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年齢 43歳
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41.  大地と自由 この一作でケン・ローチに活目した。金曜ロードショウが映画の源だった自分にとっては、危ない時には誰かが助けに来て、運命を分ける選択があれば正しい方に動くのが映画らしさだと思っていた。当然ながらそこには人間臭さはない。しかし、ケン・ローチ映画からは嫌というほど臭う。世知辛い世の中を忘れるためにエンターテインメント映画を見るのはいい。しかし時には世の中に対して余計なおせっかいをかけたいことがある。「戦争反対!」とか「麻薬撲滅!」とか「少年犯罪云々」といったように。そんな時こそケン・ローチの映画は刺激的な薬になるに違いない。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のような自分からは遠すぎる悲劇と違い、限りなく近くに悲劇を持ってくる。そうなると「戦争反対!」とか「麻薬撲滅!」といった話では解決できない複雑な社会構造が見えてくる。この視点をひたすら冷静に、時に冷徹になってカメラを向けてくるのがケン・ローチだ。[ビデオ(字幕)] 8点(2007-01-23 20:31:40)(良:2票)

42.  エレニの旅 《ネタバレ》 アンゲロプロスの映画は大抵が「戻る」か「帰る」に重点が置かれる。エレニは最後、水没した自分の村に戻り、唯一頭を出している自分の家で息子(最後の家族!)の死を目の当たりにして泣き崩れる。場所を失うということは思い出を失うのとほとんど変わらないことに違いない。「心の中に生きている」という言葉だってもはや介在する余地がない。エレニにはもう帰る(戻る)場所がないし思える人もいなくなった。そして余りにも重い慟哭が曇天の空とそれを写す水の間で響きを打ち、映画は終わる。独立した三部作の一作目になる予定の「エレニの旅」は、失うということをエレニという一人の女性に背負わせる。20世紀の総括のスタートとして。言葉だけでは表しきれない哀しさや孤独と映像にすることができない不在の間を流れる音楽が、この映画を物語り、同時にエレニへ向けた哀歌となる。二つの村を造り、片方は水没させ、片方には無数の白布を干した。映像は、意味をすっ飛ばして説明のつかない力強さを提示するが、それは同時にあの赤い糸のように脆くもある。170分という時間の密度にふさわしいアンゲロプロスの神話的世界は、彼とその仲間たちの不屈の精神によって作り出された、20世紀という戦争の世紀を生きた一人の女性の愛の物語だった。[映画館(字幕)] 8点(2007-01-23 20:30:57)

43.  怪談(1964) 日本の中世は貴族の豪華絢爛さと同時に芥川の羅生門のような地獄絵図をあわせもっていて、この間の溝からはいつも何かが出てくるような、何かが出てきてもおかしくないようなそんな気にさせる。島国という地形的条件が外部との接触を疎くした分、内部を病魔が巣食ったのか。病魔はやがて異形となって見えるものたちには恐ろしい姿で、時には魂を奪っていった。それらは噂話となって荒廃した京都や貴族がひしめく宮殿に伝わった。当時の彼らにとってはそれが現実にはウソとしか思えないものであっても真剣な問題だったに違いない。全然映画の説明になってないが、この映画の素晴らしさはこういう時代を生きた人々の姿勢というか生き様がとてもよく伝わってくる。彼らの懸命さに痛々しさを覚えた。これがまず一点。次には時代を超越した美術がある。巨大セットで空までもセットの一部になっている。耳なし芳一ではこの点が凝縮されている。陰湿になりがちな日本の怪談をこれだけ幻想的にできたのは異形から美を見出したという美意識のこだわりのおかげだろう。そして音楽。この物語と視覚世界を装飾する音楽・音響には無類の映画好きでもある武満徹が担当している。これがまた絶妙。断続的に音楽が生成されていく。「怪談」をして、映画が総合芸術の結晶であることを認識する。[映画館(字幕)] 8点(2007-01-23 20:27:43)(良:3票)

