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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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121.  マングラー
トビー・フーパーの映画は、たとえどんなに世評の悪い「失敗作」だろうと、必ず見る者の深層意識に冷んやりと、あるいはざらりと触れてくる“おぞましい”瞬間がある。それは、彼がただ単に“恐怖”を表現するのに長けているというんじゃなく、“恐怖とは何か”を本質的に知っているからなんだと思う。 その“おぞましさ”は、言うならば、見知らぬ穴に手を突っ込んで指先が何かぬるりとしたものに触れた瞬間みたいなもの、と言い換えてもいい。その時にぼくたちが感じるだろう不快感や恐怖心を、フーパーの映画は何気なくひょいと投げ出してくる。『悪魔のいけにえ』では、それこそ全編にわたって。『ポルターガイスト』のような映画であろうと、いかにもスピルバーグ風の「光」が画面を覆おうとも、例えば部屋の片隅の薄暗がりや、子役の少女の後ろ姿などにぬぐい難く。 この、悪魔が取り憑いた巨大洗濯用プレス機と人間の死闘を描くという、相当にバカバカしい、そしていかにもスティ-ブン・キング原作ならではのグロテスクさとユーモアに忠実であろうとした映画にあっても、ふとした場面に“フーパーらしさ”が顔を出すだろう。それは、主人公の刑事が深夜の死体安置所で時を過ごす何気ないシーンであったり、彼の義理の弟が住む家のテラスをとらえたショットに見ることができる。実際これらの映像は、プレス機が人間をきちんとプレスして折り畳んだり(!)、果ては動き回って大暴れするクライマックスなんぞよりもはるかに不気味で、不安で、おぞましい気配を漂わせているのだ。 フーパーは、「恐怖とは、人の心の“闇(=病み)”と直接触れる瞬間にある」ことを知っている。彼自身が、そのことに震え、おののいている。一方で、そんな「闇」を何とか「商業映画」として折り合いをつけようと苦闘し続けるフ-パ-作品は、それゆえの“いびつさ”が逆にスリリングであり、こう言ってよければ何よりも魅力なのだとぼくは信じて疑わない。
8点(2004-09-06 18:59:57)
122.  華氏911
映像は、平気で嘘をつく。たとえ「事実」を写し撮ったものであろうと、編集ひとつでカンタンに白を黒と言い含めることができるのだ。  今日、そんな“映像の「嘘」”を最も確信犯的に使いこなし、文字通り「嘘」のように面白いドキュメンタリーを創り続けているのが、マイケル・ムーアという男であるだろう。彼の作品は、いつでも「事実」を撮った映像・・・それ自体は白でも黒でもない(あるいは、白でも黒でもある)「事実」の断片を、絵と絵のつなぎ方ひとつ、ナレーションひとつで、易々と「黒」にしか見えないものへとまとめ上げていく。そうやって彼(の映画)は、アメリカという国家と国民を“食い物”にする「巨悪」を暴きたて、白日の下にさらし出すんである。 彼は、建て前だけの「公正さ」を拠り所にするジャーナリズム的手法じゃなく、あくまで警世家(!)として、「正義」の側に立とうとする。この『華氏911』でも、彼は今まで以上に「正義の人」として、「悪党」ブッシュ政権を撃つのだ。  今まで以上に? そう、ここでのムーアの「怒り」は本物だ。そこに「嘘」はないだろう。彼は純粋にブッシュとその陣営を、彼らをとりまくエスタブリッシュメントたちの悪らつさを、本気で怒り、告発しようとする。それがこの映画の原動力となり、もはや大統領選挙の行方にすら影響を与えるほどの“力”となったことは、ぼくたちにも周知の事実だ。もしかしたら、ブッシュの再選を拒み、ムーアのこの映画は、現在のイラク状勢にも変化をもたらすかもしれない。それはそれで、あっぱれと言うべきなのだろう…  しかし、すべてを「ブッシュ側」に押しつけ、彼らを「悪」に位置づけることで、本当にアメリカの抱える真の問題を捉えることができるんだろうか。むしろそれは、本当の問題を“見えにくくする”ことになりはしないだろうか? 単純に「悪」と「正義」を線引きするこの映画は、見る者を安易に「正義」の側に立たせ、権力を撃ったつもりにさせることでカタルシスを与える。けれどそれは、例えば大統領やCIA、FBIなどを悪役に仕立て上げたハリウッドの娯楽映画とまったく同じ(!)スタンスでしかない…  ぼくはムーアの「怒り」の正当性を信じる。が、この映画の「安易さ」は、やっぱり否定したいと思う。ゴダールの批判した通り、それは結局「敵(アメリカ)を利するだけ」だろうから。  
4点(2004-09-02 12:25:01)(良:2票)
123.  スパイシー・ラブスープ
