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【製作年 : 1990年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  風の歌が聴きたい 《ネタバレ》 大沼公園をデートする長廻しシーンをはじめ、中江有里と雨宮良の二人は手話を完全に自分のものとし、 モデルその人になりきるようにナチュラルにコミュニケーションをとっている。 その他の出演者達も手話の身振りを器用にこなしており、そうした俳優の努力だけとっても感心させる。 が、そのようなテクニック以上に彼女の身振りと表情の豊かな表現力に感動させられる。 一般的に健常者がやれば過剰と見做されるその身体表現には、相手に心を伝えようとする切実な意志の力が漲っている。 サイレント映画の俳優が全身で喜びや悲しみを表すあの表現力。まだ喋れない幼子のあの表現力を思わずにいられない。 髪型も幾度か変え、学生時代から出産までを演じる中江はその容貌だけでなく、雨宮との交際の中で変化していく感情を 演じきって、魅力的だ。[DVD(邦画)] 8点(2015-10-27 17:18:04)《改行有》

2.  フラワーズ・オブ・シャンハイ 《ネタバレ》 約十数人が集って談笑している宴席。テーブル上のランプと共にその反射を受けて食器類も艶やかに光を放っている。 そのカメラ位置でフレーム内に収まるのは四~五人であり、後景を動く女性たちの動きや話し手の移り変わりに応じてカメラは左に右にと揺蕩う。 その会食シーンでは脚本もなく実際に俳優に酒を飲ませながら撮ったというから、即興の芝居に合わせての臨機応変のカメラワークでもあろう。 その動きは緩やかで、発話者が必ずしも画面内にあるとは限らない。そこで画面には(フレーム外への)遠心的な力が呼び込まれる。 いわゆる、静的・耽美的・審美的な映像を狙うなら、もう一段カメラを引いてフィックスで撮ればよろしいが、 それは単に絵画的な求心性へと向かうだろう。 だから剣戟と屋外ロケーションと風の主題を持つ『黒衣の刺客』が動的で、こちらが静的な映像主義だとは決して云えまい。 舞台を屋内に限定して外光と風を封印し、椅子とテーブルで俳優の動きを制限し、映画のショットを四十弱に制限する。 その自ら課した制約は『百年恋歌』第二話ではサイレントにまで達し、『黒衣の刺客』では画面を薄絹で幾重にも遮りもする。 その不自由の中から、世界の深まり・拡がりが見えてくる。[DVD(字幕)] 8点(2015-10-13 23:54:19)《改行有》

3.  継承盃 《ネタバレ》 うあ!レビュー少ない。 地味な展開になるかと思いきや、 いきなり冒頭から馬を駆っての大活劇を披露してくれるところが嬉しい。 馬から飛び降り、ローカル線のホームを駆け渡り、発車寸前の列車に乗り込む アクションの長回しを軽やかにこなす真田広之の惚れ惚れする動き。 その軽快でコミカルな身体動作は、ラストの爽快なジャンプに至るまで 全編にわたって映画を弾ませる。 「書き上げ」を巡って緒形拳、古手川祐子、真田の三者がホテルの部屋で 繰り広げる痴話喧嘩の超ロングテイクも縦構図の奥行きを駆使して 彼らの微妙な心情変化をなかなかに見せる。 クライマックスの儀式も、長いショットで緒方の貫禄の所作を存分に見せつける。 この題材でこれだけ躍動的な映画にしているのは大健闘と云うべきだ。 [映画館(邦画)] 7点(2014-12-14 23:52:36)《改行有》