44.  こうのとり、たちずさんで この映画でのテーマは多分日本人にとって一番理解しにくい部分の一つだろう。島国である以上、国境の存在はかなり曖昧だ。県境とはわけが違う。「あと幾つ国境を越えたら自分の家に帰れるのか」なんて、日本列島に住む人間が叫んでたら「頭、大丈夫?」と言われるのは確実だ。しかしこの映画ではこのセリフがそのまま現実としてある。ギリシャを含めたバルカン半島諸国は、その国境線を何度も蹂躙され、あるいは侵攻して、という歴史を繰り返して今の国土となった背景がある。だから国境線近傍は当然のことながら常に緊張している。そんな場所が舞台の「こうのとり、たちずさんで(この邦題、いいなあ)」はアンゲロプロスが国と国との間にある数え切れない襞に入り込んで、そこから見つめた人間ドラマである。これはもはや自分の理解のレベルを超えている。こういう場所が現実にあるのだと想像するしかない。マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モローという大物俳優が出ているがあの重たく暗いコートを着こんで、すっかりアンゲロプロスの子供になっている。そして映画の内容もこのコートのように暗く重たく、あるいは静かで冷たい。主人公は珍しく普通の人だ。彼に個性を持たせないことで、我々に直接に国境の住人達の感情を伝えている。必死とか諦めという言葉はここでしか意味にならないかのようだ。そしてあの結婚式。悲しさと美しさの間に立つアンゲロプロスにとって、川を挟んだ新郎新婦そして家族とその仲間たちは希望であって絶望なのか。頭を抱えるしかない。[映画館(字幕)] 8点(2007-01-23 20:27:28)

45.  復讐者に憐れみを 工場から疲れきった労働者達がうつろな表情で休憩へと向かう。暗がりの中での作業だったため、突然の太陽光線に目がなかなか開かない。ここまでカメラは一度も切れずに労働者が歩くさまをずっと追う。そしてほんの一瞬くつろいだかと思うと、次の瞬間はもう働いているシーンになる。この数分でこの監督は只者じゃないと思った。いや、そんなことは「オールドボーイ」を見たときから分かっていたけど、こういうリアリティを表現できる人だとは思わなかった。この映画の世界観は音がほとんど構築している。乾いた機械的(川の流れですら)な音や音楽は、救いようのないこの映画の身体感覚と常に共鳴しあっていた。例えば、バッティングセンターで聴覚障害の主人公ががむしゃらにバットを振るシーンや、愛する娘の司法解剖に立ち会うソン・ガンホの表情、川の中での処刑シーン、そして手話しながらのセックス。これには驚いた。この緊張感の中でそんなユーモアはありなのかと。唐突な緩急であるが、ぶち切れてるユーモアはいつも狂気と繋がっているものだ。演じた役者達も凄い。ソン・ガンホが凄いのは知ってたけど、あの緑髪の役者も狂気と優しさの境界をうまく演じていた。優しい異常者ってのはパク・チャヌクの得意技なのか。そしてやっぱりペ・ドゥナでしょ。「子猫をお願い」で瑞々しい役を完璧にこなしていたけど、ここでは一人ぼっちの革命家を演じている。カワイ過ぎ。このミスマッチぶりが映画内の緩衝材になっていて心がなごむ。ビラ配りも手馴れたものだ(笑)そして彼女が最初にワープロで打っていた判決状がなんと恐ろしいラストへの引き金となる。「オールドボーイ」から復讐の美学だけ抜き取り洗練したら、業の深さでなく業そのものが見えたという感じか。万人ウケはしないけど、「オールドボーイ」が好きな人は死んでも見るべし。[映画館(字幕)] 8点(2007-01-23 20:27:08)(良:1票)

