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501.  かぐや姫の物語 子の成長、四季の移ろい、里から都への暮らしの変貌。 その「移りゆき」をモチーフとするアニメーションの素晴らしさは、 かつて高畑勲監督が賞賛したあのフレデリック・バックの『木を植えた男』 からの継承を思わせる。 作中のワンシーンにある、樹々の再生の件などはまさにそれへの オマージュともいえる。 桜の樹の下で舞い踊る娘の喜び、野や山をひた走る娘の激情が迸るクロッキー風の タッチ。 生物の営みそれ自体への慈しみが滲んでいる柔らかなタッチ。 その伸びやかで、味わいのある筆致が創りだす画面の躍動は、 動画であって動画を超えている。 (エンディングのスタッフロールでは馴染みのない様々な作画の役職が並んで 興味深い。) 波やせせらぎの表現の斬新と大胆。木々の影が人物の衣類に落ちて、揺れ動く紋様を創りだす様。機織りや演奏などをはじめとする写実的なアクションと、快活に跳ね回り、飛翔する姫のファンタジックなアニメーションの絶妙なバランス。 題材とのマッチングゆえか、今回はその技巧もそれ自体が目的といった感が無く、 一枚一枚のスケッチの丹念な積み重ねがキャラクターに血を通わせている。 ヒロインを回り込むようなカメラの動き、彼女の寝返り、振り返りなどの動作は スケッチを立体的に浮かび上がらせるだけのものではない。 青い星を振り返る姫の涙が美しい。 [映画館(邦画)] 9点(2013-11-26 23:59:30)《改行有》

502.  コルドリエ博士の遺言<TVM> ジョン・ロバートソン『狂へる悪魔』(1920)以降、幾度も映画化されている 『ジキル博士とハイド氏』。 三十年代のルノワールならトリック撮影の工夫で見せたかもしれない 変身シーンそのものに、彼はいっさい興味を示していないようだ。 当時のテレビの利点である、マルチカメラによる芝居の持続性こそが 最大の関心であったらしい。 映画の敵とも見做されたテレビを否定することなく積極的に受け入れていく大らかさ。 それが、映画冒頭に本人として登場するルノワール自身の姿に見ることが出来る。 何より目を引くのは一人二役を演じるジャン=ルイ・バローの変貌ぶりだろう。 ルノワールらしいロケーションの中、 彼が電子音楽と共に街に現れ、奇矯な仕草とともに通行人を襲う彼の暴力 が圧巻である。 マルチカメラを活用したセット撮影のシーンは手狭な印象が強いが、一方で ビル屋上からの俯瞰撮影や、街中の大階段などのロケ撮影も活かされており、 その中での暴力描写もテレビ作品だけにより際立っている。 [DVD(字幕なし「原語」)] 7点(2013-11-25 01:29:35)《改行有》

503.  ペコロスの母に会いに行く メインキャストの背後に印象的に配置された長崎の坂道。 その坂道を、夏服の女学生たちが、ベビーカーを押す主婦が、 下校途中の小学生たちが行き来している。そうした俳優の街への溶け込み方がいい。 そのベビーカーの親子はラストの坂道での交流に重なり、 女学生はコーラスの生徒たちのイメージと重なる。 空を舞う鳶や、水平線を見る背中や、バックミラーとの切り返しといった 類似・相似ショットのさりげない反復。 登場人物たちの対話における同一フレーズ・仕草の反復・変奏。 それらの繰り返しが、個々のシーンや端役まで含めたキャラクターのイメージを より印象深いものにしていく。 黄色いランタン祭りの中を彷徨う赤木春恵と、花街を彷徨う原田貴和子の重なり合い。 現在と過去、幾度も登場した個々の写真のイメージがクライマックスで 鮮やかに集約する。 [映画館(邦画)] 8点(2013-11-24 01:15:34)《改行有》

504.  十字路の夜 闇夜のカーチェイスが迫真だったジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』や 『最後の切り札』。そのノワールなアクションの原型が、ここにある。 なるほど、ベッケルは『十字路の夜』の制作主任兼助監督だったのだ。 ヘッドライトに照らされた夜の街路が、荒々しい前進移動によって生々しく 流れていく。さらに、運転席からの拳銃の発泡が閃光を放ち、緊迫感を煽る。 尋問シーンに幾度か挟まれるコップの水のショット、排水口のショット。 そして霧雨のそぼ降る泥濘んだ街路の質感は、『水の作家』によるトーキー初期作品 らしく、流水や足音の湿った音響によって一層強調される。 自身の初トーキーに水洗トイレ音を響かせたルノワールらしい拘りだ。 胸の傷をピエール・ルノワールに見せるヴィナ・ヴィンフリードの艶めかしさも堪らない。 [インターネット(字幕)] 10点(2013-11-17 01:08:57)《改行有》

