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1.  クロユリ団地 《ネタバレ》 兎に角、冒頭から伏線張り巡らしまくるのだが、とりあえずすべて回収している。 100分ちょいでこれだけやるわけだから、流石中田秀夫だというところ。 手持での主観と客観の切り替えという伏線の張り方は上手いが、 そこから更に台詞の反復があり、しかも何度も、流石にあざとすぎるだろう。 分かり易さとか、ましてや観客が望むのや期待しているのものへと媚び売る作りは 作品の質を落とすだけでまったく効果的ではない。 わからないやつなど放っておけば良いのだ。 誰でもわかるように作る必要性などない。 そんなものはテレビの子供番組くらいにしておけば良いのだ。 であるからこそ、公園での前田敦子と子供の会話が全部アフレコなのは 完全なる見事な伏線であり、あんなものは気付かないひとは気付かない。 しかし、どこかおかしいという違和感を覚える。 その違和感こそが映画を映画館で観る面白さだろう。 それにしても手塚里美の登場シーンの数々には笑えた。 あれこそがホラー映画の醍醐味というかなんというか。 霊を祓うなどという無力さが炸裂し、最後は吐血するという見事な出来栄え。 幽霊なんて、結局最後は暴力でしか解決できないからね。 この映画ではそういうものが一切ないのだが、 これはなんだか主役を替えて続編でも作ろうとする企画力なのか、 秋元康といえば『着信アリ』とかもあるわけで、ふーんと思った。[映画館(邦画)] 6点(2013-05-25 01:47:49)《改行有》

2.  グリーン・ゾーン 手持であろうと、スタビかまそうと、クイックズームしようと、フォーカスが合ってなかろうとなんでもいいのだけれど、でもこれって「見せる」という気がないのか、あるいは失敗しまくってるのか、それともこれがかっこいいと思っているのか、つまりスタイルとして確立したいのか、全然わからなくて、やっぱし観ていて思うのはこんなの駄目だろってことだけで、極端な話だけど、ドキュメンタリーは即時性だからどうしたって追いきれないとか撮りきれない瞬間てあると思うのだけど(まぁそれを撮るのがプロフェッショナルだけど)、しかしこれってドキュメンタリーじゃなくて、所詮そっれぽい感じのフィクションだから、だったら、何を見せるべきか、つまり、撮るべき対象っていうのがしっかり固まっていて、つまり芝居をつけてそれを狙うわけで、それがちゃんと撮れてない、っていうか敢えて撮ろうとしないっていうのは、ただの撮影行為の放棄じゃねぇかよって思うし、戦場の雰囲気ってこういうことじゃないだろっても思うし、要するに撮ってる側が戦場に入り込みすぎた感じのぶれぶれの何映っているかわからない映像のどこに映画の客観性があるんだよってな話で、どんなに頑張ったてスクリーンのこっち側にいる人間は客観であるしかないわけで、それを飛び越える瞬間てあるとは思うけど、こういうことではないんだってことははっきりと言えるのだ。 もう一つ言えば、そういうフィクションさを消したい感じ、つまりリアリズムを求めるのは、それはそれで良いけど、まぁここまで書いた通り、この映画の映像はまず徹底的に駄目で、じゃあお話はどうかってことで、でもやっぱりお話部分も駄目だと思うわけで、結局、映画の面白さって、時に、嘘っぱちさだと思うわけで、事実に創作を入れ込んだものというのは、その創作部分が事実を塗潰してしまうような嘘っぱちであって欲しいのだ。[映画館(字幕)] 3点(2010-06-01 22:20:15)(良:3票) 《改行有》

3.  空気人形 《ネタバレ》 ぺ・ドゥナは素晴らしい 空気人形からひとへと徐々に姿を変化させていくとき 彼女が触れる物干し竿に滴る雨水のように透明で潤いに満ちている 李屏賓は侯孝賢の映画で切り取るような美しさをワンショット毎に魅せるのだし その中で動く彼女は躍動的である 彼女は輝きを放ち続けるのだが その反面 呟き続けるこころの虚無は実につまらない 空気が入っただけの人形があるときこころを持ってしまう 肉体を保持することなく精神だけを得るのだ しかしそのこころは真のこころではなく ひとの真似ごとであり 本当のこころとは何かと探し求める話であるようで そうではない 彼女は肉体を得ることのできない虚無であり 周囲は肉体を満足に使いこなせない虚無である それらを同列に挙げて社会の虚無を描くということが無理なのだ まずこころが空っぽなひとなどいない 空っぽということは何も無いということだ ひとは虚無というこころを持って生きている だからこそ辛いのだし乗り越えるのが困難なのだ 無いものを越えるなんて誰にでも出来る 虚無という過酷さはてっぺんが見えないほどに聳え立っているのだ であるから彼女が本当のこころを持ちたいと追い求めれば追い求めるほど ひとの本当のこころというのは実際は大概が虚無である という過酷さに堕ちていかなければならない しかし 恋をしました 恋をすることは辛いことです などという社会性の稀薄な問題などさっぱり過酷ではない 社会の虚無とは恋心などという甘ったるい幻想とは比較にならないほど過酷だ その過酷さに直面しなければ虚無の向う側は現れない どのひともそれぞれあーだこーだと事情を抱えていてるのは当たり前であるし 吉野弘の「生命は」という詩による人類愛を讃えるような青臭さ つまり虚無を他者に満たしてもらおうという甘ったれた結末 それでいいのかという疑問しか沸かない そんなことまったく興味がないし 2時間近く椅子に座って わざわざ映画なんかから教えてもらうことではない この映画では是枝監督が今まで描いたような人間の悪さという部分が欠落している その人間の悪さというのは当たり前のものなのにも関わらず それをわざわざ計算高く緻密に用意周到に描くから嫌いだったのだが いざ毒を抜いたら随分優しくなってしまったなという印象だった[映画館(邦画)] 5点(2009-10-16 23:36:51)《改行有》