46.  16ブロック 《ネタバレ》 ブルース・ウィリスの腹に注目。ベルトの上に贅肉が乗っかっちゃってる・・・。これを見た瞬間、この映画は面白いに違いないと思った。彼と、彼の「元」同僚たちは、その存在だけで20年にも及ぶキャリアと汚職にまみれた暗部を映し出す。彼らからニューヨークという場所の一端を感じ取れる。また同時にニューヨークは彼らをごく自然に画面の中へと収めているように思う。屋上、室内、地下と毛細血管のように張り巡らされた建築物の間と、息の詰まりそうな程溢れかえる人、人、人の間で行われる追走劇。街の細部を知り尽くした彼らの押しと引きのリズム構築の見事さ。そして圧巻はやはりバスでのやり取りだろう。まんまと逃げるブルース・ウィリスとブチ切れるデヴィット・モースという最良の構図を迎えるまでの時間の密度はかなり凄い。「護送される奴が、実はイイ奴」という不変のパターンにも見事にやられる。最初はよーしゃべるウザったい奴だと思っていたが、中国人のおっさんのところで着替えをした辺りから涙腺を緩めるようなことばっかりしやがって・・・負けました。女っ気がほとんどないのが不入りの一因か?妹、良かったんだけどね・・・[映画館(字幕)] 8点(2007-01-23 20:26:50)(良:2票)

47.  大地 この映画、やばすぎる。この映画の主張としての労働者の苦しみや解放といういかにも共産主義的な感じの物語は70年過ぎた今、様々な形で表現されてきており、特にどうこうということでもない。しかしそんなことをはるかに超越する映像がこの映画を70年たった今もクラシックの名作として棚に残している。普段自分が自然として認識しているものと、このドヴジェンコという人が認識していた自然の格差にまず愕然とする。ドヴジェンコは間違いなく自然、大地に神を感じていただろう。アスファルトの上から大地を感じ取ることの困難、あるいは困難すら生じない現代では、この映像は既知のものであってももはや未知の映像だと思う。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:21:29)(良:1票)

48.  アウトロー(1976) ツバ汚っ!しかも黒っ!いくらアウトローだからって、ビーフジャーキー喰らい過ぎです。だが、この映画は相当素晴らしい。段々仲間が増えていく過程なんて見ているだけでワクワクするし(インディアンの女子が最高)、イーストウッドのギラギラ振りも相当なもの。ソンドラ・ロックが、清純そうに見えながらしっかりイーストウッドを誘惑しているところも面白い。場面としては中盤の川流しのくだりが堪らない。帽子をかぶったおばあちゃんのカッコよさ、南北の歌を歌い分ける漕ぎ手のオッサンの軽薄ぶり、イーストウッドの一発の銃弾でピンチを簡単に切り抜けてしまうというオチも効いている。「サンダーボルト」のジェフ・ブリッジスを想起させずにはいられないサム・ボトムズの繊細な表情の変化も良かったなー。見所のみで構成された実に豊かな画面の中を生き生きと動く人物、体内には映画の血が流れているとしか考えられない。中でも最も濃い血を持つであろうクリント・イーストウッドが監督した、傑作としか言いようがない作品。[DVD(字幕)] 9点(2007-01-23 20:19:59)

49.  ユリシーズの瞳 映画誕生100年目にして出来た唯一無二のこの作品、一回見ただけでは何の判断も下せないでしょう。寄せては返す波のごとく行ったり来たりしながら、ハーベイ・カイテルが演じた映画監督Aとマナキス兄の現実(旅)と夢(追憶)に少しずつ近づく必要があります。映画はエンターテインメントだ、とはよく言われることでありますが、それと同時に抑圧から生まれる純度の高い結晶としての映画の存在も忘れてはならない。最初は何のけがれもなかった映画へのまなざしは100年を経て今の姿となりました。古典となった映画を今でも見るのは、映画にこびりついてしまった手垢に触れたくない時があるからでしょう。失われた無垢のまなざしを求める時空を超えた旅は歴史の渦に巻き込まれ、悲しすぎる惨劇でもってラストを迎えます。映画の敗北か、それとも第2章の始まりか。アンゲロプロスのまなざしは、私には遠すぎます。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:18:28)

