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まいかさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 214
性別 女性
ホームページ http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/
自己紹介 正直、生まれは平成じゃないです。かなり、昭和なムード。昔みた映画を思い出しながらレビューしますので、記憶がずいぶんあやふやかも。なにか変なところがあったら、http://plaza.rakuten.co.jp/maika888/のほうにツッコんでおいてください。

好きな女優
 「或る夜の殿様」の山田五十鈴、「近松物語」の香川京子
好きな男優
 「お茶漬けの味」の佐分利信
好きなキャラクター
 グレムリンちゃんとマシュマロマン

☆評価基準
10点:超絶。ほとんど奇跡。
9点:傑作。かつ大好きなんだもーんッ!
8点:傑作だし、好きデス。
7点:素晴らしいです。好みの映画です。
6点:まあ、悪くないと思います。
5点:なにか気になるものはあります(~~;

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141.  天使にラブ・ソングを・・・
おバカな内容のポップコーン映画です。アメリカ人の観客ならゲラゲラ笑って楽しむのでしょうね…。何かしら社会的なメッセージが含まれている気もするけど、よく分かりません。 舞台はカトリック教会で、歌っているのは白人女性で、さして合唱シーンが多いわけでもなく、とりたてて感銘を受けるほどの演奏が聴けるわけでもないので、これを「ゴスペル映画」のように見なしているのは、たぶん日本人の勘違いによるものでしょう。続編はまだ見ていませんが、これよりはゴスペルっぽくなっているのかしら? 考えようによっては、米国のプロテスタント勢力が、カトリックの閉鎖性を揶揄して、自分たちのほうが開明的だとアピールするための映画だったのかもしれません。ちょうど南部の福音派とネオコンの勢力が強まっていく数年前に作られた映画だし。
[地上波(字幕)] 5点(2020-05-17 01:46:35)
142.  塔の上のラプンツェル 《ネタバレ》 
「子供を喰いものにしながら生き長らえる毒親との葛藤」というシリアスなテーマを、子供向けのアニメとして明るく見せてしまっていることに驚きます。表向きはたしかに、コミカルな演出と、勧善懲悪的なキャラ設定と、予定調和的なハッピーエンドに包み込まれていますが、よくよく考えると、この映画は、子供たちに向けて「君たちの親はニセモノかもしれない」「どこかにホンモノの親を探したほうがいい」「親の言いなりになるなら泥棒と結婚するほうがマシ」というメッセージを送っている。もちろん自分まで泥棒になるわけじゃなく、あくまで自分自身の内なる高貴さを信じなきゃいけません。 賛否両論はあるでしょうが、たしかに世の中には、このようなメッセージを必要としている子供たちがいるだろうと思う。わたしは、そういう社会的な意義においてこそ、このアニメを評価できると感じました。 マザー・ゴーテルが悪者であることは映画の冒頭で明示されますけども、かりに途中でそのことに気づくような展開だったとしたら、これはかなり衝撃的な物語に変貌するはずです。わたしたちは、最初からゴーテルが悪者だと知っていればこそ、彼女が転落死しても「ざまあみろ」と喜ぶだけですが、実際のところはそう単純な話ではない。曲がりなりにも18年間自分を育てた母親を死なせたときの主人公の精神的なダメージは、かなり深刻なものになる。そこらへんの葛藤をすっとばして、底抜けにハッピーな成長物語として明るく笑い飛ばしてしまうディズニーの大胆不敵っぷりに率直な驚きを禁じえません。 映画の出来不出来にかんしていえば、せいぜい可もなく不可もなくといったところです。むしろ重たすぎるテーマをカムフラージュするためには、出来すぎていないのがかえって美点かもしれません。 ちなみに、酒場の裏手に巨大なダムが存在する理由と、それがもろくも決壊してしまう意味は何なのか、まったくもって謎でした。
[地上波(吹替)] 6点(2020-05-03 11:59:49)(良:1票)
143.  モアナと伝説の海 《ネタバレ》 
