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プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  GODZILLA ゴジラ(1998) 相変わらず評価が悪いけど、この映画はモンスターパニックとして最高の出来であると思う。エメリッヒ監督お得意のB級テイストが実に効果的に映画をまとめている。キャストのノリの軽い演技もモンスター映画的で良い。多くの人が今作をゴジラ映画として評価するけど、それは間違いだ。今作に登場する怪獣はゴジラではない。放射能の突然変異で生まれたゴジラに似た巨大生物なのである。9点(2003-09-29 12:28:33)

22.  孤狼の血 LEVEL2 《ネタバレ》 前作「孤狼の血」は、現在の“ヌルい”娯楽映画が蔓延るこの国の映画界において、確実なカウンターパンチとなり得る“アツい”作品であったことは間違いない。 血と脂汗が入り混じって匂い立ってくるような暴力性とその熱量は、往年の大傑作「仁義なき戦い」をはじめとする東映のジャンル映画を彷彿とさせた。 昭和臭漂う血生臭い映画世界は、平成という時代の末期において、時代を越えて逆に新鮮で、センセーショナルだったと思う。 前作公開時点で決定していたこの続編に対しても期待感はひとしおだったけれど、どうなのだろう?という危惧もあった。それはやはり、前作で絶対的な主人公であり物語の中核であった“大神”の不在(死亡)によるところが大きい。 演じた役所広司の存在感の大きさもあり、あのキャラクターが不在で、果たしてこの映画世界のテンションが保持されるものだろうかという不安が拭えなかった。 だがしかし、結果的にはそういった危惧は杞憂に終わったと言っていい。 役所広司の跡を文字通り引き継いだ松坂桃李が主演俳優として気を吐き、新たな敵役として登場した鈴木亮平が圧倒的な存在感を放っていたからだ。 両者は終始敵対するキャラクターでありながらも、ストーリー展開と共に己に孕んだ狂気を相互に高め合い、最終局面で爆発させる。 そのキャラクター描写とストーリーテリングは、現実離れしていて殆どファンタジー。全くもって常軌を逸しているけれど、それをまかり通す映画的エネルギーに溢れていた。 特に鈴木亮平が演じた“上林”のキャラクター造形は凄まじく、凶悪性、残虐性を超越したその「絶対悪」ぶりは、国内映画において近年稀にみるヴィランを作り上げており、松坂桃李演じる日岡と正対するもう一人の主人公としてキャラクター性を高めていたと思う。 主人公二人の狂気と凶悪に引き寄せられるかのように、その他のキャラクターもみな悪人揃い。言うなれば“狂気乱舞”の愚かな人間模様が、本作に相応しい娯楽性を生んでいた。 その中でも特に印象的なのは、“或る夫婦”役として登場する中村梅雀と宮崎美子。中村梅雀は2時間サスペンスの「信濃のコロンボ」シリーズでの刑事役そのままの暢気な風貌で登場するが、そのイメージ操作こそがまさに確信犯的であった。 彼らが孕む真の悪と、闇。劇中、中村梅雀演じる瀬島自身の台詞に表されていた通り、「悪意」の無い「悪」こそが最も始末が悪いということ。 両目を自らの指で圧し潰すという猟奇性極まる殺人を繰り返す鈴木亮平よりも、手料理の味見をしながら“味付けに満足したかのように”微笑む宮崎美子の方が、実は一番恐ろしい。 無論、完璧な映画ではない。 この映画における最たるウィークポイントは、女性キャラがあまり魅力的ではないということだろう。 これは前作における最大のマイナス要因でもあったが、どうやらこの監督は、男性俳優に対しては突っ切った演技指導ができる反面、女優に対する演出が大人し過ぎるようだ。 この手のジャンル映画において、濡れ場や、シンプルな「裸」描写は必須だと思うのだが、それが殆ど無いというのはいただけない。 乃木坂を卒業したばかりの西野七瀬を脱がせろ!とは言わないけれど、あのような役柄である以上、もう少し踏み込んだ演出は必要不可欠だったと思う。西野自身、求められればそれに応える覚悟はあった筈だ。 どうしても初々しいヒロインに対する演出が無理ならば、かたせ梨乃御大に“一肌”脱いでもらうくらいの心意気は、監督側に見せてほしかった、と、思うのだ。[インターネット(邦画)] 8点(2022-05-29 00:29:07)(笑:1票) 《改行有》

