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1.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 自分なりの希望を胸に米軍に入隊し、颯爽と家を出て行く長男。残された母親はある日、そんな彼が帰宅する夢を見る。憔悴し這々の体で帰還した息子は、この手で敵を何人も殺してしまったと、沈痛な面持ちで母に告げる。魘され、居眠りから飛び起きる母親。だがその夢は彼女にとって、いわゆる悪夢ではない。自分の忠告に耳を貸さず家から去った我が子が、自身の選択を悔い尻尾を巻いて逃げ帰ることを、彼女は願っているからだ。その願いが実現するためには、家を捨てた息子が家の外=戦場の悲惨さによりひどく打ちのめされなくてはならない。そうして彼女は心のどこかで息子の不幸を望み、その後ろめたさに魘されるのだ。父親にしてもそうだ。父としてふりかざす威厳をもってしても長男を家に繋ぎ止めることに失敗した彼は、幼さゆえ逃げ場所を持たない小学生の次男に対し支配的な暴君となることで、再び威厳を取り戻そうとする。そして自らが理想とする父親役を躍起になって演じる。リストラの不名誉を必死で隠しつづけることと同様に、たとえそれが如何に不毛な行為であったとしてもだ。そうすることで「家」を守れると彼は頑なに信じる。そして妻には良き妻良き母の役を、次男には従順な子どもの役を、それぞれ上手に演じるよう要求する。従順でありさえすればいい息子にピアノの才能があることなど、彼にとっては理想のマイホームを脅かす不吉な白蟻のようなものだ。私はここで、まさに白蟻を発端に崩壊する家族を描いた石井聰互監督『逆噴射家族』を思い出す。だが、エゴむきだしな壮絶なバトルの末に食卓を囲んだ『逆噴射』の家族に対し、こちらの家族は向き合うのでなく離散する。それぞれの闘いはそれぞれに家の外=戦場で行われ、それぞれの出来事は共有されることなく、それぞれの秘密となる。それでも、留守となり一旦機能を停止したその「家」に、秘密を抱えた彼らは再び帰ってくる。そしてやはり何事もなかったかのように朝食を囲む。たとえ本末転倒であっても、彼らはそうして家族に戻るのだ。続いて描かれる幕切れの強烈な鋭さは、黒沢清監督真骨頂だ。音楽学校の実技試験で桁外れの見事なピアノを披露する次男。演奏を終えた息子を迎えフレームアウトしていく彼らを、他の受験生の父母たちが振り返り、羨望の眼差しで見つめる。なんて理想的な家族だろう、と。[DVD(邦画)] 8点(2010-12-04 16:19:04)(良:1票)

2.  時をかける少女(2010) 《ネタバレ》 大林宣彦版(1983年)と、細田守版(2006年)、多くの人々の記憶に刻まれたこの二作の間にもドラマを含め数々の『時をかける少女』が撮られてきた。そのすべてを観たわけではないが、両作に匹敵するレベルに達した作品は一つとしてなかったように思う。細田版以降初の再映画化となった本作もまた、残念ながらその一つとなってしまっている。監督谷口正晃は演出家としてあまりに底が浅く、その稚拙さばかりが目につく。奥ゆきのない平板な映像に映画ならではの魅力はなく、バストショットからアップで人物を捉える構図の多用もまた俳優たちの小手先の表情をくどくどと説明するだけで、まるで出来の悪いテレビドラマのようだ。夢物語としての幼稚さや突飛さは大林版も細田版も同様であり、SFジュブナイルとしての原作の性質上、在って然るべきものだ。だが、夢物語にひそむ、少女や思春期の普遍的な有り様を、きちんとその荒唐無稽の中に描ききれていないのが致命的だ。筒井康隆の原作以上に初恋の抒情と痛みを鮮烈に焼きつけた大林版にも、そんな大林版を覆し初恋を晴れ晴れと解放することで新たな金字塔を打ち立てた細田版にも、遥か遠く及ばない下手さだ。だがこのド下手くそな映画は、それでも下手なりに、ひたすらけなげに『時をかける少女』であろうとする。そのけなげさは主人公芳山あかりにも通じる。ふにゃふにゃと周囲に甘えるばかりで幼く頼りない彼女が、雨の中傘を差し自分を待つ涼太を前にふざけようとして、真顔になり黙りこむ。