かなりの超大作ですね。よくこんなものが作れたなぁと感心してしまいます。逆にいうと、ここまでの映像美とスケール感でしか表現できないような難しい題材に取り組んでしまったのですね。ジブリの『もののけ姫』の場合もそうだけど、この種の題材って「よく分かんないけど、なんかスゴイ」という形でしか表現しえないのだろうと思う。「自己実現」の物語でもあり、「救済」の物語でもあるけれど、それ以上に、やはりこれは「自然への畏敬」を喚起させるための善悪を超えた神話です。であればこそ、物語に収まりきらない壮大な背景世界を圧倒的な表現で描くしかない。 テフィティやマウイの造形は「ポリネシア文化への偏見を招きかねない」と批判されてるみたいですが、ディズニーとしてはこれが最善の形なんだろうなぁ。寝釈迦みたいなテフィティは美しかったですよ。その反面、悪役にあたるテカァやタマトアやカカモラの造形は、だいぶフェイク感が漂ってて安っぽかったです。あれじゃあ「ジブリの物真似」といわれても仕方ない。自然の脅威というものを、もうすこし想像力ゆたかに造形化してほしかった。あまりにもマンガじみています。 とはいえ、「ポリネシア神話」という過去に類例のない題材を、これだけの表現で描いてみせた点は評価に値すると思う。とりわけ幼いころのヒロインがヨチヨチ歩きで海と戯れるシーンは、3Dアニメとは思えないほど表情豊かで美しかったし、生き生きした神秘性とリアリティが相俟って、思わず息を呑むほど見入ってしまいました。映像そのものに説得力があって、言葉や台詞による説明を要しませんでした。主題歌のメロディにも、胸を締めつけるような純粋さと美しさがありました。
[地上波(吹替)] 7点(2020-05-02 02:56:45)
144.  シンデレラ(2015) 《ネタバレ》 
いまさらディズニーのシンデレラなんて…とは思ったけど、せっかく地上波でやるのならと思って見たのが正解でした。じつに王道的な内容ですが、思った以上によく出来ています。とくにCGの映像は見事。たぶん馬は実写で鹿はCGだと思いますが、馬と鹿が出会う場面にまったく違和感がない(日本語的には「馬鹿」ですけど…笑)。ネズミやトカゲたちも、実写のなかに自然と溶け込んでいます(アヒルは「アフラック」を思い出させるけど…笑)。強いていえば、魔法使いの老けメイクだけがちょっと嘘っぽかったかな。 カボチャの馬車の美しさは絶品です。それからガラスの靴も美しい。重厚感のある舞踏会のシーンにはウットリしてしまいます。草むらの遠景や森などの風景も、往年の名画のようなオーソドックスで風格のある映像になっています。 ストーリーはごくシンプルで、変にこねくり回すことなく、ほぼ旧来どおりですが、多少のアレンジが加えてあります。冒頭で実母が魔法使い(フェアリーゴッドマザー)の存在を予言するのは、上手い具合に伏線として機能しています。王子が森でいちどシンデレラと出会うのも、舞踏会で一目惚れするよりはだいぶ説得力が増しますね。秘密の花園でブランコをこぐシーンは、ちょっとエッチな隠喩めいてる(?)気もするけど、ここでいちどガラスの靴が脱げるのもいいですね。王子は、ここでいちどシンデレラに靴を履かせているので、最後にシンデレラを探し当てるときには確信があるのですね。 強いてストーリーに気になるところがあるとすれば、父が再婚する動機かなあ。アニメのときは娘のために再婚したのですけど、この映画では自分の愛欲のために再婚している。しかも継母がやたらと美しいのです。リアルといえばリアルですけど、やっぱりちょっと父が不純な存在に見えてしまいますね。 それから、王子は、シンデレラを探すために莫大な予算を使って舞踏会を開き、国のための政略結婚を反故にして彼女を王妃に迎えるのですが、その選択に説得力が与えられるためには、王子に鹿狩りをやめさせたシンデレラの「勇気と優しさ」が父王にも伝わるべきだったかなと思います。
[地上波(吹替)] 7点(2020-04-21 10:11:50)(良:1票)
145.  白雪姫と鏡の女王 《ネタバレ》 
王女様が下層カーストの小人たちと手を組んで国家を再建する物語。外国の王子様は添え物みたいな存在で、いてもいなくてもいい感じ。世の中は女性次第で善くもなるし悪くもなる、というお話です。眉毛も髪も黒々とした王女様は、とても可愛らしいけど、雪国というよりは南アジアの雰囲気が濃厚です。 物語の設定にも、特撮を含めた映像にも、とくに不満はなくて楽しく観ることができましたが、最後だけがちょっと物足りない。悪い王妃を廃しただけで、簡単に元通りの幸せな国に戻れるのですね…。せっかくなら、人々が力を合わせて国を立て直していく姿も見たかったです。まあ、もともと「働かなくても歌って踊れる国」だったのですから、べつに努力しなくても平和と繁栄が戻ってくるのかもしれませんし、労働がなくなれば社会カーストも消滅するのかもしれませんね。 まあ7点でもいいんだけど、ちょっと辛めの6点で。
