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21.  恐怖分子 《ネタバレ》 そう、紛れもなく起こった。理由の有無は置き、画面の強度がそれを証明している。フレームの外にも紛れもなく存在する物語が、生活が、悪意が「映画」の現在性を主張し、私的空間に侵食する心地よさ。画面外から突如ナイフで踊りかかる女、画面外の声、画面外の無声、銃声によって容れ物である花瓶を失い溢れ出す水、風、レースカーテン、写真、剥がされる皮膚。主題の欠如からエドワード・ヤンのフィルムはショットの一貫性に不利があるが、物語で補っている。ところであの餌付きは妊娠だろうか、心憎い人である。[ビデオ(字幕)] 10点(2008-02-07 13:56:31)

22.  ズーランダー つまらないことを言うようだが、芸術の創作に携わる人物は好い意味のインテリであってほしいと、結構真顔で願う。奇抜な衣装や演技と顔芸で映画を宣言する人物をとても許す気にはなれない。「おれって馬鹿でしょ~?」だとか「あたしって酒癖がひどくて~」だとかそんな話は徹底的に無視されなければならないのでは?映画以前の話かもしれないが、駄作以前の自称映画に他にどう言ってやればいいものか。[DVD(字幕)] 0点(2007-07-27 13:26:07)

23.  アフリカの女王 《ネタバレ》 よく戦争のことも分かってないくせにドイツ人魚雷でぶっ飛ばしちゃおーなんてデンジャラスな発想の思い付くオバサンを、良識ある方々はよく応援できるものだ……といったどうでもいい批判はさておき、この演出力の低さは一体どう説明をつければよいものだろうか。敵の陣地や激流の突破といった出来事のみによって魅力が完結しておりとても観るに耐えない。 映画にはジャンル映画と呼ばれる作品群があり、①これこれこういった状況でこういう出来事に遭遇しました。②よく分からないけど一生懸命頑張っているみたいなので応援してあげよう。 といったように一定のコンセンサスを利用した物語や感情の手っ取り早い理解がジャンル映画の特徴なのだが、善くも悪くもジョン・ヒューストンの監督するそれはジャンル映画と呼ぶにふさわしい。ジャンル映画を否定する立場に立つつもりはないし、リアリティだなんてうすら寒い評価基準を持ち出すつもりもないのだが、要するにヒューストンは、出来事によって支えられたジャンル映画の監督としか呼べない2流監督なのだと断言しておきたいだけのことである。白血病→可哀想、殺人→ハラハラ、このような単純愚直なコンセンサスのみで映画が成り立ってしまうとすれば、映画とは何とも貧しく脆弱な芸術である。[ビデオ(字幕)] 1点(2007-07-27 13:06:07)

24.  ラスト・ムービー サミュエル・フラーが出演している。ピーター・フォンダもデニス・ホッパーも悪い俳優ではない。だがまぁ何というか、ヤク中に映画は作れないという証明だろうか。ラズロ・コヴァックスはカッティングによって輝きを持つカメラマンであるのになぜこうも怠惰な編集ができるのか。ハリウッドや軍事主義の批判が幼稚であるからではなく、出来事の希薄さではなく、映画の虚ろさについて批判したい。サミュエル・フラー出演作の中で唯一の駄作ではないだろうか。[ビデオ(字幕)] 0点(2007-07-27 12:20:26)

25.  ビジターQ 《ネタバレ》 いじめ、家庭内暴力、薬物、援交といった現代の最小問題として想起され易い社会問題を単なる契機として、死姦、膣痙攣、母乳飛ばし……俗的な、あまりに俗的な欲望を悉く観る者の視聴覚に提示する。カメラを向ける前からそこにあったかのようなこの世界観の構築はホークス的でもあり(笑)、『ピンクフラミンゴ』や『ソドムの市』よりも断然肉欲に忠実である。三池如きを厚遇するのは大いに気が退けるのだが仕方があるまい。これは究極に俗的なSM作品である。[ビデオ(字幕)] 10点(2007-07-25 20:04:18)

