みんなのシネマレビュー
BOWWOWさんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

◆検索ウィンドウ◆

◆ログイン◆
メールアドレス
パスワード

◆ログイン登録関連◆
●ログインID登録画面
●パスワード変更画面

◆ヘルプ◆
●ヘルプ(FAQ)

◆通常ランキング◆
●平均点ベストランキング
●平均点ワーストランキング
●投稿数ランキング
●マニアックランキング

◆各種ページ◆
●TOPページ
●映画大辞典メニュー
●アカデミー賞メニュー
●新作レビュー一覧
●公開予定作品一覧
●新規 作品要望一覧照会
●変更 作品要望一覧照会
●人物要望一覧照会
●同一人物要望一覧照会
●関連作品要望一覧照会
●カスタマイズ画面
●レビュワー名簿
●お気に入り画面
Google

Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 93
性別

投稿関連 表示切替メニュー
レビュー表示レビュー表示(評価分)
その他レビュー表示作品用コメント関連表示人物用コメント関連表示あらすじ関連表示
コメントなし】/【コメント有り】
統計メニュー
製作国別レビュー統計年代別レビュー統計
要望関連 表示切替メニュー
作品新規登録 / 変更 要望表示人物新規登録 / 変更 要望表示
要望済関連 表示切替メニュー
作品新規登録 要望済表示人物新規登録 要望済表示
予約関連 表示切替メニュー
予約データ 表示

評価順1
投稿日付順1
変更日付順1

1.  ファイト・クラブ 《ネタバレ》 タイラー・ダーデンが人畜無害な家族向け映画のフィルムに挿し込むたった1コマのサブリミナル映像は、なぜ「男根」なのか。この行為が猥褻物陳列を意図した単に道徳に反するだけのイタズラであるのなら、それは女性器でも構わないはずだ。レイティング規制の問題でそれが無理ならば、ソフトなポルノグラフィであってもいい。だがタイラーは、そして監督デヴィッド・フィンチャーは、大いなる意味をもって、あからさまな「男根」をそこに挿入する。またこの映画は、タイラーとマーラ・シンガーの獣じみたセックスやトイレに浮かぶコンドームなどの性的ニュアンスを多分に含むが、血色の悪いマーラや乳癌のクロエら登場する女たちにことごとく(アメリカ人男性の好む)グラマラスなセックスアピールが欠如していることが象徴するように、実は徹底的にセクシャルの対極にそのベクトルを向けている。つまり本作は言わば、女性器を拒む「男根」の映画なのだ。細胞レベルから、グロテスクに拡大された毛穴や皮膚へ、そしてジャックの喉奥に挿入されたそれこそ「男根」の如き銃創へと這い上がっていく導入部からしてそうだ。そこに同性愛的な意味合いを見出すのは早計だろう。『ファイト・クラブ』はあくまでポルノやセックスではなく「男根」そのものの映画だからだ。先述したサブリミナルの「男根」が勃起した状態のものでないのは、その意味でも必然だ。IKEAの家具を買い占め、コーヒー浣腸で美容と健康を追い求め、トレーニングジムで筋肉を美しくデザインする男たちは、さして必要に迫られているわけでもない鬱病対策に高価なプロザックを過剰服用し、その副作用で勃起不全となる。理想的な都市生活という強迫観念に去勢され「男根」を勃たせることすらままならない彼らは、それがゆえ、性衝動ではなく野蛮な暴力衝動を取り戻すことで「男」になろうとするのだ。高層ビルの窓辺に立ち、崩壊する夜景を見下ろすジャックとマーラ。キスすらせずにただ手をつなぐ彼らは、まるで少年と少女だ。だがそれは永遠に去勢されたはずの少年が、ついに性衝動に目醒める、その瞬間なのかもしれない。フィンチャーは最後の最後にイタズラめいた目配せをする。それはフィンチャーなりのメイヘム計画だ。頭を垂れた「男根」が、お前らはどうだ?と問いかける。「男」になれ、そして勃起せよ、と。それは映画を観る男たちへの覚醒の合図だ。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-01-02 21:13:01)

