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王の七つの森さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 188
性別 男性
自己紹介 ・・・・最初に投稿してから4年近くたとうとしています。
これからも、細々とでも投稿してゆきたいと思っています。

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141.  DISTANCE/ディスタンス
美しい映画ですね。雰囲気としては個人的にも好きです。、、、、湖水の桟橋は遠い世界に逝った者達との架け橋、小舟は泥に没してその世界に通うことはもはやできない、、、、彼らの魂が、霧の水面のもっと向こうに静かにたゆたっているようで、、、、そして、私たちの日常の世界と、そこには架橋できないdistanceがあるということなのでしょうか、、、、、。しかし、このテーマを叙情的に描くという姿勢に対しては、断固として異議をとなえたい。、、、なぜ絶対を渇望したのか、なぜ出家したのか、なぜ一つになりたいと思ったのか、その事情、心理過程は、暴力や承認への渇望やら、医者、教師、主婦、それぞれに激しいものがあったはずで、こんなにさらりと、静かに叙情的なものではないはずです。このように描くことで、実は彼らを理解する道を自ら遮断しているのではないでしょうか。、、、、、そして、彼らの心理過程をもっと丹念に辿れば、実は、彼らと私たちの間には、そんなにdistanceはないのだと思い至るのでは、、、、、。それと、この映画には、かつては理想的な家族が存在したが、現代はそれが崩壊したという錯覚があるようにも思えます。理想的な家族なんて、過去から現在に至るまで存在しなかったと考えた方が真実に近いのではないでしょうか。
2点(2005-01-21 10:58:34)
142.  ひまわり(2000)
遠い過去を懐かしむといった、単なるノスタルジーに終始するのでなく、過去を今のものとして現在させるには、時間の流れを逆流させる必要があるわけで、、、、、校舎の玄関のシーンとか、過去と現在が混合していくシーンを織りまぜ、そして最後の最後に、船を掘って船出して、その船が沈没して、みんな死んで、冒頭の海難ニュースにつながる、ということで最終的に時間を逆流させる、ってな仕掛けなのでしょうか???、、、、、とはいえ、結局、やっぱり、思いつきを寄せ集めたノスタルジー映画ではないかと思ったのでした。最後の方の音楽はニューシネマパラダイスっぽいですしね。、、、、そういう映画なのに、わかる人がわかればいいのだ的に、メタファー散りばめるのってのは、傲慢以外のなにものでもないとも思います。ぷんすかぷんなのだ。
4点(2005-01-17 11:01:49)
143.  EUREKA ユリイカ
鉄格子(=鉄の檻=近代社会)の中で役所広司が、コツコツと壁をたたくと、コツコツと返答が、、。そしてバスの中でも、同じように三人がコツ、コツと、、。言葉が心底の真意を告げる手段として有効に機能しないと思われる時、最も素朴な通信手段を用いて、他者と交信し、自分が一人でないことを必死で確認しようとする情景、、、、胸が少し熱くなりました。(しかし3回目はいらないと思う)、、、また、「生きろとはいわないが、死ぬな」というメッセージ。人生に誰にでも共通する積極的な意味などないから「生きろ」と命じることはきないけど、同じ人として、死なないでくれと願うことはできるのでしょう。、、しかも、バスジャックという同じ極限状況を経験し、隣に死を抱える役所広司だから、それをいう資格があるのかもしれません。、、、監督は役所広司に重ね合わされ、「俺も昔は君たちと同じように社会を拒絶した、そして今、いつ訪れるかも分からない死をおそれつつ、何とか必死に生きている、だから、君たちも何とか死なないでくれ」というメッセージが伝わってくるようです。、、、、、、しかし、役所広司はなぜあそこまで咳をして、何かを吐き出そうとするのだろうか。監督だけにしか了解されていない記号のようにも思える。また直樹は梢が役所広司を介抱した光景を見た後、梢に暴力をふるうが、二人は近親相姦の関係にあるのだろうか。そして、なぜ直樹は秋彦に危害を加えないのだろう。などなど、実は、全編を通して、解らないことだらけでした。、、、、この映画は、見る人に何かを分かってもらって、何かを変えてゆこうという「表現」ではなく、監督の思いのたけを自慰的に垂れ流す「表出」にとどまっているように思います。見たい人だけ見て、分かる奴だけ分かればいいんだぜ、というのなら、どっかの映画サークルでもやっていればよい。職業として監督をやるのなら、より多くの人に見てもらい、理解してもらう「戦略」が必要なはずで、例えば、3時間37分という時間からして、誰がどこで誰と見て、その後でどういう話しをするかについて配慮を欠いているように思えます。