物語上まるでとってつけたような二人の恋ではあっても、この瞬間にだけは間違いなくウソいつわりない初恋の有り様が活き活きと映っている。さらに本作は、細田版が省き、省くことで新たなスタンダードを創造しえた意味で旧作の遺物となった「記憶の抹消」というテーマと、愚直なほど真摯に向きあおうとする。初恋を消去されるあかりの痛みは、あからさまなバス事故や死を用いずとも表現できたはずであり、やはり出来の悪さは否めないが、それでも愚鈍なこの映画は、軽やかな細田版が切り棄てた「深町くんの手のひら」の計り知れないその重みを、泣けてくるほど馬鹿正直に、まっすぐ見据えるのだ。逆立ちしても傑作とはなりえない本作は、けれどそんな風にバカが付くほど誠実な、愛すべき『時をかける少女』である。[映画館(邦画)] 6点(2010-03-20 22:18:25)(良:3票)

3.  時をかける少女(2006) 《ネタバレ》 かつての大林宣彦版『時をかける少女』が観客に最も印象づけたのは、主人公芳山和子を包み込むラベンダーの匂いであった。ある日突然和子の身に起こる不可思議な出来事を、大林は、思春期における心と体の違和そのものとして描いた。つまりタイムリープは、不安定な思春期の少女に起こる未知なる変調であり、その異変への凶兆として禍々しく立ちのぼるラベンダーは、成熟に伴い生じる少女の不安や畏れの象徴であった。その意味で、抗いようもなくラベンダーに囚われる和子はそうした脆弱な思春期の只中にいたからこそ、絶対的な異変として襲いくる時間の波にもまた為す術なく傷つき翻弄されたのだ。ところが一転、本作細田守版はそのラベンダーをあらかじめ切り棄てる。アニメーションで描かれる美しく晴れ渡った青空同様に、快活で能動的な紺野真琴の思春期には一片の翳りもなく、そんな彼女が和子のように不穏なラベンダーを嗅ぐことはない。成熟や性の匂いから切り離されひたすら無邪気なままの真琴は、それゆえ畏れを知らぬ恋する冒険者としてしゃにむに勇敢に時をかけることができたのだ。大林と細田のこの大いなる違いは、それぞれの思春期の解釈の決定的な違いでもあるのだろう。芳山和子はラベンダーに限らず、尾道のノスタルジックな「風景」に、永遠に反復される窮屈な「時間空間」に、前時代的に儚くか弱い「少女像」に、囚われあるいは奪われ、その痛みに打ち震えるばかりの少女であった。その最たるは、「タイムトラベルする未来人は関わった過去の人間の記憶を消さなくてはならない」というSFジュブナイルの絶対的な掟による、かけがえのないその初恋の喪失だろう。あたかも蝶の翅を捥ぐかのように、大林は、和子の時を記憶をそして初恋を奪い、彼女をそこに閉じ込めることで少女の思春期を表現した。これに対し細田は、大林版とはことごとく真逆のベクトルを用いることで新たな『時をかける少女』を提示する。紺野真琴にとって時をかけることは、奪われることではなく、むしろ翅を与えられ自由に解き放たれることなのだ。記憶の抹消という旧作における痛ましい主題がラベンダー同様意図的に省かれるのは、おそらくそのためだ。彼女の初恋が和子のように残酷に失われることはない。細田はそうして少女の思春期を、胸を掻き毟るかなしみや痛みではなく、輝かしく軽やかな羽ばたきとして、ここで新たに表現したのだ。[DVD(邦画)] 7点(2010-03-14 00:41:16)(良:1票)

4.  トゥルーマン・ショー 《ネタバレ》 モニターに映るトゥルーマンの頭を撫でながら、我が子をいとおしむように、年老いたプロデューサーは言う。「君をずっと見てきた。君が生まれた時、最初のヨチヨチ歩き、学校に上がった日、最初の歯が抜けた時。」彼はトゥルーマンにとって創造主でもあり、また父でもあるのだろう。町は大掛かりなベビーサークルだ。その箱庭の中、意のままに息子を操ってきた父にとってたった一つの誤算は、従順な駒として動かし得た息子にもけれどいつしか一個の人間として自発的な恋という感情が芽ばえてしまうということだ。