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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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461.  X-ミッション 1991年のヒット作「ハートブルー」のリメイクというが、正直おこがましい。非常に浅く、薄っぺらいアクション映画だった。 今作の無名俳優たちに、「ハートブルー」のキアヌ・リーヴスとパトリック・スウェイジと同等の“華”を求めることは酷だしせんないことだとは思うが、やはり何をおいても主人公キャラクターの二人の魅力があまりにも無さすぎた。 主人公はエクストリームスポーツYouTuber上がりの新人FBI捜査官という設定にオリジナルから改変されている。 「YouTuber」という設定で時代性を出したかったのかもしれないけれど、調子に乗った危険行為の挙句、巻き込んだ友人を死なせてしまうなんていう愚かなプロローグをいきなり見せられて、正直引く。 そんな愚行のせいでいくら傷心していても同情できないし、そんな状態で僅か数年でFBI捜査官に転身するなんてくだりにも、リアリティがまるでなく馬鹿馬鹿しく思える。 そんな主人公と共鳴し、立場上許されない友情と信頼を育んでいく犯罪集団のリーダーにもキャラクターとしての説得力が無かった。 とある崇高な思想でエクストリームスポーツの限界点に挑み続けるキャラクターだということは理解できるが、その描かれ方はただただ破滅的にしか見えず、人間としての魅力を感じることが出来ない。 このキャラクターに対して、主人公の捜査官も、我々観客も、犯罪者という立場を度外視した「憧れ」を抱かさなければ、そもそもこの映画は成立しないと思う。 「ハートブルー」がヒットしたのは、初主演で初々しいキアヌ・リーヴスのスター性と共に、パトリック・スウェイジが扮した“カリスマ犯罪者”に確かな魅力が備わっていたからだろう。 一方で、そういった人間ドラマを覆い隠すように全面的にプロモーションされていたエクストリームスポーツによるアクションシーンに見応えがあったかというと、それも正直弱い。 あらゆるエクストリームスポーツの限界点をクリアすることで不可能犯罪を可能にする犯罪集団という設定が、このリメイク企画の最大のウリだったはずだが、実際にそれらのシーンが描かれたのは主人公が直接操作に絡む前の“プロローグ”のみ。 特に主人公が実際に潜入捜査に関わってから以降は、カリスマ犯罪者が、ただ純粋に人間の限界に挑戦することのみを目的とするシーンの羅列のため、物語の推進力が著しく低下していたと思う。 それに、当初の触れ込みでは「CG無し」ということだったので、現実世界のエクストリームスポーツのプレイヤーたちがすべてのアクションシーンを見せてくれるのだろうと期待していたのだが、実際は明らかに現実離れなシーンが多く、CGも大いに多用されていたように見えた。 そして、ラスト。死にゆく友を見送る様は「ハートブルー」と同じだが、いかんせん人間ドラマ的にもアクション的にも求心力が皆無のため、その様はただただ希薄で滑稽に見える。 詰まるところ、愚行で始まり、愚行で終わる映画にしか見えなかった。[インターネット(字幕)] 2点(2017-11-07 23:29:08)《改行有》

462.  キングコング: 髑髏島の巨神 「怪獣がいっぱい出てきてたのしい!」 まるで幼稚園児並みの感想だけれど、実際この映画の素晴らしさを表現するにはこの一言で充分だと思う。 なぜならば、この映画の製作陣は、観客にそれ以外の感想を求めていないからだ。 むしろ、観客がどう思うかなんて二の次で、怪獣映画や特撮映画大好きでたまらない自分たち自身が、観たくて仕方がない怪獣映画を“オタク魂”全開で作りきったのだと思える。 「俺が観たいキングコングはこうだッ!!」 と、言わんばかりの振り切れた映画世界が、同じく怪獣映画ファンとして、もう堪らない。 当初この映画に対する自分の反応は正直薄かった。 2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版に対する記憶も新しく、“キングコング”という題材自体に、今更な思いが先行したこともその要因の一つだろう。 ピーター・ジャクソン版は決して悪い映画ではなく、あの監督ならではの膨大な映像的物量を楽しめたとは思うが、1933年のオリジナル版に対して良い意味でも悪い意味でも忠実だったことで、どうしても「時代錯誤」な印象が際立ち、現代の娯楽映画として熱く迫るものがなかった。 そもそも1933年のオリジナル版には、「黒人差別」に対するメタファーが含まれているとも言われ、そういう題材をそのままのテーマ性で描き出すというのは、やはり色々な観点から“無理”があったというものだ。 しかし、この新しい「キングコング」には、そういった幾つものリメイク版が孕んでいた時代錯誤感を一蹴する描写で満ち溢れていた。 過去作のように、コングが人間により“鎖”に縛られ屈服する姿などは一切描かれない。 彼は終始一貫して、神々しいほどに強大で、只々雄々しい。 唯一無二の島の巨神であり、絶大な尊敬と恐怖を等しく内包する「畏怖」の対象として尊厳を保ち続ける。 強敵(悪役怪獣)とのラストマッチの最中、絡まった巨大な鎖を引き千切って反撃する様は、まさにその過去作に対するアンチテーゼの象徴だった。 熱い。コングのドラミングに呼応するように血潮が湧き上がってくるようだった。 怪獣を圧倒的な「畏怖」の象徴として描き出すことこそが、「怪獣映画」の本懐だと僕は思う。 そのことを、正しい憧れと遊び心を持ってして追求したこの映画を否定する余地は微塵もない。 鑑賞後、友人が「5歳の息子を連れて観に行っていいか?」と聞いてきた。 僕は「PG12」指定もなんのその即座に“太鼓判”を押した。 どうやら存分に楽しめたようで、とてもとても羨ましい。僕もはやく我が息子と「怪獣映画」を観に行きたいものだ。 エンドロール後のシークエンスにもニヤつきが止まらなかったが、順調にいけば2020年に「あの対決」が実現するらしい。 その時、息子は6歳。叶うことなら今すぐにでも前売り券を買いに行きたい。[映画館(字幕)] 10点(2017-11-07 23:24:01)(良:1票) 《改行有》