2.  プレシャス 《ネタバレ》 『ヘアスプレー』のニッキーちゃん以来の大型新人ガボレイちゃんもまた、ニッキー同様歌って踊れるおデブちゃんだ。だがそれは、あくまで彼女扮するプレシャスの空想する、夢の中でのお話である。幸せな人間にも不幸な人間にも唯一平等に与えられる夢想だけを握りしめ、プレシャスは直視できぬほど悲惨な現実からなけなしのその夢想へと幾度となく全速力で逃避を試み、そして無惨に引き戻される。歌もダンスもラブストーリーもあらかじめ奪われた彼女にただ残されるのは、盗んだフライドチキンを貪り食ったあげく懺悔するようにゴミ箱にゲロを吐く、そんな現実だけだ。だが、映画は彼女の抱えるそうした悲惨を、良くも悪くも中和する。彼女の受ける虐待の描写は、観る者の気分を適度に害する良心的レベルにとどめられ、安全な濃度に希釈される。もちろんそれは悪いことではない。だが節度あるその良識ゆえに、この映画がプレシャスをとりまく地獄の実態を曖昧なものにしてしまっているのも、また事実だ。それでも映画は開きなおったように言う。私たちは第三者なのだ、と。第三者なら第三者として出来る範囲で彼女を抱きしめたいのだ、と。そしてまさに良識的第三者たる彼女の担任教師やケースワーカーに委ねて、それを実行する。もちろんそれも悪いことではない。ボランティアとは多かれ少なかれそうした精神に基づくものだからだ。だが一方の当事者はどうだろう。「ボーイフレンドの一人もいなかったのに」、子を孕み出産し、さらにはHIVにまで感染するプレシャス。彼女の胃につまったグロテスクな「塊」が、易々と消化されることは決してないだろう。まるで彼女がいつか吐き出したフライドチキンのように、それは消化されることなく留まり続ける。プレシャスの記す「Why me?」その問いにも、答えなどない。それでも彼女は生きていく。逃げ場所としての夢想のかわりに、逞しく産み落とした子どもたちをその手に。そしてどんな答えなどよりも切望しつづけた、かけがえのない一言「I LOVE YOU」をその胸に。と、こう書くとそれなりに素敵なラストではある。だが、この結末に安易な希望を見出せるのは、結局のところ私たちもまた第三者であるからだ。少なくともそのことを、私たちは決して忘れてはならない。プレシャスのためにではなく、世界中のプレシャスのような女の子のためにでもなく、中途半端に慈悲深く尊大な私たち自身のために。[映画館(字幕)] 0点(2010-05-13 17:30:21)