8点(2004-12-22 10:40:58)
144.  イノセンス
固定した視点ではなく、キャメラを動かしているように映像を展開させたり、動物を立体的に描いたり、アニメの技術としては極めて素晴らしいといえるのでしょう。また、動物は、いくら調教しても表情や仕草まで完全にコントロールすることはできませんから、動物を重要な要素として描くことはアニメにしかできないことなのかもしれません。、、、、、というわけで、アニメでこれだけのものが表現できるのか、という驚きはあるのですが、、、、しばし考え、CGを駆使した今どきの実写では表現できない何かがあったのだろうか、と思うと、、、、、、なんか、無さそうな気がするのです。、、、宮崎作品だと雲の流れや、色遣いなどで、こりゃぁ実写じゃ表現できんな、と感嘆する部分がありますが、押井作品はどうなんでしょう。例えば、ゴシック教会の形態をしたあの都市も、「ブレードランナー」のタイロン社の映像と較べて、美しくもなければ、畏怖の念もわかないのですが、、、。というところで、内容ですが、一番期待していたのは、電子化された記憶とゴーストで電脳空間に転移した少佐が、その空間の中でどのように振る舞うのかということでした。、、、、しかし、最後に、ちょこっと出てきただけで、それも全く豊かな想像力を感じさせない登場の仕方。、、、、要するに押井氏は、技術的に大変優れたアニメーターだけど、物語的な想像力と創造性はあんましないってことではないでしょうか。一番重たい問題である、ゴーストって何なのかということを、一生懸命考え、見る人にも考えてもらおうとするのではなく、底の浅い引用なんか羅列しちゃって、、、、。押井氏は、自己顕示欲が強いわりに、どこか自分に自信がもてず、強いコンプレックスを抱えているみたいな感じがします。へんな自尊心を捨てれば、もっと素晴らしい作品を作れる力量があるのに。もったいない。
4点(2004-12-19 21:00:06)(良:2票)
145.  光の雨
革命的同志愛をもって総括する。「この映画は反革命であり0点である。」、、、、、途中、これは何かのギャグではないだろうか、或いは連合赤軍は単なるネタで一番の狙いは現代的な何かなのだろうか、とも思いましたが、最後の立松氏のナレーションを考えても、どうやらベタでマジに作られているようです。、、、、、再度声を大きくしていいたい、「救いようのないあほ映画だぁ」、、、、、最も断罪すべきは、この映画が、この時代、この事件を真剣に理解し取り上げようとしていないこと。、、、、、で、どうしてそうなるのかというと、映画の作製者が、今の時代と真剣に取り組もうとしていないからに違いありませんっ。、、、例えば、今の時代はこの時代よりも悪くなったとか最後に裕木奈江に言わせていますが、そう思うのだったら、なぜ戦わないっ。他人行儀の冷笑で格好つけんな。それともこんな映画作ることがあんた達の今の戦いなのか。じゃあ、この映画に、政治的なもの、社会的なものがどれだけあるのか。政治的なことは一切なく、私小説的世界を描いているだけではないか。がるるるる、、、、、、。確固とした価値意識を持っていたとしても、私たちを取り巻く状況は日々、刻々と変化し、敵がいったい何であるのかを見定めるのは大変に難しいことです。この映画を作った人達は、状況の変化の中で敵を見失い、その挙げ句、自分たちの価値意識も喪失してしまっているように思えます。だから、この時代のトロツキスト達が、敵をどのように見失ったのかということを正確に記述することができないのです。それで、結局、真の総括ができず、ノスタルジーに陥没したり、いい加減なアイロニーを垂れ流すだけになっている。、、、、、、どうでもいいことですが、個人的にはインターナショナルよりワルシャワ労働歌の方が好きです。あややの渡良瀬橋も好きだけど。
0点(2004-12-15 00:07:56)
146.  ブラックホーク・ダウン