23.  GODZILLA 決戦機動増殖都市 ゴジラ映画初の長編アニメシリーズ(三部作)の第二弾。 世間の評判の悪さから長らく敬遠してしまっていたのだが、ようやく鑑賞した前作「怪獣惑星」が、思いのほかゴジラ映画ファンの琴線をくすぐってきたので、同日に続けて今作を鑑賞。 「決戦機動増殖都市」というこの副題が、中二病的でとても良い。 このタイトルを堂々と掲げることで、この映画は“そういう映画だ”ということを宣言しているのだと思う。 詰まりは、この国が長年に培ってきたアニメ文化、特撮文化、そしてオタク文化を愛し続けた者たちが、寄ってたかって“自己満足”を積み上げた作品であるということ。 そして、「それの何が悪いのか?」ということを、開き直るように力強く叩きつけている作品であるということだ。 前作のラストで、ようやくゴジラを討伐した歓喜も束の間、ほぼ間髪入れずに現れた真の絶望。 あまりにも巨大な絶望に対する次なる対抗手段として描き出されるのは、共闘する異星人がかつて地球に持ち込んでいた“メカゴジラ”の「構成素材」で2万年の間に勝手に出来上がっていた“増殖都市”という、完全にワケガワカラナイ代物。 ワケガワカラナイが、だからこそケレン味に溢れ、極めてSF的だと断言したい。 “メカゴジラ”のビジュアルを一切登場させることなく、その“素材”と、それを扱う異星人たちの異質な“思考原理”のみで、もはや地球環境そのものとなっている“ゴジラ”と対峙し、ストーリーをテリングしていくこの作品のあり方は、やっぱりマニアックでぶっ飛んでいる。 肝心要のゴジラの描写すらもそこそこにして、舞台であり、兵器である“増殖都市”そのものの禍々しさを突き詰め、その中で異なる思考をぶつけ合う人間同士の消耗戦と、それに伴う悲劇に主眼を置いていくストーリーの顛末が極めて興味深かった。 そして、そんな異質なストーリーテリングを展開しながらも、しっかりとゴジラファンの高揚感を煽る描写、伏線が張り巡らされている。 双子の美少女、卵を崇める民族、隠された異星人の思惑、そして「ギドラ」という忌まわしき言葉。 世間の評価がどんなに低かろうが、前作に続き今作もしっかりと“ゴジラ映画”であり、“SF映画”であったと思う。 主人公を見つめるヒロインの目線が絶妙に合っていない不気味さすらもはや味わい深い。 さあ、次はいよいよトリロジーの最終作。“地球最大の決戦”に向けて準備は万端だ。[インターネット(邦画)] 8点(2021-01-18 00:21:32)《改行有》

24.  コンテイジョン 《ネタバレ》 突如として発生した高致死率の新種ウィルスが瞬く間に世界中に広がっていく恐怖を描いた映画。 というイントロダクションを聞いて真っ先に連想してしまうのは、やはり「アウトブレイク」だ。「アウトブレイク」が、殺人ウィルスそのものの猛威とそれに対峙する主人公のヒーロー性を描いたエンターテイメント作品だったのに対し、今作はプロットこそ似通っているが世界観のテイストはまったく異なった映画に仕上がっている。 リアリティを追求していると言えば確かにそうだが、必ずしもすべての描写が「リアル」というわけではなく、随所に非現実的だったり、作為的に誇張されている部分もあったように思う。 思うに、この作品が描いているものは、未知なるウィルスそのものの恐怖ではなく、その“感染”による“パニック”に対応しきれないであろう全世界の社会体制自体の脆弱さ、そしてそこに“巣食う”人間そのものの恐怖だったのだと思う。 映画の冒頭数分で死に至ってしまうグウィネス・パルトロウの描写を皮切りに、文字通り死が伝染する様は恐ろしい。 しかし、それ以上に、ジュード・ロウが演じたような人間から発される作為的な「情報」によって伝染していく個々の人間のパニックが何よりも恐ろしく、結局彼のような人間の存在を治めきれない現代社会の「現実感」に非常に脅威を覚えた。 アカデミー賞クラスのビッグネームを揃えたキャスティングによる群像劇には、流石に迫力はあった。 その一方で、個々の人物描写が希薄に映ったり、そもそも物語が中途半端であるという批判も分からないではない。 リアリズムに振れるにしろ、エンターテイメントに振れるにしろ、もう少し踏み込んだ展開があれば、もっと印象的に化けた映画になっていたようにも思う。 ただ、この映画で描かれるまさに「今そこにある危機」を紡ぐにあたって、この物語の中だけで完結していない半端さは、逆に問題意識を巡らすための余白を生んでいると言え良かったのではないかと思う。 そういう意味では、いつもスティーブン・ソダーバーグ監督作品に感じる、“何だか物足りない”感じが、意図的にか偶然かは分からないけれど効果的に反映されている映画であると思った。[ブルーレイ(字幕)] 8点(2012-02-15 14:01:44)(良:2票) 《改行有》