父が選びあらかじめ用意した娘とではなく、父の思惑ではエキストラに過ぎなかったはずの娘とアクシデントのような恋におちるトゥルーマン。それは予定調和の庇護の下、安全に飼い殺されるばかりだった彼に芽ばえるはじめての自我だ。情報はすべてパブリックに管理・操作され、一片のプライベートな秘密すら許されぬ筒抜けのその世界で、それでも彼が胸にひた隠し貫く恋。全てが監視下に置かれているとも知らずこっそりとファッション雑誌を切り抜き、初恋の記憶を辿るままに遥かフィジー島を目指すトゥルーマンの姿が感動的なのは、絶対なる父の手をもってしても決して届かぬ私的なその感情だけが、盤石でありながらすべてが作り物の彼の人生において、ただ一つの、ウソ偽りない「本物」だからなんだろう。そうしてトゥルーマンは絶対的な神の手を、つまりは強大な父の支配を、かいくぐり突き進む。まるで永遠のモラトリアムから脱出を図るように。一方の父は、かつて神が人間にそうしたように、自我を持ち意に背く恩知らずな息子に、罰を下す。巻き起こす天変地異により愛する息子を死の危険に曝してでも、その巣立ちを阻害しようとする。そんなすさまじい父と子の姿から浮かび上がるのは、自立とは決死の闘いであるということ。この一人のいい年をした男の遅咲きの成長譚は、だからこそ意外性に富み、実に感動的だ。ついに遂行されるトゥルーマンの力強い羽ばたき。彼の勇敢なその突破に我々は快哉を叫ぶだろう。だがそんな私たちもまた結局は見世物としてトゥルーマン・ショーを消費しているに過ぎないという痛烈な皮肉が、安直なカタルシスを頑なに拒む。扉の向こうからやってきたトゥルーマンが辿り着くのはハッピーエンドなのか、それとも次なる関門なのか。それを決めるのは、まさに私たち次第なのだ。[DVD(字幕)] 9点(2010-02-27 11:18:25)(良:1票)

5.  東京夜曲 《ネタバレ》 結ばれぬ二人、叶わぬ恋。そんな胸を痛める激しいラブストーリーが幕を閉じた後も、男と女それぞれのその人生は延々と続いていく。この映画が描くのはそんな、ラブストーリーのその後だ。あとがきのような人生を日々に埋もれるようにひっそりと生きる康一もたみも久子も、かつての輝かしい恋愛物語の忘れられたその主人公たちである。彼らは、まさに市川準映画の主人公にふさわしい。市川が描くのは常に、世界の片隅で忘れられたように日々を暮らすそんな人々の姿だからだ。様式ばった美しさで切り取られる東京下町の風景、作為的なまでに静謐な時の流れ、そうした市川準映画の悪癖とも言える人工臭や退屈さが拭い去れない本作だが、それでもその中に主人公たちの灯す情感をゆっくりと滲ませていくその描写の繊細さには、心惹かれずにはいられない。商店街の人々に噂され、時にヤクザのようだと揶揄される康一は、実際粗野で無口なうえ、陰気な男だ。けれど、思いをよせあったはずの青年の結婚に打ちひしがれ宴席で所在無く一人唇をかみしめる近所の娘に、そんな彼が真っ先に声をかける。こっちにおいで。その声の別人のようなやさしさ。現在進行形の悲しみを必死に堪える若い娘は、かつての康一であり、たみであり、久子なのだろう。うれしそうに顔をほころばせる娘。その様子を柔らかな表情で見守るたみ。ただそれだけのそのショットに、たみがなぜかつて彼を愛したのか、言葉少なな彼女の思いが静かに滲むのだ。映画は東京をはなれ岡山で新たな暮らしをはじめるたみの姿で終わる。でこぼこ道を走る衝撃で自転車のカゴから飛びだすジャガイモに、不恰好な声をあげるたみ。ラブストーリーのその後を終えた彼女が行くのは、ラブストーリーのその後のその後だ。そうしてその後のその後のその後まで、彼女の人生はまだまだ続いていく。ひたすらに生き続ける、ただそれだけのことのなんというすばらしさ。人々をそんなふうに見つめる市川の視線は、限りなくやさしい。現在は過去のあとがきなどでは決してない。今を慈しむこと、それこそが、生きるということに違いないのだから。[DVD(邦画)] 6点(2009-11-14 23:18:18)