映画を見るって、そこに散りばめられた多数の事柄、映像から、自分なりに理解できるストーリーを作り上げることで、それって、結局、その映画の中に、自分のものの見方、感じ方を見いだすことなんですね。、、、、、で、私には、この映画は、「安易に武力行使という選択肢を選んではならない」という戒め、ある意味では反戦映画にしか見えませんでした。、、、、、マットの理想主義は完膚無きまでに潰え、ヒーローは誰もおらず、ただ消耗するだけの戦闘で、戦いに何の意味も見いだせず、あるのはただ、隣で一緒に戦っている奴のために戦うということのみ。、、、、アメリカの武力行使に何の大義もないということ、一瞬にして手足が吹き飛ばされ、内蔵が飛び出す戦闘がいかに悲惨なものなのかを語ってあまりあると思いました。(だからといって絶対的な非暴力主義が最も有効な手段だとは思いませんが)、、、、、最後の方で国連軍の装甲車などが登場しますが、国連平和維持活動に参加する自衛隊、イラクの米軍に協力する自衛隊が重なって見えました。、、、、、井筒監督は「究極の駄作」と評したそうですが、この映画のどの部分をどのようにつないで物語を作ると、アメリカ礼賛の駄作になるのか、興味深いところです。
10点(2004-12-14 11:45:16)(良:1票)
147.  雨あがる
黒澤明の、四十九日、あるいは一周忌などの法要のための映画に思えました。、、、、、最初にでてくる川どめになる川は三途の川、ラストでそれを渡った寺尾(黒沢)は、もはやこの世には戻らない。最後に舞う鷹は、天界で自由に飛翔する黒澤の魂を表現。、、、そして、色々と評価はあるかもしれないが、とにかく黒澤が庶民を楽しませてくれたことは確かではないかというメッセージを宮崎美子に語らせる。、、、、三船史郎は、歩き方もせりふ回しも大根だけど、おそらくそんなことは本人も十分承知しているでしょう。三船がでて、黒澤の魂に合掌しているということ自体がメチャクチャ重要です。もし彼がでていなければ、もっとしぼんだ作品になっていたかもしれません。、、、、、比較的短い映画ですが、そのあいだじゅう、ずっと読経の音の中で、黒澤の遺影に手を合わせているように錯覚してしまいました。、、、、、、、、映画の評価は、黒澤の遺影に手を合わせるときの気持ちの重さによってきまるのでしょう。強いていえば、最後に寺尾が素晴らしいと感嘆する風景は、天界で黒澤が見ているこの上ない景色なのだから、俗界の我々には想像に任せてくれればよいのに。センスのない監督だ。
7点(2004-12-09 14:41:51)
148.  シュリ
メッセージ性と娯楽性をともに備えた秀作だと思います。、、、、、(誤解があるかもしれませんが)、、、、チェ・ミンシクの狙いは、南北の両首脳、つまり金正日と金大中を同時に抹殺して、その混乱に乗じて南北統一を図ろうというもので、赤色革命を行おうというものでは決してないですよね。もちろん、直接名指しで登場すると問題もあるので、金正日、金大中という名前は使ってないけど。、、、、、、彼らの目標は、北のような社会主義ではなく、あくまで祖国統一。将軍まんせいなんて一言も言っていない。、、、、、北朝鮮の悲惨な状態を野放しにしている金正日、そしてそれを容認している金大中の太陽政策に対する、痛烈な批判。、、、、彼らのテロを、ヤンゴン事件や大韓航空機爆破事件と重ね合わせてしまい、チェ・ミンシクのターゲットが金正日であるということを見落とすと、全然違った、どうしようもない映画に見えてしまうでしょう。、、、、キム・ユンジンも南と北のどちらをとるかで揺れているのではなく、祖国統一と南での個人的幸福の間で揺れている。(社会学者のM台氏もちゃんとみてんのかなぁ??、、、M台氏は、この映画は北を批判していないとか、太陽政策の肯定だとかいっているけど、何をとぼけたこといっているのだろう。キム・ユンジンが最後に狙う、警備された車に乗っているのは、誰だと思ったのか!!!! 金正日か、金大中かどっちかでしょ!!!!)、、、、、私の個人的な思いこみかもしれないですが、キム・ユンジンが最後まで狙ったのが金正日だと仮定して、キム・ユンジン最後のシーンを思い浮かべると、これを書いている今も、あふれる涙を抑え切れません、、、、。
10点(2004-12-09 14:38:17)(良:2票)
149.  たそがれ清兵衛
