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41.  昼下りの情事
いくら映画でダイレクトな描写がないといっても、このふたりがセックスレスな交際とは考えられないわけで、じっさいにオードリーが「終わったわん」とばかりにゲーリー・クーパーの部屋で髪にブラシしてるシーンもあるんだけど、つまり、いくらなんでも百戦錬磨のプレイボーイが床入りして、オードリーが処女だったと気がつかないはずがないのであって、ここで、「性的な描写はオミット」というアメリカ映画のコードが、その脚本にまで影響しちゃってまんがな、という感じである。まさにそういう規制があるからこそ成り立っている作品という感じで、「スクリーンのなかの世界は別モノ」という絶好の見本だろう、と思う。まあこれも50年代だからこそ成立した映画で、今ならぜったいに、リメイクも不可能だろう。古き良き時代の、古き良き映画ということである。「スクリーンのなかの世界は別モノ」なんて、なんてすてきな世界がこの世には存在したことか。そこで、脱いだりしなくってもベッドシーンを演じたりしなくっても輝くことができたオードリー・ヘップバーンって、なんて幸せな女優さん、だったことだろう。  ヘップバーンとモーリス・シュヴァリエの家の、倉庫みたいな仕切りのドアとか、その家の間取り、ゲーリー・クーパーの滞在するホテル・リッツの間取りとか、こころ憎いほどにうまく演出するビリー・ワイルダー節も絶好調。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-01-12 18:35:33)
42.  リバティ・バランスを射った男 《ネタバレ》 
●町の女性に恋して、彼女(ヴェラ・マイルズ)とのしあわせな生活を夢見ているジョン・ウェイン。しかし、東部から弁護士志望のヤサ男(ジェームズ・スチュアート)がやって来て、ジョン・ウェインは彼をなにかと助けているうちに、彼女のこころはそのジェームズ・スチュアートの方に行ってしまうんだね。●ジョン・ウェインがそのままヴェラ・マイルズと結ばれるならば、それは同じジョン・フォード監督の「静かなる男」になるんだろうけれど、つまり、この「リバティ・バランスを射った男」では、つまりは「静かなる男」の主人公ショーンがジョン・ウェインとジェームズ・スチュアートのふたりに分裂してしまっている。というか、ジョン・ウェインはまさしくジェームズ・スチュアートの陰の存在という立場になってしまう。そういう運命なのである。肝心のところで表面には出ず、陰からジェームズ・スチュアートを助けるべく定められている。運命を受け入れられないジョンはみずからを消滅させようとさえするけれど、つまりは運命を受け入れる。そういう物語が、いわゆる西部のガンマンの時代の終焉とかさねられて描かれるから泣けるわけである。●無法者のリバティ・バランスを演じるのがリー・マーヴィンで、この無法者は西部の自立を押さえ込もうとする北部の牧畜家らに雇われているらしい。そういう背景も、もう「西部劇」の時代ではないのだということになるのだろう。リー・マーヴィンの手下のひとりをリー・ヴァン・クリーフが演じていて、これがいつもリー・マーヴィンのやりすぎにブレーキをかけるあたりがおもしろい。なさけないちゅう房のエプロン姿で決闘に向かうジェームズ・スチュアートも、もちろんいい。  
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-07-12 12:43:05)(良:1票)
43.  白いリボン 《ネタバレ》 