25.  恋はデジャ・ブ 十数年に渡って、この映画のジャケットをレンタルショップで幾度となく見続けてきた。 そしてその度に、「若いビル・マーレイが出ているチープなラブコメなんだろうな」と思い続けてきた。 何より、「恋はデジャ・ブ」という邦題がださ過ぎる。恐らく、多くの映画好きの日本人が同じような印象を持っているんじゃないかと思う。 ところがこの映画が、アメリカの歴代映画ランキングの「ファンタジー」部門で8位にランキングされており、驚いてしまった。 そして追い打ちをかけるように、TSUTAYAの“発掘良品”の企画棚に並んでいるのを観て、この映画の存在を知って十数年目、初めて手に取った。 いやあ、良い映画だった。まさに“8位”、まさに“発掘良品”に違わない。 自尊心ばかりが強い意地の悪い主人公が、嫌々訪れた田舎町で、“或る一日”を抜け出せず、繰り返し繰り返し同じ一日を生きなければならなくなる。 良いことも悪いこともすべてが繰り返され、主人公は時に楽観し、時に悲観し、心情の浮き沈みさえも繰り返す。 人は誰しも、とても良いことがあっても、とても悪いことがあっても、「また同じ一日をやり直したい」と思う。 では、実際にそういう状況に陥ったとき、果たして何が出来るのか?ということをこの映画はひたすらに描き出す。 永遠に繰り返される一日。それはやはり“悲劇”であり、“恐怖”だと思う。 何を成功しても、何を失敗しても、目が覚めると”ゼロ”に逆戻り。 その儚さは、「一日」に“始まり”と“終わり”があることの「価値」を雄弁に語る。 ラブコメであるこの映画は、恋の成就とともに一応ハッピーエンドを迎える。 ただそのハッピーエンドには、また繰り返される一日が表裏一体で存在しているようで、何だか怖い。 ビル・マーレイが演じる主人公は、繰り返される一日に苦悩しながら、人生における様々な発見と経験を得ていく。 この映画は、“同じ一日”を繰り返して描くことで、人生にまったく“同じ一日”なんてものは無いということを、ファンタジックな辛辣さの中で物語っている。 最後に……やはりこの邦題だけは最悪だ。[DVD(字幕)] 8点(2010-10-31 19:06:14)(良:3票) 《改行有》

26.  コーヒー&シガレッツ 自分が、コーヒーと煙草を好んでいないことが悔しくなる映画だ。苦々しい口当たりを表すような各シチュエーションの会話と、だからこそこみ上げてくる奥深い味わいがモノトーンの映像世界に溢れる。 シニカルなうわべだけのどうでもいいような会話が、なぜにこうも深みをもってくるか。たぶん、それがコーヒーと煙草の魅力なのだろう。 ケイト・ブランシェットの自演&一人二役をはじめ、ビル・マーレーのヌけた演技と出演者たちの存在感が、独特な世界観に拍車をかける。 コーヒー&煙草同様、まさに空いた時間に、何気なく、リラックスしてみるための作品だ。[DVD(字幕)] 8点(2005-12-28 12:54:41)《改行有》

27.  ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS 《ネタバレ》 東宝の「ゴジラ」シリーズは大好きで、1954年の第一作目をはじめとしてその殆どの作品を観てきた。 それを踏まえた上で、敢えて言っておかなければならないことは、この日本映画史に残る特撮映画シリーズは、その殆どの作品が「駄作」であるということだ。「ゴジラ」シリーズ全28作品中、「良い映画」だと呼べる作品は、本当に一握りしかない。 そんな中で、第27作目である本作は、意外に良い映画だと思っている。 「ゴジラ」シリーズにおける“良い映画”に共通する特色が一つある。それは、"ゴジラ”と対峙する(闘う)のが、「人間」であるということ。 「駄作」と断言できるゴジラ映画の多くは、ゴジラが登場し、そしてまた別の巨大怪獣が登場し、両者の対決ばかりを延々と繰り返す。 必然的にそこには人間ドラマなどなく、ストーリー性なんてあってないようなものになっている。当然ながら、映画として面白いわけがない。 娯楽映画であろうと、特撮映画であろうと、そこに確固とした人間模様が描かれるからこそ、観客は感情移入し、より一層にエンターテイメント性が際立つものだと思う。 そういった「ゴジラ映画」である前に「映画」として不可欠な要素を、本作はきちんと組み込んでいる。 人間が対ゴジラ用の最終兵器として生み出した“メカゴジラ”=「機龍」の整備士を主人公に配し、人間とマシーンの狭間に生まれる思いを軸に展開するストーリー性は、これまでのゴジラ映画にはない新しさだったと思う。 だからと言って、ストーリーの完成度が高いなんてことはないのだが、少なくともストーリー展開に整合性はあり、白けるようなことはない。 注文をつけるとすれば、成虫・幼虫(双子)と大サービスで登場する“モスラ”の存在性はあまりに無意味だったと思う。 モスラと、この怪獣とセットの“小美人”の存在のせいで、リアリティが大いに損なわれたと思う。(まあ、ゴジラ映画にリアリティなど求めること自体がナンセンスかもしれないが……) あともう少しキャスティング力にパワーがあれば、更に人間ドラマが際立ったのになあとも思う。 エンドロール後の“バイオハザード”的な更なる続編への煽りも個人的には大好きで、次作にも期待したのだけれど、続いて公開された最終作は、本作とは全く繋がりのない超絶駄作となってしまったことは有名な話。[DVD(邦画)] 8点(2004-10-25 02:47:09)《改行有》

