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1.  エル・スール 《ネタバレ》 最初は客席の後ろのドアがちゃんと閉まってないのかと思ってた。画面右上隅のあいまいな光が徐々に自己主張してきて、窓らしいと分かる。と中央に何やらモヤーッとした物体が浮かんできてベッドになっていく。犬の吠え声。たまらない導入です。そして光と影のドラマが展開する、というより光が差し込むことと陰っていくことのドラマ。これを見たころはスペイン内戦に無知で(いや今だってよくは知らないけど)、そのためにかえって父と娘の孤独が感応し合う話として、純粋に人間のドラマとして感動できた。この変わり者の父、南に父親や愛人を残してきたというより、そういった憎しみとか恋愛とかのわずらわしい感情を捨ててきたんだ。でもその分、娘への愛情が過剰に深まってしまった。これを愛情というか、同志愛というか、微妙なものだけど。娘の初聖体拝受式の日に、まるで彼女の成長を認めたくないかのように猟銃を撃ちまくる(カトリックへの鬱憤もあったのかも知れない)。そして娘を一個の他者として認めざるを得なくなったときに、猟銃は自分に向けられる。式の時は「父が私のために来てくれた」と喜ぶ娘、ラストでは「フランス語の授業はさぼれんかね」とまで言う父を残して娘は去る(娘にすがるような父のこの言葉に私は泣きそうになった、喫茶室のシークエンスが本作の白眉)。式の時は一緒に踊るけど、ラストで踊っているのは別の新婚カップル。娘は行方不明になったときベッドの下ではらばいになっていたけど、父は行方不明になったあと川岸で冷たく横たわっている。二人は相似形を作ったり対称形を作ったりしながら孤独を呼応しあう。だからどうしたほうがいい、と説教しているわけではなく、映画はただ見つめている。なのにこの父は強烈に印象に残る。80年代初めに紹介された映画でオメロ・アントヌッティぐらい名作率の高かった俳優はなく、喫茶室の場はあの石くれのような彼だからこそ泣けてくるのだろう。[映画館(字幕)] 9点(2009-08-29 11:09:34)(良:1票)

2.  エデンの東(1955) ポケットに両手を突っ込んで猫背気味でどこか怯えたような上目遣い。うじうじした奴と見られる紙一重のところで、無邪気な笑顔が救っている。50年代の看板のような俳優になったが、同時代を演じたのは『理由なき反抗』だけで、本作も第一次世界大戦が背景になっている。どうしたって50年代の若者として見ちゃう。こういう「ビクビクしたように見える」スターはアメリカ映画史上後にも先にもあんまりいないんじゃないか。だいたい「強い男」の伝統の国で、精神的な弱さをアピールすることで女性の母性本能をくすぐり人気を得た新手の役者だった。彼が長生きし続けたらどんな役柄をアメリカ中年・老年像にもたらしたか興味が湧くが、その展望がない国だから早死にしたのか。第一次世界大戦からもう「デモクラシーを守る闘いだ」という理屈はあったんだな。[地上波(吹替)] 8点(2014-03-15 10:04:01)

3.  エロイカ(1957) ヒロイズムへの徹底した不信、英雄話への不快感に満ちたポーランドらしからぬ作品、あの国の映画は屈従と抵抗のベクトルがピンと張りつめているものだったけど、そういうものが「張りつめていない」ポーランド人もポーランド人なんだ、と訴えているよう。きりっとした抵抗運動には向かない男、成りゆきで生きている男、「え、あんたも抵抗運動やってるの?」と女に驚かれる男。酒が好きで、整列が苦手で、ぐでんぐでんに酔っ払ってる後ろをパルチザンが英雄的に走り抜けていくあたりから後の一連のエピソードはほとんどギャグの連発で、もしかしてレジスタンス運動で頑張ったと言っている党の連中を皮肉ってるのかとも思ったが、作者の共感も感じられ、皮肉ではなさそう。第2話の、脱走に成功したことになっている将校が実は天井裏に隠れ続けている話なぞ、寓話として素晴らしい成果。話をしたくてうずうずしているの。それに共同生活が苦手で独房に憧れてる男もいて、一筋縄ではいかない世界。抵抗者たちの連帯への讃歌もなく、抵抗運動の壮烈感もない。ただただこういう寓話でしか語れない歴史があったことを綴ってゆく。ヒロイズムを否定するには、一度連帯ということもとことん疑わねばならないってことなんだろう。アンジェイ・ムンク監督。[映画館(字幕)] 8点(2014-02-09 09:42:03)

