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681.  エースをねらえ! 《ネタバレ》 杉野昭夫作画のシャープな描線が素晴らしい。 静の場面の端整な劇画調と、淡い背景の対照がコミックの味わいを残し、パワーテニスのスピーディで力感ある身体動画と流動線が画面に独特の躍動感を呼び込む。 そして、馬飼野康二の劇伴音楽も大いにドラマに緩急をつける。 今の時代の鑑賞なら、テレビゲーム画面や、ビデオ録画テープの巻き戻しやコマ送り映像など、当時の最新風俗・流行を取り入れた斬新さは、逆にノスタルジーの対象と写るだろう。 が、現在の無粋なケータイ文化の中では成し得ない、古きよき固定電話によるコミュニケーションもまたノスタルジーを帯びつつ、その映画的用法の見事さによって感動はまったく古びない。 「呼び鈴」の音の叙情。沈黙の時間と夜空の星のショットが醸し出す興趣。主人公とコーチの電話のやり取りは都合3度、段階的に発展活用され最終場面の感動に繋がっていく。 ラストに再び響く、呼び鈴の余韻がまた素晴らしい。 [DVD(字幕)] 9点(2011-10-08 17:21:07)《改行有》

682.  ロッキー・ザ・ファイナル 監督シルヴェスター・スタローンによる直近3作のアクションシーンは1ショットに拘ることなく、忙しないほどのモンタージュ加工によって作り上げられる。 旧作で、寝起きから生卵一気飲みまでを捉えた一連の長回しや、持続的なウェイトリフティングとプッシュアップ、歩道から美術館の階段上までを主人公のロードワークと共に駆け上がる見事なステディカム移動撮影といった、1ショットが含み持った感動は今作には見られず、ことごとく細かいアクション繋ぎによって編集されている。 主人公の生理と同調しつつ、主人公に伴走しながら階段を登りきるカメラワークの持続があってこそ観る者により高揚をもたらすはずなのだが、テーマ曲の尺とリズムを偏重した結果か、勿体ないカットの割り方と云わざるを得ない。 一見、意匠的には旧作を踏襲しているように見えながら、過度に分解された1ショットの運動の充実度は薄い。 一方で、イエスの肖像で始まる第一作に回帰し、その表象として画面を彩る個々の光は印象的だ。 スケートリンク跡地で、主人公の両肩に輝くヘッドライトは五作目で語られる「Angel」だろうか。 スタローンはジェラルディン・ヒューズの玄関先に「光あれ」と電燈をつけ、彼は逆にこの光に照らされ、エキシビション・マッチの決意を固める。 そして、最後の花道を振り返る彼を照らすスポットライトの光がひときわ美しい。 [映画館(字幕)] 8点(2011-10-08 17:08:18)《改行有》

683.  ザ・ウォード/監禁病棟 《ネタバレ》 何度失敗しようが、諦めずに脱走を試みる不屈のヒロイン(アンバー・ハード)。 彼女を何度も物理的に投げ飛ばす幽霊も豪快でよい。 脱獄シーンでありながら、足音や物音を気にもしないその無頓着ぶりも大らかで楽しい。ベッケルの『穴』のように、深夜の廊下や通風ダクトに響き渡る過剰な音が却ってサスペンスを盛り立てる。 一つの扉から、次の扉へ。階下階上を巡る追っかけアクションもスリルがあって楽しめる。廊下の直線を縦に捉え、手前で閉まりかけるエレベーターの扉に向かって追いかけてくる看守を間一髪でやりすごすタイミングやフレーミングなども堂に入っている。 、 お馴染みの「横切り」や、派手な音響を伴った常套的なショッカー演出はご愛嬌。 [映画館(字幕)] 7点(2011-10-05 22:42:20)《改行有》

