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プロフィール
コメント数 1338
性別 男性
自己紹介 【名前】「くるきまき」(Kurkimäki)を10年近く使いましたが変な名前だったので捨てました。
【文章】感想文を書いています。できる限り作り手の意図をくみ取ろうとしています。また、わざわざ見るからにはなるべく面白がろうとしています。
【点数】基本的に個人的な好き嫌いで付けています。
5点が標準点で、悪くないが特にいいとも思わない、または可も不可もあって相殺しているもの、素人目にも出来がよくないがいいところのある映画の最高点、嫌悪する映画の最高点と、感情問題としては0だが外見的に角が立たないよう標準点にしたものです。6点以上は好意的、4点以下は否定的です。
また0点は、特に事情があって採点放棄したもの、あるいは憎しみや怒りなどで効用が0以下になっているものです。

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261.  幽幻道士4 《ネタバレ》 冒頭で映る水平線が左に傾いているのがわざとなのか雑なのか気になるが、続いて変に残虐な場面を見せつけられるのは気分が悪い。ホラーだからといって妊婦まで脅威にさらすのが子ども向け映画にふさわしいとも思えない。 本来は子どもら主体の映画だと思えばこそ少々のことは笑って許せていたわけだが、今回やたらに下ネタだらけなのは誰に見せるための映画なのかわからない。原語はともかく吹替のせいで下品になっている面もあるかも知れないが、美女の寝所の場面などからすればもとからこういう姿勢で作っていたことになる。 コメディとしても笑えるところがほとんどなく、わずかに笑ったのは「見なかったことにしよう」「別々に恋人作って...」という台詞と、終盤で特殊霊魂が敵の頭に桶か何かをぶつけた場面くらいのものだった。吹替に出る70年代のフォークデュオの懐古などは鬱陶しいというしかない。 最後の対決場面はアクションに加えて光線技まで出る派手な戦いで、危機につぐ危機で手に汗握る展開といえなくもないが、個人的にはいつまで見ていれば終わるのかと延々待たされる感じだった。東映戦隊シリーズ並みに、ドラマ部分を含めて全体を30分番組ぐらいに詰めれば見やすくなったかも知れない。 ただし最後の絶体絶命の場面で突然救いの神が降臨したのは、なるほどこういう手があったかと少し感心した...最初からいたのはわかっていたはずだが存在を忘れていた。 登場人物としては、新顔の保安隊長が「ジョー隊長」というのは宍戸錠に似ているからかも知れないが、それをいえば大人テンテンは志穂美悦子のようでもある。宿屋の主人は誰にたとえるのが妥当かわからないが、個人的趣味でいってしまえば川島なお美?を思わせる現代的美女だった。ちゃんと大人の女性で見どころがあるのは悪くない。 また子どもテンテンはほとんど出ないが、孤児連中のうちの女児2人(特に年長の方)がこれに相当する存在だったらしい。この2人が白塗りメイクで大人テンテンに捨て台詞を言ったところの表情は可愛かった。ちなみに年少の方は監督の娘だったとのことである。 ほか余談的に少し真面目なことを書くと、今日は15日で満月だという台詞があったのは太陰暦というものの基本を思い出させられた。[インターネット(吹替)] 3点(2021-11-27 11:27:44)《改行有》

262.  幽幻道士3 《ネタバレ》 今回は広州という地名が出ている。これが広東省の広州だとすれば、カンフー/キョンシー映画の都・香港に近いということ自体は物語の中身と関係ないわけだが、それとは別に孫文の出生地(現在の中山市)にも近く、創建当初の国民党とも縁の深い土地と思われることから、製作当時の感覚にふさわしい場所設定という納得感がある。 ちなみに以前からの登場人物であるデブ署長というのが今回は「大隊長」を名乗っており、上司の「司令官」に媚を売る立場だったというのは、大陸各地に割拠していた軍閥の部隊指揮官のようなものと思えばいいか。部隊の根拠地に尋問用の責め道具が常備されているのは物騒な雰囲気を出していた。 今回は最初に1、2話を回顧するパートが入っているが、前回が悲劇的な結末だったことを受けて変に陰鬱で悲しい物語のように語られており、そこから始まった第3話でもいきなり大人世界の暴力を見せつけられるので殺伐とした世界に感じられる。その後になって笑いを取ろうとした場面もあったがこの流れでは笑う気にならず、面白いとも思わないまま時間が経過するので大人としては正直つらい。必然性不明の新キャラクターがやたら登場するのも戸惑わされる。 終盤は8人組のスーパー戦隊のような展開で盛り上げて、最後だけ唐突なハッピーエンドで能天気路線に回帰したようだったがもう遅いという感じだった。こういう半端くさいコメディ映画に真面目につき合うのも限界がある気がして来たが、これで当時の児童が喜んだのであれば自分として言うことはない。 ちなみに序盤で出ていた「玉蛙」は、国立故宮博物院にあるという白菜のような高級美術品なのかと思って期待したが、大して役に立たないまま出なくなったので落胆した。また「マーボおばさん」役の尤美芳(尤美方)という人は、おばあちゃんというには若く見えると思ったが、「蘋果新聞網」台湾版の2020.6.28付け特集記事の時点で72歳(喫茶店経営)とされているので、当時は30代末期頃の年齢だったと思われる。それをいえばおじいさん役の役者も50代だったわけだが。[インターネット(吹替)] 4点(2021-11-27 11:27:42)《改行有》

