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Web www.jtnews.jp

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2020年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  アステロイド・シティ 結論から言うと、好きな映画だと言っていい。 メインストーリーを極彩色豊かな劇中劇として映し出し、舞台劇のように描き出した現実描写を挟み込んだ入れ子構造は、意図的に難解で、映画世界に没頭しづらい。 けれど、その感情移入のしづらさそのものが、本作におけるウェス・アンダーソン監督の思惑でもあり、最終的には彼の生み出した世界に心地よく包みこまれていたことに気づく。 30年以上に渡ってハリウッドの第一線で、偏執的なまでの自分の世界観を描き出し続けるウェス・アンダーソンのクリエイティブがとにかく素晴らしい。 1955年のアメリカ南西部の砂漠の中の小さな街を舞台にしたストーリーテリングには、当時のアメリカ社会を投影した様々な要素が盛り込まれている。 エスカレートしていく冷戦を背景にした軍拡前提の科学者育成、女性蔑視が色濃く残る社会や、その中で苦悩する人気女優。揃いも揃って風変わりな登場人物たちが、実は孕んでいる人生模様の中で、そういった要素が、割とダイレクトに表現されていた。 映画作品の文脈として特に興味深かったのは、同時期に製作・公開されたであろう「オッペンハイマー」との類似性だ。 砂漠の中の小さな街“アステロイド・シティ”の舞台設定は、「オッペンハイマー」で原爆開発のために作られた街“ロスアラモス”ととても似通っていたし、キャラクターたちの人生観においても、共通要素があったと思う。 公開時「オッペンハイマー」と対峙するように話題となった「バービー」の主演マーゴット・ロビーが出演していることも興味深い関連性だろう。 と、時代設定を背景にして色々な社会的要素を詰め込み、宇宙人も登場するハチャメチャな映画世界ではあるけれど、その一方で本質的なテーマはシンプルだ。 詰まる所、主人公である父親とその長男である息子の視点を主軸にした、妻(母)を亡くした父子の喪失とリスタートの物語だったのだと思う。 おそらくは、主人公の父子も、劇中劇を演出する監督や脚本家も、ウェス・アンダーソン監督自身の自己投影であり、やっぱり本作は首尾一貫して、彼の極めてパーソナルな心象風景を描き出した映画世界だった。 描き出された時代背景や、物語構造を推察して様々なテーマ性を考察することも一興だろうし、思考を止めてただただお洒落な映画世界をファッション誌をめくるように堪能することも、本作の正しい観方だろう。 脳天気なコメディにも見えるし、シニカルなブラックコメディにも見えるし、社会性を踏まえた重い悲劇のようにも見える。鑑賞者によっては、傑作にも、凡作にも、駄作にも見えるだろう。 そういった様々な側面を踏まえて、とても懐の深い映画だと思える。[インターネット(字幕)] 8点(2024-06-09 21:41:39)★《新規》★《改行有》

2.  マッドマックス:フュリオサ 衝撃の“Fury Road”からはや9年。究極の“行きて帰りし物語”を文字通り牽引したキャラクター“フュリオサ”の前日譚は、世界中の映画ファンが待望していたことだろう。 前作でシャーリーズ・セロンが演じた、この映画史上に残る女性キャラの若かりし時代を、今度は、現在のハリウッドを代表する“ミューズ”の一人と言って間違いないアニャ・テイラー=ジョイが演じる。そりゃあ、高揚感は是が非でも高まるというもの。 結論から言ってしまうと、ずばり主演女優アニャ・テイラー=ジョイの“眼力”で押し通した映画だった。 前作に引き続き圧倒的に破天荒な終末世界が展開されるけれど、最終的に印象に残ったのは、各シーンにおける彼女の“眼差し”のみだったと言っても過言ではない。だが、それで良いし、それが良かったと思える。 前作がただただシンプルに行って帰ってくるストーリーだったように、本作はその表題に相応しく、あらゆるものを奪われ失った一人の少女“フュリオサ”の「復讐心」のみを表現した映画だったと思う。 故郷から引き離され、母を奪われ、人生を奪われ、そして腕を奪われたフュリオサが、復讐心の一念のみで生き続け、仇とこの世界に対して逆襲をしかける。そのシンプルで、ある意味純粋な感情が、主演女優の眼差しに宿り、明確なエンターテイメントして確立されていた。 アニャ・テイラー=ジョイは、全世界のボンクラ映画ファンが期待を最大限高めた役柄に対して、その眼差し一つで見事に応えてみせたと思う。 彼女のファンとして、とても満足度の高い映画であったことは間違いない。そして、「マッドマックス 怒りのデスロード」の前日譚としても申し分ない作品だった、とは思う。 ただその一方で、「ああ、紛れもない前日譚だったな」という印象は拭えない。それはこの作品の立ち位置として全く問題無いことではあるけれど、前作以上の映画的パワーがあったかというと、そこは当然ながら「NO」と言わざるを得ない。 本作をIMAXシアターで鑑賞したその日の夜、前作「マッドマックス 怒りのデスロード」を自宅で再鑑賞した。 劇場鑑賞以来9年ぶりの鑑賞だったが、やっぱりその強烈すぎる映画世界に改めて驚愕した。 ああ、そうだ、こんなにもイカれた映画だったと思い出した。 すると、昼間に観たこの最新作の印象が極端に薄まってしまっていることに気づいた。 前作と同じくジョージ・ミラー監督が手掛けた同じ世界観の映画作品のはずだし、製作規模的にも極端に目減りしている印象はないのだが、何か絶対的な“物足りなさ”を覚えていた。 それが具体的に何なのか明確には言語化できないけれど、前作と直接比較した所感としては、作品に対するもう一歩踏み込んだ「情念」や、ディティールに対する偏執的な「執着」が、ほんの少しだけ希薄に感じられた。 そう、詰まる所、前述の“イカれ”具合そのものが足りていなかったということなのかもしれない。 自宅で鑑賞した前作のBlu-rayに収録されていた特典映像を観ていくと、ジョージ・ミラー監督をはじめとする製作陣が、本当に嬉々として、自分たちが大好きな世界観の創造に没頭していることがよく分かる。 無論、本作においてもその情熱に陰りは無かっただろうけれど、全世界でカルト的人気を築いたオリジナルシリーズから30年の時を経て、製作された前作には、もっと無謀で、もっと純粋なチャレンジ精神が溢れかえっていたのだろう。 とはいえ、繰り返しになるが、「前日譚」として本作のテイストと仕上がり自体は、正解であり、成功していると思う。 御大シャーリーズ・セロンに負けず劣らず、若かりしフュリオサを体現してみせたアニャ・テイラー=ジョイは見事だったし、もっと彼女のフュリオサを見たいという気持ちは強い。 前日譚に続編があっても全然問題ないと思うので、引き続き彼女がこの先どう人生を送り、闘い続け、“Fury Road”へ向かう「決心」へと繋がっていくのか。是非観てみたい。[映画館(字幕)] 8点(2024-06-05 22:54:38)
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3.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 後章 人生において、「絶対」な存在と共に過ごせることの価値と、その代償。 原作を読み切って正式なレビューを綴りたい。[映画館(邦画)] 7点(2024-06-02 18:36:00)《改行有》