684.  ロックよ、静かに流れよ 《ネタバレ》 『少女たちの羅針盤』と大いに響きあう。 「駅のホーム」からドラマは開始され、少年は「城下町」松本へ。少年「4人」は地方の高校生活の中で、ほぼ全篇「ロケーション」の瑞瑞しいローカル性に溶け合いながら、葛藤を経つつバンドを「結成」し、「仲間の死」を乗り越えて「舞台」に立つ。 転校早々に理由もなく対立する岡本健一と成田昭次は、殴り合いの喧嘩を通じていつのまにか親友になっている。理屈を超えた「接触」から生まれる非論理の関係性、そしてそこから滲み出るエモーションこそが映画だ。 4人の面構えのみならず、取っ組み合い、殴りあう4人のシャープな打撃の擬斗が素晴らしい。 松本から上京した4人が、有名バンドのコンサートの帰り道、見晴らしの良い夕景の歩道上でじゃれ合いながらバンド結成を決意する長回しもまた、瞬発的なアクションと情感に溢れたショットだ。 4人が楽器を買うためにそれぞれアルバイトに精を出すショットが積み重なる小気味良さと、初セッションで拙いながらも音を合わせ合うシーンなどの持続感とのバランスもいい。 そして見せ場は少ないながらも、渡辺正行、寺尾聰、あべ静江、大寶智子らの好演が4人を一層引き立てている。 [ビデオ(邦画)] 8点(2011-10-02 00:07:54)《改行有》

685.  シャンハイ(2010) 《ネタバレ》 様々な形状のランプシェード、幻燈、ネオンサイン、暖炉、ヘッドライト。 あるいは、動乱の予兆ともいうべきマッチの発火に銃の発砲火炎と、暗闇に浮かぶ光の要素は数多いにも拘わらず、明暗のコントラストが際立たず、官能性にも欠ける。 結果として光も闇も共倒れの印象で、その辺りもラブロマンスとしての弱さの一因かも知れない。 ノワールなら、せめて濡れた路面への照り返しや、黒塗り車の艶光や、煙草の紫煙へのこだわりは欲しい。 ジョン・キューザックがコン・リーを尾行するシーンはほぼ起点と終点のみで、映画として肝心な経過の描写を欠き、上海駅ホームの群集シーンも同様に、追う・追われるのサスペンス醸成が拙い。 日本大使館前での暗殺シーンのカットバックも、クライマックスのショットガンの撃ち合いも編集が乱雑すぎる。 巷で騒がしい政治性論議などはどうでも良いとして、これでは乗れない。 [映画館(字幕)] 3点(2011-09-30 23:06:02)《改行有》

686.  南の島に雪が降る(1961) フランキー堺のこわばった右手のアップ。その甲についた黒い傷痕。思うようには動かないその手の表情に胸がつまる。 それでも尚且つ一心にピアノを奏でるフランキーの横顔と正確な運指、そしてそれに見入る演芸分隊員たちの表情が1ショットに収められる。 縦構図の奥で、まるで『ハタリ』のジョン・ウェインのような母性的穏やかさで加東大介がその演奏を静かに見守っている。 観客席後方の位置から捉えたクライマックスの雪のシーンと共に、映画の中でも特に素晴らしい場面だ。 役者本人による運指を明示することで、具体的なアクションとしての演芸が情を伴い、迫ってくる。 兵士たちは偽物の「桜」、「柿」、「鬘」に感激し、作り物の「雪」に静まり返り、涙を流す。 実物ではない、人の手による事物イメージの所産ゆえにより一層彼らの郷愁をそそるのではないだろうか。 映画は逆に、喜劇俳優が兵士に扮し、入道雲や、ヤシの木や、海岸の夕景といった美術的虚構と類似を駆使してニューギニア・マノクワリ前線基地を再現し、映画の観客はその風物のイメージに現地を想う。 現実ではなく虚構が、本物ではなく偽物が、迫真を超えた「芸術」として見るものの心をうつ。 まさに、映画を連想させずにおかない。 [ビデオ(邦画)] 8点(2011-09-30 21:24:54)《改行有》

