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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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1.  生きる 《ネタバレ》 『生きる』の原案はトルストイの『イワン・イリッチの死』。死病に伏した主人公の独白、孤独と絶望がテーマ。彼は死を前にして自分に「生きがい」がなかったことに煩悶する。『生きる』の主人公、志村喬演じる渡辺課長は癌発覚後、これまでの生を反芻しつつ最後の「生きがい」を見つけることで救われる。このオリジナルとの違いが黒澤ヒューマニズムの境地と言われる所以だろう。黒澤が『生きる』と題した物語のテーマはやはり「生きるとは何か?」なのだ。 とはいえ、実は『生きる』は渡辺課長が亡くなった後半からが面白い。通夜の席での「ナマコ」「ドブ板」「ハエ取り紙」といった曲者たちの喧喧諤諤には何度も感嘆した。さらに翌日の彼らの変わり身の早さを示すラストにも唸る。たとえ副次的であっても、あの通夜のシーンで、組織から個へ、組織に囚われる個の本質を見事に描いてしまったが故に、この映画のテーマが「個と何か」だというのも理解できる。それは「凡夫」であり「悪人」である人間の本質と言ってもいいだろう。[インターネット(邦画)] 9点(2024-04-30 22:28:01)《改行有》

2.  生きる LIVING 《ネタバレ》 黒澤の『生きる』を洗練した感じではある。『生きる』のモチーフはちゃんと引き継がれている。違いがあるとすれば、主役のビル・ナイに志村喬のような切羽詰まった感じがなかったこと、途中で元部下の女性に決定的に気味悪がられたりもしない。 黒澤版『生きる』後半のあのグタグタした葬儀の後の喧々諤々は、列車内の率直なやり取りに変わっている。実は、私が『生きる』で一番感銘したのは葬儀の後のグダグダの喧々諤々なのである。それが黒澤らしさでもあった。 イシグロらしさは何だったのかなと、『浮世の画家』『日の名残り』『夜想曲集』を思い浮かべる。特別な境遇にある人間が彼らの理路によって普遍を語りながら、全く普遍的な共有感が見いだせないような、それでいて、共有の欠落感に共有感を感じてしまうような不思議な感覚。そんな捻くれた感じは完全に抑えられていたように思う。 黒澤らしいある種の分かり易い社会的グダグダ感をより捻れたニンゲン的グダグダへと昇華できればもっと面白かったかなと。でも、率直に素直に感動はした。[映画館(字幕)] 8点(2024-04-30 22:24:15)《改行有》

3.  イントレランス 《ネタバレ》 本作品は、当時、フランス戦線が始まっていた第一次世界大戦を想定した反戦映画として位置づけられる。その意図はラストシーンで挿入される現代の戦争シーンでも分かるだろう。バビロン陥落とサン・バルテルミの虐殺劇は、それぞれ、大量虐殺の象徴としての戦争の実態を表している。そして、各々の戦争の経緯と共に、ある女性と青年に焦点を当てた悲恋のストーリーが同時に語られるのであるが、彼女らは戦争という歴史の犠牲者として、最後には殺戮されてしまう。(バビロンでは、山ガールと詩人、フランスでは、ブラウンアイズと傭兵がそれに当たる) 新約から引用されるイエスのシーンは、本作を構成する物語というよりも、「不寛容」の象徴としてある。イエスこそは、人間に対する「不寛容」を一身に背負って磔刑となったキリストなのだと。 3つの歴史の物語が「不寛容」な結末を迎え、現代篇が最後に残る。青年は無実にも関わらず裁判で死刑の判決を受ける。彼の可愛い妻は彼を助けようと懸命に奔走する。目まぐるしく入れ替わる展開はスピード感に溢れ、僕らは手に汗を握り、画面にくぎ付けとなる。(ラストの列車追跡シーンは本当に素晴らしい) そして、青年の運命は如何に。。。その伏線がバビロンとフランスの2つ悲恋物語にある。 162分に及ぶ長大で矮小な物語。それは僕らに「不在の神」という概念を思い起こさせる。「不寛容」とは、創世の後、自ら退いた神の人間に対する基本的な態度であり、イエスが自らの死と引き換えに人間に託した教え、「キリスト教」が人々に必要とされる由来でもある。イエスの教えとは、人の人に対する「寛容」であり、隣人愛なのだから。 中世のキリスト教より、サン・バルテルミの虐殺に繋がる宗教戦争という歴史の悲劇。しかし、グリフィスは、そこに男女の矮小な純愛を対峙させることで、全くの個人を出発点とした「寛容」を説いてみせる。そのバックグランドには、バビロンの山ガールと詩人、フランスのブラウンアイズと傭兵、彼らの愛と死があって、そして、イエスがいる。この物語はそういう物語としてあるのだと僕は思う。 いろいろな意味で映画の可能性を問うた作品であり、壮大なる反戦映画。その意義が映画史に燦然と輝く、と同時に、僕らのイマジネーションを掻き立てる素晴らしい映像世界であった。[DVD(字幕)] 10点(2012-05-16 00:52:31)(笑:1票) 《改行有》

