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プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  パーティで女の子に話しかけるには もっと若い頃にこの映画が公開されていたなら、人生の何かしらを変えられてしまったかもしれない。 この作品は、そういう類いの映画だ。 勿論、年齢に関係なく、“ボーイ・ミーツ・ガール”の新たな傑作として溢れるエモーションを堪能できる映画だと思う。 ただ、この映画世界の中で、儚くも美しい短い時間を過ごす登場人物たちと歳感覚が近ければ近いほど、そのエモーションは殊更に特別なものとなり、燦然と記憶に刻まれるのではないかと思えてならない。 僕自身は、決して音楽そのものに明るくなく、当然ながら「パンク」なんて概念にも傾倒があるわけではないけれど、それでもこの映画の中の若者たちが、その“表現方法”を通じて自らのアイデンティティを確立させようとする思いはよく理解できる。 そして、性別も、種族も、環境も、常識も、文化も、死生観すらも超えて、心から愛した人と奇跡的な「共鳴」を果たしたことによるほとばしる「恍惚」が、スクリーンから溢れ出んばかりの“光”と“音”で脳に直接突き刺さる。 それはまさに、「映画」というありとあらゆる表現が入り混じった「不完全な性行為」による“オーガズム”の瞬間だった。 あらゆる意味で、“変わった映画”であることは間違いない。極めて倒錯的だし、不完全で歪だ。 しかし、それは、まだ「何者」でもない少年と少女の純粋な混濁を描き出す上で、真っ当な映画の在り方だったと思う。 そういった「言葉」のみでは到底表しきれない彼らの姿を映し出したジョン・キャメロン・ミッチェル監督の才気に感服する。 そして、主人公の二人を演じたエル・ファニング、アレックス・シャープの若い俳優たちが本当に素晴らしい。 若い二人が出会い、瞬間的に恋に落ち、束の間の逢瀬に戯れる。 その様は、エル・ファニング演じるザンの台詞の通り、美しくもカラフルでもないけれど、あまりにも愛おしい。 脇を固めるニコール・キッドマンがかつてないエキセントリックなキャラクターで存在感を放ちサイコーすぎる件など、随所で様々な味わいと快感に満ちた作品でもある。 繰り返しになるが、今この映画を“大人”になる前に観ることができ、その「快感」を初体験できる若者たちがとても羨ましい。 というわけで、今年アラフォーに突入したばかりの36歳には、映し出される世界観が美しく眩い程に、ある意味つらい映画だった。 何と言っても、エル・ファニングが文字通りに“宇宙レベル”で可愛くてつらい。 宇宙広しと言えども、キスの最中にゲロを吐かれて許せちゃうのは、エル・ファニングくらいではなかろうか。と、思う。[映画館(字幕)] 8点(2017-12-14 23:32:56)(良:2票) 《改行有》

22.  ハクソー・リッジ 「戦争」と「信仰」、人間が生み出したその二つの価値観は、まさしく人間という混沌の象徴だ。 本来、相容れぬはずの価値観を、同時に、「正義」だと掲げ続け、混乱と争乱を引き起こし続けてきたのが人類の歴史だろう。 その二つの価値観に板挟みにされた一人の人間における選択肢は、普通二つしかない。 ひたすらに「戦う」か、ひたすらに「避ける」かだ。 だがしかし、この映画の主人公は、そのどちらも選ばなかった。 「戦争」に対する覚悟と、「信仰」に対する揺るがない信念を貫き通し、ただひたすらに「救う」ことを選択した。 そう言葉で表すといかにも聖人君子的な綺麗事のように思える。 ただそれを実際の戦場で「実現」したということが、一体どれほど熾烈で残酷だったか、この映画は一点の曇りもない映像表現で描きつけている。 古今東西様々な戦争映画を観てきたけれど、この戦争映画の激しさと描き出されるテーマ性は、他のどの戦争映画とも異なっている。 それは、この映画が、一人の男の生い立ちとそれに伴う信念を深掘り、結果として彼が戦場でどのように闘い抜いたかを描き抜いたからだろう。 激しい戦争描写は、戦争映画史上においても屈指のものであったことは間違いない。だがそれ以上に、人間という生き物がそもそも孕む混沌と混乱の中で苦悩しつつ、傷つきつつ、それでも屈すること無く、自らが生きる意味を貫き通した不器用な人間の崇高な姿に衝撃を受けた。 アンドリュー・ガーフィールドが、良心的兵役拒否者としてアメリカ史上初の名誉勲章受賞者となった今作の主人公デズモンド・ドスを見事に演じきっている。 あの青瓢箪のような俳優が、あのメル・ギブソンの戦争映画に主演という情報を聞いた時は「大丈夫なのか?」と甚だ懐疑的だったけれど、鑑賞後には彼以外の適役は居なかったろうと思える。 ハンサムではあるがハリウッド俳優としては個性的な風貌の彼が、次々に大役をものにし、一躍トップスターへと上り詰めた要因は、類まれな演技力は勿論、彼自身が己の「個性」を貫き通してきたことに伴う魅力が、付加価値として備わっているからだと思う。 そして、監督メル・ギブソン。 彼自身の私生活における数々の醜聞やそれによって映画界から追放されかかっていたことについては、擁護する余地はないけれど、世評の通り映画監督としての力量が「本物」であることをまざまざと感じた。 アルコールに溺れ、暴力と暴言に走り、後悔と贖罪を繰り返す日々、そんなメル・ギブソン自身の人生模様は、今作のキーパーソンとなる主人公の父親像に表れている。 光と闇、暴力と救済が等しく混在する圧倒的な戦争映画。これはメル・ギブソンにしか描けまい。[インターネット(字幕)] 9点(2017-11-21 21:20:57)《改行有》