463.  ラ・ラ・ランド 《ネタバレ》 夢に憧れて、夢を持ち、夢を見て、見て、見続けて、ついに夢を叶えた時、夢は終わる。 それは、二人が踊ったマジックアワーのように、限られたものだからこそ、美しく、何にも代え難い。 「LA LA LAND」とは、文字通りロサンゼルス、特にハリウッドを指す言葉である。 そこには夢に取り憑かれ、夢に浮かれるあの街と、そこに住む“夢追い人”の様を揶揄する意味合いも含まれるらしい。 しかし、そんな“周囲”のフツーの価値観などは百も承知。或いは愚かだろうが、浅はかだろうが、跳ね除け、歌い飛ばし、踊り飛ばす。 そんな“夢追い人”として生きようとしている人、または生き続けている人々の「気概」が、このミュージカル映画のタイトルには込められているように感じた。 もちろん僕はハリウッドには行ったことすらないけれど、少なからず何かしらの夢を持ったことがある人間の一人として、彼らのその気概と、必然的に伴う現実の切なさに対して熱くならずにはいられなかった。 そして、夢に生き、一つの夢の終わりを見届けた二人の或る終着点に、刹那的な美しさと、堪らないエモーションを感じずにはいられなかった。 ラスト、別れた二人が邂逅した時、まるで在るはずのない走馬灯のように、彼らが“辿らなかった”人生模様がめくるめく。 そこにはファンタジーのような多幸感が満ち溢れ、これでもかと我々の胸を締め付ける。 他者を遮断し、感慨にふける二人。しかし、彼らの表情に後悔はまったく感じない。 選ばなかった人生が多幸感に溢れていたとしても、それが「=幸福」ではないことを他の誰でもない彼ら自身が最もよく分かっているからだ。 夢を叶えて、夢の終着を見た二人は、そこに必ずしも幸福が付随しないことをとうに知っている。 そして、成就しなかったからこそ、美しさが永遠に保たれる事柄があることも。 この映画の主人公達の人生は、決して美しくはなく、褒められたものではないのかもしれない。 でも、夢を追い続けた彼らに後悔はない。いや、後悔などしていられないのだ。 “ファンタジー”を愛し、そして同時にそれを“非現実”だと認めること。 それこそが、あの場所で夢を追い求めるすべての“ロマンティストたち”に与えられた宿命であり、矜持なのだろう。 決してただ単に「夢」を描いてラララと楽しい映画ではなかった。 もちろんその楽しさと美しさも認めつつ、苦しさや醜さをもひっくるめて、現実と非現実の狭間で、“夢を追う”という生き方を力強く肯定しているからこそ、この映画は素晴らしいのだと思う。 故に、特にハリウッドで生きる「映画人」たちからの賞賛の場であるアカデミー賞においては、最高賞の栄誉に相応しい作品だったと思う……本来であれば。 こういう映画がすんなりと“No.1”に輝く時代になればいいのだけれど。[映画館(字幕)] 9点(2017-11-06 23:37:07)(良:5票) 《改行有》

464.  海月姫 とても愛らしい映画だったとは思う。 原作漫画は1巻しか読んでいないが、キャストのビジュアル面をはじめとして最大限忠実に漫画の実写化に努めている。 ただそれ故に、あとほんの少しだけ映画表現としての巧さが備わっていたならば、この映画は青春映画としても、ファッション映画としても、もっと快作に仕上がったのではないかと口惜しさが残った。 コメディ漫画の世界観を、キャスト陣はビジュアル、テンション含めて見事に表現している。それについては、核となる“尼〜ず”の面々のキャスティングが抜群だったと思う。 もはや「名女優」という枠にカテゴライズされてもおかしくない池脇千鶴の贅沢過ぎる配役を筆頭に、ビジュアルの合致を存分に活かし“芸人枠”としては塚地武雅並の安定感を見せた馬場園梓(アジアン)、ファッションにも精通した篠原ともえのバラエティー性は映画の題材的にもマッチしていた。 そして個人的には何と言っても太田莉菜。「69 sixty nine」以来のファンとしては、彼女がまさかの役どころを怪演していることも嬉しかったが、“まやや”というキャラクターに隠された要素を知らなかったので、クライマックスの顛末では何故この役が太田莉菜だったのかが一目瞭然で、ただただアガりっぱなしだった。 この“尼〜ず”の面々が入り乱れるシーンの一つ一つは笑いが絶えない。 ただそれぞれがコント的で、個々のキャラクターが持つドラマ性までは踏み込めていないことも事実。 もちろん、奇妙な面々の可笑しささえ表現できていればいいのかもしれない。けれど、終盤の展開を踏まえると、もっと個々が待つ葛藤や人間性に踏み込んだ場面があった方が、“チーム感”が高まり、ラストの円陣はもっともっとエモーショナルになったろうにと思えてならない。 126分というコメディ映画としては結構な長尺を有しているにも関わらず、そういった人間描写が物足りないことは、映画的な巧さがなく稚拙なのだと思う。 あと、これは言っても致し方ないことだとは思うけれど、“女性にしか見えないキャラクター”を男性が演じるのはやはり無理がある。 菅田将暉は「綺麗」だったし、所々の1カットにおいては、原作漫画のキャラクターのビジュアルを表現できていた場面も幾つかはあったと思う。 しかし、実写で動きがつくとなると、やっぱり男は男だし、それをあれほど密接に関わっている人達が気付いていないという設定にはどうしても違和感を感じ続けなければならなかった。 まあコレは本当に仕方ないことだ。それが最大のウィークポイントになることは前提の上での映画化なのだろうから、もはや何も言うまい。 そして、この映画が愛らしい最大にして唯一無二の理由は、言わずもがな「能年玲奈」(2014年時点)という女優の存在そのものである。 能年玲奈演じる主人公“月海”が、すべてのシーン、すべてのカットにおいて愛らしいからこそ、この映画は愛らしいのだ。 女優として上手いとか下手だとかそういう一般的な評価は彼女には相応しくない。 能年玲奈が能年玲奈であったかどうか、この女優に与えられる評価の付け方はそうあるべきだとすら思う。 「あまちゃん」を観ていなかった僕は、先日観た「この世界の片隅に」に続いて、今更ながらこの女優の特別さを思い知っている。 決して優れた映画ではなかったし、評価が低く、売れなかった映画であることも納得はできる。 ただしだ、能年玲奈、いや「のん」という女優の若き日の貴重な時間を切り取った映画としては、とても大切な作品になるかもしれない。[インターネット(邦画)] 6点(2017-11-06 23:32:17)(良:1票) 《改行有》

