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81.  劔岳 点の記 自然の美しさや恐ろしさを描くとは何か。その美しい恐ろしいと思える風景をフィルムに定着させられることが重要なのか。それは違うだろう。それはただの映像だ。映画はその美しいと恐ろしいと思っている感情を描かなければならない。少し話はずれてしまうが、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のラシュモアの崖のシーンが今見ればあのチープ感であれだけサスペンスなのは何故か。それは見事なまでの感情が撮れているからだ。モーションピクチャはエモーションピクチャでなければならないというダジャレを言うつもりはないが、正にそういうことだ。世に言われる美しい映像というのは映画にとってさほど重要なことではない。映画においての美しさあるいは恐ろしさとはひとの感情が露呈して初めて見ることが出来るからだ。 極論を言えば、役者は何もあの山に登らなくてもよいのだ。映画に何故セットが生まれ書割が生まれCGが生まれたのか。実現困難な世界観のために死を省みずに映画を撮りにいくなんて馬鹿げているからだ。機材が壊れ、人が怪我をする。ハリウッドではこの企画が通ることは難しいだろう。たかが映画じゃないか。測量に行くのではない。 物語自体にも大きな問題はある。一番言いたいのは、何故人が死なないのか。自然の過酷さを前に人の命の儚さを見せてはくれないのか。 しかしこの映画の俳優たちは、皆、素晴らしい演技を見せている。それは確かだ。特に宮崎あおいに関しては、彼女の登場シーンの安堵感は一体なんだ。勿論、他の俳優たちも素晴らしい。浅野忠信のいつも通りの何を考えているか全くわからない感じも、香川照之の泥臭さも、この映画を通して静かながらも一番変貌を遂げていく浅野の真似でもしているかの松田龍平も、何を演じても役所広司は役所広司でそれで納得できてしまうところも、仲村トオルの相変わらずの嫌味な奴っぷりもすべて立派だ。これだけの名優たちに支えられながらも、この映画は何かを欠いている。それは美しい恐ろしいと言われる風景映像と、彼らのそれらの感情が表裏一体ではないからだ。俳優たちがどんなに熱演しようとも木村大作はひとになんか興味がなく、興味があるのは山という風景ばかりだ。ひとと風景が表裏一体となった別の風景をフィルムに定着させることは出来ていない。 そういった風景が生まれることで、彼らの情熱が伝わってくるのではないだろうか。[映画館(邦画)] 4点(2009-06-26 15:11:20)(良:1票) 《改行有》

82.  ターミネーター4 《ネタバレ》 やたらマーカス・ライトの心臓であーだこーだやるなと思っていた。川辺では鼓動も聞いた。半分マシーン半分人間ということの強調かと思った。ところがジョン・コナーの胸部にT-800が金属片を突き立てた瞬間に移植という展開が一気に露呈した。 そして終盤、スクリーンに映し出されるすべてを疑った。この戦争の指導者は死ぬわけにはいかないから心臓を移植しましたでは、マシーンと人間との差異を描いてきたこのシリーズの根底を覆すことになるだろ。マシーンのパーツ交換じゃねーんだよ。「2」では修理すれば生きれたシュワちゃんだって自ら死を選んでんだぞ。シリーズを通しての物語の整合性など興味はないが、本質的に何を描くのかを見失っているのではないか。 そして「1」「2」の不安感は一体どこへ行ったのか。「1」「2」には、日常世界に見た目は人間だが中身がマシーンの殺戮兵器が未来から来て、反撃しようともくたばらず、執拗なまでに寡黙に追い掛けてくるという、底知れぬ恐怖とサスペンスが滲み出ていた。審判の日を経たため日常世界は消滅したのだから、同じことを求めるのは阿呆な話だが、あまりにも無意味で能天気なアクションシーンに緊迫感や不安感はなく、何よりもターミネーターに対する恐怖感が皆無だ。サラ・コナーが半狂乱になってまで恐れた終末世界ってこんなもんなのか。 これは戦争映画だ。それは正しい。マシーンは離脱や融合を繰り返し人々を襲う。これも正しい。しかし恐怖はない。ただの迫力のあるシーンだ。でかいマシーンはスピルバーグの「宇宙戦争」のトライポッドと同じ音を発し、これもまたトライポッドと同じ行動だが、人々を掴み籠へと入れるが、「宇宙戦争」にはあった不安感がここにはない。ジョンがカイルを救出するために端末をいじりながら侵入するが「ミッション:インポッシブル」のイーサン・ハントかと思う。モトターミネーターの目を使うところなどは「マイノリティ・リポート」じゃん。ジョンをトム・クルーズがやったらとんでもなかったろうに。 T-800とのバトルで、高低差のある工場内のような場所をわざわざ選んだのは「2」のバトルシーンへのオマージュだが、ここでの緊迫感はジェームズ・キャメロンのあのシーンには到底及んでいない。 悪いところばかりではないが、「ターミネーター」はシュワちゃんと、だっだっ、だっ、だだん!があればいいわけではない。[映画館(字幕)] 4点(2009-06-15 23:58:11)(笑:1票) (良:4票) 《改行有》