50.  霧の中の風景 完璧。もう一度言っちゃおう。完璧。映像も音楽もストーリーも、とにかく全てが。個人的にはいろんな意味でぶっ飛んでるギリシャ現代史三部作とか「アレクサンダー大王」のほうがアンゲロプロスの人間性を感じられて好きだが、「霧の中の風景」はかなり特別な存在だ。これの前の作品は「蜂の旅人」という非常にパーソナルな映画で、この映画からは老いを疲れるぐらいに感じたのに、数年後の次回作がこれだ。一体何があったのだろう。時空をまたぐ歴史語りに疲弊して旅に出た老人が、沈黙の詩人になって帰ってきた事は確かだ。ちなみにこれ以降は国境線上の夢遊病者になる。「霧の中・・・」に関しては色々と書きたい事があるが、一番重要と思われるのは、アンゲロプロスもまたこの二人の子どもたちのように原郷を探していたのだろうということだ。そしてこれが一つの答え、なのかどうかはわからない。というのもあそこがその場所なのだとしたら、それはこの世にはない場所だから。それは昔はあったはずだが今ではすでになくなってしまった場所とも言える。だから正確には探しあてたというよりも元の場所に戻ったというべきか。フェリーニには「アマルコルド」という原郷があり、タルコフスキーには「ノスタルジア」という失った原郷がある。そしてアンゲロプロスは「霧の中の風景」についに帰ることが出来た。ただし、これ以降彼の作品を包む霧はそんなに優しくはない。「ユリシーズの瞳」はまさにそれを象徴する。苦しい映像体験になると思うが、これもぜひ鑑賞していただきたい。彼特有の「あえて見せない」演出は曇天の鉛空だからこそ発揮するという事がよくわかるはず。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:14:49)(良:1票)

51.  驟雨 香川京子「『何だそれは、キュウリか?』って・・・」原節子「え?」香川京子「キュウリって言ったわよ!」ここで香川京子が泣きます。原節子は「まあ、それは失礼ねえ」とか言いながら可笑しいのを堪えています。もう、このシーンだけでも何度も見たい!(ちなみにキュウリとは、香川京子が描いた日本地図のことです・・・)成瀬の映画で庶民の日常そのものを描いている作品って、実は意外と少なく「驟雨」はその中の一つです。小気味よいテンポとささやかなピアノからなる、ほんとに小品といった感じのこの映画は、それでもいつものように全く手抜きがありません。商店街の雰囲気や、まだ道路の整備されていない住宅地の佇まい。たった一つの画面から様々な心情を映し出す撮影と照明の素晴らしさ。そして大げさにデフォルメされた人物たちのおかしさあふれる抜群な演出。幼稚園での会合のシーンなんて、例えば脚本を見ただけで、あれだけ連続性に富んだ映像を創造できる人はいないと思います。この年、成瀬監督は他に「妻の心」と「流れる」を上梓しています。しかも「驟雨」の前は「浮雲」!この事実を前にただ驚愕するしかないです。今ではもうそんなことはありえないから。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:14:30)(良:1票)