4.  オーソン・ウェルズ/イッツ・オール・トゥルー 第一話『ボニート』、第二話『カーニバル』は断片のみだが、 羊の群れや人々を小さく捉えた教会の鐘楼からの俯瞰ショットや 子牛と戯れる少年の表情が瑞々しい。 サンバに興じる群衆の熱狂が力強い。 そして主体となる第三話『4人のいかだ乗り』。 材木運びから、魚籠つくり、カンナ掛けと 、筏作りのプロセスが丹念なショット の積み重ねによって描写される。 RKOの制作中止決定、予算不足によって白黒35mmフィルム撮りであり、 肝心な航海シーンもわずかだが、画像はシャープで鮮やかだ。 幾多の筏が水面を滑るように出帆するシーンも躍動感は満点、海は眩しく輝いている。 カメラに撮されるのは初めてだろう浜辺の女性たちの笑顔も初々しい。 結婚・事故・葬儀・船出のドラマが現地の人々によって演じられるのだが、 台詞は一切なく佇まいと表情と身振り、構図と陰影、若干の効果音と音楽によって 紡がれていく。 それらの映像による語りがことごとく素晴らしい。 とりわけ人々のクロースアップは、芝居を超えて味わい深い。 ウェルズが彼の地と人々とに如何に接し、密な関係作りをしたかの証左である。 ラストは撮影初期に撮られた『カーニバル』のカラー映像だ。 現地ロケ及びセット再現によって撮られたサンバの熱狂は、 色彩の鮮やかさと人々の陽気な笑顔が相乗し、ひたすら美しい。 [DVD(字幕なし「原語」)] 9点(2014-09-07 23:51:17)《改行有》

5.  エドワード・ヤンの恋愛時代 《ネタバレ》 まず装置があってシーンが創り出されたのか。あるいはその逆か。 いずれにしても、このエレベーターの鮮やかな用法には唸るしかない。 章の切り替え時に入る軽やかなエレベーターの到着音なども含めて、 その装置が映画に頻繁に登場するのには途中で難なく気づく。 映画の中盤、オフィスのエレベーターでヒロインのチェン・シャンチーと ワン・ウェイミンとが決裂するロングテイク。 これと対になる形で見事にラストのショットを決めてくるのだから、楊徳昌もまた ルビッチらと並んで『ドア』の映画作家と呼んでもいい。 構造物によって、人物を画面から一旦消し、そしてまた現れさせること。 それを長回しで撮ることで、様々な意味での奥行きと実存の感覚が生まれる。 溝口健二の襖のように。 本作のいくつかの場所でこれをみせる楊徳昌もまた一流であるということだ。 ラストの再開は、その極めつけと云える。 ヒロインの笑顔が現れた瞬間、扉の背後に遮られて見えなかった彼女の翻意の姿が 間接的なだけにより強く迫ってくる。 ほとんどシルエットに近い、表情の判然としない半逆光のロングショットの芝居の数々。 その絶妙な光の感覚もまた素晴らしい。 大っぴらに見せないこと、観客に想像させることで、逆にドラマに、キャラクターにと 引き込んでいく。 そこには観客に対する信頼がある。 [ビデオ(字幕)] 10点(2014-02-06 23:23:26)《改行有》

6.  旅するパオジャンフー 台湾の旅芸人:パオジャンフーの生活を追うドキュメンタリーであると同時に、 その職業柄ゆえに、本作は一種のロード・ムービーでもある。 予算と撮影期間は限られているようで、本来なら望ましい長期密着取材はままならない。 不幸な生い立ちの娘へのインタビューでは、やはり「話したくない」という 答えも返ってくる。他者には語れない過去の重さが、彼女の表情をふと翳らせる。 柳町監督の談話では家族へのインタビューは同時通訳で行ったらしいが、 それも彼らとの距離を出来る限り縮める関係つくりの工夫なのだろう。 日本語と台湾語で交わされるインタビューのスムーズな間が、なるほど面白い。 毒蛇を相手にする危険な芸の稽古の最中に、あえて間近に寄り添って 取材している柳町監督と田村キャメラマンも楽ではないだろう。 あるいは夫婦や恋人同士など複数の相手に語らせることが、 彼らをリラックスさせてもいるはずだ。 そうした工夫あっての、生き生きとした表情の数々だろう。 すぐにやきもちを焼いて他愛無い痴話喧嘩をする恋人たちのやり取りの微笑ましさ。 海辺で寛ぐパオジャンフー一家のロングショット。 その開放感が印象的だ。 [映画館(邦画)] 8点(2013-03-02 01:27:05)《改行有》

