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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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81.  エメラルド・カウボーイ
この作品、1970年代に単身コロンビアに渡り、幾多の苦難の末に今や“エメラルド王”と呼ばれる日本人・早田英志の半生を描いたもの。しかも早田氏が自ら資金を出し、脚本・監督もこなし、予定していた俳優が危険地帯での撮影に恐れをなして逃げ出したため、若き日を東洋人にはまるで見えない現地コロンビア人が、現在の部分を早田氏本人が演じるという、ユニークというか、デタラメ極まりない「伝記」映画ではある。  しかし、自作自演で語ってみせた究極の“俺サマ映画”とは言え、意外にも金持ちの道楽やら、自己正当化めいた嫌らしさはない。確かに全編「いかがわしさ」がプンプン匂うものの、映画そのものは一日本人の立身出世譚というより、むしろ別の感興に満ちている。  というか、まさしくこの映画は「西部劇」として創られているのだ。ここには、西部劇というジャンルにおける約束事の、すべてがある。開拓者精神も、男の友情も、酒場での乱闘も、仲間の裏切りも、さらには凶悪なインディアンたちとの攻防戦までもが(インディオのゲリラたちとの撃ち合いとして)ある。映画の後半は、ストライキで反抗する組合員たちと早田氏たち側との対立が描かれる。これも『シェーン』などでおなじみの、牧場主と小作人たちが敵対する構図そのままじゃないか。  そう、ここで早田氏が演じているのは、決して「早田英志」ではなく、西部劇の「ヒーロー」に他ならない。彼が大型拳銃に弾を込め、ベルトに差し挟む姿を見よ。ボディーガードを従えて、街や会社内を闊歩する勇姿はどうだ。西部劇で牧場主は「悪玉」として描かれることが多いが、ここでの彼は、『赤い河』のジョン・ウェインのごとく確かに権力者にして「ヒーロー」なのだ。  …まさかこれが、ホークスの名作に比肩するものだとまで言うつもりもない。が、ひとりの日本人を西部劇の「主人公」として成立させ得た本作には、それゆえの捨て難い魅力があることだけは断言したい。実際、近年これほど西部劇としての“らしさ”を感じさせてくれる映画もそうはない。そして、「西部劇」こそが劇映画の祖型的ジャンルであるなら、この1本のうさん臭いコロンビア映画には、その「神話的」な息吹きがみなぎっている。その一点だけにおいても、これは見る価値があると思う。  …いや、本当ですってば(笑)
[映画館(字幕)] 7点(2005-06-08 20:15:12)(良:1票)
82.  ミリオンダラー・ベイビー 《ネタバレ》 
母親に家を贈ったものの、「こんなものより金をよこせ!」と毒づかれたヒラリー・スワンク演じるヒロイン。傷心の彼女は故郷からの帰り、イーストウッドの老トレーナーに「あたしには、もうあなただけ」と言う。ふたりは、老トレーナーが大好物のレモンパイが美味しい店に立ち寄る。そしてひとくちほおばった彼は、「もう死んでもいい…」とつぶやくのだ。  それは、もちろんレモンパイの美味しさに対してのつぶやきではあるだろう。けれどぼくたちは確信する。それが、「あたしには、もうあなただけ」というヒロインのひと言に呼応するものであったことを…。  イーストウッドはこれを、「父と娘のラブストーリーだ」と言う。つまり、それぞれ相手の中に「父親」と「娘」を見出していく主人公たちの“精神的な絆”と、その精神的な「愛」を描いたものだ、ということか。けれど映画を見終わってぼく(たち)は思うのだ。いや、違う。これは、「父親」のような男と「娘」のような女の「ラブストーリー」以外の何物でもない、と。「女がボクシングなんて!」とまったく相手にされなかった彼女が、それでもこの老トレーナーだけを頼りにした時から、すでにふたりは愛しあっていた。だから彼女は、まるで生を燃焼し尽くすように戦い続けたのだ。自分のためじゃなく、老トレーナーのために。彼のため、一刻もはやく「年老いる」ために!   …年老いることを、「死を目前にした肉体と精神」あるいは「死へとなだれ込んでいく状態」と定義するなら、全身マヒで寝たきりになった彼女は、もはや老トレーナー以上に「年老いた」存在に他ならない。そして彼女は、ある意味こうなることを望んでいたのではないか。何故ならこのふたりは、そういうかたちでしか「愛」を成就できなかったからだ(「父」と「娘」ではなく、ひとりの「男」と「女」になるための試練…)。確かにそれは悲劇的で残酷な結末かもしれない、けれどその時、誰がこのふたりを「不幸」だなどと言えるだろう。  ゆえに、最後に老トレーナーがとった行為は、決して社会的倫理的に“許されざるもの”ではあり得ない。あれは、まさしくひとつの、絶対的な「愛の行為」であり、ふたりが“ひとつ”になった瞬間なのだ。  そう、これは74歳のイーストウッドだからこそ撮れ、演じ得た、唯一無二のラブストーリーである。ただただ、素晴らしい。
[映画館(字幕)] 10点(2005-05-31 14:06:03)(良:8票)
83.  アビエイター 《ネタバレ》 