[DVD(字幕)] 6点(2020-04-14 06:41:38)(良:1票)
146.  翔んで埼玉 《ネタバレ》 
ギャグ漫画家として知られている魔夜峰央は、じつはビアズリーなどの西洋絵画や、萩尾望都・美内すずえなど少女漫画の系譜を引いています。二階堂ふみが演じるお耽美キャラとBL(やおい)のエピソードは、その傾向をよく体現しています。 この映画は地域格差をテーマにしています。「地域」の格差が「貴賤」の格差を生むという差別的な構造です。平安時代の日本には、京都を中心とする貴賤格差があり、卑しい者たちがやんごとなき人々に跪くという光景が日常的に見られたはずです。武家社会になっても、日本人どうしが国ごとに分かれて戦ったり、隠れキリシタンに踏み絵を強要するなどの差別がありました。それを現代の日本人はもはやギャグとして笑っているのですが、じつは近現代の日本にさえ「地域格差」や「経済格差」にもとづく優劣の意識は残存しており、そこには少なからぬ差別もあるという笑えない状況があります。数百年後の人類ならば、これをギャグとして笑うのでしょうか? じつは少女漫画も、かなり古典的な貴種願望を描いている場合が多い。いわゆる王子さま願望やシンデレラストーリーは、貴賤にもとづく差別構造を前提に作られており、見方によってはかなりギャグ的な世界です。魔夜峰央は、少女漫画に内在するそのような差別構造をギャグに仕立てて暴露したといえます。 二階堂ふみが体現する「ハイカラ=モダン」な世界に対して、Gackt・伊勢谷友介・京本政樹が体現するのは土着的な「歌舞伎者=ヤンキー」の世界です。この映画は、最終的に後者が席巻して泥臭い世界が覆い尽くす結末になっています。世界を「モダン化」して引き上げるのではなく、世界を「土着化」して引き下げるというイメージです。そのことが、この映画の価値観を、西洋的なものではなく、アジア的なものにしています。そこが東映らしいのかもしれません。
[地上波(邦画)] 6点(2020-02-11 00:28:40)(良:1票)
147.  風立ちぬ(2013)
宮崎アニメのなかで、もっとも美しい作品ではないかと思います。そこに「悪」の要因があるにせよ、その美しさを讃えずにはいられません。もっとも愛があふれた作品だろうとも思います。しかし、その愛こそが、大いなる「悪」なのでしょうね。ひたすら「善」を求める観客には拒絶されるでしょうが、そもそも美や愛は、かならずしも「善」であるわけではなく、ときとして大いなる「悪」だと言わざるをえません。宮崎本人の言葉を借りれば、この映画にあふれる美や愛こそが悪への誘惑=メフィストフェレスです。 まごうことなき「善」の映画など存在しない。それどころか、武器をもって闘ってきた宮崎アニメの過去作品のすべては、たえず「悪」を美化(あるいはエンタメ化)しつづけてきたはずです。その意味では、むしろ『風立ちぬ』こそが、その矛盾にもっとも向き合った作品だといえる。鈴木敏夫が意図したように、この矛盾にこそ、宮崎駿が描かねばならない真実があったのだといえます。 戦争技術者をあからさまなマッドサイエンティストとして描く紋切り型にくらべれば、むしろ慎ましく美しく生きた戦争技術者の生き様にこそ、真実の一端があるのかもしれない。一部のエリートが民衆の善良な生活を破滅させたとする紋切り型にくらべれば、むしろエリートの美しい技術を愚かなナショナリストたちが応用したという醜悪な実態にこそ、真実の一端があるのかもしれません。 では、科学技術者はいったいどうすればよいのか? その答えが映画のなかに用意されているわけではありません。強いていえば、その答えは、破壊し尽くされた飛行機の残骸を見つめる観客のほうに投げかけられています。 もともと久石譲の音楽は好きじゃないけれど、この映画の音楽は率直に美しく感じられました。荒井由実の曲も、死と飛行機の描写にティンパンアレーの透明なサウンドが重なり、さらには彼女のコンサバな姿勢までもが相俟って、まるであらたに意味付けされた楽曲のように生まれ変わっていました。
[DVD(邦画)] 9点(2020-01-26 02:23:41)
148.  あ、春 《ネタバレ》 