687.  世界侵略:ロサンゼルス決戦 《ネタバレ》 厭戦と不況と失業率悪化の中、なりふり構わぬリクルートに精出す米軍と、物資・施設協力の見返りに露骨なゴマスリぶりをみせる製作側。(ベビーブーマーへの配慮もぬかりない。) あまりの臆面の無さに、逆効果ではないかと心配してしまうくらいだ。 キャスリン・ビグロー『ハート・ロッカー』ほど巧妙でないぶん実効性は低いだろうが、本質は一緒だ。 軍関係の画面占拠率とアクション規模は、迎合とアピールの度合いにはっきり正比例していて、イラク侵略泥沼化を経て、尚も仮想敵の捏造と徴兵宣伝に勤しまねばならない懸命ぶりが気の毒にもなってくる。 それはともかくこの映画、相も変らぬ「故意の手振れ」にまず萎える。 こんな手垢のついた「詐術」をまだやってるのか、と。そのダサさに心底、呆れる。 いくら揺らしの為に揺らしたところで、対話シーンでは平気で切返しを使い、ビルやバスへの突入シーンの度にキャメラが先行して、兵士が銃口を向けるのを「川口探検隊」式に幾度も正面から捉えるのだから、緊張感も臨場感もあったものではない。(『ハート・ロッカー』もまったく同様。) 出鱈目な視点で、単に揺れてさえいれば「ドキュメンタリータッチ」だというなら、観客愚弄というべきだろう。 これまた手垢塗れの近視眼的「小状況」設定と近視眼的顔面アップの連続は、文字通り近視眼的ヒロイズムにまみれ、無線遮断も時間制限もカウントダウンも、ドラマの中で何らサスペンスとして立体化せず、退屈極まりない。 新鮮味も皆無で、端的につまらない。 [映画館(字幕)] 1点(2011-09-24 16:43:26)《改行有》

688.  ザッツ・ダンシング! エジソンの時代から80年代までのダンス映像がモンタージュによって紡がれ、一つのリズムにシンクロしながらオープニングナンバーを形づくる感動。 そして『ザッツ・エンタテインメント』シリーズと同様、名ショットがリプレイされる最中にストップモーションによってダンサーたちの素敵な表情と身振りの一瞬間が躍動の中から的確に切り取られ、その一瞬が永遠化するようなエンディングの映画的感動。 全身で表現される伸びやかなダンスがスクリーンを越えて観る側の何かを開放し、幸福感で満たしてくれる。 69年の不動産企業によるMGM買収とその「資産破壊」、そしてメジャー再編を経たMGM/UAによる本作に登場する作品は(皮肉にも)時代範囲からしてもMGM中心の上記シリーズ以上に多彩だ。 映画は「ダンス」を描いた古代の壁、絵画、彫刻、舞台、そして映画最初期から80年代のMTV時代までを網羅する。 様式的には、民族舞踊、チャールストンからモダンダンス、ブレイクダンスまで。 映画表現的には、サイレントからトーキー、モノクロームからカラー、スタンダードからシネスコへ。30年代のバスビー・バークレーの前衛的な視覚効果からアステア+ロジャースらの個人技・フルショットの時代への変遷も判りやすい。 なかでも、巨大セットとスターが象徴する絢爛豪華の50年代と、『フェーム』等のストリートロケが象徴する80年代とのルックの隔たりは、撮影所の崩壊を強烈に印象付ける。その一方で、ダンスは継承と同時にエレガンス志向からエネルギッシュなものへとスタイルの革新を示し、映画は黄金時代への郷愁に湿るばかりではない。 映画は健康なオプティミズムで締めくくられている。 そして何より「映画キャメラの発明以前にダンスの道を歩んだ人々に捧げる」とする映画冒頭の献辞が感動的だ。 [ビデオ(字幕)] 9点(2011-09-19 18:22:49)《改行有》

689.  モールス フィックスのロングショットにおいて突発的に生起するアクションの衝撃性を重視したトーマス・アルフレッドソン版に対し、リメイクとなるマット・リーヴス版は、踏み切り越しの警音や列車通過音や給油所内の喧騒といった環境音を前景に配置して後景の静的な惨劇を際立たせる趣向をそれに組み合わせている。 車のバック走行から転覆までを車内後部座席からのロングテイクで捉えるアクションシーンの1ショット性なども、2008年版のアクション演出を踏まえつつハリウッド的な派手さを加味したものといえるだろう。 バスルームのドア向こう、あるいはプールの水面上で進行する殺戮を見せない趣向の踏襲が有効に機能しているのは当然として、一方で超人的なアクションを視覚効果で見せてしまうショットは驚きも緊張も生まないのが残念だ。 白い吐息、窓ガラスへの人物の反映、犬・猫の用い方など、細部の豊かさもやはり2008年版に軍配が上がる。 怪奇幻想ムードの中に差し挟まれたレーガンの「Evil Empire Speech」(1983)は現実的で異質なアクセントとしてさりげなくも面白い。 時代性と共に、コミュニケーションの主題をも暗に仄めかしているようだ。 [映画館(字幕)] 7点(2011-09-19 18:19:26)《改行有》