●北ドイツの小さな村におこったあれこれの事件、それらの事件に通底したものは何だったのかということを、単純な犯人探しのミステリーを越えた、もっと大きな歴史の流れのなかに置いて描く演出にはみていても背中がゾクゾクしてくる。●映画は、その村に外の町から来ている教師の語りで進行することになり、この教師が村のなかの人間関係を深くは知らないということからはじまり、それでもだんだんに「いったいこの村に何が起こっているのか」という真相に近づいていくわけになる。しかし映画はその教師の知り得ないことがらをも目撃し、観客に知らせることになる。映画で語られるあれこれの事件にかんして、語り手の教師と、その恋人(婚約者になる)のエヴァという女性だけが、ある意味であれこれの事件にまったく無関係な立場にあるように描かれるわけだけれども、では、この語り手の教師はいったい何者なのか、この教師の回想にはどんな意味があるのか、というあたりまで含めてのこの作品であって、この教師がこの村でのそれらの事件の裏にあるものを垣間見て、その事件ぜんたいの構造を想像でき得ていたとして、ではこの教師はどういう存在になるのか、というあたりをこそ、この作品はいいたいのではないのか、などと思うわけである。この教師にも、「白いリボン」は結び付けられているのではないのか。●ハネケの作品には、なにからなにまで、「これにはこういう意味がある」などと解読してしまうことで、そのいちばんのテーマが手もとからすり抜けてしまうようなところがある。スクリーン上で展開するものからはみ出てしまうものこそを感知すること、そんなことが観客には要求される。だからわたしにもこの作品の背後にあるものなどほんとうにはわかっていないだろうと思うし、わかったような顔をしてストーリーを解読してもしかたがないじゃないか、などと思うわけである。ただ、彼の作品にはヴィジュアル的にひとをゆさぶる、ショッキングなショットがかならずあるわけで、それは監督が観客に贈るインヴィテーション・カードのようなものでもあると思うのだけれども、この「白いリボン」では、牧師の娘がその父の鳥かごの鳥のあたまをハサミで切断し、その羽根を拡げてあたまの部分にハサミを刺し、十字架のようなかたちにして父の机の上に置いたショットあたりではなかったか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-12 18:51:17)
44.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 
●デリンジャーにはあまり似ていないジョニー・デップが主演。マリオン・コティヤールが演じるビリー・フレシェットという女性とデリンジャーとの関係を縦軸に、かれを追うFBI捜査官のメルヴィン・パーヴィス(クリスチャン・ベール)らの追跡ぶりを織り込んでいく。いわゆる「ドラマティック」な展開というのではなく、ナラティヴな話法にしたがわずに、映像的にポイントポイントを重点的に描いていく感じ。だからデリンジャーの脱獄にしても、史実である木製の銃に似せたものを使ってのくだりの描写なんか、「木製銃だった」とチラリとセリフで語られるだけで、へえ、そこに重点は置かないわけだ、などと思わせられる。いくつかのシーンの白昼夢のような光景が印象に残り、たとえばそれは冒頭の刑務所からの集団脱走のシーンの、刑務所の壁や周辺の風景、そして銀行強盗シーンの異様に高い銀行の天井だとか、ほとんど人影のない銀行の外の風景とかになる。それらのシーンではいっしゅの沈黙が画面を支配しているようなのだけれども、ただ銃声だけは鳴り響いている。ずっと、そういう画面のちからのようなものに魅せられて観ていて、こういうのも新しいタイプの映画のあり方だな、などと思う。好きな映画である。 ●マイケル・マンという監督の作品はほとんど記憶になく、監督の名を記憶にとどめようともしていなかったのだけれども、こういう作品をつくるひとなのであれば、ほかの作品もちゃんと観てみたい。ただ、このひとの作品というのはそりゃあ「男と男の映画」だろう、ぐらいの思い込みは持っていて、そうするとここでデリンジャーのジョニー・デップに相対するのはメルヴィン・パーヴィスのクリスチャン・ベールかよ、と思って観ていくわけだけれども、どうもこのメルヴィン・パーヴィスというのは好きになれない男で、まあそういうふうに描かれているわけだ。そう思っているとラストも近くなってから、そのメルヴィン・パーヴィスの部下の捜査官が「デリンジャーはシャーリー・テンプルの映画なんか見ない」などとイイこというわけで、そうするとその捜査官こそが選ばれた人物で、ラストにとっても重要な役割を果たすことになるのだった。いやあラストはまたないてしまったではないですか。この捜査官を演じていたのはスティーヴン・ラングというひとで、「アバター」でマッチョなかたき役を演じて大暴れするひとだった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-06-01 14:50:49)(良:1票)
