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61.  マンハッタン
わたしにはこの映画、なにが面白いのかわからない。そもそも、このタイプのウディ・アレンの作品が苦手。前に観た「ハンナとその姉妹」とか「ウディ・アレンの重罪と軽罪」とか、いつも同じことをやっている。「アニー・ホール」にしたってそうだっただろう。ちょっと知的なキーワードをちりばめてインテリジェンスを醸し出し、それでも気取ったバカをあざ笑う。そのあざ笑うのはウディ・アレンの視点と決まっている。で、彼の映画の中の彼自身も滑稽な存在なのだけれども、その滑稽さをどこまでウディ・アレンが意識しているのかがわからない。オレも滑稽だけれども、オレは許されるのだ、と思っているようにみえる。この作品のラストでも、勝手に捨てた元愛人に「よりを戻してほしい」とこれまた勝手に求愛するわけで、どうみてもこの作品の中でもいちばん滑稽な人物になるわけだけれども、なぜか映画の中で、彼には救済のチャンスが与えられる。その救済のチャンスが、わたしにはどうしてもウディ・アレンの自己愛によるものと見えてしまう(もしくは作者としての特権意識、だろうか)。そうすると、彼は映画の中であざ笑うために登場させる人物たちと、自分とは違うのだと言っているのだろうと思えてしまう。ヴァン・ゴッホをヴァン・ゴーグと発音する気取ったエセインテリ人物を陰で笑いながらも、自分は「カフカ以下の自尊心にされた」などと気取ったことを言い、そのことは許されるらしい。だいたい、なぜ彼はいつも人のことを「陰で」あれこれ悪口をいうのか。好きになれない。
[DVD(字幕)] 1点(2010-05-12 13:37:07)
62.  天国の門
とにかくまずは、ヴィルモス・スィグモンドの撮影がすばらしい。最初の卒業式でのダンスの場面、人物にピタリと照準を当ててびゅんびゅんと廻っていくカメラ。逆光線の中に立体的に群集を捉えるカメラ。赤い砂塵の舞う荒れ地での残虐な戦いを記録するカメラ。これを観ているだけで作品の長尺は乗り切ることが出来る。ヴィルモス・スィグモンドでも、この作品が最高ではないだろうか。  物語は、国家が移民を抹殺しようとした過去のアメリカの大きな恥、そこでの無力な知識人の問題を主題としている。この作品で描かれたことが史実とはずいぶんと異なるらしいというのも、この作品への嫌忌気分の原因になっているらしい。わたしには、この作品で描かれる主人公のジム(クリス・クリストファーソンが演じる)の行動がどうもよくわからなくて、何をどうしようとしていたのか、まあそこにこそ知識人の無為を読み取れるように思うけれども、どうもいまいち納得が行かない。ラストにポーツマスだかで船に乗っているジムは、そこが移民たちのアメリカ上陸への窓口だったということを想っているのだろうか。そこに彼の過去の行動への悔恨があるのか。死んだ女性を思っているだけなのか。船室で傍らに坐る妻らしい女性へタバコの火をつけてやるときの彼のぎごちなさが、意図的な演出なのか、マイケル・チミノ監督の演出力やクリス・クリストファーソンの演技力に由来するものなのかもわからないから困る。  やはりわたしの印象に残ったのは、ネートという男で、これはクリストファー・ウォーケンが演じているのだけれども、観ていてこのルックスは誰かを思い出させると思っていたら、近年のジョニー・デップを思わせるのだった。とにかく、移民としてアメリカという国に同化しようと努力する姿が痛々しい。ホーソーンの小説を読んで英語の書き取りを勉強し、住まいの壁には壁紙として英語の新聞をいちめんに貼る。ジムと娼婦の女性(イザベル・ユペール)をめぐって争うけれども、ジムへは友情を感じていて、ここに彼の人間味が読み取れる(この作品には人間味を読み取れるような人物が少ない。このネートと、娼婦のエラぐらいか)。殺し屋まで引き受けてアメリカ人になろうとするけれども、さいごには国家の不条理に抵抗して死を迎える。住まいの壁の新聞紙が、燃え上がって剥がれていくシーンが悲しく、美しい。
[DVD(字幕)] 8点(2010-05-08 11:21:17)(良:1票)