83.  重力ピエロ 《ネタバレ》 感染する癖なども含め、真の家族とは遺伝子的な繋がりではない、と充分なほどにこの映画は家族の絆の強さを描いているのかもしれない。ただ問題は家族の絆ではなく、家族の社会における位置だ。 この秩序ある社会でひとを殺した時、どんな理由があろうとも罪となり罰を受ける。それを社会が正当化することはあり得ない。もし正当化出来るとすれば、唯一それはひとそれぞれの思考の中でだ。それはエゴイズムとも呼べるだろう。 個人的な感情からすれば、主人公たちの殺人を許せるだろうし、罰を受ける必要性も疑うだろう。しかし倫理観に基づく社会の秩序は決してそれを許さない。感情論だけで最も正しい道徳を歪めることなど許されないのだ。ひとはひとを殺してはいけない、これが事実だ。 この映画はそういった秩序に対してエゴイズムで押し切ることに抵抗を感じている。だから社会の秩序を逆なでしないよう泉水がすべてを台詞で説明した上で春の自首を否定する。しかしこれは大きな無駄だ。何故なら、これは新聞やテレビなどでしか事件の側面を知らない現実ではなく、映画であり観客はすべてを見て知っているのだから、春と泉水の行動や感情を知っているし、彼らの感情論のエゴイズムをも理解しうるだろうからだ(勿論理解出来ない人もいる。そしてそれが正しい社会の秩序だ)。だからこれは明らかに社会の秩序に対して予防線を敷いた上での生温い結末なのだ。 母親を強姦した男(この男が殺されるべきだと徹底された悪として具象化され過ぎだ)を殺したことを開き直れということではない。ひとを殺したという事実を背負った重力を感じずに生きることなど不可能であるということの表象が見たいのだ。重力を無視した清々しい結末などいらない。家族の絆としての重力でこの物語の幕を閉じていいのだろうか。(この地上で生活している限り=この社会の中で)ひとは重力に逆らって生きることなど不可能だ。その重力を無視することはこの社会や秩序から逸脱して生きることを意味する。 彼らは「最強の家族」ではなく、この社会から最も「孤立した家族」となった。もしそいう結末ならば、それすらも恐れず生きていくのだという強さが必要となるだろう。しかしそういう映画にもなっていない。結果、生温い家族の絆の映画となった。 また、映画は時にエゴイズムで社会の秩序を押し潰せるのだと思う。[映画館(邦画)] 5点(2009-06-14 00:34:04)《改行有》

84.  消されたヘッドライン 《ネタバレ》 (結果的に全く違う映画だったのだが、軍事産業というキーワードだけで考えたときに)これなら「ザ・バンク」のほうが圧倒的に面白いだろう。 答えに辿り着けそうで辿り着けない世界というのは確実に存在しているという「ザ・バンク」に対して「消されたヘッドライン」は友情とかいうことに縛られてしまって紆余曲折して辿り着いた世界が実は足許だったという落胆にも値するほどのあっけないものとなってしまった。しかもその殺人はベン・アフレック演じるスティーヴンが望んだものではなく、歪んだ愛国心が生んだ勘違いの悲劇だったということ。 真実に辿り着いてしまったことに不満があるわけではなく、その真実に辿り着いたラッセル・クロウ演じるカルの絶望感が、新聞記者としてのものでなく、友情であるということがこの物語を一気に尻すぼみにしているだろう。 新聞が舞台となり、政府も巻き込んで、巨大な組織と対峙したにも限らず、結末が勘違いだの友情だのでは、結局ゴシップニュースレベルの話だったということだ。そもそもそんな展開など誰も望んではいないと思うのだが。 そして何よりも微妙な揺れが気になる。手持ちなのかスタビかましてるのかわからないが、微妙に揺れてる。全くこれの意義がわからない。[映画館(字幕)] 5点(2009-06-08 21:10:17)(良:1票) 《改行有》

85.  スター・トレック(2009) 《ネタバレ》 シリーズもののマンネリ化を払拭するために、過去のシリーズとは一線を画したものにすること、それは「バットマン」シリーズ、更には「007」シリーズにおいて成功を収めた。過去のシリーズやファンに対する敬意を忘れず、新たな展開を用意し客層を拡大する。 このとき、一番の手っ取り早いことは、バットマンの、ジェームス・ボンドの、誕生を描くことだった。往年のファンは興味を抱かずにはいられず、はじめてシリーズに触れることとなる観客たちにとっては入り易い。 それらを踏まえた上でこの「スター・トレック」は新たなシリーズを華々しく迎えた。 J・J・エイブラムスという人は兎に角端折る、無駄をすべて削ぎ取る。この展開の速さは少し尋常ではない。カークの母親など、産んだときにしか出て来ない。こういった映画にあるであろう定番の訓練シーンなども一切ない。宇宙船がワープするように、話もワープする。 しかしこれくらいの展開の速度が実は丁度いいのだ。いつまでもだらだらとやって3時間くらいのかったるい映画を作るハリウッドなど誰も望んではいないのだ。 言葉と暴力と接吻という最小限の感情表現手段を用いて、強引で調子がよい展開という映画における特権を最大限までに活かして、それでこの映画が大スペクタルとして成立するならばそれで良いではないか。 素早いモンタージュを繰り返すせいか、もはや実写とVFX、CGの違和感など問題ではない。むしろこの映画のそれらは圧倒的なまでに素晴らしく良く出来ている。 カークという男はどんな時でも崖っぷちでぶら下がって生きている男だ。 この映画では彼は三度も何かの端に必死に両腕二本でぶら下がっている。しかし彼は決して落ちない。 彼にスポックが「死に対する恐怖を理解しろ」というようなことを言うのだが、そもそも彼は死んでもおかしくない状況で産まれてきているし(母親の胎内から産み落されるのと同時に、父親の船からも産み落されるという構造が良いではないか!)、常に両腕二本でぶら下がって生きている男なのだから、そんな奴に死の恐怖もへったくれもないわけだ。だからこそあっけなく彼はキャプテンの席に着くこととなる。 この映画のそのあっけなさは、決して落胆するようなものではなく、むしろ痛快ささえも感じるあっけなさだった。 [映画館(字幕)] 7点(2009-06-03 21:54:18)(良:2票) 《改行有》