52.  イノセンス DVDで何度も見返すたびに、映画館で繰り返し観なかったことを激しく後悔する映画がこれ。こんな贅沢な映画はそうないです。攻殻機動隊とは一味違うハードボイルドの世界。現在、これほどのコテコテなハードボイルドが生身の人間(笑)にこなせるでしょうか?無理でしょう、あるいは出来たとしてもそこには一種の滑稽さが潜んでいるのではないでしょうか。一方、彼ら(ゴースト)の孤独はシャレにならないです。人間によって彼らの似姿として作り出された人造人間。それら(というのも憚れるが)は人間の理想形として、従属するものとして量産されます。この映画の冒頭、球体人形のような姿の美しい人造人間は、暴走した後、自ら壊れます。このプログラムとして予定された自殺の残酷さは、意外な存在によるものだとわかるのですが・・・それにしても生々しすぎる。バトーもまた、マトリクスの裂け目の向こう側に行ってしまった少佐の影に囚われ、それでもゴーストを体現する自らの肉体を必死で引き止めるかのように、犬に対して過剰な愛情を注ぎます。バトー(人造人間)もまた、誰かとつながっていたいと願っているということです。終盤、ロボットに乗り移る少佐と彼女に自分のジャケットを着せるバトーのペアは、最も美しいカップルの一組だったのではないかと思ってしまいます。≪われわれの神々もわれわれの希望も、 もはやただ科学的なものでしかないとすれば、われわれの愛もまた科学的であっていけないいわれがありましょうか≫[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:13:35)

53.  百年恋歌 三話構成で、三つの別の時代が描かれ、それぞれで主役となる男女のカップルは同じ役者が演じる。この三話にはストーリー的なつながりはないものの、ホウ・シャオシェンの、映画監督としての約20年の歩みというか、変遷に沿っている構成である。つまり、最後の現代篇がホウ監督の最前線ということになるだろうか。が、最後の現代篇は、なんか、よくわからない。一話目のような幸福感もなく、二話目のような官能的な画作りもなく、ただただ青白く重苦しくて、観終わった後の失語状態がシャレにならなかった。「ミレニアム・マンボ」でもそうだったが、ホウ監督の扱う現代は、どうしようもなくしんどい雰囲気が漂っていて、観ながら眉間にシワを寄せてしまう。なんとかして、ホウ・シャオシェン的なものを探したいのだが、それを見つける事すらできないことへの苛立ちもつのる。だがホウ監督がダメになったとは思えない。実際、「百年恋歌」の第一部は、あの「恋恋風塵」や「風櫃の少年」を凌ぐほどの密度だし、二話目だって「フラワーズ・オブ・シャンハイ」を想起させる。ということで、必見なのは間違いない。何よりスー・チーの佇まいが半端ではないのです。一話目のスー・チーの可愛さといったら・・・何なんだあれは、可愛すぎて反則だよ。と、それは置いても(置けないが)、ホウ・シャオシェンはやっぱり断固支持。とりあえず「ナイルの娘」と「憂鬱な楽園」を見ておこう。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:13:17)

54.  ボスニア 怪作(怪物のような作品の意)「アンダーグラウンド」のラストの字幕<この話には続きがある>という不穏なメッセージ。バトンを受け取ったボスニアの詩人でもある監督が描いたボスニアの内戦は、その不穏が筆舌に尽くしがたい程の絶望に変換されたものだった。いや、戦争の恐ろしさや狂気を描いた作品は今ではどこにでもある。そんなものまでも消費物としてポップコーンを飲み込むようにしてやがて排出される運命にある現状で、「ボスニアを東京まで拡大せよ」というメッセージを受け止める覚悟はなかった。「いつまでも平和ボケしていられると思ったら大間違いだ」と釘を刺されたような気分だった。反対に「ボスニア」を直接に体験する登場人物たちは確実に生きていてそして何かを勝ち取る為に死んでいく。生き長らえたとして残るものは・・・・全編通じて流れるジプシー音楽の調べは彼らの青春であり諦念でもあった。それらを包み込む「民族と友愛のトンネル」の暗闇と円環構造になっている物語がこれから続くであろう世界規模の内戦を予見している。アメリカ同時多発テロ後しばらくして見ただけに終了後はどうしようもない気分になった。とんでもないものを見てしまったという感情と、ユーゴ問題すら気がつけば忘却のかなたにあったということ。そして何よりも日本でこの映画を見たということにショックを受けた。にもかかわらず、この映画が自分にとって愛すべき映画になっている。それはこの映画にこもった魂があまりにも切実だったから。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:12:47)