263.  幽幻道士 《ネタバレ》 テンテンちゃんがかわいいという噂は知っていたが実物は初めて見た。 まずこれはいつの時代のことなのかが気になるが、劇中の町では映画興行などもしていたので近代なのは間違いない。警察署に五色旗のようなものが見えており(色と縦横が本物と違うが)、児童の保護育成の方針なども近代国家を思わせるので、例えば1912年の中華民国成立から20年代頃までの大陸のどこかと考えれば、製作当時の台湾にも連続性のある設定ということになる。ちなみにどうでもいいことだが、警察署の中にいろいろ掲示されていた標語のようなものは、後に別映画で見た現代の警察署にも似たものがあったので、実際にこういう習慣があるらしい。 なお鳩ポッポは文部省唱歌であるから本来は日本の歌なのは間違いない。これは現地の観客にとっても違和感なく受け入れられる歌だったのか。 物語としては適当な作りで、ドラマらしいものがあるのかないのかわからないが、それでも90分もあるのが大人にとっては正直長い。昭和の邦画に出るような肉付きのいい女性の下着姿などは本当に子どもに見せたのかと思うが、こういうのは保護者向けのサービスと思えばいいのか。 ホラーといっても子ども向けなので怖くも何ともないが、キョンシーというものの性質がいろいろ語られるのは勉強になる。要は火葬してしまえばいいらしいが、あえて故郷で埋葬するための運搬方法として考案したというのはなるほどと思わされた。なお「殭屍」とは硬直した死体の意味だろうが、それにしては動きが柔軟過ぎる場面もある。 テンテンちゃんに関しては、かわいいというより高慢な美少女かと思ったが、賢そうでいて分別が足りずに自ら面倒を起こしたところもあって完全無欠でもない。終盤の対決でも頼れそうに見せておきながら、突然の危機に驚いてキャーといって逃げ出したところは可愛かった。この美少女とキスした奴には嫉妬したが、その後に爺さんとキスする展開には笑った。 ほか今回は、これが現代の老人が子どもらに語った物語だったことを示す短い映像が前後についている。最後のオチへの子どもらの反応が微笑ましい(失笑)。[インターネット(吹替)] 5点(2021-11-27 11:27:41)《改行有》

264.  夏時間 《ネタバレ》 宣材写真からは昔懐かしい田舎の風景を想像するが、撮影場所の家は仁川にあるとのことで、実際は大都市圏の邸宅の話である。ただ庭に対して開放的な家の造りとか、菜園とか蚊帳(ピンク色!)とかが郷愁を誘う雰囲気なのは間違いない(蚊取り線香は見えなかった)。祖父の代にはかなり余裕のある一家だったように思われる。 物語としては、主人公の夏休みに起きた家族の出来事が淡々と表現されている。現実に起こりうることの範囲で作られていて“小さな奇跡”も何もなく、極端に作為的な展開もないので反発を覚えることもない。 全体的に受取りの自由度が高いようには見えるが、一般的には大人の事情や他者の動向に左右される主人公の心情に着目する観客が多かったらしい。しかし自分としては年齢性別のせいもあり、どちらかというと解体しかけてなお家族というものが持つ包容力や、癒しの力や伝える力といったものを感じた。 個人的事情としては自分の立場に近い(次第に近くなって来た)祖父に目が行く。衰えてはいるが家族の和を気にかける人物だったようで、今回たまたまながら家族に看取られたのは幸いだったと思われる。若干意味不明だったのは昼夜の逆転ということで、夜中の3時半に音楽を聴くなど高齢のせいとも思えるが、息子にしたという悪戯の話を聞けば、元からそういう変な遊び心のある人物だったのかも知れない。壁にかかっていた記念写真の時以降、この家で積み重ねられた家族の歴史を思わされる気はした。 もう一つ印象的だったのは、思いがけず優しい映画だったということである。主人公はいろいろな相手に反発していたが特に悪人はおらず、身内は家族思いの人ばかりで一緒の時間を大事にしている。叔母の夫が悪魔というのも恐らく誇張があり、また主人公の彼氏というのも善良な男のように見える。全体的に見ても、表立って誰をも傷つけようとせず、静かに思いを語ろうとする映画のように感じられた。 ほか登場人物に関して、主人公は整形を考えるよりも今のままで自信をもってもらいたい。またその弟はなかなか愛嬌のある奴だったが、御霊前でダンスを始めたのはいいとして(祖父も笑って見ていただろうが)、歌詞がひどいのは笑わされた。[インターネット(字幕)] 7点(2021-11-20 10:43:39)《改行有》

265.  あなたを、想う。 《ネタバレ》 監督は台湾出身で主に香港で活動した著名な女性俳優、主演(妹)はマカオ出身、母親役はマレーシア出身(華人)とのことで、中華圏的な広がりはあるが映画自体は台湾限定の話である。撮影は東海岸の緑島と台東、及び台北の3か所にわたっているが、現地の風景として個人的にはそれほど印象に残るものはなかった。 物語としては、青年期の後半になった兄と妹と妹の恋人の3人が、それぞれのきっかけで親へのわだかまりを解消する話のようで、夜の幻影とか白昼夢とかでファンタジックな印象を出している。原案(脚本)は日本人だったとのことで、この映画のように、一般的な人間ドラマに心霊現象とか超時空展開を平気で入れ込むのが台湾でも普通なのかはわからない。 解説によると本来3つの短編だったとのことで、3人の男女それぞれの物語を1本にまとめた形になっているが、しかし1人だけ親が別なので、構成上の均衡を失している感はある。ラストは4年後くらいだったようだが、その間に目の治療とか仕事をどうしたのかといったことは捨象され、また兄の心の変化も不明瞭だったため、3人それぞれの物語としては不全感が残った。また終盤を(バス以降)適当に都合のいい展開にして、取ってつけたような結末に飛んだのも感心できない。 ほか単純に意味が取りにくいところもあり、特に台北にいた金髪オヤジに関しては、父親が娘と息子に言いたいことがあって来た、という意味かと思ったが(妹の恋人の方はそうだったと思うが)、演者(※)が違うのでそうともいえないのは変だった。あるいはこれが母親の語った天使かも知れないが、何にせよ超自然的なものに頼りすぎではないかという気がした。 ※酒吧調酒師:瞿友寧、役者というより映画監督・TVドラマ演出家らしい。 個別の場面としては、台風の夜に兄が実家で「母さん」と呼びかけたところは感動的だった(ホラーっぽいが)。また妹の恋人が突堤で出会った釣り人がニヤリとしたのも悪くない。終盤では、妹がたまたま立ち会った出産が本物のように見えたのが強い印象を残した。大事な場面の直前で、過去の記憶を断片的な映像として蘇らせるのは効果的だったかも知れない。 自分としても、当日の夜に見た夢がこの映画の影響だったらしいので、心を動かされる映画だったというのは間違いない。[インターネット(字幕)] 6点(2021-11-13 09:29:24)《改行有》