63.  しびれくらげ 《ネタバレ》 
「でんきくらげ」にひきつづき、渥美マリや川津祐介、玉川良一が出演している。渥美マリは前にも増して一本調子の演技になり、川津祐介もその一本調子に合わせて同じようなことをやる。これが奇妙なアンサンブルというか、この映画のちょっとした個性になっているように見える。だからやはり前作のようにストーリーに膨らみを持たせるようなことはやっていない、直線的な演出なのだけれども、それが悪いというわけでもない。こちらでは、玉川良一のかなり強烈な個性の「ダメおやじ」が、準主役級の活躍で、彼が登場人物すべての運命をひっかき廻し、当人は平然としてまたとんでもないことをやらかしていく。素晴らしい。  ヒロインの渥美マリのまわりに集まる男たちは、皆彼女を利用してそれを金銭に換算しようとする。彼女はダメダメな父も愛したいし、心から愛せる男を求めてもいる。それでも物語の終りに父は金欲を絶って更生できるかどうかはわからないし、ヤクザから足を洗って欲しいと願う男もやはりどうなるかわからない。ラストにビル街を無表情に歩き抜けていくヒロインに希望があるのか、絶望しているのか、その表情からは読み取れない。彼女もまた「運命の誤差」を求めて、硬貨ならぬ小切手を投げているのかも知れない。  もうここまで来ると「しびれくらげ」などというタイトルは内容と何の関係もないけれども、映画内に出て来る週刊誌のグラビアに掲載された渥美マリの写真、その写真の彼女の肢体に対して注がれる男たちの欲望のまなざしをこそ作品化した、ちょっとしたメタ構造作品とは読み取れるだろう。「しびれくらげ」というタイトルも、そういうメタ構造の中にあるものだろう。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-08 11:18:21)
64.  イタリア旅行
 序盤の粗いつくりが気になって、こんなことでどういう仕上がりになるんだろうと思っていたら、妻と夫が別行動を取って、妻があちこちのイタリアの遺跡や博物館を見てまわるようになる展開で、がぜん面白くなる。ここで、どこの遺跡でも博物館でも、ガイドを職業とする人物と妻が行動を共にするのだけれども、たいていは初老の男性であるそのガイドと妻との描写が、とにかく面白い。そして、まさに「イタリア旅行」というぴったりの、そういう遺跡や博物館の映像、これが物語にひそやかに絡んで行くあたりの展開がとってもいい。映画ならではの表現でのストーリーテリングを堪能できる。小さなベスビオ火山の噴火の再現、カタコンベ、ポンペイの新たな発掘(ここはちょっと「フェリーニのローマ」を思い出した)、そして市街の中での祭礼のクライマックス。素敵な映画だと思う。
[DVD(字幕)] 8点(2010-05-08 11:16:01)
65.  愛のむきだし
 この作品の語り口には、阿部和重の小説を思わせるものがある。崇高な事柄と思われることを、思い切り卑俗な手法で描く。タイトルの「愛のむきだし」という文字が出るまでに一時間かかる(!)けれども、そこまでの展開はめちゃ面白い。主人公の少年は神父の父に毎日「ざんげ」を要求され、「ざんげ」のために「罪」をつくるようになる。リアリズムがどんどん横滑りして行き、盗撮テクニックを教える集団の姿が異様な秘教団体とか、江戸川乱歩の犯罪組織のような姿で出て来る。そこで学ぶ盗撮テクニックはアクロバティックなカンフーである。主人公にマリアと出会う「運命」の日が近づき、音楽はラヴェルの「ボレロ」がしつこくリピートされ、演出のテンションが異様に高揚して行く。「女囚さそり」が引用され、B級アクション映画的展開で、最初のクライマックスに到達する。  はっきりいって、それ以降はちょっとばかし失速してしまう印象はあるけれども、それでも奇怪なテンションの高さはどこかで持続し、海岸でヒロインが、聖書から「コリント人の手紙」第十三章を全文ぶちまける場面もまた、クライマックスとして記憶されるだろう。そう、この物語の背景には「信仰と愛」という問題が大きく書かれている。