4.  シティーハンター(2024) 体現している人物が「冴羽獠」であることを信じて疑わせない鈴木亮平は、奇跡的ですらあった。それは、一般的な漫画の映画化作品における“忠実”とは一線を画していると言っていいくらいに、正真正銘の“実写化”だった。 何がスゴいって、漫画版、アニメ版の両方世界観における「冴羽獠」という架空のキャラクターを統合して一つの人格の中で表現していることだ。 男性でも惚れ惚れするしか無い肉体美を惜しげもなく披露したかと思えば、その“ほぼ全裸”状態のまま、ちょける、はじける。 普通、漫画やアニメの世界のテンションのまま実写版でふざけても、大体の場合は白けるし、失笑を避けられない。 けれど鈴木亮平の“獠ちゃん”は、漫画世界のキャラクター性とテンションそのままに、現実描写を成立させてしまっている。更に驚いたのは、ちょけたシーンの声色がアニメ版の声優・神谷明のそれにそっくりだったことだ。 そこには、実写版を観ていながら、アニメ版や漫画世界の境界線を超えて、三様の「シティーハンター」の世界線が入り混じり、違和感なく共存しているような感覚があった。 無論、真に迫っていたのはコメディシーンばかりではない。 説得力を伴った身体能力による格闘シーンもガンアクションも、世界最高のプロスイーパーである“シティーハンター”を過不足なくクリエイトしていた。 苛烈な過去を背負っている裏社会No.1のスイーパーが醸し出すハードボイルドと、“もっこり”がトレードマークの新宿の種馬という、あまりにも相反する両面のキャラクターを持つ主人公を、これほどまでに説得力を持って演じきれたのは、鈴木亮平という俳優自身が演じてきた役柄の振れ幅の広さに起因するだろう。 「HK 変態仮面」でお下劣なヒーローを演じたかと思えば、「孤狼の血 LEVEL2」では鬼畜の最凶ヤクザを狂気のままに演じきる。彼自身インタビューで語っていた通り、これまで決して型にはまることなくありとあらゆるキャラクターを演じきたことが、本作において圧倒的な説得力を伴った「冴羽獠」に繋がったことは明らかだ。 また「シティーハンター」という作品において、主人公と並んで重要度を持つヒロインであり相棒である「槇村香」を演じた森田望智も素晴らしかったと思う。 彼女は世代的に「シティーハンター」を知らなかったと言うが、おそらくはしっかりと原作やアニメを叩き込んで撮影に臨んだのだろう。ボーイッシュなビジュアルの再現はもちろん、重い荷物を担ぐ仕草だったり、ラストのジャケット&ジーンズ姿のフォルムに至るまで、こちらも鈴木亮平同様に細部に至るまで完璧に「香」を体現していた。 現在放映中の朝ドラ「虎に翼」でも印象的な役柄を好演しており、一躍いま最注目の女優の一人となっている。 兎にも角にも、過去最高に原作愛、アニメ愛に溢れた見事な実写化作品だ。 80年代生まれの生粋の原作ファンとして、ここまでのクリエイティブを見せてくれれば、もう文句は言えない。 まあ唯一注文をつけるとするならば、ラストかエンドクレジット後のカットで、“ラスボス”である「海原神」の存在をシルエット程度でいいので匂わしてほしかった。 要は、それくらい「続編」の存在を明示してほしかったということ。“海坊主”、“ミック・エンジェル”、この実写化で観たいキャラクターはまだまだ沢山いる。自信と確信を持ってシリーズ化してほしい。[インターネット(邦画)] 8点(2024-06-02 18:33:31)《改行有》

5.  劇場版 からかい上手の高木さん 「からかい上手の高木さん」は、原作を長らく漫画アプリで無料で読んでいたのだけれど、四十路を超えた立派なおじさんである私は、次第に二人が織りなす甘酸っぱさと眩しさにたまらなくなってしまい、先日ついに単行本を購入し始めた。 動画配信サービスでも観られるTVアニメシリーズも気になってはいたのだけれど、アニメシリーズを観る習慣があまりないので、スルーしてしまっていた。 この劇場版で同作のアニメーションを初めて観て、瑞々しい二人の日常がアニメで観られる事自体は嬉しかったけれど、世界観の性質上、やはり長編作品には向いていないかもなという印象を覚えた。 原作自体がショートストーリーの連作なので、やっぱりアニメシリーズで展開される方が適していたのだろう。 授業中に教師の目を盗んでコソコソとするやり取り、放課後に一緒に帰る時間、休みの日に偶然出会った束の間、そんな短くて他愛もないささやかな“時間”を、丁寧に描き、連ねているからこそ、原作漫画は、何にも代え難い“価値”を創出しているのだと思う。 私自身の中学生時代に、彼らのようなキュートな記憶は無いはずだけれど、それでも遥か遠くに過ぎ去った大切な時間に思いをめぐらし、高木さんの“からかい”に対して西片目線でドギマギするのも悪くない。[インターネット(邦画)] 5点(2024-04-28 23:39:41)《改行有》

6.  ドミノ(2023) 《ネタバレ》 「インセプション」や「マトリックス」をはじめ、“既視感”は否定しないけれど、ロバート・ロドリゲス監督らしい良い意味でも悪い意味でもB級テイストに振り切った映画作りには潔さを感じるし、好感が持てる。 巨匠監督の作品や超大作に出演すればしっかりと存在感を放つ役どころを演じる一方で、こういうジャンル映画でもある意味きちんとそのレベルに合った主人公像を演じるベン・アフレックは、やっぱり信頼できる映画俳優だと思う。 娘の“眼力”一発で、すべてを納得させてみせたことで、このトンデモ映画はちゃんと成立している。[インターネット(字幕)] 7点(2024-04-28 00:10:35)《改行有》

7.  デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章 多様性という言葉のみが先行して、それを受け入れるための社会の成熟を成さぬまま、問題意識ばかりが蔓延する現代社会において、私たちは、いつしか見なければならない現実から目を背け、まるで気にもかけないように見えないふりをしている。 空に街を覆い隠すような巨大円盤が浮かんでいたって、仕事が大事、受験が大事、友情が大事、恋が大事、体裁やステータスが大事と、問題をすげ替える。 このアニメ映画は、本当は直視しなければならない「日常」の中に潜む「非日常」を、具現化して、切実に茶化して、女子高生たちを中心にした群像劇に落とし込む“くそやばい!”寓話だ。 今だからこそ多少ジョーク混じりに「闇落ちしていた」なんて思い出せるけれど、20代の私は諸々の環境が辛くてしんどくて、滅入っていた。専門学校を卒業して、フリーターを経て、ニートじみた時間を過ごして、ようやく就職した営業職に辟易とした日々を送っていた。 そんな折、いつも傍らにあったのは、浅野いにおの漫画だった。 「素晴らしい世界」「ひかりのまち」「ソラニン」「虹ヶ原ホログラフ」「世界の終わりと夜明け前」……と彼の作品はほぼ読んできた。 漫画作品としての面白さももちろん堪能していたけれど、特にその当時の私のフェイバリットになった「理由」は、同世代の作家が生み出してくれた「共感性」だったのではないかと、20年たった今思える。 自分と同じ20代の漫画家が、己の人生や社会に対する鬱積やジレンマを吐き出すように、そしてその先に一抹の光や希望を必死に求めるように、生々しく創造された漫画世界に、共感せずにはいられなかった。 そんな浅野いにお作品の初のアニメ映画化。そりゃあ観ないわけにはいられない。 「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」は、単行本を買っているけれど、途中で購入がストップしてしまっていた。(作品自体は非情に面白く、無論好きな世界観なのだが、ここ数年漫画本を購入する行為自体がすっかり消極的になってしまい、本屋に行かなくなってしまったことが最たる要因だろう) 既に完結している原作を読まずして、本作を観るのはいかがなものかとも逡巡したけれど、前章・後章構成ということもあり、とりあえず前章の鑑賞に至った。 原作ファンとしての警戒心はもちろんあったけれど、この前章を観る限りでは、ものすごく見事なアニメ映画に仕上がっていたと思える。 物語的には、おそらくは全体のストーリーの序盤から中盤に差し掛かるくらいの地点で終了してしまうので、尻切れトンボ感は拭えないが、それでもこの先何が起こるのかというワクワクドキドキは十二分に表現されていた。 何よりも、漫画世界の中で、特異なテンションと表情で悲喜こもごもの感情を爆発させていたキャラクターたちが、アニメーションの中でとても魅力的に躍動していたことが、素晴らしかったと思う。 主人公二人の声を演じた幾田りら&あのちゃんも、素晴らしい表現力と存在感で、門出とおんたんに息を吹き込んでいた。 この映画のストーリーが「後章」でどんな結実を見せるのか、まったくもって予想できないけれど、こうなればこのまま映画で結末を迎えたあとに、残りの単行本を買い揃えようと思う。 もちろん今も私の背後の本棚の一番近い段には、浅野いにおの作品が並んでいる。「後章」公開までは、保有済みの「デデデ」を読み返しながら、はにゃにゃフワーッと待つとしよう。[映画館(邦画)] 8点(2024-04-27 14:40:02)《改行有》