266.  生き人形マリア 《ネタバレ》 フィリピン映画である。場所についてはヴァレンズエラ市というところが協力していたほかケソン市の表記も見えており、要はマニラ首都圏での撮影である。言語はFilipinoだそうだが(タガログ語ベースの標準語?)、ときどき文章単位で英語が混じって聞こえたのは普通にあることなのかどうか(上流階級だけか)。ちなみに「人形」は「manika」だったらしい。 なおパクシウpaksiwというのは一般的な家庭料理らしいが、酢で煮るものだそうで個人的には苦手かも知れない(食わず嫌いはよくないが)。 内容的には、序盤の大仰で能天気な軽さ(バス事故の場面を含む)など見ていると、現地のTVドラマはこんな感じなのかと突き放した気分だったが、そのうちちゃんとホラーらしい雰囲気も出るので安心する。死んだ少年の性格付けなどよくわからない点も多々あったが、普通に娯楽として見られる映画ではあった。 物語的には、特にまとまったテーマのようなものは読み取れなかった。保護者3人は子ども/人形への態度に違いがあったようで、そこにドラマ的な意味があったかも知れないがよくわからない。一つ思ったのは、レオノーラの養父は養女を溺愛していたようで、本当に養女(幼女)を生きた人形のように思っていたことが結末の差になったのかも知れない(不明だが)。 ホラーとしては人形が主役だが、まつ毛の付け方などは観客の突っ込みを誘う意図としか思えない。怖さを追求しようとしたものでもないようなので、笑って見ているのが妥当な態度と思われる。ちなみに原題がマリア・レオノーラ・テレサの順なのがなぜかは不明だった(所得順ではない)。少なくとも日本人的には、マリア・テレサ・レオノーラの方が語呂がよさそうに見える(所得順にもなっている)。 なお監督はTV・映画界でかなり活躍していた人物らしいが、2016/2/29に死去されたそうで(49歳)、同じ監督で続きは見られないことになる。 登場人物としては、マリアの母(の体型)よりもテレサの母の方に目を引かれた。また悪気のなさそうなマリア家のメイドの人はかわいそうだったが、この人が寝る時に、枕だかクッションだかを股に挟んでいたのはどういう習慣なのかと思った(朝まで同じ格好)。しかし別に性的な意味があったわけでもなく、腰に負担がかからないとかよく眠れるという理由で、日本でもこれをする人々が結構いるらしい。映画に出すからには現地でも普通のことなのかも知れない。[インターネット(字幕)] 5点(2021-11-06 10:42:04)《改行有》

267.  屍憶 SHIOKU 《ネタバレ》 台湾と日本の合作ということになっている。台北市の警察が出ていたので場所は普通に台北らしい。 ホラー要素としては、台湾で有名な(多分)「冥婚」という風習を使っている。これは日本にもあると書いてあったが、しかし山形県内陸地方にある「むかさり絵馬」は亡くなった人物に架空の相手を結び合わせる形なので、この映画のように生きた人間を犠牲にするものではない。劇中で過去に事件のあった1930年は日本統治時代であり(映画「セデック・バレ」の霧社事件と同年、映画「KANO」の前年)、また何か日本がからむのかと思ったら何も関係なかった。関係なくて結構だ。 物語としては中心人物の男と女子高校生の話が別々に進んでいき、最後に一本にまとまって終結する。途中の展開が緩くて長いと思ったが、終盤に至ってまとめにかかり、それまでの断片が次々つながっていく展開は意外感があった。 また日本が参加しているだけあって邦画ホラーっぽい雰囲気もある。しかし貞子でも伽椰子でもないゾンビ風の亡霊が、霊能者の前でしおらしくかしこまってうなだれる姿は珍しい。またその霊能者が「他に方法がない」と新人らしく自信なさげに言っていた様子も好感が持たれる。 ほか女子高校生を水泳部の設定にして水着姿を水中撮影するなどは、日本でも以前に盛んだった(今も?)ロリコン趣味丸出し映画のようだった。ただし出演者は20代だろうから未成年者はいないと思われる。 出演者としては日本人も二人出ており、うち田中千絵という人(「王依涵」役)は他の台湾映画にも出ている有名人である。もう一人の池端レイナという人も日台両方で活躍中とのことで、今回出番は多くなかったが、かわいいまま終わる役でよかったとはいえる。 ほかの登場人物として、中心人物の女子高校生は16歳(昨日まで15歳)の設定で、見た目は素朴で幼い感じの普通に可愛い少女だったが、演者のVera Yen/嚴正嵐という人は実は1989年生まれだそうで、この映画の頃には26歳くらいだったことになる。10歳ごまかしても通用するのは元がよほど童顔で可愛い人だということらしく、この人にもちょっと意外感があった。特に病室で見せた情けない顔は極端に可愛い(かわいそうだ泣くな)。 また中心人物の男に「イーハン」と呼ばれていた女性役(Nikki Hsieh/謝欣穎)も忘れがたい魅力的な風貌だった。出演者の面でも見どころがあるのはいい映画というしかない。[DVD(字幕)] 6点(2021-10-30 13:27:37)《改行有》

268.  KANO 1931海の向こうの甲子園 《ネタバレ》 台湾では大好評だったようだが媚日映画との批判もあったようで、また台湾の有名な映画賞を受賞できなかったのは審査委員会の大陸関係者に妨害されたからだとの噂もあったらしい。そういうのも台湾社会の様相の一端と受け止めるしかない。 一方で日本では概ね好意的に扱われたらしく、当然ながら朝日新聞も協力している。個人的に不快だったのは、当初あからさまに先住民を侮蔑していながら、風向きが変わると簡単に転向する軽薄な記者が出ていたことで、こういう人格低劣な日本人を毎度見せなければ済まないのなら日台関係の映画などもう見なくていい気がした。多くの日本人の感覚では、無名の三民族混成チームが頑張っているというだけで応援せずにはいられない気になって当然であり、そういう一般民衆の姿も映像に出していたのは間違っていない。 なお台湾の大作映画は2時間に収めるつもりがないのが時々あるようだが、さすがに3時間は長いのではないか(それをいえば「セデック・バレ」は本来4時間超だったわけだが)。札幌の投手の後日談など必須だったのかという気はした。 その他の事項として、八田與一という日本人は野球に関係あるのか疑問に思ったが、それを含めてこの時代を表現すること自体が製作目的の一部だったのなら変ともいえない。「嘉南大圳」というものが、現地の人々の暮らしの向上に役立ったのであれば日本人としても喜ばしい。 また外国映画なのに台詞がほとんど日本語なのは顕著な特徴点である。正直聞きづらいところもあったが、しかし当時の日本語が、現代で事実上の世界言語になっている英語のように、三民族の意思疎通と相互理解の基盤だったことの表現ではあるかも知れない。 野球に関しては、王貞治氏が顧問について演者も経験者を揃えたとのことで、試合の時間も長いが苦にならず、また決勝戦でも惜しかったが悔いは残らない感じをうまく出していた。ここでの選手からは、その後に日台の野球界で活躍した人物が多く出たとのことで大したものである。 ほか個別の場面では、「アウト!」を言い合って大笑いしていたのと「髪型崩れる」というのは笑った。なかなか愛嬌のある連中だった。 [雑記] 映画自体と直接関係ないが調べたので書いておくと、映像に出ていた嘉義市街地のロータリーは日本統治時代の都市計画でできたものらしい。噴水がいつ作られたかはネット上で探せなかったが、地元出身の陳澄波という画家の「嘉義中央噴水池」(1933)という絵に描かれているので劇中年代にも存在したと想像される。 現在は、この映画に出た呉明捷投手の像が建てられていてストリートビューでも見られるが、噴水の方はしばらく止まっていたのが2021.7.27に再稼働したとのことで、その際に嘉義市長が、彼の決して諦めない精神が新型コロナウイルス感染症予防の精神にもつながる、と述べたとのことだった(「自由時報」の記事より)。だから何だということもないが地元ではそのように思われているらしい。[ブルーレイ(字幕)] 6点(2021-10-23 08:58:23)《改行有》