7.  ガメラ3 邪神<イリス>覚醒 《ネタバレ》 赤道付近の密林から、京都駅構内、そして生命体内奥へと舞台を狭めていくように、 物語においても画面においても、拡がりよりも深さと垂直性が志向されている。 人間が怪獣を見上げる視点。その仰角もシリーズ中で最も大きく、 ほとんど真上を見るようなショットの多用によってスケール感が出されている。 渋谷のシークエンスでの、デフォルメ造型されたガメラの巨大な足が キャメラの眼前に迫るショットのパースなどは絶品だ 。 ミニチュアセットでは貧相になりかねない「火炎」の合成への 果敢な挑戦と成功にも拍手したい。 炎や破片、逆巻く細かな雨滴のスペクタクルも圧倒的だ。 特撮映画は、記憶に残る物語など無くとも、 強烈に印象に残るショットさえあれば十分に勝ちと云って良い。 ラストの炎に包まれる京都の超ロングショットも、 まるで『関の彌太っぺ』のように感動的だ。 [映画館(邦画)] 8点(2012-11-05 22:13:03)《改行有》

8.  ナースコール まず病棟シーンでは、医師役:江守徹と大鶴義丹が足の手術処置を実演している。 今度は、ストレッチャーを押す薬師丸ひろ子の長い移動ショット。そこからさらに、彼女らが採血・点滴・清拭・バイタルチェック等々をベテランの身のこなしで遂行していく様を点描していく。 尿瓶の洗浄や、患者の洗髪といった地味な労働のシーンも薬師丸ら役者自らがしっかり実演している。 ナース役:薬師丸や松下由樹は相当に実務と動作を研究し、演技訓練したはずだ。 実演自体が素晴らしいのではなく、プロフェッショナルの合理的で無駄のない動作の流れと彼女らの真剣な横顔がそこにあるから、その労働のショットはアクションの画面として美しい。 長崎監督はナースステーションのシーンにおいても、ロングショットを駆使して後景で立ち働くナース役一人ひとりの労働にまで目を注ぐ。 飲食シーンを適宜取り入れ、彼女らの人間臭さを描出することも忘れない。 これら敬意のショットの丹念な積み重ねがあってこそ、ラストのファンタジックなキャンドルサービスはドラマの生真面目さを越えて輝きを増す。 キャンドルの光の中、薬師丸の振り返るショットが崇高さを湛えてこの上なく美しい。 [映画館(邦画)] 8点(2011-10-10 21:10:31)《改行有》

9.  ナージャの村 河辺で戯れる少女たちが水面に作る波紋。昆虫たちの気配の充満する草むら。種まきから収穫までの農作業。そして、人間たちと共生する牛、豚、山羊、馬、蜂、鶏の姿。 写真家:本橋成一の撮る『ナージャの村』は、どこか静的で審美的な「映像美」中心に陥りそうな危うさを孕みながらも、その風景の中に生命の動態と時間性を呼び込んで固定化を回避している。 阿賀野川の生活者たちを魅力的に捉えてみせた佐藤真が編集を手がけた貢献にもよるだろう。 汚染の被害や影響といった観念的問題性に縛られることなく、故郷の土地に生きる人間の生活の動きある細部を中心に彼らの尊厳を画面に定着させていくアプローチも『阿賀に生きる』を忠実に踏襲している。 四季を綴る映像と、向けられたカメラを特に意識する風でもない村人たちの姿は、現地に腰を据え、彼らに溶け込んだ長期取材の証しでもある。 スカートの裾を気にしながら自転車を飛ばす娘らの爽快な移動ショットなどは素晴しいものの、ナージャさん一家が引越しするシークエンスを中心に、移動シーンの頻繁なカメラ位置変更は被写体の日常への介入が過ぎないだろうか。 [DVD(字幕)] 8点(2011-07-31 20:52:01)《改行有》