4.  江分利満氏の優雅な生活 エッセイ映画とでも呼びましょうか。時代観察であります。恥ずかしさを軸にして。カルピスは恥ずかしいと言う。濃いとベトベトするし、薄いと山手線が池袋を過ぎ大塚巣鴨あたりを走っているときの索漠とした感じになって恥ずかしい。この手のうがった笑いは70年以降かと思ってたが、江戸時代からの笑いでもあったんだな。あるいは、ファックスが出来ない・口笛が吹けない、と自分が出来ないことを列挙していくあたり。出勤時の下着から順に点検していくあたりなんか喜八さんならでは。新婚時代を靴だけで見せたり、アニメの使用、舞台風のセットと楽しんでやってます。だらしのないサラリーマンの自画像だけど、この小市民の暮らしを断固守るという気概だけはしっかりある。徴兵制がなくていい時代だ、と思い、戦争中の張りつめた気持ちも悪くはなかった、などとは断固思わない。ふやけた小市民ではあるが、かえって「そこだけは頑固」ってしっかりと根が感じられる(平成の現代よりも)。母への想いがさらにそれを膨らませている。遺書を書いたときの気持ちを思うと泣けてくる、って。このあと作家山口瞳は傑作「血族」で母への想いを書き尽くすことになる。[映画館(邦画)] 8点(2013-12-25 09:44:52)

5.  M(1931) 《ネタバレ》 映画史上最も異様な作品。そのまま解釈すれば精神病に対する偏見の作品てことになるけど、後半の異様な熱気がそんなものでないことを示す。「時代の不安」の映画であることは間違いないが、そう簡単に言い切っちゃっていいのかい、とフィルムのほうがこちらを値踏みしてくるような落ち着かなさを感じる。子どもたちの未来を奪っていく黒い影、その性的変質が政治的変質と一つのかたまりになってスクリーンから押し出してくる。犯人が少女を見てムラムラッとなるところや、「裁判」での弁明に時間を割いて丁寧にやっているのも、単なるスリラーでない証拠だ。「心の中の悪魔が言うことをきかなかった」という犯人の弁明は、ドイツ人が十数年後に繰り返すことになる。小悪党によって変質者が裁かれ、いざ刑の執行になると、目に見えぬ官憲に踏み込まれる、という話に何らかの隠喩があるのかも知れないが、カフカに通じるような、異様さを異様なまま納得させるリアリティがあって、そっちのほうが急ごしらえの解釈など吹っ飛ばしてしまう。弁護士がさかんに「犯意のない犯行は無実ではないか」と主張するのも、これからファシズムを支えていく民衆の弁護になっており、誰かを裁くだけで済む問題ではないぞ、とドイツの未来に対して、さらには世界の歴史に対して先取りして発言しているよう。無数の解釈の可能性に覆われた、まるでカサブタだけで本体の見えぬ怪物に出会ってしまった気分にさせられる作品だ。ちなみに本作のP・ローレ、『サイコ』のA・パーキンス、『コレクター』のT・スタンプが、私にとっての愛すべき三大変態(別格扱いの『ソドムの市』の四人組とで「変態七福神」とも呼ぶ)。[映画館(字幕)] 8点(2012-08-03 10:07:21)