269.  セデック・バレの真実 《ネタバレ》 台湾の先住民(台湾での呼称は「原住民(族)」)であるセデック族に関し、1930年の「霧社事件」とその後の経過を扱ったドキュメンタリー映画である。日本人が見る場合、この事件について事前にそれなりの理解があるか、または劇映画「セデック・バレ」(2011)を見ていないとわかりにくい。逆にその映画を見てからだと、このドキュメンタリーが製作の背景になっているのがわかる。 題名の「餘生」とは「生き残った者」の意味だそうだが、現代で存命の人は基本的にいないので、子孫が何組か登場して当時の言い伝えや自らの思いを語っている。うち親子3人はセデック族の発祥地とされる「プスクフニ」(Pusu Qhuni)を訪ね、自分らが何者なのか探る旅をしていた。 この映画を見た限り、現在のセデック族は漢人社会に同化しつつあるようで、若い世代は言葉も話せず、今後もエスニック集団としての実質を維持していけるか難しいように思われる。さらにいえばセデック族というものが、いわゆる民族自決的な考え方を適用する以前の、今やっと民族意識を形成しかけた段階にも見える。事件の頃にあった集落間対立がすでに解消されたことを見せようとした場面もあったが、ここは正直ちょっと会話が微妙だった(笑)。 しかしこの映画としてはとりあえず、各人が民族としての自覚を劣等感ではなく誇りとし、他人に見下されたりしないよう、それぞれ子どもを立派な人に育てていかなければならない、という意味の言葉で締めていた。かつて彼らを見下していた日本人はもういないので、この映画では字幕でいう「台湾人や中国人」(本省人と外省人のことか?)に対して彼らの立場を訴える形になっている。 日本人としては今の彼らと立場が違うので、この映画から直接何かをメッセージとして受け取るのは難しい。しかし未来のことを考えれば、例えば日本国が近隣大国に併呑されるとか、グローバル社会の中で解体させられようとした時にどうするのかが問われているといえなくはない。 ほか特徴点としては、民族としての存在について外部からの勝手な意味づけを排する意図があったようである。日本統治時代には文明化すべき未開人の扱いだったわけだが、国民党政権下では反日宣伝のため一転して「抗日英雄」として賞揚され、それでかえって人々の実像が歪められたところもあったらしい。邦題の「真実」にはそういう意味も込めてある。 また教育はやはり大事だという考え方も出ていたように見える。日本統治時代の教育政策はかえって悲劇を生んだ面があったとのことだが、しかしその後の子孫も教育には熱心だったらしく、最後の締めのナレーションでも、他人に見下されないためには教育が必要だということを述べていた。実際に登場人物の一人で、子育て後に大学院に入ったという女性はいかにも知的な人物だった。 ほか女性というのは本当に強いと語る人物もいて、勝手に死んでいった男連中ではなく、女性こそが生命を後世につないだのだということも表現されている。見て面白い映画ともいえないが(時間も長いが)、劇映画と違って実在の人物の語る言葉は重かった。[DVD(字幕)] 6点(2021-10-16 14:28:53)(良:1票) 《改行有》

270.  セデック・バレ 第二部 虹の橋 《ネタバレ》 第一部では決起の理由が不明瞭だと思ったが、この第二部の最初で主人公が、すでに虹の橋を渡る資格は得たのであとはいかに死ぬかだけだ、と言ったのはいきなり落胆させられた。第一部で子孫のためとか言っておきながら、実は自分の来世しか考えていないのでは現世の役に立たないではないか。そういう文化だからといえば否定もできないが、少なくとも現代人の感覚でいえば、後に残される人々のことを考えない行動は褒められたものではない。主人公の渋い風貌に騙されて、何か今後の戦略のようなものがあるはずだと期待していたのは大間違いだったらしい。 例えば最後にテロップで、この事件がきっかけで総督府がそれまでの政策を改めたとでも書けば、主人公の行動にも現世的な効果があったことになり、現代人の観客にも納得しやすい映画になっていたはずである。しかしそれをする気がなかったということは、外部からの勝手な意味づけを排し、まずは当事者の意志を表現するのがこの映画の基本姿勢だったということか。そうすると当方が勝手に期待した今後の戦略などではなく、逆にそういう文明的な理性をあえて切り捨てたのが主人公の決断だったと取るべきかも知れない。来世のこともあったにせよ、それを含めた民族の誇りが最終的には問題にされていたようでもある。 なおそもそも日本人が来なければこんな惨事は起こらなかったといえなくはないが、それだと清代以来の化外の民のまま、山中に籠って近隣同士で首を取り合う暮らしを続け、20世紀の人類社会の一員にもなれなかったことになる。それでよければ別に構わないが、仮に日本が来なくても国民党勢力が同じことをしただろうし、劇中でも主人公本人が言っていたように、要は文明と野蛮の戦いだったというのがこの映画としての見解らしい。終盤で妊婦が変にわざとらしく優しく扱われるとか、少年が戦士として認められなかったのは、日本人が明らかに文明人の立場にいたことの表現と思われる。 ところで個人的に納得できないのは日本人の扱いである。終盤の台詞で、彼らには日本の武士道と同じ精神があるなどとわざわざ言わせていたが、しかし日本の武士が劇中住民のように、女子供は放置して(多くが自害)男だけ勝手に死んでバンザイなどと思っていたわけはない。家の存続と子孫の繁栄のため、今いる自分が生命をかけるというのが本来の武士ではないか。最後に桜を咲かせておいて、散るのは覚悟と思わせただけで日本精神を表現したつもりらしいのも薄っぺらい。少なくとも自分にとっては、外国人の手で戯画化された日本人像を見せつけられたようで極めて不快な映画だった。 ほか今回の登場人物として、劇中の傲岸な司令官は日本軍国主義の権化のようだったが(陸軍悪玉論か)、このハゲは主人公に首を飛ばされるのかと期待していたら、最後に何と日本精神の代弁者として再登場したのは呆れさせられた。その場にいた善人面の警官も含め、日本人として全く誰にも共感できない映画だった。そもそも全般的に人物描写が浅い。 ちなみに特に日本人役は全員が素人役者のように見えるが、うち第一部で惨めに死んだ警官役の一人は、後の「KANO」(2014)にもパパイヤ教師役で出ていて気分が悪かった。さらにいえば、この映画に出ていた日本人役者は二度と顔を見たくない。[DVD(字幕)] 3点(2021-10-16 14:28:49)《改行有》

