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1. 南部の人
《ネタバレ》 唐突な話だが、ルノワールの『南部の人』は、死ぬ間際に観たい映画だと思った。
果たして死ぬまでに何本の映画を観るだろうか。勿論、本数の問題ではない。
ならば観るべき映画は観たのだろうか、観ずに死んで後悔する映画はもうないかと。
しかし、そんなことがどうでもよくなる映画、それが、ルノワールの『南部の人』だ。
もうこれを観たのだから、悔いはないだろう。
こんなにも幸福感に包まれた映画などこの世にはないのではないだろうか。
夫婦揃ってベッドで眠るショットにオヴァーラップする綿花畑の美しさや
滅茶苦茶すぎる街の酒場での乱闘シークエンスや
なによりも登場人物の表情ひとつひとつの美しさ
そして生命の力に満ち溢れているではないか。
あばら家に引っ越してきた時に初めて灯るストーブの火。
ここから物語が、この家族の新しい生活が始まる。この美しさに心を揺さぶられるではないか。
その時点ではこのシークエンスのみでの美しさなのだが
ここにただならぬ何かを感じずにはいられない。勿論そこではそれが何かなどわからない。
映画は進み、嵐が畑を無に返す。男はもう無理だ、街へ出ようと決意する。
しかし家に戻ると妻は、「家は大丈夫、そしてストーブも直った」と言う。
そして再び灯るストーブの火。泣ける。泣けて泣けて仕方ないだろう。
冒頭のストーブの火に感じる魅力は生命の力だ。
ルノワールが描きたいこととはそういうことだ。
死の間際、幸福に包まれた生命の力を感じる映画を観る。
こんなにも安らかな最期などないはずだ。
そんなことを思わせる傑作である。[映画館(字幕)] 10点(2012-09-09 00:32:23)(良:2票) 《改行有》
2. 七夜待
《ネタバレ》 困ったものだ。上映時間90分、ほとんどずっと長谷川京子のおっぱいばかりを見てしまった。だからこの映画の内容とか、何の話だったのかとか殆ど理解できなかった。
列車を降りて、タイの暑さからタンクトップ姿となりおっぱいを惜しげもなく露にする長谷川京子。そんなことは考えられても、タクシーの運転手を最初は怪しい人だと思わせるためにわざと字幕を出さず、実はいい人だったんだよという展開に持ち込んでから字幕を出すという卑怯さとか、脈略もなくぶつ切りに導入される日本での裸の長谷川京子と村上淳は一体なんなのかとか、深く思考することは出来ない。何故なら気になるのはおっぱいだからだ。
ふと我を取り戻したのは、もはや長谷川京子がスクリーンから姿を消した後、エンドロールで流れる「愛」がどうたらとか言ってるあたりだ。この音声は最初は本編内でもあった水の三か国語の件の続きだ。それを聞いていて気付いたのは、この映画はもっと沢山素材を撮っていたということだ。そのドキュメンタリー風だかなんだか知らないスタイルで、沢山回して、そこからいいと思ったところを抜き取って使っているのだろう。だからすべてに脈略がなく、繋いだだけみたいなものなのだ。情報が乏しすぎるのは、河瀬直美本人が理解しているものはみんなも理解してよという感じの、映画を描く、のではなく、映画を撮りました、みたいな完結運動で消化されただけということ。つまり私ってこんなの撮れるのという河瀬直美の自己顕示欲の塊でしかない。それにシャンプティエおばさんが付き合ったら、最後のショットとか奇跡みたいなことが起こったが、恐らく河瀬直美が思うドキュメンタリー風みたいのというのは、演技ではなく自然体の人間みたいのを撮りたいのだろうが、それは自然体を作ろうとする明らかな作為だということに気付かずいつまでも錯誤を繰り返すばかりだが、結局ラストの奇跡的なあのショットはどう考えても偶然、でもその方が力強くて、自然体を装った作為溢れるあのけんかのシーンなんか吹っ飛ぶくらいそっちの方の良いのだから、つまりあのラストショットは完全に矛盾してるのだと思う。
大体、あそこまで長谷川京子のおっぱいを強調しておいて脱がせることのできない、河瀬直美ってどうなの?[映画館(邦画)] 2点(2009-11-14 14:18:41)(良:1票) 《改行有》
3. 夏時間の庭
《ネタバレ》 アサイヤスはきっと優しすぎるんだろうと思う。美術館に展示されるような価値あるものの中で生きている人々のごく普通の家族の集いであったり、親の死であったり、遺産の相続であったりするわけで、すべては我々が生きている日常の生活と何も変わらない。それを優しすぎるくらいのまなざしでアサイヤスは切り取っていく。
しかしエリック・ゴーティエのカメラは優しくはなくて、むしろ過酷。それはデプレシャンの映画を見ているとよくわかる。デプレシャンは常に過酷だから。それは映画に何を求めるかという話になると思うが、個人的には映画に優しさを求めてはいけないと思っている。映画は常に過酷でなければならないと思っている。
これをゴーティエの問題とするかは疑問が残るが、アサイヤスとデプレシャンのカットバックはどこか似ている気がする。人物の位置関係がはっきりとせず、どこか忙しない。これは決して優しいとは言えないのではないか。むしろ過酷に映る。そういう面で、アサイヤスは優しすぎるからこそどこか損をしているように思う。
ただ若人たちが集まってくると、過去(歴史)と現実(現代)が混ざり始めて混沌としてくる。ああアサイヤスはこれがやりたかったんだっと思ったのだが、それと同時にゴーティエのカメラも急に活き活きとしてくる。娘がノスタルジーに浸かりだすと、それは正に混沌として何やら過酷で素晴らしい。
ラスト、俯瞰で、緑生い茂る中を手を繋いだ若いカップルが駆け抜けていくだけで、もうそれでいいよねって思えてくる。だって最初だって子供たちが走り抜けていくところから始まるわけだし。
結局、何がしたかったかっていうと祭りがしたかったのかなと思った。過去や今を背負いながらも、寂しくならず、いつでも楽しい祭りがしたいのかもしれない。そういう風景を撮りたかったのかもしれない。
アサイヤスの素晴らしいところは、何でもないごくごく普通の人々を、またはその行動を風景の中に溶け込ませて、また別の風景を産み出してしまうところだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-06-27 00:35:49)(良:1票) 《改行有》
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