465.  ドクター・ストレンジ マーベル・コミックのクロスオーバー作品である“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”のシリーズ第14作目にして、“フェイズ3”の2作目なんて聞くと、もはやファンですら混乱してしまいそうで、完全に一見さんお断りの雰囲気を醸し出している。 ついに「魔術師」まで登場してしまっては、この世界観のリアリティーラインが一気にぶっ飛びそうだが、その「異質」さが、逆に一見さんを“アリ”にしてくれているようにも感じた。 故に、特にMCUシリーズのファンにとっては、大いに賛否が分かれる作品に仕上がっていると思う。 アメコミ自体への造詣が深いわけではないので、当初は「ドクター・ストレンジ?何だそれ?」といったところだったが、MCUにベネディクト・カンバーバッチが参戦となれば、当然劇場に足を運ばぬわけにはいかない。 そして、傲慢で屈折した性格を持つ天才外科医なんて役どころが、カンバーバッチにマッチしないわけがなく、髭を蓄えた白髪交じりの魔術師の立ち振舞も、他のマーベルヒーローとは一線を画す格好良さがあった。 ある意味では、そのビジュアル的な娯楽性を達成できている時点で、アメコミ映画としては「成功」と言ってもいいのかもしれない。 しかしながら、これまでのMCUシリーズ各作品において(すべてとは言わないが)ストーリーテリングの巧さとエンターテイメントとしての手際の良さによって高揚感を与え続けられてきたファンとしては、少々稚拙なストーリー展開に思わず眉をひそめてしまった。 冒頭からクライマックスに至るまで、終始ストーリー運びが唐突に感じた。 天才外科医だった主人公が、交通事故を起こし、天職を失い、絶望し、彷徨い、偶然に怪しい呪術の存在を知り、学び、魔術師になる。その一連の流れがあまりに短絡的で、都合いい。「そういう運命だから」という一言で済ませようとするような乱暴さすら感じてしまう。 主人公をはじめとする各キャラクターの行動理由についての描写も非常に薄い。 何やらわけの分からぬ固有名詞を連発してそれっぽいことを述べて、強引に事を運んでいるように見えてならなかった。 ラストの主人公が勝利するくだりは、魔術師らしい狡猾な“とんち”が効いていて小気味よかったが、あのような展開がまかり通るのならば、それを活かしてもっと巧いストーリーテリングが構築できたのではないかと思える。 序盤の都合のいい展開も、時空を超越した魔術師の仕業だった〜なんてオチであれば、楽しかったのにと口惜しさが残った。 とはいえ、前述の通りMCUシリーズの中でも個性的な作品であることは間違いない。 ストーリーの稚拙さはあるが、場面場面の愛らしさを含め、奇妙で歪でかわいい映画と言えなくもない。 「魔術師」の登場に対してリアリティーラインの崩壊を危惧したけれど、考えてみれば、古来より「科学」と「魔術」の境界線は紙一重であり、実は今もそれは変わりないのかもしれない。(「ドラえもん のび太の魔界大冒険」で出来杉くんも同様のことを言っていた) ならば、科学の粋を集めたアイアンマンと魔術師のドクター・ストレンジが同一世界に居たとしても全くおかしくはないのだろう。[映画館(字幕)] 6点(2017-11-06 23:13:35)(良:1票) 《改行有》

466.  この世界の片隅に(2016) 正月に妻の祖父母の家に行った際に、義祖母から大戦時の空襲の話を聞いた。 居住していた郊外から、市街地が空襲を受ける様を遠目で見たという。 変な言い方だけれど、と前置きをした上で、当時子どもだった義祖母は、爆撃される光景が花火のように「綺麗」に見えたと言った。 とても印象的だったその正月の義祖母の話が、この映画のシーンと重なった。 主人公のすずは、爆撃を受けるその只中に立ち、眼前に広がる“非現実的な現実”の光景に対して、「ここに絵の具があれば、絵が描けるのに」と思う。 勿論、それが夢想であり、現実逃避であることを本人は分かっている。 でも、そうでも思わなければ、この目の前の現実を踏まえて次の瞬間を生きていない。それがこの「時代」を生きた人々が、共通して持った“生きる術”だったのではないか。 そして、義祖母の「綺麗」という感情もまさにそれだったのだろうと思う。 初めてこの映画を観てから2ヶ月近くが経とうとしている。 その間、何度も感想をまとめようとした。けれど、映画を振り返る度に、主題歌と主人公の声が言霊のように頭の中を巡り、繰り返し繰り返し感情を揺さぶっている。今もなお。 悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない。 でも、涙が溢れる理由は、決して悲しいからだけではない。 悲しみを越え、苦しみを越え、痛みを越え、怒りを越え、虚しさと絶望を越えて、その先に何があったのか。 悲しみが消えて無くなるわけでもなく、それを補うだけの幸福があったわけでもない。 それでもだ。それでも命を繋ぎ、ただ生きていく。 その“普通”の人間の、愛おしいしぶとさに涙が溢れる。 “すずさん”の人生が特別なわけではない。 彼女と同じように、何千万人もの普通の人たちが、泣き、笑い、怒り、「戦争」という生活を生き抜いてくれたからこそ、僕たちのすべてと、この映画は存在している。 ん、やっぱりうまくまとまらない。 ただ、全部がすごい。 取り敢えず映画を2回鑑賞し、原作漫画を読みふけったが、この先も僕は人生を通して“すずさん”と共に泣き笑うだろう。 そして、この世界の片隅で命を繋いでいくだろう。[映画館(邦画)] 10点(2017-11-06 22:56:03)《改行有》

