みんなのシネマレビュー |
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22. ブラックボックス 音声分析捜査 タイトル通り、墜落した飛行機から回収されたブラックボックスを専門家が音声分析するお話。音の分析、という映像的には「動き」の無いものを描くので、映画としてはそういう「静」の部分と、「動」の部分との対比が見せ場になってきます。まずは冒頭、墜落事故を起こす前の機内の通路をカメラが移動していくあたり、「動」を感じさせ、それと同時に、後々、音声から分析されていく機内の断片的な様子の、ある意味、俯瞰図ともなっています。 この場面以外でも、主人公の移動に伴いカメラを積極的に動かすなど、映像に動きを与える一方で、音声分析では「音への一点集中」的な演出がなされ、この辺りの対比が、なかなか巧み。 音声分析となると、その分析官の表情がまた、一つの見せ場で、主人公を演じているピエール・ニネのいかにも秀才クンといった整った顔立ちが、このシーンを支えています。その奥さんってのがまた、美人かどうかはともかくやたらチャーミングに描かれていて、そのラブラブなシーン、必要なのかよ、と思ってたら、これが必要なんですね。あくまで仕事として始めたはずの「音声分析」が、やがて主人公の私生活にも大きな波乱を巻き起こすことになっていきます。サスペンスとしての魅力も充分。 ミステリとして見ても、社会派風の体裁でいながら、本格風のトリッキーな部分も織り交ぜて、楽しい仕上がり。何ていうんですかね、ちょうど、リアリティが「ある」か「無い」かのギリギリを攻めた挙句、結局は「無い」側に転がっちゃう楽しさ、というか。[インターネット(字幕)] 7点(2025-05-31 07:00:41)《改行有》 23. トランス・ワールド 金は無くてもアイデアさえあれば、面白い映画は撮れるんだ・・・と言えればいいんだけど、それがなかなか難しいんですね。いくら面白いアイデアを思い付いたところで、面白くなるように撮らなきゃ、やっぱり映画は面白くならないもの。 小説だって、いくら面白そうなプロットでも、文章がイマイチだったら気分が乗らず、それなりにシラケちゃいますしね。 この映画も、基本的にセリフで説明するばかりで、映像に惹かれるような要素が、どうにも乏しいもんで。金が無いとこうなっちゃうの? まさかとは思うけど、必要以上に金が無いように見せかけたりしてないか? 何だか雰囲気が『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』っぽいもんで、その時点で「お金がありません」オーラを感じてしまったりもするのですが。 とにかく、セリフでの説明ばかりで、印象に残るシーンが何もない。登場人物の魅力も無い。ただただ、素材だけ、という感じ。 いつか、誰かがお金出してくれてリメイクできる日を待っているのだとしたら、確かにこれなら、いくらでも改変の余地がありそうな。そういう無色透明の作品でした。[インターネット(字幕)] 3点(2025-05-24 15:59:03)(良:1票) 《改行有》 24. ジョン・ウィック:コンセクエンス 《ネタバレ》 はい、どっからどう見ても明らかに「やり過ぎ」、ですね。撮る方、演る方、見る方、皆さまお疲れさまでした。 ここまで無数の敵と連続して戦い続けて、無事な訳がないし体力が持つ訳もないし。要するに「リアルな戦い」をリアリティそっちのけで繰り広げまくっていて、これはもはや一種のダンスなんですね。死の舞踏。って前作でも書いた気がするけど。 正直、ここまでやられると、感覚がマヒしてきます。同じことばかりをひたすら繰り返しているような。そのワザ、さっきも見たよ、と。 それに、画面上で繰り広げられるこれらの動きはおそらく徹底的に計算され、整合が取られているんだろうけれども、「きっとそうなんだろう」と思うだけであって、画面は完全にインフレーションを起こしており、物理的なツジツマがあってるんだかあってないんだか、もうさっぱりわからない。ただ、なんだかここまで来ると、人間の動きを見ているというより、コンピュータゲームを見てるみたいでもあり。 しかしそれでもなお、この作品は、この「やり過ぎ」を敢行します。やり過ぎてナンボ、インフレ起こしてナンボ。「思ったよりアクションが少なかったなあ」とだけは絶対に言わせない、まさに満腹確約、といったところですが、やり過ぎた先にこそ、初めて見えてくるものもある訳で。 もちろん、ただ無節操に同じことだけを繰り返しているんじゃなくって、ガラスが砕けることで(一応は)銃弾が飛び交ってます、というアクセントをつけ、また、いったん戦いが終われば、次の闘いではシチュエーションを変え、映画に変化を加えてくる。その行きつく先に待ち構えるのが、あの階段での死闘。 とって付けたように階段を転がり落ち、とって付けたように疲労困憊する、んですけど、もうそれで、いいじゃないですか。アクション映画における階段は、転がり落ちるためにこそある、という訳で。 ここに至るまでにさんざん「やり過ぎ」たからこそ、クライマックスの決闘がどちらかというと静的なものであっても、ぜーんぜん不満はありません。アクションはもう充分見たしね。こんな気分にさせてくれる映画、他にありますか? ただ・・・背景のCGの光景が、ちょっと薄っぺらく感じてしまうのは、これは残念でした。