23.  薄氷の殺人 邦題の印象から勝手に韓国映画だとばかり思って観始めたが、中国映画だった。 似たようなプロットの韓国映画もあったように思うが、国が違うとこうも映画の空気感というものは異なってくるものかと痛感した。まあ至極当たり前のことなのだが。 そして、残念ながら、個人的にはこの映画に対してとても居心地の悪さを感じてしまい、面白味を感じるまでに至らなかった。 退屈、淡白、ありきたり、否定をするための幾つかの形容が頭をめぐるが、どれもうまく当てはまらない。 寒々しい空虚感が全編通して満ちている。 湯気が立ち上る料理も、白日に打ち上がる花火も、超絶にダサいエンディング曲も、すべてが寒々しい。 勿論、それこそがこの映画のテーマであり、存在意義だとは思う。 ただし、その寒々しさを受け入れられるかどうかで、この映画への価値観は変容するのだと思う。 それを受け入れられなかった者は、この映画が醸し出す寒さと冷たさと空虚さと不潔さに只々苦しめられる。 主人公をはじめ登場人物たちにも一切感情移入をすることができず、困惑する。 そして、一刻も早くこの映画世界から抜け出したくなる。 “面白くなかった”ので、評価はできない。けれど、この独特な中国映画の存在意義は認めざるをえない。[インターネット(字幕)] 5点(2017-11-09 00:00:14)《改行有》

24.  ハドソン川の奇跡 出張で羽田行きの機内に乗り込む最中、10日前に観たこの映画のことを思い出した。 日々の行いだとか、常日頃の危機意識だとか、事故に遭遇しないための言い様は色々とあるけれど、事故に遭うか否かは詰まるところ「運」次第だろう。 しかし、同時に、不運にも起こってしまった事故に対処する人物が誰であるかということも、「運」次第だと思う。 この映画で描かれた事実を率直に受け取るならば、あの航空事故は、「不運」と「幸運」が同時に邂逅した出来事であり、そのことが即ち「奇跡」と呼べるのだろうと思う。 原題は「Sully」。事故機の機長チェスリー・サレンバーガーの愛称である。 原題が表す通り、今作は「奇跡」の顛末ではなく、サレンバーガー機長の事故前後の心情描写と葛藤、ベテラン機長としての矜持がつぶさに描かれている。 パイロットとして30年以上に渡り飛び続けてきたからこそ抱えた一抹の不安。 彼は、航空において「絶対」が無いということを、他の誰よりも知っていたのだろう。それがたとえ自分自身が生み出した奇跡と、それに対する疑念であったとしても。 紛れもない「一流」だからこそ抱えた葛藤の行く末に心がふるえた。 主演のトム・ハンクスは、「キャプテン・フィリップス」「ブリッジ・オブ・スパイ」そして今作と、実際に起こった事件・事故に対峙した実在の人物を立て続けに演じ、流石の存在感を放っている。 すっかり“アメリカの良心”を象徴する大俳優になった印象を覚える。 そして、監督のクリント・イーストウッドは、映画人として極まった円熟味に更に拍車をかけるか如く、あまりにも手際よく良作を仕上げてみせている。 この題材となった事故は、確かに奇跡的な出来事ではあるが、あまりにも突発的で短時間で収束した事故だっただけに、映画として膨らませることは困難だったはずだ。 しかしながら、イーストウッド監督は、紛れもないキーパーソンであるサレンバーガー機長の深層心理にまで的確に表し、同時にこの奇跡が機長一人の功績ではなく事故に関わったすべての人達による最善の対応結果であったことまで拾い上げ、それぞれの描写を手際よく描ききっている。 冒頭機長は、対応の是非を追求してくる国家運輸安全委員会の「墜落」という表現に対して、断固として「着水」だと言い放つ。 勿論結果として、機長の主張は正しかったわけだが、この映画が伝えることはその正誤そのものではない。 或る英雄的行動も、一つ視点を変えれば、蛮行として捉えられることもある。 事故に関わった様々な人間たちの多角的な視点こそが、この映画のテーマだろう。 そこには、この世界の理、アメリカという国の真の姿を冷静に見続け、表し続けるクリント・イーストウッドの本領が如実に表れている。[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-08 21:18:41)《改行有》

25.  ハードコア(2015) 新宿バルト9、上映終了が0時近くのレイトショー。 クライマックスを“走り抜ける”につれ、自身の脳内メモリが激しく消費されていくのを体感。 誤解を恐れずに言うと、刺激的な映像世界に対する高揚感に相反するように、特に終盤、“欠伸”が止まらなかった。 無論、退屈だったわけではない。脳内メモリが尽きかけ、思考が停止しかけていたのだと思う。 きっと世界中の映画人たちが一度は思いついたものの実行には移せなかった“全編FPS視点”でのアクション映画。 今作のつくり手たちは、その禁じ手とも言える破天荒な映画企画を、時に緻密に、時に強引に、見紛うことなき“新しい”エンターテイメントとしてまかり通している。 何はともあれ、「映画」として成立させたことがまず見事だと思う。 前述の通り、鑑賞者のタイプやタイミングによっては、“メモリ”のキャパオーバーで、映画としての許容範囲を越えてしまうことも致し方ない文字通りに「不安定」な作品であることは間違いない。 ただし、決して“全編FPS視点”というアイデア一発に頼り切った映画ではないことも確か。 ある意味「主人公不在」の映画であるため、その分周囲のキャラクターを演じた俳優たちがそれぞれ印象的である。 まず主人公の愛しき妻(?)としてファーストカットで映し出されるヘイリー・ベネットがいきなりエロい。 はっきり言って悪趣味なエログロ映画でもある今作において、この女優が醸し出す善悪を超越した淫靡さは必要不可欠な要素だったと思う。 そして何と言ってもこの作品を語る上で外すことが出来ないものは、実は特異な撮影手法などではなく、シャールト・コプリーその人。 彼が扮する“ジミー’s”の縦横無尽、奇々怪々、魑魅魍魎な存在感こそが、今作の最大の見所だと言っていい。 盟友ニール・プロムカンプ監督の「第9地区」で鮮烈なデビューを果たして以降、一気に“怪優界”のトップに躍り出たこの人の俳優力はやはり本物だ。 途中、喋ることが出来ない主人公を指して「チャップリンだったとはな」という台詞があるが、これは言い得て妙な巧い台詞である。 完全なる主人公視点により、まさに映画世界を「体感」する今作の体験は、映画の黎明期に“チャップリン映画”を観た当時の観客たちの「体感」に通じるものがあるのではないか………。 とまで言ってしまうと流石に大袈裟だけれど、つくり手たちの意欲そのものは、映画史の偉人たちに対しても胸を張っていいと思える。[映画館(字幕)] 7点(2017-11-08 19:53:50)《改行有》