467.  バイオハザード: ザ・ファイナル 感無量。臆面なく言わせてもらうならば、満足度は高い。 と言うと、真っ当な映画ファンとしては「馬鹿じゃないか」と思われるだろうが、実際そうなのだから致し方ない。 勿論、この映画単体を指して、エンターテイメント大作の傑作などとはお世辞にも言えるわけがない。 しかし、1997年の「フィフス・エレメント」からの主演女優ミラ・ジョヴォヴィッチの大ファンで、彼女のスーパーヒロイン女優としてのポジションを確立した2001年の「バイオハザード」から今作に至るまでのシリーズ全6作を「映画館」で観た“感染者”として、やはり「感無量」という言葉を使わざるを得ない。 前述の通り、今シリーズにおいては、とうの昔に“感染者”に成り下がっており、最新作に対する真っ当な「期待」などはとっくに無くなっていた。 それでも結果として映画館に足を運び続けた理由の大半は、ゾンビよろしく排他的な「惰性」と、主演女優の美貌を拝んでおかないとという慢性的な「欲情」に占められていたと思う。 そんな感じで、「ああやっぱりイマイチだったな……」だとか、「ああやっぱりジョヴォヴィッチはエロいな……」などと思いつつ、ゾンビのようにフラフラと劇場を後にし続けた。 極めて退廃的である。金も時間も無いのだからもっと良い映画を観ろよと我ながら思う。 だがしかし、その“退廃感”を味わうことこそが、このシリーズを観ることの目的となり、カタルシスにすらなっているように感じていた。 そうして期待感など毛頭なく臨んだシリーズ最終作。 “感染者”ならではの斜めからの視点、そして粘り強く観続けてきたファンとしての贔屓目は大いにあったろう。 「傑作」とは言わない。「佳作」とも言い切ることはできない。ただ、「良かった」と断言したい。 もはやシリーズ通じてのストーリーの整合性などは、端から無いものと高をくくっていたのだが、シリーズ最終作にして、ちゃんとストーリーの収拾をしてくれたと思う。 特に「Ⅲ」以降の迷走ぶりが甚だしかったアンブレラ社の陰謀の真意だったり、ずうっと曖昧で荒唐無稽だった主人公アリスの存在性とその意味が、曲がりなりにも明らかにされたことには、長年の胸のつっかえが取り除かれたようで、快感を覚えた。 当然ながら全く粗がないなんてことは言えるわけもないが、それでも破綻しまくっていた過去作を含んだストーリーの整合性を、ギリギリのところで再構築してみせたのではないかと思える。 また過去作に登場したアンデッドたちを再登場させたり、第一作の舞台となったアンブレラ社の地下研究所“ハイブ”を決着の場として設定するなど、シリーズファンに対してのサービスも嬉しかった。 そして、主人公アリスと共に、長年に渡りシリーズを支え続けた二人の悪役の最期も、非常に印象深かった。 特にアルバート・ウェスカーのラストの情けなさは、一会社員として無性に胸に迫るものがあった。 アイザックス博士の狂科学者と狂信者をミックスさせたラスボスぶりも、その始末のつけられ方も含めて良かったと思う。 と、概ね大満足に近いシリーズ最終作だったが、一つ大きすぎるマイナス要因がある。 それは過去作それぞれの優劣を決める最大のポイントともなっていた要素、即ち“エロティシズム”の有無だ。 第一作「バイオハザード」が成功した最大の要因は、勿論ミラ・ジョヴォヴィッチというスター性に溢れた女優がキャスティングされたことに尽きると思うが、それと同時に、主演女優によるエロティシズムが映画全編を通して全開だったことがあまりに大きい。 「バイオハザード」は、主人公アリスの“半裸”で始まり、魅惑的なコスチュームでアクションを繰り広げ、そして再び“半裸”で終幕したからこそ、唯一無二の娯楽大作として存在し得たのだと思っている。 ミラ・ジョヴォヴィッチが、撮影期間中に妊娠したことも多分に影響しているのだろうし、致し方ないことではあるのかもしれないが、今作において主人公アリスのセクシーカットが皆無だったことは、今シリーズ作に無くてはならない“エンターテイメント”の大いなる欠損だったと思う。 まあこれについては、何を隠そう今作の監督であるポール・W・S・アンダーソン自身が、ミラ・ジョヴォヴィッチの夫なわけだから、憤慨と嫉妬を込めて「ちゃんとしろよ……」と言いたい。 せめて、半裸とは言わないまでも、再び赤いドレスを身に纏ったアリスがコウモリのお化けと対峙するラストシーンで締められていたならば、この満足感は一気に振り切れたかもしれない。[映画館(字幕)] 7点(2017-11-06 22:43:24)《改行有》