86.  チェイサー (2008) 《ネタバレ》 観客にはすべて提示されていく。犯人は誰で、何故殺すのか、ミジンは生きているのか、どこにいるのか、我々観客は何も謎を抱えぬまま、すべてを知っている。その観客が知っていることと、登場人物たちが知っていることの、情報量の違いがこの映画の見せ方であり、こっちは知っているが、あっちは知らない、という映画の構造としては単純だけども、だからこそ、10分先はどうなるのか、1分先は、じゃあ10秒先はどうなるのか、というサスペンスが展開されていく。 幼い娘がいるのにも限らず売春なんてするのか、という意識の問題がある。だからといって殺されるのは致し方ないということにはならない。売春なんてしているからこういう事件に巻き込まれるのだという問題もまた、確率の問題であって、理由にはならない。結局、彼女が殺されなければならなかった理由なんてのはひとつもなくて、だからこそ、刑事崩れのチンピラは徐々にだがどうにかして彼女を救い出したいと奔走する。フロントガラスに打ち付ける雨の中、泣きじゃくる少女とその横で電話越しに怒鳴り続ける男の描写はとても良くて、何も罪のない少女が孤児になるという理不尽さを回避しなくてはならないということだ。汗まみれになりながら走り回ったチンピラはいつの間にかまるでミジンと少女の家族の様にすら映る。誰かを本気で救いたいと思う気持、それだけが溢れ出てきた瞬間だ。しかし現実は理不尽なので、ミジンは殺されてしまう。あの時電話に出れていればという後悔が彼を襲う。 しかし、彼はその後悔からあの幼き少女の病室に向かったのではなく、彼は既に保護者の欄に自分の名前を記入していたからだ。あの瞬間に彼は契約をした。保護者になることは決定づけられていたことであり、そこからの回避は不可能なのだ。だからこそ、彼は彼女の病室に行くことは必然であり、これからもふたりで生きていくのだろう。 最も残念なことは犯人のキャラクターが散漫で、敬虔なクリスチャンであるというような設定は蛇足過ぎるのではないだろうか。[映画館(字幕)] 7点(2009-05-31 02:30:46)(良:1票) 《改行有》

87.  ミルク(アメリカ映画) 《ネタバレ》 「エレファント」と「ラストデイズ」の残滓のような「パラノイドパーク」で、クリストファー・ドイルよりも、やはりガス・ヴァン・サントはハリス・サヴィデスなのだと感じた。 「ミルク」はガス・ヴァン・サントがインデペンデントの世界から舞い戻ってきた商業的映画だ。であるからこそ、ヴィスタサイズで撮られている。しかしファーストショット、キャメラはハーヴェイがいるキッチンの手前の部屋に据えられ、ヴィスタの両サイドに映る扉やら壁やらは光を失い暗部へと落ち込み、もはやスタンダードになっている。この時、構図自体が明らかにスタンダードを意識しているだろう。このショットを見て、いくら商業的になろうとも、彼の映画に対する精神は揺るぎないのだろうと感じた。 そして、この映画にはハーヴェイのクロースアップを真横から撮らえたショットがふたつあった。あまりにも印象的なので、恐らく誰もが記憶に留めているだろう。それはスコットと出会ったときと、死に際である。このふたつのショットに通じ合う大きな意味というのは感じられないが、8年間の始点と終点となっていはいるだろう。 デビュー作「マラノーチェ」から始まり、ゲイを描き続けているガス・ヴァン・サントにすれば、このハーヴェイ・ミルクを描くことは彼にとってみれば、あるひとつの到達点だったのかもしれない。 男同士のラブシーンの恍惚さや、ガラスやホイッスルの反射など、これらもまた彼の映画に対する精神の揺るぎなさと言えるだろう。 生の中で垣間見えてくる死を描くことで、生きることの美しさを描くのがガス・ヴァン・サントだ。 ハーヴェイの「40歳になってもなにひとつ誇れることがない」という言葉から始まるこの映画は、ゲイムーヴメントを担い、自分が必要としたものを追い求め、自分を必要としてくれる人たちのために、最期の8年間を誇りに満ち溢れるばかりに美しく生き抜いていく彼の姿が躍動的に描かれていた。[映画館(字幕)] 6点(2009-05-16 01:24:06)《改行有》

88.  レイチェルの結婚 《ネタバレ》 家族や仲間というのは小さなコミュニティであり、時に世界の縮図的でもある。白人黒人も入ればアジア人もいるし、生まれていくる子供はハーフとなる。しかしこの映画は、それはこの世ではもはや当たり前の事実であり、もはやいちいち議論するには至らないことだと流している。現に父親はレイチェルの旦那を快く迎え入れ妊娠をも無邪気に喜ぶ。 この家族の中で重要なことは、家族でありながらも、その家族という社会に置ける最小単位のコミュニティから一度脱落した、脱社会的人間の帰還をどう迎え入れるかということのほうにある。それは人種問題よりも、時に複雑なことかもしれない。 社会から逸脱した人間の場合、同じ経験をしたもの同士でなければシンパシーを感じ得ることは出来ないのではないかとこの映画は言っている。しかし、シンパシーの問題ではなく、「つながり」を持ち続けたいかどうかという点において、それは家族であれば、どんなに厄介であろうとも、理解に苦しもうとも、根底では決して「つながり」を断ち切りたいと思わないであろうという、時に固く、時に幽かな絆を描く。もちろん家族であっても断ち切れる瞬間が訪れる場合もある。それも当たり前の事実だ。しかし、この家族は小さなもうひとりの家族を失ったというシンパシーでつながっている以上、その「つながり」を断ち切ることが出来ないのだ。 アン・ハサウェイ演じるキムはデブラ・ウィンガー演じる母のアビーと喧嘩をし、その後に車の事故を再び起こしたことで、施設から女性が迎えに来る。これはこの映画の中で起きる事実だ。それは見える事実だが、もうひとつ見えていない事実というのがある。キムは何故施設に戻らなければならないのか。それは母のアビーにひとこと謝ることが出来なかったからだ。幾らでも機会はあったとこの映画は言っている。しかしこの映画は様々な機会がいつも断ち切れてしまう映画だ。断ち切りたくない「つながり」はあるのに、その意思を伝えたい時に断ち切れてしまう機会。いくらでも転がっているようで、実は見えている間に捕まえないとすぐ消えてしまう機会、その瞬間の大切さを知る為にキムはまた施設へと戻っていくのだ。[映画館(字幕)] 7点(2009-05-07 22:00:16)(良:1票) 《改行有》