ここでの相米慎二は、思春期の少年少女が走り回る活劇ではなく、松竹ならではのホームドラマを撮っています。多くのシーンはカットが細かく割られています。しかし、相米らしい長回しも依然として健在です。そして、少女が川に入るような通過儀礼はありませんが、川に散骨するラストシーンはあきらかに死と再生の儀式になっています。そういう点では、十分に相米らしい映画だと感じられます。 斉藤由貴が演じる嫁は抑圧されており、情緒が不安定で、発作を起こしては薬を服用し、セックスレスに苦しんでいるようにも見えます。実父を亡くし、夫にも距離を感じており、その心の隙間を埋めるように義父と心を通わせていく。 義父の山崎努は、鶏を絞めて食べたり、生まれたばかりの雛を溺死させたりするのですが、ついには死の床でヒヨコを孵化させます。じつはヒヨコが孵化しないバージョンも撮影されていたらしいのですが、いずれにせよ死に際の山崎努が卵を温めていたことは重要です。かりに孵化しなくても、そのあとの散骨のシーンを見れば、登場人物の全員が再生して若返り、本来の関係を取り戻したことが分かるからです。斉藤由貴は強くなっているし、鳥小屋もどんどん立派に進化している。もはや鶏が黒猫に襲われる心配もないはずです。 これを「義父と嫁の物語」だととらえれば、かなり小津安二郎的にも思えます。一方、「父と息子の物語」だとすれば、そこには佐藤浩市と三國連太郎の関係が暗示されているようにも思えます。三國は、幼い佐藤浩市を置いて去っていった父親でもあり、かつて松竹を去っていった俳優でもあります。88年から松竹の「釣りバカ日誌」に主演しはじめ、91年には山田洋二の「息子」などにも主演しています。そして94年に(これは松竹ではありませんが)相米慎二の「夏の庭」に主演して、かつて妻のもとを去った老人の役を演じています。 映画のなかで山崎努は、佐藤浩市だけが唯一の血縁者であるかのように語ります。同じ漁師歌を覚えていたことから考えれば、(かりに血縁関係がなかったにせよ)山崎努が「紘」と名づけた息子と5年間を過ごしたことは間違いありません。しかし、不思議なことに、佐藤浩市には実兄(三浦友和)が存在します。富司純子は、山崎努が最初の夫だと語っていますから、彼は連れ子でもなさそうです。そのあたりの設定が、わたしにはいまだに理解ができません。ちなみに原作の場合、実姉と義兄が登場していますが、とくに矛盾はありません。 相米慎二の佳作だとは思いますが、キネマ旬報が1位に選ぶほどの名作と評価されたことが、わたしにはちょっと意外です。あまり自信をもって評価できませんが、とりあえず7点つけておきます。
[DVD(邦画)] 7点(2020-01-23 18:41:37)
149.  ラ・ラ・ランド 《ネタバレ》 
何度か見たけど、見るたびに泣ける。最初から泣けてしまう。 夢を追う自称ジャズ通の男と女優志望の稚拙な娘。けっして才能があるのでもなければ、血のにじむ努力をするわけでもない。どこにでもいるような、安易に夢を追うだけの若者。でも、夢追い人なんて、みんなそんなもんですよね。だから、みんな星屑のように消えていく。 エマ・ストーンは、ある意味で思慮の浅い尻軽女です。ライアン・ゴズリングは、ラテン音楽やロックまがいのジャズを軽蔑してるけど、じつはモダンジャズについてさえ半可通でしかない。でも、多かれ少なかれ、ほとんどの夢追い人なんてそんなものですよね。だからこそ、哀しくて愛おしい。 この映画の音楽やダンスが「全然たいしたことない」といって嘲笑する観客もいたようですが、そもそもこの映画は、非凡な音楽家やダンサーを描いているのではなく、哀しいほど平凡な夢追い人の姿を描いているにすぎません。 主人公の幼稚さや安易さが納得できないと感じる観客もいたようです。かりに「品行方正な努力家が成功する話」なら応援できるのでしょうし、「幼稚な勘違い野郎が挫折する話」なら自業自得だと笑えるのでしょう。しかし、この映画はそのどちらでもない。勧善懲悪的な見方をすれば、さぞかしモヤモヤさせる話なのだろうと思う。菊地成孔に倣って「ジョン・レジェンドが善玉なのか悪玉なのか分からない」といった議論を展開したくなる気持ちも分かります。 しかし、これは勧善懲悪的なストーリーではありません。むしろ、安易な夢追い人であるがゆえに、誰しもが辿らねばならない哀しい人生の標本です。この映画を愛する人々は、きっと自分と同じような夢追い人の安易さと、幼なさと、哀れさを愛し、その逃れようのない後悔にやるせなさを感じるのです。 女優志望の娘は、さしたる才能がないにもかかわらず、無能なジャズ男に愛されたおかげで、いっときの女性としての輝きを放ち、それによって幸運をつかみ取ります。…成功なんて、そんなものですよね。けっして努力が報われるのでもない。能力が正しく評価されるのでもない。たんに運の巡り合わせだけで成功するのです。いくばくかの才能はあったかもしれませんが、それを引き出してくれたのは、才能のない男の見境のない愛だったのです。 おまけに、彼女は幸運のなかで結婚するのですが、そのときに選ぶのは、自分を愛して輝かせてくれた夢追い男ではなく、おそらくは業界の大物です。これも必然だといっていい。最初から決まっていたかのような運命です。 運命は自分で切り開くものだと信じている観客にとって、これは納得のいかない結末かもしれません。しかし、これは自分で運命を切り開く物語ではなく、むしろ自分たちの力ではままならない運命に翻弄される、無力な夢追い人の物語です。 音楽がとても美しい。そして、ハモサビーチの桟橋で出会った老黒人夫婦のダンスと同じように、哀れな夢追い男女が二人だけの世界で踊り続けた下手っぴいなダンスが、たまらなくたまらなく愛おしい。