26.  パッセンジャー(2016) “Starring  Jennifer Lawrence Chris Pratt” エンドロールのクレジットで、先ず表示されたのは主演俳優二人のクレジットだった。 それはハリウッド映画において大して珍しくないことのように思えるかもしれないが、往年の娯楽大作ならいざ知らず、昨今の映画において、「〜の主演映画である」という情報を、エンドロールでわざわざ真っ先に伝えてくる作品はあまり記憶にない。 製作陣が意図的にそのクレジットで表したかったことは、詰まるところこのSF超大作が貫いた“スタンス”であり、即ちこの映画が“スター・システム・ムービー”であることへのてらいのなさだと思う。 昨今の価値観に合わせるならば、“スター・システム”という姿勢は、安易に主演のスター俳優に頼っただけの映画だとも捉えられかねないため、極力避けるのが普通だ。 しかし、この映画は、主演俳優の絶大なスター性を臆面もなく全面に押し出し、美しさと格好良さを表現することに対しての「逃げ」がない。 結果として、美しいスター俳優同士の共演が、ハリウッドの古き娯楽大作にも通ずる堂々たるエンターテイメント性を醸し出していたと思う。 ジェニファー・ローレンスはすべてのシーンが尽くエロ……いや艶っぽいし、クリス・プラットは無精髭が伸びっぱなしだろうが尻を丸出しだろうが格好良い。それぞれの振る舞いがそれだけで娯楽要素になり得ている。 と、ここまでであれば、この映画は結局のところ今をときめくハリウッドスターの華やかさを追求しただけの作品で、ストーリー性には乏しい映画だと思われるかもしれない。 でも、実はそうではない。 “スター俳優の華やかさ”は、このSF映画が「娯楽超大作」としてのバランスを成立させるために必要不可欠な要素だったのだと確信する。 もしこの映画のキャスティングにおいて、もっと地味で堅い印象が“売り”の俳優をチョイスしていたならば、それはそれは重々しく破滅的な全く別物の映画に仕上がっていたことだろう。 なぜならば、このSF映画の持つ「罪と赦し」にまつわるストーリー性とテーマ性は、想定外に深く辛辣であるからだ。 もっと重苦しいキャスティングによって、このストーリーが孕む人間の業を深掘り、丸裸にしたならば、それはそれで傑作に成り得たかもしれない。 ただ今作の製作陣はそういう選択をしなかった。華やかなキャスティングによる娯楽性を優先したのだ。 そしてその選択は決して間違いではなかったと思える。 この物語が伝えるべき人生観と哲学性を表現しつつ、娯楽大作として様々な観点から楽しみがいのあるエンターテイメントに仕上がっている。 そしてそれは、主演の両ハリウッドスターが華やかさだけではなく、演技者として押しも押されもせぬ実力を備えているからこそ成し得ていることだ。 両者が演じたキャラクターの瞳にふいに垣間見える“狂気性”がそのことを雄弁に表している。 当初、“デートムービー”推しの安直な国内プロモーションを目の当たりにして、鑑賞意欲が大いに削がれたのだが、某映画評の冒頭で「賛否両論」という情報を聞くにつけ、一転して食指が動いた。 “賛否両論のSF映画”は、大概の場合観ておいて損はない。その持論は幸いにも的中した。 そして、結果として“デートムービー”としてのプロモーションはある意味的を射ているのだと思う。 このSF映画で描かれるストーリーは極めて特異な状況のように見えるが、実のところとても普遍的な男女関係の機微や不自由さを孕んでいる。 美しい二人の美しいデートシーンにうっとりすると同時に、男女関係における地獄のような居心地の悪さを感じることも必至。 この映画を共に観ることで、二人の付き合い方には波紋が広がることだろう。 それがデート中の二人にとって良い方向に繋がるか、悪い方向に繋がるかは知ったこっちゃないが、二人の将来を推し量る上では重要な「材料」になり得るだろう。 これこそ“デートムービー”と呼ぶに相応しいではないか。[映画館(字幕)] 8点(2017-11-07 23:48:38)(良:3票) 《改行有》