10.  少年、機関車に乗る レトロ感覚満点の機関車のメカニックは、セピアカラーの情緒と相俟って温かみすら感じさせるユニークなキャラクターであり、さまざまなアングルから捉えられた機関車の走行はそれだけで十分映画だ。 線路両岸の地形の変化も楽しく、小停止中に運転手が立橋上の家族と着替えや弁当などのやり取りをする生活感のある情景などもいい。 また、道中で一緒になった娘たちと主人公兄弟のやり取りも笑いを誘う。本職の役者か、素人か、みな演技を感じさせない良い表情をしている。 下車した娘が、迎えに来たバイクに乗って小さく走り行く見事なロングショットは観る者の想像力を様々にかき立てずにおかない。 そうかと思えば、並行して走るトラクターとの競争シーンのスリルには、『イントレランス』の記憶も入り混じってちょっとした興奮もある。 ラスト、車上を中心に固定だったカメラが水面上を滑るように列車と並走し始める驚き。 その雄大な移動が大陸を感じさせて素晴らしい。 [ビデオ(字幕)] 8点(2011-06-11 22:16:58)《改行有》

11.  そして人生はつづく 3部作の第2部にあたる。大地震に見舞われた村(前作の舞台)をキアロスタミ監督が再訪する設定の中でフィクションとノン・フィクションが絶妙にせめぎ会うロードムービーの傑作。 大渋滞する幹線道路を父子の自動車が行く。車窓を流れていくのは半壊した家々、落石に押しつぶされた車、家財を背負い側道を歩く避難民。救急車両のサイレンやヘリのローター音の喧騒が生々しい。 同時にその被災の光景は引いたキャメラで捉えられるとき、混乱と悲惨だけでない大らかさと悠久の詩情をもまとう。同じく喧騒の音は、活気ある復興の槌音でもある。 村へ向かう車中、捕まえたバッタを逃がすよう父に叱られる息子が浮かべる何ともいえない表情や、優しい木漏れ日が揺れるオリーブ林の中であやされる赤子の無垢な顔、避難キャンプの水場で洗い物をする少女たちの可憐な佇まい、サッカーワールドカップ中継を受像するためのアンテナを懸命に立てている青年の笑顔、便器を持ち運ぶ老人の饒舌。 いずれもただ素晴らしく、失意と悲嘆を越えた生気と強かさに自ずと惹きつけられてしまう。 そしてラストの超ロングショットは象徴性が勝ちすぎながらも、やはり目を瞠る。 丘の上を目指し、遅々としながらも急坂を懸命に登っていく小型自動車の動きはキャメラからの距離に比例して人物との同化の度を増し、エモーションをかきたてずに置かない。 [ビデオ(字幕)] 8点(2011-04-07 21:11:06)《改行有》

12.  男はつらいよ 寅次郎紅の花 《ネタバレ》 巻頭の劇中テレビ映像。よそ行きの作業ジャンパーで仰々しく避難所を慰問する当時の首相の「パフォーマンス」を邪魔するかのように、一張羅の寅が画面手前にCG合成される。 政治風刺を絡めたギャグとCG用法が共にさりげなく巧い。 渥美清の身体的ハンデも、津山の一方通行の路地や、奄美大島の海辺で吉岡・後藤が担う一進一退のアクション性が充分に補完している。 エピローグは、震災後の神戸市長田ロケ。墓に手向けられた小さな菊の鮮やかな黄。 寅が画面右手にフレームアウトした後も留まるカメラは、背景の赤錆びた瓦礫の間から真っ直ぐに茎を伸ばしている菜の花の黄を捉え続ける。 そして長田マダンでの民族舞踊の華やかな色彩の輪と活気。そこからカメラは引き、プレハブ住宅が立ち並ぶ再生と復興の長田地区俯瞰ショットが見事に映画を締めくくる。 被災者が求めるものは、同情でも応援でも祈りでもなく、「そばにいて一緒に泣いてくれる、そして時々面白いことを言って笑わせてくれる人」だと、現地から熱望されたという「車寅次郎」。 彼と被災地の再生への希求が込められた万感のラストショットだ。 [映画館(邦画)] 8点(2011-03-26 18:16:26)《改行有》