26.  狩人の夜 《ネタバレ》 トリュフォーじゃないが、映画史上に燦然と輝く世紀の傑作を選べと言われたらわたしは本作を推すだろう。伝道師ハリーが幼い兄妹を追い続けるというその追跡行為は、金銭の欲に動機を発しているようでいて、失われた何かを追い求める、取り戻そうとする純粋な、抑止の効かない自然発生的な感情のように感じられるのだから分が悪い。 この追跡の映画には、宗教や集団心理の危険性、殺人、貧困、漠然とした愛、といった主題の断片がそこここにありのまま提示されている。存在の全てををさらけ出すようなこの観念的な魅惑が表現主義直系の映像(この水の美しさといったら!)に拠ってまるで恣意的に映画を宣言する。 サスペンスの表象を纏ったこの映画はスタンリー・コルテスを通じてサミュエル・フラーへと誘い、感知できる最小の音量で歌われる“rely-rely”の恐怖がブレッソンの“トーキーは無音を獲得した”という名文句を想起させてしまう、個人映画史上に欠くことのできない逸品である。[ビデオ(字幕)] 10点(2007-07-25 19:48:48)

27.  軽蔑(1963) 昔はすべてが共犯の歓びの中で無意識に過ぎていった。何もかもが異常で魔法のような気軽さとともに起きた。 異常なまでに繰り返される主題曲は、もはや作品の言語世界に追随することを辞め、自らの見えざる主題を語り出しているかのようである。 気付かぬ内に彼の腕に抱かれていたあの感覚はまるでなかったかのように姿をなくす。 自室で繰り返される真意の読み取れない議論の末、直後の劇場での、ラングとカミーユ、ポールと製作者の座席の位置で愛の消滅を告げる。これが映画である。 妻を殺しても愛を失い、浮気相手を殺しても愛を失う。 不毛な議論の中で、無価値な言葉と同等に発されたこの一節が価値を帯びてくる。これが映画だ。 フリッツ・ラングへの愛、映画への愛、ホークスへの愛、ヒッチへの愛、カリーナとの愛、一部映画への軽蔑。 言語が語る、音楽が語る、映像が語る、海が彫刻が語り合い、せめぎあっている。だからゴダールの映画は凄い。だから映画は素晴らしい。 [DVD(字幕)] 10点(2007-07-25 11:27:01)(良:1票) 《改行有》

28.  イレイザーヘッド 《ネタバレ》 本作の「未熟児なるもの」は誰がどう説明を施したところで、怪物である。視覚経験上それが未知なる何かであることがその証拠なのだが、なぜその未知なる怪物に何の説明も施さずにいられるのかという問いの発現こそがリンチの才を発見する口実であったように思う。わたしは未熟児の体調を心配して加湿器をあてている画に触れ、笑いを抑止できなかったのだが、それこそ未知なる才に気が触れた瞬間、シュールレアリスムの精神を正統に受け継いだ同時代の監督との遭遇であった。『イレイザーヘッド』は『勝手にしやがれ』や『ストレンジャーザンパラダイス』と同様に、大監督にふさわしい生気を纏った傑出したデビュー作である。[ビデオ(字幕)] 10点(2007-07-25 11:24:17)

29.  夏物語(1996) 《ネタバレ》 人間観察。本人でも気付かないくらいの微かな心情の移ろいを映画一本全てを使って映し出し、伝える。フェリーニと根本の美学は同じで、一人の人間の全てを誠実にフィルムに焼き付ける。ロメール自身が人に悩み、人について考え、葛藤していなければとても作れない。ロメール自身の投影とも言えるだろう。・・・「僕は愛されなければ、愛すことができない」。存在を強く認めてくれることこそが彼にとっての愛。主導権を握りたいという気持ちも強く持っているのに、愛すため(愛されるため)に下手になり、その過程を愛と錯覚する。だから一人の女を選ぶなんてことできない。けして女たらしでもナルシストでもない。彼はいつだって受け身。合気道みたいなもん。自分に対してのアクションがなければ何もできないから集団行動も無理。距離を保ち続ける女、音楽を受け入れる女、全てを理解してくれようとする女。皆に魅かれ、彼の立場から言えば、翻弄され続けるその姿は愚かしくもあり、彼の独特の腕組み姿は可愛らしく、可笑しく、切なく、優しい。 ロメールの映画は言語的と評される。それはけして台詞の多寡によってではなく、それは例えば『裁かるゝジャンヌ』のように、見た目の言語性を超越した精神性への言及と捉えられなければばならない。より刮目すべきは台詞ではなく彼の腕組み姿なのだと念を押しておきたい。・・・最後に一つだけ、正直言って合気道のことよく知りません。よく知らないくせに合気道乱用すんじゃねーよ、とか言われたら困るので一応言っときます。ごめん。合気道。まじごめん。[ビデオ(字幕)] 10点(2007-07-25 10:47:46)(良:1票)