28.  ゴスフォード・パーク 時代背景に裏づけされた人々の階級模様がそのまま舞台となる屋敷と映画の構図となり、非常に濃密で多面性のある群像劇が展開される。この手の映画は大得意な巨匠ロバート・アルトマンだけにストーリー展開とカメラワークが極めて見事で、多数の登場人物が混合することなくスマートに映画が進展していく。群像劇のみでも充分に見応えはあるが、そこに殺人というエッセンスが加わり映画としての味わい深さがさらに増す。[映画館(字幕)] 8点(2004-01-26 17:51:02)

29.  GO(2001・行定勲監督作品) 少しでもそのテイストを間違えば、とんでもない駄作になってしまいそうな物語を非常に巧く映画化したと思う。駄作どころかこの映画の価値は極めて高い。基本的に問題意識の低い日本人にとってこの映画で燦然と描かれるテーマは非常に重要なことだ。瑞々しいエネルギーと痛々しい葛藤を描いた今作を多くの日本人が観るべきだと思う。劇中、窪塚洋介が言う「広い世界を見るのだ」、まさにその通りだと思った。[映画館(邦画)] 8点(2003-12-21 13:03:56)

30.  恋におちたシェイクスピア 観る前のイメージに反して非常にテンポの良いストーリー展開と小気味いいキャラクター陣が大いに楽しめた。主演のグウィネス・パルトロウとジョセフ・ファインズの雰囲気がとても文芸的で映画世界にマッチしていたと思う。演出、映像世界など映画自体の完成度も極めて高く、存分に満足できる娯楽文芸映画だった。[ビデオ(字幕)] 8点(2003-12-13 19:46:08)

31.  ゴジラ×メカゴジラ ゴジラ映画ファンだからこそ、シリーズ中「良作」と呼べる作品が数作品しかないこともよく認識しているのだが、今作は紛れも無くその数少ない良作の一つだと言える。 “ゴジラ”というブランドの低迷が極まった時期に製作された作品のため、その評価はお世辞にも良くない。 しかしこの映画は、ゴジラというモンスターの強大さを描いた「怪獣映画」としても、機龍(メカゴジラ)という対G兵器を描いた「ロボット映画」としても、真っ当で、熱い作品に仕上がっていると断言したい。 何と言っても、“メカゴジラ”というシリーズ既存のキャラクターを、ゴジラの骨と機械とを掛けあわせた人間側の新兵器として再誕生させてみせた発想が見事だった。 厨二病的な発想と言ってしまえばその通りだが、生まれ変わったメカゴジラのキャラクター性は、“兵器”としても“怪獣”としてもドラマがあり、その造形美は最高に格好良い。 厨二病?大いに結構!と開き直りたくなる。 主演の釈由美子は、最初に今作を観た時にはそのあざとい演技に失笑を禁じ得なかったけれど、段々とこの映画自体のスタンスに的確であると思えてくる。 体躯のビジュアルや美貌も含めて、彼女の存在感そのものがアニメチックで、この映画に相応しいヒロイン像を体現してくれている。 「いくよ、機龍!」 というヒロインの台詞を聞くために、僕はこの先も何度もこのゴジラ映画を観ることだろう。[CS・衛星(邦画)] 8点(2003-11-11 18:15:34)(良:1票) 《改行有》

32.  告発 ケビン・ベーコンは全体的に秀逸な演技を見せてくれたが、特に娼婦にフェラをしてもらうシーンの演技がとても切なく深いものがあり巧かった。あまり評価されてないけど、クリスチャン・スレーターの演技もなかなか良かったと思う。物語の核となる2人の配役がこの映画の成功を決めたと思う。8点(2003-10-14 15:25:10)

