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プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース アニメーション作品であることの必然性と可能性を、文字通り「無限」に広げて、多元宇宙のありとあらゆるスパイディたちが織りなすマルチバースの世界を自由闊達に表現してみせた“スパイダーバース”シリーズの第二弾。 他のスパイダーマン映画と同じく、“続編”であることの優位性を活かしたアバンタイトルのシークエンスは、情報量が極めて多く、42歳の中年男性の脳内は早々にメモリ切れを起こしそうになり、情報処理能力が鈍化していたことは否めない。 前作が生み出した「革新」を更に突き詰め、その映画的な力量がパワーアップしていたことは間違いない。 めくるめくアイデアとイマジネーションの“渦”は、エンターテインメントを超えて、もはや芸術的ですらあった。 スパイダーマンとなり、大いなる力と大いなる責任を与えられ、同時に多大な喪失を経た10代の主人公マイルズ・モラレスは、多元宇宙のスパイディたちと共闘し、「一人ではない」という勇気を得る一方で、孤独を深めている。 そのキャラクター描写は、極めて特異な境遇でありつつも、多くのハイティーンの若者が抱える普遍的で“青臭い”心象を表現しており、とても興味深く、自分自身もそういう時期を経てきたことを思うと感慨深くもある。 マルチバースの更に深淵に引き込まれた主人公は、そこですべてのスパイダーマンに課された“宿命”を突きつけられる。 だがしかし、若きスパイダーマンは、“青臭い”からこそ、それに対して全力で抗い、多元宇宙を股にかけて逃走する。 それは、この現実世界の“大人”たちが知らず知らずのうちに手放し、許容し、諦観してしまっている「可能性」に対するアンチテーゼのようでもあった。 普遍的でありながらもとても深いテーマを物語の核心に孕んだエキサイティングな続編だったと感じる一方で、やはり作劇においてありとあらゆるものを詰め込みすぎている印象は強く残った。 それが自分自身の情報処理能力の低さ故と言われれば反論できないけれど、もう少しスマートにストーリー展開の“交通整理”をすることは可能だったのではないかとは思う。 思いついたアイデアやイマジネーションのすべてをビジュアル表現せずとも、観客である人間は空白を想像力で補えるわけで、その想像の余地を残すことが、もっと広い世界を創造する要素だとも思う。 そういう意味で、やはり本作は溢れ出るクリエイティビティが、ストーリー展開にそのまま呼応するように氾濫気味で、うまく収拾できていない。 でも、本作が次作最終章へのブリッジであるということを踏まえると、その氾濫に伴う混沌こそが布石なのかもなとも思える。 つまるところ、本作の正当な評価は、次作での物語の結実次第なのだろう。 果たして主人公マイルズ・モラレスは、逃走先の“世界”で、別の“可能性”の自分自身と衝撃的な対面を迎え、本作は終幕する。 とても宙ぶらりんな結末だけれど、別次元ではスパイダーグウェンが、“バンド仲間”を集結させて、我々の高揚感を煽る。 「可能性」の大渦に自分自身の思考がフリーズしないように、せっせとメモリ増設して次作を待つとしよう。[インターネット(字幕)] 7点(2023-11-19 01:20:18)《改行有》

2.  すずめの戸締まり 「脅威」に対する人間の無力と儚さ。だけれども、一時でも長く生き続け、存在し続けていたいという切望。 廃すてられた場所に眠る思いを汲み取り、悔恨が漏れ開きっぱなしになっていた“戸”を締めるという行為が織りなすファンタジーは、想像以上に「現実的」で「普遍的」だったと思う。 現実社会における災害やそれに伴う悲劇を果敢に題材として取り込み、秀麗なアニメーション表現の中で描いた試みと、ストーリーテリングの方向性自体は、間違っていなかったと思う。 ただし、その結果が、映画としての面白さや、オリジナリティとして結実していたかというと、必ずしもそうではなかったと思う。 我が子二人と連れ立って劇場鑑賞して、決して残念な映画ではなかったし、無論観たことを後悔する類いの作品ではない。 この国のアニメーション監督として紛うことなきトップランナーである新海誠の作品である以上、見逃すべきではない。 ただそれ故に、その新作に対しては、高いハードルが用意されることは避けられない。 社会現象ともなった「君の名は。」