[インターネット(字幕)] 7点(2025-05-24 12:00:30)《改行有》 25. オープン・グレイヴ-感染- 《ネタバレ》 作品の背景にある基本設定の部分だけを見ると、別に目新しいものではなくって、『バイオ・インフェルノ』あたりを嚆矢と言ってよいかどうか、とにかく、「感染したらゾンビになっちゃう病」のオハナシ。もはやこのネタ自体がゾンビ病のごとく、映画界に蔓延しております。 しかし、そういうアリガチな基本設定であっても、見せ方ひとつで新鮮になり、面白くなる、という好例ですね。 主人公が何かを失っている状態、というのは、映画の物語を動かしていく魅力的なテーマの一つですが、特にその失ったものが「記憶」である時、テーマはまた一段と魅力的なものになります。 記憶がない、頼るものが無い中で、主人公の前に次々に繰り広げられる意外な光景、意外なシチュエーション。さらには断片的に蘇る記憶もそこに重なって、ついつい、作品に引きこまれてしまいます。 冒頭、目が覚めたら大きな竪穴の底で死体に囲まれている。そこにロープが下りてきて穴から這い出すことはできたものの、助けてくれたのは何者なのか、そもそも何のために助けてくれたのか。穴を脱出したとて、閉塞感に包まれたままであることは、相変わらず。記憶がない、自分が誰かわからない、という時点ですでに孤独なのに、さらに何だか妙に自分が「受け入れてもらえない」ようなところがあって。 イヌに吼えられる。倒木が行く手をふさぐ。とにかくイヤな感じの閉塞感。その外側には真相があるはず、しかしそれを手探りで掴もうとするものの、なかなか掴めない。 そのモヤモヤ感に引きずられていく面白さが、ちょっと新鮮でした。[インターネット(字幕)] 8点(2025-05-24 07:07:32)《改行有》 26. キラーカブトガニ カブトガニで、もう全然問題ないので、誰かこういう映画をマジメに作ってくれないもんですかねえ。ゾンビは今でもマジメに人に襲い掛かってくるのに、動物モノは、何かと言うとふざけてしまいがち。今やパロディとしてしか成立しないんだろうか。大好きだったジャンルなのに。 まず前兆のような怪しい事件が頻発して、やがてパニックが拡大して、できれば最後は一軒家に閉じこもってもらえれば言うことなし。と言えば『鳥』ですが、その正統な後継者(?)たる『巨大クモ軍団の襲撃』もいい。『巨大生物の島』ですら、我慢できちゃう。 ラストでどうパニックが収まるか、というのにも無上のカタルシスがあって、『ジョーズ』は勿論の事、『スウォーム』などもいいし、何なら『殺人魚フライングキラー』だって。ただし『スクワーム』はノーコメント。『テンタクルズ』は、こりゃどうなんですかね(カタルシスを感じて欲しいという、気持ちだけは伝わってくるが・・・)。 まだまだ素晴らしい映画がたくさんあって、確かに今さらこのジャンルを新たに、マジメに作る必要性は薄いのかも知れないし、単に「撮影に使う生き物を殺さない」でこのテの映画を作るのが、面倒臭いのかも知れない。 で、この映画。一応、鯨の死骸が見つかる、などという前兆の事件があって、やがてパニックが広がったりもして、感触としては悪くないし、主人公の少年が車いすに乗っている、というヒネリも加えています。カブトガニは所詮CG、だとこちらも思いながら割り切って見てるし、そもそも所詮カブトガニ、なので、ほどほどのCGでもあまり違和感ありません。ただし、ラジコンみたいに走り回るんじゃなくって、もう少し生き物らしい動きはできないものか、、、と言っても、どういう動きが「カブトガニらしい襲い方」なのか、私も知りません。 攻撃方法は、エイリアンのフェイスハガーと基本的に一緒。これもパロディということなのか、でもその繰り返しだけではちょっと寂しい。一人、股間を襲われているというオチで、笑わなきゃいけなかったんだろうか。 カブトガニのくせに何かモゴモゴとつぶやいており、これじゃあまるでキラートマトやんか、と思った人がこの邦題を考えたのかもしれない。 いずれにしても、主人公の車いすが全く物語に貢献しないまま、終盤は唐突に巨大ロボットでの戦いとなって、「世界の人々は知らんけれど少なくとも日本人はこういうのが好きなんでしょ」と言わんばかりなのが、図星ではあるけれど、でもそれを、ここで、このタイミングで、見たい訳じゃないんだけどなあ。。。 ふざけようがパロディであろうが、別にいいんですけど、もう少しだけでもマジメ路線の方に針を振っていただかないと、これでは「悪ふざけ」にしか、なりませぬ。[インターネット(字幕)] 4点(2025-05-18 09:59:31)《改行有》 27. 小早川家の秋 こうやって映画の感想文を書きこむ時、最初の方は話のマクラとして作品の内容とあまり関係ないことを書き連ねてしまう悪いクセがある。という自覚はあるのですが、今回もそのパターン。いや、マクラだけで終わるかも。。。 関西が舞台の注目すべき小津作品、ではあるのですがこれまで見る機会がなく、昨日ようやく見ました。酒蔵が並ぶ街並みは、伏見が舞台なんでしょう。嵐山も今や観光客が爆増しているとはいえ趣きは変わりません。ところで映画の中盤、孫とのかくれんぼをすっぽかして鴈治郎が競輪場に言っちゃう場面ですが、京都にも向日町競輪があるけれど、直前に「西大寺道」という石碑が映るので、これは大和西大寺にある奈良競輪ですな。ところが、私も出身は奈良ではないとは言え、かれこれ約20年、この大和西大寺に住んでいるのですが、どうもこの石碑を近所で見た覚えがない・・・。 