33.  ゴジラVSデストロイア 初鑑賞時は、「ゴジラ死す」と触れ込んでおいて、前々作から登場させておいた“リトルゴジラ”にちゃっかりと引き継がせる顛末に、裏切られた印象を持ってしまったが、その後何度か鑑賞しなおしてみると、これはこれで悪くないと思えるようになった。 むしろ、1954年の第一作「ゴジラ」へのオマージュとリスペクトをしっかりと掲げ、「平成VSシリーズ」の明確な区切りを付けた今作の在り方は、とても正しく、はっきりと「良作」と言えると思う。 キャッチコピーに偽りは無く、第一作目に次いで二作目の“ゴジラの死”を明確に描いたゴジラ映画としても、その価値は高いと言える。 そして何よりも、暴走する体内の核エネルギーで赤く発光するいわゆる“バーニングゴジラ”のビジュアルは、極めて破滅的であり、格好良い。 そのゴジラの最期に対峙する怪獣が、“1954年”に芹沢博士が自らの命を賭してゴジラを葬った際に使われたオキシジェン・デストロイヤーが生み出した新怪獣であることも、何とも皮肉で、何ともドラマティックだ。 一方で、人間描写もなかなかいい。 物理学者を主人公に配し、第一作の山根博士の子孫をメインキャラクターに据えた構図は、“1954年”とのリンクをより効果的に成している。第一作でヒロインを演じた河内桃子を同じ役で再登場させるあたりは、新旧のゴジラ映画ファンを喜ばせるキャスティングだったと思う。 (平成VSゴジラシリーズの“心のヒロイン”三枝未希の最終作であることも忘れてはならない) そして自衛隊の活躍も外せない。 敵う筈も無い相手に無謀だろうが何だろうが挑み続けたことこそが、東宝ゴジラ映画における自衛隊の意地と誇りだったろう。今作ではその長きに渡る苦闘の日々がついに報われている。 過去2度に渡り撃墜された“スーパーX”は三号機にしてついにゴジラを最後まで苦しめ、無事に帰還する。それに乗り込んでいたのがあの“黒木特佐”であることが殊更に胸熱だ。 さらには、破壊され続けてきた“メーサー車”が、冷凍レーザー仕様でついにゴジラを追い詰める。 いやあ最高。 と、ついつい長くなってしまう。 大部分において陳腐な描写や展開も多く、冷静に観れば決して褒められた映画ではないとは思う。 しかし、特に平成ゴジラ世代のゴジラ映画ファンにとっては、見れば見るほどバーニングゴジラよろしく熱くなるゴジラ映画だと思う。[映画館(邦画)] 8点(2003-10-14 11:57:04)《改行有》

34.  ゴジラ(1984) 1981年生まれの映画ファンとしては、1984年公開の今作こそがゴジラ映画の“デフォルト”であると言える。おそらくはゴジラ映画ファンの親に連れられて行った映画館で鑑賞したと思う。 もちろん僕自身もゴジラ映画ファンだが、ファンだからこそ、歴代のゴジラ映画の殆どが駄作揃いであることも認知している。 ただ、今作はその中でも数少ない「良作」と言える部類のゴジラ映画であると思っている。 “良いゴジラ映画”に共通することは、強大なパワーを有するモンスターであるゴジラに対して、非力な人類は、限られた可能性と科学技術を礎にした「知恵」で、ゴジラを退けるというプロセスが描かれているということだと思う。 今作においても、人類は、鳥の波長を利用した超音波装置でゴジラを“おびき出し”活火山に誘い込むという極めて地味な作戦で勝利をおさめる。 そして、何よりも欠かせないことは、ゴジラは人類の「敵」であるという大前提と、同時に人類の業の権化であるという「戒め」だと思う。 苦心の末、人類はゴジラを退けるが、後に残ったものは決して喜びではなく、ある種の悲しみと、自己嫌悪感だ。 それが、ラストシーンで、小林桂樹演じる首相と、夏木陽介演じる生物学者の悲哀に溢れた表情に表れている。 1954年のオリジナルに対するまさに原点回帰と言える今作の方向性は正しく、極めて真っ当なゴジラ映画であると言えると思う。 個人的には、内閣総理大臣を演じる小林桂樹の存在感が堪らない。 もちろん、武田鉄矢の見事な浮浪者ぶりも忘れてはならない。[映画館(邦画)] 8点(2003-10-14 11:44:28)(良:1票) 《改行有》