6.  エイリアン 《ネタバレ》 終盤でけっこう長く、登場する人間が主人公だけになってしまうなんてほかに思い出せるのは『2001年』ぐらいで、エンタテイメント作品ではあんまりないんじゃないか。同僚との通信が途絶えてからは、耳にする人の声はカウントダウンの数字の読み上げ、人間の感情の通っている会話がなくなる。これがサスペンスを盛り上げている。それと同時に、剣豪と剣豪とが最後の試合に臨まなければならなくなっているような緊迫も生まれている。ここらへんたまらない(逃げ出すんなら、何も本船爆破しなくても…、なんて考えてはいけない)。無機的な宇宙船と、ヌメッドロッとした有機体としてのエイリアンの対比の映画、と思っていたんだけど、そう単純でもないんだな。エイリアンのヌメッとした頭部は、ラストでは機械のツルッとした部分にまぎれている。破壊されたロボットは思いっきり有機体っぽく白い液を撒いてスプラッターやってる。無機物と有機物が対立しているようで、「向こう側」でつながっている気配もあり、それが本作の「安心できなさ」を生んでいる。あの星で見つけた構造体(エイリアンにかつて襲われた異星人の宇宙船と思っていいんでしょ?)、あれ構造物とエイリアンの巣とがつながってる「胎内」のイメージがあるのが不気味なんだ。その曖昧につながってる感じが、ノストロモ号の機関にまぎれるエイリアンを説得あるものにしており、この映画の不気味さを「向こう側」で醸している。けっきょく姿をハッキリ現わさないエイリアンを特徴づけているのはその歯であり、それが「捕食」という生命維持行為を超えて「悪」のイメージも含んでいるのがちょっと不満。もっと「純粋な生命体」ならではの善悪を匂わせないイメージを生み出せなかったか。[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-06-16 09:54:23)

7.  煙突の見える場所 《ネタバレ》 原作椎名麟三のドストエフスキー的なるものは、つまり邦画の庶民の世界として親しんでいたものと同じだったんだ。何気ない日常の会話が、不意に深淵に迫ってくる。ささいな言葉のやり取りが、実は人生についての深刻な論争であったりする。それをまたうまく人情コメディにまとめ上げる技術のたくみさ。旦那が自殺しかけているときに逃げてきちゃった関千恵子と赤ん坊を捨てた母親が、明るい土手を歩いていくあの晴れ晴れしさに感動した。人を悪と善で割り切らない・あるいは割り切れないものとして遇する態度、これって明るいドストエフスキーじゃないか(と感心したら、あの関千恵子は原作にはないんだそう)。邦画は1940年代、前半は国威発揚・後半は民主主義啓蒙と、「大きな話」が占めていた。しかしここではそういう大局論や評論家的な態度が退けられる。虫歯や子作りレベルの身近な話から大きなものを見通そうとする。それが黄金の50年代なのだ。芥川比呂志の「正義」も、上原謙のパチンコで茶化される。そして「大きな言葉」が去った後の、新しい在りようをみんなで襖越しに模索している。「庶民」を描くことに徹しながら、「人民」までを見通そうとしている。時代の息吹を感じた。部屋の中にやたら影を導く(窓の桟から庭木の枝振りまで)。しかしそれが暗さにはつながっていない。といって光の存在の強調でもない。何か外部が変わりつつある予兆、とまでは言えないかも知れないが、風通しのよさが感じられてくる。[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-06-02 10:21:36)