30.  最前線物語 《ネタバレ》 北アフリカ、イタリア、イギリス、ベルギー・・・各地で行われる諸作戦、その最前線を、ただ見せつける。作戦の背景や目的は明かされず、語られず、ただ生きるために殺し、殺されないために生きる。戦争下において殺しとは生活の営みである。花で飾られたヘルメット、棺桶を喜ぶ少年、分娩を手伝う四銃士とそれを見守るドイツ兵、一時の幸せを感じ軍曹の肩で息絶える少年。それらと同列にみなされる殺しという営み。時を刻み続ける死体の時計がその現実を突きつける。 リアリズム、センチメンタリズム、ヒューマニズム、ペシミズム、そんなものよりも映画は時としてこうした雑多なファンタジーにこそ詩情のごとき個性を与える。紛れもなく映画らしい映画。映画の力を得た映画である。 [ビデオ(字幕)] 7点(2007-01-04 16:08:44)《改行有》

31.  裸のキッス スコセッシやスピルバーグに影響を与えた?それどころではない。作品を観れば、ゴダールやヒッチコックに並ぶ逸材であることは明らかである。短いショットの連結によって確信犯的に重要度を知らしめるその手法は正にヒッチコックの手法であり、事実匹敵しているし、ジャンプカットを始めそれ自体がその運動自体が魅力となりうる事象や技法を提供する姿勢は正にゴダールである。加えてこの作品に触れた折、思い出さずにいられないのが『狩人の夜』である。撮影が同じくスタンリー・コルテスによることは後で知り、驚きと納得を得たのだが、その光をふんだんに取り入れた映像そのものもさることながら、映像によるところの語り口(長回しを厭わず、省略を恐れない)、真相を目撃した際のカッティングであるとか幼女が真相を語った後の流れるような、一連の動きと運命付けられていたかのような録音機からテープへのカメラワークだとか、夢の絶頂であった子供たちとの掛け合いの歌を凍り付くような絶望の歌として再会させてくれるあたり、すべてが『狩人の夜』的なのである。それはつまり『狩人の夜』の素晴らしさを再確認したいのであるが、それと同時に、ゴダールやヒッチコックまでも感じ取らせてくれる、この教祖として申し分ない人物、サミュエル・フラーを本来あるべき陽の下に立たせようとする運動への欲求なのである。 [ビデオ(字幕)] 9点(2007-01-04 10:08:52)(良:1票) 《改行有》

32.  美しき諍い女 真の芸術とはすべて言語的であるし、言語性を帯びない作品はどれほどの技法や才や色彩が詰められていても駄作である。絵画の場合、画家と被写体の関係性や交錯する想い、性格だとか情念が投影されたものが傑作であり、真の画家が満足できる唯一の到達点であろう。精神や魂という高次元を具象的に表現する方法を人類は知らない。言語や言語性を帯びた表現によって抽象的に提示するのみである。さてこの映画、アトリエの薄暗さとドアの外の眩い光であるとか、その密室性も忘れ難いが、真に特筆すべきは、ゴダールのような、あるいはフラーのような教示的姿勢であろう。リヴェットは真の芸術家とは何か、あるいは芸術の見方を提示してくれているのであり、観客論を含めた広義での芸術論を教示するためだけにこの映画を我々に捧げてくれたというこの事実である。 [ビデオ(字幕)] 6点(2006-12-29 08:25:26)《改行有》