45.  シャッター アイランド 《ネタバレ》 
冒頭の船上の映像からして、わざとスクリーン・プロセスみたいな非現実的な撮影になっていて、まあ作為たっぷりだなあと思うわけだけれども、みていて、ああこれは夢野久作の「ドグラ・マグラ」なんだなあと、気づくわけである。そうするとこのスコセッシの演出は雰囲気たっぷりで、つまりはすこぶる面白いわけで、監督の手腕をみせつけるわけである。ただ残念なのはこの結末の「モンスターとして生きつづけるか、善人として死ぬか」という選択肢の提示で、このあたりにスコセッシという監督の、カルトになれない限界もまたあらわれているように思うのだけれども、つまりこういうところに理性というか、理性による二元論を持ちこむのがスコセッシの悪いクセで、そんなことはことばで説明しないでみせるのが映画というものではないのか、ということになる。そこに、たとえばキューブリックの「シャイニング」や「時計じかけのオレンジ」などとの差異が生ずるわけだろう(キューブリック作品を手放しで賛美するわけではないけれども)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-04-26 12:03:29)
46.  ランナウェイズ
 とても楽しい作品だった。Runaways の事実に則した演出などというのは適当に放棄していて、まあ基本はCherie Currie を主人公としての「ロック業界の虚飾」のなかで崩壊する精神という、誰でもが聴いたことがあったり想像することもできるあたりの着地点で、Cherie Currie の家族関係の描写あたりはそれなりにきちんとやっているわけだけど、Runaways というバンドの歴史なんて、ポイントポイントを押さえているだけで、そんなにち密なものではない。それで、この演出がいいのは、そういうストーリーとしてバンドのユニークさを語ろうとするのではなく、もうバンドの歴史なんか類型のなかに押しこめてしまって、ヴィジュアルでもって何かを語らしめようという演出姿勢がいい、ということになる。Kim Fowley なんかの描写もかなり類型化して、商売人としての側面をおもてに出しているあたり、正解だと思う。トレーラーでのバンドの特訓、彼女たちのステージ、そして圧巻の日本でのライヴ、その後の分裂への道をしめす混乱のレコーディング風景と、つまりはアラン・パーカーの「ザ・コミットメンツ」と同じような展開(かなり参考にしていると思う)なのだけれど、「じっさいがどうだったのかなんて追求したってしょうがない」といっている感じ。ライヴの映像のカメラとか、彼女たちのバンドの規模にあわせたというか、あまりパースペクティヴを効かせずに、それでもいい効果を出していたと思う。わたしは楽しめた。■この映画でここ、というシーンを書けば、彼女たちの日本でのステージの冒頭のシーンで、ダコタ・ファニングの演じるCherie Currie が、そのはいている高いヒールで床にちらばるドラッグの錠剤を踏み砕き、床に突っ伏してその飛び散ったかけらを舐め取ってから起き上がり、歌いはじめる場面こそ、であって、その場面でこそCherie Currie の音楽に賭けた根性をおもてに出すと同時に、ダコタ・ファニングという女優がその、もう子役ではないのだという女優根性を見せつけるわけになる。演出もいい。■欲をいえば、バンド解散後恵まれず、多くのミュージシャンのレスペクトを集めながら近年亡くなったドラマーのSandy West に対して、もうちょっとレスペクトがあってもよかったような気はした。
[映画館(字幕)] 7点(2011-04-15 11:35:25)(良:1票)
47.  ヒア アフター 《ネタバレ》 