ここでも宗教上の愛「アガペー」と、欲望の愛「エロス」がいっしょにされることで物語は混乱する。ラストで、このふたつは統合されたのだろうか? 統合されるようなものなのだろうか?  園子温監督の作品はそれほど観ていないけれども、いつも長距離を全力疾走して駆け抜けるような「勢い」と汗臭さ、そして観終ったときの疲労感が共通している印象。この「愛のむきだし」は、監督にとってのマラソン、というか、これは「トライアスロン」なのだろうか。観る方もそれなりにいっしょに疾走する心構えは要るだろう。全力疾走すればいいというものでもないけれども、とにかく、園子温は全力疾走する。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-08 11:14:11)
66.  眠る男
群馬県の全額出資製作映画。小津映画のような風景の捨てカットが多く、群馬の絶景シーン集でもある。意識的な美しいシーンと、寓話のような物語からは、見た目は全然違うけれども、パラジャーノフの「ざくろの色」とかを思い出してしまう(水車の中の老人とか)。これは、いってみれば群馬県コスモロジーなのだろう。萩原朔太郎も出て来る。しっかし、この、聞いていて背中がむずがゆくなって来るような、高校の文芸部員の書いたようなシナリオは、なんとかならなかったのだろうか。「眠る男」の象徴するものも、あまりに露にすぎる印象がある。美しい映像がもったいない気がした。  
[ビデオ(邦画)] 4点(2010-05-08 11:11:54)
67.  ションベン・ライダー
脚本(原案?)はレナード・シュレーダーで、撮影に田村正毅の名前が見える。  いきなりの超長回しで始まり、カメラはぐんぐんと移動して行き、ドラマは場所を変えて拡がって行く。観ていてこれは壮大な野外劇(の記録)なのだろう、という印象を持ち、ストーリーの飛躍、登場人物のシンボル性などから、唐十郎のテント芝居を思い出す。特にこの作品では、「川」というものを、場として非常にうまく活かしている印象で、逃走シーンの多くで、川の存在が場面をつくっている。少年少女たちが歌をうたって高揚感を盛り上げて行くのは、「台風クラブ」にも活かされていたけれども、ラストの「あさま山荘」的な場面での展開(この家屋の構造は実に演劇的)は、観ていてワクワクした。観終ってもやはり、唐十郎の演劇などとの親和性を考えてしまったが、「観たことのない映画」という感覚で、興奮した。
[DVD(邦画)] 8点(2010-05-08 11:09:42)
68.  花影(1961)
ここでの主演は池内淳子で、わたしは彼女の主演する作品を観るのはこれが初めてになる。で、おどろいた。この池内淳子という人には不思議な魅力がある。山本富士子のような整った美人のようでもあり、ちょっと崩れているようなところもある。純真のようでもあり、悪女のようでもある。陰鬱そうな翳りもある。とにかく、最初の彼女の登場する場面、バーで他の若いホステスが客を囲んできゃぴきゃぴやっている中に、彼女が登場してきて客に「あら。」と言うだけで、空気がほんとうにガラリと変わってしまう。ひんやりとした空気が流れるというか、ちょっと、観ていて息を呑んでしまった。ここは川島監督の演出も効果を出しているのだろう。しばらく観ていてまたおどろく。彼女がそれまで同衾していた大学教授の池部良と別れる場面。自分の部屋にいた彼に出ていってもらい、鍵を返してもらう。その鍵を指にからめてうつむき加減の頭の方へ持っていき、指をそらせて鍵をぶらぶらさせる。この頭の角度、指の動きが、ちょっとばかし演技過剰なばかりに、くっ、くっ、となるのだけれども、やはり観ていて、「うっ」、って感じである。これをまたカメラが絶妙の角度、フレームで捉えていて、よけい観ていてどきどきしてしまった。ただ人のからだがフレームの中で動くのを観て、こんなにこころを動かされるのは稀なこと。  「花影」の花とは桜の花のことらしく、その花の短く美しく咲くさまを、主人公の葉子に重ねている。ラスト近くに彼女は男と夜桜見物に行くけれど、このシーンの演出もちょっとあざといぐらいで、川島雄三監督のこういう過剰さは好きだ。でもこの映画、原作からの抽出がどこか失敗しているような展開で、例えば出てくる子供たちのこと、池部良の小児まひの子供、有島一郎の男手で育てた亡き妻の連れ子の存在で、何がいいたかったのか、主人公はその子たちに何を思っているのか、あの脚本ではわからないではないか、という印象はある。でも、男たちのいいかげんさ(身につまされる点あり)、それを許して付け込まれる女性の弱さ、とかはわかった(なぜ男のいいかげんさを許すのかがよくわからないのは、わたしもまたいいかげんだからだろう)。
