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年齢 43歳
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1.  呉清源 極みの棋譜 呉清源演じる張震が碁盤を見つめる時、上半身を前に屈めて顔面を碁盤へ近づけるのだが、黒と白の碁石・張震の頭・メガネといった円形と、碁盤や障子といった四角形による美しい交錯に息を呑んだ。前作「春の惑い」でも見られた、水面上の張り詰めた静寂と水面下の激情が、この映画ではより審美的に強調されているのだが、その殆どが例えば田壮壮と同世代の張芸謀のように自己陶酔には落ち込まず、つまりその映像美自体が映画の目的とならずにあくまで語りの一要素となっている点は見事、というか良く耐えたと思う。それぐらいに、戦中・戦後の日本として出てくる風景が美しい。ただしこの風景は、日本人の手によってこの類の映画が作られたならば確実に出てきそうな、日本の原風景的な画とは異なった、別の日本という感じがする。またそれに拍車をかけるような演出方法―説明や心理を一切省き、呉清源の足跡(それも非常に数奇な)だけを辿る―の徹底が、この映画をかなり歪なものにしていると思われる。それでいて最初に述べたような様式美へのこだわりを有しており・・・これってトニー・スコットの「ドミノ」にも通じてないだろうか?如何にして実話、実在の人物をフィクションとして仕立て上げるか(面白いのは、両作ともに本人が登場する事。そして本人の登場が歪み(ノイズ)をさらに増幅させる(てしまう)事)。うーん、纏まりのないレビューになってしまった。[映画館(邦画)] 8点(2007-12-18 23:17:52)

2.  荒野のガンマン 《ネタバレ》 色々と問題のある映画だとは思うが、この処女作ならではのタガの外れ様は圧倒的だった。冒頭の首を括る拷問とか、主人公の誤射により死んでしまう少年の登場シーンなど、インパクトの強い画面構成が印象的で、この映画自体そういうインパクトだけで繋いだような感じがする。それが作品のバランスの悪さとなるのだろうが、本能的とも言っていい求心力に何故だか惹かれてしまった。「ガルシアの首」と正反対の展開も面白い。ところで「ガルシアの首」って、見るたびに「あぁ~」って唸るしかない映画なので困る。何なんだあの映画は本当に。で、こういう映画を処女作として撮るような人間が「ガルシアの首」のような映画を撮れるんだなあ、と変に納得してしまった。あと、強盗した金で南部に軍隊を作ろうと意気込むあのおっさんの倒錯的なキャラクターは凄い。[DVD(字幕)] 9点(2007-02-14 16:43:33)

3.  荒野のストレンジャー 西部劇異聞みたいな感じの不思議ラストである。西部劇という舞台が持つ場所感覚は魂の彷徨みたいなベクトルをすっぽりと受け入れるようだ。どこまでも広がる荒野は確かに地獄であり(COWBOY FROM HELLって歌もあるし)、この映画では小さな水辺の集落がその地獄の舞台となる。イーストウッドがならず者を撃ち殺しすぐさま女をレイプする野獣のごとき姿を見せるという冒頭からシャレにならない展開。そして村を赤く塗りたくって「地獄」と変えてしまうイメージ感覚もビックリだが、この映画が本当にシャレにならないのは切り返し構図の強烈さである。特に終盤の炎に囲まれた復讐シーンでイーストウッドが鞭を放つ画と叩かれる男の画はこれだけでご飯がすすむ、みたいなよくわからないがそれぐらいの鮮烈な画面であった。近年のイーストウッド作品がもたらす、開き直りともいえるぐらいの恐ろしい歪みがここにあるのかどうかはわからないが、イーストウッドイズムがとってもよく溢れた必見の作品だと思う。[DVD(字幕)] 9点(2006-04-10 20:03:09)

4.  ゴースト・オブ・マーズ B'zって長い間「くだらねーバンドだなー」と思っていた。あいつらの曲は全部同じく聞こえるじゃん、という感じで。ところが、倉田真由美が何かのエッセイで、同じような曲を20年近く作り続けられる彼らのモチベーションには頭が上がらない、みたいなことを書いてて妙に納得してしまった。彼らの作曲が長年の惰性によるものだとしても20年は絶対に無理なわけで。普通なら気が狂うに違いない。そういえばジャン・コクトーの言葉で「私は人々がオリジナリティにこだわることが大嫌いなだけなのである。」というのがある。オリジナリティという惰性にすがらず、何十年もB級映画を撮り続けるこの人はちょっとカッコ良すぎる。カッコ良すぎるし映画も面白い。「やれやれだぜ」みたいな感じで二人並んで歩くラストシーンは余裕で想像できるのに、その絵から漂う雰囲気は想像を超えてたね。[DVD(字幕)] 10点(2005-03-25 12:57:44)(良:1票)