■イーストウッド監督の作品としては、まえに観た「グラン・トリノ」が一面で「自死」を肯定するような内容だったということの揺り戻しからか、「死後の世界よりも、いまの<生>がだいじ!」というような映画だった。■少年のおかげでマット・ディモンは何かをつかむし、そのことは少年にとっても大きな「救い」になるわけだ。ラストのマット・ディモンの「いかにも人間らしい」夢想(「妄想」といってもいい)が、かわいいではないか。これが、彼もまた救われている証拠、なのだろう。■とにかくイーストウッドがこういう題材の映画をつくろうとは思っていもいなかったのだけれども、「グラン・トリノ」をさいごにして、みずからが主演するという足かせを外したのだということで、まだ観ていない前作もサッカーを主題とした話のようだし、「硫黄島」二部作、「チェンジリング」、そしてこの「ヒアアフター」と、これらを並べてみると、それこそまったく性格のちがう作品の連続に思える。イーストウッドには、これからは全方位でいろいろなジャンルの映画製作をしたいという欲求を満たそうとする気もちがあるのかもしれない。そういう意味で、この作品のプロデューサーがスピルバーグであるということも、わかりやすいことではないかとも思う。■冒頭の津波のシーン、それに続くニュースレポーターの臨死体験での、波間にただようクマのぬいぐるみの映像の意外さにこそ、イーストウッドの意欲を感じとってしまうことになるし、マット・ディモンが料理教室でとなりの女性の(けっきょくは彼の<霊能>にじゃまされてみのらない)誘惑を受けるシーンの、目にアイマスクをしたその女性(ブライス・ダラス・ハワードが演じているのだけど、すばらしい!)の「唇」に注目させる演出など、やはりイーストウッドは「みごと」な演出手腕を発揮するわけである。なのだけれども、「チェンジリング」をおなじ「人間ドラマ」と考えて並べてみると、「チェンジリング」に感じとれた周到な演出プラン(編集、撮影、色彩などなど)という側面は、ちょっとばかしこの作品では希薄に感じられてしまう部分もあって、イーストウッドとしてはちょっとばかり撮り急ぎすぎているんじゃないかという印象もある。あ、いつもこのひとは撮るのはめちゃ早いのだったか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-02 14:08:13)(良:2票)
48.  トゥームレイダー
 この作品の脚本はすごい。動機もストーリーも裏付けも何もないなかで、ただデティールだけが暴走している。あちこち移動しているようでも、これだけ一直線映画というのもみたことがない。観て思考することなどまったく不要なのだ。いくらゲームの映画化だからって、これはあんまりだろうと思う。作品としては「インディ・ジョーンズ」だとか「ハムナプトラ」などの系譜から来ているのだろうけれど、とにかくここまで歴史的背景とかも描かないで勝手気ままにつくりあげる(でたらめ、ともいう)技には感服してしまう。これはこれでひとつの映画のあり方を示しているのだということだろう。「ハムナプトラ」が、まるで歴史の教科書に思えてしまうではないか。この脚本で撮り上げてしまう監督の手腕もすごい、ということになる。「ダメ」という評価と、「いいんでないの」という評価のあいだで、こころがゆれ動いた(いい方に評価したけど)。カンボジアの六手の魔神像は、ハリーハウゼンの「シンドバッド」へのオマージュ、なんだろうなあ。もうちょっと活躍してほしかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-02 17:30:19)(良:1票)
49.  ミックマック