しかし、「西大寺道」の石碑についてネットで調べてみると、ちゃんとブログで取り上げてくれている人がいたりして、有難いもんです。ああ、あそこにある石碑が実はそうだったのか、と見当をつけて自転車に飛び乗り、早速、写真を撮ってまいりました。と言っても、ここには載せられませんが。。。 大和西大寺駅の東に広がる平城旧跡、その北西の角のあたりの交差点のところに島状のエリアがあって祠が立っており、その横に立っている石碑が実はソレなのでありました(何度となく通ってきた場所ながら、近くに寄って見たのは初めて)。石碑の下部は道に埋まっているし、周囲もコンクリで覆われてちょっと見づらいけど、石碑の南面には映画と同じ「西大寺道」の文字。裏の北面には「元禄十二年己卯六月朔日」とあるので、1699年ですね。まあ、古墳だらけのこの辺りにしてみれば、この石碑はまだ新しい方かも(笑)。 それにしても、この映画に出てくる光景を思うと、なんとまあ、この大和西大寺エリアの光景が変貌したことか。一方で、あの街の規模でまだあれだけの風情を残す古都ライバルの京都。さすがと言わねばなりませぬ。 さて、話を戻して、本作ですが(笑)、小津作品ながら、東宝系の作品ということで、なかなかに濃いメンツが集結。さらには原節子、笠智衆、杉村春子といった人たちも顔を出し、さらにさらに小早川家の中心たるクソジジイ役には、大映から中村鴈治郎(『浮草』なども思い起こさせ違和感ナシ)。こんだけ登場人物多かったらもうワケわからんでしょ、というくらい登場して、なかなかにややこしい人物相関関係。小早川家とそれを取り巻く面々の壮大なる一大叙事詩、であります。いや、あくまでホームドラマなんですけど。 でも、普通のホームドラマのイメージだと、爺さん婆さんがいて、その子供たちが家庭を持っていて、それぞれが孫を連れてきて賑やかに・・・というピラミッド型の年齢構成になるのですが、どうもこの小早川家はそんな雰囲気じゃない。祖父の代から孫の代まで、揃ってはいるけれど、年齢がまんべんなく散っていて、そうすると何となく平均年齢が高めの印象になってきます。不幸もあったようですが、甲斐性無しのジジイにも大きな責任があるような。 タイトルは『小早川家の秋』ですが、作品全体は夏の暑さが描かれます。だけどそれでも、秋、あるいは斜陽、といったものを感じさせます。ジジイだって昔からジジイだった訳じゃなくって、おそらくは若い頃からテキトーなことばかりやってきて、気が付いたらジジイになってしまっているけれど、相変わらずテキトーなことばかりやっている。そういう人生なんだから、生きてる限りテキトーだし、死んだらそのテキトーさもおしまい。斜陽と言えば斜陽だけど、残された者は残された者で、次の世代の物語を紡いでいく。なんだか、「川」が登場することがこれだけしっくりくる映画、というのも、なかなかありません。 古都の風情と、きらびやかな都会のネオンサインとの、対比。 煙突の映像か挿入されると、これもいつもなら工場の煙突を思い浮かべるのですが、ここでは火葬場の煙突。周囲にはカラスの姿があちこちに見られ、えらく不気味でもあります。そこに佇む笠智衆のやかな表情、しかし、ほぼ死神ですよ、これは。 音楽は黛敏郎。オープニングは普通に(自制して?)小津映画調の穏やかな音楽か、、、と思いきや、早くも対位法を利かせた怪しげな曲調になってきます。ラストでは重苦しさすら感じさる音楽となって、いよいよ本性むき出しか。[インターネット(邦画)] 9点(2025-05-18 07:37:01)《改行有》 28. ダウト ~偽りの代償~ 《ネタバレ》 しばらく自分の脚本で映画を撮っていなかったピーター・ハイアムズが、久しぶりに「監督・脚本」でクレジットされた作品。ついでに撮影監督も兼ねて、3点セットそろい踏み。 どういう風の吹き回しで脚本も書いたのか、しかしこの作品、『カプリコン・1』のハイアムズが帰ってきた!という感じがして、嬉しくなります。ハイアムズ作品は正直、ストーリーだけを見ると『カプリコン・1』はあまりオモシロくは無くって、もしかしてオモシロい映画を撮るためにはストーリーはオモシロくてはダメなのだ、という考えでも持ってるんじゃないか、と思えてくるのですが、今回はちゃんと、オモシロさを意識して脚本が書かれています。少々、やり過ぎで、いくらかスベってる気もしないではないですが・・・ もちろんこれは「映画」ですから、ストーリーが面白いとか何とか言ったところで、それは作品の魅力の一部でしかなく、それを作品の中でどう見せてくれるか、がやっぱり楽しい訳です。今回の作品、法廷モノではあるのですが、にも関わらず、まさかまさかのカーチェイスが登場し、しかもそれをクルマ目線で描いた「車載カメラ」の映像で描いている! 『カプリコン・1』『シカゴ・コネクション~』『プレシディオの男たち』のアレですよ。『ハノーバー・ストリート~』だって、そこに含めてよいと思います。ああ、帰ってきたハイアムズ。 駐車場で自動車に襲われるシーンは、まるで自動車が意志を持ったものであるかのような動きを見せ、これなんかも『カプリコン・1』における、ヘリ同士が会話するかのような動きを思い出したりもします。さらには『ザ・カー』・・・はハイアムズじゃなかったですね。 肝心の結末をどう見せればよいか、映画の作り手側がよくわからなくなってしまっている点も、ちょっと『カプリコン・1』を思い出してしまった。 まあ、今回の作品は、似ても似つかない題材ではあるんですが。 