[DVD(字幕)] 10点(2020-01-18 14:41:16)(良:4票)
150.  アンダーグラウンド(1995)
悲しい。イデオロギーとエゴ、金欲と愛欲にまみれた狂騒のうちに、それぞれの人生は、はかない幻のように終わってしまう。そして気がつけば、彼らの祖国もまた、まるで儚い人生と同じように、夢のように消え去ってしまう。 この映画の悲しみが、祖国愛を強く喚起するためのものだと解釈することはできます。そして、そういう解釈は政治性を帯びずにはいられません。私は、祖国というものは元来、人生と同じようにもろく儚いものなのだろうと思うけど、かりにそう納得したとしても、それはそれで、また逆の意味での政治性を帯びる。 この映画がはらんだ政治的主題を、日本人の自分がどう受け止めるべきかを考えるのは、正直とても難しいけれど、そういったテーマの難しさは措いたとしても、この作品の脚本の見事さと表現の力強さには感嘆せずにいられません。たんにバルカンブラスを聴かせるだけの映画じゃあなかったです。
[DVD(字幕)] 9点(2019-12-28 03:18:40)(良:1票)
151.  パッチギ!
この映画が「政治的な作品」じゃないと言えばウソになる。でも、それ以前に、何より「映画的」な力を爆発させてることによってこそ、まずもって、この映画は確実に評価できます。 ・・・とはいえ、この映画がこんなふうに「映画的な力」に満ちてるのは、やっぱり、その根底に「政治的」であることをも恐れないような姿勢があったからじゃないかと思う。いまの日本映画って、現実を逃避するためのフィクションに徹したものばかり。あるいは、現代人の閉塞した内面性をウジウジと描写したような作品(つまり私小説みたいな映画)とかもあふれてる。でも、ウジウジした内面性にこだわることが「映画の力」に結びつくとも思えない。 本来は、そんなふうに虚構とか内面とかに逃避した作品じゃなく、日本の社会が直面している、もっとも困難で扱いづらいテーマについて、なりふりかまわず「パカッ」と開くような、そういう力強い作品こそが、映画に力をもたらすんじゃないでしょうか。べつにプロパガンダ的なメッセージとか、政治的な主張が提示できなくても、とりあえずは、全部ぶちまけてしまうこと。さまざまな断面を見せてしまうこと。良いんだか悪いんだかも分からないまま、とりあえず、そこに映画的なエモーションをぶち込んでしまう事。そこからしか、現代の日本映画に「力」なんて生まれてこないんだってことを、この映画はみごとに証明してると思う。 実際、この映画のクライマックスは、映画的なエモーションを見事に体現しています。「映画」を、ちゃんと見せてくれている。だから観客は、まずはとりあえずそれを“観れば”いい。 したがって、観ないよりは、断然観たほうがいい作品になってます。その点で、井筒和幸という人は、映画監督として非常に正しいことをやってると思いました。
[DVD(字幕)] 7点(2019-12-28 03:05:57)(良:5票)
152.  蜜蜂と遠雷
まず脚本が弱い。べつの脚本家を立てるべきだったと思います。物語として何を伝えようとしているのかが最後まで見えませんでした。 映像は非常に美しいですが、映像そのものが何かを語れていたかといえば、かなり疑問です。「生活者の音楽」とか「世界が鳴っている」とか「世界が祝福している」といったことが、セリフとして語られることはあっても、映像じたいによって説得的に表現されることはありませんでした。「生活者」にかんしていえば、映像的には、松坂桃李よりも、むしろ眞島秀和のほうがはるかに「生活者」を感じさせました。 ムーンメドレーを連弾したときに、二人がどのような「月」のイマジネーションを飛翔させたのか。それも映像で語られることはありません。ただ二人の手と表情が映されただけです。「春と修羅」を演奏するときに、それぞれのピアニストは何を表現しようと試みたのか。それも映像としては何ひとつ語られません。やはり演者の手と表情が映されただけです。