27.  バイオハザード: ザ・ファイナル 感無量。臆面なく言わせてもらうならば、満足度は高い。 と言うと、真っ当な映画ファンとしては「馬鹿じゃないか」と思われるだろうが、実際そうなのだから致し方ない。 勿論、この映画単体を指して、エンターテイメント大作の傑作などとはお世辞にも言えるわけがない。 しかし、1997年の「フィフス・エレメント」からの主演女優ミラ・ジョヴォヴィッチの大ファンで、彼女のスーパーヒロイン女優としてのポジションを確立した2001年の「バイオハザード」から今作に至るまでのシリーズ全6作を「映画館」で観た“感染者”として、やはり「感無量」という言葉を使わざるを得ない。 前述の通り、今シリーズにおいては、とうの昔に“感染者”に成り下がっており、最新作に対する真っ当な「期待」などはとっくに無くなっていた。 それでも結果として映画館に足を運び続けた理由の大半は、ゾンビよろしく排他的な「惰性」と、主演女優の美貌を拝んでおかないとという慢性的な「欲情」に占められていたと思う。 そんな感じで、「ああやっぱりイマイチだったな……」だとか、「ああやっぱりジョヴォヴィッチはエロいな……」などと思いつつ、ゾンビのようにフラフラと劇場を後にし続けた。 極めて退廃的である。金も時間も無いのだからもっと良い映画を観ろよと我ながら思う。 だがしかし、その“退廃感”を味わうことこそが、このシリーズを観ることの目的となり、カタルシスにすらなっているように感じていた。 そうして期待感など毛頭なく臨んだシリーズ最終作。 “感染者”ならではの斜めからの視点、そして粘り強く観続けてきたファンとしての贔屓目は大いにあったろう。 「傑作」とは言わない。「佳作」とも言い切ることはできない。ただ、「良かった」と断言したい。 もはやシリーズ通じてのストーリーの整合性などは、端から無いものと高をくくっていたのだが、シリーズ最終作にして、ちゃんとストーリーの収拾をしてくれたと思う。 特に「Ⅲ」以降の迷走ぶりが甚だしかったアンブレラ社の陰謀の真意だったり、ずうっと曖昧で荒唐無稽だった主人公アリスの存在性とその意味が、曲がりなりにも明らかにされたことには、長年の胸のつっかえが取り除かれたようで、快感を覚えた。 当然ながら全く粗がないなんてことは言えるわけもないが、それでも破綻しまくっていた過去作を含んだストーリーの整合性を、ギリギリのところで再構築してみせたのではないかと思える。 また過去作に登場したアンデッドたちを再登場させたり、第一作の舞台となったアンブレラ社の地下研究所“ハイブ”を決着の場として設定するなど、シリーズファンに対してのサービスも嬉しかった。 そして、主人公アリスと共に、長年に渡りシリーズを支え続けた二人の悪役の最期も、非常に印象深かった。 特にアルバート・ウェスカーのラストの情けなさは、一会社員として無性に胸に迫るものがあった。 アイザックス博士の狂科学者と狂信者をミックスさせたラスボスぶりも、その始末のつけられ方も含めて良かったと思う。 と、概ね大満足に近いシリーズ最終作だったが、一つ大きすぎるマイナス要因がある。 それは過去作それぞれの優劣を決める最大のポイントともなっていた要素、即ち“エロティシズム”の有無だ。 第一作「バイオハザード」が成功した最大の要因は、勿論ミラ・ジョヴォヴィッチというスター性に溢れた女優がキャスティングされたことに尽きると思うが、それと同時に、主演女優によるエロティシズムが映画全編を通して全開だったことがあまりに大きい。 「バイオハザード」は、主人公アリスの“半裸”で始まり、魅惑的なコスチュームでアクションを繰り広げ、そして再び“半裸”で終幕したからこそ、唯一無二の娯楽大作として存在し得たのだと思っている。 ミラ・ジョヴォヴィッチが、撮影期間中に妊娠したことも多分に影響しているのだろうし、致し方ないことではあるのかもしれないが、今作において主人公アリスのセクシーカットが皆無だったことは、今シリーズ作に無くてはならない“エンターテイメント”の大いなる欠損だったと思う。 まあこれについては、何を隠そう今作の監督であるポール・W・S・アンダーソン自身が、ミラ・ジョヴォヴィッチの夫なわけだから、憤慨と嫉妬を込めて「ちゃんとしろよ……」と言いたい。 せめて、半裸とは言わないまでも、再び赤いドレスを身に纏ったアリスがコウモリのお化けと対峙するラストシーンで締められていたならば、この満足感は一気に振り切れたかもしれない。[映画館(字幕)] 7点(2017-11-06 22:43:24)《改行有》

28.  バイオハザード(2001) 最新作“パート4”の劇場公開に合わせるように、テレビ放映されていた今作をチラリとだけ観た。 民放のカットだらけの吹替え版を観るつもりは毛頭無いので、本当に一瞬しか観なかったのだけれど、その一瞬のミラ・ジョヴォヴィッチが、あまりに若く麗しかったので、翌日、ブルーレイディスクをレンタルしに走った。 2001年の公開時に映画館で観てから何度か観直したとは思うが、かなり久しぶりに観た感覚で、やはり主演女優の初々しさが印象的だった。 “バイオハザード”シリーズの一作目である今作が、正味のところどんな映画かと問われれば、ずばりこう言いたい。 麗しいヒロインの”半裸”で始まり、“半裸”で終わる映画である、と。 今作は、世界的な大ヒットテレビゲームをスタイリッシュな映像美と卓越したホラー性で見事に映画化した秀作である。 監督のポール・W・S・アンダーソンのエンターテイメント映画作家としての力量は本物だったと思う。 ただし、この映画の成功における最大の要因は、主演女優の存在に他ならない。 ミラ・ジョヴォヴィッチの類い稀な“セクシーさ”と、アクションの体現との合致が、この映画を人気シリーズに発展させ、アクション映画における“スーパーヒロイン”の価値を確立したと言える。 “人気シリーズ”とは言いつつ、残念ながらこの一作目の満足度の高さに対して、他の作品は遠く及ばない。 その原因は様々あるとは思うが、今回改めて今作を観てみて、最たる原因が分かった。 それは、“エロさ”の圧倒的な欠如だ(大真面目)。 元来、ホラーにエロスは付き物だということは、長い映画史を振り返っても明らかである。 ミラ・ジョヴォヴィッチも子を産み、年齢的には既に“熟女”であるが、彼女が再び一肌脱げば、この“パート1”を越える”パート5”も充分に有り得ると思う(熱望)。 ※追記 “最終作”の「6」を観た直後に再鑑賞。 アリスがカワイイ!ミラ・ジョヴォヴィッチが若い!! 最終作のラストは、再びこの赤いドレスを纏って締めてほしかったな。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2017-01-29 23:43:07)《改行有》

29.  バイオハザードII アポカリプス ミラ・ジョヴォヴィッチはついにイクところまでイッてしまっている。彼女の大ファンのぼくにとって、もちろんこれは最大級の褒め言葉である。パート1に引き続く今作でのジョヴォヴィッチの演技、というよりもその存在は、ハリウッドにおいて彼女以外にありえない。類まれなる(身体も含めた)美貌を備えた孤高のヒロインはついにある種のトップへと登りつめたと思う。  前作「バイオハザード」に対し今作は、前作の監督ポール・W・S・アンダーソンが製作・脚本のみにとどまったことにより、映像世界に若干の完成度の低さが伺える。そこはまさに文字通り“モンスター級”の活躍を見せたジョヴォヴィッチの働きにより、期待通りのインパクトは備えられた。しかし、今シリーズのアリスを「エイリアン」シリーズのリプリーにまで映画的な価値を高めたいなら次作では、確固たる実力を持った監督が不可欠であろう。[映画館(字幕)] 7点(2017-01-18 09:44:13)《改行有》

