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1.  扉をたたく人 《ネタバレ》 
撮影が良かった。いろいろなエンディングの可能性がある中で、かなり渋いところに着地させた作品。甘くしてしまえば「そんなものではない」と抗議されるからね。‥‥わたしもかつてはフェラ・クティの音が好きだったので、そのあたりで惹かれてしまった。主人公は西洋音楽(クラシック)~亡き妻への追憶~をおいて、まさにアフロ・ビートに目覚めるわけだ。彼の書いている論文もまた見直されることだろう。原題の「The Visitor」のダブルミーニングが、この邦題では消えてしまったのが残念。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2014-02-14 15:42:34)
2.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 
日本でも、京都とかで、ああいう「ニセ観光ガイド」がいたりしたら面白れえなあ。
[DVD(字幕)] 8点(2013-11-24 09:15:07)
3.  アザーズ 《ネタバレ》 
さいしょのシーンからして、ニコール・キッドマン、すっごい熱演だなあ、と思う。これ、ぜったいに「回転」のデボラ・カーの演技を研究してるよね、そういう感じ。演出のアレハンドロ・アメナーバルもまた、「回転」のジャック・クレイトンを研究してるに決まってる。きっと、子役のふたりも「回転」を観せられてるんじゃあないんかしらねえ。だってこれ、とっても良く出来た「続・回転」なんだから、って思う。ああ、また「回転」が観たくなった!
[CS・衛星(字幕)] 7点(2013-10-23 12:07:00)
4.  ゲロッパ! 《ネタバレ》 
 いいんです、トータルな映画作品としてどうであろうとも。ただ、千疋屋のメロンで泣き崩れるタクシー運転手の寺島しのぶ、そして西田敏行のイグアナ射殺でビビりまくり、柱に頭をぶつけながら逃げ出す塩見三省、このふたりの、あまりに楽しい、楽しすぎる演技を観ることができるだけで「うれしい」映画、ではありました。
[DVD(邦画)] 8点(2013-09-20 13:17:53)
5.  ファム・ファタール(2002)
‥‥こういう(この程度の)映画に、「ファム・ファタール」などというタイトルをつけてしまうところにこそ、わたしがブライアン・デ・パルマ監督のあるしゅの傾向を忌み嫌ってしまう、こんぽん(根本)のところがある。‥‥許せない。ぜったいに、許せない(このことをあと二十回ぐらい繰り返して書いてもまだ足りない気がする)‥‥。だいっきらいである(このことをあと百回ぐらい繰り返して書いても、まだ足りない気がする)。音楽をやってるのが日本人らしいけれども、これがまたひどい。だいっきらいである(このことを‥‥<以下同文>)。
[CS・衛星(字幕)] 0点(2013-07-29 09:17:24)
6.  かもめ食堂 《ネタバレ》 
むかし映画館でみたものを、おもいだしていまごろ投稿。 ‥‥けっきょく、メディアでよくいわれる「じぶんさがしの旅」というものがただ、なにもしていないのに「よくがんばったね」とじぶんをほめるための「ナルシシスムの旅」でしかないのだ、ということがよくわかる作品だった。‥‥どうやらそういうことを世間では「癒し」というらしいこともわかった。 ただプールで泳いだだけでまわり(これが日本人ではないというのもイヤなところ)から拍手してもらいたいというのは、精神的に異常だろう。この監督はこのあとも、こういうマインドコントロール的な作品を撮りつづけているらしい。 こんな映画をみて、感動をよそおってじぶんをごまかしてはいけないだろう。 0点にきまってる。
[映画館(邦画)] 0点(2013-03-12 15:05:16)
7.  ガーゴイル(2001) 《ネタバレ》 