感動の静寂を破るようで、申し分けないでがんすが、、、、、、、、。バラバラで支離滅裂な作品にしか受け止められませんでした。、、、、、幾度か緊張感のある展開になるものの、その緊張感も、すぐに潮が引くようにだらだらしてくるし、、、、、、前半は、いじいじしていて寅さんだし、、、。で、結局、何を描いた映画なのだか??、、編集が悪いのかなぁ??、、、、、レッドカーペットの上で山田監督は、「人を殺すことの怖さを、ほにゃらら」とのたまったらしいですけど、餓死した農民を二体、プカプカ浮かせて、死んだ役人に蠅をたからせ、清兵衛本人から家老に、人を殺すにはほにゃららと語らせた以外に、それに該当する部分はどれだけあるのだろう。それにもしこの映画の真意がそこにあったのなら、朋江は幼なじみの出戻りである必然性はないし、竹光と知っての余五の豹変を無理矢理とってつける必要もないはずで、、、、、。山田監督は、授賞式に向かう飛行機で、オスカーをとった時のスピーチ原稿を一生懸命に準備していったそうですが、「人を殺すことの怖さ」なんて、その時考えたことではないのかしらと思えます。本当に「人を殺すことの怖さ」を描きたかったのなら、時代劇である必要性なんぞ全くないのではないでしょうか。、、、、、では描いたのは平凡な人生??、、、、清兵衛のどこが平凡なのでしょう。十分に劇的な人生を送っていると思います。それに、世間一般の外見的基準からは平凡でも、それぞれの人の人生は、その人にとっては十分に劇的であるはずだと私は思います。春の香りを感じたり、再び桜を見て経過した一年を思ったり、昔の知り合いの近況をきいてびっくりしたり、それだって十分に劇的なことではないでしょうか。、、、、、、、要するに、庶民の心の機微を描いてきたはずの人が、オスカーをほしがるようになったらおしまいでごんす。
3点(2004-12-04 14:10:44)(笑:1票) (良:4票)
150.  HANA-BI
テーマは、日本的伝統である「心中」なのだろうと思いました。、、、、もちろん、最近でも、病気を苦にしての心中、将来を悲観しての心中というのは、珍しくはありません。しかし、そうした心中は、片方は、身体的にも社会的にも健在なのですから、ある意味では責任の放棄で、同情の余地はあっても、美しくはありません。、、、、、この映画で追求されているのは、美しい愛の形としての、それ以外に選択の余地はないような心中。、、、、西刑事は、妻が不治の病であることを知らされた瞬間から、心中を心に決めたのでしょう。ただし、美しく、不可避の心中を図るためには、自分の死も必然となるようにしなければなりません。そのために彼が選択したのは、自らの社会的な生の抹殺。彼が弾痕を打ち込む犯人やヤクザは、自らの社会的存在でもあり、だから、彼が弾痕を打ち込むほどに、彼の社会的生命は砕かれ、ともに死を迎える存在として、彼は妻に近づくことができるのでしょう。、、、、、、、、、、どうしてもわからないのは、「ありがとう、ごめんね」の「ごめんね」がどうして必要であったのかということ。そして、西刑事は、そこまで愛する妻を一発目で本当に撃てたのか、ということです。、、、、、最後の娘の表情からして、二発とも空に向けて撃ったということはなさそうです。二発目は確実に自分に撃っているでしょう。では一発目は、、、?、、、その答えは、それぞれの見る人が理想とする愛の形によって決まるのかもしれませんね。 
9点(2004-11-29 13:47:33)(良:1票)
151.  突入せよ!「あさま山荘」事件
表の物語と裏の物語があるように思いました。表の物語//縦割り官僚機構の機能不全、山荘突入スペクタクル、佐々氏の英雄譚・・・裏の物語//佐々氏のこずるさ。、、「ジョニ黒」の象徴的な意味が過去のものとなった今日では、この裏の物語は見えにくいかもしれません。、、、、(ジョニ黒→1960,70年代の高級品の象徴。バス50円、タクシー100円という時代に1本1万円のスコッチ)、、で、佐々さんは、最初、海外のコンサートのチケットを整理していたりしますよね。、、70年代といえば、外為法も健在で、簡単には海外には行けない時代です。佐々さんは高級官僚の職権で、税金で海外出張して、潤沢な海外出張手当で、出かけた先じゃぁ、クラシックのコンサートとか出かけて楽しんでいるんです。、、それに佐々さんは、ジョニ黒、何本持っているんでしょうねぇ。宿舎で新たに開けて、内田隊長にあげて、その上、まだ奥さんは荷造りの中にタオルで巻いて2本追加分を入れているじゃないですか。