6.  どこまでもいこう 《ネタバレ》 この映画が描いているのは、変化だ。それは登場人物たちの心情の変化だったり、関係性の変化だったりする。年長けるにつれ生じる変化を人は簡単に成長と呼ぶ。けれど変化は必ずしも前進とは限らない。それでも人は常に変化していかなくてはならない。『どこまでもいこう』が見つめているのは、たとえば『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』のような永久不変とは対極の不安定な小学生たちの現実の姿だ。変化していくあたりまえのかなしみをあたりまえにその背に負う彼らを、塩田明彦監督は驚くほど自覚的に描いている。小学校高学年という年齢は子どもならではの全能感を失う時代だ。主人公アキラと光一の、トム・ソーヤとハックルベリーのように世界が2人だけのものだった時間は唐突に終わりを告げる。そんな彼らのなすすべなくうつろいゆく繊細な変化を、カメラは的確に捉えていく。そしてその変化の過程で、アキラの中でそれまで目立たなかった野村くんというクラスメイトの存在がフォーカスをあてたようにくっきりと浮き上がってくる描写がひときわすばらしい。おとなしくてそれまで気づかれなかったという身も蓋もない現実的な理由からアキラの前にその姿を現し、そして痛ましくとても現実的な事件により姿を消す野村くんは、けれどアキラの目線から見れば、風の又三郎であったかもしれない。私たちがそうであるように、彼らもまた、風のようにやってきては風のように去っていくそんな時間の流れの中にいる。野村くんが描く絵、その中の彼とアキラの姿、それは、野村くんにとってのトム・ソーヤとハックルベリーの幸福な時間を意味している。しかし永遠に時を止めた桃源郷のような絵とはうらはらに、世界は、時間は、刻々とうつろい、変化し、過ぎ去ったものを取り戻すことは出来ない。それが、あたりまえなこの世界のあたりまえな過酷さだ。私たちも彼らも等しくその中を生きている。ラストで塩田監督が見せるのは「男子ってバカだよね」と悪びれていた女子が2人きりの時に見せるやさしい変化と、その変化に喜びを隠しきれないアキラの変化だ。そうやって喜びも悲しみもいっさいがっさいを背負い、彼らも、そして彼らの延長線上にある私たちも、生きている限り変化し続けていくのだろう。鳴り響くマーチが、そんな愛すべきバカな男子と女子のささやかな行進、その足音のように、しみじみとそして力強く胸に響き渡る。 どこまでもいこう、と。[DVD(邦画)] 8点(2009-09-11 16:46:18)(良:1票)

7.  となりのトトロ 《ネタバレ》 その細やかで美しい作画同様に宮崎駿監督は、牧歌的な風景の中を元気に飛びまわる姉妹の楽しい日常と、それでも彼女たちがどうしようもなく胸のうちに抱えている、母親の不在がもたらす不安とを、トトロというファンタジーを用いてとても丁寧につなげていく。「あの子たち見かけよりずっと無理してきたと思うの。サツキなんかききわけがいいから、なおのことかわいそう。」病室の母親が気遣うように、姉でありまたしっかり者のサツキには子どもながらに母の不在は自分が支えなくてはならないという自負がある。幼い妹メイを守るのはほかでもない姉の自分であり、父にも母にも決して心配をかけてはいけないのだという思い。「お母さん死んじゃったらどうしよう」一人胸に隠し持つそんな不安についに耐えきれず彼女が泣きじゃくるのも、自分たちを気にかけてくれる近所のおばあさんの前で一度きりだ。暗い森のバス停でメイといっしょにお父さんを待つ夜。不安に手を握りしめる妹と、反対に大人のように強く平気なふりをしなければならない姉。けれど本当はサツキだって恐いのだ。妹を守るため限界まで背のびをつづけるサツキ。そんな彼女の小さな肩が「大人のふり」の重みにそれでもどうしようもなくつぶされそうになる時、神出鬼没に見えるトトロだがサツキの前に彼が現れるのは決まってそんな時だ。何をしてくれるわけでもない、ただ心強くそばにいてくれる、あるいは猫バスを貸してくれたりする。なかでもことさら素晴らしいのは、夜の庭で空を飛ぶシーンだ。大喜びで真っ先にトトロにしがみつくメイとは対象的に、大人でいなければならないサツキには無邪気にそうすることができない。