ストーリーがオモシロいとか言いながら、どういうオハナシかはちっとも書けていませんが、それは見てのお楽しみ、すみません。 マイケル・ダグラスのイヤらしさも、ピカイチ。 8点は多分、甘すぎなんだろうけれど、でも。[インターネット(字幕)] 8点(2025-05-11 18:49:27)《改行有》 29. スイング・ホテル 男2人、女1人でショーをやってた3人組が解散することになるも、三角関係で最後までゴタゴタ続き。やがてひょんなことから男2人は再会、そこに新たに素敵な女性が現れて、またも三角関係が・・・ という、何が面白いのやらサッパリわからない、というよりも、明らかにちっとも面白くないオハナシ、ではあるのですが、それが許されるのがミュージカル。それでも楽しめてしまうのが、ミュージカル。 男2人、というのが、片やビング・クロスビー、片やフレッド・アステア。クロスビーの歌が勝つのか、はたまたアステアのダンスが勝つのか、これぞまさに異種格闘技戦。という程ではないですが(歌とダンスは切り離せないですからね)、しかしとにかく、その両面から楽しませようというのが、この映画。歌をしっかり聞かせる分、そのバランスからか、ここでのアステアのダンスは、あの超人的な狂ったようなものではなく、優雅さを感じさせるものが多いですが、それでも「一人で何とか間を持たせてくれ」と言われて爆竹鳴らしながら踊りまくるシーンは、痛快です。爆竹もしっかりリズムを刻んで、これ、どうやって撮影したんでしょうか。 とってつけたようなハッピーエンドに至るまで、何とも他愛ないですが、楽しい気分が伝わってきて、幸せのおすそ分け、ということで。[インターネット(字幕)] 7点(2025-05-11 17:23:00)《改行有》 30. 子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる ナレーションやセリフで「刺客」を「シキャク」と言っているのが気になって、つい調べてしまうのですが、手元の辞書では「シキャク」は載ってるものと載っていないものがあり、よく耳にする「シカク」の方が一般的、という扱い。だけど、より正しくは「セッカク」と読むらしい。漢和辞典を見ると、「客」は漢音がカク、呉音がキャク。「刺」は漢音がセキ、ということで、漢音だとセッカクになる訳だけど、一方で「刺」には漢音・呉音ともにシという読みもあり、普通はこちらを使っている。また「客」をキャクと読むのも一般的。同音異義語がない解りやすさの点で、この作品ではシキャクで統一したんですかね。 とかいうことは映画の内容とは関係ないけど、おかげで少しだけ勉強になりました。さて。 ケレン味というものも、行き過ぎるとどうなるか、はい、こうなります、という良い見本がこの、子連れ狼。 昭和がいかに変な時代だったか、なんてことがよくテレビなどでも取り上げられますが、一口に昭和と言っても、本当にトチ狂っていて本当にアブなかったのは、70年代だと思っております。一事が万事、こけおどし。当時の子供心にもつくづく、怖い時代だったと思う。これに比べりゃ80年代のオリジナリティなんて、大したことないんじゃないかと。これでもか噴き出る鮮血、首は飛ぶわ、手はもげるわ、足は切断されるわ、人体損壊のオンパレード。結局のところ、こういう作品があってこそ、『キル・ビル』なんていう作品が作られたりもするのですが、70年代の日本は自然発生的に平然とこういう世界に行きついてしまってる訳で、まあ、恐るべし、な訳です。 何よりも、これで監督が、今では名匠として有難がられている三隅研次。これではもはや、誰にも止められませぬ。 勝プロダクション製作で、配給が東宝。主役の若山富三郎で、この当時は東映に移籍していますが、大映関係者として、三隅監督以外に伊達三郎などお馴染みの脇役陣の姿も。もうグチャグチャですね。 途中、劇伴音楽もなく効果音も最低限しか入れられない無音のシーンが何度かあって、こういうのも演出として有りは有りでしょうけど、何度もやられると、ちょっと工夫が無いというか、安っぽい。それ以外にも、これを大映時代劇の延長として見てしまうと、何となく安っぽく感じてしまう面は、あります。 しかし、若山富三郎の殺陣は、これはもう、間違いなく一級品だと思います。拝一刀のイメージはこんな小太りのオジサンではなく萬屋錦之介の方がしっくり来るのですが、それを差し引いてもなお、ナンボでもお釣りがきます。ホント、さすが。 エロありグロありアクションあり。大のオトナが集まってこんなことをやってる、ってのが、素晴らしい。[CS・衛星(邦画)] 6点(2025-05-06 12:57:14)《改行有》 31. 名探偵コナン 紺青の拳(フィスト) これは、面白かったです。 だいぶ無理やり感はあるんですけどね。なんで舞台をシンガポールにしたのやら、字幕のセリフがたびたび登場して、あまり子供には優しくない構成になっているし、常連のキャラを物語に登場させるのも一苦労、殆ど登場しない、あるいは全く登場しないキャラもいる(目暮さん・・・)。それどころか肝心のコナンすらあわや登場し損ねるところを無理やりカルロスゴーン方式(?)で出国させることに。 という、無理やり感がある上に、さらに、怪盗キッドによる宝石強奪と、殺人事件にまつわるフーダニットとが並行して描かれ、ゴチャついた感じはあります。もしかしたら、「コナン映画」には向いていない題材なのかも??? しかし、それを変にまとめようとせず、無理やり感のまま突っ走っていけば、結構、作品は面白くなったりするもんです。