55.  ありがとう (2006) 生きていることが既に奇跡であるとすれば、生存を持続させる全ての事柄もまた奇跡だろう。だから何も奇跡を特別視することはないのかもしれない。だが、この映画のメインストリームである持続する奇跡、そしてそれが起こらないという疑念すら生じさせない力強さ、これらが実話という事象を飛び越えて、ドライヤーの「奇跡」に接近してしまうという事態を目の当たりにして、ただ言葉を失いひたすら感動するしかないのは何故だろうか。何の気なしに観に行ってここまで打ちのめされるとは思わなんだ。素っ気無く通過されてもおかしくない、「シネコン映画」の一つとして数え上げられるには余りにも惜しい。「ありがとう」は、紛れもなく映画作家による現代映画である。赤井秀和の「ニコッ」とした笑顔の素晴らしさ、薬師丸ひろ子の髪を梳くときの表情、そして田中好子の愛すべきキャラクター。是非もう一度観たいですね。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:12:10)(良:1票)

56.  太陽(2005) 《ネタバレ》 銀座シネパトス特有の地下鉄の走行音&微振動と、ソクーロフ映画特有のサウンドとの合成によって、気持ち良さのあまり序盤思わずウトウトしてしまったが、終わってみれば相変わらずのソクーロフ節というか、むしろ昭和天皇を演じるイッセー尾形という俳優を得たことで、ソクーロフの諸作品と比べると親しみやすい映画であったように思う。イッセー尾形の道化ぶり、佐野史朗の狼狽、桃井かおりのぎこちなさ等は普通に見ていて面白く、それらをあの独特の暗色画面の中でやってしまうソクーロフの大胆さも面白い。「昭和天皇は断じてこのような人物ではない」という意見もあるだろうが、それは確かにそうだろうと思う。ただ、そんなことは実はどうでも良く、むしろイッセー尾形が演じるヒロヒトが演じていた/演じざるを得なかった現人神(=太陽?)としての昭和天皇の姿を、人物そのものの造形ではなくて「関係(侍従との関係、マッカーサーとの関係、皇后との関係等・・・)」として捉えただけでなく、退避壕を中心としたほとんどが室内で構成された場面、あるいは妄想や窓越しからしか見る事の出来ない焼け跡の東京までもが昭和天皇の中に包含されるような世界として構成するそのやり方が見事であり、ラスト、佐野史朗の一言を聞き沈黙するヒロヒトを、桃井かおりが手を引っ張って部屋から出て行くシーンによって唐突に映画を終わらせることで、閉じられた世界にわずかな裂け目が作られた(それがエンドロールのあの白い鳥なのか?)。これは必見です。「あっそ。」と言われたらそれまでですが・・・(笑)[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:11:30)(良:2票)

57.  真田風雲録 《ネタバレ》 佐助に惚れたお霧が決めた覚悟と、それに対して笑えるぐらいに絶望的な突き放し(千姫に「要は、捨てられちゃったってこと」とまで言われる始末・・・)のこの落差は何?あるいは「勇ましく死のう!」と声高らかに歌い踊る熱狂に対して、真田幸村、大野治長が見せる余りにもコミカルな死に様。でもこの映画に限らず、加藤泰の作品はとにかく感情が動く。しかも常にトップギアのテンションで。感情の変曲点でいちいち対応できない。スピードが速いんじゃなくトルクが凄いのが加藤泰(意味不明)。優しさと厳しさと激情が同居する(「いとしさと切なさと心強さ」じゃ全然足りん)加藤泰の映画はいつだって真剣勝負。ラストは「パリ、テキサス」もビックリの草原を一人で歩く中村錦之助。参りました、としか言いようがない。[映画館(邦画)] 9点(2007-01-23 20:10:35)(良:2票)