35.  ゴーストバスターズ/アフターライフ 2022年2月12日、「ゴーストバスターズ」を生み出した映画監督アイヴァン・ライトマンが亡くなった。 この最新作にもプロデューサーとして名を連ね、監督を務めた息子ジェイソン・ライトマンと共に出演していたプロモーション映像でも顔を見たばかりだったので、その訃報は一映画ファンとしてとても悲しかった。 ただ、同時に、彼がクリエイトした娯楽映画史上に残るポップアイコンを自らの手で息子に託し、亡き盟友ハロルド・ライミスに捧げた本作の公開を見届けて逝ったことには、運命的なものを感じた。 そういった映画作品にまつわる様々なメタ的要素も絡みつつ、“若い世代”によってクリエイトされた本作は、1984年の「ゴーストバスターズ」が公開された“あの時代”に子どもだったすべての大人たちのためのジュブナイル映画であった。只々楽しく、そして泣けた。 1984年にアイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」の文字通り正統な続編であり、あの大人気映画があったからこそ意味を成す作品であることは間違いない。 そういう意味で、今の時代に相応しいテーマ性やアイデア、新鮮味がある映画ではないかもしれない。 でも、何も新しい物事を追い求めることばかりが、“新しい映画”にあるべきことだとは、僕は思わない。 過去の優れた娯楽や芸術を、新しい才能で蘇らせることもまたクリエイティビティなことだと思う。 敢えて80年代当時の着ぐるみ的な質感を携えたゴーストたちの造形だったり、80年代の空気感を残す田舎町を舞台にしたことなど、明確な演出はしっかりと創造性を孕んでいた。 そして、「継承」というテーマを映画世界の内外で強く意識した作品であるならば、その価値は更に意義深いものになる。 父親が生み出した世界に愛されたポップアイコンを、偉大な父以上の一流映画監督となった息子が継承し、その映画世界の中では、“お化け退治”の知識と技術と勇気が祖父から孫へと継承される。 この映画製作における文脈そのものが、大変エモーショナルだったし、王道的にエキサイティングだったと思うのだ。 息子ジェイソン・ライトマン監督が映し出した「画」は、尽くエモーショナルで素晴らしかった。 主人公の少女が佇む何気ないカットから、ゴーストバスターズ専用車両“ECTO-1”が田舎町を疾走するカットに至るまで、すべてのシーンが叙情感に溢れていて、それだけでも「いい映画だな」と思わせた。 一方で、ストーリー展開的において踏み込めていない要素は正直なところ少なくない。 主人公の少女を始めキャラクターたちは皆魅力的だったとは思うが、現在に至るまでの背景的な描写が極めて希薄なので、彼らが成長したり変化したりすることに対する感動は上手く表現できていなかった。 主人公フィーヴィーを演じたマッケナ・グレイス、兄役のフィン・ウルフハード、友達となるローガン・キムら若いキャストたちはキュートでジュブナイル性に溢れていた。 人生において破綻寸前の母親のキャラクターや、片田舎の冴えない教師に甘んじる地震学者を演じた“アントマン”もといポール・ラッドも、良いキャラクター性を孕んでいたのだが、「活かしきれていない」という印象は拭いえない。 「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」等々、人生に打ちひしがれた人間ドラマでこそ卓越した手腕を発揮してきたジェイソン・ライトマンだからこそ、そういう“負け犬たちのワンスアゲイン”的なキャラクター描写に物足りなさを感じてしまったことは、もったいなく思う。 だがしかし、振り返ってみれば父アイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」も、決して完璧な映画などではなく、くだらない部分はどこまでもくだらなくて、ポップでライトな“ノリ”に溢れた作品だった。 その“ちょうどいい”娯楽感こそが、「ゴーストバスターズ」であり、やっぱり正しい「継承」だったのだと思う。 短い時間ではあるが、亡きハロルド・ライミスを含めたオリジナルの4人が揃い踏みし、その中でビル・マーレイやダン・エイクロイドが気の抜けたジョークを繰り広げる。 1981年生まれの映画ファンは、そのさまを観て、率直に「ああ、良かったな」と思えた。[映画館(字幕)] 7点(2022-02-18 22:48:34)(良:1票) 《改行有》