271.  セデック・バレ 第一部 太陽旗 《ネタバレ》 台湾の先住民(台湾での呼称は「原住民(族)」)を扱った映画で、具体的には1930年の「霧社事件」に焦点を当てている。首狩り族というと印象は悪いが、昔の日本でも手柄の証拠として首級を持ち帰るのは普通にあったわけで、意外にも台湾の山中に武士が残っていたということらしい。殺された日本人の方が「武士の末裔」だなどと叫んでいたのは笑わせた(嘲笑)。 事件の場面はこの第一部の最後に出るが、ここで誰が見ても殺されて仕方ないと思わせる連中が真っ先に殺されたのは納得のいく作りになっている。特に男尊女卑の染みついた下司な男(上の世代の日本人にいた)や、自分の劣等感か何かのせいで弱い立場の者を踏みつけにするひねくれた男(どこにでもいる)などは早く殺されないかと心待ちにしていた。それ以外で殺された日本人は災難だったが、異質な集団と接する最前線にはこういうリスクがあると思わなければならない。 この第一部では、個人的には民族集団が大規模な侵略を受けた際にどう対応するかの問題かと思って見ていた。最初に激烈な抵抗をしておいて、その後は集団の存続のため忍従していたが、ここでまた改めて反撃を企てた形になっている。 しかし民族の誇りを守るのはいいとして、単なるテロ攻撃では自滅するのと同じというのは主人公本人も言っていたはずである。また戦える男の首を取るのは名誉としても、日本人の女子供まで皆殺しにしたことの理屈はついていたかどうか。侵略民の繁殖拡大を食い止めるための全数駆除なら意味はわかるが、しかし日本人全部を絶滅するなどできないことはわかっていたはずではないか。主人公も若い頃とは違って指導者としての分別を備えた人格者に見えたが、事件の後の落としどころまで考えていたのかどうか、この第一部ではわからなかった。 なお注意点としては、この映画では日本人が矢面に立っているが、日本人が来る前は漢人との間でも同様のことがあったのではないかということである。また先住民同士でも狩場をめぐる争闘が日常的だったことは劇中に示されており、人間集団の間に必ず起きる争いが、この映画ではたまたま先住民と日本人との間で起きたというように取れる。仮に日本人が悪とするなら漢人も先住民もみな悪ということになるわけだが、あるいは劇中で、男のプライドが女を苦しめるという意味の歌が聞かれたのは、男こそが悪の根源だということかも知れない(現代風解釈か)。 そのほか特徴的なのは先住民の歌が多用されていたことで、特に渓流で主人公と先代が輪唱した場面は印象的だった。また金玉を握る場面も印象的だった(痛々しいが笑った)。主人公は苦みと渋みが顔に出たナイスオヤジだった。[DVD(字幕)] 7点(2021-10-16 14:28:47)《改行有》

272.  海角七号/君想う、国境の南 《ネタバレ》 台湾の高校(高級中学)の歴史教科書(2018年版)を日本語訳した出版物を読むと、文化の発展に関する記述の中で、「悲情城市」(1989)の後にいったん低迷した台湾映画界を再興した映画として特記されている。 しかし教科書に載るほどの歴史的映画にしては軽めの映像・演出・展開で、時間は長めだが重苦しさがないので一般受けするのはわかる。笑わせて盛り上げてから泣かせるタイプの娯楽映画であり、ジャンルには「コメディ」がないが入れた方がいい(IMDbではComedyが最初に出ている)。自分としては三つ子が別々の方向に走ったところは笑ったが、しかし黒人女性に関するギャグは現在だとポリコレ違反の恐れがある。 物語としては、台湾島南端の屏東県恒春鎮(劇中では単に「恒春」)の周辺住民で無理やり作った速成バンドが、各種問題を適当に乗り越えて最後にライブを大成功させる展開になる。そこに第二次大戦時と現代の二組の男女の恋愛を重ね合わせ、かつての悲恋が時を隔てて成就した形を作ったらしい。 登場人物には老若男女を揃えてあり、またエスニックグループとして先住民や客家人も入っている。そのように、いろいろな人々からなる台湾の住民が最後に皆で一体感を出していたのはいいとして、何でそこに日本人がいなければならないのかは不明である。日本人の立場からすれば、そういうのは内輪でやってもらえばいいのではと思うが、しかし虹でつながった日台間をここで再び結ぶ意図が初めからあったようではあり、また例えば、かつて外から来た日本人が台湾の人々をまとめるきっかけになったのをここで再現しようとしたとも取れる。 ただし劇中日本人が変な奴ばかりなのは何かと苛立たしい。感情が激昂してなお言語明瞭に相手を罵倒し続けるのは日本人的とは思われず、これはヒロインがすでに現地に同化しつつあると思うしかない。ちなみに日本人が面倒くさい連中だと思われていることはわかった。 台湾の人々にもいろいろ考えはあるだろうが、少なくともこの映画では日本がわりと肯定的に扱われているようではある。特に悪気もないらしい。 ほか個別事項として、披露宴の場面で壇上の美女が歌い始めたのは、「熱帯魚」(1995)でも聞かれた日本の昭和歌謡「恋をするなら」(1964)のカバー曲だった。よほど台湾で人気の出た曲らしい。また夜の海辺で酔っ払いの男が思いがけず優しくされる場面があったが、こういうことをされたらおれでも泣く。[インターネット(字幕)] 6点(2021-10-09 11:50:09)《改行有》