、、つまり出張ついでに、免税の安いジョニ黒を大量に持ち込んで、、、しかも長野まで、意識して、しっかり持ち込んで、人間関係を作るために使っている分けです。せこいというか、如才ないというか、、、。それに松尾スズキが指摘していたように、時計はロレックスですよ。公務員の初任給が5万もあるかないかの時代に、、、。さらに、突入の時、佐々さんだけは指揮官表示はずしてるじゃないですか。死ぬときは指揮官が最初だといっていた内田隊長は指揮官表示を付けて狙われて殉職したというのに、、、。それも、佐々さんは、自分でははずさず、部下にはずさせて、言い逃れの道もちゃんと用意している。、、、つまり、注意してみていると、高級官僚の狡猾さが、実によく描かれているのです。、、、表の話しだけだと、役所広司では、強さ、格好良さが欠けているような印象で、例えば真田、中井、佐藤浩市なんかのほうが適役かもしれません。だけど、裏の話しも、嫌みなくうまく入れながら、全体の調和を保つことを考えると、役所広司が相応しいし、実際、見事だと思いました。・・・・印象に残ったシーン//1.雪の中の松尾スズキ、、、無力な市民を象徴、、、。2. 会議後踊り場での内田隊長(豊原功補)、、、この映画でもしヒーローがいるなら彼でしょう。・・・全体として、細部にまでこだわり、良くできた映画だと思いました。邦画の面白さを再確認!!
9点(2004-11-25 10:02:11)(良:2票)
152.  リリイ・シュシュのすべて
中学生の日常に散りばめられる、いじめ、喧嘩、部活、万引き、援交、かつ上げ、自殺、夏休み、合唱祭、レイプ、、、、、 などが、物語性を排除したように、雑然と、脈絡なく、配置されていました。、、、、、一貫していると感じられたのは、下地として満たされている、エーテル感、透明感。そのエーテル感に同調するとき、ふと14歳くらいの自分を包んでいた空気が微かに感じ取れたような、、、、、、。ただ、最初から、最後まで、「で、何が言いたいの」という疑問が頭を離れませんでした。、、、、、でも今思うと、具体的に何かの物語を与えようというのではなく、見る人一人一人が、作中に散りばめられた出来事を、好きなようにつないだり、捨てたりしながら、自分にとってかけがえのない物語を作り出して欲しいというのが制作意図ではないかと思えます。作者自身が語るのではなく、見る人が想像を紡ぐための場を提供し、その場をエーテルで満たすのだ、といったように、、、、、。だとすれば、久野さんを主人公にしてもよいし、星野君、津田さんを中心にしても良いわけです。、、、、、自分と重なり合う物語が上手に作れた人には、素晴らしい映画になるに違いありません。、、、、、しかし残念ながら、私は上手に作ることができませんでした。散在する出来事をどう結びあわせても、閉塞した物語しかできないように思え、そんな物語を描いてどこに救いがあるのだと思うからです。、、、、、リリィの歌だけが救いだった?、、、甘ったるいエピソードが欲しいというのではありません。例えば、ただ無心に壁にボールを投げたり、あてどなくチャリをこいだり、誰かに密かに思いを寄せたり、、、、ささやかな救いの要素は、商業化された音楽以外にも、色々にあるはずなのに、そういう部分がひどく欠落しているように思うのです。、、、、、14歳くらいの世界を描いたものなら、例えば石田衣良さんの方が小説ですが圧倒的に好きです。
6点(2004-11-19 08:18:33)
153.  ソナチネ(1993)
自分の好きな世界を、好きなように撮っていいといわれれば、宮崎は「紅の豚」を、たけしは、「ソナチネ」を撮る、、、そんな印象でした。二人の違いがくっきり浮かびますね。、、、、、個人的なことですが、私も7,8年前までは、花火の撃ち合いや、落とし穴や、紙相撲やら、キャンプに出かけては、やったものです。、、、、、ただ、違っていたのは、私たちが拳銃を持っていなかったこと、そして私たちが一番好きだった焚き火がこの映画ではでてこないこと、、、、、、そして一番の違いは、この映画での遊びが、いつ襲ってくるかも分からない死とのコントラスト、緊張感を常に意識させる形で行われていることです。(私たちも、川でおぼれそうな奴がでたり、帰り道に車を大破させたり、結構、死と隣り合わせでしたが、あんまり意識していなかったような、、、)、、、、、ところで、私がこの映画で一番気に入っているのは、人と人との家族的で私的な親密さが一切排除されていることです。