4.  クリーン (2004) 《ネタバレ》 駅の中でマギー・チャンがニック・ノルティを探し回るシーン、長玉で軽く修正移動をかましながら、カメラが彼女を追っかけ回すが、とても素晴らしい。あれを李屏賓がやると超絶にうまいのだけど、ゴーティエは(彼の場合彼自身がオペレートしてるのかはわからないが)決して丁寧とはいえないし、寧ろ、雑、というか下手上手いというか、味があるとでもいったらいいのだろうか、あれがいいのだ。「イントゥ・ザ・ワイルド」でも長玉、手持ちとかでぶんぶん振り回すのだけど、それもまた雑でありながら、どこか味があってよい。 そのことはさておき、マギー・チャン演じるエミリーが友人の家に居候をするのだが、その友人が犬を連れ家を出て行くが、忘れ物をして家に戻ると、エミリーが涙を流しているというシーンなどは格段に素晴らしく優しい。ただひとりぼっちになってしまった孤独感で泣くというシーンだが、友人が外出し気が緩んだというこの見せてはいないが見えるワンクッションこそが素晴らしいだろう。このシーンまでは常にマギー・チャン、あるいはニック・ノルティを切り取るカメラが、ふいに友人を主軸に動き出すのだが、映っていないところでのエミリーの感情というのが友人が扉をそっと開けた時に一気に動き出すということだ。これこそが映画の巧みな演出だ。 そしてこの映画のニック・ノルティのまなざしこそがアサイヤスのまなざしで、見守るよという、やはり他のアサイヤスの映画同様にこの映画もまた優しさに溢れている。[映画館(字幕)] 8点(2009-09-16 17:31:08)《改行有》

5.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。[映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票) 《改行有》

6.  グエムル/漢江の怪物 《ネタバレ》 それは例えばスピルバーグの『ジュラシック・パーク』の様な「いつになったら恐竜出てくるんだ」という苛立ちや、「出てくる、出てくる」という期待感、そういったものを観客が持つ前に、言ってしまえば観客が油断している冒頭の段階での唐突なまでに橋にぶら下がっているあの怪物の潔い登場、それは映画として歓喜すべき裏切り行為だ。極一般的に考えて、見たこともない巨大な物体が徐々に近づいているにも関らず、河に物を投げ入れ、あたかもその物体を歓迎しているような態度を人々はとるであろうか。この連続した観客への裏切りこそが、序盤の見せ場だ。つまり注目すべきは、WETAが描いた怪物自体でなく、それを登場させる過程だ。そんな潔さと裏切りにこの映画は満ちている。そして最も注目すべきは走るという行為だ。メールで姪の居場所を知らされたナムジュが突如として走り出す様をキャメラはただ横移動で映し出す。更に怪物を追い父ガンドゥは橋の上を走り抜けるがこれもキャメラは横移動で追い続け、徐々に俯瞰構図となり橋の下を泳ぐ怪物とを橋の手すりを境とし、分割画面として映し出している。この走る行為とキャメラの横移動、思い出すのは『M:i:III』だ。イーサン・ハントもガンドゥもいきなり自転車や、車を奪っても映画としてはなんら問題は無い。良くあることだ。しかしそうしないのは『M:i:III』同様、愛する人の元へ向かう時、もはや最終的に人は走らなくてはならないという必然性を、雄弁なまでにこの2本の映画は映し出している。そして撮り方もだ。つまり、例えその目的が違えども、スピルバーグの『宇宙戦争』のラストで、ダコタ・ファニングが枯葉舞う中を愛する母の胸の中へと走り寄っていく時の横移動があまりにも美しかったことが、今、アメリカを飛び出し、韓国で再現されたのだ。ポン・ジュノは間違いなく『宇宙戦争』を見て、大いに影響を受け、そして嫉妬したであろう。トライポッドの脚が人々をくるりと巻き上げる様、そして一度吸収し、洋服だけを排出する様にだ。ジュノはそれを尾と骨で再現した。瓶で殴られた浮浪者を次のカットで仲間に引き入れているという出鱈目さは、黒沢清に近い感じすらする。ペキンパーが好きなのはわかるが、ハイスピード撮影の使いどころはもう少し考えて欲しい。だがこれはこれで真に《面白い》映画だ。赤の他人を"HOST"として迎え入れているという結末はギャグか否か。[映画館(字幕)] 6点(2006-09-02 23:07:40)(良:1票)

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