4.  インセプション 《ネタバレ》 2010年公開の映画の中で私的No.1だった作品。 この映画のコンセプトのひとつが、いわゆる夢の世界の映像化である。そこで描かれる夢は、一見して現実と区別がつかないが、何かのきっかけで破綻し、崩れていく世界。そういう夢を人工的に作り出すというアイディアは特に新しいものではない(『クラインの壺』とかがある)けど、そこで作り出される夢が、夢の中の夢という括りにより何層にも積み重ねられるという構成(これまでは並列的世界が多かったと思うけど、これは階層的)と、それを「設計」するという発想は面白いと思った。 人間の意識について、ホーキング博士はこう言っている。「人間くらいの大きさのエイリアンであれば、1兆の1000兆倍もの粒子を含んでいるので、たとえエイリアンがロボットであったとしても、方程式を解いて、その行動を予言することは不可能でしょう」 これはロボットにも自由意志が持てる可能性があることの言説だが、その前提として、意識は人工的に創出可能で、その拡散度合にはほぼ無限の(人間が推算できる以上の)可能性があることを示している。夢や仮想現実の世界も、宇宙と同じように量子論的探究が可能な世界であり、そこに様々な想像を加えることで実際的なサイエンスフィクションの対象となりえるのである。(夢だからといって何でもアリというわけにはいかないでしょう) 仮想現実を扱った映画といえば『マトリックス』がある。これはシミュラークル的な奇想から発展した荒唐無稽なSF的映画だと僕は思うが、本来、理論的位置づけがそこはかとなくあって、主題が現代思想的にも有意で、なおかつ人間的に必然な要素(恋愛とか利己とか家族愛とか)が絡んでいて、とにかく面白い、というのがSF作品に僕らが求めるところではないだろうか。 そういう意味で、『インセプション』は、SF映画として、想像力を刺激される印象的な作品だと僕は思っている。[映画館(字幕)] 10点(2011-01-18 02:18:41)《改行有》

5.  いつか読書する日 《ネタバレ》 気持ちというものは、言葉にして初めて形になる。他者に表明して初めて具現する。そうでない時、それは得体の知れないものとして在る。表情として、仕草として、態度として、それは明白なものでは有り得ない、、、と僕は思う。 田中裕子と岸部一徳は、お互いにお互いを意識する間柄であるが、それは今の日常に踏みとどまるよう気持ち(言葉)を抑えることで成り立っているが故に、彼らの中には、「得体の知れなさ」が、幻想として肥大している。時々、敢えて言葉にしてみることにより、自らの感情を認識しつつ、それはガス抜きされる。いわゆる「恋」である。倦怠さを超えて尋常かつ切実に繰り返されてきた30年間に渡る「恋」のファンタジーである。 唐突であり、また都合のよい展開。それもファンタジーとしての物語である。 30年間思い続け、それが成就するというファンタジー。「恋」を扱った物語として、それは必然の展開なのではないか。 「いつか読書する日」というのは、いつか彼女が買い揃えた文芸小説を心静かに一人読んで過ごす日(は「そのこと」を超えないとやってこないということ)を指し示しているのだと僕は思った。そして、過剰な思いや欲望を意識しつつ、自ら抑圧した長い日々があり、言葉を紡いだ「その日」があり、お互いを心のままに求め合った瞬間があり、それらが想い出に変わる日々、瞬間を永遠のものとして、これからようやく様々な物語を自らに引き入れることができるのであろうことを暗示しているのだと思った。もちろんそれが解釈として妥当なのかどうかは分からないけど、この映画がそういった想像を含め、様々な思いを喚起させることは間違いない。 幾多の社会問題を散りばめながら、その関係性の中でさざめく日常があり、日常を超えて持続した「恋」のファンタジーがある。胸を突く、感動的な映画だった。 [DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:40:57)《改行有》