468.  アトミック・ブロンド ラストシーン、主演女優が甘美な微笑を携え小気味よく最後の台詞を言い放ち、映画は終幕する。 劇場の暗がりの中、エンドロールを迎えた途端に、涙が滲んできた。 純然たるアクション映画における圧倒的な充足感で涙が出てきたのは初めてかもしれない。 このアクション映画を賞賛する要素は多々あれど、先ず特筆すべき要素は次の3点に尽きる。 一にシャーリーズ・セロン!二にシャーリーズ・セロン!!そして、三にシャーリーズ・セロンだ!!! 決して大袈裟ではなく、全シーン、全カットで映える主演女優・シャーリーズ・セロンが抜群に格好良く、あまりに美しい。 「ワンダフル!」「ハラショー!」「ヴンダバー!」「シュペール!」 果たして、最終的にどの言語で、“彼女”を賞賛すべきか惑うが、とにかく「素晴らしい!」 ナイトクラブでのゴージャスなドレスから、全身傷だらけで“ズタボロ”にも関わらず完璧に美しいフルヌードに至るまで、ありとあらゆる「衣装」を纏った女スパイが、冷戦末日のベルリンで暗躍する。 「騙す者を騙すのは愉快」と、血で血を洗う国家間の陰謀の狭間を、強かに、しなやかに、そして艶やかに立ち回っていく主人公・ロレーン・ブロートンに、ただひたすらに陶酔せざるを得ない。 冷戦下を舞台にしたスパイ映画らしく、各人のめくるめく思惑と、折り重なる策略によってストーリーテリングはクライマックスにかけていよいよ混乱してくる。 何がどうなっているのか殆どわけが分からなくなってくるけれど、そんなストーリーに象徴される世界の混沌そのものを、主人公の存在感が圧倒する。 大国間の冷たく重い鬩ぎ合いも、その水面下で繰り広げられる各国諜報機関の騙し合いも、愚かな“ゲーム”によって命を奪い合う男たちも、その総てを見下し、嘲笑するかのような女スパイの冷ややかな視線と佇まいに、ただただひれ伏すのみ。 7分半にも及ぶ1カット構成により、次々と襲いかかる男共を叩きのめし、打ちのめす“ノンストップ”のアクションシーンは確かに物凄い。 このシーンのみで、今作がアクション映画史上におけるエポックメイキングとしての価値を刻みつけたことは間違いない。 けれど、この映画が物凄いのは、そんな圧倒的シーンすら主人公を彩る一要素でしかないということだ。 鍛え抜かれたアクションも、シーンごとにチェンジされる魅力的な衣装も、中毒性の高い80年代ミュージックも、その総てをウォッカロックのように飲み干し、“彼女”が「支配」する。 その「支配」そのものが、今作の全てのシークエンスを通じて“悦び”に変わる。 「女優」という存在に支配されることの愉悦と恍惚。それらこそが、映画という娯楽の根源ではなかろうか。[映画館(字幕)] 10点(2017-11-05 21:11:42)《改行有》

469.  猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー) 《ネタバレ》 「面白い映画だっとは思う」 とは、6年前のリブート第一作「創世記(ジェネシス)」を鑑賞した際の第一声だった。 このリブート第三作を観終えて、まったく同じ感想を抱いた。 リブートシリーズ通じて、三作とも極めてクオリティの高い作品揃いだったことは否定しない。 だがしかし、“オリジナル5部作”のファンとしては、このリブートの映画世界に「SF」としての魅力を殆ど感じることが出来なかった。結局その部分が、最後まで個人的に肌に合わなかった要因だった。 もはや個人的な趣向の問題に過ぎないけれど、「猿の惑星」という映画世界に求めることは、「科学的空想(SF)」の妙だ。 詰まるところ、“シーザー”という特別な存在の「英雄譚」に終始したシリーズのコンセプトそのものが、根本的な部分でカタルシスに繋がらなかった。 このリブートシリーズを絶賛する映画ファンの多くは、“シーザー”という稀代の英雄のヒーロー性を賞賛する。 でも、個人的にはその部分においても疑問符を拭えない。 今作で、シーザーはエイプたちを導き、人間たちにその存在を認めさせ、打ち勝ち、ついに安住の地を得た。 確かに「英雄」であろう。しかしそれは、あくまでも“一部分のエイプたちにとって”である。 結局彼は、人類自身の過ちによる進化と滅亡の大渦の中で、ただただ必死に生き抜いただけのように見えてしまう。 この映画の顛末を観る限り、おそらくは、シーザーというリーダーが居なくとも、人類は勝手に退廃し、それに取って代わったエイプたちは繁栄を果たしたであろう。 この映画の主題が、“シーザー”という人類とエイプの狭間に存在した「英雄」の中で生じ渦巻いた憎しみと悲しみの葛藤であり、それが即ち我々人類に対する戒めであることは理解できるし、充分に伝えきっているとは思う。 しかしその結果として、彼が成し遂げた「功績」が、愚かな人類の自滅を横目で見て、命からがら安住の地を得たということだけでは映画的カタルシスを覚えることが出来なかった。 今作でついに旧シリーズへのブリッジを果たしたと言うけれど、オリジナル第一作でチャールトン・ヘストンが不時着するのであろう湖を映し出して終いということでは、リブート作としてはちょっと芸がないし、あまりにSF的機知に富んでいない。 “シーザーの物語”が、今作で完結したことは明らかだけれど、噂では「第四作」の企画も進んでいるとかいないとか。 ついに誕生した“猿の惑星”が、この後どういう道程を辿って成り立っていくのか。 旧シリーズが、「5部作」を通じたSF映画シリーズとして、トータル的な価値を爆発的に高めたように、この先の顛末をどう描き出すかによって、この「英雄譚」の価値も変わってくるように思う。 ラストシーンは、“コーネリアス”と“ノヴァ”が手を取り新しい時代への一歩を踏み出しているようにも見える。 「猿の惑星:新世界(ニューワールド)」(予想)への布石は着実に打てている。[映画館(字幕)] 6点(2017-11-04 09:41:01)(良:1票) 《改行有》

470.  ブレードランナー/ディレクターズカット<最終版> 最新作「ブレードランナー 2049」の公開を直前に控えて、“未見”だった「ブレードランナー」を観ておかなければ!と思い立ち、気合を入れて満を持しての鑑賞。 想像よりもずっと破滅的でカルトな映画世界に対して、独特な高揚感と、大いなる当惑が交互に駆け巡った。 正直言って、心から楽しめたとは言い難い。 リドリー・スコットが映し出すディストピアの映画世界は、アーティスティックで今観ても引き込まれるものだったけれど、同時にストーリーテリングが非常に鈍重でまどろっこしい。 ハリソン・フォードを筆頭とするキャスト陣も、醸し出す雰囲気は抜群だったが、決して演技が巧いとは言えず、どうにも汲み取るべき感情が伝わってこない。 と、観終わった後に気づく。“未見”ではなく、10年以上も前に鑑賞済みだったことに。しかもよりによってこの「ディレクターズカット 最終版」を……。 殊更な徒労感を感じつつ、せっかくなので違うバージョンも観てみようと力なく思った。[ブルーレイ(字幕)] 6点(2017-10-29 08:59:43)《改行有》

