みんなのシネマレビュー |
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ネタバレは禁止していませんので 未見の方は注意です! 【クチコミ・感想】
★3.最後までとてもおもしろかったです。重たいテーマですが、自分ならどうするか、と考えながら最後まで見ました。ラストシーンでどのような結果になった、のかは見た人の想像に委ねるところも良かったです。クリント・イーストウッド監督作品はほとんど見ていますが、本当に外れがありませんね。次作品も楽しみにしているので、まだまだ元気でいらしてください。 【みるちゃん】さん [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2025-05-27 11:20:27) 2.《ネタバレ》 検事も弁護人もそれぞれが真実と正義を求めているが、少ない状況証拠と仮説だけで事件のストーリーを作り上げている空々しさは否めない。陪審員たちは検察側と弁護側が作ったそれぞれのストーリーを聞き比べ、どちらのストーリーがもっともらしいかジャッジするわけだからなかなかキツい仕事だ。 「陪審員裁判には欠点もあるが、正義をもたらす最善の手段だ」と判事は断言する。揺れるであろう陪審員が下す判断に正当性を持たせ、導かれた評決が正義であると後押しする発言。 ここの十二人の陪審員たちは、映画「十二人の怒れる男」のごとく、ほぼ有罪で早急に評決を出そうとする。この人たちはあの映画を観たことあるのかな、なんて。 ただ「十二人の~」と違うのが、そのうちの一人陪審員2番ジャスティンと視聴者だけが知る第三の事実があるという事。だがその事実が事件の真実とは断定せず、またジャスティンが証言したところでそれこそ状況証拠の域を超えず、飲酒の有無や鹿の存在を証明することはかなり難しい。ここが本作の面白い所。当時の鹿が被害を訴え出たらかなり決定的なのだが。 人が人を裁く事の難しさ、更には自分の不利になる証言をする事の難しさ、自分ならそれが出来るだろうか、どちらも勇気が必要だと強く感じた。 女性検事フェイスは、DV被害女性救済を掲げ、この裁判に勝てば検事長選挙に当選というおまけも付いてきたが、ラストでは「真実は正義」という理念を捨てなかったのが、良かった。ジャスティンのその後も、前裁判の被告人にも、公正な審理が為されることを望みたい。 【ちゃか】さん [インターネット(字幕)] 8点(2025-04-14 15:41:03) 1.《ネタバレ》 ある事件の陪審員となったことで、偶発的とはいえ、自ら罪を犯していたことを知る主人公。事件の被告人は無実である。彼は事件の陪審員として自らの犯した罪を被る被告人に対峙する。彼の罪を知る者、知らぬ者。最終的に知る者。 「真実が正義とは限らない」 アメリカ、そして、アメリカ映画はこれまで「真実が正義とは限らない」という前提の中で、真実よりも正義を優先してきたように思う。特に法廷を描く映画『評決』などは正にそうだろう。そもそも真実はそれを捉える人間によって見方が変わるため、人々が集団生活の中で因って立つのは物事の真実ではなく、正義という観念になる。映画は、そういった「真実の不確かさ」をこれまでよく描いてきた。『羅生門』『怪物』然り。『真実の行方』然り。 映画のストーリーだけ見れば、イーストウッドは最後に「正義よりも真実を優先させた」と言いたくなる。検察官は全ての調和をかなぐり捨ててでも、ただ公正に真実をテイクする決断をしたと。でも、本当にそうだろうか? ここでイーストウッドが示したかったものは「正義よりも真実」などという次元の違うあやふやなものではなく、やはりストレートに正義の意義、イーストウッドの考える正義の位置付けだったのではないだろうか? 「正義とは何か?善とは何か?」 18世紀のイギリスの法哲学者ベンサムは、最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善と見做した。いわゆる「最大多数の最大幸福」である。正義とは社会の公約数的な善、社会福祉として計量されるものだと考えられた。主人公(役名:Justin=Justice)が自らの罪を正当化する論拠、検察官が真実を知りながらそれをやり過ごそうとした時の正義とは、この「最大多数の最大幸福」であることが分かる。 20世紀のアメリカの政治哲学者ロールズは、ベンサムの正義に対して、「各個人は正義に基づく不可侵性を持ち、社会全体の福祉といえどもこれを侵すことはできない」と反論した。ある人々が自由を失い、他の人々がそれにより大きな善を受け取るならば、その自由の喪失は正当化されない。ここでの正義とは、個人の地位や過去に依らない、それらの属性に無知であることを前提にして、その上で理想的な公正社会を構築するものとして在るべきだと。いわゆる「無知のヴェール」である。正義は、全ての人々に平等にあり、社会全体の福祉に優先する。且つ、社会はそういった個人の正義に因って立つものだという考え方になる。 検察官(役名:Faith)が最後に決断の拠り所とした正義とは、この「平等公正な個人の正義=信念」である。正義論に関するこの辺りの映画的な意図はわりと明らかなものだと言えるだろう。しかし、クリント・イーストウッドの映画に込めた思いはさらにその先にあると私は感じる。善と悪、善人と悪人。この映画でも善人と悪人は、陪審員と被告人という立場で対比的にとても明確に描かれている。「善人だから、悪人だから」と劇中で何度も語られる。ここでの善人、悪人は、親鸞の「悪人正機」を基に定義できる。最後にそれが反芻されるように映画として仕組まれているのではないか。『硫黄島からの手紙』のイーストウッド監督ならば、その映画的意図はあながち間違っていないのではないか。 悪人 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。 善人 「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。 因果 凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。 出典: ウィキペディア『悪人正機』 正義と善悪。そのエッセンスがこの映画には詰まっている。『陪審員2号』は、アメリカ的な正義論に留まらず、善悪の本質にまで思い至らせる真の意味で道徳的な映画だと私は思う。クリント・イーストウッドが94歳にして、何故『陪審員2番』という作品を撮ったのか? その深い洞察を感じざるを得ない。 【onomichi】さん [インターネット(字幕)] 9点(2025-01-14 22:08:10)
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