30.  バクマン。 「漫画を描きたい」という衝動に駆られ、若者たちは無意識に雄叫びをあげ、思わず走り出す。 漫画に限らず、一度でも自分自身の内なるものから“何かを生み出したい!”という思いを抱いた経験がある者にとって、この作品の主人公たちの姿は、どうしたって心を揺さぶられる。 そしてその“舞台”が、日本中の少年の心を掴み続けてきた「週刊少年ジャンプ」の誌面上である。 想像よりもずっと熱い青春とプロフェッショナルの狭間の群像に対して、あたかもジャンプを彩ってきた漫画を読むように釘付けになった。 この作品が、どれほど実際の漫画制作の現場のリアリティに迫っているのか、もしくは乖離しているのかは分からない。 けれど、漫画家や編集者たちが醸し出す漫画に対する熱量そのものは、真に迫っていると思えたし、そうだと信じたい。 正直なところ、「また人気漫画の安易な実写化か」と高をくくっていた部分があったのだけれど、それは完全に侮りだった。 今作は、青春映画の新たな傑作と言って間違いないし、数ある漫画原作の映画化の中でも屈指の作品だと言って過言ではないとお思える。 この映画化を成功に導いたのは、やはり一にも二にも大根仁監督の“力”によるところが大きいと思う。 大根仁監督作品を観るのはこれが初めてだったが、初めて彼の監督作を観て、この人の作品が話題になり続けている意味が一発で分かった気がする。 日本映画には珍しい発想力と、既成概念に囚われた表現方法。見るからに自由な表現力こそが、この監督の持ち味であり、最大の魅力なのだろう。 漫画制作というソフト面でもハード面でも内向的にならざるを得ない世界観を映像化することは、非常に困難だったはずだ。 並の映画監督であれば、ただ原作漫画をなぞらえただけの映画として見応えのないものに仕上がっていたに違いない。 しばしば「戦場」と表現されることも多い漫画制作の現場は、文字通りの“バトルシーン”で映し出され、主人公たちが描いている漫画の世界観をもイメージさせる臨場感を生んでいた。 また二次元表現である異常、必然的に平面的にならざるをえない「漫画」そのものが生み出される様は、まさかのプロジェクションマッピングを駆使して立体的に、躍動的に描き出された。 ラストシーンでの黒板アートづかいも含めて、肝である「漫画」が描き出される瞬間そのものが非常にエモーショナルに映像表現されたことは、この映画の勝因の一つであり、大根仁監督のなせる業だったのだろうと思う。 その他にも、“緋村剣心VS瀬田宗次郎”戦の記憶も新しい佐藤健+神木隆之介の主演コンビの相性の良さだったり、小松菜奈のミニスカートという大正義!もといある種超越した美しさだったり、サカナクションの楽曲の絶妙なマッチングだったり、みんな大好き山田孝之の相変わらずの万能性だったり、と、映画を彩る一つ一つの要素が、幸福に融合しており、力量のある監督ならではの支配力の高さを感じる。 極めつけはエンドクレジット。あのエンドクレジットは正直ずるい。 週刊少年ジャンプという漫画文化に対しての絶大なリスペクトとともに生み出されたのであろうエンドクレジットは、ずるくて、ユニークで、ステキすぎる。 “友情・努力・勝利”という週刊少年少年ジャンプの絶対的テーマを経て、主人公の若き漫画家たちは一つの結末を迎える。 その少し切なくもあり、同時にそれから先の希望に溢れてもいるラストシーンも、実に“ジャンプ”らしい。 彼らが生み出したヒロインは、最終コマで「ずっと待ってる」と微笑む。 ちくしょう。良いじゃねえか。 これはまさしく、現代版「まんが道」だ。[ブルーレイ(邦画)] 8点(2016-04-30 23:50:09)《改行有》

31.  バットマン vs スーパーマン/ジャスティスの誕生 《ネタバレ》 ”娯楽映画としての展開力の稚拙さ、それに伴う絶対的なエモーションの欠如。それが今作の最大の敗因” と、前作「マン・オブ・スティール」を批判した。 前作の不満足感が経験値としてあったため、これだけのビッグタイトルでありながら期待感は上がりきらなかった。 バットマン役にベン・アフレックが起用されたことも、不安感を煽った。ベン・アフレック自体は決して嫌いな俳優じゃないけれど、彼のあの不穏げな眼差しからは、とてもじゃないが高揚感が先行するヒーロー像が生まれないことは明らかだった。 そして、結果的には、ある意味予想通りの映画だったと言える。 むしろ不安視した部分が予想通りだったからこそ、変に期待ハズレ感が先立つこともなく、逆に楽しむべきところは楽しめたとも言える。 前作がああいう映画であったのだから、描き出す世界観の方向性が変わらなかったことは、個人的な好き嫌いは別にして真っ当なことだったと思う。 娯楽映画らしいエンターテイメント性や、スーパーヒーロー映画らしいエモーションなどは、もはや意識的に排除されている。 前作においては、絶体絶命の危機に陥ったヒロインや市井の人々を、スーパーマンが救出するシーンが無いことに大いに不満を覚えた。 今作ではそういうシーンはあるにはあった。しかしその時のスーパーマンの表情は精神的な苦悶に満ちていて、シーンそのものが高揚感とは程遠い悲愴感に溢れかえっていた。 ただしそれは、監督のザック・スナイダーが思い描いた通りの世界観であり、彼は前作から一貫して自分が表現したいビジュアルデザインを頑なに追求しているに過ぎない。 この監督の創造性は、いい意味でも悪い意味でもそれがすべてであり、仕事ぶりとして間違ってはいないと思う。 問題視するとすれば、それはやはり、これほどのビッグプロジェクトを構築していくにあたって、その礎となるべきこの連作を、ビジュアルセンスに優れた監督一人に任せっぱなしにしまっている「企画」としての稚拙さに他ならないと思う。 ビジュアル的な拘りが際立つとともに、企画そのもののセンスの無さが目に余ってくる。 言わずもがなこの「企画」が目指す終着点は、DCコミックのスーパーヒーローチーム「ジャスティス・リーグ」の映画化である。 勿論、ライバル視しているのは、マーベルコミックの「アベンジャーズ」であり、その映画化の大成功があったからこその企画発足であったことは言うまでもない。 そのあまりにも確かな”お手本”があったにも関わらず、今シリーズはストーリーテリングがあまりに巧くない。 今作で登場した“ワンダー・ガール”の活躍は、二大ヒーロー同士の陰鬱な(そしてあまり意味のない)鬩ぎ合いが続く今作において殆ど唯一の“胸熱”ポイントだったが、この先のジャスティス・リーグの中核となるキャラクターである以上、しっかりと単体作品を経てから登場して欲しかった。 マーベルがそうしたように、このプロジェクト全体を“チーム”として動かし、ストーリーを練りあげていかなければ、いくら元祖スーパースターの代表格であるスーパーマンとバットマンが並び立ったとしても、狡猾なアイアンマン率いるアベンジャーズとは勝負にならないと思う。 前述した通り、全く楽しむべき要素がなかったとは思わない。 イスラエル人女優ガル・ガドット(ジゼル!)演じるワンダー・ウーマンのまさに神的な美貌と活躍は勿論、ジェシー・アイゼンバーグのレックス・ルーサーぶりも狂気的で良かったと思う。ザック・スナイダーのビジュアルセンスと画面構成力はやはりずば抜けている。 個人的に古今東西の“ヒーロー大集合もの”は大好物なので、「ジャスティス・リーグ」についても、何としても実現・成功してほしいと思っている。 が、今一度DCコミックという“チーム”の総力を集結させて、企画そのものをブラッシュアップしていかなければ、ブルース・ウェインが夢で見た“未来”そのものが無くなってしまうぞ。[映画館(字幕)] 6点(2016-04-24 22:37:48)《改行有》