8.  オッペンハイマー 並行世界のように異なる時間軸が入り混じって描き出されるストーリーは、「事実」のあり様を敢えて意図的に混濁させ、多角的な“視点”と“認識”を創出している。 「原爆の父」として、特に我が日本にとっては、切っても切り離せない人物として存在するJ・ロバート・オッペンハイマーの目線と人生観を、一つの視点として描き出した本作は、紛れもない傑作である。そして、やはり日本人こそが、腰を据えて観て、様々な感情を生むべき作品だろうと思った。 瀬戸内エリアで生まれ育ったこともあり、広島の平和記念資料館や原爆ドームへは、何度も行ったことがある。訪れるたびに、人類が生み出した「業火」の残酷さに愕然とし、胸が掻きむしられるようだった。 そこに展示されているおびただしい数の残骸と残穢、その一つ一つに残る悲痛な記憶に、涙が止まらなかった。 そして、あの「爆弾」を生み出した人物の所業を呪わずにはいられなかった。 ただ、その当人のことを決して積極的に知ろうとしてこなかったことも、また事実だった。それは多くの日本人にとって共通する事実ではないだろうか。 この国で、戦後の現代社会に生まれ成長してきた者として、必然的に原爆投下の事実と、それがもたらした文字通りの“地獄絵図”は、子供の頃から学校の授業で、漫画で、映画で、写真で、そして被爆者の経験談で、繰り返し見聞きしてきた。 しかし、それをもたらした一人の科学者の人生模様と、彼が生きた社会及び世界の実態に対する認識はほとんど皆無だったと言っていい。 本作を観終えたあと、NHK「映像の世紀 バタフライエフェクト」のオッペンハイマー回を観て、彼が天才科学者として辿った人生の、その一端を垣間見た。 “一端”ではあるけれど、その人生を知って思ったことは、彼が本当に得たもの、最終的に心を埋め尽くしたものは、栄光でも苦悩でも無かったのではないかということ。 そんな都合の良い“言葉”では、彼が“生み出してしまったもの”に対する功罪は推し量れないと思えた。 ブラックホールの研究に傾倒し、時代の流れのままに原爆開発の中心に突き進み、文字通り世界の在り方そのものを変えてしまった男がたどり着いた境地は、あらゆる感情を呑み込まざるを得ない「虚無」そのものだったのではないか。 キリアン・マーフィーが演じたオッペンハイマーの瞳には、野心や後悔すらも呑み込む深い漆黒が広がっていた。それは奇しくもすべてを呑み込むブラックホールを彷彿とさせた。 実は鑑賞から一ヶ月近く経っても、なかなかこの映画に対する感想がまとめきれなかった。いろいろな感情が渦巻いて整理しきれなかったからだ。 題材故に、日本公開が随分と先延ばしになった経緯があるが、もし本作が日本公開に至らなかったならば、それこそあまりにも愚かなことだったろう。 繰り返しになるが、この映画は、世界で唯一の被爆国であり、原子爆弾による死屍累々の上に生きる日本人だからこそ、しっかりと鑑賞して、様々な感情を巡らせるべき作品だと思う。 劇中、ヒロシマ、ナガサキの惨状そのものを映し出さなかったことに対する是非が問われていたようだけれど、それを描き出さなかったことが、必ずしも本作の主題において無責任なことだとは思わなかった。 むしろ直接的な地獄絵図の描写がないからこそ、オッペンハイマーをはじめとする当時の全世界の科学者たちの宿命と、彼らを含む社会のエゴイズムと狂気の様が際立っていた。 そしてその全世界的に渦巻いたエゴと狂気こそが、彼らを踏みとどまる余地すらない無間地獄へと誘い、その地獄は今なお続いているとういことを、この意欲的な映画は雄弁に語り尽くしていたと思う。 原爆開発に限らず、歴史や人間の功績は、常に闇と光を併せ持つ。様々な“視点”によって、断罪と称賛はとめどなく入れ替わり続ける。 “毒林檎”をすんでのところでゴミ箱を捨てた男も、世界を滅ぼす力を持つ爆弾を生み出した男も、ただひたすらに科学に邁進した一人の人間なのだ。 そして人類は、今なお世界の終焉そのものを天秤にかけて、あまりにも危うい葛藤を続けている。 “毒林檎”は、今この瞬間も、アンバランスな天秤の片側でその重みを増し続けている。 果たして、人類は自ら生み出してしまったその禁断の果実を、ゴミ箱に捨て去ることができるのだろうか。[映画館(字幕)] 9点(2024-04-27 08:31:42)《改行有》

9.  DUNE デューン/砂の惑星 PART2 SF映画史、いや世界中で生み出される“SF”そのものを巻き込みながら、紆余曲折を経て、ついに超大作として日の目を見た“PART1”の公開から4年。個人的には、「待望」していたと言って間違いないし、近年においては屈指のワクワク感を持って鑑賞に臨んだと言える。 圧倒的な映像世界、骨の髄まで響き渡るような音響表現が、前作以上の大スペクタクルと共に繰り広げられる。その映画世界のクオリティは、SF映画史のあらゆる文脈の起点でもある“DUNE”の世界観に相応しく、無論称賛を惜しむものではない。正直、「文句のつけどころがない」と言うしか無い作品だろう。 超大な画角で切り取られたダイナミックな映像世界は、全編どこを抽出しても世界最上級のクオリティに埋め尽くされている。そして、音響は砂の一粒一粒を伝わってくるように精細かつパワフルに、我々の鑑賞体験を包みこんでくる。 いやあ、なんてすごい映画なんだろうと、自分自身に努めて言い聞かせるようにこの一大叙事詩を観終えた。 ……と、ぽつぽつとこのレビューを書き進めながら、奥歯に物が挟まったような言い回しに、我ながら気持ち悪くなってくる。 ううむ、なんだろうと?と、鑑賞から数日経った現時点で、もやもやと明文化されない感情が、実は今この瞬間も渦巻いている。 語弊を恐れずにあえて端的に言ってしまうと、「これは、面白いのか?」ということ。 いやいや、こんなに凄い映画、「面白い」に決まっている。と、すぐさま別の自分が否定してくるけれど、また次の瞬間では熱くなりきれない空虚さみたいなものが襲ってくる。そんな自己問答を何ターンも繰り返してみて、この感情の在り方自体は概ね正しいのだろうと思い至る。 物凄く壮大で美しいSF超大作であると同時に、空虚な“渇き”が映画世界全体を包み込む英雄譚。それが、ドゥニ・ヴィルヌーブが生み出した“DUNE”なのだと思う。 圧倒的なスペクタクルを見せつけながらも、英雄の成長譚+復讐劇という“王道”を、安直なカタルシスに結び付けない映画アーティストとしての矜持が、本作の根幹にはそびえ立っているように思えた。 そして、この実世界や、人の世は、一辺倒な想像や予測、予知なんてものがまかり通るほど優しくはできていないということを、寓話的な映画表現の中でぎょっとするほどのリアリティと共に突きつけてくる。 それは、映画史上において多くの先人たちが挑戦し、時に頓挫し、時に酷評を浴び、高い高いハードルとしてそびえ立っていた“DUNE”を、「ドゥニ・ヴィルヌーブの映画」として完成させてみたことの証明なのだろうと思える。 ドゥニ・ヴィルヌーブの「作品」として、本作は思惑通りであり、成功しているのだろうと思う。 ただし、それがそのまま世界を熱狂させるほどの「面白い映画」かというと、そうはならない。 それは本作で監督自身が描きつけた“王道”に対するアンチテーゼにそのまま通じる。 この世界も、映画表現も、ときに非情なほどにシンプルではない。 誰よりもヴィルヌーブ監督自身が、その事実を承知しているからこそ、本作はこのPART2で“終焉”を許さなかったのだろう。 この映画は、成功しているが、完成はしてない。“王道”を否定して、その上でたどり着くべき物語の終着点を監督をはじめとする製作陣は、明確なビジョンと共に「予知」していることは間違いない。 ならば、どのような結末が用意されているのか。映画ファンとしては、ただただ待ち続けるしかなかろう。[映画館(字幕)] 7点(2024-03-31 21:31:12)(良:1票) 《改行有》