[映画館(邦画)] 8点(2010-05-08 11:07:11)
69.  バージニア・ウルフなんかこわくない 《ネタバレ》 
有名なエドワード・オールビーのデビュー戯曲の映画化。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンの主人公夫妻は、まるでゲームのようにたがいをののしり傷つけ合い、そのなかに奇妙な共生感(愛情?なのだろうか)を見い出しているように見える(冒頭の二人だけのシーン)。ここに無防備な若い夫婦が加わることで、若い夫婦は主人公夫婦のゲームのいけにえにされていく。しかし、他者の加わった主人公夫婦のゲームはいつしかゲームの範疇を逸脱していき、どうやら踏み込んではいけない、ゲームが破たんするような領域をあらわにしてしまう。これは彼らの関係の破たんをも暗示しているようにも見えるけれども、そうではなく、常にそのゲーム自体が破たんしてしまう地点までゲームを追い込むことこそが、このゲーム(いや、二人の関係)のきわどいルールなのではないか、と思わせられる。常に関係が壊れる淵を覗き込まないと関係を維持できないというのは理解できるが、こうやって作品で見せられるのはやはりこわい。  マイク・ニコルズはこの作品の前までは舞台演出をやっていて、これが初めての映画作品らしい。おそらく彼がここで試みているのは、舞台を観客席から観るのではなくて、観客にも舞台に上がってもらって、もっと間近に観てもらおう、そういう演出姿勢なのではないかと思う。だからクローズアップ、俳優の顔の大きなアップが多くなっている。部屋の中を動き回るカメラは、そのまま観客が部屋の中を動いて、起こっていることを見ているような臨場感につながっているだろう。エリザベス・テイラーとリチャード・バートンのセリフの多い演技は、スクリューボール・コメディを彷佛とさせるものであって、その線で云えば「スクリューボール・トラジティ」と呼べるような雰囲気。リチャード・バートンという人は、やはりすごい役者なんだなあ、などと思った。
[DVD(字幕)] 8点(2010-04-27 10:56:39)(良:1票)
70.  アリス・イン・ワンダーランド 《ネタバレ》 
 まず3D映像については、従来の二次元撮影カメラで撮影しているせいで、ポスト・プロダクションでの不完全な3D映像。つまり写真を切り抜いて並べて動かしている感じで、違う人物間の前後の差は立体的に出ているけれど、同一人物内の立体感はまるでなし。店頭の等身大アイドルの看板が動いてる感じ。時代が経てば、この作品などは「初期の3D映画には情けないモノもあった」と云われるようになるでしょう。  内容はさすがディズニーで、ルイス・キャロルの原作から、映画版「ナルニア国物語」のような、浅い勧善懲悪ストーリーをよくぞ紡ぎ出したものだと感心する。元にあったナンセンスなロジックの遊びやチェスゲームは全滅で、この映画のタイトルは「アリス・キングスレーの冒険」と変えた方がいいと思う。ラスボスは「鏡の国のアリス」のなかで読まれる、有名な「ジャバーウォッキー」の詩から持って来ちゃっているけれど、このジャバーウォッキーのCG造型が、かなり情けなくて泣けます(原作の有名なイラスト、テニエル作の造型と比べてほしい)。  ティム・バートンらしい毒気はもうほとんどないのだけれども、芋虫の吐く煙、当時の阿片大陸中国への出発、ラストにむくむくと大きくなるキノコなど、ドラッグへのほのめかしはあるのかも。しかし、バンダースナッチの住処の中で、どーしてアリスは突然眠ってしまうの???