33.  白い恐怖(1945) これは珍しくヒッチコックが理性的に、定型化された映画文法の誘惑に屈した失敗作である。つまりはは説明的で規範的で冗長な作品、そう言わざるを得ない。そもそもヒッチコックは言語構成力に長けていないのだからこんな企画は撮らないのが利口な選択だろう。 会話は言うまでもなく感情や解釈に没頭し、音楽は(テルミンの音色が美しかろうと美しくなかろうと)ただただ単純愚直に追随する。まぁ精神分析という題材ゆえ、基本プロットの論理性は保持したかったのだろうが、映像を根幹に据えたプロット構成ができなかった時点で、エモーションを喚起し続けることこそが映画という信念を疑ってしまった時点で、ヒッチコックが傑作を生み出すわけがない。もちろん同じヒッチコックという人物であるから印象の断片を拾うことはできる。ミルクの注がれたグラス越しの視点、白に満たされた画面はまさにヒッチコックであるし、弟殺しのカッティングにはエモーションを掻き立てられる。初めてキスを交わした際の次々に開かれるドアは珍しく心理状況の説明的な隠喩だが、その確信犯的行為はやはり魅力的である。木製の手に拳銃を握らせてまで撮影した被写界深度の深い映像も然りである。だがまた、あまりにぼやけた人物の輪郭、あまりに質感の乖離したダリとの共同作業、悪いエモーションしか生み得ない滑走シーンといった弱点もある。詰まる所、紛れもなくヒッチコックの作品ではあるが重要度は低い。それだけのことだろう。 [ビデオ(字幕)] 5点(2006-12-29 08:24:04)《改行有》

34.  生きるべきか死ぬべきか 《ネタバレ》 展開の再活用。ナチの会話が舞台上の演技だったという冒頭のシーンが、本物の教授と偽者のエアハルトのシーンに活かされる。本物の教授と偽者のエアハルトでの“収容所のエアハルト”のくだりが、偽者の教授と本物のエアハルトの会話に活かされる。この展開の妙をいちいち文章にするとややこしすぎる、っていうぐらいのめまぐるしい展開。ルビッチのような作家性の強い監督の稀少さ、偉大さは鑑賞した人にしか分からないし、鑑賞したならば誰もが感じるものだろう。 ただ、一方的なプロパガンダ色の強い作品だということも確か。ドイツ人だって槍でつけば血が出るし、飛行機から飛び降りるのもめっちゃ怖いからね。恋愛や下心や役者の夢、といったエッセンスで半分近くを構成し、色を薄め、さほど気にさせないあたりがこれまたルビッチの巧さでもあるわけやけど。夫への愛は明言し、それでもふらついちゃうっていう憎めない奥さんの役柄も素晴らしい。エアハルトの「シュルツ!」も絶妙。だが、本作に限らずルビッチの作品はリズムに余裕がなく、心地よく笑い続けることができない。展開が速いだけに、演技もしくはカッティングで緩急をつけてほしかったところ。  (追記) 戦時中に最も多く公開される映画が国策映画であることは周知の通り。自国を貶す論調の作品を公開することは検閲その他の面で非常に難しく、また勇気を伴うことかもしれませんが、他国を貶すことは実に簡単です。戦時中云々といった付加価値でこの作品を評価するならば、それをコメディという形で仕上げたということ、監督の狡猾さのみ評価されるべきでしょう。[ビデオ(字幕)] 8点(2006-12-29 08:17:59)(良:1票)

35.  汚名 《ネタバレ》 これと「めまい」はヒッチの作品史上稀有に堅実な傑作である。つまりはシナリオに支えられ、偉大な演技者たち(ケイリー・グラント、バーグマン、クロード・レインズ)に支えられ、無駄のないシンプルな外見を仕立て上げている。特に俳優に関して言えば、それぞれが目で語らしめる実力を備えており、実際ヒッチコックもこの作品に関しては目で語らせることを相当意識して作っている。ケイリー・グラントの真意の読み取れない奥深い眼、パーティシーン等でたびたび注視されるクロード・レインズの疑いの目、コーヒーの毒に気付いた際にバーグマンが見せた隠しきれない動揺の目。とりわけこのシーンではクロード・レインズ、母、バーグマン、それぞれの意図を反映した目のクロースアップが次々とカッティングされることで展開の変化を告げる素晴らしき映画の躍動に満ちている。この作品はいかにもヒッチコック風の視覚的エモーションの緊密性には縛られていないが、やはり随所でその鋭利な演出を見せ付けられている。バーグマンが鍵を隠し持つシーンがそれであり、積極的に転落へと向かうワインボトルのカッティングがそれであり、絶望のなか屋敷への階段を上るクロード・レインズ、その陰影の美しきシンメトリーの静謐な緊迫がそれである。 またクロード・レインズの最期を省略したことや、ブフカの死を見せなかったこと、バーグマンに対する遅効性の毒を考えてみても、発狂の瞬間よりもむしろその過程、溺れて死ぬまでの息苦しさをこそ描きたかったのだということもよく分かる。 [ビデオ(字幕)] 8点(2006-12-29 02:41:44)(良:1票) 《改行有》