32.  バック・トゥ・ザ・フューチャーPART3 公開30年目を機に改めて3部作を観返してみて、充分分かりきっていた事だけれど、その自分自身の理解を越えて、遥かに僕はこの映画が好きだということを感じ入った。 この映画による娯楽体験こそが、僕の映画人生そのものの原点だと言って過言ではないし、同じような感慨を持つ映画はファンは世界中にいるのだろう。 焼け落ちた写真の欠片を手に取り、膨大な時間を越えて離れ離れになってしまった“友”を思う主人公。 が、次の瞬間、“友”は、今シリーズ中最も派手な描写で主人公の前に表れる。 そして最後にこう言って主人公たちを諭す。 It means your future hasn't written yet. No one's has. Your future is... whatever you make it. (君たちの未来は、まだ白紙という意味さ。 誰もがね。 自分の未来は・・・ どんな風にも、自分で作るものだよ。) 最高。[CS・衛星(字幕)] 10点(2015-11-02 23:51:38)《改行有》

33.  バック・トゥ・ザ・フューチャーPART2 この映画シリーズの主人公は言わずもがなマイケル・J・フォックスが扮したマーティ・マクフライ。 ただ3部作のパートごとに主人公の存在を食らうほど印象的なサブ主人公が存在する。 PART1の第二の主役はマーティの父親のジョージ・マクフライ。PART3の第二の主役はドク。 そして、このPART2のそれは、“ビフ・タネン”に他ならない。 故にシリーズ随一のダークさと悪趣味ぶりを誇っている。 今作において、未来→現在→過去と3つの時間軸においてビフ・タネン(+その孫)という稀代の悪役を演じきってみせたトーマス・F・ウィルソンの功績をすべての映画ファンは忘れないだろう。[CS・衛星(字幕)] 10点(2015-11-02 23:38:23)《改行有》

34.  バケモノの子 細田守のアニメーションは、夏がよく似合う。 夏休みが始まったばかりの日曜日の初回上映に観に行って、案の定親子連れや子供同士の観客が多かった。僕自身はいつもの様に一人での鑑賞だったけれど、少しばかり夏休み気分を分けてもらうことができた。 自分自身、ここまで四年間、子を育ててみてつくづく感じることだが、子はもちろん親によって育てられるが、同様に親も子によって育てられるものだと思う。 子は育つ。親も育つ。両者は互いに関わりあい、離れつつ、結びつきつつ、共に生きていく。 “人間”の子と“バケモノ”の親による「親子関係」は、どこまでいっても擬似的なのかもしれないけれど、そういう育ち育てられるという関係性が分かりやすく表現されていたと思う。 特に、主人公の少年時代を描いた前半は、極めてアニメ的な愛らしさと活劇性に溢れていて秀逸だった。 前作に続いての起用となった宮崎あおいの声が、少年時代の主人公のキャラクター性に合致していて、この主人公の言動を見ているだけで楽しいアニメーションに仕上がっていたと思う。 アニメ映画としてのクオリティーは申し分ない。きっと万人が楽しむことが出来る作品だろうと思える。 ただし、だ。“細田守の映画”として、過去作並のインパクトがあったかというと、正直そこは首を横に振らざるをえない。 今作を観終えてみると、やはり“前作”の特別感が際立ってくる。 同じく、異型の存在と親子関係を描いた前作「おおかみこどもの雨と雪」が傑作過ぎたのだと思う。 「おおかみこども〜」が深く踏み込み描きぬいた世界観と比べると、今作の物語はどうしてもありきたりで浅はかに思えてしまう。 主人公が成長した後半は、バケモノの世界と人間の世界が絡み物語のフィールドは広がっている筈なのに、ストーリー的な可能性は狭まり、残念ながら作品そのものの質が下降していくようだった。 主人公の人間世界への復帰のくだりが少々都合良すぎたり、後半になって登場するヒロインの存在価値が今ひとつ希薄だったことが、その要因だろう。 無闇に直接的な人間世界への介入を描くこと無く、「サマーウォーズ」のような創造的な世界観の広がりを見せて欲しかったと思う。 とはいえ、そういった「難癖」は細田守という人が、宮﨑駿去りし後の国内のアニメ映画界の頂上に存在し得る映画監督だからこそのものである。まったく我ながら映画ファンというものは欲深いものだ。[映画館(邦画)] 6点(2015-08-13 15:28:53)《改行有》