10.  マーベルズ MCUのドラマシリーズを追えておらず、必然的にフェーズ4以降の映画作品も劇場へ二の足を踏むことが続いている。本作も、公開時に思案したものの、結局劇場鑑賞はスルーしてしまっていた。 フェーズ4から現在進行中のフェーズ5まで、映画作品はなんとか全作観てきているけれど、本作を鑑賞して、さすがにドラマシリーズの各作品をまったく観ていないことに限界を感じた。 特に冒頭の各シーンにおいては、ドラマの「ワンダヴィジョン」や「ミズ・マーベル」は最低限観ておかないと、正直“しんどいな”という印象は拭えない。 それも当然で、本作は「マーベルズ」というタイトルの通り、ブリー・ラーソンが演じるキャロル・ダンヴァースが主人公の「キャプテン・マーベル」の続編というよりは、モニカ・ランボー、“ミズ・マーベル”ことカマラ・カーンを含めた3人組の物語だったからだ。したがって、モニカ・ランボーやカマラ・カーンが登場する前述の各ドラマを観ていないと、とてもじゃないけれど“置いてけぼり”を食らってしまった。 MCUの娯楽映画として全く面白くなかったということはなく、随所に本作ならではのエンターテイメントは確実に存在していたし、ヒーロー映画としてアガる要素がある映画であったことは否定しない。ただやはり、ドラマシリーズとのクロスオーバー要素が大き過ぎることもあり、彼女たちの活躍に対して終始のめり込めない。 のめり込めない大きな要因はもう一つあって、“主人公たち”の中心であるキャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)にまつわる描くべきストーリーがおざなりになりすぎていたことだ。 “キャプテン・マーベル”自体が、フェーズ3の最終盤において突如描き出されたスーパーヒーローである。演じるブリー・ラーソンの想像以上のマッチングぶりと、「エンドゲーム」においてサノスすらも圧倒する無双ぶりによって、キャラクター的には短期間でその地位を確立した感があるけれど、前作「キャプテン・マーベル」では描ききれていない要素や真相が謎の部分も多々あった。 キャプテン・マーベルのキャラクターそのものに対しての深堀りや、彼女の出自の詳細がこの続編ではもう少しきちんと明確に描き出されるべきだったと思う。 そういったくだりがなく、いきなり“私たちはマーベルズよ”と言われても、ちょっと同調しづらかった。 実際本作のヴィランの“怨み”の発端は、キャプテン・マーベルによる過去の功罪によるものなのだから、その部分は本作内でもう少し丁寧に描くべきだったろう。 そして、さらに苦言を加えると、「エンドゲーム」におけるキャプテン・マーベルの無双感を経たあとでは、モブキャラ相手にドタバタと格闘を繰り広げるシーンも違和感を禁じ得なかった。本作のヴィランもそれほど圧倒的な強者というわけではないので、やはり鼻白んでしまったことは否めない。 ただその一方で、“ミズ・マーベル”ことカマラ・カーンのキャラクター性は抜群にユニークでキュートで娯楽性に溢れていたと思える。 キャプテン・マーベルのことを完全に“推し”目線で捉えて、「新人」ヒーローとして奮闘する姿は、終始観ていて楽しかった。そのさまは、「シビルウォー」で初登場した“スパイダーマン”を彷彿とさせた。 光を具現化して戦う彼女の能力とそのビジュアルも、良い意味でマンガ的で面白かった。何よりも演じるイアン・ヴェラーニによるザ・ハイティーンな風貌や言動が魅力的だったと。後追いになってしまうが、「ミズ・マーベル」はいの一番に観てみようと思う。 さて、“マルチバース”の裾野を四方八方に広げたフェーズ4を経て、フェーズ5ではいよいよあらゆる“次元”と“世界”が入り交じることは必至なようだ。(今年公開の「デッドプール&ウルヴァリン」によってその“タガ”は更に遠慮なく外れていくことだろう) “インフィニティ・サーガ”までの統合性とそれに伴うクオリティの安定性はもはや期待できないかもしれないけれど、可能な範囲でドラマも後追いしつつ楽しんでいこう。(Disney+を契約しているうちに……)[インターネット(字幕)] 6点(2024-02-25 10:39:35)《改行有》

11.  別れる決心 出会ってしまった男と女。 刑事と被疑者の二人が、惹かれ、癒やし、慈しみ、そして「崩壊」へと突き進む。 描き出されるストーリーを表面的に要約してしまえば、ありがちなメロドラマであり、古典的なサスペンスに思えるけれど、映画の中の人物たちの心象風景と、卓越したビジュアル表現が織りなす映像世界の情感が、パク・チャヌク監督によるありとあらゆる映画表現で見事に融合し、とてもとても豊潤で複雑な人間模様と世界観を構築している。 観終わった後に、本作がパク・チャヌク監督作であるということを知り、納得と驚愕が同時に生まれた。 全編通して繰り広げられる特異で挑戦的な映画表現は、監督が只者ではないことを雄弁に物語っていたけれど、この淡々とした語り口の映画が、「オールド・ボーイ」や「お嬢さん」等のフィルモグラフィーにおいて血みどろで烈しい映画世界を生み出してきたパク・チャヌクとは直結しづらかった。 主人公の刑事は敏腕で屈強だが血みどろの現場が“苦手”という設定や、これまでの作品と異なり過度なセックス描写を排するなど、これまでの作風とは一線を画する作品づくりからは、監督の自らの作風に対しての挑戦も感じる。 刑事と被疑者、遠くて近い関係性が、純愛を織りなす。 取り調べも、監視も、尾行も、殺人現場の検証も、刑事の男と被疑者の女が共に過ごす時間のすべてが、二人にとっては何にも代え難い逢瀬の一時に見えてくる。 (取り調べの最中、美味しい高級寿司を二人でもぐもぐ食べた後、テキパキと机の上を片付ける阿吽の呼吸で、会って間もない二人の人間的な相性の良さを表現するなど、何気ない描写の一つ一つがとにかく巧い) そこには当然ながら、職責や打算も存在していただろうけれど、事件を通じた逢瀬を重ねるに連れ、そんな思惑すらも相手を想う感情へと同化していく。 主人公の刑事チャン・ヘジュンは、元来殺人事件の被疑者に没入し、彼らを身近な人間と捉えて捜査を進めるタイプで、そんな彼がファム・ファタールのように現れる被疑者の女にのめり込んでしまうのも、必然だったのだろう。 一方の夫殺しの被疑者ソン・ソレは、或る事情で中国から逃れてきた不法移民で、夫からのDVと果たすべき本懐を秘め続ける中で、事件を起こし、ヘジュンと出逢う。 出自も社会的地位も全く異なる彼らは、出逢うべくして出逢い、非業な運命を共にしたようにも見える。 ただ、彼らのすべての言動や感情は、その運命を支配するものから俯瞰されているかのように映し出される。蟻が這う死体の眼球、骨壺の中の遺灰、スマートデバイスの画面……。 ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」の如く、凝視したり、監視したり、見つめたりする彼らの視線は、常に“何か”から見つめ返されている。 その深淵たる“何か”とは、神なるものかもしれないし、運命そのものかもしれないし、彼ら自身の深層心理かもしれないけれど、それはきっとすべての人間が時に感じる“視線”の正体なのだろうと思える。 そういった人間の本質的な業にも当てはまる或る種の哲学性を根底に敷き詰め、その営みの愚かさや滑稽さや愛おしさもすべてひっくるめて映画表現の中に詰め込んでみせたことが、本作の類まれな豊潤さに繋がっている。 休日の午後に字幕版で鑑賞して、とてもとても一言では言い表せない映画に対する感情に悶々としつつ、その日の深夜に吹替版で再鑑賞した。 無論まずは字幕版で鑑賞すべきだと思うが、本作の映画的物量の多大さは、初見で字幕を追いながらでは本作の本質を処理しきれていないことも否定できなかった。吹替版で鑑賞し直したことでよりすっきりと本作の情感が腑に落ちたことは間違いない。ただ、本当は、韓国語も中国語もある程度理解したうえで、オリジナルを鑑賞できることが理想的だろうと思う。 彼らが辿り着いた決別は、あまりにも切なく、あまりにも哀しいけれど、彼女の隣でのみ深く眠ることができた束の間は、二人にとって何にも代え難い時間だったのだろう。 その一瞬の微睡みのような逢瀬に心が締めつけられる。[インターネット(字幕)] 9点(2024-02-24 11:51:31)《改行有》