273.  聖なる泉の少女 《ネタバレ》 映像が美的で歌も印象的だが、わけのわからない映画である。 監督はジョージア人とのことで、撮影場所も劇中地図や文字からしてジョージア国内に見える。時代としては、主人公の自宅の雰囲気などは前近代のようだが、町の様子や自動車の普及、谷間の工事か何かを見ると現代のことらしい。兄の言っていた「祖国」がソビエト連邦からの独立後とすれば90年代以降ということになる。 主人公の家系は「聖なる泉」の「守り人」として代々続いて来たらしい。泉の水は怪我や病気を癒すものとして村人に頼られてきたが、現代では科学的な医療も普及しており、村人にとって必須とまではいえないものになっていたと思われる。その上に、谷間の工事か何かのせいで水が枯れてしまい、泉の伝統もここで途絶えることになったらしい。 主人公の父親にも引退の時期が来ていたようで、松明の点火に失敗したのはそういう意味かと思われる。そうすると泉が枯れたのも、それに先立ち息子がそれぞれの道に進んでいたのも、いわばタイミングよく事が進んでいたように取れる。しかし一人だけ割を食わされたのが主人公であって、泉が枯れて自由になるどころか存在理由まで失ったように、最後は自分で人としての実体をなくしていったかに見えた(皿は残った)。 これを何らかの社会批判と捉えようとすると安っぽい話にしかならないが、世界が変わっていくこと自体は仕方ないのであって、昔あったが今は消えてなくなったものは数多い。これから生きて前に進む者なら忘れていれば済むが、その忘れられたものを若い女性の姿にしたことで、消えていくことの悲哀を感じさせる意図があったのかも知れない。自分がいま住んでいるこの場所にも、過去には別の人々の暮らしや人間関係や感情や思いが存在していたはずが、誰も記憶しないまま消失したのは空恐ろしいといえなくもない。 そのように一応は思うところはあったが、しかし見ている自分との接点が少ないので、正直あまり深入りして考える気にならない映画だった。 以下雑談として、主人公は体型的に細身の人で、男と対面した場面で横から見ると胸が平たい人だと思ったが、実際どうなのかは直後の入浴場面で見せていた。また村の祝い事か何かの場面で、画面の右端にいた鶏と入れ替えに主人公が現れたように見えたのは、意図したかどうかは別として印象的だった(多分どうでもいいことだが)。[インターネット(字幕)] 5点(2021-10-02 09:12:44)《改行有》

274.  バトル・オブ・ヒーロー 《ネタバレ》 1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻時に、自由都市ダンツィヒ(現在のグダニスク)で起きた「ヴェステルプラッテの戦い」を題材にした映画である。この戦いがポーランドでどう扱われてきたかは知らないが、当初は12時間しか保たないと思われていたのが7日間も健闘したことで賞賛されたということかも知れない。現地は第二次世界大戦の始まりを象徴する場所として、今も建物などが保存され記念碑も建っているらしい。 戦争映画としては、ポーランド陣地が散発的に攻撃される場面が続くだけで、大した盛り上がりもないので一般の期待には全く応えない。わずかに目立つのは序盤で、停泊中の戦艦が艦砲射撃したのと、街の方から水路を越えて急降下爆撃機が来襲した場面くらいのものである。なおこの場にいたドイツ戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は1908年就役の前弩級艦で、当時すでにとんでもなく旧式なので浮き砲台の役目だけをしている。 登場人物としては、実在の人物であるヘンリク・スハルスキ少佐とフランチシェク・ドンブロフスキ大尉(劇中の「クバ」)のダブル主人公になっており、見る側の気分もこの2人の間で行ったり来たりさせられる。なお女性は出ない(写真だけ)。 当時の自由都市ダンツィヒは、名前の通りポーランド領ではなく住民もほとんどドイツ人だったようで(Westerplatteという地名自体がドイツ語だろうが)、そこにいたポーランド部隊には別に街の住民を守る使命はない(最初から敵方)。こんな場所に生命をかける意味があるかと正直思うが、国の尊厳を守るために抵抗してみせるという象徴的な意義はあったはずである。そのような条件のもとで、最初から引き際を探っている少佐と、徹底抗戦しかない大尉との対立を通じて、何のためにどこまで戦うのかを厳しく問う映画に思われた。 この戦いで攻撃側が多数の死者を出したのに対し、ポーランド側の死者はわずか14人だったとのことだが、その死者をたった14人と済ませていいのかは写真を燃やす場面で表現されている。一方で最後に国章の鷲を眺めてから歌っていたのはポーランド国歌だったが(現在と同じ)、国のためには死ねばいいのでなく、生きて命をつなぐことが将来にも役立つと諭す形になっていた。 さすがに現代の製作らしく単純な祖国バンザイ映画ではなかったが、単純に非戦を訴えて終わりでもないようで、当時や現代の人々の複雑な思いを詰め込んだ映画なのかと思われた。[DVD(字幕)] 5点(2021-09-25 10:57:53)《改行有》

275.  青島要塞爆撃命令 《ネタバレ》 第一次世界大戦に日本が参戦した時の映画であり、また日本初の水上機母艦「若宮」(劇中の時点では運送船若宮丸)が出ているのが珍しい。貨物船を改装して水上機を載せただけのものだが、水上機とはいえ偵察のほか攻撃もしているので実質的に航空母艦の役目をしている。劇中では最初にとりあえず出てから相手の様子を見て、次回は爆撃と護衛を2機で分担し、後には爆弾の投下装置(筒)も付けるといった現場力での進歩を見せていた(どこまで史実かは不明)。 物語としては、青島の攻略を担当した日本陸海軍が焦って総攻撃をかけて大苦戦したが、若宮の飛行隊が要塞を破壊したことで大勝利を収め、それによって航空機の有用性も見事に実証した、という筋書きらしいが、それはこの映画限定のお話なので真に受ける必要はない。現実にはこんな大活躍などしていないが、地道に相応の成果を出してその後の海軍航空の発展につなぐ形になったと思われる。 ちなみに第二艦隊旗艦「周防」の艦上の場面は横須賀の戦艦三笠で撮影したようだが(背景に猿島が見える)、この周防というのは日露戦争での鹵獲艦(旧名Победа)であって三笠と同時代の戦艦なので、本物も大体こんな感じだったろうとはいえる。 映画全体の印象としては、評判通り力の抜けた軽妙な作りで笑わせる場面も多いが、現地住民に関する部分が笑えないので異物感がある。 「外国で勝手に戦争を始めて…」というのはその通りとしても、寛容な態度を見せたとたんに諜報活動や破壊工作が露見するなど、必ずしも無垢で善良な民ばかりといえないことはしっかり表現されている。そうすると序盤の「許可してやって下さい!」「いかん!」という意見対立は、前者優位ではなく両論併記または後者優位と取るべきだったのか。恐らくこの映画の意図としては、終盤に意外な助けが得られた展開をもって、ちゃんと誠意が通じる相手もいると言いたかったのではと思うが、徹底せずに曖昧なままで終わってしまったのは変だった。チャイナ服のスパイがその後どうしたかの説明もなかったので、何かの理由で短縮したため意味不明瞭になったと思えばいいか。 ほか劇中のドイツ軍に関しては、人間味は一応出ているが基本的にはよそよそしい感じの敵である。この第一次大戦で日本は勝ち組になって国際的地位も向上したわけで、その後はかえって多事多難でもあったが、何にせよドイツとは同じ組にならないのが無難という気はする。[インターネット(邦画)] 6点(2021-09-18 09:58:17)《改行有》