36.  夜の蝶(1998) いずれの作品にも言えることだが、彼が時折見せる整理されたシンメトリーの無機質さにはらまれるテンションの迫力が凄まじい。それは定型化された映画文法ではあるのだが、その一方で隅において大事な演出をしたりするのだから、彼がどれほど画面を意識し、画面を最大限に生かそうと徹底しているかがわかる。ラストショットで右端奥の鏡に女たちが映っていないという物静かな語りはいい例である。 これはフェミニズムな作品である。無機質である“物”が動き出すというアイロニーが問題なのではない。男社会の中で無機質に仕立て上げられた“女”が一時の生命を与えられるという強烈なアイロニーが問題なのであり、だからこそ男は有機的(実写)であり、だからこそ女たちの踊る姿はこれほど幻想的なのである。 [DVD(字幕)] 8点(2006-12-29 02:40:29)《改行有》

37.  blue 《ネタバレ》 魚喃の描く線は細い。いや実際は筆圧の強い画風なのだがその潔さゆえに細くさえ感じられるその線と、限りなく排除された背景はそのある種の詩的世界を構築しているし、その細い線で描かれた人物の顔は豊かであり個性を持ちながらも、ある種の匿名性を帯びている。「遠藤」や「桐島」は単なる記号に過ぎない。記号に過ぎないからこそ、その名前が発された時そこには虚しさの空白が流れ込み、また自らを混同せずにいられないのだと私は思う。 さて映画はどうだろう。ここでの問題はもちろん市川実日子なわけだが、私はこの顔を見せられた瞬間「桐島」が記号ではなく名前になるのを感じた。美的感覚ではなく詩的感覚の問題である。 だがまぁ魚喃の言うようにこの作品は双子ではなく“いとこ”か“はとこ”なのだから仕方ない。独立した個としての評価に移るとしよう。市川実日子を採用した理由は間違いなくドラマティック性の拡大にある。つまり桐島と遠藤との関係性に見た目にも明らかな優劣を施すことによってその関係性の変化(厳密に言えば入れ替わり→変化)を強調するためである。そしてそれによって桐島が絵画に打ち込むという新しい情動を生み出し、岡崎京子から引用したと思われる庭での水撒き、浄化という素晴らしい映像言語的展開にも立ち会えたわけであるから、個として捉えた場合あながち外れた選択でなかったことは確かである。加えて、対比を求める強い嗜好がこの監督にはあるのだろう。極力自然光で撮影された画面は黒を強調させ光を共存させる手法であるし、固定を軸にし長回しされるカメラと間の豊かな会話の静けさを明らかに強調するサウンドトラック(雑音)、といった具合である。その数々の対比は機能し合い、映画として完成されていたわけだが、最後に至ってその執拗なまでに貫いてきた対比の法則を捨て去るところがこの監督の度量というか、素晴らしいところである。あのホームビデオのブルーはそれほど巧妙に観客の脳に焼き付き、原作blueの冒頭の一節をまるで海が映像言語を持って語らしめてしまっているかのようである。   “濃い海の上に広がる空や 制服や 幼い私達の一生懸命な不器用さや      あのころのそれ等が もし色を持っていたとしたら それはとても深い青色だったと思う。” [ビデオ(邦画)] 8点(2006-12-29 02:38:04)《改行有》

