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プロフィール
コメント数 731
性別
自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


…………………………………………………


人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


…………………………………………………

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141.  野獣の墓場 20数年前、学生だった小生は、大阪ミナミの今はない「花月シネマ」という二番館でこの映画と出会いました。それは、劇場前に貼ってあった(たぶん次回上映の)『ナバロンの嵐』のポスターを見て、勘違いして入ったというマヌケなものだったのですが…。 で、館内に入って、ようやく自分が間違えたことに気づいた次第。仕方なく見ていると、これがどうやら“ベトナム帰還兵もの”で、中西部あたりの片田舎に帰ってきた元グリーンベレーのスゴ腕兵士が、町を恐怖に陥れる残虐な暴走族集団と戦うといったシロモノ。彼は最初のうち「もう二度と“戦い”はゴメンだ」と関知しないものの、狂気じみたバイカーどもが家族にまで危害を加えるに至って、遂に爆発。かつての戦友たちを招聘し、対決を挑むのでありました。 それまでこの手の映画の「帰還兵」たちは、戦争後遺症で精神や肉体を病んでいるか(『幸福の旅路』『帰郷』)、周囲の人々の無理解や偏見にさらされる(『ソルジャー・ボーイ』『ランボー』!)ものばかりだったのに対し、ここまで“ヒーロー”視(屈折したキャラクターであることは確かだけど)したものは、この当時にあって新鮮だったことを今も覚えている。スローモーションを多用したアクション場面は、たぶんペキンパー監督の影響…というか、アメリカン・ニューシネマの名残りかな。何より、これが1960年代にロジャー・コーマンあたりが作っていた“モーターサイクルもの”(不良&ジャンキーな暴走族集団を描いた一連のB級映画。そのなかからあの『イージーライダー』が生まれたことは、あまりにも有名)にヒネリを加えた、その“ヒネリかた”がなかなか技ありって感じだったを覚えています。 ところがこの映画、ぼくの知る限り日本公開された形跡がない! ビデオ化されたとか、そんなことも分からない! …そりゃあ、監督もこれ1本きりで“消えた”無名の御仁で、出演もウルトラ地味な顔ぶれ。しかもカルトにすらなれそうにない、極めてフツーのB級アクションではあります。が、そこには’70年代テイストとも呼びうる「映画を撮ることイコール社会を反映すること」の奇妙なリアリティがあった。そしてぼくは、今この映画のそうした「リアル」な味わいが気になって仕方がないのです。 どなたか、この映画のことをご存知な方おられませんか?  ちなみに製作は、かのキャノン・フィルム(!)らしいです。6点(2004-10-29 13:42:53)(良:1票) 《改行有》

142.  大脱走 何としても劇場で見たい作品の、トップランク。そう言えば、最近はテレビでも放映しなくなったなあ…。それぞれのキャラクターの描き分けと、事のてん末を平行して展開するストーリーテリングの巧さには、いまだもってほとほと感心させられる。構成的には、映画史上に残る完璧さだと思います。そしてやっぱり、エルマー・バーンスタインのあの音楽! う~ん、劇場のスクリーンで再見できたなら、満点献上となるんだけどなあ!《追記》その後、めでたく劇場で見ることができました。でもって、やっぱり面白かったんで、心からの愛と敬意を込めて満点を! …あらためて見直して思ったのは、この映画って実のところ壮大な“鬼ごっこ(!)” だったんだなぁってこと。それがたとえ命がけのものであっても、ここには「鬼から逃げ続けることのスリルと快感」こそが満ち満ちている。そんな“遊戯性”ゆえ、かくも爽快な後味を見る者に与えるのでしょう。映画が終わってエンドタイトルが現れた時、まるで「それまで鬼ごっこしていた友だちが、みんな家に帰っていった夕暮れ」みたいな一抹の寂寥感が…。こんな気分になったのって、いつ以来だろう。 友よ、映画よ、また会おう!10点(2004-10-27 15:12:39)(良:1票) 《改行有》

143.  エンジェル・アット・マイ・テーブル ↑の【ひのと】さんの作品紹介で、あることを思い出した。リルケもまた、かつてセイシンブンレツビョウと呼ばれていた“心の病い”のぎりぎり寸前で、常に踏み止まり続けていたことを。 統合失調症の危機を迎えた人は、ある時、それまで散々悩まされてきた幻聴や幻覚などがふいに治まってしまうのだという。とは言え、それは治癒ではなく、逆に症状が激烈に悪化する直前の状態…「嵐の前の静けさ」にすぎない。たいてい、この状態はたちまちにして終わってしまう。しかしリルケは、例外的にこの状態のまま生き続けたのだった。 その「静けさ」とは、ちょうど夏休みの学校の誰もいない校庭のセミしぐれが、不思議と静かな印象を与える、あの感じに似ているんだろうか? ひしめきやざわめきが、むしろ世界の「沈黙」を際立たせる…。リルケの詩とは、そんな「沈黙」から産まれた。 この映画の主人公であるジャネット・フレイムも、実はそうしたざわめきと「沈黙」のはざまにとどまり続けた人だったのではないか。実際に彼女はセイシンブンレツビョウとされ、病院で何年にもわたって過酷な…というより非人道的な“治療”を受けさせられる。普通なら、これだけで精神が荒廃しかねないほどの仕打ちを。しかし、彼女はこの「沈黙」に耳をすませ続け、それを言葉にした。 ジェーン・カンピオンのこの映画は、そんな彼女が聞いた「沈黙」を、ひしめきとざわめきの中からうまれる「静けさ」を、フィルムにとどめようとする。そしてそれは、確かに成し遂げられたのだと思う。何故なら、ぼくもまたこの映画を見ている間じゅう、その「沈黙」を、あの、詩が産まれる前の声なき「言葉」を、聞いたように思えたのだから。 …その「沈黙」、その声なき「言葉」こそが“天使”のものであるのなら、この映画は天使たちのそうした「沈黙」や「言葉」で満たされている。ぼくたちはそんな「沈黙」を聞き、「言葉」を感じ取ることができるだろう。画面の端々に、“天使たちの息吹き”を感じ取ることができるだろう。だからこそこんなにも悲しく、美しく、そして強いのだ。 これは、ひとつの“エピファニー(顕現)”としてこの世に遣わされた「天使的作品」 にほかならない。10点(2004-10-23 13:24:45)《改行有》