確かに「失敗作」と呼ばれても仕方のなかった(けれど、ぼくは大好きです)スコセッシ監督の前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』に比べる時、いかにも楽しんで撮っている高揚感が伝わってくるぶん、楽しく見ることができた。言うなればこの映画、往年のジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『イブの総て』や『裸足の伯爵夫人』を想わせる人間ドラマと娯楽性のバランスにおいて、最近のアメリカ映画じゃ最も「上質」な部類の大作だとは思う。けれど…  冒頭に置かれた、幼いハワード・ヒューズとその母親の奇妙なエピソード。それは、後年のヒューズが悩まされた激烈な強迫神経症の「原因」を暗示(というより、むしろ“明示”)するものだ。と同時に、彼の映画と飛行機と女性遍歴をめぐる冒険への度を越したのめり込みを、すべて母親である彼女の影響下によるものだと「分析」するものとしてあった。そのシーンがラストにもう一度登場する時、この映画が、「映像と航空機とセックスの世紀」である20世紀の象徴的人物を精神分析し、その<臨床例>をめざしたものであることをぼくたちは了解するのだ。言い換えるならこれは、ヒューズという人物の「伝記」というより以上に、彼を通じて「20世紀」という時代を“診断(!)”することをめざされたものに他ならない。  ただ、ハワード・ヒューズを単なる“マザコンの卑小な神経症患者”に過ぎない…というのが言い過ぎなら、彼をあまりにも「現代」の戯画(カリカチュア)として描くことは、一方で作品そのものを“矮小化”することにつながらないだろうか? つまり「心理」や「内面」を分析し説明しすぎてしまうことは、映画を、ひいては芸術というものをただの「人間主義的なスケール」に陥れることになりかねない…。  思えば、映画の冒頭に母親を持ってくる点をはじめ、この映画は『市民ケーン』をほうふつさせるところがある。けれど、あそこでウェルズは、主人公の新聞王と母親の関係を決して分析したりしなかった。そして映画の最後に、あの名高い「バラのつぼみ」として明かしてみせたのだった。…そういうハッタリこそが、この映画には、というかスコセッシ監督には決定的に欠けている。  同じハワード・ヒューズを描くものなら、たぶん『ロケッティア』というほとんど忘れ去られたSF冒険映画の方が、はるかに「神話的」かつ「映画的」だとぼくは思う。…
[映画館(字幕)] 7点(2005-05-23 20:49:18)(良:1票)
84.  村の写真集
映画の終盤近く、ダムに沈む村の人々を写真に撮り続ける父と息子が、山道で立ち止まってふもとの景色を眺める場面があった。そこには、山々に抱かれるようにして村落が広がり、いろんな生活風景が繰り広げられている。農作業に勤しむ老人、洗濯物を取り入れる主婦、学校帰りの子どもたち、自転車をこぐ女子高生、散歩する犬、…。そのひとつひとつを、画面は衒いなく、ただ丁寧に映しとる。そしてぼくという観客は、このなんでもない短い場面に途方もなく魅せられ、いつしか涙ぐんでいる…。  そう、これは、何よりも「風景」の映画だ。徳島の山深い自然の風景ばかりでなく、たとえば人間の日々の生活や営みをも「風景」としてとらえ、見つめるまなざしによって創られた映画。父と子、家族の葛藤と和解を主題としながら、それすらも「風景」のなかの点景として描く映画なのだ。しかも、決して高みから見下ろすような(ある種“傲慢”な)「神の視点」なんかじゃなく。  そんな、「人間」をも「風景」のように見つめること。日が昇り日が沈み、風が吹き木立を揺らすようにして“時間(とき)”が過ぎるごとく、人は生き、やがて死んでいくことを、ひとつの「風景」としてスクリーンに映し出そうとすること。…その時、この映画は、大げさじゃなくひとつの<コスモス(=宇宙・調和・摂理)>をフィルムのなかに創造し得たのじゃないか…と、ぼくは思う。  繰り返すが、それは決して「運命」だとか「死生観」だとかといっただいそれたものじゃない。それは、慎ましい人生の哀歓を、「物語る」のではなくそっと「見つめる」ことで成立していたかつての日本映画のように、ささやかだけれど美しい「風景」それ自体なのだ。  …かつて本作の三原監督が、『風の王国』で福岡アジア映画祭でグランプリを受賞した時、その作品を強く推したのが台湾の候孝賢だったという。彼もまた、「人間」を「風景」のように見出し、映し出す監督に他ならない。そう、『村の写真集』は、たとえるなら候監督の『恋恋風塵』のように美しい映画なのである。 拍手!
[試写会(字幕)] 10点(2005-05-17 21:21:53)(良:2票)
85.  真夜中の弥次さん喜多さん 《ネタバレ》 
見終わって、しばし絶句。思わせぶりなモノクロ映像から始まるものの、その実まるで陰影のないペラペラの画面。もはや“破綻”などということ自体が空しくなるほど、いきあたりばったりの展開。意味深のようで、いきなりナ~ンチャッテと足下をすくわれるだけでしかないエピソード。テレビの最悪な部類のバラエティ番組に比べても「笑えない・面白くない・痛い」コント風の意味不明なシーンの数々…。なんだコリャ、悪い冗談か? と思われても仕方あるまい。  しかし、ここまで見る者に居心地の悪い思いをさせつつ、その“居心地の悪さ”には、一方で不思議な切実さというかなまなましさがある。そう、もはや失笑すら出ないような、ほとんど“不愉快”なまでのこの映画が持っている<感触>を、ぼくたちはすでに知っているじゃないのか。何故なら、それはぼくたちがこの「現実」を生きていく上で多かれ少なかれ常に感じている<感触>、笑えないコントの連続めいたリアリティの希薄なこの「現実」そのものの感触に他ならない…。  主人公の弥次さん喜多さんが、何を求めて旅を続けていたかを思い出そう。彼らは、すべてがナンセンス(=無意味)な“この世”にあって本当の「リヤル」を探していたのだった。