690.  神様のカルテ 宮崎あおいが写真家の設定であり、病院屋上で加賀まり子と看護スタッフの集合写真を撮る彼女を正面から捉えたショットがあるならば、それに対応した記念写真のショットは説話的にも映画的にももっと効果的に活かされるべきだった。 『半分の月がのぼる空』で忽那汐里の笑顔の写真を感動的に導入してみせた深川栄洋なら尚更だ。 キャラクターの職業設定がまるで活かされないため、彼女の映画的存在性はますます希薄となる。 それは彼女だけに留まらない。原田泰造、岡田義徳、そして本来なら現代版『赤ひげ』たるべき柄本明も同様である。 本作が医療のドラマとしても薄弱なのは、「処置」の具体的なアクションがまるで描かれないからだ。ひたすら善良で美談づくしの脚本であったとしても、医師・看護師の実働が具体的に画面に載っていればそれは十分に説得力を獲得する。 しかし、この映画では「緩和ケア」も「優れた資質」もほぼすべてが説明台詞のみで処理されてしまう。モニターチェック一辺倒の櫻井翔はもちろん、吉瀬美智子も池脇千鶴も労働らしき所作を全く行っていない。ゆえに絵空事感が増す。 夫婦間の家事労働も然り。にわか雨で洗濯物を取り込もうとするショットや、住人たちが調理する描写はわずかにあっても、何の料理を作っているかすら判然としない。 (せめて、櫻井のおにぎりを握るくらいの描写は欲しい。) 結果的にいずれのキャラクターも「生活者」としての実存性が非常に乏しく、空虚なファンタジーに堕している。 櫻井・宮崎の交わす文語体の台詞は、日本語自体の美しさの復権を試みたものだろうと好意的に解釈は出来る。 が、大林宣彦の『なごり雪』ほどの過激性もなく、役柄からさらに生活実感を失わせるだけの結果に終わっている。 [映画館(邦画)] 3点(2011-09-18 18:35:23)《改行有》

691.  コクリコ坂から 《ネタバレ》 非映画的な「説明のための説明」など無い方が良いのは、言うまでもない。 主流シネコン映画の「全面介護式」に慣らされ、1から10まで手取り足取り映画に説明してもらわねば何も「ワカラナイ」観客、あるいは「見ていても気づけない」観客、(ついでに言うと「メッセージ依存者」)には不向きな映画であることは間違いない。 エスケープから戻った路面電車乗り場の告白シーン。カメラ正面に向いた少女の後景に次第にヘッドライトが入射し、今度は切り返された少年の正面へ順光が入射する。続いて横からのショットとなり、少女のいる画面右手から少年の立つ左手へと光は伝わり、彼らの後方でドアが開く。 古典的で寓意性豊かなシーン作りが絶品だ。 あるいは、『天空の城ラピュタ』的な垂直線上の出会いの鮮やかさ。 マッチを摺る、キャベツを千切りする、あじフライをフライ鍋の中で箸で裏返すという細やかな調理動作の見事さ。 そして金槌打ち、ハタキ掛け、壁塗り、箒掛け、雑巾掛け、荷物運びといった清掃の動作のアニメーションも過去作の群を抜いて多彩だ。 何故、宮崎駿は「労働」のシーンを重視するか。それは、アニメーター自らが徹底した観察と実演を通さねば描き得ないアニメーションの基本だからだろう。 だから彼は何よりもまず労働の場としてカルチェラタンを設定・脚本化し、スタッフに作画を課す。 彼は、人間の細部の動作を写実する地味で困難な作画を通してアニメーション文化の継承と若い人材育成に専心しているように見える。そしてスタッフはそれに見事に応えている。 宮崎駿を不遇時代から理解し、支え続けた故・徳間康快氏もあからさまに登場するが、それはこの作品が、宮崎から亡き恩人への直截な返礼と手向けであることを示す。 助力してくれる旧世代への信頼と肯定。そこから新世代の進歩が生まれるというメッセージ。それは討論会のシーンでも少年の演説の形を借りて直裁なまでに謳われている。子供達の未熟を映画は否定しない。 宮崎吾朗組は、先達の信念を肯定し尊重しつつ、それを継承することから、新しきを模索してゆこうとする。 少年と少女は、オート三輪やタグボートを駆る大人達の助けを素直に借りて協働しながら坂道を下り、海を渡る。 前半の「上を向いて歩こう」に呼応する武部聡志のサントラナンバー「明日に向かって走れ」に乗って二人が坂道を並び駆け下りて行く横移動シーンの高揚感、ロマンティシズムが素晴しい。 [映画館(邦画)] 9点(2011-09-04 18:32:57)《改行有》