471.  ドリーム 「私には差別意識なんてものは無いのよ」 と、キルスティン・ダンスト演じる白人女性管理職のミッチェルが、それが自分の本心だということを疑わずに言う。 それに対して、黒人女性としてNASA初の管理職を目指すオクタヴィア・スペンサー演じるドロシーはこう冷静に返す。 「分かっているわ あなたがそう思い込んでいることを」 愕然とするミッチェルのみならず、僕自身を含め、観客の多くがドキッとした台詞だったろう。 世界のあらゆる「差別」における最大の問題点は、あからさまなレイシストをどう排除していくかということではない。 「私は差別なんてしていない」と平然と生活をしている我々大衆の根底にある無意識の差別意識を、どう根絶できるかということだ。 「差別なんてしてない」と信じている人間に、実は存在する差別意識を認識させること程難しいことはない。 たとえそれの存在に気付いていたとしても、「知らないふり」をしていた方が、ずっと楽だし、正義を気取れるからだ。 自分自身の中に巣食う差別意識に対面し、それを認めることは、実は最も勇気が必要なことなのかもしれない。 社会に蔓延る人種差別を描いた映画を多々観てきたけれど、「“差別”が何故愚かなことなのか」という普遍的な問いに対する、分かっているようで分かっていないその「答え」を、これ程まで明確に、そして娯楽性豊かに示した映画を他に知らない。 この映画が示すその明確な答えは、あまりに潔く、的確だ。 即ちそれは、「差別」の存在が人類の進化においてあまりにも“非効率”であり、その歩みを留める致命的な“エラー”になり得るからだ。 本当に優秀な人材が、当たり前のように根付く差別意識とそれに伴う愚かな仕組みのせいで、ただ「トイレに行く」だけのために、無意味に駆け回らなければならない。 人類全体の新たな「1歩」のために、1秒、1ミリ、1グラムを追求するべく職に就く人間が、愚かな非効率を強いられることの罪深さをこの映画は圧倒的な雄弁さで物語る。 言わずもがな、キャストの演技はみな素晴らしい。 特に主要キャラクターとなる3人の黒人女性を演じた女優たちの魅力的な存在感は圧巻。原題「Hidden Figures」が表す通り、歴史の中に隠れた人達の輝かしい功績を燦然と体現している。 同年のアカデミー賞を勝ち獲ったのは、今作と同じく、社会的マイノリティの葛藤を叙情的に描いた「ムーンライト」だったわけだが、今作の映画としての非の打ち所の無さは同作を遥かに凌駕する。 世界中の誰が観ても、心から楽しめ、提示される問題の根深さを理解することが出来るこの映画の価値は極めて高い。 クラシックな車と同じく、古い「時代」とそれに伴う間違った「価値観」は時に立ち往生する。 悲しくて悔しくて、先行きままならないことも多々ある。 でも、ならば車の底に潜り込んで直せばいい、正せばいい。 彼女たちが示した勇気とプライド。そのあまりにも尊い価値に涙と多幸感が溢れ出る。[映画館(字幕)] 9点(2017-10-29 07:53:08)(良:3票) 《改行有》

472.  エイリアン:コヴェナント 《ネタバレ》 創造主によって創られた人類が、新たな創造主となりアンドロイドを創った。 優秀なアンドロイドは、創造主に対して屈折した憧れと自らの存在に対するジレンマをこじらせる。 アンドロイドは、ある意味“対”の存在とも言える「生命体」と邂逅したことで、抱え続けてきたジレンマを解き放ち、彼もまた創造主になろうとする。 それは、見紛うことなき創造主に対する“レイプ”。 ああ、なんて禍々しい。 前作「プロメテウス」は、「エイリアン」の前日譚というイントロダクションを単純に捉えすぎた観客の多くが、その想定外の“語り口”に対して面食らった。 “エイリアン”という映画史上屈指のモンスターを“アイコン”として崇拝する者ほど、「こんなのはエイリアンじゃない!」と落胆したようだ。 個人的には、「エイリアン」シリーズに対してそれ程愛着があるわけではないけれど、それでも「プロメテウス」が紡いだストーリーテリングに困惑したことは否定できない。 SF映画として、決して面白くなかったわけではなかったけれど、粗の目立つストーリー構造にテーマに対する詰めの弱さと脆さを感じ、つくり手が描き出したかったことを掴みきれていない“消化不良”感を不快に感じた一作だった。 そして5年の年月を経て放たれたこの“前日譚第二弾”は、御年79歳のリドリー・スコット監督の趣向が、概ね良い方向に押し出された最新作として仕上がっていると思う。 執拗に引用される聖書や各種古典からのセンテンスや思想、科学的空想を踏まえた哲学性は、この大巨匠が過去のフィルモグラフィーの中で繰り返し語りつけ、映し出してきたことと尽く重なる。 自身の過去作で描き続けてきた事のある種の“焼き直し”に対して、ためらいもなければ、てらいもない。 そこに存在するのは、リドリー・スコットだからこそ許されるクリエイターとしての矜持と確信だ。 愛を知り、絶望を知ったアンドロイドは、凶暴無垢な胎児を引き連れ宇宙の果てに向かう。 果たして、“王”を気取ったアンドロイドが辿り着く姿は、神か、悪魔か。 僕たちは、大巨匠の赴くままの旅路をただ見届けるだけだ。戦々恐々と。[映画館(字幕)] 8点(2017-10-21 17:24:28)(良:1票) 《改行有》

