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プロフィール |
コメント数 |
188 |
性別 |
男性 |
自己紹介 |
・・・・最初に投稿してから4年近くたとうとしています。 これからも、細々とでも投稿してゆきたいと思っています。 |
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1. ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還
膨大な制作費に見合う収益を上げるには、原作を読んだ人も、読んでいない人も、楽しませるものではなくてはならない、、、「指輪物語」という題名をそのまま拝借する以上、原作をできる限り忠実に再現する必要がある、、、、という難しい方程式を10時間近くかけて解いたら、出てきた答えは限りなくゼロに近いものであった、、、、今はそんな気持ちです。、、、、、舞台芸術でも映像芸術でも、原作がある場合には、舞台、映像制作者の「解釈」が必ず介在します。あるいは、そういう解釈者の仲介なくして、古典的な原作は、現代に蘇ることはできないといってもよいでしょう。オペラにしても昔の衣装、舞台をそのまま忠実に踏襲するのは希だし、ギリシアで評判を得た蜷川のオイディプスも、勘九郎のニューヨークの舞台も、古典劇に対する自分たちの解釈を問うものであった筈です。、、、、、、で、この映画では、トールキンはどのように解釈されていたのでしょうか。、、、、、迫力ある戦闘、城の鳥瞰、闇に与するものの崩れた容姿、、、そんな解釈しか浮かび上がってきません。しかも、それらはみなどこかの映画で垣間見たことがあるような映像だと思います。、、、、なぜ、小さき者であるホビットに指輪が託されるのか、なぜ、スメアゴルに最後まで重要な役割が与えられるのか、フロドとサムの身分差をどう捉えるのか、王の血統をどう扱うのか、なぜ指輪を葬らねばならないのか、そしてそもそも指輪とは何なのか、、、、そうしたことの解釈の跡を、残念ながら映像から確認することは殆どできませんでした。、、、、、だから、見終えて、問いかけられたように感じるものは何もなく、残ったのは強いてあげれば、静かな怒りに似た感情なのです。、、、、そして何とも言い難い幕切れ、、、、、、フロドは、あの先の角を曲がれば、新しい世界が開けているかもしれないと歌いつつ、新しい冒険の途につくのではなかったかと、、、、、。5点(2004-07-27 16:45:30)(良:6票)
2. ラスト サムライ
横浜の街、笑みを売る花魁など、極めて印象的な映像が幾つかあった。全体のストーリー自体は薄っぺらく、そこに再現された歴史上の日本には違和感を覚えざるをえない。しかし、異文化のフィルターを通して示された過去の像を見つつ、「ふーむ」と思って考えてみると、自分達も伝統的に造られたフィルターを通じて過去を見ているのであって、その像が実物そのものなのではないと気付かせてくれる。(日本の時代劇に、もっと映像的な想像力があれば、取るに足らない映画になるのですが、、、、)
7点(2004-06-14 10:21:48)《改行有》
3. ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔
限られた命と力しか持たない我々は、絶対的権力(=指輪)の持つ誘惑に囚われることなく、自分達の限界の範囲内で秩序、良き生活を実現するよう努めねばならない、、、というのが『指輪物語』の重要なテーマだとずっと思ってきました。、、、、、絶対的権力というのは現代的には、核兵器、米国の軍事力行使と置き換えることもでるでしょう、、、、、そういう観点からは、誘惑に殆ど抵抗することなくその虜になってしまう者達、フロドの葛藤、誘惑に抗すことが出来ず滅びるボロミア、指輪に恬淡としていられる人達などの心の動きがコントラスト豊かに見たいのです。、、、、、、、、で、本編では、殆どそうした人々の心の動きは配慮されているようには思えませんでした。、、、、、、CGを駆使した、大迫力、殺戮映画。、、、、、、確かに、城の攻防戦など、見応えがあるのかもしれません。でも、そもそもフロド達は指輪を守るために命をかけているのではなく、指輪を捨てるために戦っているのであり、それを考えるならば、迫力ある戦闘シーンというのはそれほど必要なものではないと思うのです。、、、だから、決してこれはトールキンが描いた『指輪物語』とは、少なくとも私にとっては、違うのです。、、、、、、『指輪物語』を素材とした、別の騎士物語だというのならもっと評価するのですが、『指輪物語』という原題をそのまま用いている限り、低い評価を与えざるをえません。3点(2004-06-12 10:48:24)(良:1票)
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