●ちょっとばかし、主演のヴィンセント・ギャロとベアトリス・ダルの強烈なキャラクターに依存している演出という気がしないでもないけれど、わたしはこれはヴァンパイア映画の系譜を引く作品として、斬新な解釈の鮮烈な映画だと思う。 ●説明的な描写もほとんどなく、セリフも少なく、娯楽的な要素はあまりない。それでもひとつひとつのショットにきらめく美意識は鮮烈で、とりわけ血の「赤」の美しさはこころに残る。まあいってみれば「血塗られた映像詩」というところである。壁一面に塗りたくられた赤い血のまえを、ベアトリス・ダルがゆっくりと歩んでくるシーンなど、どんなホラー映画にもなかった美しさに満ちている。 ●Tindersticksというバンドによる、ストリングスをまじえた退廃的な音も印象に残る。  
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-04-11 08:42:56)
8.  青髭(2009) 《ネタバレ》 
●カトリーヌ・ブレイヤという監督さんのことはまるで知らなかったのだけれども、小説家でもある彼女の映画は、ちょっと過激なものとして知られているらしい。この作品ではそういう過激さはみられないように思うけれど、耽美趣味ともいえる画面の美しさを堪能できる。この作品はもちろんシャルル・ぺローの有名なおとぎ話をもとに、そのぺローの本を読むおさない姉妹のストーリーをはさみこんだもの。この映画のなかで描かれるその「青ひげ」の物語は、それを読んでいる姉妹の成長した姿のようにみえる。  ●おさない姉妹が、おそらくは「入ってはいけない」といわれている二階の物置のなかに忍び込み、そこでこの「青ひげ」の本をみつけて、いっしょに読みはじめる。姉はそのうちにその物語から耳をふさごうとするけれど、妹はかまわずに姉を挑発しながらも読みつづける。妹の読む物語はすすみ、ついに物語のなかの妹は、青ひげに「入ってはならぬ」といわれていた部屋のドアをあける。物語の展開を聞きたくない姉は耳をふさいであとずさりし、床にあけられた穴から下に転落死する。ラストには物語のなかで間一髪助かった妹が、皿の上に切断された青ひげの首をのせて自分のまえに置いている、「サロメ」をも思わせるとても美しい場面で終わる。  ●ぺローの原作では、この「青ひげ」は次のように結ばれている。  <ものめずらしがり、それはいつでも心をひく、かるいたのしみですが、いちど、それがみたされると、もうすぐ後悔が、代ってやってきて、そのため高い代価を払わなくてはなりません。>     しかし、妹は青ひげの犠牲になるわけではなく、ぎゃくに好奇心を殺し、耳をふさごうとした姉の方がいのちを失ってしまう。やはり「知ろう」とすることは大切ではないか。この映画からはそういうメッセージが聞こえてくるようである。この作品、女性から「知りたい」という好奇心の芽を摘み取ろうとした、「保守」としてのぺロー童話への批判なのではないのか。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-04-11 08:37:30)
9.  ジャーロ
まるでその現場に観客も立ち会っているみたいな、ゆらぐ手持ちカメラによる映像(カメラがとめられた車に近づいて行くとき、「ほら、ここで車の窓におそわれた女性の手がはりつくぞ」と期待すると、その通りの展開になる)。いつものどこかメランコリックな音楽。極彩色の画面。画面を赤く染める血。「鮮血の美学」である。もう、ストーリーなんかどうだっていいではないか。エイドリアン・ブロディ(犯人役との二役を楽しんだだろう)も、エマニュエル・セニエも、ちょっと期待したほどでもなかったけれど、「羊たちの沈黙」以降のサイコメトリストものの影響をたっぷり受けながら、「それがどうした」みたいな演出になっているあたりが、さすがダリオ・アルジェント、である。ある意味で、「捜査」と「人命」とどちらが大切なのかという、「サイコメトリスト」否定という文脈で観られなければならないのかもしれない。唐突なエンディングには「えっ!」と、思わず笑ってしまったけれども、みごとなエンディングだと思った。やはりダリオ・アルジェント、偉大なり。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-01-15 09:57:06)
10.  沈まぬ太陽 《ネタバレ》 