473.  複製された男 “いかにも”な邦題を踏まえて、「フィリップ・K・ディックもどきのクローンものなのだろう」と認識し、サクッと観てさっさと寝るつもりだったのだが……。 何なんだ、これは?何を見せられたのか? 時折挟み込まれる不可解なカットに困惑を残しつつ、それら困惑の極みとも言える“ラストカット”を目の当たりにして、思考が停止した。 まったくもって変な映画だった。完成度の是非は別にして、そのことは間違いない。 邦題による“ミスリード”がどういった意図によるものかは分からないが、前述の通り“クローン”を描いたSFとしてこの映画を観た者は、大いに面食らう。 この映画は、“クローンもの”でもなければ、“SF”でもなく、或る強迫観念めいたものを主題にした“精神”にまつわる映画である。 詰まるところ、“複製された男”の正体は、クローンではなく、“ドッペルゲンガー”であった。 主人公の男は、ふいに現れたドッペルゲンガーと対峙し、それが現れた理由と意味を盲信的に追い求めていく。 それは詰まり、自らが「自分」という人間の本性、深層心理を丸裸にするプロセスであり、深みにのめり込んでいくほどに、彼の精神は疲弊し、或る臨界点を迎えたのだと思う。 非常に奇妙な映画ではあったけれど、「ドッペルゲンガー=自己像幻視」を描いた作品であることを踏まえて省みてみると、諸々の不可解描写も途端に理解しやすいものではあった。 「蜘蛛」も「ブルーベリー」も「女性」も、この主人公が抱えた強迫観念の象徴であり、映画世界の中で映し出されるすべてのものが、彼の精神世界そのものであったと捉えれば、腑に落ちやすい。 そう考えると、極めてシンプルな話とも思え、映画としてももう少しコンパクトにまとめた方が良かったのかもしれない。短編映画として、不可解を不可解なままに一方的に投げ出した方が、観客の想像力を更に刺激し、カルト的な傑作となったようにも思える。[インターネット(字幕)] 6点(2017-10-18 15:58:36)《改行有》

474.  華麗なる晩餐 とどまることのない人間の欲望のおぞましさと滑稽さ。 どこまで落ちても着地を許さない。 その実態が怖い。 「next floor !」と、あくまでも淡々と料理を提供し続ける給仕の、無表情に見えて絶妙な冷笑を携え続ける視線が印象的。 12分の短い映像世界の中で、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の作家性が強烈に焼き付いている。[インターネット(字幕)] 6点(2017-10-15 21:09:38)《改行有》

475.  大恐竜時代 タルボサウルス vs ティラノサウルス 休日に家族で訪れた科学博物館のプラネタリウムで鑑賞。 当然ながら、まわりも幼子連れのファミリーで溢れていた。 プラネタリウムで上映されている番組なので、恐竜の生態についての教材要素をベースにベタな“恐竜家族”の感動物語が展開されるのだろうと高を括っていた。 だが、冒頭からストーリーテリングの塩梅が何だかおかしい。 幼いタルボサウルスが主人公なのだが、彼が意気揚々と紹介した家族たちがその直後にあっけなく命を落としていく。 自然の摂理とは言え、いきなりシビアな展開を見せるなあ、と先ず面食らう。 そして月日は流れ、孤独に生き抜いた主人公も立派な成獣となり、自分の家族を持つ。 が、そこからも「まさか」と思わず眉をひそめてしまう想像以上に残酷な展開が繰り広げられる。 勿論、「普通」の映画として、いつものように自分一人で鑑賞していたならば、少々残酷な描写が展開されようが、ただのチープなCGアニメーションとして一笑に付するところだ。 しかし、こちとら幼児連れである。ふいに訪れた科学博物館の一プラネタリウム番組で、問答無用に家族が命を落とす様を立て続けに見せられては、さすがに引く。 内緒だが、2歳の息子は上映中におもらしをしてしまう始末……。色々な意味で惨憺たるひと時を過ごしてしまった。 エンドクレジットで今作の製作国が韓国であることを知って、色々と納得。 以前に韓国産の怪獣映画を観た時も感じたことだが、文化が違うと、同じ題材を描いても種類自体が全く別物の映画になるものだ。 当たり前と言えばそれまでだが、文化が変われば、「教育」のアプローチも大いに変わるものだ。 これはこれで、いい教訓なのかもしれない。[映画館(吹替)] 3点(2017-10-09 23:24:00)《改行有》

476.  ロボコップ(1987) 圧倒的な悪趣味と意地悪の果てに浮かび上がるリアルなディストピア。すっかり大人になってしまった今だからこそ、ヴァーホーヴェン監督ならではの露悪さの価値が際立つ。[インターネット(字幕)] 8点(2017-09-23 11:53:17)

477.  ヒットマンズ・ボディガード “ニック・フューリー×デッドプール”のコンビによる殺しまくり、喋りまくりの暴走ロードムービーとくりゃ、そりゃあエキサイティングに決まっている。 ライアン・レイノルズとサミュエル・L・ジャクソンの主演コンビが、それぞれ世界屈指のボディガードとヒットマンに扮し、激しすぎる珍道中を繰り広げる。 職業柄の積もり積もった因縁を抱えた二人が、運命を共にするというプロットはありがちなネタではあるけれど、ノリに乗っているこの二人のスター俳優が躍動することで、押しも押されもせぬ王道的なコメディアクションに仕上がっている。 「マザー○ァッカー!」の連呼や、“デッドプール風”の一人語りなど、両俳優お決まりのメタ要素も随所に散りばめられ、細部の小笑いから大迫力のアクションシーンに至るまで、この種のエンターテイメントとしてのバランスも非常に良い。 監督を務めているのは、「エクスペンダブルズ3」の監督に抜擢され、シルヴェスター・スタローン、メル・ギブソンらハリウッドきっての豪傑共を纏め上げたパトリック・ヒューズ。あの濃くて熱苦しい映画の後だけあって、今作では極めて手際よく求められた仕事をこなしている。 久しぶりに完全なる悪役としてキャスティングされているゲイリー・オールドマンの極悪ぶりも、映画ファンとしては嬉しいポイントだった。 こんなドル箱企画を、全米公開から間髪入れずに全世界ネット配信でリリースするNetflixの存在性は、いよいよ映画業界の根本的な在り方を一変させてしまいそうだ。[インターネット(字幕)] 7点(2017-09-17 21:30:56)(良:1票) 《改行有》