8.  エル(1952) 《ネタバレ》 普通こういう話だったら、妻を主人公にするよね、スリラーとして。たしかに語りはおもに妻だけど、主人公としての焦点は狂ってく夫に絞られている。スリラーとしての楽しみもあるけど、それが精神病の症例記録ってリアリティも持ってて、なんとも得体の知れない手触りの映画になった。主人公は正義の人なんです、不正が許せない。祖父の代の土地問題を裁判していて、どうもかなり無理な訴訟らしいんだけど、自分が正しいという信念があって、正しいことが負けるはずがないと思い込んでいる(こういう訴訟を抱えている人は『昇天峠』にも登場した。ブニュエルの近辺に実在したのかな)。いいかげんに生きてる奴らへの軽蔑と憎悪が煮えたぎっている。ここに愛する人が登場し(というか愛する脚を所持する女性)、嫉妬の苦しみが生じる。自分の厳格で高貴な世界に彼女を囲い込みたい。嫉妬で荒れては、許しを求めてひざまずく、その繰り返し(落とした食器を拾おうとして妻の脚を見ると、許しを乞い出すの)。自信過剰と自己卑下の壮大な空中ブランコを眺めているような躍動感がある。教会の鐘楼に上って、いいかげんに生きている他人どもの世界を見下ろす、彼らに対する軽蔑だけならいいけれども、そういう他人どもとも生活していく上で接触しなければならない、そこで自分と妻の高潔が汚されるのが我慢ならないわけ、そりゃ追いつめられていきますわな。その果てに、階段で手すりの間を叩くシーンが来る。あそこは妻の立場に立って怖いのではなく、あくまで主人公が追い込まれている状況が怖い。そして街に飛び出すと、軽蔑して止まない他人たちが嘲笑を浴びせてくる…。狂おしいまでの愛の物語ってのは映画史上たくさんあるが、ここまで狂ってて、しかもそれを冷酷に観察してる作品ってのはあんまりないぞ。[映画館(字幕)] 8点(2010-03-18 12:09:25)

9.  永遠と一日 《ネタバレ》 この監督が紹介され出したころの作品は、叙事詩と抒情詩が拮抗しているようなところに魅力があったんだけど、どうもこのころから抒情詩のほうへ傾斜していっていて、なんかもう一つ固い芯がほしいところ。叙事詩的な部分の映像のほうがいい。横一列の車、横一列の警官。十名ほどの人がぞろぞろ歩くってのは、もうこの人のサインみたいなシーン。結婚式の場面などは、またかと思うがやっぱりいい(この人はミュージカル監督なんだと思ってる)。そして水辺ということ、海、川、港、ここらへんは抒情詩的な題材だけど。国境の金網にぶら下がる人々、死体置き場の階上から見下ろす人々、つまりどれも“人々”の映像がいいんだ。そもそも“無言の無名の人々”っていうのが、叙事詩的なんだろうな。いつも一縷の希望を託すようなラストだったのだが、今回の朽ちたテラスでの幻影のダンスってのは、この人にしては退嬰的な気がした。[映画館(字幕)] 8点(2008-12-10 12:13:05)

10.  エレファント 長回しで校舎の中をひたすら巡っていく。ときにスローモーションになるが、ドキュメント性。「地獄になるぜ」の注意の前と後とで校舎の緊張が違って見えてくる。ゼロ時間へ向けてカウントを始めたような。同じ場所が視点を変えて反復され、塗り重ねられていく。「イジメの暴発」と単純化させない。犯人にも被害者にも同等の資格を与えている。最初の被害者はダサーイと言われている女の子だった。天上から聞こえてくる「月光」を最初に聞き取ったことの意味は? ここでドキュメントからはっきり飛躍している。あくまで事件を知っている観客を予定しているわけで、まあ映画にはそういう同時代の観客用という面はいつもあるし、その「ナマモノ感」が大事な気がする。[DVD(字幕)] 7点(2013-12-30 09:14:42)