144.  DEAD OR ALIVE FINAL 《ネタバレ》 (数年前、酒を飲んでて終電に乗り遅れ、仕方なく(カントク、失礼!)入ったオールナイトの映画館でこれを見ました。酔っぱらっていた上、ご年配のホモセクシュアルなオヤジさんにつきまとわれて、逃げるため席を換え換えしつつの鑑賞であったことをご承知おきください。…) 三池カントクの映画は、ホラーやヤクザもの、ヴァイオレンスものなどといった、何らかのジャンルにきちんとおさまったものほど魅力に欠ける。ほとんどジャンル分け不可能な“怪作”であるほど、映画も嬉々としてはじけている。そんな「はじけっぷり」の真骨頂が、この「D.O.A.」3部作であることは間違いんだけど…。ここまではじけトンじまっちゃ、翔兄ィと力兄ィを見に来た大多数の観客はついていけまへんわなぁ。 それでも、“暴虐なヨコハマ市長(笑)の支配下にある街を出て、新天地を夢見るテロリストの若者たち。それに加担する流れ者”という古典的な図式には、この監督ならではのロマンチシズム(どんなにエロ・グロ・ナンセンスな映画を撮ろうとも、三池作品の“核心”にあるのが、ほとんど12歳の少年じみた(!)この「ロマンチシズム」だ)が漂っている。飄々とした翔兄ィ、一途な力兄ィというキャラも、すべてに破綻したストーリーや展開の中でさえ見失われることはない。やっぱり、このカントクはたいしたもんだと(酒による睡魔とオヤジさんの“魔の手”とたたかいつつ)唸らされたものだった。 そしてモンダイのラスト。翔・力両兄ィが「合体」して誕生したロボット(?)の、『鉄男』のドリル・チ○ポコならぬ本物(??)の巨大チ○ポコが一瞬にゅう~っと伸びた時と、続いてのオチへのツッコミ方(お下劣な表現、ご容赦あれ)なんだけど、確かにあれは観客の膝をカックンとさせる「脱力ぶり」にもほどがある。が、あの“カックン感”は、吉本新喜劇を見なれた関西人にならおなじみのものではないか。あの舞台での芸人さんたちによる一発芸は、こうした「脱力もの」の笑いを誘うものだったはずだ…。つまりこの映画の感覚を真に理解し、楽しめるのは、我々「関西人」である! と、小生はこれを書きながら本気で信じつつある。 ただ、これは三池作品の常なんだけど、せっかく警察側・テロリスト側に「イイ女」を登場させながら、ほとんど活躍の場を与えてくれない。そのことへの不満だけは、ひと言イチャモンつけておきたい。7点(2004-10-22 15:29:03)《改行有》

145.  エイリアン3 《ネタバレ》 いまさら小生ごときがコメントを付け加えるまでもないと思うけど、どうしても10点献上して平均点をアップさせようとしゃしゃり出ました。すみません。ほんと、この映画は素晴らしいと思うんです。特に、ここでエイリアンを西洋神話中のドラゴンに見立て、邪悪の象徴対人間という図式におさめたあたり「アホでマヌケなアメリカ映画で、ここまでやるか!」と、驚嘆しました。おまけに坊主頭のリプリーはカール・ドライヤーの『裁かる々ジャンヌ』のジャンヌ・ダルクだし、あのラストもほとんど聖母像のイコン画そのもの。…デイヴィッド・フィンチャー監督作品としては、『セブン』以上に小生好き。同好の士の皆様、ぜひ今後ともこの『3』がいかに”超”かを、世に説いてまいりましょう! 《追記》先日、この映画のビデオが古本屋で投げ売り(300円・・・得したというより、悲しい気分)されていたんで、購入して再見。あの素晴らしいシネスコ画面をトリミングしたものだったのが残念だけど、やはり素晴らしい。今回見てあらためて思ったのが、あの流刑地の惑星とは中世の修道院であり、リプリーとは「降臨(!)してきた聖母」に他ならないこと。作り手たちは、この“大ヒットSFホラー・シリーズ”という体裁だけを借りて、明らかに「娯楽映画」以上のものをここで企てている。もちろん、それが必ずしも全てに成功しているワケじゃないし、そもそもそれは、前2作とこのシリーズのファンにたいする一種の「冒涜」ですらあり得るかもしれない。が、やはりぼくは、これが監督第1作であるフィンチャーに、そして本作の宗教的ヴィジョンをおそらく準備した張本人である原案のヴィンセント・ウォードの「野心」を心から賞揚したいと思う。…あの、宇宙船の墜落で死んだミュートたちの葬儀と、寄生した犬から今まさに飛び出そうとするエイリアン誕生を、交互にオーバーラップさせるシーン。間違いなく、このシリーズはいうにおよばず、映画史上に残していい名場面だった。10点(2004-10-22 13:58:26)(良:1票)