12.  かがみの孤城 《ネタバレ》 今年の4月から中学生に上がる長女が、学校の図書館で借りてきた原作小説を読んでいた。その翌週、たまたま地上波放送で放映されていたので、子どもたちと共に鑑賞。 “居場所”を見失った中学生たちが集い、各々の存在の意義を見出す物語。 映画の作品上では、その物語の発端や、事の真相が、少々ご都合主義に感じてしまったことは否めないけれど、登場する少年少女たちの悲痛な現実は、そのファンタジーを許容させていた。 ネタバレになるが、想像の世界を生み出すことしか叶わなかった一人の少女の願いが、6人の未来を救ったのだと捉えると、とても切なくもあるが、心を揺さぶられるには充分だった。 原作を読んだばかりの娘が、「小説のほうが面白かった」とぽつりと言った通り、辻村深月の小説は、当然ながら更に深い深い物語世界を構築していたのだろうと想像するに難くない。機会があれば是非小説も読んでみたいと思う。 その一方で、確実に残念だったポイントとしては、アニメ映画としてアニメーションのクオリティや創造性において、あまりに魅力が乏しかったことだ。 アニメーションそのものがもっと独創的で魅力的であれば、小説に対するストーリーテリング的な不備はもっと補えていただろうと思う。 全体的にキャラクターの作図のバランスが悪かったり、動きや、構図が稚拙に見えてしまったことは、これがアニメ映画である以上、致命的な欠陥だった言わざるを得ない。 多数の制作実績を誇る原恵一監督作品だけに、ことさらに残念なことだと思う。 監督の力量不足というよりは、アニメーターのリソース不足のようにも思える。 根本的なアニメづくりがもっとアメージングなものだったならば、それに付随してこの映画作品の価値は、飛躍的に増幅していただろうと思う。 (まあかと言って、宮崎駿が映画化していたならば、まったく原型を止めない作品世界になっていただろうけれど) ただ、558ページの長編小説をしっかり読んで、同じ年頃の主人公たちの物語に感動することができるようになった娘の成長は嬉しい。 中学生になって、これまで感じることはなかった辛さも、苦しさも、いろいろ渦巻くだろうけれど、一つ一つ踏みしめていってほしいものだ。[地上波(邦画)] 6点(2024-02-22 20:24:57)《改行有》

13.  哀れなるものたち 嗚呼、とんでもない映画だった。 ひと月ほど前に、映画館内に貼られた特大ポスターを目にした瞬間から「予感」はあった。 何か得体のしれないものが見られそうな予感。何か特別な映画体験が生まれそうな予感。 大写しにされた主演女優の、怒りとも、悲しみとも、憂いとも、感情が掴みきれないその眼差しが、そういう予感を生んでいた。 チラホラとアカデミー賞関連のノミネート情報は見聞きしつつも、本作の作品世界についてはほとんど情報を入れずに、公開日翌日の鑑賞に至った。 朝から原因不明の頭痛が続いていて、その日の鑑賞をぎりぎりまで逡巡したけれど、体調が万全でないことで、逆に映画世界に没入できるとも思い、赴いた。 正直、もっと楽観的にファンタジックな映画世界を想像していたものだから、モノクロームで映し出された序盤の展開から面食らってしまった。 ゴシックホラーを彷彿とさせる怪奇とグロテスクは、想定していた“ライン”を嘲笑うかのように超えていき、油断をすると一気に置いてけぼりを食らうところだった。 今思えば、この序盤のモノクローム展開の中で、惜しげもなくトップレスを披露する主演女優エマ・ストーンに対して、「さすがアカデミー賞女優、体を張っているな」などと上から目線の称賛を送っていた自分は、あまりも幼稚で愚かだったと思う……。 死んだ母親の体に脳を埋め込まれて「生」を得た主人公ベラは、狭く、色の無い世界を抜け出して、人生という冒険に踏み出す。そして、「性」の目覚めとともに、その世界は過剰なまでの彩色と造形で彩られていく。 世界は綺羅びやかではあるけれど、その本質は決して美しくない。それは、「良識ある社会」のルールやあり方が、まったくもって美しくないからに他ならない。 綺羅びやかに彩られた醜い世界、そしてそこに巣食う“哀れなるものたち” それはまさしく、呪いたくなるくらいにおぞましくて、哀しいこの現実世界と人間たちの本質だろう。 けれども、何よりも自分自身の“成長”に対して純真無垢で迷いのないベラは、それらすべてを受け入れ、自分の価値観に昇華していく。 タブーとされる行為も発言も、性別や職業、生まれた環境に対するレッテルも、希望も絶望も、薄っぺらな「良識」を盾にして拒否することなく、先ず全身で受け入れ、自分自身の「言葉」を紡いでいく。 主人公ベラのキャラクター造形は、すべてにおいて奇々怪々だけれど、その生き様は極めて“フェア”であり、昨今の耳ざわりの良さだけで乱用されているものとは一線を画す真の意味での“ジェンダーレス”を象徴する存在だった。 怪奇とグロ、ありとあらゆる禁忌が入り交じる本作の混沌とした映画世界が、ベラの達観した眼差しと共に、極めてフラットで高尚な地点へ着地していることが、そのことを雄弁に物語っていると思えた。 すべてを曝け出して、人間の本質をその身一つで体現してみせたエマ・ストーンは、授賞式を前にして二度目のオスカーに相応しいと確信した。 久しぶりに“緑色の超人”以外のキャラクターで卓越した演技を見せたマーク・ラファロも流石。プレイボーイの放蕩者を、その凋落ぶりも含めて見事に演じきっていたと思う。 古き父性の象徴であり、“怪物”の生みの親として、作中もっとも破滅的な人生観を披露するマッド・ドクターを演じたウィレム・デフォーの存在感も素晴らしかった。 時に「4mm」という超超広角レンズで写し取られた映像世界は、非現実的でありながら、この世界のすべてを文字通り広い視野で余すことなく映し出しているようでもあり、類まれな没入感を得られる。 その映画世界のすべてをクリエイトしたヨルゴス・ランティモス監督の圧倒的な世界観には、終始驚愕だった。 ふと“ジャケ買い”したアルバムが、想定外に強烈なパンクで、問答無用に脳味噌をかき混ぜられ、ほじくり返された感じ。(いや、本当に文字通りの映画なのだが) 奇想天外で、際限なくおぞましい映画世界ではあったが、不思議なくらいに拒絶感はなく、愛さずにはいられない。そして、これがこの世界の「理」だと言われてしまえば、確かにそうだと納得せざる得ない。 エンドロールを見送りながら、様々な感情と感覚が入り混じり、とてもじゃないが脳と心の整理がつかなかったけれど、朝から続いていたはずの頭痛は、きれいさっぱり消え去っていた。[映画館(字幕)] 10点(2024-02-03 10:03:25)《改行有》