●ううーん、ひっさしぶりに、ド汚い画面の、しょうもない紙芝居映画を観たという感じではある。いろいろな場面での画面の汚さというのはもう特筆モノで、こんな汚い画面を撮れるのはやっぱり、あの「出口のない海」とかのあの監督か、と思ったら、これはこれでまた別の監督ではあった。ところがこの作品、ナイロビでのロケの場面だけ、撮影クルーががんばっている。この場面だけ、ふつうに映画としていい画面になっている。ここだけはどうやら別クルーでの撮影になったわけだろうけれど、演出姿勢が一貫していないので、ここでの鳥瞰撮影などいいんだけど、映画としてはまったく無意味だったりする。まあナイロビでのドキュメント撮影とかになれている現地によく行っているスタッフが、ここでがんばっちゃったんだろう。まるで映画のなかでナイロビにとばされた主人公「恩地」そのままのような状況ではないのか。●70年代以降、この日本では露骨な組合つぶしが国の政策になり、たとえば国鉄の民営化などがその最大のイヴェントだったりするわけだけれども、この作品でのマフィア映画の観すぎのような演出で、そのような状況が観客に伝わるだろうか。ドライに伝えたいのか、それともウェットにせまりたいのか、根本的な演出姿勢がぐらついているという印象。
[CS・衛星(邦画)] 1点(2011-07-13 11:34:39)
11.  白いリボン 《ネタバレ》 
●北ドイツの小さな村におこったあれこれの事件、それらの事件に通底したものは何だったのかということを、単純な犯人探しのミステリーを越えた、もっと大きな歴史の流れのなかに置いて描く演出にはみていても背中がゾクゾクしてくる。●映画は、その村に外の町から来ている教師の語りで進行することになり、この教師が村のなかの人間関係を深くは知らないということからはじまり、それでもだんだんに「いったいこの村に何が起こっているのか」という真相に近づいていくわけになる。しかし映画はその教師の知り得ないことがらをも目撃し、観客に知らせることになる。映画で語られるあれこれの事件にかんして、語り手の教師と、その恋人(婚約者になる)のエヴァという女性だけが、ある意味であれこれの事件にまったく無関係な立場にあるように描かれるわけだけれども、では、この語り手の教師はいったい何者なのか、この教師の回想にはどんな意味があるのか、というあたりまで含めてのこの作品であって、この教師がこの村でのそれらの事件の裏にあるものを垣間見て、その事件ぜんたいの構造を想像でき得ていたとして、ではこの教師はどういう存在になるのか、というあたりをこそ、この作品はいいたいのではないのか、などと思うわけである。この教師にも、「白いリボン」は結び付けられているのではないのか。●ハネケの作品には、なにからなにまで、「これにはこういう意味がある」などと解読してしまうことで、そのいちばんのテーマが手もとからすり抜けてしまうようなところがある。スクリーン上で展開するものからはみ出てしまうものこそを感知すること、そんなことが観客には要求される。だからわたしにもこの作品の背後にあるものなどほんとうにはわかっていないだろうと思うし、わかったような顔をしてストーリーを解読してもしかたがないじゃないか、などと思うわけである。ただ、彼の作品にはヴィジュアル的にひとをゆさぶる、ショッキングなショットがかならずあるわけで、それは監督が観客に贈るインヴィテーション・カードのようなものでもあると思うのだけれども、この「白いリボン」では、牧師の娘がその父の鳥かごの鳥のあたまをハサミで切断し、その羽根を拡げてあたまの部分にハサミを刺し、十字架のようなかたちにして父の机の上に置いたショットあたりではなかったか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-12 18:51:17)
12.  パブリック・エネミーズ 《ネタバレ》 