36.  GODZILLA 怪獣惑星 まず冒頭のプロローグ的なニュース映像の中で最初に登場する怪獣が、カマキラス、そしてドゴラだったことがマニアックで、思わず喜色を浮かべた。 地球が滅亡したくだりを伝えるこのオープニングクレジットは、非常に端的であり、かつ東宝特撮映画ファンの心をくすぐる娯楽性に溢れたものだった。(“ヘドラ作戦”が気になる!) “ゴジラファン”でありながら、今作に対してはあまり良い評判が聞こえてこなかったので、今の今まで鑑賞を先延ばしにしまっていた。 随分とハードルを下げきったことが逆に良かったのかもしれないけれど、今作は、想定を大いに超えた満足感を得られるれっきとした“ゴジラ映画”だったと思う。 タイトルが「GODZILLA」となっているように、そのキャラクター性を含めたゴジラの造形や世界観のテイストは、2014年のハリウッド版「GODZILLA」の方向性に限りなく近い。 ゴジラ自体の姿形もハリウッド版とほぼ同じフォルムであり、「破壊神」と称されるに相応しいその巨躯はこのアニメ版においても迫力があった。 その一方で主人公をはじめとするキャラクターたちの台詞回しや、作戦進行を中心としたストーリーテリングにおいては、2016年の「シン・ゴジラ」を彷彿とさせる要素も垣間見れ、個人的には適切なバランスで両国版の「ゴジラ」が融合している印象を受けた。 一般的な評価はやはり低く、「ゴジラ映画として認められない」という意見も多いようだけれど、「ゴジラ」を初めてアニメーション作品で描く上で、実写での特撮映画では実現が難しい試みに挑んでいることは、正しい映画作りのあり方だったと思う。 そして、この映画には「ゴジラ映画」として相応しいテーマがしっかりと備わっているとも思う。 そのテーマとは、ゴジラに対する人類の「畏怖」の念だ。 第一作目の1954年「ゴジラ」しかり、「シン・ゴジラ」しかり、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中で確固たる傑作として輝いている作品は、ゴジラという大怪獣に対する「畏怖」をどれも等しく描きぬいている。 今作に対しては手放しで「傑作」とは言い切れないけれど、人類のゴジラに対する「畏怖」については、どの過去作よりもダイレクトに描きつけられていると思う。 突如地球に出没した“破壊神”ゴジラの「災厄」としての存在感を突き詰め、人類文明を明確な「滅亡」に至らしめたのは、今作のゴジラが初めてである。 「ゴジラによって地球の人類文明は滅亡しました」というイントロダクションから始まる今作の豪胆なストーリーテリングは、今作が実写シリーズとは一線を画したアニメ映画だからこそ成し得たものだったと思う。 SF、アニメ、トリロジーというフィールドを最大限活かして、これまで誰も見たことがない「ゴジラ映画」を見せようと試みたこの映画プロジェクトの精神は、まったくもって正しいと思うのだ。 極限的に壮大なストーリーのわりに、主人公をはじめとする登場人物たちの言動が直情的でやや希薄に感じたり、諸々の設定がさすがにぶっ飛びすぎているというような「粗」が溢れかえっている作品ではある。 ただ、そういった雑多な映画的テイストもまた「東宝特撮映画」の文化であろう。 とりあえず今は、続編2作品を続けて観られることが楽しみで仕方がない。[インターネット(邦画)] 7点(2021-01-17 15:08:57)《改行有》

37.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。 その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。 と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。 「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。 その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。 ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。 でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが) 実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。 詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:2票) 《改行有》

38.  ゴースト・イン・ザ・シェル アニメ映画の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と、その続編である「イノセンス」は“一応”観ている。が、しかし、押井守監督が生み出したアニメーションの独特の質感と、鬱々とした世界観が、個人的にどうにも肌に合わず、面白いとは言い難かった。 人間と、電脳、アンドロイド、サイボーグが混在する近未来の混沌を描き出すにあたり、描き出されるテーマがどんどんと陰鬱に、インサイドの更にインサイドへと突き進んいくストーリーの構図が、精巧に感じる反面、酷く“ひとりよがり”にも感じてしまったことが、拒否感の最たる要因だったと思う。 そんなわけで、満を持してのハリウッド映画化の報を知っても、特段興味はそそられず、本来東洋人設定であるはずのヒロインにスカーレット・ヨハンソンを配したキャスティングにも安直さしか感じなかった。 “ビートたけし”の主要キャスト起用にも、キアヌ・リーヴス主演の往年のトンデモSF映画「JM」を彷彿とさせるばかりで、観る前から“やっちまった感”を覚えた。 だがしかし、だ。そうやってハードルを下げきって実際に観てみたならば、いやいやどうして、フツーに面白かった。映画とは、本当に厄介な娯楽である。 少なくとも、アニメ映画「攻殻機動隊」の非ファンとしては、想像以上に面白かったと言える。 考えてみれば、これだけ世界的なファンと非ファンを持つ作品の映画化にあたっては、どれだけ完成度を上げて仕上げたところで、どこかしらの角度からの「否定」は避けられないわけで。 そんな火中の栗を拾うようなプロジェクトに無謀に、いや果敢に挑み、統一された価値観で纏め上げて見せていることには、今作の製作陣のプライドを感じた。 当然ながら原作のファンなのであろうスタッフ陣が、原作はもとより「日本文化」そのものに対してのリスペクトをしっかりと掲げて映画の世界観を構築してくれていることも、この国の映画ファンとして意気に感じる。 また、懸念材料だったキャスティングも、強引ではあるが辻褄は合っているストーリー設定で整合性を保っているし、想像以上に主要キャラクターだったビートたけしと、桃井かおりの存在感が光っていたことも誇らしかった。 今一度、アニメ版「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」を見直してみようと思う。[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-08-12 00:20:01)《改行有》