89.   《ネタバレ》 この映画の幽霊の表現があまりにも大胆であることに驚く。 結果的に小西真奈美演じる春江は幽霊だったのだが、映画における幽霊という存在は大概が誰か、つまりある登場人物が見た幽霊という存在としてはじめて幽霊は存在するのが一般だが、この映画ではその幽霊が階段をひとりで降りて、道をひとりで歩いている。しかも真っ昼間にだ。誰に見られているわけでもない(あえて言うならキャメラを通してスクリーンにて我々観客が見ている)独立した存在の幽霊ということだ。まるで春江という幽霊がごく日常の中に生身の人間の如く存在していているようなのだ。これはかなり際どい表現であると思うし、今までの幽霊が出てくる映画ではこのような表現はほとんどない。 そもそも葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊ですらおかしい。律儀に扉から出て行く幽霊というのは一体何だ。 結局、この映画における、というより黒沢清における幽霊の解釈が以前の彼の作品より遥かに自由になり、生身の人間の意識と平行して存在するわけでなく、彼女ら自身もそれとして意識を確立し日常にごく普通に溶け込んでいるという大胆な解釈になったのだ。 なのだから、この映画の幽霊は恐くない。生きている人間と死んでしまった人間というくらいの差異しかない。 ただ葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊の迫り方は、「DOOR III」と全く同じだが、この表現方法はやはりなかなか怖い。 すべての過去はなかったことになどできない。過去は迫ってくるのだし、責任を負わなければならない。[映画館(邦画)] 7点(2009-05-06 05:07:36)《改行有》

90.  GOEMON 《ネタバレ》 単純にかっこ悪い。 映像も言ってることも空虚でかっこ悪い。ぺらぺらなCGは迫力ないし、繊細さもないし、ただスピーディーにして誤魔化してるだけじゃん。人が飛び上がって月とか太陽をバックにするのは本当に止めて欲しい。失笑だよ、あれ。 「CASSHERN」の時と同じことになるが、何故この映画に生身の俳優を起用する必要があるのかがわからない。 人件費しかり、美術セットや衣装や持ち道具やらにお金を掛けないでCGにお金を費やせばいい。そして撮影する時間があるなら部屋に籠ってパソコンだかMacだかに一日中面と向かってCGを描き描きしてたほうがよっぽど有意義だろう。 鈴木清順の「オペレッタ狸御殿」にはフルCGの美空ひばりが出てくるがこれは誰が見ても美空ひばりだ。しかし「GOEMON」に出てくる戸田恵梨香とか佐藤江梨子なんかはほとんど誰だかわからない。グレーディングでコントラストつけまくって、色足しまくって俳優を誰だかわからなくするくらいなら、最初から俳優なんか使わなければいいじゃないか。こんなの俳優に対しての冒涜だろ。敬意もへったくれもない。 割腹の瞬間を後ろから撮るってどういうことなんだ。しかも五右衛門がそれを見ているという設定であるなら、余計それは前から撮るべきだろ。その瞬間を脳裏に刻ませなければ、その過酷さは伝わらない。ホラー映画ではないし、レイティングの問題もあるだろうから、決してかっ捌いている腹を見せろと言っているのではない。その顔だけでも見せなければ、その過酷さは伝わらない。 更にはりょうの死に様も駄目だ。あれは首を刎ねるべきだ。障子越しなのだからそれは可能なはずだ。障子に飛び散る血飛沫なんてどーでもいい。そんなものでは過酷さは伝わらない。 ってことで、結局何にも響いてこない。 化学調味料、着色料、保存料を含有しまくったアメリカンフードみたいな映像の洪水はぎとぎとべたべたしつこく大味。こんな映画が溢れたら、映画もテレビ化していき、どんどん思考停止していくだけだ。 一瀬たん、こんなのに尽力注いでていいのか?とりあえず紀里谷先生にはもう撮らせちゃ駄目だよ。[映画館(邦画)] 2点(2009-05-05 01:15:28)(良:1票) 《改行有》