10代から50代までの各世代ごとに繰り広げられる、いずれも恋愛や結婚生活をめぐる5つの物語。とにかく、各世代ごとの女優はすべて超がつくべっぴんさん揃いだし、男優だってイヤんなるくらい男前ばかりです。そんな彼らが、別にトーキョーやニューヨーク、パリであってもまったく違和感がないような、まるでアーウィン・ショーの短編集みたく「都会的センス」のなか、ささやかな人生の機微を、その喜怒哀楽を、さらりと演じていく。…な~んだ、ひと頃の日本の「トレンディ・ドラマ(死語)」みたいなものじゃん。だって? うん、まあその通り。確かにこれは、「現代的」な、あまりに「現代的」な映画なんだから。  ただこれまでの中国映画が、どんなにこの現代の世相を描こうとも結局「国家」や「歴史」という“大きな〈物語〉”を語っているののに対して、この作品はあくまで現代(いま)を生きる「小市民」という“小さな〈現実〉”をスケッチしていく。それは、あらゆる意味でこれまでの中国映画のイメージを覆すものじゃないか。つまり、ただ「現代的センス」だけで何ひとつ〈メッセージ〉を発しないというだけで、これは中国映画として逆説的な「ラディカルさ」を獲得しているんじゃあるまいか。徹底して非ー政治的だからこそ、逆説的に極めて「政治的」なフィルムと言うか…  第1話の、同級生の少女の「声」に恋をした高校生のせつない初恋物語から、偶然出会った男女のすれ違う愛のゆくえを、ふたりのナレーションだけで綴ったマルグリット・デュラス(!)風の第5話まで、そこにはパーソナルな「個人」の内面だけが語られている。もはや「国家」も「歴史」も介入できない、「私だけの物語」を語ろうとするのだ。それも、ビックリするほど洗練されたタッチ(と美男美女のキャスト)で。 だから、10歳の男の子が流す涙のせつなさも、まもなく老境を迎えようとする婦人の慎ましやかな幸福も、彼ら彼女らのあくまで「個人的」なドラマであるからこそ、それらはヴィヴィッドにぼくたちの胸を打つ。「これは“ぼく”の物語だ」「あれは“わたし”自身よ」と、見る者ひとりひとりがそこに自分自身のドラマを見いだすのだ。  そう、これはささやかだけれど、人生そのもののように美しい映画だ。
9点(2004-08-24 14:19:28)(良:3票)
124.  クマのプーさん(1965)
先日、近所の公民館で東映アニメの『西遊記』と2本立で上映。息子(小3)と一緒に見ました。  A.A.ミルンの原作は昔から大好きで、今でも時々、もうボロボロになった本(『くまのプーさん』と『プー横丁にたった家』)を読み返したりしています(息子は興味を示しませんが…)。そこには、ミルンの「人生の慰めをめぐるささやかな省察と啓示」が、慎ましく投影されている。プーと仲間たちの、“目の前にあるささやかな幸せ・不幸せ”に対する素直な反応には、どんどん複雑なものになってしまった我が「人生」を顧みずにはいられない。 そして、ディズニーによるアニメ映画化のこれが第1作目なんですよね? ぼくが見たのはこれ以外だと長篇の『ティガー・ムービー プーさんのおくりもの』だけなんですが、正直言ってどんな国の、どんな物語であろうと同じ「世界観」に改編するディズニ-・アニメにあって(それは、紛うことなき〈文化帝国主義〉だ)、この『プーさん』シリーズは、まだしも原作の味わいが残されているのではないかなあ。まあ、あまりにもキュートで「可愛いすぎる!」ってのは確かだけど…  何はともあれ、ぼくはあの、「あれ、ぼくなにをかんがえてたんだっけ?」と考えるプーさんの、片目をちょっとしかめる表情が大好きです。あれだけは、ディズニ-版の最大の魅力だと思う。この映画を見てからそのマネばかりやって、家族のヒンシュクを買っています(笑)
8点(2004-07-28 19:10:33)
125.  西遊記(1960)
近所の公民館で上映会があったので息子(小3)を連れて、30数年ぶりに再見。でも悟空につくす健気な少女猿リンリンや、小鬼の小竜が角をアンテナにして通信するあたりは、ハッキリと覚えてました。 でも何より興味深かったのが、手塚治虫的キャラクターや描き方と、当時の東映アニメ調のキャラクターや描き方が“水と油”状態であること。「手塚治虫」の部分が、そのスピード感といい、モダンなセンスといい(中国のお話しにJAZZやらディズニーやフライシャーのアニメ映画のタッチを持ち込むあたり、まさに手塚治虫ならでは!)、まるで無意味(だからこそ、笑える)なギャグといい、作品中から“突出”している。その他の部分ではいかにも東洋風の色彩や絵柄だのに、突然ガラリと「別の作品」が紛れ込んだかのような印象なんですねぇ。特に牛魔王のアジトでのクライマックスは、確実に手塚治虫ならではの躍動感に満ち満ちて、それはいいんだけど、明らかに全体のトーンから浮いているのです。 たぶん、作品としてはマズイことなのかもしれない。けれど今見ると、だからこそ「面白い」し貴重なんだと言える。手塚治虫をはじめ当時のスタッフが、試行錯誤を繰り返しつつこの長篇アニメを作っていっただろうことが、画面からありありと見えてくるような気がするんです。それはそれで、作品以上にスリリングで感動的なのでした。 そしてひとつ告白すると、ぼくは手塚がリードして手掛けたいかにも「モダン」で才気にあふれた部分を面白く見つつ、実のところ古めかしくも端正な東映スタッフ部分の方こそが魅力的に思えた(中でもあのリンリンの愛らしさ!)。映画に限らず芸術表現というのは、この天才をもってしても常に「新しい」部分からまっ先に古びていくものだ…という〈真理〉を、噛みしめた次第です。 もっとも、息子や居合わせた他の子どもたちには、圧倒的に「手塚パート」の方が受けていましたが…。やっぱ、小生の“見方”が歪んでるのん? いやはや。