505.  地獄でなぜ悪い どういった仕掛けでヤクザ達と自主映画チームを遭遇させ、それをどう演出するのかと、 ダラケた展開をとりあえずその興味だけで見ていると、これが面白くもなんともない。 これがこうなってこうなりましたというだけの、視覚的な感興のまるでない、 単なる辻褄合わせだ。 「映画の外道、映画の非道を生き抜きたい」(『非道に生きる』)と語る園監督に それを「映画的でない」と批判したところで詮無いだろうが、つまるところ 面白くなければそれまでだろう。 堤真一の芝居は煩わしく、クライマックスの乱闘がまた無駄に長く、飽きる。 [映画館(邦画)] 3点(2013-11-10 23:45:22)《改行有》

506.  ばしゃ馬さんとビッグマウス 書き仕事が中心となるシナリオライターのドラマを如何にアクティブに描出するか。 映画としては困難な題材だろうが、『風立ちぬ』の図面書きのようによく工夫している。 最後の挑戦となる執筆を前に、髪を束ねる麻生久美子の凛とした横顔。 安田章大と麻生のリズミカルなカットバックと、キーボードを打つ手のアクションが、 手持ちカメラの躍動と共に画面を弾ませる。 一方で、要所要所では丹念な長廻しによって俳優の心情の静かな昂ぶりを収めきる。 友人の結婚式の帰り、安田に携帯電話をかけるシーン。 岡田義徳の部屋で泣きだすシーン。それぞれに、麻生のナチュラルな芝居が活きている。 脚本あっての映画だが、俳優の活かし方が良いのだろう。 主演らの芝居の背後にさりげなく映っている助演たちもまた彼らの世界を生きている、 という細やかさがいい。 双子の姉妹とか、本筋とは無関係ながらそのキャラクターたちから 映画が豊かに肉付けされていく感覚がある。 出番としては少ない山田真歩も、彼女なりのドラマを持った役柄となっており、 それが作劇にも活かされている。 [映画館(邦画)] 7点(2013-11-10 21:55:35)《改行有》

507.  かぞくのくに いかにも善良な母・宮崎美子に、いかにも生真面目な父・津嘉山正種。 キャラクターイメージそのままのキャスティングも芝居もステレオタイプにすぎる。 京野ことみを始めとする同窓メンバーのいわゆる熱演も何ともクサく、 手持ちや自然光照明のドキュメンタリー調と馴染んではいない。 安藤サクラと井浦新の対話もまた熱演なのでああろうし、 役柄になりきらせる演出として恐らくアドリブを多々入れているのだろうが 作り手の過剰な思い入ればかりが突出し、芝居は読みやすい。 一方で、詰め寄る安藤に対してどんなリアクションで返してくるのか、 全く読めないヤン・イクチュンのどこか非心理的な佇まいと 静かな迫力こそが抜きんでている。 [DVD(邦画)] 5点(2013-11-04 23:58:04)《改行有》

508.  終戦のエンペラー 本来ならフィクション映画に史実との整合性云々などどうでもいいところだが、 いわゆる映画のリアリティの観点から云うなら、「映画芸術」連載の寺脇・荒井対談 でも指摘されているとおり、事実的に「あり得ない」のオンパレードだろう。 外国人に石を投げる子供にしても、米語を流暢に操る威厳ある軍人にしても、 あるいは皇居での戦闘にしても。 米内光政のエピソードなどは当然、除外するわけだ。不都合だから。 無論「教材」としては話にならない。 NHKスペシャル『日本海軍 400時間の証言』くらい踏まえたらどうか。 映画は自惚れ鏡とはよく言ったもので、本作のような美化された虚構の日本人像 ならば「よく理解している」にすり替わり、「真実である」と持て囃されるわけだ。 朝日・毎日共同広告の有識者(提灯)座談会が誉めそやすのも、 専らそのような観点からだ。リスペクトだとか、公平性だとか。 ラストの会談シーンは、扉を閉めるフェラーズ秘書官(マシュー・フォックス)の 窃視として部分的に処理したこと、それだけで深みのあるシーンとなった。 窃視の視線。それが事実ならぬ真実性を強調するということか。 [映画館(字幕なし「原語」)] 5点(2013-10-29 01:31:03)《改行有》