276.  提督の艦隊 《ネタバレ》 原題の「ミヒール・デ・ロイテル」は17世紀オランダの提督の名前である。 冒頭の場面で、ここはどこかと思っているといきなり海戦中だったのは驚かされたが、その後も全編を通じて帆船時代の戦列艦の戦闘場面がそれらしく作ってある。戦術的なことはよくわからなかったが、敵本国の港にいる艦隊を「海兵隊」(陸戦隊)で襲撃した場面と、オランダ艦の喫水が浅くできているのが映像化されていたのは印象的だった。ちなみに一般人の応援団が海辺で観戦するのがオランダ風なのかと思った。 ドラマ部分は複雑な政治史が背景にあるのでわかりにくいが、要は国内で敵味方を分断する政治闘争に巻き込まれながらも、主人公がいわば軍人としての分を守り(家族も守りながら)、党派を超えてオランダという国のために働いたことを顕彰する映画だったらしい。結果として、21世紀のオランダにも愛国心のようなものがあるらしいとは思わされた。 戦闘での無惨な場面はそれほどないが、劇中で最も残酷だったのは海戦ではなく、陸で民衆がやらかした虐殺だった(写実的絵画が残されている)。またどうでもいいことだが、最初の海戦の場所は字幕で「スヘフェニンゲン」と書いてあるが、これは「キンタマーニ」や「エロマンガ島」と並ぶ世界の珍地名として知られる「スケベニンゲン」のことである。 ちなみに自分がこの映画を見た動機は、トロンプとデ・ロイテルという、個人的に名前を知っていた数少ないオランダ人が出ていたことである。太平洋戦争の開戦当初、この2人の名前のついたオランダ軍艦が現在のインドネシアにいて、うち軽巡洋艦デ・ロイテルは昭和17年2月のスラバヤ沖海戦で日本海軍が撃沈したので日本でも知られているが、同じ名前はこれまで何度もオランダ軍艦の名前に使われており(今もある)、主人公がオランダ海軍で英雄扱いされてきたことが知れる。ほか劇中で主人公の盟友になった首相も、現代のドック型揚陸艦ヨハン・デ・ウィットに名前が使われているので、オランダではそれなりの偉人であるらしい。 この映画ではオランダとイギリスが戦争し、また第二次大戦ではどちらも日本とは敵味方だったわけだが、現代ではイギリスの空母とオランダの軍艦が一緒に太平洋に来て、海上自衛隊と共同訓練したりして(2021.8.25)、世界の枠組みも変わっていくものだという感慨がある。いわゆる昨日の敵は今日の友というようなことかと一応思っておく。[インターネット(字幕)] 7点(2021-09-18 09:58:13)《改行有》

277.  吸血鬼ノスフェラトゥ(1922) 《ネタバレ》 まず題名は、今となっては使い古された感のあるドラキュラよりも得体の知れない不気味さがある。またその語義の「不死者」というのも、「吸血鬼」よりかえって根源的なものの表現に思われる。ちなみにうちに取ってあった91.7.23の新聞の切抜きによると、ルーマニアで一度埋葬された71歳の男が蘇生して運よく掘り返してもらったが、自宅に帰ったところ家族が恐れて家から締め出されたという出来事があった(ロイター=共同)。ルーマニアでは89年まで独裁者のチャウシェスク政権が続いていたが、その間の社会主義体制下でもずっと不死者というものが恐れられていたのかと当時思った。 本編に関して、自分が見たのは「アメリカンバージョン」だそうだが(64分)、全体的には原作を大まかに簡略化したようではある。 たまたま新型コロナウイルス感染症の流行下で見たわけだが、この映画も終盤が感染症映画のようになっていたのは意外だった。しかし外国から来た船が災厄をもたらすということ自体、原作段階でも疫病のイメージだったかも知れないと思わされるものはある。吸血鬼の犠牲者がまた吸血鬼になるというなら感染症にも似ているわけだが、この映画ではそういう伝染性の設定は特になかったらしい。 なおネズミが棺から湧いて出ていたのは面白かった。今ならコウモリが宿主という設定でも通用しそうだ。 映像面では、伯爵の姿がなかったところに現れてからまた消える、といった特殊効果を見ると、映画の歴史の初期からこういうことが試みられてきたのだとは思わされる。しかし技術的な制約があるのは仕方ないにしても、昼夜の区別がわからないのはさすがに困った。伯爵が出た場面は全部夜だったのだろうが、ほとんど真昼間にしか見えないのは開き直りのようでもある。日中に棺を自分で抱えて歩く姿は格好悪かった。 ホラーとしても正直それほど怖いところはなかったが、ドアを開けたら廊下に立っていたのと、向かいの建物の窓際にいた場面は少し気味悪い。こっちが気づく前から相手はずっと見ていた、という状況は怖いかも知れない(例:部屋の中でネコがどこにいるかと探していたら向こうは最初からこっちを見ていたなど)。ほか参考文献によれば終盤にエロい場面があるとのことだったが、実際はそのように見えなくもないという程度だった(そんなところを触るなとは言いたくなった)。 現代人の立場で褒めるにはちょっと厳しい映画だったが、名匠の作とのことで最低限の敬意を表した点数にしておく。なお主人公の妻がネコを構っていた場面は和んだ。[DVD(字幕)] 5点(2021-09-11 09:34:59)《改行有》