3.  ファニーゲーム 《ネタバレ》 ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーは似ている。共に世界的に注目を浴びた欧州の映画監督であるというだけでなく、ヨーロッパ映画特有の陰影に富んだ映像も、観る者の神経を逆撫でするような挑発的なその作風も、まるで双子のように似ている。だが、二人が決定的に違うのは、不快感を煽るその挑発の種類である。フォン・トリアーの映画は、執拗にダークサイドを描きながら、ある種のねじくれた幻想として存在する。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも『ドッグヴィル』でもフォン・トリアーが描くのは、哀れな主人公を矢継ぎ早に襲う、幾多の悲惨な出来事だ。非現実的なまでに畳み掛けるそれらの不幸は、明確な作為をもって生贄たる彼女たちに与えられる。そうすることでフォン・トリアーは恐怖や絶望を第三者として愉快犯的観点から支配しようとするのだ。そして安全地帯からそれを見つめる私たちを共犯者に、恐怖や絶望を見世物=他人事とする、どす黒くも安全な「幻想」としての映画が出来上がる。一方、ハネケは身も蓋もないほどにありふれた現実として、恐怖を描こうとする。私たちは目撃者でも傍観者でもなく、当事者となる。そうして冷淡にハネケが突きつけるのは、今日も世界のどこかで起きているはずの、そして明日は我が身を襲うやもしれぬ、身近な、それゆえ恐ろしく生々しい、そんな絶望だ。ぎりぎりのところで精神の均衡を保っていた『ピアニスト』のエリカも、ささやかなバカンスを楽しむはずだった本作『ファニーゲーム』の家族たちも、ハネケは彼らを、明日の私たち自身の血腥い絶望の姿として、そこに置くのだ。そんな中にあって、あからさまに緊張感を削ぐテープの巻き戻しやカメラに語りかける犯人の構図だけが異質だ。場違いに(それこそフォン・トリアーのような悪意と作為で描かれる)「幻想」的なこの二つのシーンは、あまりに生々しくおぞましいスナッフフィルムの如き本作における、ハネケなりの良心だったのだろうか。そんな彼は自身によるハリウッド資本でのセルフリメイクを、ただ俳優を替えてそのまま焼き直しただけの、単なるコピー商品として完成させた。それはまるでヒッチコックの傑作『サイコ』を、変えるべきところなど一つも無いとばかりに、まるごと模したガス・ヴァン・サントのように。[DVD(字幕)] 8点(2010-03-14 00:47:49)

4.  ファントム・オブ・パラダイス 《ネタバレ》 「何の取り柄もなく人にも好かれないなら/死んじまえ/悪い事は言わない/生きたところで負け犬/死ねば音楽ぐらいは残る」最後の最後で歌われるこの歌詞の、何という身も蓋もなさ!そして何という負け犬根性!けれどこの負け犬の滑稽とかなしみこそが、デ・パルマ節なのだ。出ばなから一見して挙動不審で変人丸出しの主人公ウィンスロー。けれど彼は、だからこそデ・パルマ映画の主人公たりえるとも言える。焼き払いたいほどに憎悪する屈辱のレコードの型を、よりによって自らの顔にプレスしてしまう彼の姿は、豚の血をあびる『キャリー』や『BLOW OUT』において愛するサリーを救い損ねるジャックのように本作以降もデ・パルマが繰り返し変奏していく一つの主題、つまりは非力な負け犬にまさに烙印として下される逃れられない絶望、その原型でもある。仮面とマントと人工声帯をもって暗がりにのみかろうじて存在しえるこの怪人は、自分の歌も声も顔も人生もそして存在すらも奪った男スワンと愛する女フェニックスとの閨房を、ただ天窓の外から悲しく覗き見るしかできない。雨に打たれ慟哭するその無防備な背中を監視カメラに曝して。ラスト、それでもただまっすぐに愛するフェニックスへと差し出される彼の手。狂喜乱舞する観客たちの歓声は遠のき、美しい旋律に変わり、流麗なスローモーションでカメラが捉えるのは、ステージをみじめに這いずり回りそれでもまっすぐにフェニックスへと最期まで手をのばし続けるウィンスローの姿だ。それは哀れな負け犬の無様なセンチメンタルかもしれない。目を覆うほどに醜くみっともない男の滑稽な死に様かもしれない。フェニックスの声は彼の耳にはついに届かなかったかもしれない。それでも、そう、それでも。フェニックスはようやく言うのだ。その亡骸を抱きしめて。存在を奪われ、この世から消されてしまったはずの彼の名を。ウィンスロー、と。[DVD(字幕)] 9点(2010-02-23 02:01:01)(良:1票)