91.  バーン・アフター・リーディング 《ネタバレ》 『ノーカントリー』の時も感じたが、はっきり言って駄目なんじゃないかと思う。ただ無責任なことだがどーして駄目なのかがよくわからない。凄く簡単に言うと「つまらない」ってことなんだけど、その「つまらなさ」自体すら理解することが出来ないから困る。 まず脚本も演出もまったく巧くない。群像劇ということで点と点は何らかの形で繋がってはいるが、それは巧さとは何にも関係ない。 コーエン兄弟って本当にキャラクター創造の人たちで、それって役者が勝手にやってくれることなんだけど、それを脚本とか演出でがちがちに固めて造り出そうとするから駄目なんだろうなと思う。この人はこういう人でっていう縛り付けが強すぎるんだな、きっと。映画ってキャラクターショーではないのだから。 ま、結局それがコーエン兄弟らしさなのかもしれないが、となるとそれを楽しみにしていないと何も楽しくないってことになるのか?だったら見なけりゃいいということか?しかし哀しいかな、確かに過去のコーエン兄弟の映画は楽しかった、好きだった、だから今も見ているという人は大勢いるだろう。もはやコーエン兄弟とウディ・アレンは年中行事になりつつある。これは正直良くないことだ。このことについては最近よく考えるが、どーしていいやらわからない。もしかしたら「もう見ない」という断固たる決意が必要なのかもしれない。 それはさて置、あと主な登場人物たちが最後誰も出てこなくなるってことでこの映画はいいのかと思うのだが、それは観ているこっちからすれば何の感慨も沸かなくなるんじゃないのかと、まあ出てこなくてもいっこうに構わないんだが、ならばその最後の感慨ってものを観客に感じさせるのにあのCIAの幹部のふたりにすべてを負わせるっていうのは無理があるってことなんだと思う。そこにはキャスティングミスということもが多少なりある。主な登場人物があまりにも有名過ぎて、あのCIAの幹部ふたりは添え物でしかない。添え物にすべてを任せるなんてのはあまりにも無謀すぎるだろと。 Googleアース的に始まって終わろうとそんなことはどーでもいいんだが、あれの意味を考えると更にこの映画がつまらない映画だと露呈してきそうなので、止めておくことにした。だからきっともうコーエン兄弟の映画は楽しめないんだって思う。[映画館(字幕)] 4点(2009-05-03 04:53:38)《改行有》

92.  グラン・トリノ 《ネタバレ》 俳優クリント・イーストウッドの死が、ベッドの上で静かに迎えられるのではなく、丸腰で無数の銃弾を撃ち込まれ地面に仰向けとなり(しかも十字架!)、それを俯瞰で撮らえるという形で迎えられるならば、それは最もふさわしい最期だ。 ウォルトはフォード社の自動車工場で働き、朝鮮戦争にも従軍し、年老いた今日では家の軒先で星条旗がはためいている、正にアメリカ栄光の時代を生きてきた男だ。だからこそ日本車に乗る息子も、次々と近所に越してくるアジア人も、何もかもを訝しく思う。 そんな彼が妻を亡くし、周囲を疎外することで、自らも疎外され、孤立することで自身の誇りや威厳を守ろうとする。 ある時ウォルトは、モン族のパーティーに招かれ、彼らの伝統を重んじ継承する精神に親近感を寄せるようになる。 それと同時に自身の死が近いことも悟り始める。 彼がやり残したこと、それは息子たちにすらしてやることが出来なかったこと、自分の魂を継承することだった。 やがてスーが暴行されるが、それは自分に原因があったと苦悶し涙する。彼は暗闇の中、椅子にどっしりと腰を据え無言のまま一点を見つめる。選択と決意の瞬間だ。 そして彼は立ち上がる。暴力の真の恐ろしさを知らない平和惚けした糞ったれの悪党どもに鉄槌を加えるのではなく、あえて彼らの暴力を噴き上がらせることにより、己の暴力を抑制し自らに鉄槌を加えることで贖罪とするのだ。だから十字架なのだ。 戦争を知らない世代にも罪はなくとも責任はある。罪は個人に関わり、責任は集団に関わるからだ。ウォルトがタオに継承したグラン・トリノは正にその責任だ。アメリカ栄光時代の魂としてのグラン・トリノ。これは人種的問題や血縁的問題などということを超越したところで感染する魂の継承だ。そしてそれは大きな責任の継承でもある。 タオがハンドルを握りしめ走り抜ける海岸線沿いの道、グラン・トリノの後ろを何台もの日本車(あるいは他国の車も含まれているだろう)が走り抜けていく。多民族国家アメリカは、真のアメリカの魂さえ継承され続けるならば、もはや白人の国である必要はないのだ。 俳優クリント・イーストウッドは死んだ。ではもし彼がスクリーンに帰ってくることがあるのならば、それは果たしてどの様な姿として戻ってくるのだろうか。彼のしゃがれ声が、まるで幽霊の歌声の如く劇場内に響き渡っていた。[映画館(字幕)] 10点(2009-04-26 12:14:04)(良:7票) 《改行有》

93.  スラムドッグ$ミリオネア 《ネタバレ》 ライフラインという見事な名が付いているにも限らず、それが三つのうちひとつしか映画として機能しないことが最もこの映画の鈍感なとこなのだが、そのひとつがこの映画のすべてだった。 ミリオネアはどんな番組だったかと上映前に思い、ライフラインというものがあったことを思い出し、この映画は恐らくそれが主人公のスラム育ちの人生と相互するように機能する映画なのかと考えたが2/3も裏切られた。 まず最初にオーディエンスという機能を見殺すかの如く描いたときに、この映画は駄目なんじゃないかと疑う。 だが次にジャマールがコールセンターに勤めているということと、彼がラティカの携帯電話の番号を調べ始めた時、テレフォンという機能は活かされるのではと期待する。しかしラティカという名前だけでは検索しきれず、ここでは兄の番号に辿り着くまでとなる。これでは駄目だ。ジャマールがラティカを探し求める映画ならば、テレフォンの相手は兄ではなくラティカでなければならない。 50:50という機能も半殺しの如く描かれ、結局最後に残されるライフラインはテレフォンだ。となれば後は誰が電話に出るかだ。 兄は最後の最後でラティカを逃がすことで贖罪する。そう、その時「これを持っていけ」と彼女の手に握らすのが携帯電話だ。やはりこの映画はそうならなければならないと大きく納得した。 だから彼女が答えを知らないこと、彼が最後の最後は勘だけで正解すること、そして兄がそれと時を同じくして死ぬこと、すべてそれで良い。彼女が電話に出たことでこの映画の問題は解答されたからだ。彼にとってみれば、唐突に彼女が電話に出たこと、それだけで、もはやクイズ番組などどーでもいいことで、むしろ彼女に早く会わなければならない。クイズの答えに悩む暇はない。だから答えはBでもCでもDでもなく、一番最初のAだ。 テレフォンにラティカが出て映画が成り立つという結末は、誰もが予測可能だ。しかしそうなったとき、予想可能さに嘆かれるか、納得してもらえるか、それがこの映画の面白さに直結する。この映画には大きく納得させられる。わかっていることに改めて納得する面白さこそがアメリカ映画的であると思える。だから最後は余計に良かった。そうかそこはボリウッドだったと。 ただキスシーンを奇麗に見せたいがために傷口じゃない方にキャメラを切り返したら絶対に駄目だ。[映画館(字幕)] 7点(2009-04-21 03:00:50)(良:1票) 《改行有》