●デリンジャーにはあまり似ていないジョニー・デップが主演。マリオン・コティヤールが演じるビリー・フレシェットという女性とデリンジャーとの関係を縦軸に、かれを追うFBI捜査官のメルヴィン・パーヴィス(クリスチャン・ベール)らの追跡ぶりを織り込んでいく。いわゆる「ドラマティック」な展開というのではなく、ナラティヴな話法にしたがわずに、映像的にポイントポイントを重点的に描いていく感じ。だからデリンジャーの脱獄にしても、史実である木製の銃に似せたものを使ってのくだりの描写なんか、「木製銃だった」とチラリとセリフで語られるだけで、へえ、そこに重点は置かないわけだ、などと思わせられる。いくつかのシーンの白昼夢のような光景が印象に残り、たとえばそれは冒頭の刑務所からの集団脱走のシーンの、刑務所の壁や周辺の風景、そして銀行強盗シーンの異様に高い銀行の天井だとか、ほとんど人影のない銀行の外の風景とかになる。それらのシーンではいっしゅの沈黙が画面を支配しているようなのだけれども、ただ銃声だけは鳴り響いている。ずっと、そういう画面のちからのようなものに魅せられて観ていて、こういうのも新しいタイプの映画のあり方だな、などと思う。好きな映画である。 ●マイケル・マンという監督の作品はほとんど記憶になく、監督の名を記憶にとどめようともしていなかったのだけれども、こういう作品をつくるひとなのであれば、ほかの作品もちゃんと観てみたい。ただ、このひとの作品というのはそりゃあ「男と男の映画」だろう、ぐらいの思い込みは持っていて、そうするとここでデリンジャーのジョニー・デップに相対するのはメルヴィン・パーヴィスのクリスチャン・ベールかよ、と思って観ていくわけだけれども、どうもこのメルヴィン・パーヴィスというのは好きになれない男で、まあそういうふうに描かれているわけだ。そう思っているとラストも近くなってから、そのメルヴィン・パーヴィスの部下の捜査官が「デリンジャーはシャーリー・テンプルの映画なんか見ない」などとイイこというわけで、そうするとその捜査官こそが選ばれた人物で、ラストにとっても重要な役割を果たすことになるのだった。いやあラストはまたないてしまったではないですか。この捜査官を演じていたのはスティーヴン・ラングというひとで、「アバター」でマッチョなかたき役を演じて大暴れするひとだった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-06-01 14:50:49)(良:1票)
13.  ミリオンダラー・ベイビー 《ネタバレ》 
どうして、モーガン・フリーマンの語りで進行していくのだろうという問いへの答えは、いちばんさいごまで明かされない。そして、この作品の魅力は、そのモーガン・フリーマンの語りで進行する部分と、客観的に描かれるストーリーとの「あいだめ」にこそあることが、やはりラストで納得させられる。ラスト・ショットは、過去にクリント・イーストウッドがヒラリー・スワンクといっしょにレモンパイを食べたレストランの、ドアの外からのショットなのだけれども、そのレストランのなかにはイーストウッドの姿は(おそらく)見えない。この、ラスト・ショットの「不在」の強烈さには、おののきさえおぼえる。いや、「不在」と断定することもできない、ということが強烈なのかもしれない。とにかくそこには「気配」は存在する。映画のラスト・シーンとしてはもっとも印象に残るショット、だと思う。
[地上波(字幕)] 8点(2011-04-15 11:40:51)
14.  トゥームレイダー
 この作品の脚本はすごい。動機もストーリーも裏付けも何もないなかで、ただデティールだけが暴走している。あちこち移動しているようでも、これだけ一直線映画というのもみたことがない。観て思考することなどまったく不要なのだ。いくらゲームの映画化だからって、これはあんまりだろうと思う。作品としては「インディ・ジョーンズ」だとか「ハムナプトラ」などの系譜から来ているのだろうけれど、とにかくここまで歴史的背景とかも描かないで勝手気ままにつくりあげる(でたらめ、ともいう)技には感服してしまう。これはこれでひとつの映画のあり方を示しているのだということだろう。「ハムナプトラ」が、まるで歴史の教科書に思えてしまうではないか。この脚本で撮り上げてしまう監督の手腕もすごい、ということになる。「ダメ」という評価と、「いいんでないの」という評価のあいだで、こころがゆれ動いた(いい方に評価したけど)。カンボジアの六手の魔神像は、ハリーハウゼンの「シンドバッド」へのオマージュ、なんだろうなあ。もうちょっと活躍してほしかった。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-02 17:30:19)(良:1票)