その時、そんな二人をとりまくナンセンス(=馬鹿馬鹿しい)な事件や脱力ものの展開は、カタチこそ違えど、家庭で、学校で、職場で、あるいはこの社会のどこであれ、日々ぼくたちが遭遇し、感じているあの「気分」…リアルなものの薄っぺらさや嘘っぽさを、これ以上なく「リヤル」に表象したものとして迫ってくるのだ。  監督・脚本のクドカンは、はじめから「良い映画」なんて撮ろうなんて思っちゃいない。彼はこのフィルムに、この今という「現実」そのもの(の「気分」)だけを切り取り(=撮り)、映し出そうとした。不快で不愉快でまったりと希薄なその<感触>を、そのままこの男の「天才」はフィルムに描きとったのだ。…もしアナタがこの映画を見て不快や不愉快な思いにとらわれたなら、それは間違いなくこの映画における「正しい」見方なのです。ぼくたちは、こんな不快で不愉快な「現実」を生き、でもどこかで本当の「リヤル」を夢見て生きている。そう考えると、とても「泣ける」映画じゃありませんか…いや、マジで。
[映画館(字幕)] 10点(2005-04-19 21:47:26)(良:2票)
86.  新ドイツ零年
主人公のレミー・コーション(主演のエディ・コンスタンチーヌは、ゴダールの『アルファヴィル』でもこの“レミー・コーション”役を演じている。そこでは「探偵」として、だったが)は、東ドイツに何十年も潜伏していた西側のスパイ。しかし社会主義体制が崩壊し、東西ドイツが統一されたことで自らの「存在理由」を喪い、かつて自分が属していた[場所(=世界)]へ戻ろうとする…。  この映画を見て、まず何よりも鮮烈に印象づけられるもの。それは、主人公の「孤独」の深さだろう。かつて『アルファヴィル』において、「言葉=思考」を人々から奪い絶対的服従を強いる全体主義世界を破壊し、アンナ・カリーナ扮するヒロインとともにさっそうと車で画面から消え去っていったレミー・コーション。その“英雄”がここでは、まったく役立たずの老スパイとして登場する。しかも、その任を解かれた今となっては、彼という「存在」はまったくの無に等しい。これまでの何十年かが、ベルリンの壁が消え去ったのと同時に“零”となってしまった。もはや彼は何者でもなく、何物も持ってはいない。その深い、深い「孤独」こそが、本作のトーンを決定している。  実際、この映画は1980年代以降のゴダール作品にあって、最も沈鬱で、内省的で、夢想的だ。レミー・コーションの独白(モノローグ)は、そこで何が語られているかではなく、その言葉がどこへも行きつかず、誰によっても受け止められないことの悲哀によってこそ「意味」を持つだろう。彼は、車ではなく徒歩によって移動する。おぼつかない足どりで、凍った湖を渡り、息をきらして道ばたにへたり込む。その歩みに過去の映画の断片や歴史的映像がコラージュされる時、映画は、この老いた男こそがドイツの、ひいては西欧の「歴史」そのものの[アレゴリー(寓意)]であると観客に示そうとしているのだ。東西ドイツの統一に湧く当時にあって、そっと西欧の“黄昏”を奏でるゴダール。だからタイトルの「零年」とは、“終わりの始まり”を意味するのに違いない。  そしてそういったこと以上に、ここにはゴダール自身の心情が、その「孤独」が、これまでにないほど吐露されているのだと思う。…映画の中で、「帝国は唯一であることをめざし、人は二人でいることを夢見る」というような台詞があった。「孤独」を定義するのに、これほど美しい言葉をぼくは知らない。
[映画館(字幕)] 10点(2005-03-31 19:28:45)(良:3票)
87.  ラブ・アンド・ウォー
劇場公開当時に見たっきりなので、きちんとしたレビューが書けそうにありません。でも、少し思うところがあるので、ちょっとだけコメントさせてください。  …この映画で未だ印象に残っているのは、サンドラ・ブロック扮する看護婦が、常に“小声”でしゃべっていたことです。いや、彼女だけじゃない。年下の青年ヘミングウェイも、その他の登場人物も、誰もが決して大声を出したり、怒鳴ったりしなかったんじゃないか。第1次世界大戦の戦場を舞台としながらも、そこでは、みんなが小さな声で愛を告白し、喜び、嘆き、生き、死んでいく…。まるで、人々がすべておのれの「運命」をあらかじめ知り、受け入れているかのような、そんな小声。そしてそこから醸し出される、不思議な哀しみの感情。  たぶんそれは、この映画の物語が、ヒロインである看護婦の視点から描かれているからだろうと思います。それも、遠い昔の出来事として振り返る者のまなざしによって。  …単に懐かしいんじゃなく、今も悲哀と心の痛みをともなった「過去」を想い返すとき、それはきっとこうした“小声”の光景に他ならない。大声で泣いたり、わめいたりするより、こんな風に静かな声で語られる「過去」の方が、より深く、哀しく、その感情を伝えられるのではないか…。  ちょっとだけ、と言いながら例によってまた長くなりましたが(笑)、ぼくにはこれが、そういった“小声”のデリカシーを持った最近では稀有な映画だという「感動」が今なお鮮明に残っているんです。美しいメロドラマだと想います。
8点(2005-03-25 12:08:40)
88.  火星人地球大襲撃 《ネタバレ》 
