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21. 僕だけがいない街
《ネタバレ》 状況設定と時間操作におけるいわゆるご都合主義も、開き直ってここまでやればこれも映画の特権と自分を納得させるしかない。
単に犯人探しの観点から云っても、校舎玄関でのズームを交えた主観ショット一つで誰にでも犯人の目星はつくだろうが、
それによって犯人であろう人物の善良な身振りに凄味が加わることになったと見ることも出来なくもない。
子供たちの佇まいもよく、虐待を受けている少女が石田ゆり子の作った朝食のウインナーを口にするショットなどに少し心を動かされたりもするのだが、
そこでは映画内部と外部がほどよくせめぎ合っている。が、それも長くは続かない。
少年と少女が互いに交換した誕生日プレゼント、赤い帽子と水色の手袋が何ら視覚的に活かされないのもはっきり怠慢である。
ラストで森カンナかその娘がそのプレゼントを大事に持っている、くらいのことが出来ないものか。
広げた掌、繋ぐ手のモチーフは幾度も反復しているというのに。何故、あの大樹も最後に活用するとかしないのだろう。はっきりと、拙い。
逆に、有村架純のほうには雨あがりの陽を浴びせるといった演出をもってくるのに、彼女の人物像あるいは(外部的)背景が薄いために大して心に響かない。
あれほど饒舌に語っていたはずなのに。語られる言葉が全般的に観念的すぎるのである。[映画館(邦画)] 4点(2016-03-24 23:39:06)《改行有》
22. ボーダー(2008)
前共演作の「疑惑」に応えるように、両俳優を律儀に同一ショット内に配置するサービス精神は痛いほど伝わる。狂気の犯罪者から法の執行者まで、正邪両面を幅広く演じてきた二人ならではのスクリーンイメージを活かしてサスペンスを煽る作劇も納得する。ただ、全体として二人の表情演技頼みの感は否めない。具体的捜査が描かれず、物語レベルでもアクションレベルでも面白味にも欠ける。モノクロのビデオ画面の序盤への倒置と、そのモノローグが醸す手遅れ感。犯人の主観ショットの数々。クライマックスで、闇の中を揺れるように流れる光彩などはノワールスタイルを彷彿させるのだが、それならば、雨なり、蒸気なり、鏡なり、自動車なりといったノワール的媒体をもっと充実させて欲しい。細部が乏しいし、街のムードがない。陰影もインパクトに欠け、不満が残る。[映画館(字幕)] 4点(2010-05-04 18:55:39)
23. 僕らのごはんは明日で待ってる
《ネタバレ》 ドラマの設定は手垢のついたパターンであり、そこに食事の趣向で
独自性を出したのだろうが、双眼鏡や青空や握手の演出も含めて小手先の印象である。
前作同様、不器用男が走る横移動の(これまた陳腐な)ショットをどうしても入れたいようだが、病院の待合室でパンにかぶりつく
シーンのほうがまだ力強い。
雄弁なダイアログは二人の個性の描写として許せるのだが、
食べ物の好き嫌いがないとか、イエスのように優しいとか、エピソードの中で描写
すべき事まで台詞で説明というのもどうなのか。
ラストが揺れる白いカーテンである割には、病院の屋上ではためく白いシーツを
画面に載せないなど、主題系としての不徹底が目に余る。[映画館(邦画)] 3点(2017-01-09 14:32:49)《改行有》
24. ボーン・レガシー
《ネタバレ》 序盤、二階建てのレイチェル・ワイズ宅の外壁を身軽に登ったジェレミー・レナーが、
階上の採光窓を蹴破って二階廊下の侵入者を拳銃で狙撃する。
家屋の構造と空間を活かした、アクション映画らしきアクションは後にも先にもこの1ショットのみと云っていい。
それ以外は、前三部作を踏襲した高速カット割りがことごとく映画の運動を殺す。
マニラロケによる車線無視の乱雑なカーチェイスも頑張ってはいるのだが、
そこで終わりでは締まらない。
少しは徒手格闘の見せ場も無くては、敵暗殺者の脅威が際立たないだろうに。
何よりも、延々と続く近視眼的なアップの連続、その芸の無さが耐えがたい。
[映画館(字幕)] 3点(2012-10-21 23:06:17)《改行有》
25. 僕等がいた 前篇
《ネタバレ》 同じ生田斗真出演、同じ釧路地区ロケでありながら、俳優にきちんと方言指導を施し、ロケーションを多彩に展開してみせた『ハナミズキ』の仕事のほうが数段誠実である。
主人公を取り巻く人間関係の展開、男女の距離の見せ方、映画的交通手段のあり方、季節の提示、携帯電話の用法など、様々な観点においてあまりにも演出が貧困でレベルが低い。
特に最初に挙げた二点のいい加減さは、作り手の単なる怠慢に他ならない。
方言は人物の人間味の演出と上京のドラマを語る上で必須の要件だろうし、主演二人の実力からすれば雑作もないことであるのは過去の出演作に明らかでありながら、それを課すことが出来ないのはスタッフよりもキャスト優位の環境ゆえか。それら手抜きの集積によってキャラクターの生活感が失われていく。
説話の効率の悪さも致命的である。
一例だが、生田斗真と吉高由里子が噴水のベンチで語り合うのを、本仮屋ユイカが見ていたというシーン。縦の構図一発で十分に語れるものを、俳優のスケジュールの都合かどうか知らないが、ショットをただただ官僚的に連ねひたすら説明に勤しむ。その繰り返し。
おまけに、使いどころを間違えているとしか思えない劇伴音楽がひたすら耳障りだ。
そうした陳腐で不出来なドラマと、要領の悪い語り口が駅での別れまで延々と続く。
結果、この程度のオハナシが自堕落に引き延ばされ、詐欺のごとく二時間超まで弛緩する。
そして結局、肝心の主演二人の人物像すら満足に描写できていないという体たらくだ。
後篇まで付き合う気は無い。[映画館(邦画)] 1点(2012-03-31 23:39:01)《改行有》
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1 | 5 | 0.53% |
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2 | 20 | 2.14% |
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3 | 38 | 4.06% |
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4 | 71 | 7.59% |
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5 | 103 | 11.00% |
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6 | 108 | 11.54% |
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7 | 215 | 22.97% |
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8 | 218 | 23.29% |
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9 | 114 | 12.18% |
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10 | 43 | 4.59% |
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