どこか無造作に思われるように(実際はちゃんと考えて脚本を書いているだろうけど)エピソードを配置していって、そのままバタバタとクライマックスのスペクタクルへとなだれ込んでいく。いよいよここに無理やり感も極まれり、ですが、作品の持つこの勢い、悪くないです。 夕方から夜への時間の推移とかも描かれていて、こういうのも、変化を感じさせ、いいなあ、と。[地上波(邦画)] 7点(2025-05-06 08:46:36)《改行有》 32. サンセット大通り 《ネタバレ》 ハリウッドの売れない脚本家がたまたま足を踏み入れてしまった謎の大邸宅。そこでは、今や人々から忘れ去られてしまったかつての大女優が、過去の妄執にとらわれたまま、執事とともに暮らしており、主人公の脚本家もズルズルとその閉ざされた世界に引きずり込まれてヒモみたいな生活を送るハメとなる、という、サイコスリラー寸前みたいなお話。不気味な要素、多々あり。 いっそ作品をそういう路線に振り切ってもらうのも、歓迎、ではあるのですが、この作品はそこまではいきません。作品をサイコスリラー路線にしてしまうのは、「要するにこの人はサイコな危ない奴なんだ」という線引きをしてしまうことにもなり、ある意味、安心感にも繋がってしまう。主人公と悪役との対立軸、我々と悪役との対立軸、という分かりやすさ。 この作品では、充分に不気味さを醸し出しつつも、そういう路線とは少し距離を置いていて、いや、少しどころか、実は真逆なのかも知れませぬ。不気味さの一方ではシニカルな視点が常に存在していて、そもそも、冒頭で死体として発見された主人公が「自分が殺された顛末」を語る構成となっているのが、なんとも人を喰っています。まるで、「脚本家が脚本を書いている」かのような、分析的な語り口。 まあ、死人が語るなんてあり得ん訳で、ずいぶん嘘くさい話。だけど、その「忘れられたかつての大女優」を、実際にかつての大女優(グロリア・スワンソン)が演じ、それどころか実際のハリウッドの大物(セシル・B・デミル)を本人が演じるなど、ハリウッド関係者が本人役で(しかも、いかにもソレっぽい登場の仕方で)登場するもんだから、話は一筋縄ではいかなくなります。 実際の華やかなハリウッドの現実と、かつての大女優が信じ込んでいる虚構との対比。だけどハリウッドに長年いる人たちの中には彼女のことを覚えている人もいて、全く接点が途切れた訳ではなく、要は、全くの虚構とも言い切れない。ハリウッドではいわば雲の上の人であるセシル・B・デミル、彼に話を繋ぐにも、何人もの人を介してようやく話が繋がる、という、これも皮肉の効いたシーンがありつつ、その彼と(面倒くさがられつつも)一応は話が出来てしまう大女優。彼女はハリウッドの歴史の一部ではあるんだけど、歴史に構っていられないハリウッドは歩みを止めることなく、どんどん先へ進んでしまう。ハリウッドが必要としていたのは、彼女自身ではなく、彼女の所有するクルマ。およそ「撮影に使うクルマ」なんて、いくらでも替えがききそうなもんですが、俳優という職業は、そのクルマよりもさらに替えがきく存在に過ぎなかったのか? さらに、彼女と、彼女を支える執事との関係が、作中の中で明かされてみると、事態はさらに複雑になってきます。「かつての監督」が「かつての女優」を支え、彼女の妄信する虚構を演出していた、という現実。こうなってみると、華やかなるハリウッドも、彼女の閉じられた世界も、たまたま大勢の人が関わり大金が動いているのか、いないのか、の差だけで、本質的には同じ、虚構に過ぎないのではないか。とも思えてきます。 サイコスリラーであれば、彼女は悪として葬り去られるだけであったかもしれないけれど、この作品では、主人公すらも退場してしまった後で、彼女は一世一代の鬼気迫る演技を披露します。それを、周囲の者たちは痛々しく見守るのみ。その姿は、明日は我が身かも知れない。ここにいるのは警察官、ではなくって、警察官役の俳優さんだし、ねえ。 不気味さ、狂気、といったものを描きつつ、どこかシニカルなユーモアも感じさせてこのメタな作品を成立させ、演出の妙も、お見事。その上で、ハリウッドの残酷さ(ハリウッドだけではないだろうけれど)もしっかり、浮き彫りにしてみせます。[インターネット(字幕)] 8点(2025-05-04 11:21:46)《改行有》 33. 白い花びら 今回の趣向はモノクロ無声映画、ということで、カウリスマキ作品にしては、登場人物がわりと表情らしい表情を見せたりもしますが(特に最初の方の「幸せだった頃」の描写)、それにしても顔ぶれは相変わらずで、フィンランドには他に俳優がいないのか!と言いたくなったりも。 もっとも、そんな事言ってたら、かつでの日本のやくざ映画など、もっとひどかったんですけれども、しかしそれにしたって、もうちょっとそれらしい女優さんはいるでしょうに(失礼)。 という部分では、やはりこれはカウリスマキ作品。ちょっと戯画的。 農村で幸せに暮らす夫婦の平穏な生活が、そこにやってきた怪しいジジイのため、崩れ去ってしまう悲劇が描かれます。古き良きものが失われていく様、とも言えるでしょう。 ラストではあの優しかった夫が、オノを持って復讐に立ち上がる。『SISU/シス 不死身の男』ってな映画が最近ありましたけれど、フィンランドではオノとかツルハシとかが標準的な凶器なのでしょうか??? 無声映画ですが、やはり「歌」は落とせないようで、歌い手が歌う場面では音が取り入れられています。