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1. ぼくは怖くない
《ネタバレ》 波打つ黄金色の麦畑、顔を這う蟻、窓辺に迷いこむ鳥、ミミズ、蜘蛛、針ネズミ、蜂、いなご、フクロウ、蛇、カエル、そして人間の大人たちと、その子どもたち。田舎町の美しい風景の中で自由に輝くそうした様々な生命と、廃屋の穴に隠され大人たちに脅かされるフィリッポの囚われた生命、その対比がなんともやりきれない。秘密の穴でフィリッポと出会う主人公ミケーレは非力な子どもだ。だが、彼はいくら大人たちにねじ伏せられようとも、フィリッポを救うべくひたむきに突き進むことをやめない。守護天使たるそんな彼の手引きで穴を抜け出し、麦畑で笑い転げ、ようやくつかの間その生命を謳歌するフィリッポ。英雄ではなく同じ非力な生命として、そんな当たり前を当たり前に彼に与えるミケーレは、まるで罪深い人間の胸にそれでも宿る最後の光のようだ。同様に、ラスト、逃げきる道を選ばず危険を承知で当たり前に瀕死のミケーレのもとへと舞い戻るフィリッポは、一転、今度は彼こそがミケーレの
守護天使となる。満身創痍となりながら、まっすぐに手をさしのべあう二つの良心。この映画が描くのは勇敢な少年の正義やヒロイズムなどではない。ここにあるのはただ、非力な人間がそれでも人間として根底に持ちうる良心の、ささやかでいて途轍もなく力強い、慈しむべきその姿だ。[DVD(字幕)] 7点(2009-11-26 00:34:16)《改行有》
2. 僕の彼女はサイボーグ
《ネタバレ》 「彼女」は言う。「実は私、すごく遠い未来から来たの。いまから100年も先の遠い未来から。タイムマシーンに乗って。驚いた?」そりゃ驚く。そしてあきれる。21世紀現在、こんな恥ずかしい台詞を臆面もなく人気女優に言わせる気骨ある映画監督が、世界に一体あと何人いるだろうか?クァク・ジェヨン監督は言わばシーラカンスだ。この古式ゆかしいシーラカンスは、アラをさがしては鬼の首を獲った気になるひねくれた「映画鑑賞」がいかにつまらないものかを、そっと教えてくれる。なにしろジェヨン映画はいつでもアラだらけだ。無限に溢れるアラを指折り数えあげたところでキリがないし、何の自慢にもなりゃしない。それじゃあここは一つ、この子ども騙しな監督にあえて真っ向から、丸腰で騙されてみようじゃないか!そう思えたら、しめたものである。この幼稚で荒唐無稽で破廉恥なトンデモSFが、まるで宝箱のようにきらきらとした輝きを放ちはじめる。『猟奇的な彼女』をワンパターンに踏襲する「強い女の子と弱い男の子」像も、お得意の未来人も、イグアナ鍋にカピパラのウンコにゲロといったお馴染みの悪趣味なジェヨン節さえも、だ。スクリーンやブラウン管を食い入るように見つめた子ども時代のように夢中になり、笑い転げ、胸を熱くさせる。そんな至福の映画体験が間違いなくここにはある。夢物語に騙される喜び、それこそが映画じゃないかと言わんばかりに。ジェヨン監督は魔法使いだ。魔法は、それを信じた者にだけ力を持つ。階段でくり返されるいつか見た光景はまさに魔法だ。一度目は涙声で強がる「彼女」を遠景で捉えていたカメラが、二度目のシーンで初めてその美しい泣き笑いを接写する。彼女の心を感じる、感じることができる、ように。強く美しい綾瀬はるかと、それをおっかなびっくり笑顔で包み込む可愛らしい小出恵介のコンビは、単なる『猟奇的な彼女』の焼き直しを超えて実に魅力的だ。本作はまさに綾瀬はるかの映画である。サイボーグの「彼女」と未来人の「彼女」、二人は同じ顔をし記憶チップを共有はしていても、別人だ。その別人の二人を一人に融合させる強引なハッピーエンドは、「彼女」がどちらもまず「綾瀬はるか」であるからという非論理的な子ども騙しにほかならない。けれどそんな反則技に騙されてみるのも、このさい悪くない。そう思える私は、シーラカンスの魔法に、まんまとかかってしまったようだ。[DVD(邦画)] 9点(2009-10-25 00:51:23)(良:3票)
3. 僕の彼女を紹介します