94.  ワルキューレ 《ネタバレ》 恐らく誰もが言うだろうが、ゲッペルスが青酸カリらしきものを口に含むシーンや、トム・クルーズ演じるシュタウフェンベルクが失われた左手を高々と挙げて「ハイルヒトラー」と叫ぶシーンであるとか、そして電信所の女たちが総統の死の知らせを知り「ハイルヒトラー」という様に手を挙げる様などが素晴らしい。 この映画の簡潔さ、例えばシュタウフェンベルクの家族に対する愛情というのを鬱陶しく描かないことからもわかる通り、個々の内面、ひととひととのぶつかり合いや葛藤などという今更という陳腐なことを描くナチス映画ではないことを雄弁しているだろう。こんなにも簡潔な映画の中でひととひととのぶつかり合いなどという面倒被ることを延々と描いてもつまらないだけだ。この登場人物たちは互いを理解し合って決起するのではなく、軍事クーデターを行うということに感染して集うだけの駒だ。シュタウフェンベルクが暗殺を行い戻ってきてから、皆が同士である印のカードを次々と取り出すシーンなどは正に感染でしかない。軍事クーデターを行うことが重要であって、理解を深めることは問題ではないのだ。だから極端な話をすれば、この映画は「ワルキューレ」なのだから、ワルキューレ作戦が描かれていればいい。シュタウフェンベルクでさえもこの映画においてはワルキューレ作戦に感染した駒のひとつだ。彼は現実、今や英雄かもしれないが、この映画での彼の最期は国を愛する正義というよりは、ワルキューレ作戦という軍事クーデターに雄叫びをあげて殉じた狂信者としか映らない。ただそれでいい。「ハイルヒトラー」と叫んで死ぬか、「ドイツ万歳」と叫んで死ぬか、このふたつは簡単に入れ代わりが可能なほどの差異なのだ。 ただ、この事実を忘れてはならないということ、それを終幕直前のふたつのショットがそう言っている。 ひとつめはシュタウフェンベルクが処刑され、地面に倒れた時のクロースアップ。彼の目は閉ざされることなく、こちらをじっと見つめている。 ふたつめは一度登場したショットの続きとなるラストショット、シュタウフェンベルクのアイパッチをした左側頭部を入れ込んだ、彼の妻との別れのときのショットだ。 このふたつのショットは明確に示している。刮目せよ(忘却するな、という意も込められているだろう)、あなたたちはわたしの左目となって事実を目撃したのだから。 それでこの映画は充分だ。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-15 00:57:36)(良:2票) 《改行有》

95.  ザ・バンク -堕ちた巨像- 《ネタバレ》 美術館へ辿り着くまでの尾行、そして美術館での銃撃戦は見事としか言いようがない。真っ白で螺旋状の内壁に次々と撃ち込まれる弾痕。クライヴ・オーウェン演じるサリンジャーと殺し屋のやりとり。建物の形状を完璧なまでに駆使したカット割り。素晴らしい。 それ以前に、サリンジャーが殺し屋を追い掛けるシーン、キャメラは必死に走るサリンジャーを横移動で追っかけ、それと平行モンタージュで逃げる殺し屋の車を見せ、サリンジャーが大通りに出ると、キャメラは横位置から一気にクレーンアップして俯瞰構図となり、犯人の車が赤信号で停止している車の大群に混ざっているという一連及び最後のクレーンショットがまた素晴らしい。 人物の会話の殆どが人入れ込みの切り返しショットで処理されているのが少し物足りないというか、逆にしつこいかと感じる。サリンジャーが氷水の中に顔を突っ込み殺し屋らしき人影を思い出すインサートカットや、屋上での殺し屋はこうしていただろうという推論の回想映像は必要なのだろうか。殆どを無闇矢鱈に説明せずに見事なまでに簡潔に展開しているのに、この2点だけ過剰に説明していると思える。無くても理解できるから余計無駄だと感じる。 しかしながらこの映画は見事だ。ナオミ・ワッツ演じる検事とさよならしてからこの映画は急に晴れ晴れとした青空の中に舞台が移される。それは中から外へ出るという機能が働いたからだ。システムの中=法に司られた社会の中にいては解決できないのだが、システムの外=法を無視した世界に出て行けども決して辿り着けないという「どこかにある答えが見つかりそうで、どこにも答えがない」という<世界>にやはり着地してしまう。そこに至るまでを逮捕権のないインターポール職員とニューヨークの検事局員が追うことで、「答えが出そうで、出ない」という柵が更に主人公たちに絡み付くからいい。 ファーストショットのサリンジャーのクロースアップ(この次のショットは駅でなく、本当は車であるべきだったと思うが)はどこかにある答えを見据えていたが、ラストショットのサリンジャーのクロースアップはどこにも答えがないと盲目的になっている。それは幾らでも置換可能な現実=この近代社会のシステムを目の当たりにしてしまったという嘆きの表情だった。[映画館(字幕)] 8点(2009-04-12 20:55:12)(良:1票) 《改行有》