例えばブッシュが選挙演説で「ローラには一目惚れだったんだ、えへへ」というように、家族的で、ねっとりした親密さがあらゆる社会関係を制圧しつつある昨今、この映画は、そうした親密なとは異なる原理を鮮やかに提示しているように思えるからです。その際、そうした親密さはアメリカ文化の一つの重要な特徴だと考えられます。、、、、だから、この映画は根底的原理において、反ハリウッドの映画だと私は理解しています。最後のシーンなど、ラストサムライの最後と較べてみるとはっきりしていますよね。、、、、、そうした観点からいうとこの映画の「幸」という存在は、それが存在することでコントラストが鮮明になる一方で、映画の中に家族的親密さを持ち込む危険を孕んでいます。、、、、、その後のたけし映画は、家族的親密さに対するドンキホーテ的挑戦の過程だったなんて解釈も成り立つかもしれません。
9点(2004-11-16 10:10:01)
154.  シティ・オブ・ゴッド
大変に重要なテーマを扱った映画だと思います。、、、、、「仁義なき~」も思い出しましたが、ちょっと違うような気もしましたし、、、音楽やカメラがテーマと整合的なのかということも少々気になりましたが、大したことではないように思いますし、、、殺されている人の数自体は戦争映画やパニック映画の方が大量かもしれないのに、どうしてショッキングなのだろうかとも思いましたし、、、、、で、最後に連想されたのは「北斗の拳」的世界でした。、、、、どういうことかというと、、、描かれているのは、暴力が支配し、言葉による秩序形成が全く成立していない世界。そこでは、私たちの社会が前提とするような、約束、信頼、勤勉などの価値は成立しておらず、限られた文化、文明しか存在する余地はありません。、、、、どうやってこうした暴力的社会が生まれるのか?、、、、貧困、差別、文盲によって。、、、、どこにこうした社会は生まれるのか?、、、、、かつてのリオの裏町で、、、今、イラクで、パレスチナで、アフリカの紛争諸地域で、歌舞伎町の雑居ビルの一室で、渋谷の夜の街路で、池袋西の公園で、、、。貧困、貧富の格差、情報アクセスのデバイドetcを放置すれば、こうした暴力的社会は、世界の各地域でその領域を拡大し、気づいたときには、真っ当な秩序はどこにもなく、経済秩序も破壊され、数百年、歴史の針を戻したような状態に至るかもしれません。、、、遠い、地球の裏側の話しとしてではなく、近い将来、身近にあり得る話しとして受け止めることができるのではないか、というのが私の今の感想です。、、、、、(蛇足)この映画を見て、反グーロバリズムの立場に一歩ほど傾斜。
9点(2004-11-09 11:41:00)(良:2票)
155.  八月の濡れた砂
最初に見たのは、中学か高校の時だったでしょうか。学校の講堂で、みんなで食い入るように見た記憶があります。、、、、もちろん男子校でした、、、、、。考えてみるとちょっとグロテスクですね。、、、、、内容的には、みたい、やりたい、したい、という意識に支配されている、リビドー爆発的男子の、ある夏の出来事を描いたもので、今からすれば、陳腐だし、セクハラそのものだし、、、、、。ただ、日頃の義務感から解放された、そしてややけだるい、夏の日常の雰囲気がよく表現されているし、また主人公が湘南の海辺をバイクで走っているところとか、70年代の空気が漂ってくるようです。、、、、、テーマは、人間の奥底の情念を描くことでブルジョワ的道徳の欺瞞性を暴露するということだったのでしょうか。あるいは、奥底には、不条理ということもあったのかもしれません。学生ならみんなカミュとか読んでいた頃です。、、、さらに、70年安保が去り、ある種の脱力感が漂う中、政治の季節が終わったということを告げた映画だったという解釈も成り立つのでしょう。日活はこの後、ロマンポルノ路線に突入してゆくことになります。、、、、、、、秀逸なのは、石川セリの主題歌。ラストシーン、テレサ野田の心を歌うように流れる歌は、小さくなってゆくヨットの映像とともにずっと記憶に残っています。そして、この歌が好きだった、今は亡き林美雄さんも。
8点(2004-11-05 12:27:01)(良:1票)
156.  紅の豚