5.  ブタがいた教室 《ネタバレ》 例えば英語圏でPIGをPOAKと呼び換えるように、一頭の家畜が「肉」となり店先に並ぶまでの過程を、人は忌み嫌う。他の生命を奪い食べるという自然の摂理、その正当性と残酷を正しく認識する以前に人はそこから目をそらしてしまう。大人ですら真に理解しているとは言い難い(そしてそれゆえに避けて通ろうとする)この難題を子どもたちに語りあわせるコンセプトは素直にすばらしいと思う。しかしそれをきちんと描ききるだけの確固たる志が、残念ながらこの映画には無い。通り一遍の大風呂敷を広げ、あたかもタブーに挑むかのように見せながら、映画は肝心の核心に近づくたび安全地帯へと逃げ帰る。これが子ども向け映画で出来る限界であったと言われればそれまでだが、禁忌を語るに足る厳しさや中立性を一切欠いたその姿勢はあまりに生ぬるい。子どもたちが仔ブタを家畜ではなくペットとしてPちゃんと名付けてしまう発端の姑息な「誤算」からして、物語はさっそく肝心の食育から弱々しく目をそらし、語るべきテーマから大きく逸脱してしまっている。さらにはその生半可さが、ペットとして可愛がったブタを家畜として送り出すという、食育とはまるで別次元の(本来なら不必要な)辛い決断を子どもたちに迫るのだからなんともたちが悪い。トラックの荷台に乗せられたPちゃんを、まるで転校生を見送るように泣きながらセンチメンタルに追いかける子どもたち。だがPちゃんの行き先は、新しい学校などではなく、血腥い精肉工場なのだ。それでも映画は美しい別れの感傷にただひたるばかりだ。彼の行き先を自分たちで決定した(させられた)ということ、そのことの重い意味を子どもたちに最後まで理解させることなく。中途半端な食育の名の下に訳もわからぬまま決断を下させられた子どもたち、そんな彼らの胸に去来するのはおそらく学舎を共にしたクラスメイトとの単なる別れの悲しみでしかないだろう。例えば性教育を語るのに即物的なポルノ映像が必要ないように、精肉工場で屠殺され血を抜かれスライスされるブタを子どもたちに見せる必要は勿論無い。しかし食育を題材としながら終始核心から目をそらし続けるだけの無害きわまりないこの映画は、血の痕跡を丹念に洗われ清潔にパック詰めされたスーパーの豚肉と何ら変わりない、無難で欺瞞にみちたシロモノだ。私たちは今日もその安全な肉を買い、能天気においしいねと舌鼓を打つのだろう。[DVD(邦画)] 0点(2010-01-24 02:30:59)(良:2票)

6.  ブッチャー・ボーイ 《ネタバレ》 アル中の父親と、情緒不安定な母親。唯一の親友。そしてきらびやかに広がる涯てしない夢想。それが主人公の少年フランシーにとっての全てだ。ニール・ジョーダン監督が描くのは、少年のささやかなそんな幸福さえ容赦なく一つ一つ奪いとっていくこの世界の非情さだ。彼の人生はただただ失うことの連続だ。「故障した」母を、ろくでなしの父を、ささやかな家を、噴水の広場を、そしてついにはただ一人の友だちすらも。形ある確かなものを一つのこらず失った彼がかろうじて持つのは、涯てのない夢想、それきりだ。そんなたった一つ彼が持ちうる夢想がしかし孤独と絶望に次第に蝕まれ、あたかも捨て犬が野犬と化すかのようにその内在する獰猛さを顕わにしていくさまは、あまりに悲しい。彼はこの無慈悲な世界に屠殺されまいと決死で逃げまどう豚だ。そんな彼が今にも頭上に振り下ろされるその鉄鎚を回避すべく選ぶのは、まるで悪意と欺瞞にみちみちた屠殺者=世界そのものとして君臨するようなニュージェント夫人その人への反撃である。それは自らこそがおぞましい屠殺者(ブッチャー・ボーイ)となることを意味する。ここに至り我々が知るのは、映画の冒頭で描かれる滑稽なほど包帯でグルグル巻きにされたフランシーの姿が、まさに満身創痍となった彼の魂そのものなのだということだ。彼をそのまま現実の少年殺人者とシンクロさせるのは、野暮というものだろう。赤頭巾をベースに『狼の血族』を徹底して寓話として完結させたジョーダンらしく、本作もまたあくまで悪夢的寓話として昇華されているからだ。ジョーダンはまるで泥水を濾し砂金を見つけ出すように、ひどくグロテスクな模様の濾紙の上にこの孤独な少年の粉々の魂をただひたすらに、掬いとる。その砂金は観る者によっては毒々しく、あるいは時に美しく光り、そして胸を刺すだろう。やがて大人となったフランシー。全てを失い孤独なまま、あるのは変わらず夢想ばかりだ。けれど少年の悪夢とはうって変わったその金色の光景は雄弁に彼の心の有り様を物語る。夢の中の聖母マリアが彼にさし出す一輪の花。それは奪われるばかりの人生でフランシーが初めてその手にする、愛だ。フランシーの犯した罪を理解することは出来ない。けれどこれだけは言える。その美しい花の意味は、その大切な意味だけは、フランシーにも私にも変わりなく等しいのだと。そしてその花を携えて私たちは生きていくのだと。[ビデオ(字幕)] 10点(2009-09-26 10:26:06)