35.  パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間 劇中、“二つの棺”が運ばれていくシーンが、序盤と終盤に対比的に描かれる。 一つは、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの棺。そしてもう一つは、“JFK”暗殺の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドの棺だ。 両者の棺を運ぶ者の心情は大いに異なるはずだが、その様はどちらもややぞんざいに扱われているように見える。 そこには、「この棺を運びたくなんてなかった」という、同じ言い回しだけれど全く真逆の意味合いを持つ、それぞれの死に関わった人々の感情が漏れているように見えた。 英雄の暗殺と、その実行犯とされる者の暗殺。この二つの死が人々に与えた影響はいかなるものだったのか。 今作は、偶然にもそれに関わってしまった人たちの心の損失を描き出している。 「JFK暗殺」を描いた映画は多々あるが、この作品の視点は意外にも新しく、それでいて真っ当だったと思う。 他の多くの作品が暗殺にまつわる陰謀説を主軸に描いているのに対して、今作はあくまでも事件現場となった街に居合わせた市井の人々の様を描いている。 そういう意味では、JFKの実弟であるロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件を描いた作品「ボビー」にとても良く似た映画だったと思う。 稀代の英雄の死を目の当たりにした人々にとって、本当の犯人が誰かなんて追求する余裕はなかっただろう。 自分たちが住んでいる場所で、世界で最も重要と言って過言ではない人物が殺されてしまった。 ただひたすらに、その悲しみとショックに打ちひしがれるしかなかったのだろうと思える。 その人々の動揺と混乱の中で、もう一人の男が“真相”と共に闇に葬られた。 その男にも勿論家族がいて、市井の人々以上の動揺と混乱を強いられていた。 彼らの死から50年が経過した。 数多くの疑惑と陰謀説は渦巻き続けるが、いまだ真相は闇の中。 いつの日か時代は真実をさらけ出すことが出来るのだろうか。[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-08-13 14:33:01)《改行有》

36.  バットマン リターンズ “バットマン映画”として観るか、“ティム・バートン映画”として観るか、どちらの心構えで観るかで、この映画から受ける“感触”は大いに左右されると思う。 僕は、前作「バットマン」を当然のごとく“バットマン映画”として観てしまったため、その特異な世界観に正直違和感を覚えてしまった。 しかも、クリストファー・ノーランの「ダークナイト」シリーズを観てからの、ティム・バートン版「バットマン」の初鑑賞だったため、両者のギャップを殊更に激しく感じてしまったのだと思う。 というわけで、今回は、初めからちゃんと、ティム・バートン映画として観ることが出来たので、前作よりも随分と楽しむことが出来たのだと思う。 そうして観てみると、このヒーロー映画が、想像以上にティム・バートン色の強い極めて「異質」な映画であることに気付かされた。 数多の論評にあるように、このヒーロー映画には、もはや主人公としてのヒーローは存在しない。 マイケル・キートン演じるバットマンは、一人のメインキャラクターに過ぎず、主人公としてはあまりに存在感が薄いと言わざるをえない。 ただしそれは、決して主演俳優が力量不足なのではなく、風変わりな監督が悪役描写に力を入れ過ぎてしまっているからに他ならない。 監督の興味が、大富豪の蝙蝠男からは早々に外れ、気味の悪いペンギン男と、心を病んだ猫女に集中してしまっていることは明らかだった。 それは、まさに奇異なるものの存在性と生き様を愛するティム・バートン作品に相応しい世界観だった。 善と悪の対立という本来ヒーロー映画にあるべき分かりやすい構図を脇に追いやって、今作はひたすらに孤独な者達の邂逅を描く。 悪役たちは勿論、主人公であるバットマン=ブルース・ウェインも、孤独の中に生きる者の一人だ。 ティム・バートンが、この題材を選んだ理由は明確だろう。 個人的な話をすると、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」の鑑賞直後に、今作をまさかの初鑑賞。 映画史の文脈を鑑みると、なかなか稀有な映画体験だったと思う。 マイケル・キートンの俳優人生に乾杯!そして、ダニー・デヴィートとミシェル・ファイファーに拍手![CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-11 23:11:53)(良:1票) 《改行有》

37.  バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) “キャスティング”に込められた“巧み”な“悪意”。 このアカデミー賞受賞作品の成功の要因は、先ずそれに尽きると思う。 マイケル・キートンをはじめとする配役の妙が見事で、その配役に応えたキャスト陣がそれぞれ見事だったということだ。 かつてヒーロー映画の主演でドル箱スターとなり一世を風靡した俳優が、十数年の月日を経て、己の俳優としての存在性、そして父親としての存在性に疑問を持ち、満を持して挑んだ舞台作品の初演を前に苦悩する様を描いた物語。 プロットとしては、極めて“ありがち”である。 ただし、先に挙げた「配役」も含めて、「撮影」の手法、ストーリーの「展開」など、描き出し方がとてもユニークで、それ故にオリジナリティに溢れた作品に仕上がっているのだと思う。 まあ何と言っても、主人公の元スター俳優役にマイケル・キートンを選んだことは、この映画が成り立つための必須項目だったように思う。 二十数年前にティム・バートン版「バットマン」で“ブルース・ウェイン”を演じたこのベテラン俳優は、今作の主人公そのものだ。 彼がこの役を引き受け、ベストパフォーマンスをしてみせたからこそ、このコメディ映画は、モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)の要素も併せ持つ特異な世界観を醸し出すことに成功しているのだと思う。 主人公のリーガン・トムソンは、俳優としての栄光を取り戻すために、畑違いの舞台に挑む。 それを演じるマイケル・キートン自身も、己の俳優人生をある意味自虐的に体現し、自身のキャリアと俳優としての意地をかけた「演技」をしてみせた。 その様には、一人のハリウッドスターの“生き様”がまざまざと表れていて、物語を越えて感動的であった。 主人公は妄想と現実の狭間で終始苦悩をし続ける。 それは即ち「過去」との折り合いをつけるための闘いとも言える。 どんなに「過去」が「現在」にとって邪魔な存在になろうとも、自分の人生である以上、それから完全に決別することなど出来ない。 「現在」と「過去」を等しく見つめ、それぞれに対してどう折り合いをつけるか。人生とはそういうものなのかもしれない。 【過去=バードマン】を病室のトイレに追いやって、主人公が掴んだ【現在=現実】は、果たして何だったのだろう。 如何様にもとらえられるこの映画の結末は、それを目の当たりにした観客それぞれに語りかけてくるようだった。 「飛ぶのか?」「飛ばないのか?」と。[映画館(字幕)] 8点(2015-05-09 00:30:07)(良:2票) 《改行有》