、そして個人的にはそれ以上の傑作だと確信した「天気の子」。 本作は、その過去2作とも時代背景を共有しており、「災害」という共通のテーマを扱っている点を踏まえても、三部作の一つとして捉えられる作品だろう。そしてより直接的なファンタジー描写や、アドベンチャー展開など、三作の中でも最もエンターテイメント性の高い作品だったと思う。 ただ、何かが圧倒的に物足りなかった。それが映画的なエネルギー不足に直結しているように思えた。 それは何だったか? 上手く言葉を選べていないかもしれないが、個人的な感覚から浮かんだことは、“エゴイズムの欠如”だった。 僕が新海誠の過去2作品から得たエモーショナルは、主人公たちが発し貫き通す圧倒的な“エゴ”によるところが大きい。 流星が町に降り注ぐその間際であろうとも、ようやく訪れた焦がれた相手との逢瀬に没頭し、過ぎ去った時間すらも覆す。 この世界の理も仕組みも無視して、無責任だろうが、独善的だろうが、世紀の我儘を押し通す青臭さ。 不可逆を覆そうとも、世界が水没しようとも、それでも「大丈夫だ」と言い切る若い生命の猛々しさと瑞々しさ、それをまかり通すアニメーション映画のマジックに僕は感動したのだと思う。 そういった映画的なエゴイズムが、本作からは薄れてしまっているように感じた。 それはもちろん、現実世界の災害や悲劇を取り扱ったことによる真摯な態度とも言えよう。 でも、それによって映画的な面白さが表現しきれないのであれば、本末転倒であろうし、その題材を取り扱う意味が果たしてあったのかとも思う。 自然災害をはじめとする脅威に対して人間は為す術もない。特にこの十年あまりの時代の中で、この国の人々は改めて痛感している。 そういう現実がある以上、安易なハッピーエンドなどは描くべきではないだろう。 しかし、それが現実だからこそ、せめて映画世界の中では強烈なエゴイズムを貫き通す人間たちの姿を見たいという思いも、今この世界の多くの人が秘める思いではないか。 本作の主人公たちが何も成し遂げていないなどというわけではもちろん無い。 けれど、悲劇的な現実を超越するほどのマジックは、この映画から感じることはできなかった。[映画館(邦画)] 6点(2022-11-15 22:21:24)《改行有》

3.  スパイダーヘッド イントロダクションと映画世界への導入はとても良かった。 孤島に建設されている近代美術館のような刑務所施設の出で立ち、無機質な室内空間、そしてクリス・ヘムズワースの渇いた笑顔。 敢えて、意識的にポップに仕立てられたオープニングクレジットは、逆説的にこの映画世界の不穏さを雄弁に物語っており、興味をそそられた。 「とても面白そうな映画」 それは、Netflixオリジナル映画の一つの特徴となりつつある。 もちろん、映画の予告編やあらすじを見せて、「面白そう!」と感じさせることは極めて大切なことだ。 特に、映画に限らず、これだけありとあらゆる娯楽コンテンツが溢れ返っている現代社会においては、何を置いても、「再生ボタンをクリックさせる」というユーザーアクションの創出以上に重要なことなどないのかもしれない。 “面白そう”なオリジナル作品が常にラインナップされる以上、映画ファンの一人として、“そこ”から離れることはなかなか難しい。 が、結果的には、面白そうな映画で、実際面白い部分もあったけれど、ガツンと心に残り続ける作品に仕上がっていることが少ない。というのが、Netflixオリジナル映画の実態だ。 本作も、前述の通り、非常に興味をそそる映画世界を構築していたのだけれど、最終的な印象としては、極めて薄っぺらく感じた。 結局は、ストーリーが“ありきたり”の範疇を出ておらず、話が進むにつれて尻つぼみになっていった。 この手のストーリー展開にリアリティなんて求めても仕方ないことだし、近未来を舞台にしたディストピア設定なのだから、もっと振り切った展開を見せるべきだったろうと思う。 “ソー”からの「脳筋」イメージ脱却を図るクリス・ヘムズワースは、大いに屈折した製薬会社の人間を怪演していたと思うし、今年は「トップガン マーヴェリック」の記憶がまだまだ鮮烈なマイルズ・テラーも印象的な雰囲気を醸し出していたとは思う。 ただ、それぞれのキャラクター性も今ひとつ踏み込みきれぬままストーリーが収束していくので、何とも中途半端な人間描写に留まってしまっている。 それこそ、本作の監督は「トップガン マーヴェリック」のジョセフ・コシンスキーなわけで。 同じ監督、同じキャストであっても、何か要素が異なれば、映画的なエネルギーはここまで差が出てしまうということ。 詰まるところ、それが「トップガン」でトム・クルーズがエゴイスティックに拘り抜いたことであり、Netflixに限らず配信作品に何か物足りなさを感じてしまう要因なのではないかと思える。[インターネット(字幕)] 5点(2022-09-17 22:15:05)《改行有》