観終って恵比寿ガーデンプレイスのパティオのベンチにすわって、自作のおべんとうを拡げて食べていて、さっき観た映画はこの手作り弁当みたいだな、などと思っていた。つまりたんじゅんに、手作りガジェットにあふれたおもちゃ箱をひっくり返したような膨大な小道具大道具、それを駆使して進行されるどこかアナログ感あふれる手作りファンタジーという味わいのストーリーなどなどからの連想なのだけれども、もちろんジュネ監督のこの新作はわたしのおべんとうのように貧弱なものであるはずもなく、「豪華な」という形容のことばをあたまにつけることを忘れてはいけないだろう。しかしやはり、たとえそのように「豪華」と名付けようとも、その「豪華」の質はあくまでも「手作り」な、レトロ感がただよいさえするもので、「人工」とか「人造」などという、ハイテクとはほど遠いことばこそが似合う世界というわけになる。とくに、主人公たち奇人変人の共同生活の場であるガラクタの山の下にある住処〜古道具再生工場、そこにごろごろと転がっていた奇々怪々な綺想のグッズの数々、そして仇役の武器製造会社社長(アラン・レネ作品でおなじみの、わたしの大好きなアンドレ・デュソリエが演じている)のビザールなコレクションなどにこそ、この映画作品を観る楽しみがあるということになる。そういう意味で、それらのガジェットをこそもっとじっくりと見せてほしかったという、観終ってしまって残されたかなわなかった夢こそがこころに引っかかってしまうことになる。まあこのくらいにそういうガジェットをちょん、ちょんとみせるあたりにこそジュネ監督の持ち味があるのだろうけれど、そのあたりがストーリーのなかにうまくはめ込まれていた印象の前作「ロング・エンゲージメント」に比べると、この「ミックマック」ではそういうガジェットを自立させようという意志と、映画としてのストーリー展開を重視する意志とが衝突してしまった感じを受けてしまう。  そう、ここでジュネ監督の持ち出すガジェット群がその映像のなかで自立していけば、その世界はシュワンクマイエルの映像世界に近接してくるだろう。 
[映画館(字幕)] 7点(2010-10-02 13:46:30)
50.  魚影の群れ
脚本は「セーラー服と機関銃」に引き続き田中陽造だけれども、相米監督もこのあたりで、ただの「ガキ映画」の監督ではないことをみせたかったんじゃないか、などと思う。力のこもった文芸大作、といえるのかもしれないけれども、相米監督のほかの作品にある、わけのわからない異様な高揚感は感じられない。背景音の入ってきかたが、この作品では作為的に感じられるシーンが多い。徹底したワンシーン・ワンカットだけれども、それが効果的なシーンもあり、そうでもなく感じられるシーンもある。主人公の緒形拳が北海道へ行くシークエンスが、いかにも田中陽造の脚本らしくていいけれど、それでもリアリズムが基調のこの作品の中では異質な感じ。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-29 11:35:12)
51.  しびれくらげ 《ネタバレ》 
「でんきくらげ」にひきつづき、渥美マリや川津祐介、玉川良一が出演している。渥美マリは前にも増して一本調子の演技になり、川津祐介もその一本調子に合わせて同じようなことをやる。これが奇妙なアンサンブルというか、この映画のちょっとした個性になっているように見える。だからやはり前作のようにストーリーに膨らみを持たせるようなことはやっていない、直線的な演出なのだけれども、それが悪いというわけでもない。こちらでは、玉川良一のかなり強烈な個性の「ダメおやじ」が、準主役級の活躍で、彼が登場人物すべての運命をひっかき廻し、当人は平然としてまたとんでもないことをやらかしていく。素晴らしい。  ヒロインの渥美マリのまわりに集まる男たちは、皆彼女を利用してそれを金銭に換算しようとする。彼女はダメダメな父も愛したいし、心から愛せる男を求めてもいる。それでも物語の終りに父は金欲を絶って更生できるかどうかはわからないし、ヤクザから足を洗って欲しいと願う男もやはりどうなるかわからない。ラストにビル街を無表情に歩き抜けていくヒロインに希望があるのか、絶望しているのか、その表情からは読み取れない。彼女もまた「運命の誤差」を求めて、硬貨ならぬ小切手を投げているのかも知れない。  もうここまで来ると「しびれくらげ」などというタイトルは内容と何の関係もないけれども、映画内に出て来る週刊誌のグラビアに掲載された渥美マリの写真、その写真の彼女の肢体に対して注がれる男たちの欲望のまなざしをこそ作品化した、ちょっとしたメタ構造作品とは読み取れるだろう。「しびれくらげ」というタイトルも、そういうメタ構造の中にあるものだろう。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-08 11:18:21)