7点(2004-07-28 16:24:26)
126.  ピンクの豹
免許証なるものを1枚も持っていない(あ、教員免状は確か持ってます。…何の役にもたたんが)者を受け入れてくれた街の弱小レンタルビデオ店の片隅で、日に焼けて文字通りピンク色になったパッケージを発見。「うわぁ、昔テレビで見たよなぁ。懐かしい~」と早速借りて見ましたです。 で、あらためて知ったのは、この映画が決して「ピンク・パンサー」シリーズの第1作じゃないってことでした。だって、クル-ゾ-警部のキャラが、ここでは「自分じゃ有能で頭がいいと思っている単なる“オロカ者”」でしかない。あの、遂には上司を精神病院行きにさせた狂騒的かつ破壊的な“デタラメぶり”とは、まだ無縁なのだから。 代わりに、作品はかなりスマートで「オッシャレー」なソフィスティケイテッド・コメディをめざそうとしております。それは、キャストを見ても明らか。怪盗ファントム演じるデビッド・ニーブンとロバート・ワグナーの新旧二枚目コンビ、そこにクラウディア・カルデナーレの王女と怪盗一味のキャプシーヌという美女連が絡んで、クルーゾーは言わば時々物語を逸脱させ、活性化させる「トリックスター(道化)」的扱いなんですね。ほら、ブレイク・エドワ-ズ監督は『ティファニーで朝食を』でも、ミッキー・ルーニー扮する珍妙な「日本人」を登場させていたけど、あれと同じ手です。 そう思って見ると、お堅いカルデナーレの王女がシャンパンで酔っぱらった時の素晴らしくコケティッシュでチャーミングな姿といい、ニーブンとワグナーが金庫をはさんで堂々めぐりする、マルクス兄弟の『我が輩はカモである』を再現してみせたシーンといい、さすが才人エドワーズ! という感じで小生的には十分楽しめました。 さあ、ではクルーゾーがいよいよ「クルーゾーらしさ」を発揮した(らしい)次作『暗闇でドッキリ』を…と思ったら、ビデオがありませんでした。トホホ。
7点(2004-07-27 15:05:11)
127.  南部の人 《ネタバレ》 
息子が敗血症になり、毎日どうしても新鮮な牛乳が要る。けれど、貧しい農夫一家にはとてもそんな余裕がない。苦しむ子どもを前に悲嘆にくれていると、おばあちゃんが再婚(!)相手と現れて乳牛をプレゼントしてくれた。めでたし、めでたし。  また、度重なる不幸と苛酷な農作業で、すっかり偏狭な性格になった近所の意地悪オヤジ。その嫌がらせに怒りを爆発させた主人公は、オヤジを叩きのめす。復讐のため銃を持ち出すオヤジだったが、長年の夢だった川の大ナマズを主人公が釣り上げたのを見るや、コロリと態度を変え、「このナマズを俺の獲物にさせてくれりゃ、もう嫌がらせはしねぇ。井戸も使わせてやる」と言い出す始末。これまた、めでたし、めでたし。  …もう、万事がこの調子なんである。苛酷な、あまりにも苛酷な農夫一家の生活ぶりを、おそらくオール・ロケで描きながら、この映画には大らかな楽天性が息づいている。ほとんどデタラメすれすれのご都合主義が、リアルな写実主義風展開のなかに突然顔を出して、あれよあれよと主人公一家を救うのだ。 結局、豪雨で農作物が全滅し、一度は土地を手放そうと考える主人公。けれど、コンロに火を入れてコーヒーを沸かす妻の姿に、ふたたびやり直すことを決意する。…このラストにも、ぼくらは「うん、彼らは大丈夫だ。きっとうまくいく」と確信する。何故なら、彼らは“祝福”されているのだから。誰に? もちろん、この映画に。というか、この映画を撮ったジャン・ルノワールに!   映画のなかで、町の工場で働く主人公の友人が、「苦労ばかりの農業なんかやめて、工場へ来いよ」と誘う。が、「俺は青空の下で働きたいんだ。自由な気がするから」と答える。…どんなにつらい人生でも、何より「自由」こそが大切なのであり、生活の細部(ディテール)には幸せが、生きる歓びが宿っている。…こんな風に“貧しさ”をかくも“豊か”なイメージで描き得るのは、たぶんこのルノワ-ル監督をおいてないだろう。 ぼくは見ながら、何度も泣いた。この映画のなかに描かれる、文字通り「人の生きる姿」としての人生の、あまりの美しさに。  たぶん、間違いなく、これが本当に「幸福な映画」というものだ。
[映画館(字幕)] 10点(2004-07-27 14:08:01)(良:1票)
128.  海の上のピアニスト