4.  スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム 《ネタバレ》 “この”「スパイダーマン」シリーズのタイトルに、3作続けて用いられてきた「Home」というワードの意図。 それは即ち、この物語の主人公の“少年”には、帰るべき“Home”があり、“Home”に守られていたということ。 そして、彼はついに自身の運命に課せられた「力」の大きさと、それに伴う「責任」の大きさを痛感し、受け入れ、一人“Home”を旅立つ。 或る一人の“少年”が、力を得て、偉大なヒーローたちと共に世界を幾度も救った後に、“大人”になる。それが、トム・ホランドが演じた“ピーター・パーカー”の物語であり、“スパイダーマン”だった。 「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で、アベンジャーズに“ルーキー”として初参戦したスパイダーマンは、まさしくフレッシュで、決裂の重々しい空気感に包まれたヒーローたちの中で確固たる重要な“娯楽性”だった。それを演じるトム・ホランドの若々しいスター性も魅力的だった。 だがその一方で、トム・ホランド版スパイダーマンとしての新シリーズ化に対しては、個人的に“モヤモヤ”した気持ちが拭えなかった。 その理由は明確だ。僕は、2000年代に誕生した“2人のスパイディ”が大好きだったからだ。そしてその各シリーズにおける消化不良な結末(打ち切り)に対して、ずっと“満たされない”ままだったからだ。 特に、マーク・ウェブ監督、アンドリュー・ガーフィールド主演の「アメインジング・スパイダーマン」シリーズは、「2」におけるあまりにも悲痛で衝撃的な顛末も含めて、今なおアメコミ映画史に残る傑作だったと確信している。 がしかし、あの「悲劇」の後に製作される予定だった完結編が日の目を見なかったことは、それこそが「悲劇」だったと思う。 ただそれでも、MCUにおけるトム・ホランド版スパイディは、その立ち位置の価値と魅力を放ち続け、ジョン・ワッツ監督による単独のシリーズ作も快作続きだった。 アンドリュー・ガーフィールド版、そして現在のアメコミヒーロー映画ブームの礎ともなったサム・ライミ監督によるトビー・マグワイア版の“2人のスパイディ”に負けず劣らずの愛着を深められていたと思う。 そういうわけで、故・トニー・スタークの後継者としても、トム・ホランド版スパイディの成長を見届けようと本作に臨んだ。 ドクター・ストレンジと共に“マルチバース”の世界観に突入し、“次元”を超えた過去のスパイダーマンシリーズのヴィランたちが大集合するという“事前情報”は、それだけで高揚感が極まった。 そう、それだけで、この映画は「最高」だったのだ。 しかし、それ以上の“スペシャル”が本作には用意されていた。 “2人のスパイディ”がワープゲートをくぐり抜けてやってくる。 まさか、まさか、まさかの「最高」の3乗。映画館のシートで、思わず「やば…!」「すご…!」と連続で呟いてしまい、感嘆が止まらなかった。 トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールドの両俳優が、それぞれ現在の姿で、時を経た“ピーター・パーカー”を再演する。 彼らが、自身のスパイダーマンとしての経験と悲しみを踏まえて、かつての自分たちと同様に悲痛と絶望に沈む若きスパイディを導き、救う。 そして、その“スパイダーマンズ”による「共闘」の中で、先輩スパイディたち自身も、それぞれの運命(シリーズ)の中で、我々映画ファンと同様に消化しきれていなかった“思い”に禊をつけていく。 何というドラマティック、そして何という映画的奇跡。 まさに次元と時間を超えた、ストーリーの収束とカタルシスに、涙が止まらなかった。 3本の強靭な蜘蛛の糸が縦横無尽に交錯し、多層的な幾何学模様形成していく。そのさまは、複雑で果てしない“マルチバース”の世界観の深淵を描き始めるに当たって、あまりに相応しい。[映画館(字幕)] 10点(2022-01-08 00:18:04)《改行有》