そもそも宮沢賢治の「春と修羅」の世界は何ひとつ映像化されていません。プロコフィエフやバルトークの協奏曲の演奏場面でも、描かれるのは演奏者の表情と聴衆の反応ばかりで、そもそも作曲家と演奏者が何を描こうとしたかはまったく見えてきません。 これでは「音楽を映画にした」とは言えないと思います。この映画自体が「世界が鳴っている」ことを十分に体現できていない。 音楽映画としての意義は、いかに「いい音楽を聴かせたかどうか」ではなく、いかに「映像で音楽を見せたかどうか」に求められるはずです。いい音楽を聴かせるだけなら、プロの奏者に演奏させれば済むことです。音楽映画であるためには、音楽がイメージとして観客に共有されなければなりません。演奏場面で手と表情を映すだけなら、普通のコンサート映像と同じです。顔だけ俳優に置き換えたにすぎません。 それぞれのピアニストが、どんな困難を、どのようにして乗り越えたのかも、映画を見ただけではほとんど理解できません。「蜜蜂」と「遠雷」が作品の表題である必然性も、映画を見ただけでは何も伝わりませんでした。「雨と馬」に至っては、まったくもって意味不明でした。これでは、たんに原作を読んだ人のためのイメージダイジェストでしかありません。映画を見ただけで「蜜蜂」が“天賦(ギフト)”を意味すると理解できる人は皆無でしょう。まして、スローモーションの「雨と馬」が、原体験としての“ギャロップのリズム”だと理解するのは絶対に不可能です。「雨と馬」のもったいぶった映像を流す暇があったら、「蜜蜂」と「遠雷」の意味の対比をもっと明確に示すべきだったでしょう。 扱き下ろすほどひどい作品ではありませんが、ポーランドの映画大学に学んだエリートの作品と期待しただけに、長いミュージックビデオのような内容には肩透かしを喰らいました。
[映画館(邦画)] 6点(2019-11-02 08:01:35)(良:2票)
153.  レ・ミゼラブル(2012)
アップの映像が多すぎます。歌っている時はほとんどアップで撮らえていました。しかし、いい表情を見せていたのはファンテーヌ役のアンハサウェイと、マリウス役のエディレッドメインくらいかなぁ。ほかの役者にかんしては、表情をアップでとらえる必然性をほとんど感じませんでした。もともとミュージカルというのは、役者のエネルギーが歌唱のほうへもっていかれてしまうため、表情や演技が、概して淡白もしくは大味になりがちなのだと思います。アップの映像に説得力が出てこないのは、そう考えれば当然です。チラシによると、本作では歌のリアリティを重視する演出手法をとったとのことですが、ならばなおさら、カメラを寄せて表情ばかり撮るのではなく、歌手たちの声の「響き」を彼らの肢体やその空間とともに大きく映像化すべきだったと思います。とくにエポニーヌの歌う「On My Own」は、実際の舞台で観る時のように、大胆なロングで撮ってほしかった! そのほうが、彼女の孤独感と、歌の力強さとを、より壮大なスケールで見せることができたはずです。何もかもをベタなアップの映像で繋いでしまったために、金太郎飴みたいに一本調子で、小説のあらすじを大雑把に映像化したような大味な映画になってしまった感じ。まあ、泣くことは泣きましたけどね、ああいう内容ですから。でも、映画そのものが興行成績を塗り替えるほどの傑作なのかというと、そうは思えませんでした。7点でもいいんだけど、辛めの6点。 
[映画館(字幕)] 6点(2013-02-11 11:24:41)(良:1票)
154.  山椒大夫 《ネタバレ》 
世界的な評価の確立した名作に対して「7点」というのは、自分としてはやや低めの評価です。観る前のハードルが高すぎたのですが、駄作と言うほど悪いとは言えないものの、傑作と呼ぶ気にはなれません。宮川一夫のカメラと香川京子が申し分もなく美しいことに変わりないし、花柳喜章だって悪いとは思いません。じゃあ、いったい何が不満だったのか。おそらく、わたしは、鴎外の文章がもっていた非常に簡潔な叙事性と、前々作の「雨月物語」が強烈に放っていた神秘性とを、両方とも併せもったような世界に期待していたのだと思います。わたしが勝手に設定したそのハードルから見ると、この作品はごくフツーでした。いくつかの点で、鴎外の短編と違っている部分(安寿が妹である、巫女に騙される、姥竹が自殺ではない、厨子王に変節がある、山椒大夫に仕打ちが与えられる、最後に官位を捨ててしまう、地蔵の奇跡が描かれていない、等)がありますが、そうした変更を一概に悪いと言うつもりはありません。鴎外の小説じたい、もともとあった複数の伝説の翻案なのだし、たしかに小説どおりの展開にしていたら、かえってリアリティに欠けていたようにも思います。しかし、結果として現代的な意味での説得性が増しているぶん、おなじ中世の物語である「雨月物語」に感じられた理解を超越するような神秘性が薄まり、ややマンガじみた分かり易さに帰着した気がします。ヨーロッパの人たちにそのあたりがどう見えたのかは知りませんけど…。けっきょく総合的な意味でやっぱり最高傑作だって思うのは「近松物語」かなぁ。といいつつ、いまだに他の作品をレビューできていませんが。