146.  第7騎兵隊 《ネタバレ》 たぶん↓のお二人と同様、関西の地方局によるテレビ放映で見ました(こんな古い西部劇を流してくれるあたり、ほんと“ビバ! サンテレ”ですよね。サイケデリコンさん)。でもって、確かにご両人のおっしゃる通り、お話的にはどうにも盛り上がらない。だって、カスタ-将軍の第七騎兵隊が全滅した“リトルビッグホーンの戦い”は、生き残った騎兵隊員の口で語られるだけだし、クライマックスにしても、結局のところインディアン対騎兵隊の銃撃戦などないまま、1頭の馬(!)の出現があっさりと戦闘を解決してしまう。派手なドンパチだけを期待する向きには、やはりおすすめ出来ません。 ただ、映画のはじめ近く、人の気配のない砦の様子をさぐるランドルフ・スコットの主人公が、砦の内部を見渡す場面がある。カメラは主人公の視線のままぐる~りと360度パンしていくんだけど、最後に映し出すのが主人公のスコットの顔! …人は鏡でもない限り、決して自分の顔を見ることはできないよね。だのに、はじめは明らかに彼の“眼”としてあったカメラが、最後に自分自身を見るといったこのシーンは、あくまでさりげなく、けれど実に大胆なものだと思わずぼくは興奮させられましたです(強いて言うなら、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の名高い360度パンに匹敵するくらいの…マジっすよ!)。 さらに、この映画は西部劇のくせに室内場面が多いのだけど、手前の人物と、背景の両方にカメラのピントが合っているパンフォーカスで撮られている。それだけでなくテーブルなどの小道具と壁の色が統一されているなどの演出により、この「壁」が何とも生々しいっていうか、異様にぼくたち観客の眼差しをひきつけてやまないっていう点も、指摘しておきたいと思う。こんなに「壁」を意識させられたのは、これも大げさな例をもってくるなら、カール・ドライヤーの『奇跡』以来じゃないかな。ホンマっすよ! …これが鈴木清順の映画とかなら、「なるほどスゴイや」と感嘆すると同時に納得もさせられるそういう画面の“突出ぶり”を、こんな日本未公開の名もないB級西部劇で目撃させられることの驚き。そのことにこそ、ぼくは興奮したいと思う。たとえこの映画の監督が、一部ではカルト的な人気と評価を得ていることを知らなくても、テレビのモニターからでさえ作品の“特異さ”はひしひしと伝わってくるのだから。ただただ、スゴイです。10点(2004-10-20 13:55:16)(良:1票) 《改行有》

147.  大列車強盗(1903) 走る貨車のなかで、列車強盗と守衛が撃ち合っている。こんな至近距離でよく弾(たま)が当たらないもんだなあという、何とも牧歌的(?)場面。しかし一方で、彼らの背後は扉が開いたままになっていて、そこには流れるような森の光景が映し出されている。この映画を見ると、いつもぼくの眼はそこに釘付けとなってしまう…。 もちろんスタンダードサイズの映画だから、ほぼ正方形に近いフレームの映画のなかに、もうひとつ「開かれた扉」というフレームがある。そしてそれは、ぼくの記憶ではヴィスタサイズ風の横長で、そこに映し出された“流れるような森の光景”の映像には、見るたびいつも陶然とさせられてしまうのだった。 あるいは、登場人物たちの服装やちょっとした小道具など、その細部(ディテール)がもたらすリアリティはどうだ。この映画が撮られた1903年と言えば、まだワイルド・バンチ一味も、ブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドも実在していた。西部劇の主役たちが生きていたんである! この映画に描かれたものは、すべて当時の「現実」であり、それを再現したものであるのに他ならない。そしてそれは、今なお本作を、フィクションでありながら「ドキュメンタリー」的な生々しさを見る者に与えないだろうか(少なくともぼくは、そう感じた)。 他にも、100年以上前に作られたこの10分程度の映画は、今なお、ぼくという現代の観客を魅了する部分に事欠かない。それは決して「歴史的」やら「骨董的」な意義だのとかじゃなく、まさに1本の「映画」として、ぼくの瞳と心を奪ってしまうのだ。 …例えば、有史以前の人類が洞窟内に描いたラスコーやアルタミラの壁画。その単純な線と色彩による馬や牛、人などの絵は、驚くべき力強さで見る者を圧倒する。それを「古い」とは、誰も言えないだろう。それは「古い」のではなく、「オリジナル(原初・起源)」だからこそ永遠の“生命”を持つ。同じくこの映画もまた、真の「オリジナル」として永遠に「新しい」のだと、ぼくは信じている。10点(2004-10-13 17:53:09)(良:6票) 《改行有》

148.  アイ,ロボット 《ネタバレ》 ウ~ン…。 今どきのSFアクション・スリラーとしての“ノリ”も、ウィル・スミスのスター性も十分な、純然たるエンタ-テインメント作品だし。その上で、豊かな「寓意」を持った、かなりインテリジェントな作品だとは思うんだけど…。すんません、ぼくの中でこの映画って、どういうワケか手塚治虫の初期コミック『メトロポリス』と、“猿の惑星”シリーズの最終作『最後の猿の惑星』とダブッてしまうんです。それがこの映画の“すべて”って感じなんですよね。 つまり、1940・50年代に想像された「流線型とピカピカの21世紀像」を踏襲したビジュアルと、もはや古典的な「人類VSロボット」の階級闘争劇は、ほとんど『メトロポリス』に通じるものがある。そして、「主人(人間)と奴隷(ロボット)の関係の逆転と、戦いの末に共存をはかる」という構造において、これは『最後の猿の惑星』とほぼ同じ物語を踏襲している…。 そしてそれゆえ、この映画は決定的に「古い」のだと思う。本作における作り手のセンス(感覚)が、ほとんど過去の映画や小説、コミックなどで育まれ、培われていったことは間違いない。そこでは、実のところ「現実」などまるで意に介されていないんである。たとえどんなに現実離れしたものであろうと、映画とは、あくまでこの「現実」の延長にあるものだとぼくは思っている。だからこそぼくたちははるか宇宙の果ての物語であろうと、未だ見ぬ未来社会を舞台としたスリラーであろうと、その世界を「実感」でき、「共感」を抱ける。けれど、この『アイ、ロボット』のように、すべて過去の映画や小説やコミックなどに依拠し、その中に“自閉”したかのような作品は、たとえどんなにビジュアル面やストーリーテリングにおいて傑出したセンス(才気)を見せようとも、やっぱりどこかムナシイ。何故なら、あらゆる場面、あらゆる展開が、すでにいつか見たものであるに過ぎないから。近未来SFでありながら、映画は「古い」物語を反復しているだけに過ぎないからだ…。 ところで、この映画のパート2が出来るとしたら、あのラストシーンを見る限り間違いなく「サニーVSウィル・スミス」という設定だよね。今度はサニーが人類に叛旗を翻すに違いないっすよね! …って、そりゃあ『猿の惑星/征服』と同じじゃん。7点(2004-10-05 17:00:59)(良:1票) 《改行有》