509.  パシフィック・リム 人間の動きをトレースするロボット。 その同調のモーションをどう視覚的な快楽として演出するか。 実写作品の手本なら『リアル・スティール』があるし、 操縦者二者がシンクロするカタルシスを如何に映画的に描写するかの手本なら 庵野秀明がコンテを担当したアニメ作品『エヴァンゲリオン』第9話がある。 いずれも、画面分割なりデフォルメなり高速度撮影なりの工夫を動員して 運動の同調が具体的な動画として描写として落とし込まれているからこそ、 あるいは見せたいアクション・見せたいショットからの逆算で 物語が設定されているからこそ、映画となっている。 この作品でのシンクロの設定は単に設定にすぎず、 動画(モーションピクチャー)として昇華されない。 二者が持続的な同一フレームの中で同じ動作をする。 それだけのことすらまるで出来ていないから一体感も連帯感も描写にならない。 単に見づらいだけのアクションシーンだ。 だから、中盤での伏線を残したままの凱旋シーン時点で、 まだ続くのかとうんざりする。人型ロボットである必然性皆無の海底シーン以降は ひたすら苦痛でしかない。 これでハリーハウゼンへの献辞とか、おこがましい。[映画館(字幕なし「原語」)] 3点(2013-10-17 22:31:30)《改行有》

510.  ファインド・アウト 派手に車体をぶつけるばかりが能ではない、というカーチェイスがいい。 車種を幾度も変えつつ、 追走するパトカーの目眩めくライトの光芒がテンポの良いカッティングの中で 美しく映えて、車体の接触など一度も無いことが逆に一層の緊迫感を煽る。 運転座席での携帯通話という図の繰り返しは単調になりがちだが、 通話しているアマンダ・サイフリッドの背後の窓ガラスに意識的に 映り込んでいる雨滴、緩やかに流れていく街燈の光やマジックアワーの明かり、 そして森の闇が画面の動的なアクセントとして機能している。 「Just Watch Me」と懐柔を拒否し、「I lied」と何の躊躇もなく マッチの火を洞穴に投げ込み復讐を果たすヒロインの清々しいまでの豪胆。 全編に一貫した、一切躊躇のない無頼派の行動が何より魅力だ。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2013-10-16 01:04:20)《改行有》

511.  エンディングノート 黄金色に輝く銀杏並木の光が、街路を歩く主人公:砂田智昭さんの横顔を包む。 砂田さんが登る階段の背後で教会のステンドグラスが輝いている。 臨終を確認する音声が流れる中、街のシルエットとその背後に広がる マジックアワーの淡い陽光が悲しいまでに美しい。 家族の交流を映し出す合間に点描される、光を伴った街・空の情景ショットが、 単に映像がキレイだとかいう事ではなく、映画の場面として印象深い。 8mm映像の中で笑う、ありし日の父の姿は誰が撮ったものか。 その粗い画調ならではのノスタルジックな美しさ。 病床で妻への愛情を伝えるシーンは恐らく、撮影者=監督不在のまま 録画されているのだろう。光量不足でザラついた画面だからこそ 夫婦二人だけの時間・空間を切り取ったこの場面はひときわ美しい。 日頃からカメラを向けてきたからこそ、自然体のままカメラを受け入れ、 何の衒いもなく被写体を生きる父。 そして砂田麻美監督を含めた家族それぞれが、被写体として素晴らしい。 [DVD(邦画)] 8点(2013-10-14 22:57:14)《改行有》

512.  そして父になる スピルバーグが惚れ込むのもよく頷ける、父と子のドラマである。 映画祭での評価は、勿論そんなテーマがどうのこうのといったものではあるまい。 テーマなら小説ででも語ればよいのだから。 デジタルカメラの再生画像を見る福山雅治の横顔。 その頬を涙が伝っているのか、いないのか、微妙な自然光の加減が素晴らしい。 列車の座席で二宮慶多に「どこかに行っちゃおうか」と語りかける尾野真千子の横顔。 ふと影が差し込み、画面は暗転。その表情は判然とせず、 彼女の思いつめているだろう輪郭だけがうっすらと浮かびあがる明暗が素晴らしい。 スピルバーグはこの慎ましくも豊かな光の表現に触発されたはずだ。 リリー・フランキー、真木よう子が子供たちと触れ合う身体表現もいい。 河原で尾野の肩をやさしく抱き、勝手口の上がり框で二宮を抱きしめてやる真木。 その相手を受け入れる手の動きが、そしてそれに応える二人の手のリアクションが 豊かな表情となっている。 黄升炫が詫びながら顔を覆う手のいじらしさも忘れられない。 [映画館(邦画)] 8点(2013-10-09 22:48:26)《改行有》