14.  アクアマン/失われた王国 前作「アクアマン」は、アメコミヒーロー映画史上においても屈指の傑作であり、最高の娯楽映画だった。MCU隆盛の最中にあって、DCEU(DCエクステンデット・ユニバース)の“反撃”として、「ワンダーウーマン」に続く強烈な一撃だった。 が、残念ながらDCEUは結果的には方向性が定まらず、実質的には本作が同ユニバースとしては最終作となってしまうようだ。 確かに、MCUもとい“アベンジャーズ”の強固な結束力と比較すると、“ジャスティス・リーグ”の面々をはじめとするDCEUのヒーローたちは、個性的過ぎてまとまりに欠けていたことは否めない。ただ、超個性派集団であったことが、時に独創的で娯楽性が溢れ出る作品を生み出していたことも事実であり、彼らの活躍がもう観られないのは、やはり悲しい。 そして、当の本作も、DCEUという沈みゆく船の最終作からなのか、一作目と比べると様々な要素でレベルが低下してしまっていることは否定できなかった。 個人的に最も期待外れだったのは、海中シーンが前作よりも大幅に減っているように感じたこと。前作において白眉だったのは、やはり何と言ってもイマジネーション溢れる海底世界のビジュアルと、そこで繰り広げられる文字通り縦横無尽のアクションシーンだった。ジェームズ・ワン監督が描き出した豪胆かつ繊細な海中アクションは、IMAX3Dとの相性も極めて高く、極上の映画鑑賞体験をもたらせてくれた。 なのに本作では、その肝心の海中シーンが少なく、主要なアクションシーンの殆どが“陸上”で繰り広げられる。前作ではヴィランだった弟オームとのバディシーンを描くに当たっても、同じ海底人同士として海中アクションの妙をもっと追求すべきだったろうと思うし、“血”を受け継いだ赤ん坊の息子にも海中で何かしらの力を発揮させる様を見せるべきだったろう(クジラの大群を呼び寄せるのは息子でも良かったのでは?) 勿論、ストーリー的にも、完全に「マイティー・ソー」の二番煎じだとか、「ブラック・パンサー」の流用と感じる展開は随所に見受けられるし、「失われた王国」というサブタイトルや設定自体が、数多のヒーロー映画やファンタジー映画で使い古された要素だとは思う。 でもそれらは、相互に“真似”をしあいながらヒーローキャラクターや世界観の創造を競ってきたDCコミックとマーベルコミックの歴史を振り返れば、ある意味必然的なことだとも思うし、ストーリーがありきたりであっても面白いヒーロー映画は沢山ある。ことヒーロー映画においては、「王道」と「ベタ」は紙一重だろう。 本作においても、ジェイソン・モモア演じるアクアマンのキャラクター性や魅力は健在だったと思う。パトリック・ウィルソン演じる弟オームとの絡みも、まんま“ソーとロキ”ではあったけれど楽しかったので良いと思う。 結局は、前作と比較してケレン味のあるアクションシーンを再構築しきれなかったことが致命的な敗因だった。実情はよくわからないけれど、製作費不足、リソース不足は明らかだろう。 兎にも角にも、これでDCEUは終焉し、ジェームズ・ガン主導による新たなユニバースへとリブートされる。その中に、ジェイソン・モモアのアクアマンや、ガル・ガドットのワンダーウーマンが、再登場しないのはあまりにも残念すぎる。どうにかジェームズ・ガンによる「救済」を期待したい。[映画館(字幕)] 5点(2024-01-20 08:35:34)《改行有》

15.  クレイジークルーズ 坂元裕二脚本によるNetflix作品ということで、軽妙なロマンス&ミステリーのインフォメーションを見せつつも、きっと一筋縄ではいかないストーリーテリングを見せてくれるのだろうと大いに期待した。 けれど、ちょっと呆気にとられるくらいに、想像を大いに下回る“浅い”作品だったことは否めない。きっぱりと言ってしまうと、愚にもつかない作品だったと思う。 今年は、是枝裕和監督の「怪物」の記憶も新しく、個人的には恋愛映画「花束みたいな恋をした」もようやく鑑賞して、坂元裕二という脚本家の懐の深さと、人間の営みの本質に迫る巧みなストーリーテリングに感服したところだった。 が、しかし、本作は本当に同一人物による脚本なのかとスタッフロールを訝しく見てしまうくらいに、内容が悪い意味で軽薄で、展開も適当でまったくもって深みが無かった。 冒頭から終盤至るまで、まさに取ってつけたようなロマンスとミステリが乱雑に並び立てられ、それが一発逆転のストーリー的な“浮上”を見せぬまま“沈没”してしまった印象。 主演の二人をはじめ、豪華なキャスト陣がそれぞれ面白みがありそうなキャラクターを演じているのだが、その登場人物たちの造形が総じて上手くなく、特別な愛着も湧かなければ、嫌悪感も生まれず、中途半端な言動に終止してしまっていることが、本作の魅力の無さに直結していると思う。 加えてストーリー展開としても、目新しいユニークさや発想があるわけでもなく、極めてベタな展開がただ冗長に繰り広げられるだけに思え、楽しむことができなかった。 売れっ子脚本家として多忙なのだろうけれど、こんないい加減な仕事をしていては、先は危ういなと感じてしまう。脚本家としての地位が高まれば高まるほど、客観的な意見やダメ出しを得られにくくなることは明白なので、今一度自身の創作の本質を見つめ直してほしいもの。 愚にもつかない作品だったことは明らかだけれど、ただ一点、宮崎あおいだけはひたすらに可愛かった。 この女優が10代の頃から出演作品を観続けているが、アラフォーに突入して、その風貌の愛らしさは変わらず、明暗が入り交じる人間的な芯の強さを表す表現力がより豊かになっている。 近年あまり出演作品は多くないので、2000年代のようにもっと映画の中の宮崎あおいを観たい。[インターネット(邦画)] 4点(2023-12-28 22:00:23)《改行有》