【なにわ君】さん、ぼくはかなり以前に見たっきりですけど、この映画が大好きなんです! 地下鉄工事現場で謎の宇宙船が発見され、触れた者は奇怪な幻覚に錯乱状態になるという序盤から、何となく『ミミック』を想わせるサスペンスフルな趣にもうワクワク・ドキドキ。やがてその幻覚が火星人の「思念パワー」によるもので、宇宙船の中から巨大な昆虫型の火星人の死骸が現れ、博士が火星での「最終戦争」のカタストロフィを“幻視”するあたり、「ああ、エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』でもこの設定を頂戴していたっけ」と、もう完全にストーリーに没入。そして火星人の思念パワーが全開となり、ロンドンの街に邪悪なエネルギーが実体化して人々を狂乱させるクライマックスは、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』と同じじゃん! と大興奮でありました。何より、あのゆらゆらとそびえるエネルギーの塊の、実に「悪魔」的な視覚イメージの卓抜さ!  そう、このたいして予算もかかっていそうにないSFスリラーは、前述の通り、その後に作られた数々の大作映画の「原典(オリジン)」として、未だその魅力を喪っていないとぼくは思っています。いわゆる「侵略ものSF」でありながら、エイリアンを未知の怪物とせず、“攻撃本能”と“憎悪”の感情の増幅されたもの、とするあたり、これがまぎれもないH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の、巧妙な翻案であることを証明するものでありましょう。そしてウェルズの小説が、戦争と破壊の「黙示録的世紀」だった20世紀への予言と警鐘として読み得るように、この映画もまた、ひとつの「アポカリプス」の現前化として創られていることを、ぼくは信じて疑いません。  …クライマックスで、あの巨大なエネルギーの塊を「アース線」の原理で“消滅”させるあたりも、戦いの神「マルス(=火星)」に対する地球(=アース)の勝利を謳う《寓話》としてお見事! 怪奇ゲテモノ映画専門のハマー・フィルム製作であるこの作品、なかなかどうしてスミに置けない小さな大傑作だと思いますですよ。
8点(2005-03-23 14:16:52)(良:1票)
89.  ビフォア・サンセット 《ネタバレ》 
映画の初めの方で、ほんの少しだけ前作『恋人までの距離《ディスタンス》』の映像が登場するところがある。そこには9年前のイーサン・ホークとジュリー・デルピーがいて、やはり若いというか、初々しい。その後、あらためて画面に現在のふたりが映し出される時、ぼくたち観客もまたある深い感慨にとらわれるだろう。「ああ、あれから本当に9年たったんだ…」と。  9年前に出会ったアメリカ人青年とフランス娘の、パリでの再会を描く本作。映画の中のふたりも、演じるイーサンとジュリーも、それぞれ9年という歳月を経てきたことを、この10秒にも満たない前作のインサートによって実感させる。それだけで、いとも鮮やかに虚構と現実それぞれに流れる“ふたつの時間”を重ねるのだ。あわせてこの作品は、85分という上映時間と物語の進行をシンクロさせるという“離れ業”を実現してみせる。今は作家となったイーサン・ホークがパリを発つまでの85分間を、映画はきっちり85分で描いてみせるんである!  …この「演じる役者/演じられる登場人物」、「映画の上映時間/映画の中の時間」という“現実と虚構”の境界線を曖昧化することで、そこには、「真実味(リアリティ)」という以上の「リアル」が実現されているだろう。イーサンとジュリーはただこの役を演じていうのじゃなく、この役を「生きている」という…。その上で、映画の中のふたりが「9年間」という《ディスタンス(距離)》を「85分間」で埋めることが出来るかどうか、観客もまた固唾を飲んで見守り続けることになる。それはどんなサスペンス・ドラマよりもハラハラさせられ、またどんな人間ドラマよりも人生の“真実(リアル)”に満ち、さらにどんなラブストーリーよりも“恋愛(あるいは、男と女)”そのものの核心を、ぼくたちに見せて(=教えて)くれるに違いない。  そして見終わった後に、ぼくたちはきっと確信する。イーサン・ホークとジュリー・デルピーのふたりは、間違いなく「映画史上最高のカップル」である、と。何故ならこのふたりは、この現実においても間違いなく「最高のカップル」に違いないのだから。…少なくともこの映画を見たアナタなら、その一点においてきっと誰もがそう思ったことでありましょう。  …でも、ジュリー・デルピーLOVEな小生にはツライ映画だったよぉ~。何でユマ・サーマンと別れたんだよぉ、イーサン・ホーク!(笑)
10点(2005-03-22 16:44:50)(良:1票)
90.  怪人プチオの密かな愉しみ
第2次世界大戦下のパリに実在した、医者のプチオ先生。ユダヤ人の亡命を手助けすると言っては彼らを騙し、次々と殺害しては金品を盗む…といった最低の殺人鬼であります。しかもこの大先生、ワクチンと称して遅効性の毒薬を注射し、のぞき穴から被害者の苦しみもがく姿を嬉々として眺めるのが何よりの愉しみ。そして遺体を焼却炉で焼き、残された遺品に高価な品があるとウヒャヒャとばかりに踊り出す始末。全編にわたって、映画は彼のこうした鬼畜ぶりの繰り返しなんですよね。…そして見ているぼくたちは、いったい人間とはここまでハレンチなまでに良心をなくし、ほとんど滑稽なまでに「残忍」になれるのかと、思わず茫然自失してしまうこと間違いなしでありましょう。  ただ、それだけのことなら、『主婦マリーのしたこと』や『ルシアンの青春』をはじめ、単なる“占領下のフランス人裏面史もの”のひとつにすぎない。フランス映画には、自国の「レジスタンス神話」の欺瞞をあばき、自分たちの戦争犯罪に向き合おうとする一連の映画や小説などが存在していて、これもその、かなり地味でマイナーな1本であるには違いありません。  けれどこの映画が本当の意味で衝撃的なのは、主人公のプチオ医師の行為を、まさにナチスによるユダヤ人完全抹殺計画(ホロコースト)の完璧な「アナロジー(類似)」として描こうとしていることでしょう。あの人類史上に例のない大虐殺は、何もナチスという集団だけの“例外的な狂気”によるものものじゃない。