149.  最後通告 《ネタバレ》 「子ども」という《概念》が登場したのは、近世になってからのことだ。それまでの社会は、子どもたちのことを、「大人になる前の“半端”な存在」としか認識していなかった。「子ども」が無垢で、大人たちとは“断絶”した彼らだけの「世界」に生きているなどという「子ども観」は、少子化をむかえ、「少なく産んで大切に育てる」ことが可能になった近代に成立したイデオロギーにすぎない。中世までの「数多く産んで、生き残った者を育てる」という、あの頃の医療水準では仕方のないことだった状況からは出てくるはずもないのだ。それまでの彼らは、「死んだらまた産めばいい」程度の存在でしかなかったのだった…。 昨今の、世界中で繰り広げられる子どもたちへの“受難”を見るにつけ、この世は、ふたたび中世以前に逆行しているとしか思えない。ささいなことでわが子を虐待し、死に至らしめる親たち。無抵抗ゆえに、平気でテロの対象として殺戮していく大人たち。…むしろ中世以上に、今のほうが子どもたちの命を軽く見ているのではあるまいか。 この映画の中で、子どもたちは理由もなく失踪していく。大人たちはただ戸惑い、嘆き、必死に失踪の謎を追う。しかし、結局、誰が、どこへ連れ去ったのかは分からない。 けれど、映画を見るぼくたちは、彼らが不思議な黒人少年に誘われ、この世界を捨てて“あちらの「世界」”に行ったことを了解する。子どもたちは、“どこでもない「子ども」だけの世界”に消えていったのだと。でも、なぜ? さらに問う観客に、映画は最後まで答えようとしない。そして、ラストに、まもなく世界中の子どもたちが“こちらの「世界」”から消え去ってしまうことを暗示した「数字」を、ただ見せるだけなのである…。 このラストは、本当に戦慄的だ。この世界から子どもが消えていく…そんな世に、当然ながら未来はない。ゆえにそれは、まさにひとつの黙示録的《終末》を告げるものとしてあるだろう。この、とことんダークで不気味な「ピーターパン(!)物語」は、子どもたちへの“受難”が続く現代だからこそ、極めて鋭く、絶望的な寓話であり、警鐘として見る者を撃つのだ。 子どもたちが、この「世界(=大人たち)」を見捨てていく。…ファンタジーでありながら、何て「リアル」な恐ろしさ、哀しさ。 10点(2004-10-05 10:57:20)(良:1票) 《改行有》

150.  市民ケーン 映画に「革命」を起こしたと言われる本作ですが、ここのレビューでは結構シビアなコメント&点数の方も多いですね…。確かに60年以上前の作品を今初めてみる時、ぼくたちはいろんな情報だの先入観だのにとらわれすぎて、逆に作品そのものが見えにくくなっているかもしれない。だから「どこが映画史上の最高傑作やねん!」と反発したり、「古臭いだけじゃん」と思ったり、「やっぱりパンフォーカスの映像や、ち密な構成など、古典的名作はスゴイっ!」と知識の後追いで満足したり…と、ちょっと映画そのものから離れて評価が下されすぎるんでしょうね。(それにしても、ざっと他の方のレビューを拝見していたら、途中になにか論争めいたコメントがチラホラ…。何があったのかなあ。その「発端」となったコメントは削除されたんでしょうか? なら、ちょっと残念な気も…)。あ、前置きがいささか長くなりました。ぼく個人は、「今見ても十分に面白いやん!」と、そのたたみかけるようなテンポとハッタリ度満点なセット、若きウェルズの堂々たるカリスマ的演技に、感心させられました。ただ、オーソン・ウェルズ作品としては、『オセロ』や『黒い罠』の方こそを圧倒的に評価する者なので…。いやぁ~、映画(の評価)って本当にムツカシイですねっ! 《追記》蛇足めいて恐縮ですが、この作品でウェルズが駆使した映像手法は、例えば「パンフォーカス」にしても決して彼の「独創」ではありません。すでにジョン・フォードやウィリアム・ワイラーといった監督が、部分的にしろ本作以前に試みていたいたものです。ウェルズは、それらの作品の撮影監督だったグレッグ・トーランドを起用することで、先人たちの手法をより徹底化した。そういった意味において、ウェルズの「天才」をやみくもに賞賛するんじゃなく、この「若く才能にあふれ野心的な」新人監督にふさわしいデビュー作だとぼくは評価したい。そして、これが「映画史上の最高傑作」とおっしゃるぶんには異論はなくても、ウェルズが「これ1作のみ」みたいに言われる向きには断固反論したいです。ウェルズは、本作の後にも素晴らしい映画を撮った。ある意味、このデビュー作以上に真に「天才的」な映画だって何本もあるんだ…と。 彼のキャリアは、この1本で「終わった」わけじゃない。そういった意味も込めて、ぼくは「8」評価にしました。8点(2004-10-04 16:51:58)(良:5票)