5.  すばらしき世界 《ネタバレ》 この映画に登場する人物のほぼ全員は、主人公・三上正夫に対して、悪意や敵意を示して接することはない。 むしろ皆が、偽りなき「善意」をもって彼に接し、本気で彼の助けになろうとしている。 そして、三上自身も、その善意に対し感謝をもって受け止め、“更生”することで応えようと、懸命に努力している。 その様は、「やさしい世界」と表現できようし、この映画のタイトルが示す通り、「すばらしき世界」だと言えるだろう。 でも、それでも、この世界はあまりにも生きづらい。 その、ありのままの「残酷」を、この映画は潔くさらりと描きつける。 西川美和という映画監督が表現するその世界は、いつも、とても優しく、そしてあまりに厳しい。 僕自身、ようやくと言うべきか、早くもと言うべきか、兎にも角にも40年の人生を生きてきた。 平穏な家庭に育ち、平穏な成長を経て、そして自らも平穏な家庭を持っている。 決してお金持ちではないし、生活や仕事において不満やストレスが全く無いことはないけれど、今のところは「幸福」と言うべき人生だと思う。 だがしかし、だ。 その平穏という幸福を自認し噛み締めつつも、僕自身この世界における“生きづらさ”を否定できない。 人並みにアイデンティティが芽生えた少年時代から、40歳を目前にした現在に至るまで、「生きやすい」と感じたことは、実はただの一度も無いかもしれない。 人の些細な言動に傷つき怒り鬱積を募らせ、僕自身も“本音”を吐き出す程に周囲の人間を困らせたり、怒らせたり、傷つけたりしてしまっている。 どんな物事も思ったとおりになんて進まないし、「失敗」に至るための「行動」すらできていないことが殆どだ。 自分自身の幸福度に関わらず、人生は失望と苦悩の連続で、この世界はとても生きづらいもの。 それが、殆ど無意識下で辿り着いていた、現時点での僕の人生観だったと思う。 そしてそれは、この世界に生きるすべての人たちに共通する感情なのではないかと思う。 そういった個人の閉塞感を、この世界の一人ひとりが持たざる得ないため、その負の感情は縦横無尽に連鎖し、社会全体が閉塞感に包まれているように感じる。 この映画で西川美和監督が、社会に爪弾きにされた前科者の男の目線を通じて描き出したことは、決して一部の限られた人間の人生観ではなく、この世界の住人一人ひとりが共有せざるを得ない“痛み”と一抹の“歓び”だったのだと思う。 確かに、この世界はすばらしい。 美しい光に満ち溢れているし、エキサイティングで、エモーショナルで、ただ一つの命をまっとうするに相応しいものだ。少なくとも僕はそう信じている。 そんな世界の中で、人は皆、誰かに対して優しくありたいし、誰しも本当は「罪」など犯したくはない。 それでも、結果として「罪」が生まれることを避けられないし、すべての人が無垢な「善意」のみで生きられるほど、人間は強くない。 この映画の登場人物たちは皆優しい人間だと思うけれど、主人公に対する「善意」の奥底には、それぞれ一欠片の「傲慢」が見え隠れする。 取材をするTVディレクターも、身元引受人の弁護士とその妻も、スーパーの店長も、役所のケースワーカーも、ヤクザの老組長も、心からの善意で主人公を助けているけれど、同時にその心の奥底では彼のことをどこか見下し、自分の優位性を感じていることを否定できない。 無論、だからと言って、彼らを否定する余地などはどこにもない。 彼ら自身も、この生きづらい世界の中で、自分の心の中で折り合いをつけながら、必死に生きているに過ぎないのだから。 自分の感情に対して「正直」に生きることしかできない主人公は、それ故に少年時代から悪事と罪を重ね、人生の大半を刑務所内で過ごしてきた。 理由がどうであれ、犯した罪は擁護できないけれど、誰にとっても生きづらいこの世界が、益々彼を追い詰め、ついには自分自身で、文字通り心を押し殺さざるを得なくなっていく様を目の当たりにして、悲痛を通り越して心を掻きむしられた。 それは、単なる暴力による報復などとは、比べ物にならないくらいに残酷な業苦を見ているようだった。 ラストの帰り道、どこか都合よくかかってきたように見える元妻からの電話による多幸感は、果たして「現実」だったのだろうか。 そして、とある人物から貰った秋桜を握りしめ、最期の時を迎えた主人公の心に去来していた感情は、如何なるものだったのだろうか、救済だったろうか、贖罪だったろうか、悔恨だったろうか。 僕自身、様々な感情が渦巻き、鑑賞後数日が経つがうまく整理がつかない。 空が広く見えた。 人間は、この「すばらしき世界」で、ただそれのみを唯一の“救い”とすべきなのか。[映画館(邦画)] 10点(2021-03-01 12:30:15)(良:1票) 《改行有》