5.  こうのとり、たちずさんで この映画でのテーマは多分日本人にとって一番理解しにくい部分の一つだろう。島国である以上、国境の存在はかなり曖昧だ。県境とはわけが違う。「あと幾つ国境を越えたら自分の家に帰れるのか」なんて、日本列島に住む人間が叫んでたら「頭、大丈夫?」と言われるのは確実だ。しかしこの映画ではこのセリフがそのまま現実としてある。ギリシャを含めたバルカン半島諸国は、その国境線を何度も蹂躙され、あるいは侵攻して、という歴史を繰り返して今の国土となった背景がある。だから国境線近傍は当然のことながら常に緊張している。そんな場所が舞台の「こうのとり、たちずさんで(この邦題、いいなあ)」はアンゲロプロスが国と国との間にある数え切れない襞に入り込んで、そこから見つめた人間ドラマである。これはもはや自分の理解のレベルを超えている。こういう場所が現実にあるのだと想像するしかない。マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モローという大物俳優が出ているがあの重たく暗いコートを着こんで、すっかりアンゲロプロスの子供になっている。そして映画の内容もこのコートのように暗く重たく、あるいは静かで冷たい。主人公は珍しく普通の人だ。彼に個性を持たせないことで、我々に直接に国境の住人達の感情を伝えている。必死とか諦めという言葉はここでしか意味にならないかのようだ。そしてあの結婚式。悲しさと美しさの間に立つアンゲロプロスにとって、川を挟んだ新郎新婦そして家族とその仲間たちは希望であって絶望なのか。頭を抱えるしかない。[映画館(字幕)] 8点(2005-02-28 07:55:32)

6.  子猫をお願い 例えば静かな電車に女子高生5人が乗り込んだとする。その瞬間まわりの空間が一変するのは誰もが想像のつくことだろう(単純に「うるせえなあ」っていうのもあるけどそれは別・・・エネルギーの問題です)。サラリーマンが5人乗っても混むだけだ。この映画は要するにそういう映画である。なんでもない場所を、あるいは映像的に美しい場所ですら、彼女達が画面の中にいるだけで彼女達の世界に変えてしまうようなとんでもない映画だ。5人が集合している時はもちろんの事、1人になった時でもその強度は消えない。上司に雑用扱いされゲーセンで一人ふてくされてDDRに熱中していても、冴えないサウナの受付嬢として老人に甘酒をサーブしていても、「こんな孫は知らん」と家の中に入れてもらえない時でも、そして家の修理代のために借りた金で機種変更した携帯で着メロを選んでいても、である。要するに場所は人によって染まる。だが時間が経てばその染めるのに用いた染料はやがて色あせる。のだけど、ごくわずかの人間に限り、映画の神様からどれだけの時間が経っても色あせない染料を与えられることがある。この映画から発散するエネルギーの無尽蔵さを目の当たりにすると、上記のような人間に当て嵌めたくなるわけです。[映画館(字幕)] 10点(2005-01-24 02:20:28)(良:2票)

7.  ゴジラ(1954) 最近のゴジラといったらどうも他の怪獣と対決しているイメージが強く、"いい奴"としてのゴジラをまず想像してしまう。映画館に押し寄せるゴジラファンは何を期待しているかといえば、間違いなくゴジラが大都市を破壊し尽くすシーンだろう。この元祖ゴジラはその後の怪獣バトルを考えると、数少ない「人間たちを照準とした」作品で、都市の破壊こそが信条だった。「ゴジラが来る夜に」という非常に面白いゴジラ論では、この作品において「怪物が現れた、怪物を殺せ」ではなくて「怪物が現れた、人間が変われ」という可能性を提示したと書いている。そうなるとゴジラとは一体何なのか。シリーズを通してそのあり方を何度か変化させたゴジラはそれぞれ別のものなのか。怪物とは人間の内に潜む恐怖(とは言い切れない部分もある)が具現化したものであり、それが人間に悪い影響を与える。これを「殺す」というのは何だか気味が悪い。それは自分を殺すという意味でもあるから。[映画館(字幕)] 9点(2004-09-24 16:57:52)(良:1票)

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