38.  花とアリス殺人事件 岩井俊二監督の“絵コンテ”をそのままアニメーションにしたような映画だった。 正直なところ、アニメーションとしては稚拙だし、二次元のキャラクターに情感が溢れているとはとてもじゃないが言い難い。 紡ぎだされる物語自体も、随分とチープで散文的と言わざるをえないだろう。 何の思い入れもない人が、この作品を単体で観たならば、酷く退屈だろうことは否めない。 でもね。“一部”の人は、どうしたってこの映画を無下に否定することなど出来やしないと思う。 アニメーションであれ何であれ、再び「花とアリス」の世界観をスクリーンで堪能することが出来る。 その事実だけで、高揚感と幸福感を感じずにはいられなかった。 10年の時を経て、岩井俊二監督のもと、蒼井優と鈴木杏をはじめとする演者が揃い、同じ息吹を届けてくれた。諸々のセルフオマージュも含めて、この映画監督のファンとしては頬を緩めずにはいられなかった。 一つの映画として、決して優れた作品ではない。僕自身、想定よりも随分と満足度は低かった。 でも、また“彼女たち”に会えた。それだけで、僕はうれしかった。 今作の鑑賞直前に劇場版を鑑賞し直したが、今作を観終わった後にまた観たくなった。 “Web版”と“劇場版”と“殺人事件”を同封したコンプリートBOX出ないかな。絶対買うけど。[映画館(邦画)] 6点(2015-04-12 10:08:30)《改行有》

39.  花とアリス〈劇場版〉 6年ぶりに観たこの映画は、もはや「感動」なんて通り越す。そのあまりに眩しい映画という「結晶」に対して、悶え、嫉妬じみた感情すら覚える。 6年前、自分自身の結婚を控えた頃にこの映画を観ていた。 劇場鑑賞時から大好きな映画なので、それ以前もその後も事あることに“花とアリス”のことは思い出す。 そして、今日、自分の愛娘が幼稚園に入園した日に、またこの映画を観た。 なんだか、嬉しさも、憂いも、いろいろなことが入り混じって、たまらなかった。 最初から最後まですべてが名シーンなのだが、“親”というものになって数年経ち、愛娘の成長をまさに目の当たりにした日においては、蒼井優と平泉成との父娘のシーンが、無性に愛おしかった。 この映画は、恋と友情の間を奔走する少女たちの物語であり、少女たちの自立の物語であり、彼女たちを取り巻く家族の物語でもあるのだと思えた。 蒼井優と鈴木杏、今やこの世代を代表する女優となった二人の“競演”は、彼女たちの確かな実力を踏まえても、「奇跡的」だ。 こういう類いの「奇跡」を幾度も見せてくれた岩井俊二という映画監督は、やはり自分にとって特別な存在なのだと思える。 この映画の少女たちの人生はまだ始まったばかりで、映画の中で泣き笑うことなんて、ほんとに些細なことだけれど、その一つ一つにひたすらに向き合い、エネルギーを注ぎ、くよくよしたり、晴々したりする姿に、問答無用に感動する。 ユーモラスで眩しいノスタルジーと、そこに不意に垣間見せる厳しく切ない現実。それらすべて含めて彼女たちの日常。 嬉しいことも、辛いことも、楽しいことも、悲しいことも、みんなひっくるめて少女たちは生きていく。 その純粋で、無防備で、ひたすらな姿に、胸が熱くなる。僕はこの映画に対して、この先も何度も、“ウォーアイニー”と呟くだろう。[映画館(字幕)] 10点(2015-04-11 15:06:49)(良:2票) 《改行有》

40.  博士と彼女のセオリー 余命2年。そのあまりに残酷な“運命”を突きつけられ、“彼”は己の人生から逃避するように“彼女”の元を去ろうとする。 それでも、彼女は背筋をピンと伸ばして、彼の後を付いていく。 そして、眼鏡の汚れを拭き取り、キスをする。 その瞬間、彼は、彼女によって、その先の人生を生きる意味を与えられたのだと思う。 生かした者と、生かされた者。 両者は時の流れとともに、くるくると回転するように、入れ替わり、立ち代わる。 この映画は、現代が誇る“天才物理学者”の功績を描くものではない。 スティーブンとジェーン。この男女が共に過ごした「時間」を、ありのままに切り取ったような映画だった。 それぞれの人間の強さも弱さも平等に描いたこの物語は、必ずしも綺麗事ばかりではない。 過酷な人生の中で、当然起こり得る人間の感情の機微を、決して臆すること無く誠実に描き出したこの映画は、とても勇敢で、辛辣で、だからこそ“人間”に対する慈愛に溢れていると思えた。 スティーブン・ホーキングという物理学者が専門とする「量子宇宙論」なるものを正確に理解することなんて、僕には出来やしない。 けれど、それが「宇宙」と「時間」という絶対的な概念に対する果てしない探求であることは分かる。 この映画が、二人の男女の心模様を通じて描きつけたものは、まさにその「時間」の残酷さと慈しみだった。 “2年”という時間の限界を越えて生き続けた男と、彼を生かした女。 誰よりも明晰な頭脳を持ちながら、その考えを伝えるためには、誰よりも膨大な時間が必要となってしまった男。 時に奇跡的に、時に過酷に、「時間」は彼らを生かした。 ラスト、博士と彼女は並び、「見てごらん、僕らが築き上げたものを」と視界を共にする。 その瞬間、かつて彼が提唱した理論をなぞるように“彼らの時間”が巻き戻っていく。 彼らが辿った道程とその行く末が、幸福だったのか、不幸だったのか、それは他人には分からないし分かる必要もない。 それは彼らだけが、判別すればいいことだ。 ただ僕は、二人が歩んだ「時間」そのものが放つ光に涙が止まらなかった。 たぶん、この2、3年ほどの間でいちばん泣いた。 喜びも、悲しみも、全部ひっくるめて泣いた。 それは、「宇宙」と「時間」の真理を追求する天才物理学者を描いたこの映画において、とても相応しいことだったと思う。[映画館(字幕)] 10点(2015-04-01 11:33:31)《改行有》

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