15.  ぼくのエリ/200歳の少女
 映画が始まってしばらくは、少々もったいぶった演出が鼻につくというか、やっぱベルイマンの国かあなどと感じてもいたのだけれども、けっきょくこの作品はわたしにはやはり(当然ながら)ホラー映画で、そのホラー映画であるところの「お約束」シーンの演出がシャープだという印象になる。  ストーリーは主人公の12歳のいじめられっこの少年からの視点と、その外の世界の客観描写とが並行して描かれていくけれども、このふたつはけっきょく、少女の姿をしたエリというヴァンパイアの存在を通して重ねられていくことになる。少年の視点からみれば、さいごにはいじめっこたちから解放され、エリとのきずなを確乎としたものにして、それはハッピーエンドにみえるわけだけれども、客観的な視点からすれば、そういう見かたも出来なくなるだろう。このあたりはホラーだから、ということではないのだけれども、個人の幸福とは一面で世界とのきずなを断ち切ることで成り立つというあたりを、映画としてしっかり描いているのが新鮮だった。このあたり、主人公の少年がいかにも北欧あたりの、まつげまでプラチナブロンドの、ミネラル不足のなよなよした(たしかにいじめにあいそうな)少年であることと、ヴァンパイアのエリが東欧系というか、ロマを思わせるおおきな瞳の黒髪の少女であることとの対比が強く印象的で、このヴァンパイアが長いサイクルでひとところへの定住の出来ない種族であることを匂わせるセリフもあり、スウェーデンという風土をうまく生かした「ヴァンパイア伝説」の造形化なのだなあ、と思った次第。  で、そのホラー的な演出についてなんだけれども、日常的な光景にスルリと怪異をすべりこませる演出はその視点のおき方がクールというか、ときに黒沢清監督の演出を思い出さされるものでもあった。とくに、クライマックス的なプールでのシークエンスでの、プールの水のなかから描かれる惨劇と、そのあとの鳥瞰的なショットとの連続からは、ほんとうに久々にホラー映画的なカタルシスを得ることになった。また、ここまでの展開は「いじめ」と「超常」とのタッグということでもあって、そう考えると、この主人公の少年が超常能力を持っていたりヴァンパイアであったりするわけではないけれども、少年の造型は「キャリー」のシシー・スペイセクの姿に比べられるものでもあるだろう、と思う。
[映画館(字幕)] 8点(2010-12-28 16:52:15)
16.  ミックマック
観終って恵比寿ガーデンプレイスのパティオのベンチにすわって、自作のおべんとうを拡げて食べていて、さっき観た映画はこの手作り弁当みたいだな、などと思っていた。つまりたんじゅんに、手作りガジェットにあふれたおもちゃ箱をひっくり返したような膨大な小道具大道具、それを駆使して進行されるどこかアナログ感あふれる手作りファンタジーという味わいのストーリーなどなどからの連想なのだけれども、もちろんジュネ監督のこの新作はわたしのおべんとうのように貧弱なものであるはずもなく、「豪華な」という形容のことばをあたまにつけることを忘れてはいけないだろう。しかしやはり、たとえそのように「豪華」と名付けようとも、その「豪華」の質はあくまでも「手作り」な、レトロ感がただよいさえするもので、「人工」とか「人造」などという、ハイテクとはほど遠いことばこそが似合う世界というわけになる。とくに、主人公たち奇人変人の共同生活の場であるガラクタの山の下にある住処〜古道具再生工場、そこにごろごろと転がっていた奇々怪々な綺想のグッズの数々、そして仇役の武器製造会社社長(アラン・レネ作品でおなじみの、わたしの大好きなアンドレ・デュソリエが演じている)のビザールなコレクションなどにこそ、この映画作品を観る楽しみがあるということになる。そういう意味で、それらのガジェットをこそもっとじっくりと見せてほしかったという、観終ってしまって残されたかなわなかった夢こそがこころに引っかかってしまうことになる。まあこのくらいにそういうガジェットをちょん、ちょんとみせるあたりにこそジュネ監督の持ち味があるのだろうけれど、そのあたりがストーリーのなかにうまくはめ込まれていた印象の前作「ロング・エンゲージメント」に比べると、この「ミックマック」ではそういうガジェットを自立させようという意志と、映画としてのストーリー展開を重視する意志とが衝突してしまった感じを受けてしまう。  そう、ここでジュネ監督の持ち出すガジェット群がその映像のなかで自立していけば、その世界はシュワンクマイエルの映像世界に近接してくるだろう。 