7.  BU・SU 《ネタバレ》 森下麦子はキャリー・ホワイトである。ブライアン・デ・パルマ監督の『キャリー』は、家庭にも学校にも居場所を見出せない孤独な少女を悲劇的に描いた傑作だが、市川準監督は怒りと悲しみのなかで死んでいくしかできなかった少女キャリーへのレクイエムとして、この映画を撮ったのではないか。そう思えてならない。『BU・SU』の主人公森下麦子は、キャリーのようにいじめの標的にされるわけではない。むしろ陰湿ないじめを目撃すれば独り敢然と立ち向かうような少女である。つまり彼女の孤独は周りのだれかのせいではなく、彼女自身が選んだ自分自身で乗り越えなくてはならない問題として描かれていく。周囲の人々も、キャリーを助けようとした熱心な教師や同級生のような慈善的な人物は描かれない。彼女の叔母や担任教師ら大人たちの、柔らかくも程よく距離感をもって接するような描写が秀逸だ。麦子は決して救いの手を乞うているわけではないからだ。世界の片隅でじっと押し黙り所在なさげに生きるこの少女を、カメラもまた一歩引いた距離をおいて捉え続ける。切り取られた東京の風景、そこに異物として埋もれるように溶け込む麦子、あるいは学校の駅を乗り過ごし千葉の住宅街をあてどなく彷徨する彼女の姿は、孤独な青春の心象のように忘れがたい印象をのこす。文化祭の演目で失態を演じ、会場の笑い者となる麦子。市川は、『キャリー』においては悲劇の引き金となったそのシーンをそっとスライドさせ、その哄笑のなかにキャリーが決して見ることのできなかった、笑わず真剣に彼女を見守る幾人かの顔を映し出す。それはおそらく麦子を見つめる市川準の視線でもあるのだろう。その目はさりげなくも温かく、そしてとてもやさしい。キャリーのように体育館を火の海にすることなくファイヤーストームに火を灯す麦子。彼女にそうさせたのは同級生津田君の半ば強引な牽引なのだが、劇中麦子にだれかの手がさしのべられる唯一のそのシーンの、なんと力強く感動的なことか!青春とはバイオレンスのない闘いなのだろう。自分との孤独な闘いを一旦終え、晴れ晴れとした顔を蛇口で洗う麦子。青春は決して美しいものではない。けれどだからこそ最後の最後ではじめて見せる彼女の笑顔は、たまらなくいとおしい。個人的には、青春映画において森下麦子を超えるヒロイン像はこの先も出ないだろうと思う。[レーザーディスク(邦画)] 10点(2009-07-20 00:11:26)(良:2票)

033.23%
100.00%
200.00%
300.00%
400.00%
533.23%
644.30%
71010.75%
81111.83%
93436.56%
102830.11%

全部

Copyright(C) 1997-2024 JTNEWS