52.  愛のむきだし
 この作品の語り口には、阿部和重の小説を思わせるものがある。崇高な事柄と思われることを、思い切り卑俗な手法で描く。タイトルの「愛のむきだし」という文字が出るまでに一時間かかる(!)けれども、そこまでの展開はめちゃ面白い。主人公の少年は神父の父に毎日「ざんげ」を要求され、「ざんげ」のために「罪」をつくるようになる。リアリズムがどんどん横滑りして行き、盗撮テクニックを教える集団の姿が異様な秘教団体とか、江戸川乱歩の犯罪組織のような姿で出て来る。そこで学ぶ盗撮テクニックはアクロバティックなカンフーである。主人公にマリアと出会う「運命」の日が近づき、音楽はラヴェルの「ボレロ」がしつこくリピートされ、演出のテンションが異様に高揚して行く。「女囚さそり」が引用され、B級アクション映画的展開で、最初のクライマックスに到達する。  はっきりいって、それ以降はちょっとばかし失速してしまう印象はあるけれども、それでも奇怪なテンションの高さはどこかで持続し、海岸でヒロインが、聖書から「コリント人の手紙」第十三章を全文ぶちまける場面もまた、クライマックスとして記憶されるだろう。そう、この物語の背景には「信仰と愛」という問題が大きく書かれている。ここでも宗教上の愛「アガペー」と、欲望の愛「エロス」がいっしょにされることで物語は混乱する。ラストで、このふたつは統合されたのだろうか? 統合されるようなものなのだろうか?  園子温監督の作品はそれほど観ていないけれども、いつも長距離を全力疾走して駆け抜けるような「勢い」と汗臭さ、そして観終ったときの疲労感が共通している印象。この「愛のむきだし」は、監督にとってのマラソン、というか、これは「トライアスロン」なのだろうか。観る方もそれなりにいっしょに疾走する心構えは要るだろう。全力疾走すればいいというものでもないけれども、とにかく、園子温は全力疾走する。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-08 11:14:11)
53.  ブラインドネス 《ネタバレ》 
とにかく、まずは隔離病棟内での悪夢のような情景に圧倒され、観ていても早送りで先にとばしてしまいたかった。それだけに、病棟から外に出たときの開放感は、観ている方にも大きなものがある。しかし、外の世界もとんでもないことになっているのだけれども、う〜ん、映画としては、この外の世界の混乱ぶり、地獄絵図が、病棟内での閉そく感を伴った描写と比べて、弱いように思えてしまう。これは、閉鎖されていた病棟内よりも、外の世界の方がもっと地獄だったというストーリーなのだ、でなくてはならないだろうと思うけれども、そのあたりが伝わってこない気がする。映画というのは、広さという考えでいうと、やはり閉息状況の描写の方が得意になってしまうのではないかとも思ったし、こういう閉息状態での悪夢のような展開というのは、近年の先行する映画作品でいろいろあって、どうもそういう作品の類型とも受け止められてしまう気もする。ひとつのポイントは、外の世界で、教会のキリストやマリアの絵や彫刻に目隠しがされていた、というあたりの描写で、ここで一気に宗教的な空気が画面に拡がり、おそらくそのことが、主人公(眼科医の妻)の最後のセリフにもつながってくるのだろうけれども、どうもふだん宗教心などというものを持ち合わせていないわたしなどには、よくわからない(この最後のセリフはたしか「I'll be blind」だったかな、と思うけれど、字幕の「わたしの番だ」というのは、ちょっと難しすぎるし、ちょっと違うと思った)。  たとえば、以前読んだコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」にも、これに似た状況が描かれていたと思うけれども、そういう意味では、この映画、「外の世界」でのサヴァイヴァルの描写が短すぎたのではないかという印象になる。ということは、病棟の描写をもっと短くした方がいいということになる。「ザ・ロード」も映画化されていて、いずれ日本でも公開されるだろうから、そっちを観てみたい