このプチオみたく、個人の欲望のなかにすでに存在するものとしてある…。つまり、「ホロコースト」は誰の中にも起こしうる可能性(!)があること、ひいてはナチスの虐殺に対して万人が決して「無関係」ではあり得ないことを、この映画は、卑小な殺人鬼の姿を通じてぼくたちに突きつけている。…ほら、アウシュビッツの責任者だったアイヒマンだって、“素顔”は平凡すぎるくらい平凡な人間だったじゃないか、と。  正直言って、映画としてはミシェル・セローの悪趣味なまでに誇張された演技が、ブラックなユーモアを漂わせていること以外、見ていて「面白い」と言える代物ではありません。が、ほとんど露悪的なまでに人間性の根源的な「悪」を凝視した監督のまなざしの仮借なさを、ぼくは高く評価したく思います。確かに「つまんない(!)」映画だけど、刺激的です。 一見をおすすめします。
9点(2005-03-07 16:07:17)
91.  ニワトリはハダシだ
本作の監督さんである森崎東の映画には、どんなに深刻な状況や主題(例えば「原発」やら「差別」など)を描く時でも、常に〈喜劇〉であろうとする“意志”というか“心意気”を感じさせる。社会の底辺や、社会からはみ出して生きざるを得ない人々が多く登場する森崎作品は、そんな人々の抱える悲惨さや「問題」ではなく、彼らの生きる熱気を、そのバイタリティこそを見つめようとする。虐げられた人間にも、おかしければ笑う自由(!)はあるし、耐え忍ぶんじゃなく思いっきり泣く、罵る、暴れまくる権利(!)がある! …それが森崎流の「人間喜劇」の真髄なのだと思う。彼の映画には、文字通りそういう人間たちのエネルギーこそがみなぎっている。  『ニワトリはハダシだ』というタイトルからも、そういった、この監督ならではの精神が息づいている。そう、ニワトリがハダシなら、人間はハダカだ! 「問題」や困難に直面すればするほど、われわれはハダカになって、つまり何一つ隠すことなく思いっきり泣いたり、怒ったり、笑ったりするんだ! …と。なるほど、確かにここでは驚異的な記憶力を持つがゆえに、偶然見つけた国家的スキャンダルにつながる裏帳簿を記憶してしまい、警察と暴力団の両方から追われる知的障害者の少年とその家族(しかも母親は「在日」二世でもある)の受難が描かれている。しかしそこには「社会派」風のメッセージやもっともらしい告発の姿勢じゃなく、少年一家が力の限り怒り、恐れ、立ち向かい、最後には朗らかに笑いあう姿ばかりがあるだろう。そこでは笑いと涙が、暴力と慰安が、憎悪と愛が、至るところで“衝突”しあうことで「ドラマ」が生まれる。その集積が、この、渾沌としていながらどこまでも清々しく、〈生〉への大いなる肯定に満ちた、美しい映画なのである。  最後に、出演者はみな素晴らしいものの、中でも新人の肘井美佳(まるで相米慎二監督の映画における薬師丸ひろ子のようだ!)と、倍賞美津子のオモニ(母親)役の李麗仙に、ぼくは深く心打たれ、魅せられたことを付け加えておきましょう。
9点(2005-02-24 11:54:57)(良:2票)
92.  アレキサンダー 《ネタバレ》 
何なんだ、この“居心地の悪さ”は…。  まるで「新派悲劇(!)」のように大仰な役者たちの演技。「引き(ロングショット)」も「寄り(クローズアップ)」もほとんど考えてないかのような、一本調子のキャメラ。10何年という遠征の長さをまるで感じさせず、さらにはアレキサンダーの父王暗殺シーンの“場当たり的”な挿入や、ラストの、アンソニー・ホプキンス扮するプトレマイオスに語らせた言わずもがなの“仰天発言”などなど、一種ア然とさせられるストーリーテリングの朴訥さ。…その他、まるで「映画がやってはいけないこと」を、あえてと言うか、わざとやっているかのような感じなんですよね。  確かに戦闘シーンなど、予算をかけただけのことはある壮麗さだと認めつつ、みなさんご指摘の通り『ロード・オブ・ザ・リング』や『トロイ』などの後だと、やはり二番煎じの感はまぬがれない。しかもインドの密林におけるそれなど、まったく『プラトーン』のベトナム戦争と同じ撮り方(画面が真っ赤になるソラリゼーション処理は『ドアーズ』か…)で、斬新であるよりも、オリバー・ストーン監督の才能の「枯渇ぶり」を印象付けるんじゃあるまいか…。いったい、これが本当に「ストーン監督の生涯の企画」だったのかと疑いたくなったのは、ぼくだけ?  が、もはや「失敗作」ですらないこの映画を茫然と見続けながら、その画面の向こうに、ただ途方に暮れているオリバー・ストーンの姿がありありと浮かんでくる。何が「原因」かは分からない。けれど、とにかく本作におけるストーンは、『JFK』などのようなふてぶてしいまでの自信や強引さ(そして、それゆえの嫌らしさ)を、ほとんど微塵も感じさせない。彼らしいこれみよがしなあざとさを喪失したこの“脆弱”な超大作は、だからこそぼくのような「ストーン嫌い」な観客にとって、逆に不思議な「感銘」を与えるのも確かなのだ。…そう、一抹の悲哀とともに。  と、書いて、これと同じ気持ちを前にも抱いたことがあったことを思い出した。そう、これは、マイケル・チミノ監督の『天国の門』を見た時と同じだ…
[映画館(字幕)] 5点(2005-02-16 14:40:26)(良:1票)
93.  アルマゲドン(1998)