[映画館(字幕)] 2点(2010-04-24 22:42:26)
71.  ブラインドネス 《ネタバレ》 
とにかく、まずは隔離病棟内での悪夢のような情景に圧倒され、観ていても早送りで先にとばしてしまいたかった。それだけに、病棟から外に出たときの開放感は、観ている方にも大きなものがある。しかし、外の世界もとんでもないことになっているのだけれども、う〜ん、映画としては、この外の世界の混乱ぶり、地獄絵図が、病棟内での閉そく感を伴った描写と比べて、弱いように思えてしまう。これは、閉鎖されていた病棟内よりも、外の世界の方がもっと地獄だったというストーリーなのだ、でなくてはならないだろうと思うけれども、そのあたりが伝わってこない気がする。映画というのは、広さという考えでいうと、やはり閉息状況の描写の方が得意になってしまうのではないかとも思ったし、こういう閉息状態での悪夢のような展開というのは、近年の先行する映画作品でいろいろあって、どうもそういう作品の類型とも受け止められてしまう気もする。ひとつのポイントは、外の世界で、教会のキリストやマリアの絵や彫刻に目隠しがされていた、というあたりの描写で、ここで一気に宗教的な空気が画面に拡がり、おそらくそのことが、主人公(眼科医の妻)の最後のセリフにもつながってくるのだろうけれども、どうもふだん宗教心などというものを持ち合わせていないわたしなどには、よくわからない(この最後のセリフはたしか「I'll be blind」だったかな、と思うけれど、字幕の「わたしの番だ」というのは、ちょっと難しすぎるし、ちょっと違うと思った)。  たとえば、以前読んだコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」にも、これに似た状況が描かれていたと思うけれども、そういう意味では、この映画、「外の世界」でのサヴァイヴァルの描写が短すぎたのではないかという印象になる。ということは、病棟の描写をもっと短くした方がいいということになる。「ザ・ロード」も映画化されていて、いずれ日本でも公開されるだろうから、そっちを観てみたい
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-07 15:41:43)
72.  刺青(1966)
脚本は新藤兼人だけれども、谷崎の原作をふくらませ、じゃあお艶という女はどのような女なのだろうか、刺青を施したあと、どんな生き方を送ったのか、ということに想像力をふくらませて行く。これがもう徹底的な悪女で、お艶を演じた若尾文子の強烈な演技も合わせて、あっけにとられるような世界になっている。撮影が宮川一夫で、典型的な江戸の世界を舞台のように美しく撮っている。増村保造監督としても「卍」(これも谷崎の原作)以来のカラー作品で、一面毒々しいほどの色彩にあふれた、虚構性の強い作品に仕上げている印象。ただ、原作のひとつの主題である、彫り師新吉の美意識などはもうねじ伏せてしまった印象で、これを谷崎潤一郎の小説からの作品とすると、あれこれと不満は噴出してしまう。まあ増村保造監督もこの演出を楽しんでいるみたいだから、これはこれでいいか。傘をうまく使った、雨の中の殺人のシーンが素晴らしかった。
[DVD(邦画)] 7点(2010-04-07 15:35:13)
73.  哀愁
こういう、恋人や夫が戦死したと思い込み、女性が身を持ち崩してしまう悲劇は、この日本でもいっぱいいっぱいあったらしい。この「哀愁」の、日本での翻案もの「君の名は」が、ここまでのド悲劇にしなかったのは、日本だとあまりにリアルになり過ぎてしまうからだったんではないか。<br> この「哀愁」では、登場する男性陣はみな大甘で、ヒロインのことにあまりに寛容。これと対象的に、女性の眼は厳しい。まずはバレエ団を取り仕切る教師だかの存在。恋愛にうつつをぬかし規則を守らないヒロインをバレエ団から放逐する。これは考えれば当然ではないかという面もある。相手の男も、彼女のことをもっと思いやるべきだ。次に、その男の母親の厳しい眼の前に、ヒロインは何も隠せないことを悟る。母親は彼女をとがめ立てたりはしていないのだけれども、ヒロインに、その過去を決して捨て去ることは出来ないと認識させる「現実性」を持っている。この母親の視点は、おそらくはこの映画を観ている、観客の視線ではないのか。