692.  雪の女王(1957) 《ネタバレ》 透過光のふんだんに使われた幻想的な氷の宮殿や、氷の宝石の光沢、あるいは暖炉の炎の照り返しなど、特殊効果の贅沢な用法に光への意識の高さが窺える。 生命感あふれるカモメやカラスや鹿たちの動きや、主人公の少女の細やかな仕種・動作のアニメーションが絶品だ。(髪を梳かす場面の質感表現の見事さ。旅の途中でお世話になった人々や動物たちに都度丁寧にお礼をするその仕種も大変愛らしい。) とりわけ特徴的なのは波や風雪の表現の多彩さで、旧ソビエトの風土ならではだろう。日本語が多様な雨の種類を使い分けるのと同様、本作では彼地の特色たる多様な降雪がこだわりをもって描き分けられており面白い。 キャラクター設定だけでなく、映像表現の面でも日本のアニメーションへの影響が多々窺われる作品であると思う。 様々な民族の助けを経ながらの旅といった要素が旧ソビエト的でもあり、大団円が「雪解け」であるのも象徴的だ。[ビデオ(吹替)] 9点(2011-09-04 18:12:35)《改行有》

693.  トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン カーチェイス等を主とする水平軸のアクションよりも、垂直軸・あるいは傾斜軸を活かした高低差のアクションのほうが、やはり3Dには相性が良いのか。 『パールハーバー』で戦艦アリゾナに向かって落下する爆弾を高空から追うバーチャルキャメラや、戦艦オクラホマの傾斜した甲板を船員が滑落していく移動ショットで試みられた斜面感覚がここに結実している。 ビルの高層階から地上を俯瞰する縦に深い構図の奥行きは、平衡感覚を瞬間的に迷わせ、落下の錯覚を催させてはくるのだが、それはあくまで感覚刺激にとどまり、映画の感情を際立たせることは無い。 高層ビルから飛行艇へ、シャイア・ラブーフを追ってヒロインが果敢に飛び移るショットや、半壊して傾斜の度を増すビルの中で手を繋ぎ支え合う二人のアクション等にはもう少し情感というものが伴っても良さそうなものだが。 その無頓着ぶりと、状況をナンセンスコメディに転化させてしまうエキセントリックな感覚こそがマイケル・ベイの資質なのだろう。 それでも(それゆえ?)楽しめてしまうのは、画面の豊かな活劇性ゆえだ。 全身による螺旋回転運動を採り入れながら敵を蹴散らしていくトランスフォーマーのダイナミックな横移動ショットなどは、マキノ的な殺陣アクションを連想させずにはおかない。 [映画館(字幕)] 7点(2011-09-03 20:13:28)《改行有》

694.  大丈夫であるように ─Cocco 終らない旅─ 《ネタバレ》 映画の冒頭、ツアーバスの中で黒砂糖だけの食事をとるCoccoの姿が何気なく映し出される。 それは、彼女の拒食症を仄めかすものであり、映画の終盤に至り、彼女の異常に痩せた腕とそこに数多く刻まれた自傷痕の凄惨さに気圧されることとなる。 劇中に挿入されるステージ風景で、沖縄口をパフォーマンス性豊かに使い分けつつも、MCの度に感極まって涙声になる彼女の姿は、どこか危うい奇矯さや破滅型というべき思い込みの激しさを感じさせるのだが、それは文字通り「身を削って」心情を歌い上げる悲壮な姿であったことを思い知らされる。 その姿は、いわゆる「社会派映画」から得た「知識」や「情報」程度で何か社会問題を「考えさせられた」気になって自己満足に浸りたがる観客の安易さを撃つ。 それは単なる「よい子」の作文と同様、具体的には「何も考えていない」と同義にすぎない、と。 沖縄出身の彼女は、コンサートツアーの中で彼女のファンである青森県の女性と対面し、六ヶ所の実情を「知らせてくれたこと」の感謝を直に伝える。 彼女は、社会問題を「知識」や「常識」としてではなく、具体の視線と身体で「見ること」「会うこと」「体感すること」において捉えようとする。それが彼女にとっての「反戦」・「反核」であり、それが彼女の純粋さであり、素晴らしさだ。 キャンプ・シュワブの鉄条網に彼女は色鮮やかな「抵抗」のリボンを巻きつけていく。 暗い砂浜で、自分の黒髪を切り、自分宛のファンレターと共に焚火の中に投げ込んでいく彼女は何を想うのか。 オレンジの炎の照り返しに浮かび上がる彼女の無言の横顔。 その相貌の固有性とシーンの緊張感は、彼女の生々しい傷痕のイメージとともに見るものの感性を揺さぶる。 [映画館(邦画)] 8点(2011-09-02 23:20:21)《改行有》