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-07 15:41:43)
54.  刺青(1966)
脚本は新藤兼人だけれども、谷崎の原作をふくらませ、じゃあお艶という女はどのような女なのだろうか、刺青を施したあと、どんな生き方を送ったのか、ということに想像力をふくらませて行く。これがもう徹底的な悪女で、お艶を演じた若尾文子の強烈な演技も合わせて、あっけにとられるような世界になっている。撮影が宮川一夫で、典型的な江戸の世界を舞台のように美しく撮っている。増村保造監督としても「卍」(これも谷崎の原作)以来のカラー作品で、一面毒々しいほどの色彩にあふれた、虚構性の強い作品に仕上げている印象。ただ、原作のひとつの主題である、彫り師新吉の美意識などはもうねじ伏せてしまった印象で、これを谷崎潤一郎の小説からの作品とすると、あれこれと不満は噴出してしまう。まあ増村保造監督もこの演出を楽しんでいるみたいだから、これはこれでいいか。傘をうまく使った、雨の中の殺人のシーンが素晴らしかった。
[DVD(邦画)] 7点(2010-04-07 15:35:13)
55.  哀愁
こういう、恋人や夫が戦死したと思い込み、女性が身を持ち崩してしまう悲劇は、この日本でもいっぱいいっぱいあったらしい。この「哀愁」の、日本での翻案もの「君の名は」が、ここまでのド悲劇にしなかったのは、日本だとあまりにリアルになり過ぎてしまうからだったんではないか。<br> この「哀愁」では、登場する男性陣はみな大甘で、ヒロインのことにあまりに寛容。これと対象的に、女性の眼は厳しい。まずはバレエ団を取り仕切る教師だかの存在。恋愛にうつつをぬかし規則を守らないヒロインをバレエ団から放逐する。これは考えれば当然ではないかという面もある。相手の男も、彼女のことをもっと思いやるべきだ。次に、その男の母親の厳しい眼の前に、ヒロインは何も隠せないことを悟る。母親は彼女をとがめ立てたりはしていないのだけれども、ヒロインに、その過去を決して捨て去ることは出来ないと認識させる「現実性」を持っている。この母親の視点は、おそらくはこの映画を観ている、観客の視線ではないのか。観客も彼女の幸福を願うけれども、過去の過誤は彼女をこれからもずっと責め苛むのではないのか、男もいつか彼女の過去を知ってしまうのではないのか、そう思いながら画面を見ているだろう。ヒロインは、そういう視線にさらされることで、忌わしい過去をごまかして生きていくことは出来ないと悟るのではないだろうか。その観客の眼の中にこそ、メロドラマを構成するひとつのポイントが、厳として光っている。そんな観客の加担ゆえに、このメロドラマはいっそうその悲劇性を観客に際立たせる。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-25 23:15:25)(良:3票)
56.  PLASTIC CITY プラスティック・シティ
世界のグローバリゼーション下で、被害者であるアジアとブラジルを通底させる試みの作品だろう。偽ブランド商品が大量に売られるブラジルで、「この安い価格のうしろには20億の奴隷のようなアジア労働者がいる」と。アマゾンのジャングルとアジアのジャングルが連結し、あたらしい再生の磁場となる。 そのストーリーだけでなく、映画表現としてもアジアとブラジルを通底させようとする演出が面白い。つまり、アジア映画の方法とブラジル映画の方法をちりばめる。アジア映画もブラジル映画もあまり観ていないわたしなどにはわからない部分もあるだろうけれども、若干、「ちりばめただけ」という印象は受ける。 今の観客がすぐにわかるブラジル映画といえば「シティ・オブ・ゴッド」だろうし、その影響ももちろんある。日本映画へのパスティーシュももちろん。