またいくつかのシーンでは効果音もあり。だけど基本はサイレント映画路線なので、ほとんどのシーンには音声のセリフの代わりに音楽が当てられており、この音楽が、なんとまあヒネていること。ここばかりはかつてのサイレント映画を模擬しておらず、やけにスパイシー。[インターネット(字幕)] 7点(2025-05-03 12:23:41)《改行有》 34. バリスティック あまり評判のよろしくない映画、とは言え、私が書く前の段階で平均3.27点だなんて、まさか。。。 とは思っていなくって、まあ、そんなもんだろう、という気もします。問題点はたぶん色々あって、アクションが売りの割に、アクションシーンの演出がときどき妙にギクシャクしてしまう、ってのもあるのですが、それより何より、やはり一般受けするにはちょっと、「説明」が足りないのかな、と。 私はむしろその、あまり「説明」をしない部分が気に入っていて、多少のアラはあってもこの作品を推したくなるんですけどね。 実際、セリフを聞いていても、いよいよ状況説明ゼリフに突入するんだろうか、という寸前で、フイとはぐらかされてしまう。こういうのが、心憎い。説明するくらいなら、爆破する。こういうのが、楽しい。クルマをどうせ横転させるなら、2台同時に。こういのが、最高。 そんでもって、ルーシー・リューがなかなかカッコいいんですね。ちょっと意外、と言っちゃ失礼かもしれませんが。何を考えているかわからない(何も考えていない?)暗殺マシーンのような存在でありながら、例えば、誘拐した子供に食事を運ぶ場面で、檻の中から礼を言う子供に視線を投げかける場面などで、彼女の抱えている過去をかすかに感じさせたりもする。 という訳で、せっかく皆さんが下げた平均点を、申し訳ないけど、、、少しだけ上げちゃいます。[インターネット(字幕)] 8点(2025-05-03 09:56:00)《改行有》 35. カメレオン 《ネタバレ》 もともとは松田優作主演を想定して書かれた脚本、とのことで(映画化にあたり改訂されたようですが)、そう聞いてしまうと、さて、これを村川透&松田優作で撮っていたらどうなっていたんだろう、と思っちゃたりもする訳で、そういう「比較されるリスク」を負っての、監督・阪本順治、主演・藤原竜也による、映画化。いや、この時点ですでに、比較しようという気持ちにもブレーキが掛かろう、ってもんですが。 結果的に、村川&優作路線に無理に似せようともせず、だからと言って無理に避けようともしなかったのが、この作品の良かった点じゃないでしょうか。いくら似ても似つかぬ藤原竜也を連れてこようが、どうしたって松田優作っぽい部分も出てくるし、遊戯シリーズほどではないにしてもついつい、長回しのアクションをやってしまう。ほどほどに「あの頃」を思わせながらも、ノスタルジーのみに留めることなく、藤原竜也版の「今」を、体を張って、見せてくれる。普段のあの、演技が過剰になりがちなところも、この作品では何とか、持ちこたえています。 危険なスタントも多く取り込まれ、階段から転落したり、あるいは階段を滑り降りたり。くれぐれもケガをされませんように。 束ねたマッチで炎を噴き上げるようにしてタバコに火をつける、そのヤサグレ感。 政治的なテーマを匂わせるようでいながら、ラストはちゃっかりファンタジーのようにはぐらかしてしまうノリも気が利いてて(あんな場所に主人公が潜り込める訳がないし)、楽しく拝見いたしました。松田優作がどうの、などと気にする必要もないと思う・・・のですが、それでも、水川あさみをヒロインに迎えた松田優作作品というものは、ちょっと見てみたかった気もします。。。[インターネット(邦画)] 7点(2025-05-03 08:35:15)《改行有》 36. コレリ大尉のマンドリン 《ネタバレ》 まず映画開始から南欧の素晴らしい光景が広がって、ニコラス・ケイジはなかなか登場しないのですが、実際、この光景に、ニコラス・ケイジは不要でしょ、と。ペネロペ・クルスがいて、クリスチャン・ベールがいて、いっそこのまま『潮騒』でもやればいいのに。 などと言うのはもちろん本心ではなくって、それでも敢えて、この冒頭に似合わないニコラス・ケイジが登場するからこそ、物語が動き始めるのですが、とにかく、そんなこともふと思っちゃうくらいに素晴らしい光景を見せた時点で、この映画は成功ではないでしょうか・・・ ・・・と言いたかったのだけど。どうもこの作品、いささか表面的、という印象が拭えません。 一種の三角関係が描かれるのですが、どうもその描き方が無難過ぎ、というか。ニコラス・ケイジ演じるコレリ大尉という人は、こんなところまでわざわざマンドリンを担いでやってくる音楽好きで、どうやら、「だからいい人」らしい。んだけど、どういう訳でこの大尉にペネロペ・クルスが惹かれるんだかが、よくわからない。「いい人」には違いないけど、意外性がなく、「平凡」でもある。彼女の視線の描き方があれほど印象的であったのに、こんなに男を見る目が無かったのか。やけに出来レース的な恋愛で、しかも三角関係なんだからそれなりに修羅場になりそうなもんですが、これもやけに無難な描き方にとどまっています。こんな不完全燃焼に終わるのなら、いっそクリスチャン・ベールとペネロペ・クルスは兄妹という設定にでもしておけばよかったんじゃなかろうか。 