この、「産まれてから一度も船を降りたことのない天才ピアニスト」をめぐる、美しくも儚い作品のイタリア語原題が『NOVECENTO』であると知った時、ああ、やっぱり…という感慨にとらわれたものだった。それは、ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』の原題と同じだであるからだ。 たぶん、それは決して単なる“偶然”ではないだろう…  あのベルトルッチの大作は、イタリアの大地で繰り広げられた20世紀初頭から第2次世界大戦後までの激動の歴史を、壮大な《叙事詩》として謳いあげる。一方、トルナトーレによる本作は、同じく1900年から第2次世界大戦直後の‘46年までを背景としながら、世界恐慌とも、戦争とも(直接的には)まったく無縁の寓話を《叙情詩》として歌うのだ。 そこに、醜い地上の「歴史(ヒストリー)」を拒否し、あくまで美しい「物語(ストーリー)」を対置させようとするトルナトーレの作家的姿勢をぼくは見たいと思う。彼の『ニュー・シネマ・パラダイス』がそうだったように、彼は、常に“夢見る者”を肯定し、けれどその“夢”が結局は“現実”に押しつぶされるしかない儚(はかな)さを、深い哀悼とともに見送り続けるのだ。 本作における、あの、あくまで地上(=現実)を拒否して船もろとも消えていった主人公がまさにそうだったように…  そんなトルナトーレの映画は、確かに甘く、美しく、“敗北”すらも甘美な「蜜の味」に変えてしまう。ただ、そういった現実逃避を、それ以上に現実を「拒否」するトルナトーレよりも、あくまで聖も俗も美も醜もいっしょくたになったこの現実こそを直視し、まるごと「肯定」するベルトルッチにこそぼくは組みしたい。 何故なら、ぼくらは「物語」ではなく「歴史」を生きざるを得ないのだから。ぼくらの生は、夢じゃなく現実の側にあるのだから。 そのことだけは、片時も忘れたくはないと思うのだ。
6点(2004-07-26 16:30:27)(良:1票)
129.  少年(1969)
強い者が弱い者を虐待・搾取し、虐待・搾取された者は自分より弱い者を虐待・搾取し…。延々と繰り返されるこの関係性が《権力》の構図だとするなら、その最底辺に「少年」がいる。  親に「当り屋」を強要され、逃げ出して故郷の祖母のところへ行こうにもお金がなくなり、見知らぬ町でひとりぼっちで泣く少年。自分が稼いだお金なのに、父親から「好きなものを食え」と言われても一番安いメニューをおずおずと選ぶ少年。いじめられている子に声をかけようとしたら、その子に、大切にしていたジャイアンツの野球帽を泥水に叩き付けられた少年。幼い弟に、「いつかアンドロメダ星人がやって来て、ぼくたちを地球から連れていってくれるんだ」と何度も何度も語りつづける少年。…  大島監督がこの作品に託した「国家」と「権力」という観念的なテーマ以上に、あまりにも理不尽な“受難”を受け続ける少年の心の痛みが、見る者の心にも突き刺さる。それは「いじめ」や親の虐待といった、今日なお切実な問題をぼくたちの前に突きつけてくるだろう。が、何よりもこの少年のつらさや悲しみの深さが(↓の方も書かれている通り、少年を演じる子役のあの眼差し…)、ストレートにぼくたちの心を撃つことで、単なる「問題提起」だけではない切実さを与えるのだ。  ぼくは見るたび、この映画の中の少年に涙する。しかし、それは決して同情や憐憫からじゃない。この映画を見ている間、ぼくは「少年」そのものになっている。そう、あの少年は「ぼく自身」だ。だから少年が泣く時、ぼくも泣く。少年がこの世界に押しつぶされそうになるのをひとりで耐えている時、彼の代わりにぼくが涙を流す。…『少年』は、ぼく自身の「物語」となるのだ。 それは、たぶん、間違いなく、あなたにとっても。
10点(2004-07-21 20:27:23)(良:1票)
130.  スチームボーイ STEAM BOY
[1]思うに、ジェ-ムズ・キャメロン監督の『タイタニック』でぼくが最も印象的だったのは、主演の2人が手を広げる例の「名場面」でも、沈没の大スペクタクルシーンでもない。それは、タイタニック号の機関室で巨大な歯車とピストンが蒸汽によって動く、ほんの短いシーンなのだった。あの、すべてに壮大だがどこか空虚(だと、ぼくには思えた…ファンの方々すみません)な映画の中で、ほとんど唯一と言って良い「リアル」な映像の手ざわり。…今回、大友克洋の最新作を見ながら、何よりも連想したのが、そんなキャメロンがかろうじてなし得た巨大メカの質感であり、その質感から実感させる「リアルさ」だ。何も、精巧に創り上げたからリアルさが産まれるのではない。それが「映像(=イメージ)」として強度がある・見る者の感性を揺るがす・“生きている”からこその「リアル」だ。そして、それこそが映画の《本質》だと信じる者にとって、コノ『スチームボーイ』は、まぎれもなく「映画」」そのものとして、例えば『タイタニック』を遥かに凌駕していると、ぼくは思っている。  [2]確かにこの作品の、物語や、その語り口の“欠点”をあげつらい、批判するのは易しいかもしれない。そもそも、何故『AKIRA』を撮った大友がこんな映画を撮らねばならないんだ、と。 それについては、ぼくなりに、“これは手塚治虫『アストロ・ボーイ』への「返歌」であり、大友なりのオマージュなのだ”と思いたい。手塚的ヒューマニズムと世界観への、批判的継承を果たそうとしたものとして見た時、あの父子3代の葛藤の物語ひとつとっても、『スチームボーイ』は、感動的な、あまりに感動的な映画として屹立する。  [3]ぼくの「満点」評価は、あくまで以上の「極私的大友克洋観」の所以であることを(というか、ぼくの場合そんなのばっかですが…)ご承知おきください。