(1941年生まれの宮崎監督がどのように意識しているかは知りませんが)、、、、、昭和40年代のサンデー、マガジンでは、戦記物が重要なジャンルだったようです。「ちばてつや」といえば、あしたのジョーじゃなくて「紫電改のタカ」だし、あと「ゼロ戦隼人」とか「大空のちかい」とか、、、、、60,70年代って、昼下がりのラジオからは「バラ色の人生」とか「パリの空の下」とか、シャンソンが流れていた時代でした。フランス映画もしっかり健在だったし。、、、、60年から70年は、安保闘争、東大闘争の時代で、若者は髪の毛長くして、みんなで肩組んで反戦フォーク歌って、デモって、アジっていて、加藤登紀子といえば、その頃、自由と反体制を象徴する歌姫の一人でした。、、、、、そんで時がたって、会社入ってスーツ着て、毎日忙しくて、昔の仲間と酒飲むと、「南の島でのーんびりしたいよなぁ、、、、。」、、、、「紅の豚」というこの映画は、そんな思いが全て贅沢に、ふんだんに盛り込まれています。、、、、加藤登紀子のシャンソンが流れてくると、学生の頃、仲間の下宿で安酒を飲みながら議論したこと、デモの隊列の中で凛として輝いていた娘のこと、様々に降りかかってくる現実の中で理想を少しずつ忘れてきたことなどなど、、、、が静かに、走馬燈のように、、、、。(以上、かなり想像も入ったおじさん達の心の内側でした)、、、、という世界が全くわからんっという場合は、たぶん、とてもつまらない映画だと思います。また、こういう世界は知らないけど、カラオケ行くと「イチゴ白書よもう一度」とか歌っちゃうという人には興味がわくかもしれません。、、、、、、そしてこういう世界の一端を知るものにとっては、かけがえのない映画です。はい。 
9点(2004-11-05 12:14:11)(良:1票)
157.  ルーヴルの怪人
(ちょっとあまのじゃくでごめんなさい)、、、、確かに、金色のゴーストみたいなのが飛び回るところとか、ハリウッドと較べると10年古いし、館内を仮面付けてずずぅっーと移動するところとかは滑らかに移動せずに、げげっ、とださいし、、、、。でも面白く最後まで見ることができました。・・・・・ださくて、それでいてどこか知的で、ハリウッドと違うテイストが、とてもほっとさせたからです。作る方も、ヨーロッパの文化的伝統を意識して、アメリカにはこんなのないだろっ、という感じで作っているのかもしれません。(ルーヴルの外観や展示物か、カフェとか)、、、、、、あるいは、もしフランスで大ヒットしたのなら、国産自前のハリウッド的映画、これでハリウッドなんか見ないでも済むぞ的にヒットしたのかもしれませんね。だとしたら日本人の私たちには関係のないことかもしれません。、、、でも、わたし個人としては、ハリウッド的世界が好きではない方なので、そうしたフランス人には共感しちゃいます。、、、、、全体としては、ロッキーホラーショーやらホーンテッドマンションまなんかの、ホラーコメディーのフランス版で、作っている方も、冗談と本気が混じった感じでやっている印象です。それをミステリー、ホラー映画の積もりで見ると、相当に違和感があるかもしれません。
7点(2004-11-05 11:13:41)
158.  GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊
人間の認識が外部からの感覚情報に基づく電気的信号から構成されているならば、それを電子情報に写し取ることが可能になったとき、人間はもはや可死の肉体を必要としなくなる。・・・・このテーマは、昔からSFの定番テーマです。原作の士郎氏と押井作品は、このテーマを受けつつ、「ではそのとき、"わたし"というものの固有性は何か」ということに焦点をあてます。人間の認識が電子情報に転換された時、本来、バラバラの情報を一つにまとめつつ自己意識を生み出す正体が何なのかが不明だからです。・・・・というか、この問題は、ロック、カント、ヘーゲルを経て、現代にいたるアポリアです。・・・・・で、原作者は、それにゴーストという名前を付けます。それは、人間の認識が電子情報になったとしても、自然科学的な分析では表現することのできない、何か人間的なもの、「わたし」というものを成り立たせるものが存在するということの宣言と言ってもよいでしょう。・・・これは魂、霊魂といっても良いのですが、魂は不死であるのに対して、ゴーストは可死で、原作者はそこに決定的な違いを見いだしていると推測します。・・・・・それに対して押井氏は、ゴーストにはあまり関心を示していません。・・・・近代的な自我の相対化という文脈でいえば、原作者が、その相対化をすすめつつ、相対化できない、何か人間的なものがあるという立場であるのに対して、押井氏は相対化にのみ関心があるといっても良いでしょう。