これをリブ・タイラー出演シーン中心にまとめ直し、あのムサイ男優たちのクサイ熱演ぶりを極力削って、無理矢理にでも感動させよう&カッチョイイ映像で決めようとしていることがそもそも救いがたくダサイ演出部分を編集でカットしたなら、文句なく10点を献上いたしましょう。  それくらい、本作のタイラー嬢は美しい。あのほんのりと赤みのさした頬(しかもテレビじゃよく分からないけれど、映画館で見た時は、まだ桃のごとく産毛が残っているそのみずみずしさに陶然としたものだ…)も、じっと真直ぐ見据えられた意志的て大きな瞳も、すらりと長い手足をもてあますかのような立ち姿も、何よりあの、アンジェリーナ・ジョリーのごとき時にエゲツない“攻撃性”とは対極にある、無防備なまでに優しく柔らかなくちびるも、この映画においてひときわ魅力的に思えたのだった。それは、たぶん、きっと、それなりに迫力があるものの所詮はそらぞらしい「絵空事」のCGによるカタストロフィ場面を含め、映画自体があまりにもぼくという観客にとって「どうでもいい」程度の代物でしかなかったからだろう。他に見るべき部分が何にもないものだから、逆にリブ・タイラーだけを心置きなく愛で、慈しむことができたという…  それにしても、男ならなんでリブ・タイラーを残して、ブルース・ウィリスはじめあの汗臭いオヤジどもと宇宙なんぞに行けるものか!(あの女性飛行士は、ちょいとソソッたけど・笑) ぼくなら間違いなく彼女と抱き合いながら「アルマゲドン(終末の時)」を迎えるぞ! それこそが男の“本望”ってもんだろっ、ベン・アフレック! こんなに魅力的な女優を出演させといて、「つまらん“男気(「ヒロイズム」ともいう)”なんか、糞食らえ!」という映画を作れないところが、まあ、ブラッカイマーという御仁の“限界”なんでありましょう。  もう一度言っておこう。この映画のリブ・タイラー(だけ)は、何度も何度も見るに値する。というワケで、前言を撤回して(彼女のためだけに)満点献上!!!    《追記》一夜明けて冷静(?)に考えたなら、やはり「10」はあまりにもあまりですかね。イイカゲンですみません m(_ _)m
3点(2005-02-09 16:45:38)(笑:2票)
94.  マイ・ボディガード(2004)
トニー・スコットという男、何となく「リドリー・スコットの“不肖”の弟」だの「ジェリー・ブラッカイマーの御用監督」だのと簡単に片づけてしまえるほど、実は馬鹿にしたもんじゃない。彼は、プロデューサーが期待した通りの「娯楽映画」を撮る技量において、少なくともマイケル・ベイあたりの、やたらキャメラを何台も使ってフィルムを浪費し、編集で誤魔化すばかりの「撮影のイロハも知らない」輩とは一線を画す。少なくとも役者の動かし方(たとえば本作で何度か繰り替えされる、デンゼル・ワシントンがあてがわれた部屋にダコタ・ファニングやその母親が訪れる場面。それが、どれも同じような構図でありながら、役者たちの立ち居振る舞いの的確な押さえ方によって、それぞれにまったく異なる主人公の感情を、その内面の動きを観客に伝える。確かに↓の【まぶぜたろう】さんのご指摘の通り、「やる時にはやる」んである)において、トニーはリドリーをはるかに凌駕しているとすらぼくは信じている。  けれど、タランティーノが「旬」となればそのセリフのグルーヴィ感やら香港映画テイストを。今回なら『アモーレス・ペレス』や『21g』のアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の時制を前後させたストーリーテリングや映像の質感を頂戴する。といった、そのときどきの最新流行の“意匠”を取り入れる「軽薄さ」がまず恥ずかしい。そこに断じて必然性はなく、単なる“ファッション(衣装)”でしかないんである。そして言うまでもなく、単なるものマネであることでその作品は、観客の眼にふれる時には決定的に「古い」のだ。いったい、古くなった「流行」にどれだけの価値があるだろう?  さらに決定的なのが、ワイドだろうがヴィスタサイズだろうが、彼の映画は常に構図が画面の中心を基点に収められ、ちっとも空間的な広がりを感じさせないこと。及び、人物を撮る時の、ミディアムショットとクローズアップの中間みたいな位置取りが、実に居心地悪いってこともある。もちろん、それはぼく個人の感覚というか生理的なものかもしれない。ただ間違いなく言えるのは、かれの映画がテレビ用にトリミングされても、ほとんど影響がない(!)ってことだ。逆に言うなら、彼の映画はテレビのモニターこそがふさわしいスケールとして矮小化されている…。  でも、そうかぁ、ハスミシゲヒコ先生は「高く評価」してるんすかぁ。
6点(2005-01-29 18:00:02)
95.  ターミナル 《ネタバレ》 
別にトム・ハンクスが出演して、「空港」が重要な舞台になっているからと言うんじゃないけれど、この映画はやはり『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』との関連で語られるべきなんだと思う。設定も、物語にも、何のつながりはない。でもこの2本は、ひとつの〈主題〉において連続している。つまり、〈父〉という主題において。  あの作品のディカプリオ演じる主人公は、実の父親を“捨てる”ことで、トム・ハンクス扮するFBI捜査官という理想的な「父親(的存在)」を得る。つまり主人公は、父親を心の中で「殺す」ことによって、ようやく立ち直ることができたのだった(その後、主人公の父親は本当に死んでしまう…)。そして今回はトム・ハンクスが「息子」を演じ、亡き父親とのある“約束”を果たすために、空港内で何ヶ月も足留めを食らうという不条理な悲喜劇をサバイバルしていく。あきらかに『キャッチ・ミー~』で見捨てた父親との“和解”こそが、この映画ではめざされているのだ…(そう考えたなら、なぜキャサリン・ゼタ=ジョーンズの客室乗務員とのロマンス部分があれほど“淡白”な描かれ方だったかが、納得できる。あの老インド人同様、彼女もまた「自己犠牲」によって主人公を救う、人間の“善意”の象徴であり、こう言って良ければ主人公の「主語天使(!)