10点(2004-07-21 13:11:20)(良:3票)
131.  ピストルオペラ
鈴木清順カントクって、かつて映画会社の社長サンから「わけの分からん映画ばかり作られては困る」と言われ、クビになったツワモノです。その「わけの分からん」と言われた作品が、『殺しの烙印』。 で、この映画、その34年ぶりの“続編”というか、新バージョンなんだけど、これが前作に輪をかけて「わけの分からん」シロモノなんすよねぇ…。  お話しは、いたってシンプル。「組織(ギルド)」に所属するプロの殺し屋たちが、ナンバーワンの座を競って殺しあう…という、ただそれだけのもの。だのに、あれよあれよと、奇怪な映像とデタラメ極まりない展開によって、見る者はトロンプ・ルイユ(騙し絵)的な迷宮世界へと迷い込んでしまう。特に後半の、「世界恐怖博覧会」なる見世物小屋(?)で繰り広げられる、江角マキコ演じるナンバースリーの主人公とナンバーワンの対決なんざ、あまりのシュールさに相当の清順ファンですら頭を抱えるんじゃあるまいか…  正直ぼくも途方に暮れつつ、けれど、ここまで徹底しているといっそ“痛快”な気分にさせたれたものです。う~ん、これって、結局のところ、したり顔で自作の〈大正浪漫三部作〉を持ち上げた批評家や(ぼくのような)観客に対して、清順師がアッカンベ~をしてみせたものじゃないか。“ワシの境地にどこまでついてこれるかい?”というイヂワルだけど愛嬌たっぷりな師の、赤々とぬめった「舌」だけをぼくたちは見せられたんじゃあるまいか…  だから、「バカにするな!」と怒る向きも、ただ絶句する向きも、どちらも「正しい」見方でしょう。ともかく、ひとつ言えるのは、この映画の前にゴダールもデヴィッド・リンチも、「まだまだ“修業”が足りん」ということでしょう。まったく、その独創(=独走)ぶりには、0点か満点かで応えるしかありませぬ…  あ、そこのあなた、爺ィの「アッカンベ~」を見続ける覚悟と“寛容さ”がおありですかぃ?
10点(2004-07-16 16:13:30)(良:3票)
132.  スミス都へ行く
先日の参議院選挙を含めて、ぼくは選挙権がありながら選挙で投票したことがありません(世の良識ある方々、スミマセン…)。一票を投じたい政党や人物がいない…というより、どこに、誰に投票するにしろ、それは現体制を「肯定」することになってしまうと考えているからです。一票の格差などの、まずはあまりにも公正を欠いた選挙制度そのものを是正することもなく、そのくせ「投票に行こう」と、膨大な税金をつかってタレントを起用し、PRする国側の“欺瞞”もウンザリですし。  そんなぼくも、この映画のジェームズ・スチュアート扮するスミス氏になら喜んで投票するかもしれない。するかな。するよな。うん、きっとする!(笑)  この、リンカーンを崇拝する田舎の州出の青年が、周囲のあまりにも汚い権謀術数にうちひしがれ、リンカーンの像の前で泣く時、まるで「アメリカン・デモクラシー」そのものが泣いているかのようだ。そんな彼が議会で延々と演説を繰り広げ、その孤軍奮闘を議長(ハリー・ケリー…涙が出るほど素晴らしい!)が秘かに共感の笑みを浮かべて見守る姿に、少なくともぼくは「アメリカ(人)の良心」を見る思いがする。たぶん、公開当時も今も、この映画を見るアメリカ人はみんなあの議長のように主人公スミス氏のことを見守り、微笑んでいるんだろう…  それを、「ただのおとぎ話だ」とか「いかにもアメリカらしい偽善じゃん」とせせら笑うのは簡単だ。ぼくらは、あの国のイヤな面をこれまでも(そして、今も)さんざん見せられてきているのだから。 けれど、ぼくは、自身が移民だった監督のフランク・キャプラ自身もとっくにそんなことなど承知していたのだと思っている。彼がこの映画を撮った1939年は、世界中が戦争の危機に直面していた。そうした時に、「アメリカ(人)の理想主義と良心」をひとりの純朴な青年に託したキャプラは、「この世の中はマヌケといわれてきた人たちの賜物なのよ」とジーン・アーサー(これまた素晴らしい!)に言わせた通り、最後には人間の〈善〉が勝つという「夢物語」こそがアメリカの理想主義じゃないか。それは「夢」だからこそ「理想」なんじゃないか…と静かに、だが毅然と述べているのだ。  ぼくも、国家としてではない、アメリカ(人)の夢見る「理想主義」には、心からの“一票”を投じよう。それが、どれだけの失望を招こうとも。 