[DVD(邦画)] 7点(2012-10-07 15:28:24)(良:1票)
155.  早春(1956)
わたしの小津の中でベスト。純粋で、端正で、品があって、キレイな映画。 小津はカラーになったら、ちょっと卑猥で下品な作品をつくるようになりますよね。エロおやじの大学教授とか、うんちの話とか。小津にとって「色がつく」ということは「エロくなる」ということだったように思う。もちろん、それはそれで面白いんだけど。でも、それに対して、小津のモノクロ時代の作品は、みんな清潔だし上品です。この作品は、全作品中でも異色作と言われるけど、次の「東京暮色」ほど特異な感じはしない。そもそも浮気なんて、登場人物が口々に言ってるように、どこにでもある話です。もしも、この作品が特異だとするならば、それは小津作品の中で唯一「春」を描いているということでしょう(じっさいの物語の季節は夏のようですけど)。「秋」とか「遅い春」といったイメージが強い小津映画の中で、この作品だけが、タイトルどおり「春」そのものを瑞々しく描いてる。男の人たちにまじって自由奔放にふるまう岸恵子が可愛くて好きです。かなり開放的で大胆ではあるけど、けっして慎ましさや、爽やかさや、瑞々しさというものが損なわれていない。まあ、これがカラー作品だったら、もうちょっと下品だったのかもしれませんけども。これはモノクロ時代の最後のほうの作品ですし、モノクロの小津作品の端正さがここで完成されてるように思います。長時間の映画ですが、まるで爽やかな短編佳作のようで、長さを感じさせません。
[映画館(邦画)] 9点(2012-10-06 17:03:12)
156.  怪談昇り竜 《ネタバレ》 
お、面白い…(笑)。エロ、グロ、やくざ、拷問、化け猫、見世物小屋からアヘン窟まで、何から何までテンコ盛りのエンタテインメント。テンコ盛りといっても、そこに娯楽以上の意味は皆無だし、中身もまったくマンガじみた無内容な話ですが、しょーもないギャグを交えながら、それらを面白おかしく、テンポよく見せてくれる。60年代のどこか陰気な石井作品に比べると、ある意味、陽気で分かりやすいともいえる。内容の無さといい、無駄にグロい仕掛けといい、土方巽の安い小芝居といい、端的に言えばただの「アホ映画」なんだけど、梶芽衣子のきりりとした美しさ、その歌声による泣かせの怨歌、そしてオープニングとエンディングをつなぐ女どうしの粋な戦いの格好よさと耽美性とが、全体のアホっぽさをぴしっと引締めていて上手い。そのクールさに惚れて8点つけようかと思いましたが、はやる心をおさえて7点。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2011-10-14 04:04:53)
157.  芙蓉鎮
約20年前に見た映画で記憶からこぼれていましたが、監督が亡くなったこともあり、ふたたび思い出して見る機会を得ました。とにかく骨太ですね。映像も骨太なら、物語も人物描写も骨太です。物語には善人も悪人も登場します。しかし、もはやそうした善悪を超えて、なんだか生きる人々の力強さそのものに心打たれてしまう。もう日本では見かけることのない、全力で生きることに立ち向かう人々の姿。とにもかくにも「人間を見た!!」という思いにさせられます。物語は歴史的背景を負っていますので複雑ですが、人物の描写はある意味で非常に単純明快だといえる。けれど、そうした単純な人々の生きざまと、それが織りなす社会のうねりを目にすると、かえって「個人の複雑な内面性」なんてものを描くことのほうがチャチで胡散臭いものに思えてくる。この映画には、台湾や香港映画ともまた少し違う、清濁すべてを併せ呑むような独特の豪快な手応えがあります。初見のときはあまりのボリュームにやや疲れてしまったのですが、何度みてもいい映画でした。
[映画館(字幕)] 9点(2011-10-14 03:54:04)(良:1票)
158.  バンデットQ 《ネタバレ》 