513.  ボディ・アンド・ソウル オープニングの、屋外練習用リングの俯瞰から 窓際のベッドで魘されるジョン・ガーフィールドへと移るショットの暗く不穏な情緒が 秀逸で、映画後半に時制が戻る際に反復される同一構図のショットでは そこに至るドラマの蓄積も相まって悪夢的イメージがさらに増幅されて印象深い。 リングサイド下からあおり気味に捉えられた実録風のファイトシーンの迫真と、 裏切りを知ったガーフィールドの狂気を帯びた表情が緊張に満ちた見事なモンタージュを象る。 負のスパイラルの中で主人公が葛藤するドラマのラスト、 観客を掻き分けながら駆け寄るヒロインの姿と、二人の後ろ姿のシルエットに 見る者も救われる。 助監督にはアルドリッチ。納得感がある。[DVD(字幕)] 9点(2013-09-16 07:18:49)《改行有》

514.  上京ものがたり この映画もまた、作り手の思い入れ過剰な役者のアップがくどい。 何故にそこまで、というくらい寄りまくって気色悪くなるほどだ。 物語の支障ですらある。 一方で見晴らしの良い川沿いの情景や、鉄道の走る橋のロングショットなどが所々で 織り込まれるのでなんとか釣り合いがとれている。 西原原作作品では馴染みの海辺も、例によって死を暗示する場として印象的だ。 その中、北乃きいが良く寝、良く食べ、良く歩く。 とりわけ苛立ちを持て余しながらひたすら街中を前進していく歩調がいい。 または、池松壮亮の出ていった暗がりの部屋で、一人おにぎりをほおばる北乃の表情。 案の定、涙が一粒流れ落ちてというのが陳腐ではあるが、いい表情を見せる。 連載打ち切りを伝える編集者になりふりかまわず必死に食ってかかる姿もグッとくる。 要は、反グラビア的な表情、不格好なアクションこそ感動的なのだ。 [映画館(邦画)] 6点(2013-09-06 00:25:57)《改行有》

515.  水の娘 序盤の、運河をゆるやかに渡る艀のショット群の何という瑞々しさか。 船上で料理をするカトリーヌ・エスラン。 その後景を、揺らめく水面と岸部の並木が流れていく。 以降も、さまざまにロケーションを変えて登場する水辺の情景が素晴らしい。 燃え盛る炎や流れる水、風に揺れる木々のみならず、 アヒルや犬や白馬など、動物たちのアドリブを活かした画面がまさに 伸びやかで生きた瞬間瞬間を掬い取る。 中盤のトリック撮影の奔放で自由なイメージの何と力強いことか。 白馬の疾走と共に、凸面鏡に反映させた木々が荒々しいスピード感で流れていく。 飛翔し、落下する娘の白い衣装がスローモーションによって官能的にはためく。 随所に挿入される縦移動のショットも、いかにもルノワールだ。 実質的な処女作だけに、原初的な衝動といったものがあらゆるショットに横溢している 。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2013-08-31 23:59:35)《改行有》

516.  クロエ(2009) 《ネタバレ》 フルショットで撮られたジュリアン・ムーアが携帯電話で話し出すと、 相手方のアマンダ・サイフリッドの声も不自然なほど鮮明に聞こえてくる。 違和を感じた瞬間、カメラがパンすると同室に彼女が入り込んできていた事 が判明するという、そういったさり気ない音響の仕掛けが随所で巧い。 人物の背後からのライトを中心に、複数の光源を用いて 女優の金髪の輪郭線と瞳とを妖しく美しく輝かせるライティングの緻密さ。 拡散する影の動きも画面を重層化させて見事である。 手前の人物と、背景の窓枠・額縁・鏡・スクリーンを的確にレイアウトした構図など、 ショット一つ一つが官能的に決まっている。 見るものの欲望の投影たる鏡・窓ガラス。そこに幾度も映し出される ファム・ファタルとしてのアマンダ・サイフリッドは「虚像」の視覚的隠喩である。 『上海から来た女』を始めとする鏡の映画史に倣えば、 映画の構造上のクライマックスは、「砕け散る鏡(ガラス)」以外有り得ないことは 中盤には明らかになるだろう。 その映画的終結というべきスローモーションも美しい。 [DVD(字幕なし「原語」)] 8点(2013-07-17 23:09:54)《改行有》