《ネタバレ》 チョン・ジヒョンを主演に勝気な女の子を描くというプロット、さらにはことあるごとに『猟奇的な彼女』と同調させてしまうジェヨン監督の節操のなさから、どうしても二番煎じの印象は拭い去れない。けれどこの映画は決して単なる焼き直しなどではなく、『猟奇的~』と表裏一体の、もう一つの愛の物語なのである。『猟奇的~』が二度めの恋と向き合えるまでの少女の葛藤と奇跡を描いていたとするならば、クァク・ジェヨン監督が本作で描くのは、猟奇的な「彼女」が痛ましくも一途にその胸のうちに抱え紐解かれることのなかった、隠されたもう一つの主題、つまりは一生に一度の忘れえぬ初恋の記憶である。本作の前半における、他愛なくもきらきらとまぶしいばかりの輝きは、まさに初恋のそれだ。水しぶきをあげて車の行きかう土砂降りの往来で、歓喜のダンスを見せるギョンジンとミョンウ。前作『ラブストーリー』でも熱心に描かれていたように、恋する二人にとっては雨に濡れることすら幸福な瞬間なのだ。愛を誓いあう時、人はだれしも永遠を信じる。けれどその永遠の魔法が解けた時、人はどう生きるべきなのか。コミカルな描写を織りまぜつつも、やがて世界に一人とりのこされるギョンジンを見据えるジェヨン監督の視線は真剣そのものだ。ロミオとジュリエットのような心中への希求、あるいはマグマのように沸きこぼれる悲しみや憎しみ、そのどうしようもなさ。それは一生に一度のかけがえのない愛を奪われた私たちの姿でもある。生まれ変わったら風になりたい。前半で語られるミョンウの言葉。紙飛行機に風車、そして頁を繰るパラパラ漫画は、風の存在なくしては意味をなさない。それはギョンジンの心象でもあるだろう。彼女の部屋を過剰なまでに埋め尽くすそれらのガジェットは、同時に決して埋めることのできないギョンジンのその胸の空洞を物語り、ミョンウの不在を浮き彫りにする。彼女の魂を浄化するようなラストは、まさに映画ならではの陳腐なファンタジーである。けれど陳腐なファンタジーを信じるその力こそが、私たちに人生を生き続けさせもする。唐突にキョヌが登場し強引に『猟奇的な彼女』へとシンクロするラストシークエンス。けれどそれは単なるお遊びではない。なぜなら、彼女の進むその先、その指標こそが、エピソード2としてあらかじめ用意されていた『猟奇的な彼女』という物語にほかならないのだから。[DVD(字幕)] 9点(2009-10-13 22:05:21)
4. BOY A
《ネタバレ》 この映画には重大な欠点がある。話の核に凶悪少年犯罪を持ってくる以上はどうしたって社会派映画として、まず、描かれなくてはならないはずなのだ。しかしこの映画は社会派映画としてはあまりに甘く、そして弱い。息苦しく痛ましいまでに厳正でストイックな描き方に徹した『デッドマン・ウォーキング』のような映画と比べれば、その差は歴然だろう。『BOY A』は主人公ジャックの心やさしい人間性にふれる描写ばかりをたんねんにくりかえしながら、殺される少女はわずか10才にして不純と悪態のかたまりのような存在として描く。さらには殺害の経緯や、彼がどこまで事件に加担したのかなどといった、彼に分の悪い核心はことごとく省かれてしまう。どの国においても他人ごとではない、のっぴきならない問題を提示しておきながら、たとえば日本における酒鬼薔薇などには該当すべくもない特例のような少年像を打ち立ててしまう「逃げ」は、反則以外のなにものでもない。しかし、なのである。そこまで徹底してジャックを現実社会における我々の偏見や先入観から切りはなしたおかげで、この映画の青春映画としてのもう一つの側面が、まぶしいばかりの輝きをもって胸に迫ってくるのもまた、事実なのだ。巣立ちをむかえた雛鳥のようなジャックの姿を、映画は丁寧に切りとっていく。たとえば友だちができること。友だちとクラブで踊り、酔っぱらうこと。遊園地に行って笑い転げること。ビールを片手にたまには真剣に友情を誓い合うこと。恋人ができること。恋人とデートすること。本来ならば空白の時間に当たり前に起こるはずであったそんな他愛のないありふれた青春の光景の一つ一つを、はじめて触れるものとしてまぶしそうに恥ずかしそうにそして何よりうれしそうにかみしめる彼の笑顔は感動的だ。画面は自然光に満ちている。父親がわりのソーシャルワーカーからナイキのエスケープを贈られる冒頭から一貫して彼には柔らかな光が差している。それはまるで神の赦しを表しているかのようにとてもやさしい。人間社会の不穏に反して。まぶしい夢がある日突然終った時、塵のようにあっけなく吹き飛ばされて行く彼の姿が胸を貫く。総武線から見るディズニーランドしかり、遠まきに眺める遊園地はなぜあんなにも荒涼としていて、そしてさびしいんだろう。致命的な欠陥をもつ、けれどたまらなくいとおしいこの映画を愛していこうと思う。[DVD(字幕)] 9点(2009-07-21 21:36:25)(良:1票)
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