この平和なギリシャの島も、第2次大戦ではイタリア軍に占領されたり、ドイツ軍に占領されたりしてたんだよ、ということで、知られざる歴史に光を当ててみせるのは、それはそれで大事なことだと思うんですが、詰め込み過ぎて表面的な描き方に終始したのでは、意味がない。この美しい村が戦争で破壊されていってしまう、という描写がキモとなるはずなのですが、そういう衝撃的であるはずのシーンですらあまり衝撃的になりえていないのは、やはり描き方が表面的なのでは。正直なところ、破壊を惜しんだり悲しんだりする気持ちが皆無とは言わないけれど、やっぱり破壊されるシーンがここで入るよなあ、という出来レース的な印象があるのも事実。 さらには戦後の場面で唐突に地震までが描かれるに至っては、これはもう、完全に消化不良を起こしてます。 で、蛇足とも言うべきラスト。もうここまで来ると、逆に面白くなってくる(笑)。 この映画。冒頭は良かったんだけとなあ。[インターネット(字幕)] 5点(2025-05-01 12:52:36)《改行有》 37. 真夜中の虹 《ネタバレ》 カウリスマキ作品の登場人物って、ただ「何だかツイてない人」としてそこに存在していて、この映画で描かれるまでの前半生、ってものを感じさせないですね。改めて語るまでもなく、きっと今までもこんな感じの人生だったんだろう、と。「以下同文」的な人生。 この作品の主人公も、まーロクな目にあわない、ツイてない。たぶん、ツイてないことに、自分でも気が付いていないんでしょう。 クルマを出した途端にガレージが崩壊して危機一髪、なんてのは、これはツイてたと言ってよいのかどうか。普通ならそもそも、こんな危機一髪に出喰わすこともまず無いのだけど。 女性と知り合っていい関係になってみたら、実は子持ちだった、というのは、これはどうですかね? ツイてる・ツイてない、一概には言えませんけれど、とにかく色々なことが起こるのです。70分余りという短い作品とは思えぬ盛り沢山の濃さ。 で、刑務所で知り合った男とともに脱獄して、一緒に銀行強盗やっちまって・・・という展開。ギャング映画か、はたまたヤクザ映画か。皮肉のきいたユーモアが作品にまぶされているとは言え、一応はこれ、深刻なお話なのでした。 強盗で金をかっぱらって車に飛び乗ろうとすると、案の定、お金の一部を落としてしまう。脚本通りなのか、本当にミスって落としたのか、そんなことはもうどうでも良くって、この人たちならきっとお金を落とすだろう、と妙に納得してしまう。で、そんなに慌てているにも関わらず、クルマはすぐにエンジンがかからない。やっぱりなあ、と。 なんとか国外逃亡の船に乗り込もうか、というところで映画は終わり、一応はハッピーエンド風だけど、もちろんこの先に幸せが待ち受けていると期待できるほど、現実は甘くない。甘くないけど、でもまあ、希望を胸に新たな親子三人が揃って、、、ということで、少し暖かい気持ちに。 ところで、例によってと言うか、他の作品でも引用されているチャイコフスキーの悲愴交響曲(『愛しのタチアナ』とか『浮き雲』とか)がここでも引用されていますが、それ以外に、ショスタコーヴィチも引用されていて(偽造パスポートを受け取ろうとする場面)、これがまさかの交響曲第9番(第2楽章ですね)。あの陽気そうな曲が、切り出し方によってはこんなシーンにマッチする、、、とは言えこの選曲、いったいどういう発想なんだか。。。[インターネット(字幕)] 8点(2025-04-30 16:50:47)《改行有》 38. 河内のオッサンの唄 私、生まれ育ちは河内と言っても「北河内」と言われるエリア、こういう本場モノには太刀打ちできず、ウチの方がナンボかお上品ざます、と思っているのですが、それでも何でも、子どもの頃、近所の盆踊りには必ず河内音頭が流れていて、たぶん、刷り込み入っちゃってます。 さてこの映画。ミス花子の同タイトルの歌にあやかって、適当にでっち上げられたような作品ですが、それでも何でも、面白いものは面白い。 主演はもちろん、川谷拓三。何がもちろんなんだかよくわからないけれど、これ以外のキャスティングは考えられません。新しいタイプのヒーローがここに誕生。ガサツで喧嘩っ早いんだけど、ちっとも強くない。ただし強くないと言ってもそれは腕っぷしのことであり、生命力という点では滅法、強い。この人たぶん、何されても死なないのでは。 そういう主人公を、これでもかと体を張って、過激に演じてみせる。川谷拓三という大部屋たたき上げ俳優の、真骨頂ですね。一方で、若き日の岩城滉一が、飄々としています。河内の原住民たちに交じった、異分子。 後半、舞台は東京へ。やくざ映画であれば、殴り込みをかけに敵地へと主人公が向かう場面で演歌調の主題歌が流れるところですが、この作品、人影のない薄明の東京の街に歩を進める主人公のバックに流れるは、もちろん、河内音頭。たぶん、ロケの都合上、人のいない明け方にでもゲリラ的に撮影したんじゃないのーとか思うのですが、それでも何でも、カッコいいものはカッコいい。東京の街に河内音頭が流れる、それだけでもう、充分ではないですか。それでも何でも。 ダサいって、素晴らしい。[インターネット(邦画)] 8点(2025-04-29 19:22:57)(良:1票) 《改行有》 39. 浮き雲(1996) 《ネタバレ》 これぞ、ペーソス。という作品。 地味な夫婦の、地味なお話ではあるのですが、夫婦そろって失業し、とにかくロクな事が無い。不運のお話を、淡々と描いていきますが、これが妙に可笑しく、可笑しい故になんとも言えぬ哀愁が漂っています。いかにもカウリスマキ作品らしく、登場人物はおしなべて無表情。