10点(2004-07-16 14:58:36)
133.  スパイダーマン2
ドクター・オクトパスの金属製アームに、『死霊のはらわた2』から『キャプテン・スーパーマーケット(死霊のはらわた3)』以来の、サム・ライミ監督らしい“腕(アーム)”へのこだわり(?)がうかがえる(あの手術室でのチェーンソーなど、間違いなくセルフ・パロディだ)。 そして、1作目に引き続いて、デビュー前からの盟友ブルース・キャンベルに“おいしい”出演シーンを用意するなど、これほどまでの大作でありながら、この男のオタクごころというか、由緒正しき(?)マニアぶりにはつくづく心和ませられるものがあるってもんだ。  (それにしても、このブルース・キャンベルという男、フランク・ダラボン監督の『マジェスティック』にもやっぱり“おいしい”役で顔を出していたっけ。すっかり「カメオ役者」になっちゃったなぁ…というより、日本じゃ“感動大作系”の巨匠扱いのダラボンが、実は「単なるマニアな人」だったことを自ら表明しているって感じで、痛快だ。いいぞ、ダラボン!)。  そんな一方、『ダークマン』では“オペラ座の怪人”をB級アメリカン・コミック風に映画化してみせたライミが、『スパイダーマン』シリーズにおいて、正調アメコミの世界を現代における“ビルドゥングスロマン(教養小説)”へと昇華してみせたことを、ここで指摘しておきたい。 他のアメコミのヒーローたちが、結局のところ単なる「幼児退行」したオメデタイ野郎か、ほとんどサイコパスな「神経症」病みであるのに、『スパイダーマン』は、「強大な“力(パワー)”を持ったがゆえの苦悩と孤独」を生きざるを得ない青年を描く。それは、ゲーテの『ヴイルヘルム・マイスター』やトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』などの「才能(パワー)があるゆえに孤独と苦悩を生きる若き芸術家の肖像」と、同じ物語なのである…  『スパイダーマン』シリーズが、他のアメコミの映画化作品と決定的に異なるのは、そうしたマニアックなB級センスと、古典的かつ普遍的なテーマを共存させた“世界観”の違いだとぼくは思う。…とにかく、素晴らしいッ!
9点(2004-07-16 13:30:39)
134.  キリコの風景
昔、失恋(笑)の痛手を抱え、函館で半年ほど暮らしたことがある。今思っても、温泉と、旨いサカナと、競馬場&競輪場がコンパクトにまとまったあの街は、「天国」だったなぁ…。 といった函館の空気感が、実に巧みに映像化されていることにまず好感大。小生同様この街が“大好き”らしい森田芳光の脚本によるシュールな世界を、これが初監督(だっけ?)の明石知幸は、あくまで日常的リアリズムで映像化しようとしている。そのシナリオと演出の緊張関係が画面から伝わってくるあたりも、実にスリリングです。 奇妙な精神的連帯を生きる3人の男たちが、どこか抽象的な、“地に足が着いていない”存在なら、そんな男どもが執着する小林聡美ふんするヒロインの、何ともアッケラカンとした“現実的生活感”あふれるドスコイぶりという対照の妙も、見事だと思うなぁ。 う~ん、やっぱり好きだなぁ。この映画。失恋して函館に行ったことのある人なら、きっと気に入っていただけるハズです(…そんな奇特な方がどれくらいいるのか、知らないけど)。
8点(2004-07-14 21:12:36)
135.  カラビニエ
1960年代(少なくとも『中国女』までの)のゴダールって、結局のところアンナ・カリーナへの“愛”と、それ以上の“絶望”に囚われていたことは、間違いない。盟友トリュフォーが「(ゴダールの)アンナ・カリーナへの愛は、死に至る病だから…」とつぶやいたというけれど、そういう天才でありながら「モテない男」だったゴダールの歓喜と苦悩が、『気狂いピエロ』を頂点とした数々の傑作を産んだことに、才能もないただの「モテない君」である我々はただナミダし、以後のゴダールがいかに「難解」で「前衛」として突っ走ろうと、やはり「応援」せずにはいられないのだ(よね、ご同輩?)。  そんなゴダールの60年代初期作品にあって、一連のメロドラマ(!)的な“情念”から唯一解放された映画が、たぶんこの『カラビニエ』なんじゃあるまいか。 監督自身が「これはひとつの寓話である」と定義する、この映画。その名もミケランジェロとユリシーズというナイーブな兄弟が戦地に赴いて繰り広げる、呆れるぐらいに愚かで残酷で滑稽な従軍記だ。もちろん、“寓話”なのだから、教訓はある。映画は、かつてないほど単純明快に「戦争」というものの愚劣にして残虐さを、一見あの史上サイテ-監督エド・ウッド作品(!)みたくデタラメな展開の中に展開していくんである。…その、愚劣にして残虐な兄弟たちを通じて。  それにしても、この映画の何というすがすがしいまでの「自由さ」だろう! ここでゴダールは、喜々として映像という“素材(マテリアル)”によって「観念」を表象することを楽しみ、淫している。それは、まさに1980年代以降のゴダールの「唯物主義(マテリアリズム)」を予告…というか、彼の才能の行方を告げるものだ。そう、この「おもろうてやがて哀しき戦争(についての)映画」には、この天才の「可能性の中心」のすべてがある。