夢の冒険を終えて「元の世界」へ戻ってくる物語は数あれど、この映画の主人公は「元の世界」へ戻ることが出来ない。夢から醒めても、冒険は終わらない。現実に戻ったあとも、彼は「自由意志」の世界へ放り出されてしまいます。神さまは、あえてこの世界に「自由意志」の余地を残した。神は無慈悲にサイコロをふる。両親や家庭といった幻想をもあっさり消し去り、テリーギリアムは主人公の少年に「自由意志」の世界で生き続けることを命じます。実際、世の中には家庭にも両親にも頼ることのできない子供が沢山いるでしょう。「それでもどこかで、神さまは君のことを見てくれているよ!」ショーンコネリーの最後のウインクは、少年にそんなメッセージを残しているようです。非常にラディカルですが、ここに現代に生きるイギリス人の残酷なほどに独立心の強い宗教性が出ているのかもしれません。
[DVD(字幕)] 8点(2011-08-14 02:58:17)
159.  オキナワン チルダイ〈特別版〉
沖縄の「チルダイ」が本土資本によって買い占められようとしている、そんな危機的な事態が、のんびりとしたテンポではあれ、中心的なテーマとして描かれています。「チルダイ」というのは日本語の「気だるい」が沖縄風に訛ったもので、いわば「テーゲーでもなんくるない、沖縄特有のうちなぁタイム」とでもいうような、沖縄の社会や人々の怠惰な特性を表す言葉だとされています。しかし、私が見たところ、この映画における「チルダイ」は、「気だるい」というよりもむしろ、本土の言葉でいう「かったるい」の感覚に近い。すなわち、そこには少なからぬ暴力的な衝動が秘められていると感じました。前作の『オキナワン・ドリーム・ショー』に「死臭」のようなものが漂っていたとするなら、さしずめ本作には、そこはかとない「殺意」のようなものが漂っている。そして、それは本土に向けられたものであろうと私は考えずにいられませんでした。処女作の『サシングヮー』とこの作品こそが、高嶺剛の本質を強烈に感じさせる傑作であり、これ以降の劇場用作品ではそうした面が薄まっていくばかりで残念です。ちなみに『サシングヮー』は、ソクーロフの『ロシアン・エレジー』にも匹敵するような危険な傑作。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-29 08:29:47)
160.  おくりびと 《ネタバレ》 
遺体に丁寧な装いをして旅立ちの演出をする職人の技を、楽器を慈しんで音楽を奏でる人間の技に重ね合わせるというアイディアはなかなか洒落てるし、「白鳥」「鮭」「小石」といった最上川流域の素材をたんなる「風景」に終わらせず、テーマに結びつけて有機的に繋いでいく手腕といい、随分と器用な脚本だと思う。「遡上して産卵する鮭」「力尽きて死にゆく鮭」「塩焼きの白子(フグ)」といったメタファー、あるいは「飛来する白鳥」「旅立つ白鳥」「クリスマスのフライドチキン」といったメタファーを、産まれること、死ぬこと、食べて生きることに重ね合わせながら物語に厚みを与えていますね。石文のメッセージがお腹の赤ん坊に伝えられるラストシーンにまで、こうしたアイテムが抜かりなく行き届いていて、悪く言えば、ちょっと「小慣れた脚本」だとすらいえる。 ◇「汚らわしい!」と叫んだ妻の拒絶反応に対して賛否両論あるようですが、私には十分に理解できました。拒絶の理由のひとつは、音楽家から死体処理という職業への落差。その落差の大きさを主人公も感じていたがゆえに妻に真実を話せなかったわけですし、妻にとってもこの落差を知った衝撃は大きい。二つめは、真実を取繕った夫によって、夫婦の信頼が裏切られたこと、それ自体への拒絶です。そして三つめが、腐乱死体や自殺死体に触れることに対して一般的に抱く文字通りの「穢れ」の感覚であり、これも私は無理からぬことだと思う。それらが混然となった感情の中で「汚らわしい!」の叫びになったのだけれど、その中でももっとも重要なのは、あくまで「夫婦の信頼」の問題なのであって、それさえクリアできれば、職業の問題は夫婦間で十分に乗り越えられると考えたからこそ、妊娠した彼女は無条件で山形に戻ってきたのだと思います。 ◇もうひとつ重要なシーン。父のところへ行けと説得する同僚(余貴美子)や妻を振り切って、主人公がその場を走り去ろうとするシーン。あのまま走り続けても、彼に行く場所はありません。その彼をカメラは正面からとらえている。走れば走るほど、後方で妻の姿が遠ざかっていく。それを見れば、彼が引き返さざるを得ないことは理解できると思います。脚本の器用さが目立ってしまう本作品の中で、演出的にもっとも優れたシーンだと思いました。
[DVD(邦画)] 7点(2011-07-15 08:30:39)(良:1票)
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