151.  暁の用心棒 アメリカから渡ってきた売れない役者のトニー・アンソニーは、イタリア西部劇ブームの恩恵で何とか主役の座を得る。が、それは、スペインの僻地で細々と撮られた低予算のBマイナス・ランクの代物。彼自身の弁によれば、クライマックスなど単なるビルか何かの工事現場で、ブルドーザーをどけて撮影されたものだったという。 しかし、アメリカ政府がメキシコに貸与するドル金貨を巡り、盗賊一味と流れ者ガンマンが渡り合う映画は、マカロニ特有のサディズムだけではない、ある奇妙な「詩情(!)」を漂わせることとなった。…もちろん、それは“狙った”ものじゃあるまい。けれど、どんなに安っぽいものであろうと、その「詩」は、間違いなく作品を忘れ難いものにした。  …この映画には、科白が極端に少ない。主人公はほとんど喋らないし、誰かが何かしゃべっても、それだけで終わってしまう。つまり、「会話」がないのだ。 代わりに、拳銃やライフルの発射音、馬のいななきや蹄の音、鞭が風を切り肉を裂く音…など、ここには殺伐とした「音」が満ち満ちている。特にクライマックスの、ガトリング銃(ほら、『ラスト サムライ』で政府軍が撃ってた機関銃っす)を乱射する盗賊のボスと、トロッコで弾をかわしつつショットガンでボスを追いつめるガンマンの対決など、廃虚内に響きわたるガトリング銃とトロッコの軋む音の二重奏がほとんど「官能的」ですらあるだろう。この、沈黙と音の〈異化効果〉が、観客を「超現実的(!)」な世界へといざなっていく…。 そして、低予算ゆえにエキストラを雇えずほとんど人間のいない町や、貧相なセットが、逆にやはりシュールな異様さを画面に与えることになったということもある。人物の極端なクローズアップが多いマカロニものにしては、引き(ロング)の画の多いことも、超現実感をより強調していることも指摘しておきたい。例えるなら、それはパゾリーニの『奇蹟の丘』と同じ効果を作品にもたらしている… いったいこれは、監督の才能ゆえなんだろうか。それとも、単なる偶然? …いずれにしろ、「酷い・汚い・どうでもいい」代物がほとんどのマカロニ・ウエスタンにあって、これはそのすべてにあてはまりつつジャンルを超越するに至ったものだと、少なくとも小生は信じている。 この名もない1本は、ささやかだけれど、「奇蹟」を実現した映画だ。8点(2004-10-01 17:21:22)(良:1票) 《改行有》

152.  ダイナー(1982) 小生にとって宝石のような、宝物の映画。これほど異国の青春群像に共感した記憶って、それまでも、たぶんこれからも絶無じゃないかな。とにかくひとりひとりのキャラがお気軽なようでいてそれぞれに鬱屈していて、でもそれをやりすごすだけの覚悟はあるっていう…何て分かってるんだバリー・レヴィンソンという奴は! まだフレッシュだったミッキー・ロークほか、今にして思えばキャストも豪華で役柄にピッタリ。特にケビン・ベーコンには強烈なシンパシーを抱いてしまった。良いですか、これが「青春」という厄介な代物を最もカンペキに描いた映画でありますっ!! 《追記》最近ビデオでまた見直して、思うところがあったんで少しだけ補足を…。この映画の青春群像は、すべて「昔こういう奴らがいてさぁ…」という(多分に誇張…ホラっぽさを交えた)想い出話風のスタンスというか、“距離感”をもって描かれている。そしてそういう話は、どんなにシビアなものであろうと、過去という時間がすべてを帳消しにし、「笑い」とともに語られるものなんである(日本の“落語”なんか、まさにそうでしょ)。バリー・レヴィンソンという監督さんは、どんな題材を描こうとも常にそうした“距離”の感覚を作品に導きいれる。そこから、「昔、こんな奴がいた。で、こういうことがあった。すると、…」といった、レヴィンソン監督ならではの語りのスタイルが産まれたのだった。ともすればそれを、冗長だのムダが多いだのと言われもするけれど、すべてが絶叫マシン的な速度と興奮ばかりをエスカレートさせるばかりといった昨今のアメリカ映画にあって、彼の作品は間違いなく「大人」の手になるものだ。何故なら、過去を「笑い」とともに振り返れるのが、「大人」なのだから。そんなレヴィンソンの語りのスタイルが、すでにこの監督デビュー作において、完璧に成立している。あらためて、ぼくはリスペクトを込めて讃えたいと思う。10点(2004-10-01 15:14:32)(良:2票) 《改行有》