とてもさりげないその描写のけれどなんと繊細なことか!促すように見つめ返すトトロにサツキはやっと理解する。今この瞬間だけは、自分も子どもでいていいのだと。背のびをやめてもいいのだと。そしてその時やっと、彼女は子どもとしての等身大の自分に戻る。ありのままの子どもの顔で、幼い妹のように夢中でトトロにしがみつく。それはそれはうれしそうに!そんなサツキの姿はまた、大人として当たり前に大人であらねばならない我々の姿でもあるのだろう。サツキがトトロにしがみつく時、我々もまたつかのま子どもに還って、思いきりトトロにしがみつき、そして夢のように夜空を飛ぶのだ。[DVD(邦画)] 9点(2009-07-30 00:53:56)(良:12票)

8.  時をかける少女(1983) 《ネタバレ》 芳山和子は大林監督の理想の少女だったのだろうか。彼女のきれいな言葉遣いや遠慮がちながらも清く正しいその所作は、旧き佳き時代の日本的美しさを湛えている。同級生である深町君の家で雨宿りする際にも、雨から逃れる性急さの中で出来る範囲で、彼女は靴を入船ではなく出船に揃え、さらには彼の靴までそっと直したりする。その美しさ!80年代とはとても思えない古い町並みの尾道と、そこに閉じ込められたかのような少女、芳山和子。ドタバタ喜劇を中心に描くことが多い大林映画だが、『時をかける少女』では喜劇色は岸部一徳と根岸季衣のネクタイをめぐるコミカルなやりとり程度にとどめられ、一貫して儚げな和子の沈んだそのたたずまいを捉えることに終始する。尾道三部作の中でも本作がどこか異彩を放つ印象なのはそのせいだろう。あまりに作りものめいた星空や、せっかくのクラシックな雰囲気を台無しにせんばかりのタイムリープの特撮、深町君の冗談のような台詞回し、ラストの美しくもかなしい余韻を断ち切るほどの可愛らしいミュージカル的エンディングなど、大林宣彦を大林宣彦たらしめている大林映画ならではの彼のその破壊的こだわりが、『さびしんぼう』の前半部分などと同様に本作の喜劇部分であるとも言えるのだが。そんな子供騙しに凝らした意匠の裏で彼がそれでも真摯に描くのは、未来人が拝借したささやかな傷の記憶が結ばれるはずだった二人の頼りなく幼い恋を引き裂く無情、書き換えられた恋でもその気持ちはうそではなかったと涙する少女の痛み、そして愛したその思い出すらもまるごと消し去られてしまうことの残酷さだ。冒頭のタイトルバックで描かれる障子越しに俯く和子のシルエットは、内気な少女のとまどいやためらいと同時に、指の傷を見つめる彼女の失われた初恋の姿でもある。拙く荒唐無稽な物語世界に潜む、そんな遠い日の痛ましい初恋がたまらなく胸を刺す。芳山和子を演じた原田知世は大ヒット曲である本作の主題歌『時をかける少女』を、今の私の歌ではないとして長い間封印してきたという。彼女がアレンジを変えつつもこの曲を再び歌うようになったのは、映画のラストで描かれる1994年どころか、ごく最近のことである。演じた原田知世までもを四半世紀に渡ってそこに封じ込めてしまうほどに、大林宣彦は忘れがたい少女像をこのフィルムに焼きつけたのだ。 [DVD(邦画)] 10点(2009-07-26 17:28:20)(良:6票) 《改行有》

9.  東京上空いらっしゃいませ 《ネタバレ》 まず驚くのは、力技で組み伏してくるようだった80年代の一連の相米映画とのそのあまりの差違だ。わからない奴はわからなくていいとばかりにやりたい放題だった荒くれ者がジェントルマンのたしなみを身につけたかのように、相米はこの映画を相米らしくもとても真っ当な映画に仕上げている。続く『お引越し』で彼がその正しい真っ当さと相米的力技の最もバランスのとれた完成形を見せ、以降はよりその真っ当さを強めていったことを考えると、『東京上空いらっしゃませ』は相米映画の過渡期に位置した記念碑的作品でもある。おもちゃ箱をひっくり返したような美術にファンタジー的特撮、牧瀬里穂のやけくそのような芝居の非リアルなリアル、相米印とでも呼ぶべきそれらを長回しで生き生きと捉えながらこれまたおなじみの荒唐無稽なストーリーを、けれど彼はとてもとても丁寧に大切そうに語る。