695.  罪の天使たち 《ネタバレ》 修道女が各部屋を順々に開けていくシーンの呼びかけ声「アヴェ・マリア」や、ラストで修道女の間を伝播していく「ラ・ポリス」という囁きを始め、彼女らの静かな会話やアンヌ・マリー役:ルネ・フォールの演劇的で澄んだ発声など、音楽的な響きが豊かな映画だ。 脱獄シーンのサイレン音、鉄格子やラストの手錠が閉まる即物的な物音と共に、聞かせる映画になっている。 第2作『ブーローニュの森の貴婦人たち』とともに、劇半音楽があるのもブレッソン長編第1作の特徴だ。 刑務所シーンにみる暗黒ムードやシルエット処理による銃殺シーンなどはアメリカン・フィルムノワールを髣髴させ、夜の樹間に差し込む月の光線はラストの病床シーンのライティングとともに非常に美しくメロドラマを彩り、印象深い。 『抵抗』の冒頭に直結するようなラストショットの「手」の表情は、死と救済の主題とともに、後の作品に連なっていく。 [映画館(字幕)] 8点(2011-08-28 18:48:13)《改行有》

696.  大列車強盗(1903) 駅舎の中、駅員が拘束される画面右手奥の窓に映る「列車の到着」。または強盗が行われている貨車の側面扉の奥を水平方向に流れていく木々の光景。 画面の前景・後景それぞれに常に動態が取り入れられ、重層的画面は固定化することがない。 原野のロケーションを背景にした列車や馬の疾走、そして車上の格闘はパースペクティブを活かした縦構図の中に捉えられ、乗客降車のモブシーンや、躍動的な群舞シーンは画面を賑やかに活気づける。 林の中を逃走する強盗団の1人が落馬するショット、そしてクライマックスで画面奥の保安隊と手前の強盗団の間で交わされる銃撃戦を延々と捉える固定ショットもアクション性豊かだ。 その乱戦の活劇感覚がとてもいい。 画面のあちこちにに突発的に白い硝煙が広がる瞬間、馬たちが驚き、怯える様はそこにある「音」をも強烈に感じさせる。 [ビデオ(字幕)] 8点(2011-08-27 00:56:04)《改行有》

697.  怪人マブゼ博士(1933) ドイツ公開バージョン。 怪しげな工場内を移動していくファーストショットと、そこに響く重い振動音からして尋常でない緊張感が画面を充たしている。 その序盤シーンをはじめ、窓やドアといった装置がその開閉だけでもサスペンス演出としてバラエティ豊かに機能しており、米独通じての空間・装置活用の傑出ぶりを見せ付ける。 多重露光によって浮かび上がるマブゼ博士(ルドルフ・クライン=ロッゲ)の禍々しい幻影と、その憑依表現の見事さ。 全篇にわたって画面に退廃的ムードを漂わせる煙草の紫煙。水流と火炎と投光機のライトによるスペクタクル。ヘッドライトに照らされる路面や木々の流れが素晴らしい、夜のカーチェイスのスピード感覚と、屋内・屋外含めて画面の装飾は凝りに凝っている。 「閉じたドア・カーテン」が仄めかす背後空間と、実体なき音声による煽動、そして暗く見通しの悪い夜の一本道を猛進する縦構図の疾走アクションに、時代の空気を読みたくもなる。 [DVD(字幕)] 9点(2011-08-21 15:15:12)《改行有》