11.  エンジェル・アット・マイ・テーブル 少女時代、ちっとも神経質っぽくないモジャモジャ頭の女の子なのがいい。田園の気配はイギリス風。自分の詩を絶対書き直さないこだわりとか、姉の溺死の影とかあるが、数奇な運命を導くほどのものではない。しかし第二部に至って、恥ずかしがりが度を越してくる。授業からの逃走。ここらへんの落ち込んでいく傾斜の感覚が妙にリアルで、つらい。ずるずるとダメなほうにダメなほうにばかり考えがいっちゃう。で入院、ドアのないトイレ、電気ショック。妹の来訪で本にサインすることが支えになる。作家なんだ、という支え。それは三部で、新聞に載った自分の写真を隣の人に見せたい・見つけてもらいたい気分につながる。社会の中で生きる喜び、ってこういうものなんだろう。社会との回路を発見することの大事さ。精神分裂病ではないという診断もあって、もう病気に逃げ込むことは許されない。かなり特異な人生だが、多かれ少なかれ誰にも共通する人生の困難と喜びを描いている。[映画館(字幕)] 7点(2013-07-05 12:18:45)

12.  エレンディラ ヒロインは海に憧れ続け、ラストでやっと海のそばにテントを立てるが、また砂漠のほうに逃げていく。この青空が印象的で、海の青より空の青を選んだ、という感じ(青と言えば、初めて体売られたときカーテンを青い魚が過ぎていく。「百年の孤独」に、ずっと雨が降り続いて湿度が上がった室内を、魚が泳ぎ過ぎていくってイメージがあって、好きだった)。マルケスの小説って凄く映像的だと思ってたんだけど、やはりあれ文学なんだな。この映画で一番美しいイメージは祖母の夢語りなんだ。エイが空を飛んでいくような。その瑞々しさに比べると、ガラスの変色など、実際の映像で示されるとかえってイメージがしぼんでしまう。そこだけが特異点として浮き上がってしまう、日常の中の非日常として。全体が溶け合ったものになってくれない。さらに言えば、あの仕掛けはどうなってんのか、などとあらぬことを考えてしまう。これ映像の不利な点ですね。修道院から帰ってくるところがミソか。幸福と懐かしさで、彼女は懐かしさのほうを選んだってこと。[映画館(字幕)] 7点(2013-01-30 09:57:34)

13.  エドワールとキャロリーヌ 《ネタバレ》 当時としてはこれくらい当たり前だったのかもしれないけど、舞台をどんどん広げていくその手順の確かさみたいなものが、見てて気持ちいい。ルーシーショーのようなセットの舞台劇の雰囲気から、叔父さんの舞踏会へとね。こちらに鏡のある見立て。ベッドの下の隠し場所としての使い方。辞典から旅行カバンまで。ピアノの中の手紙を椅子を一回転させて目に止めさせるとことか。一つ一つはどうってことなくても、キチンとしてる。ポロネーズを何度も弾かせている間のコードを伸ばした電話。お互いに「ちょっと待って」でチグハグに進むとこ。脇役も風采のいいロシア人の給仕とか、ちょこちょこっと飽きさせないものを配置してある。職人芸ってこういうのを言うんでしょうなあ。夫婦お互いにちょっと危なくなりかけて、円満に収まっていくというこの他愛のなさも貴重。[映画館(字幕)] 7点(2012-07-12 09:50:50)

14.  エボリ 《ネタバレ》 反ファシズム運動のために南部に流刑されたイタリアの作家。そのアタマだけの社会主義者が、南の現実の中で教育されていくという成長もの。あっちの流刑ってけっこういい身分なの。街をうろつき、暑いときは墓穴に寝、絵なんか描いていられる(パヴェーゼの小説「流刑」でも、銃を携帯して地元の人と猟をしていた)。村長(『ソドムの市』の四人組の一人)と手紙について論争する場面は素晴らしいが、しかしあくまで文字の上での戦いであって、有効性ということから言えばいささか空しい。なのにけっこう意気揚々としてたりして、ヤな奴だなと思ってしまう。それが次第に厚みのある人間になっていって、医師として目覚め、迷信に対する苦笑が消え、村の聖人になってしまうという展開。ちょっと優等生的すぎる気もした。けっきょく北の歴史に参加すべく帰っていき、そのままこちらを訪れる約束を果たしていない、という苦味を残して美しい天気雨で締めている。ジャン・マリア・ヴォロンテがかっこよすぎるのも優等生っぽいんだ。とは言え、こういう「映画として充実している社会派」の監督も減った。[映画館(字幕)] 7点(2012-06-17 09:50:47)