278.  それも恋 《ネタバレ》 主演の仁後亜由美という人は他の映画でも見たことがある。別に好きでもないが、素っ頓狂な声を出す役者ということで憶えていた。 短い映画だが、何か社会派的な性格を持たせたかったようではある。制作が2016年とのことで、近年見られた爆買いの雰囲気を映すとか、常習的な偽造といった行動様式を見せておいてから「ウソばっかだね」などとあからさまに言わせたりしている。一方で、日本で稼いで国に帰れば金持ちだとかいうのは大昔の話のようで、相手の男の人物像もそういう時代のイメージになっている。 個人的には現在の池袋北口とか西川口といった場所の実態を知らないので何ともいえないが、どうも微妙な違和感と今更感のある映画という気はした。しかし相手の男にもそれなりの事情があったことは説明されていたので、それぞれの事情で理解と共感を寄せる人がいてもいいのではと思った。 それよりも、題名に示された主人公のドラマとしては思うところもなくはない。何もしないで終わるよりなら何かした方がいい、という意味だとすればその通りだが(確かにそうだが)、それでどこまで妥協できるのか、その結果を納得して受け入れられるかの問題だということか。できれば後悔しなくて済むといいわけだが。 なお相手の男の台詞が聞き取りにくいのは困った。「デイエル」とは何のことかと思ったが、英語字幕のsexual serviceで何とか察せられた。[インターネット(邦画)] 4点(2021-09-04 10:29:44)(良:1票) 《改行有》

279.  悪魔の奴隷 《ネタバレ》 一部で知られた「夜霧のジョギジョギ(モンスター)」のリメイク版である。劇中年代が現代ではなく1981年なのはリメイクの本気度を示したのか、あるいは時代回顧的な意味もあるのかも知れない。 題名に関しては、前作の英題が”Satan's Slave”だったのに対し今作は”Satan's Slaves”になっているが、インドネシア語に複数形はないとのことで原題は同じ”Pengabdi Setan”である。邦題は前作のようなふざけた名前ではなく原題そのままであり、これは実際に見て感じる印象の表現になっている(あまり笑えない)。 リメイク版のため、「ラーイラーハイッラッラー」とか「トニー...」とか喘息気味の人物とかバイクの事故といったオマージュらしいものは結構見える。しかし前回の年代物映画とは違い、今回はちゃんと現代的なホラーになっていたのは感動的だった。 最初がいきなり無音で虫の声から入るとか、オープニングの物悲しい音楽が流れたあたりでまずは期待させられる。基本は家で何かに襲われるパターンだが、あからさまなドッキリで飛び上がるようなところもあって結構怖がらされた。個人的には屋内の水場(上下水を集約?)を使うのが特徴的に思われたのと、一神教の渡来以前からある邪悪な勢力の存在を感じさせたのも恐ろしげに見えた。 物語上は、神を信じない一家が悪魔に狙われる、という設定を踏襲したようでいて実はそれほど単純でもなく、信仰と家族とオカルトのどれが頼れるのかを迷わせながら進行する。少し手が込んでいると思ったのは、真相に関する劇中の発言はあくまでその時点の見解なり解釈または方便に過ぎず、最終的な結論はラストの場面を待つ必要があることだった。結果として「家族が見放さなければ」は正しかったらしい。また英題のslaveを複数形にしたのもそれなりの含みが感じられる。 登場人物としては主人公が変に肉感的な女性だったのと、その弟3人がかなり愛嬌のある連中なのが目についた。 なおこの映画で見た限り、現地ではイスラム教が絶対視されているわけでもなく、むしろ家族が大事というようでもある。終幕場面で観客を誘惑する目つきだった女性が前作の主人公と同じ名前らしい(Darmina/Darminah)のも、やはり信仰心が不足していたという意味か。 また前作で出ていた伝統的な呪術の代わりに、今回は少し現代的なオカルトを前面に出したらしい。劇中の「MAYA」は主人公に「低俗な雑誌」と言われてしまっていたが、これは日本の「ムー」のようなものかと思って笑った。[インターネット(字幕)] 7点(2021-08-28 09:18:58)《改行有》

280.  夜霧のジョギジョギ 《ネタバレ》 原題のPengabdi Setanは英題のSatan's Slaveと同じ意味らしい。このsetanという言葉はアラビア語由来だそうで、欧米のサタンと同じ言葉が中東から別経路で伝えられたということか。 邦題は中身と全く関係ないので呆れるが、公開時にこの名前(正しくは「…モンスター」)が強烈な印象を残したことで今日まで伝えられたのだろうから、意味不明でも何でも配給側の勝ちと思うしかない。 解説文を見るとゾンビ映画として売りたいようだが、基本的には不運な家族を襲う悪魔とエクソシストの戦いをイスラム世界でやろうとした映画に見える。ただし死人の目とか墓を掘り返すなどは確かに「吸血ゾンビ」(1966年英)を思わせるものがある。 欧米の悪魔なら初めからキリスト教で対抗するのが普通だろうが、この映画では正規のイスラム教よりも、まずは伝統的な呪術や祈祷師に頼るのが常識だったように見える(弟の友人・弟・姉の恋人・姉)。悪魔祓いもこういう俗信を排するところから始めなければならないのは、現地にまだイスラム教がちゃんと行き渡っておらず、目下鋭意布教中であるかのような印象だった(実態は知らない)。 物語の面では全く期待していなかったが、意外にもそれなりにちゃんと作ってある(前に見たインドネシア映画「首だけ女の恐怖」(1981)よりは)。神を信じない一家を悪魔が狙って怪しい家政婦が入り込む一方、危険を察した宗教者が再三の警告を寄せて緊迫感を高める構成になっている(かったるいところもある)。しかし最後の救援が若干唐突なのと、ラストが意味不明だったのは残念だ。悪魔との戦いはまだ続くので、神を信じて対抗しろということか、あるいは神も万能ではないと言ってしまっているようなものか。 ほかどうでもいいことだが字幕に関して、窓の外から幽霊が迫る場面で「うらめしや」と書いてあったのは笑ったが、ここは実際に和風幽霊の雰囲気だったので適切な訳ともいえる。 さらにどうでもいいことだが、字幕で「アンタ」と書いてある場面で登場人物が言ったのは、「アント!」にも聞こえたが「Anda!」だとすればyou!の意味であり、これはたまたま似た言葉だったので字幕も合わせたかも知れない。また夜になぜ墓へ行ったのか、と父親が娘を問い詰めた場面で、夜は墓場で運動会だろうが、と思っていたら父親自ら「運動会!」と言ったように聞こえたのは一瞬驚いた。しかしここは字幕のとおり「Untuk apa!」(何のために)だったようで空耳というしかない。[DVD(字幕)] 4点(2021-08-28 09:18:56)《改行有》

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