的存在」として配されていたのだと)。  少年時代、母親が弟と妹を連れて家を出たというスピルバーグ。「自分は捨てられた」、という悲しみと、残された父親との確執は察するにあまりある。そして彼は、そういった心象を常に密かなモチーフとして、自作品にしのばせてきた。特に近年の作品には、ますます私小説ならぬ「私映画」的傾向が色濃くなってきたように思える(たとえば、“母に捨てられた子ども”の物語としての『A.I』…)。しかも、それをあくまで大ヒット狙いの商業映画として成立させようとしているところに、ヒットメイカーとして宿命づけられた彼の“困難さ”があるんだろう。でもぼくは今回のこの映画を、ひとりのアダルト・チルドレン(!)だった監督による、おかしくて悲しい、けれど「救い」に満ちた美しい〈ファミリー・ロマンス(家族の精神史〉だと信じて疑わないのです。
8点(2005-01-21 17:26:02)(良:2票)
96.  Mr.インクレディブル 《ネタバレ》 
世論の圧力(!)で引退を余儀なくされた元スーパーヒーローが、夜な夜なかつての仲間と人命救助なんかをコソコソとやっている…。このくだりに大笑いしながら、確信しましたです。うん、間違いない、これは単なるアニメを超えて、現代アメリカ映画におけるエポックメーキングたり得る大傑作だ! と。  正義のヒーローが、その圧倒的なパワーゆえに人々から敬遠され、“リストラ”される。誰もが「平等」であるべき社会にとって、彼らは許されざる者たちだっ! …これまで、ヒーロー礼賛を繰り返して飽くことを知らなかったアメリカ映画にあって、こういうカタチでその存在を“否定”する作品が(それも「子ども向け」アニメで!)現れるなんて。しかも、スーパーパワーという「個性」の発揮を抑圧された弟の鬱屈や、その「個性」ゆえに“自分は他の人と違う”と引っ込み思案な姉、そして、そんな夫や子どもたちに頭を悩ませる妻…と、ここには、思春期の問題やら、個性の画一化やら、家庭の事情といった、様々な〈主題〉が見事に織り込まれ、それぞれの日常がきっちりと画き込まれている。繰り返すけれど、それもあくまで「(一応は)子ども向け」アニメーションとして、だ。  彼らを危機に落とし入れる、主人公の崇拝者だった元「オタク」少年の屈折したキャラクターを含め、本作の人物造型は、昨今のどのジャンルの作品以上に錬り込まれ、アニメ的誇張を施されているとはいえ「リアル」な説得力に満ちている。その上で、アクション/ファンタジー/アドヴェンチャーの面白さを損なうことなく、万人向けのエンターテインメントとして成立させた、その何という力わざだろう。  「家族愛」と言うより、これは正しく「個性的であること」、それを発揮できることの大切さを、きわめてソフィスティケートに展開してみせた映画に他ならない。…どなたかもおっしゃっておられたように、ぼくも、ブラッド・バード監督はこの作品によって完全に「宮崎駿を越えた」と思います。脱帽!!
10点(2005-01-21 12:58:21)(良:6票)
97.  冒険者たち ガンバと7匹のなかま 《ネタバレ》 
このアニメがテレビ放映されていた時、熱狂しつつ見ていました。で、改めてその総集編といった劇場版を見直して思ったのは、その絵のタッチの斬新さ。まるでエッチングのような線描画めいた背景は、色彩も、遠近感も、極端に簡略化と誇張が施されている。そこを愛らしいネズミたちや、十分に禍々しさを感じさせるイタチたちなどのキャラが、ストップ画を多用しながらも驚くほどダイナミックに動き回っているあたり、作画と演出は自らのセンスにこだわりつつ、あくまで「子ども向きアニメ」である一線を越えるぎりぎりのところで作品を成立させている。確かにダイジェスト風ではあるものの、苦難の旅をへて7匹のネズミたちが、イタチによって全滅の危機にある島のネズミたちを救うといったプロットに絞り込んだ構成は、1本の作品としても十分まとまっている。いたずらに衒学趣味に走ったり、キャラクターを特化することで“萌え”ることのみがすべてといった「オトナ(と言うより、大きなお友達)だまし」なアニメとは違う、作り手がおのれの全力を注いで「子どもたち」に勝負を挑む本作を、今さらながら高く評価したいと思う。
8点(2005-01-05 18:23:31)(良:2票)
98.  The Man I Love(1946)
欧米では、マーチン・スコセッシ監督の『ニューヨーク ニューヨーク』の元ネタ映画として有名な本作。日本では未公開であるものの、小生は20数年前に地元TV局の放映によって見ました(で、その時に録画したビデオで再見)。その際の放映題名は『哀愁のメロディ』。ただ、このタイトルでの記録がまったくないので、原題のまま新規登録した次第。どなたか、何か情報をお持ちの方おられませんか…。  内容はと言えば、ヤクザなクラブ経営者から弟と妹を救うために、あえてその店の歌手となるヒロインの恋と人間模様を描くメロドラマ。妹の亭主は戦争後遺症で入院中だし、弟はヤクザ世界に憧れて裏社会に足を踏み入れようとしている。そんな彼らをまとめて面倒みようとする、鉄火肌の姉(というより、まさに“姐さん”)。この酸いも甘いも噛み分けたクラブ歌手を演じる、アイダ・ルピノがまず素晴らしい。冒頭、親しいミュージシャン仲間と音合わせする場面では、大人の女としての艶っぽさと剛毅さを漂わせて貫禄十分。ロバート・アルダ扮するヤクザなクラブ経営者と渡り合うあたりも、色目を使う男に毅然としつつ、つれない仕種が、粋っちゅうか、見事ないなせっぷりちゅうか。それが、ピアニストくずれの船乗りに恋したとたん、彼の前では一途で可愛い女になるあたり、もう泣かせるのなんの。…ああ、まるで『非牡丹博徒』のお竜さんじゃないか!  こういう、「大人」のオンナとオトコの機微や人情を描く時のラオール・ウォルシュ監督は、間違いなく我が日本の加藤泰に通じる濃密さとあだっぽさを醸し出す。特にクラブ店内の場面など、テレビの小さな画面からでさえ煙草とアルコールの匂いが漂ってきそうな雰囲気を作りだしている。ガキの映画ばかりがまかり通る昨今を思う時、映画とは洋の東西を問わずどんどん幼稚化していることは、やはり間違いないらしい。  惜しむらくは、ぼくが見たテレビ放映版では、音楽場面の多くがカットされているらしいこと。ぜひ完全版を見たいと思わせる(その時は、必ず満点を献上するであろう)、これはヴィンテージものの1本であります。