15.  映写技師は見ていた 《ネタバレ》 もうちょっと短く出来るかと思ったが、でも悪くなかった。単に終わった体制の悪口を安全な時代になってから言ってるってだけじゃなくて、ある種の普遍的な独裁者願望のパターンがちゃんと出てた。これの同時代で言えばホメイニ下のイランに置き換えることも可能。純真さ・ナイーブさが独裁を支える構造そのものを見ようとしている。怖いのは主人公がこの体制を恐怖しつつも肯定しているとこで、ここに権力というものの不可思議さがあるんだろう。会話が聞かれることに怯えながらも、スターリンへの敬愛は変わらない。エライさんたちに出会うあたりの緊張する雰囲気、リアリティあった。やさしいスターリン。感激の極みであります。これと妻カーチャへの愛とが並行するの。このカーチャがラストでやっぱりスターリン一途になって登場するあたりに凄味。妻を愛するのかスターリンを愛するのか。カーチャへのカーディガンが取り出される。妻を演じたロリータ・ダヴィドヴィッチ、『ブレイズ』のときも、プロレタリア色のある女優さんでハリウッドでは貴重だなと思ったが、やっぱあの資本主義国で主役級を生き抜くのは難しかったか。[映画館(字幕)] 7点(2012-02-08 10:28:46)

16.  エーゲ海の天使 《ネタバレ》 題名から予想するよりは面白い映画。すべての国の国民は自国民をお人好しだと思いたがっているところがあり、これ下手すると被害者意識からグロテスクな排他主義にもなっていくんだけど、でもそういう「お人好し意識」を下地にして世の中を受け入れていこうっていう、穏健な心理手段にも思われ、自然に人間の集団に備わっている安全装置なのかもしれない。少なくとも、そういう「お人好し」として他者に対そうとする礼儀が生まれる。このイタリアの兵士たち、ギリシャ人にもトルコ人にも「トモダチ、トモダチ」って体よく扱われ、ドイツ人の猛々しさもなく、馬鹿にされてるのかもしれないけど…、というイタリア人の自画像。不意に子どもたちが現われ、敷布の向こうにギリシャ人の日常生活が現われる滑稽味。二年間の休暇ならぬ三年間の休暇。そうか、戦争ってのは「生活」からの休暇という一面もあったのかも知れないな。再建に燃えていた軍曹も、ラストではこの休暇の島に逃げ帰っている。なんか岡本喜八が好みそうな設定。[映画館(字幕)] 7点(2011-09-11 09:43:26)

17.  XYZマーダーズ これがサム・ライミとの出会いだった。『クリープショー』との二本立てだった。そういうのが至って好きだった。尼僧が車にギュウギュウ詰めになって死刑執行場へ駆けつけるファーストシーンからして、何かしら期待を抱かせるものがある。主人公に迫る危機と、彼の語りが繰り返されて話の設定をまず作るわけ。以後、私のノートにはギャグが細かく記されているが省略。とにかくテンポのいい映画であった。36ドルなくて、とカメラがパンすると「ダンス競技会・賞金は36ドル」となって、いかにもダサく踊ってるところがあって、すぐ続けて陽気に主人公が皿洗いしてるとこになる。そういったテンポ。エレベーターとドアを使った出入りの妙。欄干での対決、落っこちたと思ってバンパーにつかまってたり、川の中から立ち上がったり、のくどいネバり。死刑場に駆け込む知事の「ああ間に合った、○○○○」のギャグ。駆け出しの監督でもコロッとこういうのが作れちゃうのは、スラプスティックの長い伝統があるからなんだろう。日本では「傑作」は作れても、こういう「快作」ってのがなかなか生まれない。[映画館(字幕)] 7点(2011-04-19 10:08:47)