153.  風の季節 《ネタバレ》 この映画、中学生の時に名画座(…って、もう“死語”だけど)で見ました。なつかしいなぁ。 フランスの片田舎で、歳のはなれた学者の夫や子どもたちと暮らす妻。そこへ夫の助手としてひとりの青年が現れ、彼女に恋をしてしまう。“あなたはまだじゅうぶん若くて魅力的です”と告げられ、揺れる女ごころ。…ああ、実に「おフランス」な展開ザマス! 確かに、お話としては実にありがちな「年上の人妻と青年のロマンスもの」なんだけどね。でもこの映画、登場人物たちの心理を、風で揺れる木立や波立つ草原、沈みゆく夕陽などの自然描写によって語らせるあたりが心憎いんだな。決して科白などコトバに頼らずとも、南フランスの豊かな自然と、何度も奏でられるモーツァルト交響曲第21番の甘美な一節があれば、かくも繊細な陰影に富んだ心理のあやを描きうる。…ドラマというより、これは一編の“詩(ポエジー)”に他なりませぬ。 結局、肉体的に結ばれないまま、年上の女は元の平穏な生活に戻る。でも二人が別離を迎える前日の夜、映画はこんなシーンを用意する。夜更けの散歩から帰り、それぞれの部屋で床につくふたり。女が服を脱ぎ、青年も服を脱ぐ。そしてベッドのシーツを女がめくれば、青年もシーツをめくり上げる。ベッドに身を横たえる女。青年もベッドに横になる。女の眼差し。青年の眼差し。…と、それぞれを交互に映し出すことで、あたかもふたりが同じベッドで眠ろうしているかのよう錯覚を観客に与えるんである。…まだ中房だった小生にも、このシーンは深く印象的だった。単に小手先の編集トリックを弄したんじゃなく、彼らが少なくとも意識の内において「貫通(!)」したことを、この短いカットバックは鮮やかに描いてみせたのだった(そしてその、何とエロチックだったこと!)。 『美徳のよろめき』とは、たぶん三島由紀夫の小説の題名だったと思うけど、フランスの映画や小説において人妻が“よろめく”のは、間違いなく「美徳」だ。そしてこの映画は、スタンダールの『赤と黒』にはじまる「人妻の不倫の美」の系譜の、慎ましくも美しい継承なのだと思う。(主演の人妻を演じたのが、マリー・デュボワ。彼女の名前も、フランス文学にその名を残すヒロインの名を芸名にしたものだ。う~ん、隅々までさり気なく凝ってますね。さすが、元『カイエ・デュ・シネマ』誌編集長のバルクローズ監督!)8点(2004-09-29 19:59:26)(良:1票) 《改行有》

154.  LOVERS 《ネタバレ》 男2人・女1人の「三角関係」ドラマは、“誰に感情移入できるか”じゃなく、3人のいずれにも感情移入できる…というか、いずれの心情をも理解できるか否かが大事なんんだと思う。愛する者、愛される者、愛されなかった者、それぞれの苦悩や歓喜、とまどい、揺れ動く想い…。そんな3者それぞれの“立場”を、観客はハラハラしながら、切なさに涙しながら、その行方をただ見守っていく。そして、一方的なハッピーエンドなどあり得ない(2人の恋が成就した時、そこには、かならず1人の“敗者”が残される…)という「真理(!)」を体現するがゆえに、すぐれた「三角関係」ドラマは、ぼくたちに《愛》というものの甘美さと残酷さを「経験」として与えてくれるのだ。 …ぼくはこの映画の、チャン・ツィイーに、金城武に、とりわけアンディ・ラウに、心から魅せられた。彼らのいずれをも、ぼくは人間として「共感」できたのだった。それは、CGとワイヤー操作を駆使したどんなに華麗なアクションシーン(たとえそれらが、あの素晴らしいキン・フー監督の『山中伝僖』や『侠女』をより精巧に“再現”したものだったにせよ)よりも、はるかに息詰まり、胸を高鳴らせ、眼を逸らせない、男と女と男の情念の闘争劇を繰り広げていた。確かにあざとく、作り過ぎの陰謀をめぐるストーリーでありながら、彼ら3人の「愛」をめぐるドラマこそが見る者を圧倒するのだった。 このような「人間(の愛)」を、チャン・イーモゥ監督がかくも正面きって描いたことなどなかったはずだ。イーモゥの映画は、これまで常に「人間」など物語の、あるいは映像(…彼の映画を見ていると、いつも「はじめに映像ありき」という倒錯した想いにとらわれてしまう。あの色彩も、あの構図も、すべてが空しいまでに美し過ぎる)のための“手段”でしかない。なるほど、彼は「天才的」な映像の作り手であり、物語の語り手かもしれない。しかし、そこには、「人間」がいない。つまり、「愛」がないのだった…。 そんなイーモゥが、ついに「人間(の愛)」を描いた。相変わらず審美的すぎる「美しい画」の洪水のなか、それでも確かに「人間」の息づかいが聞こえてきた。 …それゆえ、ぼくはこの映画を愛する。 10点(2004-09-24 20:10:59)(良:1票) 《改行有》

155.  ヴァン・ヘルシング そう言えば、あの『ハムナプトラ』だって本来は、ユニバーサル映画の古典的ホラー『ミイラ再生』だったんだよなぁ。 で、今回はいよいよユニバーサル・ホラーの主演モンスターたち揃いぶみできたかあ! …たぶん、先に発表された『リーグ・オブ・レジェンド』の内容を聞いて、「あ、俺もそのネタいただき!」てなもんで、嬉々としてデッチあげた企画なんじゃないかな。 そして出来上がったのは、例によってノーテンキな笑いとアクションとサプライズ満載の、まさにマンガ的世界。例によって、観客の微笑・失笑・爆笑を買っているようだ。正直、ぼくもその1人です。ただ、ソマ-ズ作品の場合、至る所にあるツッコミどころやアラも、笑っているうちに、何だかあらかじめ計算している…意識的に仕組んでいる気がしてこなくもない。まさかとは思いながら、実はデタラメすらわざと“ギミック”として用いているんじゃないかと…。 そうだからこそ、単なる新奇なスペクタクルやもの珍しさばかりを見る者に押し付ける、昨今のCGだらけのアメリカ製エンターテインメントの典型に見えて、ソマーズの映画はハッキリと一線を画すものだと言えるだろう。彼の映画を見るぼくたちは、「おいおい、そりゃ何だ!」とか、「そこんとこ、ウソっぽい!」とか否定的な向きであろうと、知らず知らず作品に「主体的(!)」に関わっていることになるからだ。 特にここ最近の映画の場合、ぼくたちは、「見る」んじゃなく、「見せられている」という“受け身”の立場にたたされていることが多い。その時、ただ「面白さ」や「刺激」をスクリーンから与えられているばかりで、もはや何も考えない。結局のところそれはただ映画に“反応”しているだけのことだ。 しかしソマーズは、この映画においてもそうだけど、どこまでも「おバカ」に徹しているようで、観客の積極的なツッコミを“要請”している。「楽しませる」だけじゃなく、「楽しむ」ことを見る側に求めている。ボケとは、漫才がそうであるように高度な“知性”の産物なのだ。 映画とは、本来そういった映画と観客との「間」において、はじめて成立するものだったはずだ。人と人との間に、愛が成立するように。 そんな、「何より大切なこと」を、あろうことかスティーブン・ソマーズの映画に教わるとは…。だから映画は、あなどれまへん。 以上、与太めいてますが、ぼくはマジです(笑) 8点(2004-09-16 10:49:22)(良:2票) 《改行有》