しかし、ブラジル映画ならグラウベル・ローシャ監督の「アントニオ・ダス・モルテス」(この作品の中で使われていた音楽が、この「プラスティック・シティ」でも使われている!)、アジアならタイの監督アビチャッポン・ウィーラセクタンの「トロピカル・マラディ」(虎と密林)などの映画が容易く観ることの出来ない状態で、いきなりこの作品だけ一般公開されたりDVDリリースされたりしても、この作品の根本の部分は伝わらないのではないのか?と、危惧する(わたしだってわかっちゃいない)。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-17 14:39:32)
57.  農夫の妻
サスペンス映画ではありません。ほのぼのコメディー。 冒頭の犬(名演技/名演出)とか、馬、ガチョウなどといろいろ出て来る動物たちが、田舎の農家の雰囲気を出していて気持ちいい。いつも口を「へ」の字にしている使用人のアッシュとか、お茶会をひらく家の奇怪なメイド(怪演)などの脇役陣も楽しい。ヒッチコックの演出はサイレントだからといってあまり字幕に頼らず、平気で無音のまま登場人物に会話させ、観るものに勝手に想像させるやり方。それでもやはり人物の表情は誇張して、主人公の男性の表情の変化など、凄まじいものがある。笑ってばかりいる女性、いつもおどおどしているような女性とかの描写も楽しく、そのおどおどした女性が、皿に大きなプリンを持ったまま動揺したときに、皿の上のプリンもいっしょにぷるんぷるん揺れるシーンが最高だった。イギリスの田舎の雰囲気がすてきな作品でもあった。そうそう、求婚された女性たちの拒絶の理由が、どれも妙に現代的で面白い。
[ビデオ(字幕)] 7点(2010-02-05 10:53:44)
58.  三十九夜
「なぜ登場人物はほかの登場人物の言うことを信じるに至ってしまうのか」という裏付けをかなりすっ飛ばしていて、今どきならこういう脚本では映画に出来ないだろうなあと思うけれど(初期のヒッチコック作品にはこういうのが実に多い)、そういうムダな(?)描写に時間を費やすことなく、「信じたのだから信じたんだよ、ほら、信じたとおりだっただろう?」とばかりに前進して行く。のちにアメリカに渡ってからの「逃走迷路」、「見知らぬ乗客」、「知りすぎていた男」、そして「北北西に進路を取れ」などの作品で繰り返されることになるディティール満載で、そういう逃走劇のシチュエーションばかりをダイジェストでつなげて作ったような作品。やってみたいことを一本の作品にむりやり詰め込んでみたんだろうという印象。演出/編集/カメラワークなどで面白いシーンがいろいろとあり、見返せばまた「こんなことをやっている」というのが見つかるだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2010-02-05 10:47:19)
59.  扉をたたく人 《ネタバレ》 
撮影が良かった。いろいろなエンディングの可能性がある中で、かなり渋いところに着地させた作品。甘くしてしまえば「そんなものではない」と抗議されるからね。‥‥わたしもかつてはフェラ・クティの音が好きだったので、そのあたりで惹かれてしまった。主人公は西洋音楽(クラシック)~亡き妻への追憶~をおいて、まさにアフロ・ビートに目覚めるわけだ。彼の書いている論文もまた見直されることだろう。原題の「The Visitor」のダブルミーニングが、この邦題では消えてしまったのが残念。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-02-14 15:42:34)
60.  海炭市叙景 《ネタバレ》 
‥‥あの飲み方で、八千円なら安い! やっぱり、地方はイイね!
[CS・衛星(邦画)] 6点(2013-08-15 17:50:10)
033.49%
144.65%
266.98%
333.49%
444.65%
511.16%
678.14%
72832.56%
82023.26%
966.98%
1044.65%

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