[映画館(字幕)] 7点(2010-10-02 13:46:30)
17.  ブレイキング・ニュース
めっさ面白かった。とにかくまずは冒頭の、オーソン・ウェルズもロバート・アルトマンもまっ青の長回し。いったいどういう風にカメラをあやつっているのか、単にトリッキーというのでなく、ものすご力を感じる。 全体に、リアリズムなんて屁とも思っていないような独自の映画世界が繰り拡げられるのだけれども、そこを絶妙にリアルな描写が支える。まさに映画ならではの面白さを満喫出来た。追われる複数の男たち、逮捕劇全体をマスコミにショーアップして報道させ、警察の威信を回復させようとするデスクの女性警察官、それを無視して執念で犯罪者を追う捜査課の男、人質の家族などが入り乱れて、おそらくはコンピューター処理などいっさいしていないだろう実写の迫力も生々しく、説明的描写を排してスピーディーに展開していく。感情を排して無表情に指令を出していく女性警察官、熱く燃える現場の警官、それらに情と頭脳で対抗する犯罪者たちの対比がいい。インターネット中継を通じて犯人と女性捜査官が対話するときにだけ、その女性捜査官の表情が生き生きとするし、犯人の二人が短い会話を交わしながら台所で調理する場面がいい。全体にクールなタッチで貫かれる中で、こういうちょっとしたウェットな部分が、とてもうまく活かされている。 冒頭のシーンもそうだけれども、撮影がとにかく秀逸で、鳥瞰撮影などうまくまじえた香港市街の道路の描写もいいけれども、多くの場面を占める、犯人の立てこもるマンションの、狭い通路の撮影がすばらしかった。
[DVD(字幕)] 9点(2010-05-21 09:40:52)
18.  巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)
お茶会のテーブルの上のカップ類を真上からとらえるショットから始まり、カメラがさらに上昇して(引いて)、テーブルのまわりの女性コーラスの面々が上のカメラを向いて唄い出す。このカメラがつまりは観客の眼で、俳優たちはひんぱんにカメラに向かって、カメラ目線で内緒ごとを観客に語ったりする(これはミュージカル映画の特権だ)。広い舞台の中をカメラは自在に動き回り、その演出とともに名人芸を感じさせる。カメラはレナード・ベルタ。圧巻は第二幕の夜会の場で、タイトルになっている「唇にはダメ」という曲から、続けざまに四曲ほど連続するのだけれども、曲自体もどれも楽しいのだけれども、この畳み掛けるような、柱や鏡、階段、そして照明をものすごく効果的に使った演出から受け取る高揚感はただものではない。この場面があまりに楽し過ぎて、観ながらずっと涙を流していた(泣くような映画ぢゃないのに)。このあとのなにもかも廻るカメラ、そしてフィナーレも最高で、やっぱりこの作品はめちゃ楽しい。それがただのストーリーの楽しさ、歌曲の楽しさを越えて、映画的な楽しさ、つまりはアラン・レネの演出やレナード・ベルタのカメラを思い切り楽しめる作品になっているところが、わたしのお気に入り。自分でこのDVDを持って、繰り返し観たいと思える数少ない作品の一つ。今でもわたしの頭の中には、「マラケ河岸の23番地」がぐるぐるとまわっている。  そう、レネ映画の常連、サビーヌ・アゼマはやはり素晴らしいのだけれども、もうひとりの常連のアンドレ・デュソリエがこの作品には出ていない。でも、特典に収録されている、フランスでのこの作品の「特報」に、アンドレ・デュソリエもたっぷりと出演していた。やはりもう今となっては、アラン・レネといえば、サビーヌ・アゼマとアンドレ・デュソリエの二人の顔が浮かんでしまうのを止められない。 
[DVD(字幕)] 10点(2010-05-12 22:11:26)
19.  愛のむきだし