6.  イントゥ・ザ・ワイルド 《ネタバレ》 ジョン・クラカワーの原作はクリスのアラスカ入りまでの放浪生活を追い、彼が出会った人々を広く取材して、その行動と言動を丹念に拾い集める。このノンフィクション・ノベルは一人の青年のセンセーショナルな死を出発点としているが、クリスという一風変わった、それでいて実に魅力あふれる青年の生き様を様々な角度で描き抜いていることが最大の面白さであると感じる。 クリスの人物像。彼は単なる自分探しを求める夢見がちな若者の一人ではなかった。トルストイとソローをこよなく愛する厳格な理想主義者で孤独と自然を崇拝し、それでいて真に文学的な青年でもあった。理知の上に立つ無謀さ。心に屈折を抱えながらも自らの強さを過信するが故に様々なものが赦せなかった青年が2年間の放浪の中で、そして荒野での生活によって徐々に変化し、生きる可能性を掴む。人々とのふれあいの中で心を残す。最終的に彼は死んでしまったけれど、彼の生は、彼と出会った人々の心に確実に生きている。そのことが伝える生の重みを原作であるノンフィクション・ノベルは拾い上げ、そして映画が主題化し物語として紡がれた。 映画は正にショーン・ペンの作品となっている。原作はクリスという人格を外側から炙り出すパズルのような構成となっているが、映画はクリスという実体の行動を中心にして話が進められる「物語」としてある。原作によって炙り出されたクリスという人間像をショーン・ペンは自らの思想性によって肉付けし、物語の主人公として見事に再生させた。映画は、70年代ニューシネマ風のロード・ムーヴィーとして観ることができるだろう。ニューシネマの掟通りに主人公は最後に死んでしまうが、そこには明らかに「光」があった。この光こそ、ショーン・ペンの映画的主題である現代的な「赦し」の物語なのだと僕は思う。クリスが真実を求めた先に見えたものは、ふれあいの中で知った人の弱さであり、そして大自然に対した自らの弱さであった。彼は自らの中で家族と対話する。自分が自分であることを認める。そして、全てを赦したのだと僕は思う。そういう物語としてこの物語はある。 現代に荒野はもう存在しない。彼は地図を放棄することで荒野を創出し、その中で自らの経験によって思想を鍛錬しようとした。荒野へ。理知の上に立つ無謀さ。これこそが失われかけたフロンティア精神の源泉で、現代の想像力を超えた強烈な憧憬なのかもしれない。[映画館(字幕)] 10点(2009-03-18 20:31:29)(良:3票) 《改行有》

7.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 素晴らしい映画だった。僕は前作『父親たちの星条旗』のレビューで、クリント・イーストウッドは個人という矮小な物語から戦争という壮大な物語を描いてみせる、ということを書いた。今、彼の硫黄島2部作の後編というも言うべき『硫黄島の手紙』を観終わって、正に我が意を得たりとでも言おうか、その感想に聊かの変化も感じていない。 この映画の主人公は一兵卒、西郷であろう。(彼は狂言回しではなく、この物語の主人公である) その弱々しくも人間的なキャラクターから硫黄島戦を捉えたとき、この映画は戦争という極限状態における個人的な側面をその切実さとともに描き出す。クリント・イーストウッドは戦争という局面の中でも執拗なまでに「人間」を描くのである。ほぼ全編にわたって硫黄島戦の経過をなぞるように場面が進んでいく為、『硫黄島の手紙』は『父親たちの星条旗』と違い、硫黄島戦の史実を日本軍側から忠実に描く戦争記録映画として観ることもできるだろう。しかし、主人公の西郷、そして、栗林中将、元憲兵の清水の過去、その個人史がフラッシュバックで描かれる、その短い場面に込められた登場人物たちの「生きる想い」、その凡庸でありながら、普遍的な切実さこそがこの映画に込められた最大の「祈り」であり、それが僕らの心に自然に、そして重く受け止められるのである。 西郷は生きる。彼は逃げ続けることによって、生を得る。そして彼は言うのだ。 『私はただのパン屋です』 私は愛する妻と未だ見ぬ娘に会いたい、彼女らに会うために祖国に生きて帰る、そういう自らの真実に支えられて戦場を生き抜く、そういうただのパン屋なのです。 ただのパン屋であるという西郷の真実。それとともに、西郷が清水の死に触れて流す涙、栗林を看取る際の涙、それは単純ではない人間の(ある意味でパン屋であるということを越えた)在るがままの涙であり、そのことの重みが僕らの胸を強く掴む。 彼は誰にも知られずに誓った「生きて帰る」という信念を貫いたわけだが、そういう個人的な正義を僕らは誰も非難することなどできない。何故ならばそういった人間の信念が戦争という狂気の中で揺らぎ、繋ぎとめられる、それこそが戦争というものであり、クリント・イーストウッドが伝えたかった信念であろうと僕は思うのである。[映画館(字幕)] 10点(2006-12-11 20:55:08)(良:1票) 《改行有》