478.  打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?(1993)<TVM> 9月1日のレイトショーで、最新作のアニメリメイク版を観た。 映画づくり自体に対する志の低さと価値観の相容れなさが際立ち、全く受け入れることが出来なかった。 帰路、夏が終わった翌日の冷ややかな空気が、体と心にしみた。 あの二十数年前の、奥菜恵が忍び込んだプールの消えた水平線の光が、遠く懐かしくて仕方なかった。 そして、その足でTSUTAYAに直行したのだけれど、残念ながら訪れた店舗にはこのオリジナル版の在庫すらなく、渋々帰宅。 ただ今の時代は便利なもの。サクッと調べたら某動画配信サービスで配信されていることを確認。ユーザー登録はしていなかったが、取り急ぎ試用期間の申込みをして無事に再鑑賞に至った。 アニメリメイク版によってもたらされたフラストレーションは、みるみるうちに霧散していった。 やはり圧倒的だった。 二十数年前のテレビドラマシリーズの一篇が派生して劇場公開された“テレビ映画”である。 決して映画的なクオリティが高いわけではなく、子役たちの演技も不器用で気恥ずかしい。 でも、その不完全さこそが、この作品の本質であり、あまりにも愛おしい。 「こんど会えるの二学期だね 楽しみだね」 一時の冒険を経て、少女は同級生の少年に対して言い残す。 秘密を抱えたまま、彼女は忍び込んだプールの水平線の光の中に消えていく。 答えや結論やその後の顛末なんて必要ない。 少年にとって、あの瞬間こそが永遠なんだ。[ビデオ(邦画)] 8点(2017-09-16 22:38:15)《改行有》

479.  情婦 「情婦」という言葉の意味を、辞書で調べてみた。 辞書によると、“男の情人である女”、“色女”とあり、あまり良い意味合いではない。 アガサ・クリスティの原作の原題が「Witness for the Prosecution(検察側の証人)」であることに対して、この邦題が作品にふさわしいかどうかには、いささか疑問が残る。 ただ、この映画で描かれる“女”の愚かしさ、そして儚さを何とか表現しようとした時、「情婦」という言葉は、決して意味合いが一致するとは言えないが、ある視点から捉えればあながち外れてはいないのかもしれないと思った。 ビリー・ワイルダー監督が、エンドクレジットでわざわざ結末の「他言無用」を掲げていることが、この上なく理解出来るほど、ラストの顛末が総てだと言える映画だった。 古い映画らしく、全編通してカメラワークの動きが少ない淡々とした法廷サスペンスが展開される。 この淡々とした法廷サスペンスに、どれほどの“驚き”が含まれるものだろうか。 疑心暗鬼な思いが大いに膨らんできた頃、ビリー・ワイルダーが他言を禁じた「結末」が訪れた。 いや参った。素晴らしい。“驚き”に対して充分に構えた上で、それでも驚かされた。 素晴らしいのは、その衝撃の展開においても、映画のテンションが劇的に転じるというわけではなく、一貫して淡々としたままであるということだ。 場面も変えず、登場人物の台詞のみでこの作品の核心である衝撃を表現し切っている。 「結末」を得ると、それまでの淡々とした展開も、敢えて観客に感情の焦点を絞らせない深い計算によるものだったのだと思い知る。 アガサ・クリスティの原作の高尚さもさることながら、ビリー・ワイルダーの卓越した映画術が如実に表われた結果だと思う。 「真実」の表と裏、男と女の愚かさと切なさ、そして、それらを総て含めた人間の感情の妙に溢れた結末に身震いした。 中盤、深夜の鑑賞には堪え難い眠気に包み込まれそうになったが、用意されていた顛末によってそれは一気に消し飛んだ。 更には、観終わった直後に再びクライマックスを観直してしまった。 ようやく涼しくなってきた秋の夜長、襲ってきた睡魔を見事に返り討ち、「映画鑑賞」の本質的な充足感と幸福感を与えてくれたこの映画は、「名作」の名に相応しい。[DVD(字幕)] 10点(2017-09-04 22:32:13)《改行有》

480.  僕らはみんな生きている くたくたに疲れた出張帰りの機内で、ひっさしぶりにこの映画を観た。 バブル期の日本映画独特の滑稽な欺瞞に溢れてはいるのだけれど、無性に胸に迫るものがあった。 曲がりなりにも“日本のサラリーマン”を10年続けてきて、彼らの悲哀としぶとさが身に染みる。 真田広之、山崎努、岸部一徳、嶋田久作という存在感たっぷりの4人の演者が、海外赴任のサラリーマンのある種の軽薄さと狡猾さと哀愁を体現している。 4人が織りなす文字通りの“サバイバル”である処世術の様が時に笑えて、時に笑えない。 発展途上国の内戦に巻き込まれた主人公たちが映画の中で繰り返し叫ぶ。 「私たちは、日本のサリーマンです!」 それは、はじめは銃撃戦をすり抜けるための「逃げ口上」であった。 それがストーリー展開に伴い、自分と日本の企業文化に対する「怒り」となり、終いには「誇り」として高らかに宣言される。 ぶっとんだコメディのように見えるけれど、今の時代でも星の数ほどの“日本のサラリーマン”が、世界のあちこちで汗を流し続けていることだろう。[ビデオ(邦画)] 8点(2017-09-02 07:58:15)(良:1票) 《改行有》

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