 この作品の語り口には、阿部和重の小説を思わせるものがある。崇高な事柄と思われることを、思い切り卑俗な手法で描く。タイトルの「愛のむきだし」という文字が出るまでに一時間かかる(!)けれども、そこまでの展開はめちゃ面白い。主人公の少年は神父の父に毎日「ざんげ」を要求され、「ざんげ」のために「罪」をつくるようになる。リアリズムがどんどん横滑りして行き、盗撮テクニックを教える集団の姿が異様な秘教団体とか、江戸川乱歩の犯罪組織のような姿で出て来る。そこで学ぶ盗撮テクニックはアクロバティックなカンフーである。主人公にマリアと出会う「運命」の日が近づき、音楽はラヴェルの「ボレロ」がしつこくリピートされ、演出のテンションが異様に高揚して行く。「女囚さそり」が引用され、B級アクション映画的展開で、最初のクライマックスに到達する。  はっきりいって、それ以降はちょっとばかし失速してしまう印象はあるけれども、それでも奇怪なテンションの高さはどこかで持続し、海岸でヒロインが、聖書から「コリント人の手紙」第十三章を全文ぶちまける場面もまた、クライマックスとして記憶されるだろう。そう、この物語の背景には「信仰と愛」という問題が大きく書かれている。ここでも宗教上の愛「アガペー」と、欲望の愛「エロス」がいっしょにされることで物語は混乱する。ラストで、このふたつは統合されたのだろうか? 統合されるようなものなのだろうか?  園子温監督の作品はそれほど観ていないけれども、いつも長距離を全力疾走して駆け抜けるような「勢い」と汗臭さ、そして観終ったときの疲労感が共通している印象。この「愛のむきだし」は、監督にとってのマラソン、というか、これは「トライアスロン」なのだろうか。観る方もそれなりにいっしょに疾走する心構えは要るだろう。全力疾走すればいいというものでもないけれども、とにかく、園子温は全力疾走する。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-08 11:14:11)
20.  ブラインドネス 《ネタバレ》 
とにかく、まずは隔離病棟内での悪夢のような情景に圧倒され、観ていても早送りで先にとばしてしまいたかった。それだけに、病棟から外に出たときの開放感は、観ている方にも大きなものがある。しかし、外の世界もとんでもないことになっているのだけれども、う〜ん、映画としては、この外の世界の混乱ぶり、地獄絵図が、病棟内での閉そく感を伴った描写と比べて、弱いように思えてしまう。これは、閉鎖されていた病棟内よりも、外の世界の方がもっと地獄だったというストーリーなのだ、でなくてはならないだろうと思うけれども、そのあたりが伝わってこない気がする。映画というのは、広さという考えでいうと、やはり閉息状況の描写の方が得意になってしまうのではないかとも思ったし、こういう閉息状態での悪夢のような展開というのは、近年の先行する映画作品でいろいろあって、どうもそういう作品の類型とも受け止められてしまう気もする。ひとつのポイントは、外の世界で、教会のキリストやマリアの絵や彫刻に目隠しがされていた、というあたりの描写で、ここで一気に宗教的な空気が画面に拡がり、おそらくそのことが、主人公(眼科医の妻)の最後のセリフにもつながってくるのだろうけれども、どうもふだん宗教心などというものを持ち合わせていないわたしなどには、よくわからない(この最後のセリフはたしか「I'll be blind」だったかな、と思うけれど、字幕の「わたしの番だ」というのは、ちょっと難しすぎるし、ちょっと違うと思った)。  たとえば、以前読んだコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」にも、これに似た状況が描かれていたと思うけれども、そういう意味では、この映画、「外の世界」でのサヴァイヴァルの描写が短すぎたのではないかという印象になる。ということは、病棟の描写をもっと短くした方がいいということになる。「ザ・ロード」も映画化されていて、いずれ日本でも公開されるだろうから、そっちを観てみたい
[DVD(字幕)] 7点(2010-04-07 15:41:43)
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