13.  神曲 1931年のサイレント作品『ドウロ河』から、今なお現役バリバリの監督。トーキー、カラー化のターニングポイントで多くの作家が淘汰されていく中、積極的にその技術推移に適応しつつ、作品を問い続ける強かさがここにある。 文学・哲学テクストをめぐる、際限のない対話と独白劇。マリア・ジョアン・ピアスのピアノ演奏。 言語、音楽、観念を肯定し貪欲に採り入れながらもなお映画を逸脱しないのは、それらを乗せる映像即ち視覚に対する意識の強度とセンス故に他ならない。 ピアノ曲は指という身体運動と共にあり、「神」と「罪」という主題は光と闇と色彩と共に、画面に定着される。巻末において登場人物たちが交し合う接吻という行為自体の感動的なさま。 ショットはただ1つの例外を除き、ほぼフィクス。舞台は2ショットを除いて精神病棟を出ることがないが、画面の奥行きと陰影の深みは圧倒的吸引力を持つ。 音、色、光に対する卓越したバランス感覚と、それらを映画へと総合していく意思が漲る。 そして、最後のショットと音がまさに映画を締めくくる。 [DVD(字幕)] 9点(2010-12-20 22:10:39)《改行有》

14.  ノン、あるいは支配の空しい栄光 開巻のショットから目を引く熱帯性の大樹を仰ぎながらの緩やかな移動の感覚と、打楽器の音響がもたらす静かな緊張感。 中盤のヴァスコ・ダ・ガマからするとモザンビークあたりになるのか。その密林沿いを走行する輸送トラック上で会話する兵士たちの顔をカメラは正面から捉える。ルイス・ミゲル・シントラを始めとする、その無表情の異様な強度。 サラザール独裁体制時代の植民地戦争を主舞台として、小隊の議論の中から主要ポルトガル戦史が回顧されていく。 暗殺されたルシタニア族族長ヴィリアトゥスを荼毘に付す炎と灰木の質感の生々しさ。アルカサル・キビルの騎馬戦における、横の広がりを意識した巧妙な空間設計。残照の中、死骸の散乱する戦場の荒涼感などがそれぞれ強烈な印象を残す。 そしてラストの野戦病院のベッドで、顔に巻かれた包帯の中からカメラを正視する、物言わぬ見開かれた眼がまた強烈無比。[映画館(字幕)] 8点(2010-10-10 20:07:43)《改行有》

15.  2/デュオ 柳愛里と西島秀俊の二人を引き気味の位置から捉えるカメラ(田村正毅)が醸しだす緊迫感が尋常でない。会話の反復と、台詞のトーンの変調で一気に画面が張りつめる。一人買い物に出た男がアパート二階にある女の部屋に戻ってくるまでのサスペンス感の醸成も秀逸。白いカーテンの微かな揺れや、一階のドアの開閉、その「間」が画面に不穏な空気を横溢させる。あるいは、後半で女が自転車を駆る疾走感の見事さ。その彼女を見つけ、男が追走する横移動のショットも素晴らしく良い。自転車で逃げる女と、自動車で追う男が窓のフレームを挟んで緩やかに近づいたり、離れたりを繰り返す。続く質素なアパートの場面では、窓からの西日が作り出す陰影が強く印象づけられる。尚且つ、環境音、ノイズ、声音といった聴覚的要素も最後まで見事に物語に活用されている。役者、撮影、録音、照明、、すぐれたスタッフワークの賜物といえる。[ビデオ(邦画)] 9点(2010-03-22 22:50:33)