16.  ウィッシュ 「普通」に面白いファンタジー映画だが、ディズニー映画における「普通」は、やはりどうしても“不満足”に寄ってしまうことは否めない。 「100周年記念作品」ということで、新たな時代の節目を迎えた巨大帝国ディズニーの新しい挑戦を感じたかったけれど、ベクトルはむしろ逆方向に向けられており、時にあからさま過ぎるほどに懐古主義的な作品だったなと思う。 特別な才能を持っているわけではないヒロインが、魔法を操る国王の悪政に反旗を翻すというプロット自体は、極めてオーソドックスではあるが、100年という歴史を踏まえたディズニーの最新作として相応しかったと思う。 人々の“願い”を取り戻すという物語のテーマや、歌い踊る動物たちの描写、ヴィランとして立ち回る国王の存在感など、ディズニー映画の王道を踏まえたストーリーテリングそのものは、過去の名作のあらゆる要素を彷彿とさせ、ディズニーという文脈の豊潤さを醸し出していたと言える。 しかし、そこから紡ぎ出されるストーリー上の“発見”や、物語の“終着点”までもが、あまりにもこの100年の間に使い古されたものであり、新作映画としてエキサイティングだとは到底言い難かった。 ヒロインの言動の起因となる要素や、彼女に与えられた力の意味、その結果としてもたらされる人々への影響が、なんだかとても曖昧で都合よく見えてしまったことが、本作全体の希薄さに繋がっているのだと思う。 なぜ彼女の願いが“星”に届いたのか、どうして魔法を使えない彼女の歌声が人々の力を引き出せたのか、そしてこの国の人々が得た功罪の本質は何だったのか。 無論それらのことを物語上で引き出すことは極めて難しいことだけれど、これが100年という長き歴史を重ねたディズニー映画の最新作というのであれば、そういう困難なテーマこそをさらりと描き出してほしかった。 ヒロインの父親の生き様や死の真相だったり、祖父が“願い”を取り戻すことでもたらせる影響や、ヒロインとの友人たちがそれぞれ何かしらの“ハンデ”を負っていることに対するストーリー的な意図など、もっと物語を深掘りし得る要素はいくらでも存在していたと思う。 また、本作の魔法使いの国王は、闇落ちした悪役として描かれているが、彼には彼なりの信念とその発端となるトラウマが確実に存在していたわけで、それらをどこかないがしろにしたまま、ヒロインの歌声で倒して、閉じ込めて終わりというのは、少々乱暴すぎると思えた。 信念ということのみを捉えれば、ヒロインよりも国王のそれの方がよっぽど強く確固たるものだったと思えるし、ここぞとばかりに手のひら返しで夫を裏切る王妃の言動にも腑に落ちない思いが募った。 吹替版で観たのだが、福山雅治が演じる歌ウマ国王が最終的には少し不憫に思えてしまった。本作と同じ制作チームが生み出した「アナと雪の女王」も一作目で表現しきれていなかった要素を、PART2で深く描きこんだ経緯があるので、もし続編が作られたりするのであれば、ぜひ諸々の不満要素を解消してほしいものだ。 「100周年」という記念行事的なプロジェクトの意向が強く出過ぎており、単体作品としてのクオリティを追求しきれていないという印象を終始感じた。 ……であるにも関わらず、100年間のスターたちが勢ぞろいする本編前のショートムービーを見せるだけで、「あ、やっぱり“Disney+”契約したい!」とアラフォー男に強く思わせるこの大帝国の絶対的圧力はやはり恐ろしい。[映画館(吹替)] 6点(2023-12-23 17:21:43)《改行有》

17.  アバター:ウェイ・オブ・ウォーター 映画を観たときの、面白い、面白くないの判別は、当然のことながら鑑賞者一人ひとりの「価値観」に委ねられることが普通だろう。 どんな映画であっても、その是非を判別し支配するのは、個々の鑑賞者だ。 もちろん、本作も一映画作品としてその立ち位置は変わらないはずだけれど、私は鑑賞中、その立ち位置が逆転しているような感覚を覚えた。 圧倒的な映画世界が、個々人の小さな価値観や人生観なんて一旦意識の範疇から弾き飛ばし、文字通りのその世界観に「支配」されている感覚を覚えた。 そうして映画世界の中を巡り巡って、最終的には、彼方に追いやられていたはずの鑑賞者一人ひとりの精神世界にたどり着く。 そういう「映画体験」を、ジェームズ・キャメロンは、また私たちにもたらしてくれていると思えた。 しかし、映画作品としての評価は賛否両論で、酷評が多いことも十分理解できる。 本作鑑賞後に、改めて13年前の前作を再鑑賞してみたけれど、続編である本作の描き出したストーリー性は希薄と言わざるを得ない。 敢えて意図的なことだとは思うが、ストーリー展開は前作の焼き直し的な要素が多く、親子関係や環境問題(捕鯨問題)を描いた全体のテーマ性もありきたりであり、新鮮さや、新たな価値観の発見はほぼない。 前作においては、主人公ジェイク・サリーが、身体的にも精神的にも不遇の状態の中で、“アバター”を介してまさしく「再誕」していく様が、ストーリーの核心であり、ドラマ性を生んでいた。 だがしかし、本作のジェイクは、複層的な意味ですっかりナヴィ族の「顔」となっており、彼が元地球人であることの葛藤や苦悩がまったくと言っていいほど描かれていない。それが主人公のキャラクター的にも希薄さに繋がっていたと思う。 その一方で、新登場するジェイクの4人子どもたちのキャラクター造形には、それぞれドラマ性があり、魅力的で、今後の可能性も期待できた。 生物の“種”を超えたハーフであることや、出生が明らかではないという“特異性”を持った彼らの存在性は、多様性極まる現代社会にも通じる要素だったと思う。 同世代の地球人“スパイダー”も含め、彼らの今後の生き様が、次作以降の本シリーズの価値を決定づけるのではないかと思える。 というわけで、傑作とは言い難い脆さも多い超大作ではあるが、Web配信も入り乱れる昨今の映画産業の中において、本作ほど映画館での鑑賞が「必須」な作品もなく、少なくとも、192分の上映時間の間、“異世界”にトリップできることは間違いない。 そして、ジェームズ・キャメロンが追求し続けるその映画表現の可能性と価値は、やはり揺るぎないものだと思う。[映画館(字幕)] 8点(2023-12-03 09:32:05)《改行有》

18.  ザ・キラー 《ネタバレ》 何やら高尚な“殺し屋哲学”を主人公は自己暗示のように終始唱え続ける。が、やることなすことちっとも予定通りにいかない一流(?)アサシンの憂鬱と激昂が、上質な映画世界の中で描かれる。 デヴィッド・フィンチャーによる秀麗な映像美と緊迫感に満ちた映画世界の空気感、そして、マイケル・ファスベンダーの氷のようにひりついた殺し屋造形によって、ストーリーは冒頭から極めてスリリングに展開していく。 ソリッドでバイオレントな殺し屋映画であることを予告編の段階では大いに期待させ、鑑賞中もその期待に即した感覚は終始持続される。 けれど、そんな作品の雰囲気そのものが、明確な“ミスリード”だったことに段々と気付かされていく。 本作の本当の“狙い”と“正体”は、実は「完璧」とは程遠い人間の本質的な滑稽さであり、それを終始ドライで大真面目なファスベンダーの殺し屋像を通じてあぶり出した“コメディ”だったのだと思う。 想像していたタイプの映画ではなかったけれど、異質でユニークな新しい殺し屋映画であり、想定外の感情も含めて満足度は高い。 冒頭の暗殺シーンが、実はこの映画の行く末と、主人公の殺し屋の本質を物語っていた。 何日も前から陣取り、寒さや居心地の悪さに耐え、効率よくタンパク質が取れるとかなんとか自身に言い訳しながら安いハンバーガー(バンズ抜き)を頬張り、音楽を聞いて集中力を切らさないように努め、睡眠時間を削りながらも緊張感を高め、平常心を保つように常に自分の心拍数を確認し、念入りに慎重に待機し続け、ようやく現れたターゲットを見事に撃ち損じることから始まる衝撃的な低落ぶり。 その風貌や意味深なモノローグから、我々観客はこの男が完全無欠な一流の殺し屋であることを信じて疑わなかったけれど、冒頭いきなりの「任務失敗」に端を発し、文字通り滑り落ちるように、この男をイメージ崩壊へと押し流していく。 「一流」だと信じて疑わなかった彼へのイメージが、徐々に確実に崩れていく様が、この手の殺し屋映画としてはとてもユニークで独創的だった。 一つの大失敗と共に一気に窮地に立たされ、ほぼ“逆ギレ”のような復讐劇に展開していくストーリーテリングも、常軌を逸していて面白い。 冒頭こそ慎重に丁寧に事を進めていた主人公が、段々と雑にヘロヘロになりながら、半ばヤケクソのように“殺し”を遂行していく様に、人間の脆さや不完全さが表れていたと思う。 もっと分かりやすくコメディ要素を膨らませ、名もなき殺し屋のドタバタ劇を繰り広げることもできたであろう。 でもそうはせずに、あくまでも表面的にはルックは、デヴィッド・フィンチャー監督のクリエイティビティと、マイケル・ファスベンダーの不穏な存在感と演技力によって、ハイクオリティなハードボイルドとハードなバイオレンスアクションを貫き通すことで、逆に隠された可笑しみがじわじわと滲み出てくるようだった。 近年、殺し屋業界の内幕モノはトレンドのように量産し続けられているけれど、本作のこの独特な味わいは、それらのどれとも異なり、クセが強く、ちょっと忘れ難い。 マイケル・ファスベンダー演じる名もなき殺し屋には、まだまだ秘められた過去と、噛みごたえがありそうなので、続編も期待したい。[インターネット(字幕)] 8点(2023-12-03 00:24:31)(良:1票) 《改行有》