156.  ALI アリ マイケル・マン監督の映画に出てくる「男たち」は、常に寡黙でありながら雄弁で、饒舌でありながら静謐だ。何ものかに挑む時、彼らは黙々と行動する。ただ黙って闘い、殺し、愛し、勝利し、敗北し、死んでいくのだ。命を賭けるものがあるなら、「男たち」は迷うことなく“死”へと突き進む。安っぽいヒロイズムや、無鉄砲さとはあくまで無縁の、「運命に挑み、その結果を受け入れる者」としての孤高と諦観を漂わせて。 アリもまた、そんな“マイケル・マン的「男たち」”のひとりとして、マンの世界(マン・ダム!)に召還された。この、蝶のように舞い蜂のように刺す天才ボクサーは、一方で「ほら吹きクレイ」と呼ばれるほど挑発的な言動を繰り返す。試合前のインタビューで、試合中も相手ボクサーに対して、“暴言”を吐き続けるアリ。そこに、黒人である彼の、アメリカの白人社会へのレジスタンスが込められていることは、間違いない(そんなアリの最大の理解者が、白人のスポーツキャスターであったこと。それもまた、アメリカの一面であることを示すあたりの心憎さ!)。が、この映画は、そんな「社会派」風の、あるいは「ヒューマン・ドラマ」風の側面以上に、アリというひたすら饒舌な男のなかにある“寡黙さ”を、ほとんどそれだけを映し出そうとした。ボクシングと言葉によって「アメリカ」に闘いを挑み続けた男の、内なるストイシズム。そこにこそ彼の、真の偉大さがあったのだと。 だからこの映画が、ボクシングを描きながらどこまでも「静か」なのは当然だろう。これはボクサーたちの闘いを通じて、さらには、ひとりの黒人青年によるアメリカへの闘いを通じて、自らの「運命」と対峙し続けた偉大な魂の記録なのだから。そして、偉大な魂とは、常に孤独で、寡黙で、静謐なものなのだ。 繰り返そう。マイケル・マンの映画の「男たち」は、たとえどんなに“反社会的(アウトサイダー)”であろうとも、孤高を生きる者たちだ。本作もまた、そんなマンならではの世界観が昇華された、偉大な映画だとぼくは信じて疑わない。…皆さんの評価があまりにも低いこともあるので、あえて満点を献上する次第です。10点(2004-09-15 13:27:53)(良:1票) 《改行有》

157.  マングラー トビー・フーパーの映画は、たとえどんなに世評の悪い「失敗作」だろうと、必ず見る者の深層意識に冷んやりと、あるいはざらりと触れてくる“おぞましい”瞬間がある。それは、彼がただ単に“恐怖”を表現するのに長けているというんじゃなく、“恐怖とは何か”を本質的に知っているからなんだと思う。 その“おぞましさ”は、言うならば、見知らぬ穴に手を突っ込んで指先が何かぬるりとしたものに触れた瞬間みたいなもの、と言い換えてもいい。その時にぼくたちが感じるだろう不快感や恐怖心を、フーパーの映画は何気なくひょいと投げ出してくる。『悪魔のいけにえ』では、それこそ全編にわたって。『ポルターガイスト』のような映画であろうと、いかにもスピルバーグ風の「光」が画面を覆おうとも、例えば部屋の片隅の薄暗がりや、子役の少女の後ろ姿などにぬぐい難く。 この、悪魔が取り憑いた巨大洗濯用プレス機と人間の死闘を描くという、相当にバカバカしい、そしていかにもスティ-ブン・キング原作ならではのグロテスクさとユーモアに忠実であろうとした映画にあっても、ふとした場面に“フーパーらしさ”が顔を出すだろう。それは、主人公の刑事が深夜の死体安置所で時を過ごす何気ないシーンであったり、彼の義理の弟が住む家のテラスをとらえたショットに見ることができる。実際これらの映像は、プレス機が人間をきちんとプレスして折り畳んだり(!)、果ては動き回って大暴れするクライマックスなんぞよりもはるかに不気味で、不安で、おぞましい気配を漂わせているのだ。 フーパーは、「恐怖とは、人の心の“闇(=病み)”と直接触れる瞬間にある」ことを知っている。彼自身が、そのことに震え、おののいている。一方で、そんな「闇」を何とか「商業映画」として折り合いをつけようと苦闘し続けるフ-パ-作品は、それゆえの“いびつさ”が逆にスリリングであり、こう言ってよければ何よりも魅力なのだとぼくは信じて疑わない。8点(2004-09-06 19:02:07)《改行有》