38.  引き裂かれたカーテン 農家での殺害シーン、目付け役がポール・ニューマンの腹を小突く短いショットが緊迫を煽り、水入りの鍋が投げつけられる、視覚的・聴覚的衝撃によって沸点を越え、展開を変化させる。そして人間臭を過剰に嗅がせる死への道程。ヒッチコックが恐怖や動悸を与える際の特徴的な演出、ややローアングル、クロースアップぎみの縦の動き(ナイフを持った女)と肉体的痛みを感じさせる短いショット(足へのシャベルでの打撃)が編集(モンタージュ)によって一体となり、また鎖骨あたりに刺さったナイフが折れるといった独特のリアリズムが絡むことによって“たかが”殺害シーンをこれ異常ない密度に引き上げている。 ヒッチコックの真髄とは正にこれである。“たかが○○シーン”に工夫を惜しまない姿勢がすべてのショットに浸透し、すべてのショットが関係性や状況の緊迫を示唆している“かのような”絶え間ない緊密さに支配されている。それは時にはホテルのエレベーターから移動の俯瞰ショットで捉えたような(エレベーターから出てくるニューマンと床掃除の従業員、最後に目付け役がクロースアップで映り込むショット)単なる視覚的エモーションに過ぎなかったりもするのだが、言語性との緊密性よりもこういった絶えず繰り出されるエモーションの緊密性こそが、ヒッチコックが自ら課した責務なのだろう。 無論この映画の脚本は凡庸で平板的なものであり、「家事だー」と英語で叫び大わらわとなる寒々しさや、また査問会の部屋からジュリーが飛び出すような単なる感情の露見化に過ぎない退屈なシーンも見受けられるのだが、単なる失敗作ではなく、健在振りを発揮した作品であったことだけは再確認しておこう。 [ビデオ(字幕)] 7点(2006-12-29 02:36:33)《改行有》

39.  日陽はしづかに発酵し・・・ 何とも面白い、特異な作家の登場である。確実に映画史・映像史の基礎を踏まえた画作りでありながら、その因果関係を語ることを許さない。ソクーロフの映画としか言いようのない、生誕の瞬間から完成していたかのような気味の悪さがある。褐色のモノクローム、アイレベルではありえない垂直の俯瞰視線、その奇抜さを語ることさえ拒むかのような完成度なのだ。 色調の徹底はタルコフスキー的(というよりタルコフスキー以後ロシアの伝統的)であるし、紙に火をつけ燃やす(これがなかなか点かない)1ショット1シークエンスもまたタルコフスキー的である。 が、その色調はタルコフスキーのように自然を美化するためのものではなく、むしろありのままの広大な自然、荒野に人間を配置し、その人物を浮き立たせるためであるし、省略を恐れず、積極的に物を語る姿勢にも充ちている。惜しむらくは語るべき物の不在であろう。ソクーロフはいつか傑作を撮る。この作品に触れて、それだけは確信できる。 [ビデオ(字幕)] 7点(2006-12-29 02:33:43)(良:1票) 《改行有》

40.  パッション(1982年/ジャン=リュック・ゴダール監督) 自分に役割を求めるな。動け。探せ。見出せ。“映画「パッション」のためのシナリオ”を観て気付かされる。映画「パッション」の中でゴダールの分身たる監督は繰り返される「物語」の要求に当惑し反発していた。ゴダールは何も「物語」を否定しているわけではない。「物語を語ること」を否定しているのだ。映画「パッション」の中で「物語」は語られていない、「物を語っている」のだ。劇中で“最小限の努力と最大限のトラブル”と語るように、また“映画「パッション」のためのシナリオ”において「整理して物を語る人はいない」と語るように、映画の中の運動と映画をつくる運動とに同等に意義を与え、つまりは後者に対しての意識的な姿勢を喚起し、またその発信者たちに、監督に、俳優に、スタッフに、労働者に、passionを、情熱あるいは受難を課す。そういった映画である。 火の不在、労働者と監督、映画と工場、愛、受難、情熱。映画「パッション」は退屈である。観客は光の不在を嘆かず、物語の不在を嘆くだろう。だが、もし映画観を、信頼してきた自らの映画眼を破戒される代償を怖れぬ者であったならば、喜びと不審の心をもって受難されることになる。そうして持ち得たもうひとつの眼は自らの創造性を刺激し、真っ白なスクリーンのみならず、既に作られたその映画に対してまでも創造主として臨む人生をもたらすことになるだろう。 [ビデオ(字幕)] 10点(2006-12-29 02:32:31)《改行有》

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