96.  ウォッチメン 《ネタバレ》 出てくるヒーローという奴らが、いつまで経ってもうだうだとメタレベルで苦悩し続けて163分が過ぎ去って行く。彼らは自分たちの存在意義や過去のパーソナルな出来事を回想し「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」という当たり前のこと、見てるこっちからしたらどーでもいいことで、163分悩み続ける。 もちろん「ヒーローである以前に、皆ひとりの人間なんだ」は事実だが、そんなことより映画として忘れてはいけないのは「ひとりの人間ではあるが、ヒーローなんだ」だ。 眼鏡のおっさんと長髪の女のセックスシーンは最低だ。 おっさんはソファーで「ちょっと待って」と言う。勃起しなかったのだ。しかし、次のシーンでおっさんは裸でコスチュームの前に立っているし、女はシャツ一枚でその場に現れる。全く理解が出来ない。やったのか?やってないのか?これは大きな問題だ。ここではこのセックスは中断されたと理解して話を進めたい。 その後、ふたりはコスチュームを身に纏い再びヒーローとして街に繰り出し、ひと活躍済ませる。そしてふたりはいい感じになり船内でやっちまう。簡単に言えばおっさんはヒーローして気分が高ぶり欲情したっていう変態で、コスチュームプレーで勃起したということだ。で?と思うだけで、正常な話ではないし、そんなこと興味ない。 そんなシーンにレナード・コーエンの「ハレルヤ」を流すセンスの悪さ、どーにかしろと。センスがないのではなく、センスが悪い。冒頭のあんなシーンでナット・キング・コールを流した時点でまずいとは思ったが、やはりセンスの悪いやつはどこまでいってもセンスが悪い。音楽も映像も、センスが悪い。 ヒーローはある一定の社会の秩序を整えるもので、世界の平和を整えられるわけがない。(そもそも、特にアメコミのヒーローなんて愛国右翼の塊みたいなもんで)もしそうなってしまえばただのファシズムに過ぎないだろう。この映画はだからその選択をあえてせずほっぽり投げている。それはわかる。だが、最後の新聞社だかにいくまえのグラウンド・ゼロを思わせるショットとか、戦争とか平和とか核兵器とかリベラルとか共産主義とか悪とか正義とかどーでもいいから、まず今のアメリカ社会を見てから映画を作れ。こんな映画、世界どころかアメリカでも必要としてないだろ。 映像化することだけに意固地になり過ぎた、完全時代錯誤な駄目映画。[映画館(字幕)] 1点(2009-04-11 01:48:42)(笑:1票) (良:2票) 《改行有》

97.  レイクサイド マーダーケース 《ネタバレ》 巻頭、仰向けとなっている状態のモデルを俯瞰で撮影する眞野裕子演じる英里子は、ファインダー越しに自分自身の未来を覗き見ているかのような構図にもなるわけだが、このことは後にするとして、まずこの行為から、彼女が覗き見る/まなざしを向けるというところにこの映画の焦点があるのだということから始めたい。 これは彼女がまなざしを向けたことによって起きる事件なのだ。 名門私立中学の不正入試を暴くまなざし、自らの子供時代を思い返すように子供に向けるまなざし、不倫相手の妻に向ける敵視したあのまなざしがある。 ただすべてが彼女だけのまなざしで成り立ってはいない。 「そんな目で見るな」という役所広司の台詞にもある通り、これはすべてのまなざし/視線を意識しなければならないのだ。死体を湖に投げ捨てるとき、大人が皆森の中で立ち尽くすとき、車がそこを通り過ぎる。この実体のない見られているかもしれないという視線をもこの映画は適切に紡ぎだす。 もうこれは見るということへの執着だ。犯人が誰であるといったことが最重要視される映画ではないのは一目瞭然。つまり犯人をこの目で確かめることが重要ではない、そんなことよりここに出てくる人々を見なさい、行為を見なさいと言っている。 そして湖の奥深い底で仰向けとなることを余儀なくされた英里子は、レンズ越しに(これは映画を撮影したキャメラという隠喩も含まれるだろう)過去の自分自身と視線が交差しまうという見事な構図となる。すべてが巻頭に回帰する瞬間だ。そして結果としてライターは彼女の瞳に突き刺さりすべてを塞いでしまい物語の幕を下ろすのだ。 実はこの彼女のまなざしこそが、受験によって変化を遂げていく人々の唯一の救いの手であったのだろう。それがあの青空の中、深々とした緑に彩られた森を背に、湖畔の上をそよぐ彼女のまなざしへとここでも結実して暴かれる。 救いの手をもこの世から消し去ろうとするこの湖畔での殺人の場合、または受験というものの場合の恐ろしさが、あるいはひとというものの醜さが、狂ったかのようにひとを一変させてしまうのだが、それをすべて見たのは他でもない我々観客なのだという事実は誰にも回避できない。[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 01:36:43)《改行有》

