな人間を二人、嗅ぎ当てる。正常であることを証明するように退院していく栗田と、拒食症の少女ミキだ。栗田は、退院記念にみんなから貰った寄せ書きや連絡先は病院を出たら全て捨てる、と明日香に打ち明ける。「シャバに戻るっていうことはそういうことよ」それが健康に退院する彼女にとっての暗黙のルールなのだろう。それでも(頭のまともな)あなただけは別だとメールアドレスを書いたメモを渡す栗田に、明日香は喜ぶ。携帯電話を持ち込めない病院では役に立たないメールアドレス。自分も栗田のように退院してシャバに戻った時に初めて意味をなすそれは、明日香にとってお守りのようなものだ。だが、自分たちだけがまともだと信じる明日香がやがて嫌でも気づかされるのは、共に残ったミキがふと見せる異常、そして目をそらし続けた自分自身の異常。「触るなバケモノ!」明日香がミキに投げつけてしまうその言葉は、自分自身にはね返る。ようやく鬱陶しいバケモノである自分を認め、長い闘いのはてに退院する明日香。彼女は栗田がしたようにミキに連絡先を渡したりはしない。ミキもまた寄せ書きに「1時間以内に捨てないと、この色紙は爆発します。」と冗談めかして書く。そんな二人の別れに私はふと一抹のさびしさを感じる。病院を出た明日香はミキのメッセージ通り色紙をゴミ箱に捨てる。「シャバに戻るっていうことはそういうことよ」そう教えながら、その場所に残る者とのつながりを完全には捨てきれなかった栗田。彼女が明日香と入れ替わるように病院に舞い戻るのはまさに当然の帰結なのだ。一方トンネルを抜けて清々しく「お守り」を風に飛ばす明日香は健康そのものだ。彼女がクワイエットルームに帰ることはおそらくもうないだろう。それでは、と思う。明日香の発した「バケモノ」の言葉が今度は観ているこちら側にはね返ってくる。それではミキとの別れをさびしく感じたお前はどうなんだ?life-is-happyを謳うハッピーエンドの裏側で、そんな自問自答がひたひたと語りかけてくる。クワイエットルームにようこそ。つくづく恐ろしいタイトルだ。松尾スズキはやはり底意地が悪い。
[DVD(邦画)] 5点(2010-01-24 02:16:48)
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