698.  二百萬人還る 第二次大戦後、祖国フランスへ帰還した人々の悲喜交々を題材にしたオムニバス五話。 歓喜に沸く人々を映し出す晴れやかな実録映像に続き、各挿話は「5人の場合」を描き出すが、日常生活への回帰はそれぞれままならない。遺産問題、男女問題、旧敵国への憎悪。 錚々たる4監督がそれぞれの題材に見合った作風でユーモアとペーソスとサスペンスを醸し出している。 監督の個性もさることながら、ルイ・パージュと、ニコラ・エイエの陰影豊かな撮影がそれぞれの作品に一貫した哀感を滲ませていて素晴らしい。 第一話(エマの場合)でカーテンが引かれるラストショットの孤独な暗闇。 第二話(アントワーヌの場合)で暗い廊下に幻想的に浮かび上がる、女性士官の白いドレス姿。 第三話(ジャンの場合)の薄暗いアパート室内での息詰まるような葛藤の劇は、まさにクルーゾーの真骨頂といった感じ。 そして第四話(ルネの場合)、第五話(ルイの場合)のジャン・ドレヴィル篇の幸福感あふれるエンディングは実に素敵だ。 田園のロケーションの見事さ(ドイツの娘が身を投げる池の厳かな風情と波紋)と、可愛らしい子供達や魅力的な動物たちの配置(馬、アヒル、喜ぶ犬、)。適切な移動ショットと、間接的な視線、感動的な水音の演出で映画のラストを粋に飾っている。 [ビデオ(字幕)] 10点(2011-08-19 00:08:54)《改行有》

699.  大鹿村騒動記 トンネルを越えて紅葉の山道を登っていくオープニングの緩やかな縦移動の感覚。 三國連太郎が墓参する、あるいは小倉一郎が農作業する山の斜面の感覚。 激しく窓を打つ豪雨と暴風の描写が素晴らしい山の嵐の感覚。 そして、原田芳雄の営む食堂の外観・内装から滲み出る地味な生活感を笠松則通の落ち着いたカメラが的確に掬い取る。 現地ロケーションと役者の馴染み具合が何よりで、おひねりの白い和紙や掛け声の飛び交う、客席と舞台上とのコミュニケーションもすこぶる楽しい。 手前に食堂テーブル、奥に玄関。あるいは手前に洗濯機とトイレ、奥に居間といった手狭感の秀逸な縦構図のなか、それぞれ岸部一徳や松たか子、冨浦智嗣らと原田芳雄が絡むロングテイク主体の対話劇もいずれもユーモア豊かで味わい深い。 ラスト近く、原田と大楠道代が並ぶ、舞台後の裏口のロングショットもいい距離感を出している。 そのうえで繰り出される、原田振り返りのクロースアップが尋常でない凄みを放ち、感慨深い。 三國連太郎との充実した芝居のなか、目深に被り直すテンガロンハットの芝居も泣かせる。 [映画館(邦画)] 8点(2011-08-15 20:34:40)《改行有》

700.  眠るパリ 《ネタバレ》 フランスの下町を魅力的に活写したクレールの第一作もまた、巴里の街が主役だ。(当時20代半ば) 主にエッフェル塔からの俯瞰で捉えられる様々な街の表情をはじめ、苦心が窺える無人のロケーション撮影に、若い作家の情熱と愛着が篭っている。 塔の鉄柱に取り付いてのアクションは、同年のアメリカ映画『ロイドの要心無用』の高所アクションにはたして影響したのか、されたのか。 高所のスペクタクルとスリルを十分に味あわせてくれる。 スローモーションの映画『幕間』に対し、ストップモーションで捉えられた『眠るパリ』の斬新な姿。 静止していた画面が動き出す瞬間のアクセントが、街の生気と映画(モーション・ピクチュア)の感動をダイレクトに伝えてくる。 当時の複葉機や、街路を走る自動車や馬車、セーヌ川を渡る遊覧船の動きを見るだけでも「新しさ」を発見させてくれる映画だ。 エッフェル塔の高層階に並び座る男女がパリの街を見下ろすラストのショットの幸福感がいかにもクレールらしい。 [ビデオ(字幕)] 8点(2011-08-10 12:42:48)《改行有》

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2202.14%
3384.06%
4717.59%
510311.00%
610811.54%
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