観客も彼女の幸福を願うけれども、過去の過誤は彼女をこれからもずっと責め苛むのではないのか、男もいつか彼女の過去を知ってしまうのではないのか、そう思いながら画面を見ているだろう。ヒロインは、そういう視線にさらされることで、忌わしい過去をごまかして生きていくことは出来ないと悟るのではないだろうか。その観客の眼の中にこそ、メロドラマを構成するひとつのポイントが、厳として光っている。そんな観客の加担ゆえに、このメロドラマはいっそうその悲劇性を観客に際立たせる。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-25 23:15:25)(良:3票)
74.  ミイラ再生 《ネタバレ》 
 けっきょく、この作品のみどころは、ボリス・カーロフの再生したミイラのメイク、その演技、それを際立てるカール・フロイントの演出ということになる(あと、ヒロイン役のジタ・ヨハンという女優の、奇妙な魅力も、かな)。ひとつこの作品で記憶するべきは、眼光鋭いボリス・カーロフの顔のアップの映像。まあこれは無理に記憶しようと努力しないでも、自然に記憶に焼きつけられてしまうのだけれども、あまりにアイコン的な「フランケンシュタイン」のモンスターとしてのボリスの印象よりも、この作品ではより役者としての力量を感じさせ、他に類のないミステリアスな雰囲気を漂わせている。  ただし、この作品の脚本、そしてストーリーテリングとしての演出にはあまり納得出来ないというか、ただ説明のための場面、そして説明もなく飛躍してしまう展開とのあいだで、観ているわたしはしばし混乱してしまう。そもそも、いちど蘇生したイムホテップが、こちらはヘレンとして転生している元・エジプト王女を、いったいなぜもういちどミイラにしなければならないのか、そのあたりがわからない。イムホテップは王女の再生を望んで、「トトの書」という再生の奥義を記した巻き物を盗もうとして、生きながらミイラにされるという刑罰を受けたのだから、王女が転生してヘレンになってるなら、イムホテップも蘇生して、王女も転生、それでいっしょになってるんだからそれでいいんじゃないの? 説明が多いわりには肝心の部分の説明も描写も欠けている印象。こういう面は、たしかに1999年のリメイク「ハムナプトラ」の脚本はさすがに練られている。
[DVD(字幕)] 6点(2010-03-25 11:19:08)
75.  フランケンシュタイン(1931)
製作から80年経過した今となっても、「映画」という表現、そのヴィジュアルの、ひとつのアイコンであることを止めない。おそらくは永遠に、「映画」なるものの代名詞であり続けるだろう。
[DVD(字幕)] 10点(2010-03-24 16:59:37)
76.  PLASTIC CITY プラスティック・シティ
世界のグローバリゼーション下で、被害者であるアジアとブラジルを通底させる試みの作品だろう。偽ブランド商品が大量に売られるブラジルで、「この安い価格のうしろには20億の奴隷のようなアジア労働者がいる」と。アマゾンのジャングルとアジアのジャングルが連結し、あたらしい再生の磁場となる。 そのストーリーだけでなく、映画表現としてもアジアとブラジルを通底させようとする演出が面白い。つまり、アジア映画の方法とブラジル映画の方法をちりばめる。アジア映画もブラジル映画もあまり観ていないわたしなどにはわからない部分もあるだろうけれども、若干、「ちりばめただけ」という印象は受ける。 今の観客がすぐにわかるブラジル映画といえば「シティ・オブ・ゴッド」だろうし、その影響ももちろんある。日本映画へのパスティーシュももちろん。しかし、ブラジル映画ならグラウベル・ローシャ監督の「アントニオ・ダス・モルテス」(この作品の中で使われていた音楽が、この「プラスティック・シティ」でも使われている!)、アジアならタイの監督アビチャッポン・ウィーラセクタンの「トロピカル・マラディ」(虎と密林)などの映画が容易く観ることの出来ない状態で、いきなりこの作品だけ一般公開されたりDVDリリースされたりしても、この作品の根本の部分は伝わらないのではないのか?と、危惧する(わたしだってわかっちゃいない)。
[DVD(字幕)] 7点(2010-03-17 14:39:32)
77.  ウディ・アレンの重罪と軽罪