158.  E.T. 今回あらためて見直して、ETに意思が通じると分かった主人公の少年が、身の回りの日用品やなんかを「これは何々で、これはこんな風に使うもので…」と夢中になって教えようとするシーンで涙がこみあげてきた。ああ、ひとりっ子や、友だちのいない子どもって、ようやく仲良くなれる相手を見つけたときに、こんな風に自分の知っていることを教えてあげようとするんだよな。もっともっと自分を分かってもらおうとするんだよな…。そんな、多感で孤独な少年期の”こころ”を描かせたら、スピルバーグの「天才」に優る者はいない。そしてこの作品は、そんな彼の最も彼らしい良さが発揮されたものだと思います。そう、彼の映画は、見かけの派手派手しさや娯楽性の裏に、いつもそういった純粋なイノセンスが息づいている。それはとても傷つきやすく、しかし、キラキラと輝いていて、あやうさと美しさがひとつになっている…。トリュフォ-監督がスピルバーグのことをあれほど”評価”していたことも、きっと彼の内にもう一人の自分を、「アントワーヌ・ドワネル」を見たからでしょう(この『E・T』が世界中で大ヒットしたからといって、それだけで批判するなんて向きはナンセンスだ。それだけこの映画が「幸福」だったのだと、祝福してあげようじゃないか。もうひとつの、同じ《主題》を変奏した『A・I』が、どこまでも「不幸」だったのに対して。しかしぼくは、どちらも大好きです)。今さらながら、満点献上。10点(2004-09-02 15:36:20)(良:4票)

159.  海の上のピアニスト この、「産まれてから一度も船を降りたことのない天才ピアニスト」をめぐる、美しくも儚い作品のイタリア語原題が『NOVECENTO』であると知った時、ああ、やっぱり…という感慨にとらわれたものだった。それは、ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』の原題と同じだであるからだ。 たぶん、それは決して単なる“偶然”ではないだろう… あのベルトルッチの大作は、イタリアの大地で繰り広げられた20世紀初頭から第2次世界大戦後までの激動の歴史を、壮大な《叙事詩》として謳いあげる。一方、トルナトーレによる本作は、同じく1900年から第2次世界大戦直後の‘46年までを背景としながら、世界恐慌とも、戦争とも(直接的には)まったく無縁の寓話を《叙情詩》として歌うのだ。 そこに、醜い地上の「歴史(ヒストリー)」を拒否し、あくまで美しい「物語(ストーリー)」を対置させようとするトルナトーレの作家的姿勢をぼくは見たいと思う。彼の『ニュー・シネマ・パラダイス』がそうだったように、彼は、常に“夢見る者”を肯定し、けれどその“夢”が結局は“現実”に押しつぶされるしかない儚(はかな)さを、深い哀悼とともに見送り続けるのだ。 本作における、あの、あくまで地上(=現実)を拒否して船もろとも消えていった主人公がまさにそうだったように… そんなトルナトーレの映画は、確かに甘く、美しく、“敗北”すらも甘美な「蜜の味」に変えてしまう。ただ、そういった現実逃避を、それ以上に現実を「拒否」するトルナトーレよりも、あくまで聖も俗も美も醜もいっしょくたになったこの現実こそを直視し、まるごと「肯定」するベルトルッチにこそぼくは組みしたい。 何故なら、ぼくらは「物語」ではなく「歴史」を生きざるを得ないのだから。ぼくらの生は、夢じゃなく現実の側にあるのだから。 そのことだけは、片時も忘れたくはないと思うのだ。6点(2004-09-02 14:59:19)(良:1票) 《改行有》

160.  華氏911 映像は、平気で嘘をつく。たとえ「事実」を写し撮ったものであろうと、編集ひとつでカンタンに白を黒と言い含めることができるのだ。 今日、そんな“映像の「嘘」”を最も確信犯的に使いこなし、文字通り「嘘」のように面白いドキュメンタリーを創り続けているのが、マイケル・ムーアという男であるだろう。彼の作品は、いつでも「事実」を撮った映像・・・それ自体は白でも黒でもない(あるいは、白でも黒でもある)「事実」の断片を、絵と絵のつなぎ方ひとつ、ナレーションひとつで、易々と「黒」にしか見えないものへとまとめ上げていく。そうやって彼(の映画)は、アメリカという国家と国民を“食い物”にする「巨悪」を暴きたて、白日の下にさらし出すんである。 彼は、建て前だけの「公正さ」を拠り所にするジャーナリズム的手法じゃなく、あくまで警世家(!)として、「正義」の側に立とうとする。この『華氏911』でも、彼は今まで以上に「正義の人」として、「悪党」ブッシュ政権を撃つのだ。 今まで以上に? そう、ここでのムーアの「怒り」は本物だ。そこに「嘘」はないだろう。彼は純粋にブッシュとその陣営を、彼らをとりまくエスタブリッシュメントたちの悪らつさを、本気で怒り、告発しようとする。それがこの映画の原動力となり、もはや大統領選挙の行方にすら影響を与えるほどの“力”となったことは、ぼくたちにも周知の事実だ。もしかしたら、ブッシュの再選を拒み、ムーアのこの映画は、現在のイラク状勢にも変化をもたらすかもしれない。それはそれで、あっぱれと言うべきなのだろう… しかし、すべてを「ブッシュ側」に押しつけ、彼らを「悪」に位置づけることで、本当にアメリカの抱える真の問題を捉えることができるんだろうか。むしろそれは、本当の問題を“見えにくくする”ことになりはしないだろうか? 単純に「悪」と「正義」を線引きするこの映画は、見る者を安易に「正義」の側に立たせ、権力を撃ったつもりにさせることでカタルシスを与える。けれどそれは、例えば大統領やCIA、FBIなどを悪役に仕立て上げたハリウッドの娯楽映画とまったく同じ(!)スタンスでしかない… ぼくはムーアの「怒り」の正当性を信じる。が、この映画の「安易さ」は、やっぱり否定したいと思う。ゴダールの批判した通り、それは結局「敵(アメリカ)を利するだけ」だろうから。 4点(2004-09-02 12:25:01)(良:2票) 《改行有》

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