39.  孤狼の血 「今」の日本映画において、ぶっちぎりに「熱量」が多い作品であることは間違いないし、こういう日本映画をもっと観たい。 が、しかし、熱量が高騰したことは認める反面、それが沸騰するまでに達したかというと、正直なところ疑問符が残る。 触れ込みの通り、往年の大傑作「仁義なき戦い」を彷彿とさせる作品ではあるが、その系譜の娯楽映画、即ちジャンル映画として、あらゆるしがらみから「脱却」しきれていないと、敢えて言いたい。 言い換えれば、色々な意味で、「丸裸」になり切れていないとも言える。 必ずしも、もっとエロく!もっとグロく!ということではなくて、ジャンル映画としての本質的な部分で、もっと脱ぎきってほしかった。脱がしきってほしかった。 敢えて表面的な部分を指摘するならば、そのままの意味合いに聞こえるかもしれないが、もっと「裸」を見せるべきだったと思うのだ。 傍若無人のマル暴刑事を演じた主演の役所広司にしても、妖艶さを振りまく真木よう子にしても、“こういう映画”で「裸」にならないのは如何なものか。 ましてやせっかくの“濡れ場”にも関わらず、松坂桃李を脱がさずに、おぼこいラブシーンに終始した演出には、「一体、どういうワケだ?」と監督を問いただしたくなる。 「暴力映画」として随所に振り切れているのだからそんなことは些末なことだと言う人もいるのかもしれないが、バイオレントシーンやグロテスクシーンにおいて白眉なものを見せてくれているからこそ、そういうあるべき娯楽要素の欠落に、何だか遠慮めいたものを感じてしまい、非常に勿体無く思えた。 それは、この映画が、「俺たちが観たい日本映画」を表現してくれているからこそ、発さずにはいられない“物言いだ”。 封切りから間もないが、どうやら日本映画としては異例の続編製作が既に確定しているらしい。 白石和彌監督が、これからの日本映画界を牽引していくべき中堅監督の一人であることは疑わない。 是非とも、「仁義なき戦い」の第二弾である「広島死闘編」並に遠慮なくブチ切れた続編を期待したい。[映画館(邦画)] 7点(2018-05-19 17:34:35)《改行有》

40.  コードネーム U.N.C.L.E. 「雰囲気」だけの映画である。でも、その「雰囲気」こそが、この映画において、製作陣が意図し観客が求めるものであり、それが最高なんだから、「それでいいじゃん」と思う。 ある種のクラシカルさすら感じる“ザ・映画スター”とでも言うべき風貌と体躯が抜群な主演俳優の二人が先ず良い。 様々な社会的風潮や映像技術の進歩等も手伝って、映画スターにおいて必ずしも肉体的な逞しさや美しさが重要視されなくなって久しい。 けれど、この映画の主演俳優たちは、背格好に恵まれているという映画俳優としての大前提とその重要性を改めて表し、彼らの立ち振舞そのものが「娯楽」であるということを雄弁に伝えてくる。 勿論だからと言って、ヘンリー・カヴィルとアーミー・ハマーが、見た目だけに優れた俳優だというわけではない。 それぞれがキャラクターの心情を的確に表現できていたからこそ、この二人の主人公はとても好感度の高いキャラクターに仕上がっているのだと思える。 その二人の間に存在しあらゆる意味で騒動の中心となるヒロイン役にはアリシア・ヴィキャンデル。この1、2年で一躍トップ女優に駆け上がった彼女の存在感は、二人の屈強な大男に対しても決し埋もれることなく光っている。 そして、歳を重ね俳優としての新たな味わい深さで存在感を増しているヒュー・グラントが脇を締め、キャスティングも総じて成功している。 前述の通り「雰囲気」だけの映画なので、軽いノリが売りとは言え、ストーリーテリングが稚拙であることは否定できない。 観終わった後に残るものは、某自虐ネタピン芸人のテーマ曲だけかもしれない。 でも、“U.N.C.L.E”たちの今後の活躍を期待せずにはいられない。 シリーズ化希望。でも、「シャーロック・ホームズ」の続編もちゃんとお願いしますよ、ガイ・リッチー。[インターネット(字幕)] 7点(2017-02-15 09:52:17)《改行有》

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