たとえるならば『ローマの休日』方式の、はじめから終わりを運命づけられた二人のタイムリミット付きの恋の物語を。天国までの猶予の時間を生きる主人公ユウは、貰ったばかりの薔薇をちぎって屋形船の上から夜風に飛ばす。一見共感しがたい刹那的なその行為はしかし大切な花束を前に彼女が出来うる、最大限の愛の表現だ。かけがえのないその花を枯れるまで慈しむ時間すら、彼女にはないのだ。そんな彼女が、今の自分がいちばんいい!と高らかに宣言するかなしさ。影踏みのやりきれなさ。途方にくれながら球体のジャングルジムをぐるぐると回し飛び乗るシーンの抒情。あるいはそれこそ大昔のハリウッド映画のように開きなおった吹き替えのミュージカルシーン、作りものめいた画面の中に牧瀬里穂の躍動だけが今を生きる本物としてくっきりと浮き上がる、そのせつなさ。大口を開けて笑い、喜び、怒り、また笑う、そんな美しくも当たり前の日常を彼女が生き生きと生きれば生きるほどに、すぐそこに迫りくる終わりを予感させる、その逆説がたまらなく胸をしめつける。やがてあらかじめ決められた終わりがやって来て、それでも相米はそれまでの彼からはとても考えられない、ささやかだがそれでいてとびきりすてきなラストシーンを見せてくれる。あとにもさきにもこんなにやさしい相米は見たことがない!へたくそな牧瀬里穂のすばらしい笑顔はオードリー・ヘップバーンにだって負けていないと思う。天国の相米もパラソルの下、地球を眺めながら日焼けしているだろうか。[DVD(邦画)] 10点(2009-07-25 00:09:24)(良:2票)

10.  トト・ザ・ヒーロー 《ネタバレ》 主人公トマは、向かいに住む金持ちの息子で同じ日に生まれたアルフレッドと自分は産院の火事で取り違えられてしまったのだ、と固く信じている。あらかじめ奪われた人生。そんな子どもの頃に思い描く貴種流離譚はつまり自分の置かれた環境や劣等感から逃避する手段としての夢物語であるが、そうした空想にふけるのは決して不遇な子どもに限ったことではないだろう。事実、トマの子ども時代は、愛する家族に囲まれて、彼の人生で唯一輝いていた時代でもあるのだ。にもかかわらずトマとしての自分の人生を否定し、アルフレッドへの羨望やトト・ザ・ヒーローへの憧憬をいつまでも捨て去れなかったことに、トマの不幸はある。この映画がすごいのは、子ども時代の空想やトマの姉アリスの美しい思い出に囚われつづけるそんな人生を、トマと相対するはずのアルフレッドにも等しく課してしまう点だ。終盤、老人となったアルフレッドが同じく老人となったトマに語る一言は、トマがアルフレッドだったようにアルフレッドもまたトマであったことを意味している。自ら創り出した空想が真実をも呑み込んでしまった時、きちんと与えられていたはずの本物の人生を、まがいものの人生として共に生きざるをえなかった2人。それを踏まえて行動するトマの最期は、ややもすれば被害妄想を貫きとおしたようにも見える。しかしそれは違う。自分の人生を一から否定しつづけてきたその思い込みの間違いに、彼は気づいている。彼がすべきは、真実を否定することでも人生を嘆くことでもなく、自分の手で台無しにしてしまった人生そのものをそれでもありのままに受け入れ肯定すること。アルフレッドとなって死んだトマだが、そうすることで彼はアルフレッドの人生ではなく、アルフレッドになりたかったトマとしての人生を見事に生ききったのだ。間違いだらけであっても灰色であってもそれでもすばらしい、彼の本物の人生を。灰となって空を飛ぶトマの笑い声はだからこそ底抜けに陽気で、そして人生賛歌のように薔薇色の世界に燦々と降りそそぐ。ぼくの人生はこんなにもすばらしいぞ、と。こんな思いがけないラストを用意してくれたジャコ・ヴァン・ドルマル監督に心から拍手を送りたい。[映画館(字幕)] 9点(2009-07-23 22:01:11)(良:3票)

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