58.  夜よ、こんにちは 《ネタバレ》 とにかく巧い。冒頭、夫婦を装って住宅を購入し、首相を拉致監禁するまでの展開を、全て室内で進行させるのだが、隣近所の訪問、窓越しの視線、テレビの映像、縦横無尽の音響、これらが住宅の一室を映画空間に一変させる。狭い空間に張り巡らされた無数の「映画トラップ」とでも言うべきか。ベロッキオは、この映画の背景であるモロ首相誘拐殺人事件や赤い旅団に対する言及を前面には出さず、テロリスト達と首相の関係をたくみに変位させながら、ジワジワと観客の外堀を埋めていく。そのベースとなるのは映画全体に通底する一種の通俗性(普遍性)で、主人公キアラの、テロリストととしての自分と、首相の思想に傾きそうになる自分との葛藤が、非常に分かりやすい構図で描かれる。さらに姿を見せない赤い旅団やイタリア政府の冷徹さ、あるいは唐突なローマ法王の登場。サスペンスの中に潜むホラー的とも言うべき彼ら怪物的人間の不気味さにより物語は複相化する。そして気がつけばベロッキオの攻勢は内堀にまで及んでいる事が、シューベルトの音楽と共に明らかになり、もはや防御は不可能。キアラの願望は次第に現実を帯び、後半以降、もの凄い事になる。ラスト、首相の笑顔、解放、その後にやってくるテレビ映像、そしてピンクフロイド!要は、この映画は圧倒的にカッコイイのである。ディ・モールト(非常に)良しッ![映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:10:11)(良:2票)

59.  LOFT ロフト(2005) なんだこれは。ホラーなのかと思ったら気がつくとサスペンスに、そして仕舞いにはラブストーリーなってる。しかも時間が経つごとに映画は逸脱の度合いをどんどん大きくしていくし。破綻というスケールに当てはめられないこの逸脱はオリヴェイラ級。役者も凄い。中谷美紀はメチャクチャきれいだし、西島秀俊の最低人間振りには言葉も失う程で、安達祐実なんかは2人の男を破滅に導く役を演じちゃってる。トヨエツに至ってはもはや意味不明。映画ってこんなに面白くていいの?と思わず自問自答してしまうような妖しい艶で画面一杯張り巡らされています。[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:09:56)

60.  オペレッタ狸御殿 小沢「冷たいのどごしと ほのかに残る甘い香り あなたなしで生き てゆけない」 井戸田「あまーい!甘すぎるよ小沢さん!」(Byスピードワゴン) っていうぐらいに甘い。ただしセイジュンの突発にまともに付き合ったら眠ってしまうんじゃないかとも思う。だからそれよりもこの映画を包む和菓子と洋菓子と中華菓子がミックスしたような甘ったるさに浸れば、反対にこんな幸福感はない。チャン・ツィイーは「初恋のきた道」の時と比べて60倍は良かった。アジアンビューティーたるもの、やっぱりイモ(失礼)ではダメ。白い背中をチラと見せる、艶やか、そして滑り落ちる衣服と足元。オダギリジョーだってチャン・ツィイーに引けをとらない。雨千代はこの世で一番美しくなければならないわけで。セイジュンとは花鳥風月であり娯楽活劇である。オペレッタ狸御殿を観るという事は、映画の申し子セイジュンによる日本的娯楽の一つに立ち会うという事です(大げさ?)。翁曰く、「安土桃山大好き人間である」ああ、やっぱり。 奇しくも、もう一つの巨大な本格である「ミリオンダラーベイビー」との同時期公開(東京ではそうだった)で、映画の豊かさをダブルで味わえた事にもまた感謝。それでも注目は薄かったように思う。こういう映画が敬遠されてしまう映画界の悲劇的現状に井戸田さん、どうぞ。「認めない、あたし認めないよ!」[映画館(字幕)] 9点(2007-01-23 20:08:16)(良:1票) 《改行有》

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