この時代のウディ・アレンの軽薄さ、ごう慢さ、ひとりよがりを端的にあらわした映画。マーティン・ランドーのストーリーはともかくとして、自分が演じる「良心的であるがゆえに売れない映画監督」と、「軽薄でごう慢なTVディレクター」のストーリーで、いったいなにゆえに映画監督側を「可」と判断し、TVディレクターを「不可」と判断するのか。陰でコソコソとディレクターの悪口ばかりを云い、そのディレクターの映像にムッソリーニの映像を重ねるという悪趣味をしでかしている(この演出は、ムッソリーニはファシストで歴史上の「悪」であるという定説にしたがっているだけで、映画的に何らすぐれた演出などではない)のは誰か。「愛」がどうのこうのと説く教授(この教授の説がまたくだらない)を取材さえしていれば「良心的」と言えるのならば驚きだ。ミア・ファローの選択はおそらく正しい。この映画こそが「軽薄」そのものの例証。パーティーが大好きな人間など、こんなものだろう。スヴェン・ニクヴィストの美しい撮影が空しい。
[ビデオ(字幕)] 2点(2010-03-09 18:03:26)
78.  クライマーズ・ハイ(2008)
クライマーズ・ハイという状態が、登山中に興奮が極限に達し、恐怖が薄れる瞬間の精神状態を指すということであれば、この映画で、その「クライマーズ・ハイ」状態に陥っているのは、映画の中の記者たちよりも何よりも、この映画を製作していたスタッフたちに他ならないだろう。(この作品にテーマがあるとすれば)テーマの構築を忘れ、ただその場その場の画面を撮り上げることだけに淫している。大事件で遊んでいる(と云われる)記者たちではなく、まさに映画で遊んでいるスタッフたちがいる。 高くついたであろうナット・キング・コールの「モナ・リザ」の楽曲使用も、高くついたであろうオーストラリアロケもただ空しい。 この映画のメイキング・ドラマを映画にすれば、それこそまさに「クライマーズ・ハイ」というタイトルが相応しい、このテーマにぴったりの作品ができるだろう。
[DVD(邦画)] 2点(2010-02-24 21:42:09)
79.  農夫の妻
サスペンス映画ではありません。ほのぼのコメディー。 冒頭の犬(名演技/名演出)とか、馬、ガチョウなどといろいろ出て来る動物たちが、田舎の農家の雰囲気を出していて気持ちいい。いつも口を「へ」の字にしている使用人のアッシュとか、お茶会をひらく家の奇怪なメイド(怪演)などの脇役陣も楽しい。ヒッチコックの演出はサイレントだからといってあまり字幕に頼らず、平気で無音のまま登場人物に会話させ、観るものに勝手に想像させるやり方。それでもやはり人物の表情は誇張して、主人公の男性の表情の変化など、凄まじいものがある。笑ってばかりいる女性、いつもおどおどしているような女性とかの描写も楽しく、そのおどおどした女性が、皿に大きなプリンを持ったまま動揺したときに、皿の上のプリンもいっしょにぷるんぷるん揺れるシーンが最高だった。イギリスの田舎の雰囲気がすてきな作品でもあった。そうそう、求婚された女性たちの拒絶の理由が、どれも妙に現代的で面白い。
[ビデオ(字幕)] 7点(2010-02-05 10:53:44)
80.  三十九夜
「なぜ登場人物はほかの登場人物の言うことを信じるに至ってしまうのか」という裏付けをかなりすっ飛ばしていて、今どきならこういう脚本では映画に出来ないだろうなあと思うけれど(初期のヒッチコック作品にはこういうのが実に多い)、そういうムダな(?)描写に時間を費やすことなく、「信じたのだから信じたんだよ、ほら、信じたとおりだっただろう?」とばかりに前進して行く。のちにアメリカに渡ってからの「逃走迷路」、「見知らぬ乗客」、「知りすぎていた男」、そして「北北西に進路を取れ」などの作品で繰り返されることになるディティール満載で、そういう逃走劇のシチュエーションばかりをダイジェストでつなげて作ったような作品。やってみたいことを一本の作品にむりやり詰め込んでみたんだろうという印象。演出/編集/カメラワークなどで面白いシーンがいろいろとあり、見返せばまた「こんなことをやっている」というのが見つかるだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2010-02-05 10:47:19)
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