6.  スパイの妻《劇場版》 《ネタバレ》 太平洋戦争開戦前夜、運命に翻弄され、信念を貫く、或る女性(妻)の物語。 正義よりも、平和よりも、彼女にとっては優先されるべき「愛」。 危うく、愚かな時代の中で、それでも貫こうとする狂おしいまでの女の情念は、恐ろしくも、おぞましくもあるが、同時にあらゆる価値観を跳ね除けるかのように光り輝いてもいた。 “昭和女優”が憑依したかのような蒼井優の女優としての存在感は圧倒的で、ただ恍惚とした。 映画ファンとしてデビュー以来この女優の大ファンだが、そのことが誇らしく思えるくらいこの映画における蒼井優の存在感は絶対的だった。 1940年代から50年代における“日本映画”の世界観を蘇らそうとする映画世界に呼応し、あの時代の“女性”というよりも、あの時代の“女優”としてスクリーン上で体現してみせた様は、まさに「お見事です!」という一言に尽きる。 映画における秀でた女優の魅力は、ただそれだけで“芸術”として成立し、“エンターテイメント”として揺るがない輝きを放つと思い続けているが、今作における「蒼井優」は、まさしくこの作品が織りなす「芸術」と「娯楽」の象徴だった。 そして、彼女の存在を軸にして、運命の渦を加速させる二人の男。 最愛の夫をミステリアスに演じた高橋一生、幼馴染の憲兵隊隊長を非情に演じきった東出昌大の両俳優も素晴らしかったと思う。 無論、黒沢清監督による映画世界の構築も「見事」だった。 俳優たちへの演出はもちろん、1940年を再現した街並みや家屋、人々の衣装や髪型、その一つ一つの表情に至るまで、この映画で映し出されるべき「時代」そのものを映画の中で構築してみせている。 個人的には、自分が生まれるよりもずっと昔の昭和の日本映画を、長らく好んで鑑賞してきたので、この映画が挑んだ試みと、その結果として映し出される映画世界は、終始高まる高揚感と共に堪能することができた。 成瀬巳喜男監督の「女の中にいる他人(1966)」や、増村保造監督の「妻は告白する(1961)」などは、描かれるテーマや時代こそ微妙に違えど、昭和という時代の中で生きる女性(妻)の情念や強かさを描ききっているという点において類似しており、興味深かった。 ただし、そういった昭和の名画を彷彿とさせると同時に、それ故のマイナス要因もこの映画には存在していると思う。 それは、今この時代に、この作品が製作され、主人公・福原聡子というかの時代に生きた女性像を描き出すことに対して、踏み込み切れておらず、その意味と意義を見出しきれていない印象を受けたということ。 この映画が、かつての名画を忠実に再現した“リメイク”ということであれば、何の問題もなかろう。 だが、黒沢清と若手脚本家たちによって今この時代に生み出されたオリジナル作品である以上、太平洋戦争直前から末期を描いた時代映画だからこそ、映画の結論的な部分においては、2020年の時代性を表す何らかの価値観や視点を表現し加味してほしかった。 その唯一の不満要素が顕著だったのは、ラストシーンだ。 この映画は、戦禍を生き抜いた主人公が、夜明け前の暗い海で一人咽び泣くシーンで終幕する。 何よりも孤独に恐怖し、何よりも夫への情愛を優先した主人公の心情を表すシーンとして、この描写自体はあって然るべきだろうとは思う。 ただ、その描写で映画自体を終わらせてしまうのは、あまりにも前時代的と思え、工夫がないなと感じてしまった。 必要だったのは、悲しみと絶望から立ち上がり、新しい時代に踏み出していく女性の颯爽とした姿ではなかったか。 エンドロール前のテロップでは、その後聡子が、一人アメリカに降り立つということが後日談的に伝えられる。 そのような展開を物語として孕んでいるのならば、やはりその様はビジュアルとしてたとえ1カットだったとしても映し出されるべきだったと思う。 仕立てのいい洋装で身を包んだ聡子(=蒼井優)が、サンフランシスコの港に凛と立つ。 そんなシーンでこの映画が「Fin」となっていたならば、鑑賞後の余韻と映画的価値はもっと深まったのではなかろうか。[映画館(邦画)] 8点(2020-11-11 22:39:30)《改行有》

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