517.  真夏の方程式 《ネタバレ》 原作では海辺が舞台となる謎解きシーンは、映画では取調べ室に置き換えられる。 本来なら、その後に続く杏と風吹ジュンの面会シーンのようなセットとしたほうが いかにも現実的で「ツッコまれ」ないだろうが、映画はあの部屋を要請する。 劇中で幾度も変奏されてきた反射装置の極め付けと云うべきミラーガラスが そこにあるからに他ならない。 この1枚の仕切りを介した視線の劇が、 『パリ、テキサス』とはまた別種の形容し難い情感を生む。 母娘の正対する面会シーンもまた、仕切りを介して現在と過去を交錯させる。 息せき切って走る、フラッシュバックの中の娘。 揺れる水面上で、マジックミラーの背後で、喘ぐように嗚咽する現在の娘。 女優の呼吸が、ヒロインのキャラクターに文字通り生を吹き込んでいる。 そして疑似父子としての福山雅治と山崎光が 幾度もロケット実験を繰り返すシーンの清々しさは、その放物線の美しさと共に 『父ありき』の川釣りのシーンにこじつけたくもなる。 二人が横並びで座る駅舎のベンチシーン。 福山の誠実な語りの響きがいい。 [映画館(邦画)] 8点(2013-07-02 23:17:58)《改行有》

518.  桜並木の満開の下に パンフレットの佐々木敦氏の批評を読むまでもなく、成瀬の『乱れ雲』とすぐ気づく。 三浦貴大の差し出す現金入りの封筒を幾度も幾度も叩き続けた臼田あさ美の手。 その彼女の手が、ラストの駅のホームで横に並んだ三浦の手をしっかりと握る。 そこには病床の加山雄三の手を握りしめる司葉子の手の記憶があると共に、 『百年恋歌』(恋愛の夢篇)での結ばれる手のイメージも重なって感動を増す。 地元PRありきの企画ながら、ドラマティックな物語とロケーションが見事に 融合しており、観光スポットを変に浮き上がらせるような愚も回避している。 焚火の灯りが映える夜の浜辺。 縦の構図を活かした、年季の入った工場内の風情。 艶やかな夜の駅のホーム。 それぞれの画面が低予算などまるで感じさせない出来だ。 その情景の中で震災後を生きる臼田あさ美、三浦貴大の佇まいもまた素晴らしい。 [映画館(邦画)] 8点(2013-06-26 22:47:24)《改行有》

519.  箱入り息子の恋 夏帆の横顔から、ピアノを弾く彼女の指の動きへ、 彼女自身の演奏をしっかりと捉える緩やかなカメラの動き。 二人の主観に可能な限り近づけんとするかのように、 お互いの肩越しの接写で切返される、二人の出会いのショット。 小高い丘の上でぎこちないキスを交わす夏帆と星野源の清々しさを 演出する、彼らを撫でるそよ風。 雨に濡れること。並んで牛丼を食べること。互いの生身の身体に触れること。 そうした接触・感触を意識した部分部分の積み重ねが丁寧でいい。 それだけに、二階へよじ登る星野と彼の手を握って引き上げる夏帆の 協働のシーンが手抜きにみえてしまい残念だ。 2人が渾身の力でベランダを乗り越える、 最も肝心な触れ合いの部分が省略されてしまっている。 誰がどういう動作をして、どうなったという流れはとりあえず解る。 が、心を動かす映画のアクションにはなっていない。 ベランダからの落下のくだりも同様である。そこが惜しい。 [映画館(邦画)] 7点(2013-06-25 23:10:30)《改行有》

520.  バレット(2012) 運転席と助手席での対話が多く、その深度のない構図の反復も単調。 ならば、流れる背景だとか車内に入射する街燈の光などで画面に変化をつけて欲しい。 クライマックスの発電所廃屋も、三者それぞれの位置関係の提示が不出来。 音の反響で繋ぐなり、縦構図を利用するなり、現場機具をもっと活用するなり、 もう少し空間を活かして欲しい。 湯気に煙るプールでの乱闘も、『イースタン・プロミス』の後ではいささか物足りない。 が、数々のアクションをこなしてきたシルヴェスター・スタローンの 武骨で年季の入った面構えと、彼の発する低音の響きは非常に渋く印象深い。 『スペシャリスト』以上に、彼の声の魅力がよく引き出されている。 [映画館(字幕なし「原語」)] 6点(2013-06-09 23:44:06)《改行有》

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