8.  イマジン/ジョン・レノン ジョンレノンに100%共感できる人というのは、もはやいないのではないかな。実際、彼のファナティックとも思える行動にそれほど惹かれるものはないし、「イマジン」で歌われる理想に心底ジョインする気分にもなれない。にもかかわらず、ジョンレノンという、そのすべてを否定できないのはなぜだろう。それは多分、僕が「イマジン」よりも「ジョンの魂」の方が好きだということに関係するのかもしれない。ジョンとヨーコが初めて出会った有名なシーン。ヨーコの個展を訪れたジョンが備え付けの虫眼鏡の中で見た小さな「Yes」の文字。自らの赤裸々な想いを小さな「Yes」に乗せて歌う「Mother」や「God」。大きな「Yes」でも小さな「No」でもないもの。この映画に垣間見える、彼が本当に追い求め、そして得たもの、語られない彼の密やかな情念、映画「イマジン」の映像や音楽が確かな形をもって伝えてくるものがある。死ぬ前の一枚の写真。彼の真摯な視線の先に見ていたもの。ラストの死のニュースには自然な哀しみを覚えた。[ビデオ(字幕)] 10点(2005-11-22 00:06:32)(良:1票)

9.  異人たちとの夏 この作品は本来、美しきホラー映画になるべきものであったと思う。片岡鶴太郎と秋吉久美子演じる両親との暖かい再会と名取裕子演じる女性との恋愛。この2種類の死者達との邂逅/交流のストーリーを同列に見なければ物語の真意は掴めない。ファンタジーの裏側にあるグロテスクさ。僕らはそれに惹かれるのだ。本来はその幻想性と一体であるはずのグロテスクさを一身に引き受けてしまった名取裕子の存在を完全に否定したい気持ちは分からないでもないが、これはそういう物語なのだから仕方がない。異界との交流を描くファンタジーとは、いつでもそういう地平の上で描かれるべきものなのだ。誰もがノスタルジックな気分に浸れる両親との切ない別れのシーンは確かに泣けた。それと対比するはずだった恋人とのおぞましき対決シーン。その出来栄えが、、、何ともチープな超B級特撮とは。。。確かにちょっと言葉を失うけど、「ハウス/HOUSE」や「漂流教室」の大林宣彦監督だから、それはそれで仕方がない。というか、やっぱりもったいなかったよなぁ。7点(2004-04-07 18:41:14)

10.  イン・アメリカ 三つの小さな願いごと 素晴らしい映画。確かにファンタジーに救いを求めすぎているかもしれない。家族の欠損を強調しすぎているかもしれない。しかし、僕はこの作品に素直に感動した。「私が一家を支えてきたの!」少女クリスティが父親に言った言葉は、僕らの心に素直に響く。この一言はジョニーを救ったのと同時に確実に僕らの心を捉えるのだ。クリスティは傍観者であり、記録者であるように演出されているが、実は家族を支える、アリエルを守る、マテオを導く、そして僕らをも支えるイノセンスのキャッチャー(The Catcher)だったのではないか。彼女の歌う「Desperado」がデジタルカメラを通して僕らに問いかける。Why don't you come to your senses? 僕らは誰しも埋められない欠損を抱えて生きていく。そこにもし信じられるものが何もないとしても、「信じること」そのものを守るクリスティのような存在にこそ、僕らは癒され、救われるのだ。9点(2004-03-22 01:56:11)