10点(2004-07-14 20:31:45)
136.  神の子たち
ドキュメンタリー作品を見ていて、どんなに悲惨な情景であろうとカメラを向け続ける作り手たちの“勇気”や“覚悟”に感嘆すると同時に、心のどこかでそんな「他人の不幸」を直視することの“やましさ・うしろめたさ”を感じずにはいられない。ましてや、その「不幸」に涙することなんて、許されるのだろうか…と。  フィリピンの巨大なゴミ山でくず拾いによって生計を立てる3組の家族。だが、山の崩落事故によってゴミの搬入が止まってしまい、彼らは生活の糧を失ってしまう。 もともと貧しかった彼らを見舞う、さらなる困窮の日々。近所で米を分けてもらい、塩だけで食べる夕飯(父親は幼い娘に、「おかずがなくてゴメンよ」と詫びる…)。ゴミ捨て場の片隅にイモを植え、「泥棒するくらいなら、飢え死にする方がいい」とつぶやく少女。汚染された中で生活するゆえ障害児や未熟児も多く、せっかく産まれてもすぐ死んでいく赤ん坊になすすべもない両親。そして、水頭症で寝たきりの少年を、それでも懸命に育てようとする家族たち。 …そんな、あまりにも苛酷な日常を、カメラはただただ追い続ける。  それを、何て無慈悲な行為だと思うだろうか。カメラを向ける前に援助したらどうなんだ! と。 けれど映画を見ているぼくたちは、彼らが生死ギリギリの生活のなか、親がどれほど子どもたちのことを想い、子どもたちもそんな親の想いをしっかりと受けとめているかに、いつしか心からの敬意を抱くようになる。家族の、人間としての、真の尊厳と愛を彼らのなかに見出していく。 そして気づくのだ、このぼくたちの、彼らに対して抱く敬意と賛嘆の眼差しこそ、この映画の作り手たちのものだったのだと。監督やカメラマンたちがこの3組の家族を通じて、人間の本質がやはり〈善〉だったことを知っていく過程こそ、この映画の主題だったことを。  映画の最後、水頭症の少年アレックス君が、笑顔のままひと粒の涙を流す。その涙の美しさは、間違いなくぼくたちの魂こそを“救済”してくれるだろう。同情や憐れみだなんて、とんでもない! ぼくらの方こそが、彼らに「救われる」のだ。  こんな世の中だからこそ、ぜひこの映画をご覧になってください。
10点(2004-07-14 19:35:20)(良:1票)
137.  母の眠り
いつも…というか、折にふれて思うのだけど、やはり母親ほど「強い」ものはない。そんな《真理》を、あらためて納得させられる映画。 幼い頃から大学教授の父親を尊敬し、家庭を守ることが幸せという母親を軽蔑していた娘が、末期癌の母を看病するため仕方なく実家に戻ってくる。あらためて生活を共にするなかで、娘は母の“平凡な人生の非凡さ”を学んでいく。 と書けば、いかにもありがちのピューリタン的な「オンナたちよ、家庭に還れ」と唱える保守主義プロパガンダ映画みたいだ。別にフェミニストを気取るワケじゃないけど、そういう言いぐさはあまりにも反動的だろう。実際この映画には、そういった面がないとは決して言えないんである。 けれど、メリル・ストリ-プ扮する母親が最後にとった選択を、「個人」としてでなく「母」としての“尊厳(!)”を守るためだとする主張は、その雄弁さ(というより、メリル・ストリープの名演)に、ぼくもほとんど説得されてしまった。「自分のために選ぶ〈死〉が、同時に家族をも救う」のなら、それもまた立派な「主体的」な生きざま(=死にざま)じゃないか、と。そう言われたなら、「…かもしれない」と考えこまされてしまわざるを得ない。そして、その答えは、この映画を見てもう何年もたつのに、未だぼくのなかで見つからないのだ。  前述の通り、メリルはもちろんのこと、レニー・ゼルウィガー、ウィリアム・ハートの主演3人ともが、素晴らしい。そして、こんな「重い」主題を扱いながら、まるで上質のフィルム・ノワールみたいな《倒除法》の語り口を駆使した技ありの脚本・演出もまた、見事だと思う。 …地味だけれど、クヤシイくらいに「巧い」映画だ。
8点(2004-07-07 20:40:49)
138.  エンジェル・アット・マイ・テーブル