19.  スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース アニメーション作品であることの必然性と可能性を、文字通り「無限」に広げて、多元宇宙のありとあらゆるスパイディたちが織りなすマルチバースの世界を自由闊達に表現してみせた“スパイダーバース”シリーズの第二弾。 他のスパイダーマン映画と同じく、“続編”であることの優位性を活かしたアバンタイトルのシークエンスは、情報量が極めて多く、42歳の中年男性の脳内は早々にメモリ切れを起こしそうになり、情報処理能力が鈍化していたことは否めない。 前作が生み出した「革新」を更に突き詰め、その映画的な力量がパワーアップしていたことは間違いない。 めくるめくアイデアとイマジネーションの“渦”は、エンターテインメントを超えて、もはや芸術的ですらあった。 スパイダーマンとなり、大いなる力と大いなる責任を与えられ、同時に多大な喪失を経た10代の主人公マイルズ・モラレスは、多元宇宙のスパイディたちと共闘し、「一人ではない」という勇気を得る一方で、孤独を深めている。 そのキャラクター描写は、極めて特異な境遇でありつつも、多くのハイティーンの若者が抱える普遍的で“青臭い”心象を表現しており、とても興味深く、自分自身もそういう時期を経てきたことを思うと感慨深くもある。 マルチバースの更に深淵に引き込まれた主人公は、そこですべてのスパイダーマンに課された“宿命”を突きつけられる。 だがしかし、若きスパイダーマンは、“青臭い”からこそ、それに対して全力で抗い、多元宇宙を股にかけて逃走する。 それは、この現実世界の“大人”たちが知らず知らずのうちに手放し、許容し、諦観してしまっている「可能性」に対するアンチテーゼのようでもあった。 普遍的でありながらもとても深いテーマを物語の核心に孕んだエキサイティングな続編だったと感じる一方で、やはり作劇においてありとあらゆるものを詰め込みすぎている印象は強く残った。 それが自分自身の情報処理能力の低さ故と言われれば反論できないけれど、もう少しスマートにストーリー展開の“交通整理”をすることは可能だったのではないかとは思う。 思いついたアイデアやイマジネーションのすべてをビジュアル表現せずとも、観客である人間は空白を想像力で補えるわけで、その想像の余地を残すことが、もっと広い世界を創造する要素だとも思う。 そういう意味で、やはり本作は溢れ出るクリエイティビティが、ストーリー展開にそのまま呼応するように氾濫気味で、うまく収拾できていない。 でも、本作が次作最終章へのブリッジであるということを踏まえると、その氾濫に伴う混沌こそが布石なのかもなとも思える。 つまるところ、本作の正当な評価は、次作での物語の結実次第なのだろう。 果たして主人公マイルズ・モラレスは、逃走先の“世界”で、別の“可能性”の自分自身と衝撃的な対面を迎え、本作は終幕する。 とても宙ぶらりんな結末だけれど、別次元ではスパイダーグウェンが、“バンド仲間”を集結させて、我々の高揚感を煽る。 「可能性」の大渦に自分自身の思考がフリーズしないように、せっせとメモリ増設して次作を待つとしよう。[インターネット(字幕)] 7点(2023-12-03 00:24:07)《改行有》

20.  FALL/フォール 「高所」という原始的恐怖心にひたすらにフォーカスして、極めてスリリングなスリラーアクションとして仕上げたこのジャンル映画の“立ち位置”は正しい。もし劇場で本作を観られたならば、その恐怖心は最大限に増幅されていたことだろう。 まず舞台となる600メートル超の鉄塔(テレビ塔)の存在感が良い。 荒野の真ん中でひょろりと伸びるその風貌は、あまりにも現実離れしていて、いい意味で馬鹿馬鹿しくもあり、それでいて恐怖の象徴として明確な説得力も孕んでいた。 その常軌を逸した鉄塔のビジュアルと、そこで繰り広げられるサバイバルを、低予算ながらもとても卓越した画作りと編集で映し出したクリエイティブは素晴らしかったと思う。 テンポよく、潔く、メイン舞台に主人公たちを運び、高所でのサバイバルを描き出した展開自体は的確だったと思う。 冒頭部分での細かい描写が、しっかりと後半での伏線として張り巡らされ、下手をすればアイデア一発で内容の乏しい展開になってしまいそうな題材を、終始緊張感を持続させたスリラーへと昇華させていたことは間違いない。 「恐怖映画」として、狙い通りの恐怖を具現化し、限られた予算で一定レベル以上の娯楽を生み出している本作は、褒められて然るべきだろう。 ただ、個人的には冒頭部分からどうしても主人公たちの心情に共感できない要素があり、それが結局最後まで雑音となってしまい、“手放し”で高評価というわけにはいかなかった。 それは、登場自分たちの危機管理の薄さというか、危険回避能力のある種病的な欠如に他ならない。 オープニングの断崖絶壁でのフリークライミングシーンからそう。主人公はそこで夫を亡くしてしまい、それがこのドラマの起因となるわけだが、あのような危険行為にまったくもって魅力も共感も感じることができない者としては、そりゃあそんなことしてたらいつか死ぬだろうよと、鼻白むことしかできなかった。 そのくせ、いざその危険行為によって人を亡くしたら、1年以上も他者を遮断し自暴自棄に落ち込むとうい主人公のあまりにも覚悟の無い心情にも違和感を覚えた。 詰まる所、主人公たちの身体や、精神構造に、あのように危険極まりないクライミングを繰り広げる人物像としての説得力があまりにも欠如していたように思える。 あれほどまで危険なクライミング行為を自らするのであれば、身体的にはもっと鍛え上げれていて然るべきだろうし、自他を含めた人間の「死」そのものに対してももっと達観した思考があるべきだったろうと思う。 1年以上も酒に溺れていたくせに、何の準備もなく親友の誘いに乗って地上600メートルの鉄塔に挑むという言動は、完全に主人公の「自殺願望」の表れだろうと思ったし、そんな無謀な誘いをする親友も何かしらの「思惑」があるに違いないと、訝しくストーリーを追ってしまった。それくらい、彼らの言動には常軌を逸した違和感と不自然さを感じた。 例えば、デヴィッド・フィンチャー監督の「ゲーム」のようなどんでん返し的な“オチ”を、どこかで期待していたのかもしれない。 しかし、親友はある秘密を抱えてはいたが、主人公にとってはかけがえのない普通にいいヤツ。最後には疎遠だった父との絆を取り戻し、地上に生還するという展開は、安直という印象を通り越して、「何だコイツら」と、やはり最後まで理解と共感が及ばなかった。 シンプルではあるが非常にクオリティの高い「恐怖」を創造できていただけに、取ってつけたようなドラマ性や、違和感たっぷりの人間描写が、必要以上に大きな不協和音として鳴り響いてしまった。[インターネット(字幕)] 5点(2023-12-03 00:23:28)《改行有》

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