18.  エイリアン2 《ネタバレ》 エイリアンを先住民インディアンなり共産主義者なりに見立てると、ハナモチならないアメリカ映画の伝統につながるんだけど、己れの悪夢を克服するために再び現実と戦う勇気の物語と見ると、アメリカ映画の最良の伝統を受け継いでいることになる。だからいいのはヒロイン像。重火器の構えがいい。今までだと武器を持つ人物は、もっぱら前屈みになったもんだけど、重さで後ろに身を反らす感じになる。前屈みのほうが戦闘的な気分は出るが、身を反らすと堂々として頼もしい。それが女性ってことで、新しい味わいが出た(2012年再見。ここらへん記憶の中でリプリーと海兵隊のオネエチャンとが混ざってたな。あのオネエチャンの構えが本作で一番印象に残っている)。活劇としては、天井からエイリアンが近づいてくるあたりドキドキさせたが、考えてみればちょっと対策が不備すぎる気もする。エレベーターで追いかけてくるってのも、なんだかなあ。細かいところはけっこう気をつかってるんだよね、冬眠から覚めたあとの床の冷たさとか。[映画館(字幕)] 7点(2010-06-20 12:12:59)

19.  エイリアン3 《ネタバレ》 ヒロインは坊主頭。まわりの男どもは僧服のようなものを着て、セットはざらりとした中世修道院風。うろついている犬。カタコンブのような地下の迷路。そしてラスト火の中に消えていくヒロインとくれば、これはジャンヌ・ダルクを描いた宗教映画だろう。とうぜん活劇映画としては地味になってしまう。タルコフスキー的な陰々滅々とした雰囲気の中でいくら走り回っても、爽快感は訪れない。だいたい宗教はあまりに「思弁的」で「反活劇的」である。活劇の人間は「考える」のではなく「企む」べきなのだ。定められたルールの中で企て合うゲームに酔える人間でなければならない。そこが宗教映画と活劇映画が両立できないところ。また対抗するエイリアンが前作のクイーンを見た後では貫禄に欠けた奴で、一生懸命チョコマカチョコマカ走ってはいるが、かなり物足りない。でも、宗教映画と割り切って鑑賞すれば、邪悪なものを内に孕んだまま火で浄化されていくヒロインは、自分のうちに魔女がいる可能性を肯定してしまったジャンヌ・ダルクであって、結論としてそれなりの面白味はなくもない。[映画館(字幕)] 7点(2010-03-09 12:03:06)

20.  遠雷(1981) 農協の場で現われかける問題、農政批判を、「土着の力強さ」というようなことでねじ伏せてしまった感がなくもないのだが、主人公のタイプの新鮮さに希望を託しているのだろう。フワフワしているような、しっかりしているような、その柔軟性。今までの映画の類型だと、「フワフワ」は完全にグレちゃってチンピラになってしまい、「しっかり」のほうは“なんとか青年団”的にコチコチになってしまう。その二つのタイプを止揚してるというか、とにかく一人格のなかに同居させている。そこに希望の可能性を信じようとしている。昔も今も、農が基本だとか何とか言いながら、映画はもっぱら都会を中心に描いてきて、農業を描くとなると社会派的な主張があるものだけに限られてきた感がある。そういった流れの中で、本作はなんらかの主張より前に存在するナマの「農家の青年」というものを見せてくれた。後半が面白かった。選挙及び選挙違反などに、こんなもんだろうなあ、というリアリティがあったし、ビンで鯉を獲る工夫や、七尾伶子と原泉の愚痴の言い合いも楽しい。ただ時々若き永島君が、陰にこもったヤラシー目つきするのはいただけなかった。もっとあっけらかんとしてほしいところ。[映画館(邦画)] 7点(2009-12-25 12:02:21)(良:1票)

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