↑の【ひのと】さんの作品紹介で、あることを思い出した。リルケもまた、かつてセイシンブンレツビョウと呼ばれていた“心の病い”のぎりぎり寸前で、常に踏み止まり続けていたことを。  統合失調症の危機を迎えた人は、ある時、それまで散々悩まされてきた幻聴や幻覚などがふいに治まってしまうのだという。とは言え、それは治癒ではなく、逆に症状が激烈に悪化する直前の状態…「嵐の前の静けさ」にすぎない。たいてい、この状態はたちまちにして終わってしまう。しかしリルケは、例外的にこの状態のまま生き続けたのだった。  その「静けさ」とは、ちょうど夏休みの学校の誰もいない校庭のセミしぐれが、不思議と静かな印象を与える、あの感じに似ているんだろうか? ひしめきやざわめきが、むしろ世界の「沈黙」を際立たせる…。リルケの詩とは、そんな「沈黙」から産まれた。  この映画の主人公であるジャネット・フレイムも、実はそうしたざわめきと「沈黙」のはざまにとどまり続けた人だったのではないか。実際に彼女はセイシンブンレツビョウとされ、病院で何年にもわたって過酷な…というより非人道的な“治療”を受けさせられる。普通なら、これだけで精神が荒廃しかねないほどの仕打ちを。しかし、彼女はこの「沈黙」に耳をすませ続け、それを言葉にした。  ジェーン・カンピオンのこの映画は、そんな彼女が聞いた「沈黙」を、ひしめきとざわめきの中からうまれる「静けさ」を、フィルムにとどめようとする。そしてそれは、確かに成し遂げられたのだと思う。何故なら、ぼくもまたこの映画を見ている間じゅう、その「沈黙」を、あの、詩が産まれる前の声なき「言葉」を、聞いたように思えたのだから。  …その「沈黙」、その声なき「言葉」こそが“天使”のものであるのなら、この映画は天使たちのそうした「沈黙」や「言葉」で満たされている。ぼくたちはそんな「沈黙」を聞き、「言葉」を感じ取ることができるだろう。画面の端々に、“天使たちの息吹き”を感じ取ることができるだろう。だからこそこんなにも悲しく、美しく、そして強いのだ。  これは、ひとつの“エピファニー(顕現)”としてこの世に遣わされた「天使的作品」 にほかならない。
10点(2004-06-26 13:40:50)
139.  わが谷は緑なりき
炭坑で働く屈強な兄貴たちが、ひ弱な末っ子にケンカの仕方を教えたり、何かとさりげなく気を配る。 ああ、これってジム・シェリダン監督が『マイ・レフトフット』で美しく“再現”していたなぁ…と、しみじみ思い出す。 その末っ子がある日病気で立てなくなり、神父の励ましにより、大きな樹の下でよろよろと立ち上がる。 …少なくともこの映画を見ている間は、これ以上崇高なシーンなど、これまでもこれからも絶対にあり得ないとかたく信じ込む。 そして、主人公一家の長女を演じるモーリン・オハラの、何という美しさ! 彼女こそ映画の中で描かれた最高の女性だと、これも見ている間じゅうぼくは狂おしく“恋”してしまう。  この世界が耐え難く醜く思えたり、自分を含めた人間が嫌いになった時、ぼくはいつもこの映画に「還る」。そうすると、ふたたび生きていけるような気がする。 そういう意味において、これはぼくにとっての「理想の映画」に他ならない。ジョン・フォードにとっても、この作品よりも完成度の高いものや優れたものはあるだろう。ぼくだって他に好きな作品、感服する作品はいっぱいある。けれど、間違いなく、この映画は「特別」な一本なのだ。単なる「映画」としてでなく、「人生」においての。  ところで、貴方にとって「映画」とは何なのでしょう?
10点(2004-06-21 21:57:38)(良:4票)
140.  21グラム
う~ん…。  前作では、まだ主人公の生(と性)と死を“再構成”するという意味において、何とか「納得」できた時系列をバラバラにするあの手法。しかし今回は、人間の「生と死」という極めて重い主題を、まるでたんなるクロスワードパズルの“パーツ”のように軽く(それこそ“21g”程度の!)扱うことになってしまったように思う。  監督は、それをショ-ン・ペン扮する今まさに死に瀕した男の「意識の流れ」として、つまり彼の脳裏に浮かぶ過去の想念を映像化したというのだろうか。 なるほど、人の意識はこういったとりとめのない、過去と現在が同時に浮かび上がってくるものではあるだろう。けれど、愛する者の死は、そして残された者の悲しみや怒り、苦悩、その果ての救済は、決してこのような小手先の才気走った展開によって“断片化”できないものじゃないか。たとえ「映画」だとはいえ、それを描くことは作り手にそういったすべてを「受けとめる」覚悟を強いるものじゃないのか。 …残念ながら、この映画の監督にはそう言った「覚悟」が決定的に欠けていると思う。さもなければ、この物語を、決してこのようには語れなかったはずだろう。 もはや神々しくさえあるベニチオ・デル・トロを筆頭に、役者たちが素晴らしかっただけに、なおさらこの作り手の「軽さ」が残念でならない。  人の「人生」とは、結局のところ、確かに「21g」ほどの重さでしかないのかもしれない。けれど、誰の人生(たとえ、映画に描かれたものであろうとも!)にしろ、それを“目的”じゃなく単なる“手段”にできるほど、軽くはあるまい。 
4点(2004-06-21 13:18:27)(良:1票)
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