・・・(紙幅の関係で中略)・・・原作は映画ではありませんが、もし点数を付ければ9点をつけたいです。押井作品は、押井氏の完全なオリジナルなら8点、題名を原作と変えて個人的解釈であることを明確にすれば7点。今のままなら4点です。・・・・なぜなら、原作が十分に理解できていると思えないし、また原作を読んでいない人には、説明が全く欠如していて理解不可能だからです。そもそも監督には、多くの人とこのテーマについてコミュニケーションしようという意思があるのだろうか。・・・・一言で言えば、原作とは異なり、「格好いい、おたく映画」に成り下がっている。
4点(2004-10-26 09:18:23)(良:2票)
159.  HERO(2002)
見ながら思ったことです。、、、、、れれ、これって黒澤みたい、、、。西欧文化と向き合いながら、自分たちの文化を、外に向けてどのように発信するかっていうのは、やっぱ大事だよなぁ、、、。今の日本映画で、黒澤の継承者って、実は宮崎なのかなぁ、、、。(残剣と秦王の戦いのシーンで)、、れれっ、布を縫いあわせているのが、しっかり見えてるじゃん。黒澤なら、完全に一枚の布となることを要求したんじゃないのかなぁ、、こういう手抜きはいけませんね、、、、、、、(ラストに向けて)、天下太平のため個人的な感情は捨てるべし、剣の奥義とは剣を持たずに戦うこと、ですか。最後は儒教的な政治道徳ですね。この境地に達したのは、残剣、無名、秦王だとして、飛雪にはどうやって、この儒教思想を納得させて、矛を収めさせるのだろう、、、、、、。れれっ、やっぱ、飛雪さんは儒教道徳の蚊帳の外ですか。残剣の真意を結局わからずじまい。、、、、作る側の意識の底に、天下国家のこと、儒教思想の真意は、女にはわかんないっていう先入観が、やっぱあるのかなぁ。これもアジア的っていえばアジア的だけど、、。でもこの政治道徳がストリーリー的には要の筈だから、めちゃくちゃ気になるなぁ、、、、、それと、武力を背景に平和を実現することを肯定するところとか、中国共産党の偉い人たちが見たら、喜びそうだなぁ。、、、、、、、、ただ、何が悲しいって、伝統的な文化を現代に生かそうとする映像的な試みが日本であまり見かけられなくなっているということでしょうか。陰陽師じゃねぇ。、、、、(溜息)、、、、今の日本にないものを見せてもらった点で、ちょっと高めに点数を付けます。
7点(2004-10-11 01:36:49)
160.  火山高
酒を五合とちょっと飲んでから、ぼっーと見ていたので、あんまり記憶が定かではないのですが、陰陽師Ⅱと比較しつつ、思ったことを書いてみます。、、、、陰陽師Ⅱ、、、見どころがないなぁと思いつつ、見ていて、市原君の「えーん、えーん、鬼になりたくないよぉ」というところで、合点がいきました。3,4歳で初舞台を踏んだ歌舞伎役者の子供のような言葉、「えーん、えーん。」 仮に市原君が小学生程度の思考力がないとしても、これじゃ駄目だというくらいは分かるでしょうし、監督だって、だめだしをするはずです。、、、、要するに、みんなやる気がないのです。あるいはこんなホンと企画で、マジになって演じたらかっこ悪いと、監督も、中井さんも思っているのです。、、、だから、ひどい映画だって酷評されても、関係者はだーれもこたえないはずです。「あたりまえじゃん、てきとーにやってんだから。こんなんでマジになるやつはバカだよ。」、、、、、、そこが、火山高、そして韓国映画と日本の映画の大きな違いではないかと思います。確かに、火山高もどこかで見たようなものばっかりで、想像力の豊かさを感じることはできません。しかし、陰陽師Ⅱに決定的に欠けていたもの、つまり「やるき」が感じられるのです。くだらない話しだけど、与えられた仕事は全力であたらねばならないという職業倫理から生まれる熱気が、この火山高という映画には満ちているように思いました。(良いのはそこだけだけど、大事なことですよね)
5点(2004-10-05 09:19:37)(良:1票)
010.53%
121.06%
284.26%
3157.98%
4168.51%
5189.57%
6105.32%
72010.64%
83317.55%
92915.43%
103619.15%

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