11.  イングリッシュ・ペイシェント 恋愛映画を1本だけ挙げろと言われたら、「黒い瞳」にするか「ベティブルー」にするか、それとも「東京夜曲」にするか、一晩悩んだ末に僕は「イングリッシュペイシェント」を挙げているだろう。恋愛映画にとって、登場人物を取り巻く状況は重要なファクターとなるが、それは恋愛に対する障害の大きさがその激しさに比例すると考えられているからであろう。しかし、恋愛映画にとって一番重要なのは状況そのものよりも、恋愛の本質理解である。恋愛とは自己意識と世界の関係性そのものである。そのため、意識としての恋愛は常に利己的かつ自虐的ものとならざるを得ない。それは自己の周囲にメタフォリックな非現実空間を作り出し、他者との現実的な劇に引き合う中で苦悩や挫折を導くことになるのである。「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでにまったく終わっているのである。」これはキルケゴールの言葉だがまさに恋愛の利己性を衝いており、恋愛が本質的にメランコリックであることを見事に言い当てている。本質を捉えていない作品は空虚で薄っぺらく、この本質を間違うと途端に見るに耐えないものに陥ってしまうだろう。また作品の状況が状況だけに間違ってしまう場合があるが、ここで「戦争の愚かしさや虚しさを痛烈に告発する力強いメッセージ」などは不要である。主人公の口からそのような台詞が吐かれた途端、僕らは一変に興ざめしてしまうに違いない。ここまでくれば、「イングリッシュペイシェント」が恋愛の本質を十分に表現している優れた恋愛映画であることがお分かりいただけたかと思う。<え?分からない?そうですか、それは残念です。> 最後に補足;人はシンプルな恋愛映画を指して「昼メロ」と呼ぶことがある。典型的なパターンとして不倫愛を挙げるだろう。その場合、それを「昼メロ」と呼んでしまった途端にその発語者は恋愛という劇から最も離れた存在である自分を自覚することになる。だからなるべくそういった類型的な視線を排して、作品を鑑賞しなければならない。 10点(2003-12-07 02:48:41)

12.  インディアン・ランナー 正義漢の兄と落ちこぼれの弟のお話。兄弟は、話の展開にしたがって徐々に心が離れていくようにみえる。理解しあえるようでいて、それはどんどん遠くに離れてしまうのである。そのことの理由は語られない。最終的に警察官の兄が犯罪者となった弟を追跡するシーンにまで至り、父親は兄弟の確執とは関係のないところで意味もなく自殺する。図式はありふれているし、話としても結構単純だ。しかしそのモチーフは僕にとって切実に思えた。兄は弟を追いながらそのことの意味を理解できない。弟は兄に追われながらその理由を失っている。自分の心さえ掴めない寂莫感にお互いが自覚的ではあるけれど、最後に兄が弟を見逃すシーンに言葉はなく、ただ「アイ・シャル・ビー・リリースト」(byザ・バンド)が流れるのみ。「いつかきっと僕は解放されるだろう」 あー、なんてリアリティのないフレーズだろうか。そのことの空虚さが心を締め付ける。「インディアンランナー」はたぶん時代遅れな映画だ。すべてに自覚的でありすぎる分、それはもう時代遅れなのだ。僕らはその時代遅れの気分でしか、もう心を震わすことができないかもしれない。それはとても切ないことだけど…。 <ちなみに冒頭で、狼の力を盗んで鹿狩りをするインディアンの逸話が出てくる。弟の中で幻影のように現れるインディアンとは、自分自身に潜む凶々しさとその神々しさが一体となったスピリチュアル・イメージであり、その「らしさ」に理由がない絶対的な存在としての強迫観念でもあるのだ。> 10点(2003-11-08 19:24:47)(良:2票)

13.  イージー・ライダー 厳密に言ったら精神的自由などというものはどこにも存在し得ないものだと思う。だって精神というものは僕らを縛るものであり、僕らは精神というものに本来縛られたがっているのだから。でも、そういう精神なんて今の世の中、どこを探したらあるんでしょうね。イージーライダーの主人公達が信じた自由とは、そんな自覚が生み出すある種の諦めや敗北感からの自由だったのではないかな?(だからこそ僕らはあの時代の映画を観て心を震わされるし、時代の感覚として確かにそれは僕らの胸に切羽詰ってくるのです。)彼らが敗北感への反抗に対して敗北を味わった…といえるだろうか。確かに彼ら自身はそうかもしれない。でも僕らは今でもそういう敗北感に対するラディカリズムをある生き難さの感覚として抱えている。イージーライダーという映画はそのことを僕らにそっと教えてくれるのです。8点(2002-04-12 01:11:43)(良:1票)

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