98.  オーストラリア(2008) 《ネタバレ》 巻頭で、ロマンスがあったという文章が出る時点で、この映画はそういう映画なんだと認識させてくれる。であるから、史実とかなどはもう殆ど関係ないのだし、後半のサラがナラを守りたいというのは、人種云々の話ではなく、ひとりの子供を守りたいという映画になって行くのだろうし、そういう人がいたというナラが語る物語なのだと、映画の冒頭で全て語っているのだ。 しかしながら正直なところバズ・ラーマンだぜ、どうせ・・くらいに思っていたが、実際は見事な大河ドラマで実に面白い。 相変わらずどアップばかりで鬱陶しいなと思いつつも、ナラが牛を見事なまでに鎮めてしまうシーンなどは、ここはやはりどアップだといつの間にか納得させられ、馬が馬らしい躍動感だとか、街の中を駆け抜ける牛とか、「オズの魔法使い」の件だとか、雨の中の舞踏会というのも秀逸で、いいじゃないかと。そしてやはり馬に跨がる男は女を家に残して出て行ってしまうわけで、それで上出来だ。 それにサラとナラの離別と再会を同じ桟橋で行わせた瞬間に見事だと言わざるを得ないだろうし、しかも歌を使った再会がまた良い。もうひとつ素晴らしいこと、それはドローヴァーとサラが車に乗るシーン、それもフロントガラス越しのショットというのが前半と後半で一度ずつある。前半はふたりの間に窓枠があるのだが、後半には一枚のガラスになりふたりを隔てるものはなくなっている。こういった映画を正しく「見る(あるいは聞く)」という行為への誘いが為された演出はお見事だろう。 ま、しかし、あまりにも機能してない登場人物が多いなとか、牛を囲む炎の火力が弱いとか、ナラ役の子供が駄目だったのかナラというキャラクターが駄目だったのかわからないが、何か鬱陶しさを感じたし、今回のキッドマンは少しばかりオヴァーアクトだろうとか、ただやはりそこにいるだけで画になる女優であるということには間違いはないのだがとか、不満は残しつつも、ここ最近は、最後に「家に帰ろう」という映画はどれも好きになっちゃうなと。[映画館(字幕)] 7点(2009-03-28 00:46:07)《改行有》

99.  野獣の青春 《ネタバレ》 誰が野獣で、何が青春なのかさっぱりわからない、日活時代の鈴木清順にしては珍しくコミカルさを廃したハードボイルドものだ。 冒頭、花だけが赤いという、要するにそこに注目を置きたい強調したいだけに過ぎないことを、そうやって派手にやるのが日活時代後期の鈴木清順なのだ。世には美学美学、美しいと言われるのだが、大きな間違いで、ただのデフォルメに過ぎないのだ。 当時の日活撮影所で作られる映画の本数など数えきれないほどだった。ではその中でどうしたら目立てるか、どうしたら人と違うことが出来るかということ、それがデフォルメということだ。やくざの事務所などという設定はあまりにもありふれている。しかしそれで映画を撮らなければならないのが、撮影所所属の鈴木清順の仕事なのだ。そこで思いついたのがキャバレーのミラー越しの事務所、映画館のスクリーンの裏の事務所、更には黄色い砂風荒ぶ荒野にまで及んだということだ。つまり何度も言うが、美学なんかではない、どうすれば他とは違うかという、既存の映画に対するデフォルメでしかないのだ。要するに文化祭の模擬店などで他の店より目立とうと屋台を派手に飾り付けるようなものだ。売っている焼きそば自体はどこも味は大して変わらないのにだ。 そして宍戸錠というなんとも覚束ない歩き方をするこの役者、この人が鈴木清順の最高の共犯者なわけで、とてもじゃないが二枚目でかっこいいなどとは言えないこの男、むしろ泥臭くてかっこ悪いのだが、宍戸錠は宍戸錠を自分でデフォルメする力を持っているらしく、それがかっこ悪いのだけれどかっこいいのだ。やること為すことあまりにも出鱈目で無茶苦茶過ぎてかっこいいのだ。あの笑顔が似合わない憎たらしい顔といったらこの上ないくらいにかっこ悪いけどかっこいい。 日活時代の鈴木清順の映画は、当たり前のように美味しい焼きそばは作る(ま、それ自体が凄いのだけど)。ただそれだけでは売れない。だから屋台を飾り付ける。つまり本当は目立ちたがりでちょっと気恥ずかしくなるなというようにかっこ悪いはずなのだが、あまりにもそれが出鱈目過ぎ(るにも関わらず、鈴木清順のたちの悪い知性が見え隠れしてしまっ)てかっこいいのだ。[映画館(邦画)] 8点(2009-03-23 03:54:29)(良:1票) 《改行有》

100.  肉屋 《ネタバレ》 長閑な田舎町で、幸せそうに暮らす人々、男は戦場に行っていた、女は昔の恋を引き摺り恋をしない。そんな中、連続殺人事件が起きる。映画はただそれだけで、特に何があるわけでもない。映画は何か大きな物語の展開がなければならないわけでもない。物語など、原因に過ぎない。結果は映画であり、それを導くための物語だ。であるから大きな展開が映画に重要視される必要はない。男と女がいて連続殺人が起きた、それだけで映画は成立する。あとはそれをどう描くかというだけだ。 それはもう、ああヒッチコックだね、ヒッチコックなんだねと思うわけだが、クロード・シャブロルの凄さとはやはり扉なのだなと。ただ扉を閉める(あるいは開ける)だけという行為のサスペンス性を追求するとこうなる。サスペンスといえば階段ということにもなり、階段をただ駆け下りて、ただ扉を閉めるだけでいい。木造の校舎の階段をピンヒールが駆け下りる音、そして扉を勢いよく閉める音、そして施錠する音、どれもサスペンス性を駆り立てる。人の死をエレベーターのランプで表現するなど、映画の終幕へ向かい畳み掛ける表象の見事さは言うまでもない。そして全編に響き渡る異様な音楽。 車を降りて朝陽を浴びるエレーヌは果たして肉屋を愛していたのか。肉屋はエレーヌを愛していたから彼女を刺さずして自らを刺したのだろう。では接吻をしたエレーヌに愛情はあったのだろうか。愛情故に人を殺める時もあるが、時に愛情の欠如は人を殺めてしまう。朝陽を浴びるエレーヌの無表情はナイフにも似た凶器に見えた。[映画館(字幕)] 8点(2009-03-09 18:14:36)《改行有》

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