不運で絶望的なのに、表情をはぎ取られてしまって、その想いを表出することもできない不自由さが、バカバカしくもあり、切なくもあります。この人たち、落ち込むことすらできないんだから、代わりに我々が落ち込んであげるしか、ないじゃないですか。 夫は職場で、仲間たちとともに、リストラの実施を宣言されます。手持無沙汰に並んだ職員たちの姿もどこか滑稽で、さらには解雇される者をカードで決めるなどという無茶が当たり前のように通ってしまうのも可笑しく、さらにはここで、上司がカードを扱う手捌きがムダに見事だったりするもんだから、さらに可笑しく、でも状況はもちろん笑いごとではない訳で、そのギャップが何だか、たまらない。 その後も、泣きたいような状況がひたすら続くのですが、彼らは決して泣かない。この状況にまるで関心がないかのごとく、淡々と不運が続いていきます。自分が悪いとか他人が悪いとかいうことも関係なく、強いて言えば「状況が悪い」んだろうけれど、それが当たり前の事のように、日常化されていて。 クライマックス(に相当するもの)は、何とか新装オープンにこぎつけたレストランに、お客さんが入るかどうか。これも淡々としていて、妙に可笑しい。開店直後は客が全く来ない閑古鳥状態、ああやっぱりダメだったかと思ったら、昼頃からだんだんお客さんが入り出して、とりあえず初日は大成功、というところで映画が終わります。静かなサスペンスの先に待つ、一種のハッピーエンド、ではあるのですが、およそ、ハッピーエンドとなるべき「根拠」は何もここには示されていないので、明日はどうなることやら。 悪い運が続けば、たまにはいいこともあるでしょ、と。希望があれば、それでいい。 相変わらず表情をはぎ取られたこの夫婦なのですが、ラストシーンで二人は、店の表に出て空を見上げ。なにせほぼ無表情なのでたいして嬉しそうでもないんだけど、二人の顔は光に明るく照らされている。 すみません、単純かもしれないけれど、こういうの、ホント切なくなるんですよね。[インターネット(字幕)] 9点(2025-04-29 07:22:22)《改行有》 40. 炎上 《ネタバレ》 今どきこのタイトルだと、他のコトを連想しかねない・・・面倒な時代になったもんです。実際、このページの上部を見ると「炎上の口コミ・評価まとめ」とか書いてるしなあ。 もちろん、そういう内容の映画ではなくって、三島由紀夫の「金閣寺」を元にした作品です。 原作を読んだのは中学か高校の頃で、あの頃はどういう訳か、純文学と呼ばれるもの以外は読んじゃダメだとかいう妙な思い込みがあり、要は必至で背伸びをしていたのですが、今振り返ると、あれはあれで悪い経験ではなかった、と思いつつ、いろいろと未消化のままになっちゃってるなあ、とも。 当時、途中までは主人公に肩入れして読んでいたものの、放火のくだりになって、急に飛躍したというか、ついていけなくなった記憶があります。私小説でも読むような読み方をしちゃってたんでしょうなあ。本は実家に置いたままになってて手元に無いのだけど、もし今の自分が読んだら、この小説について、そして自分自身の変化について、どう感じるんだろうか。 さて、その小説の、映画化。タイトルも舞台となる寺院の名前も変えられていて、さらに監督が市川崑なのである程度表面的な「金閣寺」になるのはやむを得ない(笑)のですが、小説の観念的な部分を無理に映像に置き換えようとはせず(映像のお遊び的なところは、別の意味で「観念的」だけど)、若手スターの雷蔵に敢えて地味な主人公の鬱屈を演じさせる、という、ある意味平凡な路線に落ち着かせたのは、これは正解だったのではないでしょうか。 今の感覚からすると、別に若手スターが意外な役作りをしたとて、それがどうしたの、ってなもんですが、まだまだ映画スターとの距離感が遠い時代ですしね。それに、歌舞伎時代の雷蔵の不遇から、彼の夭折までに思いを馳せると、この主人公像にも痛切なものを感じてしまう・・・というのは完全に後付けですが、でもやっぱり、この作品に対する雷蔵の意気込みには並々ならぬものがあったんだろう、と感じさせられます。 作品自体、この主人公に寄り添う形で描かれ、彼が憧れる「驟閣寺」との対比は、あまり強くは感じさせません。かなり薄れた原作の記憶の中で、妙に印象に残っているのが、主人公が金閣の模型を見る場面なのですが、これも映画には出てこない。言っちゃなんだけど、モノクロ映像だと正直、古びた寺院、でしかなく、それこそ、この寺院のモデルがキラキラの金閣なのかワビサビの銀閣なのかもよくわからん。。。ということで、主人公がなぜこの寺院にここまで惹かれるのか、映像的にはあまりピンと来ないのですが、彼の抱える屈託が前面に押し出されることで、間接的にアンビバレントな想いが描かれます。 モノクロ映像の強さが間違いなく発揮されるのは、クライマックスの炎上シーンでしょう。この力強さ。圧倒的です。終わり行くことの残酷さと、最後に輝く一瞬の美とが、ここには表れています。 やっぱり、雷蔵の人生と、どこか重なってしまう。 音楽は、後に「金閣寺」でオペラも書いている、黛敏郎。こちらは映画音楽とは言え、前衛手法に高い関心を持っていた時期であることも感じさせる部分があり、プリペアドピアノらしき響きも聞こえてきます。[CS・衛星(邦画)] 7点(2025-04-27 08:29:00)《改行有》
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