9点(2005-01-05 17:16:51)(良:1票)
99.  命ある限り(1949) 《ネタバレ》 
舞台は、戦争が終わって間もないビルマの野戦病院。その一室で帰国の時を待つ連合国の兵士たちは、リーダー格のアメリカ兵をはじめヤンチャ坊主のよう。そして、彼らを見守る美しく聡明な看護婦は、憧れの女教師といったところか。そんな彼らのところへ、誰にも心を閉ざしたスコットランド兵が送られてくる。さあ、ますます「学園ドラマ」風になってきたぞ。彼は、自分が余命いくばくもないことを知らない。この偏屈者で困った“転校生”の残りわずかな生を何とか幸せなものにしてやろうと、心優しきヤンチャ坊主どもの奮闘努力がはじまった…!   原作は舞台劇ということで、役者たちのアンサンブルが主体。確かに映像的な面白味には欠けるかもしれない。けれど、この作品全体から発散される「健康さ」はどうだろう。その屈託のない笑顔が素晴らしくチャーミングなロナルド・レーガン(!)をはじめ、「内面」を演じることが優れた演技だとするスタニスラフスキー・システム風の演技にまだ“毒されていない”俳優たちの、すがすがしい佇まい。そんな彼らを常に複数で画面におさめるため引き気味に置かれたキャメラと、思わせぶりな陰影など邪魔だと言わんばかりにたっぷり注がれたフラットな照明。今じゃ少年マンガですら取り上げられない「友愛」という主題ひとつをストレートに押し通すことで1本の映画を創ってみせた演出の、控えめな、だが慎ましい“野心”。…どれをとっても、そこには心洗われる清潔感とまっとうさがある。  1930年代の黄金期も過ぎ、やがてテレビの台頭で衰退期を迎える映画。それが決定的になる1950年代の直前に製作された本作は、たぶん映画が「健康」であり得た最後の時代の産物であり、“証人”だ。ぼくたちがこの地味な作品を見て、今なお感動し心打たれるのは、きっとそういった「健康さ」こそがもはや失われてしまった映画の「本質」のひとつだからに違いない。  映画の中で、スコットランド兵にみんなが贈った民族衣装のスカート(「キルト」でしたっけ?)。アメリカ兵たちは、「あの下に、下着をはいているかどうか」でスッタモンダする。で、最後の最後に彼らは「答え」を知るんだけど…ズルイぞ、観客にも教えろよっ!(笑)
8点(2004-12-28 18:04:07)
100.  恋は舞い降りた。 《ネタバレ》 
生死の境をさまよう唐沢寿明の主人公に、玉置浩二扮する死神(天使だっけ?)が、「これから最初に言葉を交わした女性を幸せにすると、あなたは生き返れます」と言う。で、その相手が、江角マキコ扮するバツイチ女…。でも、その時の唐沢寿明は、生きている人間には姿が見えないハズじゃないの? この明らかな“設定上のミス”あるいは説明不足に「あ~あ」と思う向きは、以後この映画のアラばかりが目についてしまうに違いない(事実、アラが多いのだから…)。  じゃあ、こう見方を変えてみよう。唐沢と江角の出会いそのものが、玉置の死神だか天使の仕組んだことだったとしたら? …と。 映画の中じゃまるでそういった説明や暗示すらないけれど、たぶん間違いないっ! そう考えることで本作は、「出来損ないのファンタジー」から「心優しいクリスマス映画」へと様変わりしてくれるでありましょう。  そう、不幸な男女が、運命(というか、それを操る神様や天使や“優しい”悪魔)の悪戯でスッタモンダの末に幸せを掴む。そんなささやかな“奇跡”を描くのが「クリスマス映画」と定義するなら、本作は日本映画史上最も正統的(!)な「クリスマス映画」だ。幼い頃、母親に捨てられた記憶から、愛を信じられない売れっ子ホストの主人公と、ダンナに浮気されて別れたヒロイン。共に愛することに臆病なふたりは、ハチャメチャな珍騒動を繰り広げつつも少しずつお互いの心を開いていく。その様子をヴィヴィッドに見つめていく眼差しは、「ああ、映画だなぁ…」という瞬間をいくつもぼくたちに用意してくれているのだ。いや、ホンマに。  つかこうへいゆかりのスタッフ・キャストが揃った本作には、確かに「小劇場っぽさ」が、例えば唐沢のセリフ回しなどにもうかがえる。けれど主人公が、今は社宅の賄い婦をやっている母親にそっと会いに行く場面をはじめ、人の心のひだをかくも深く、優しく描けるのは、やはり「映画」だけだ。そのことをあらためて教えてくれるこの作品は、ぼくにとって、ささやかだけれど忘れ難い「クリスマス映画」なのであります。    《追記》テレビ放映で再見。唐沢と江角の出会い、ちゃんと「見えるようにしときましたから!」という台詞があったんですね…(^^;) でも、やはりあれは玉置エンジェル(死神?)が、はじめっから仕組んでたんですよっ! そして、やっぱり「好き」です、この映画。
[映画館(字幕)] 8点(2004-12-25 13:04:57)(良:1票)
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