16.  暗い日曜日 『シンドラーのリスト』(1993)のネガともとれる痛烈な批評性。場面省略を駆使した、特にクライマックスにかけてのドラマの緩急制御と幕引きの鮮やかさ。同一構図・同一移動の反復が生み出すズレによって豊かに意味を広げる撮影技法の見事さ。(観客が気付かぬくらい慎ましく微妙な移動撮影によってドラマ効果をあげる手腕など実に巧妙である。) また、ネックレス・自転車・小瓶・ブルーの髪飾りなど、ドラマの伏線としての豊かな小道具類は人物描写とも的確に連携しており、全体として非常に完成度が高い。充実した細部とともに、画面は見どころに溢れている。とりわけ中盤に訪れる、自転車を扱ぐヒロインの場面から岸辺の場面にかけての高揚感が素晴らしい。回想の序盤から娼婦的なニュアンスで何度も強調されていたヒロイン(エリカ・マロジャーン)の豊かな胸と表情の意味が、ここではっきりと切り替わり聖性を帯びる。岸辺に寝そべり、子供のように縮こまる男たちを両腕に抱く姿はまさに聖母としての彼女を強く印象づけ、浅薄な男女のドラマを越えていく。 ラストのレストランで、オフ空間から彼女の澄んだ歌声を響かせる演出もまた心憎い。[DVD(字幕)] 10点(2010-01-27 22:56:14)《改行有》

17.  ブレードランナー/ディレクターズカット<最終版> 《ネタバレ》 全編を貫くのは「見る」という主題。人造人間識別機の画面に映る瞳、潰される目、眼球製造者、フクロウの目。画面の到る場所に様々な「瞳」が提示される。人間は識別機を通してしかレプリカントを判別できない(直接視覚の無力)。ハリソン・フォードがエレベーター内のショーン・ヤングに視覚では気付かない場面なども象徴的だ。これを画面上で補強するのが、闇の領域と蒸気・雨を大きく取り入れて視界を遮るノワール風照明設計である(ブラインド等の使い方も秀逸)。この映画はその盲目的人間が、目を閉じ頭を垂れたルトガー・ハウアーとの視線の切り返しを経て「開眼」(夜の闇から晴天への転換)するドラマともとれるだろう。ラストで対峙するルトガー・ハウアーの見開いた瞳は映画冒頭の「青い瞳」へと回帰し、その台詞「オリオン座の片隅で燃える宇宙船」「タンホイザー・ゲートの側で輝く星」が、映画のファーストショット(夜景と炎の俯瞰)と重なり直結していく巧妙な構成が非常に見事である。[DVD(字幕)] 8点(2009-10-11 19:56:35)

18.  アメリカン・ビューティー 《ネタバレ》 作劇自体は、あまりに理詰め過ぎで人工的。人物同士の関係性を画面内配置と明暗のコントラストで的確に示す手際や、窓枠・鏡・PCモニター・柱といったフレーム内フレームをさりげなく駆使して主人公の閉塞感と開放感を視覚的に演出する構図感覚なども理が勝ちすぎの印象がある。一方で、光と闇に対する繊細な感性と意識も細やかだ。コンラッド・L・ホールによる濃い陰影が、少ない光量の中に映える人物の表情、雨垂れの光を本作でも十二分に活かしきっている。3人家族の食卓で主に中央の主人公の娘(ゾーラ・バーチ)に注ぐ照明の具合、また彼女と隣家の少年が薄暗い室内でビデオを見る場面で、彼女の瞳に小さく揺らめく光の美しさ、あるいはクライマックスとなる雨の夜のシークエンスにおける照明と撮影は何れも絶品である。ケヴィン・スペイシーとミーナ・スヴァーリが見詰め合う窓際の逆光と流れる水滴の美しさ、そこに順光のスポットで浮かび上がる赤いバラの鮮烈さ。それら暗目のトーンが、シニカルな主題を際立たせる。[映画館(字幕)] 7点(2009-07-12 16:45:17)

19.  シックス・センス 奇しくも、死者との交流と癒しを描いた美しい日本映画『学校の怪談4』(1999)と同年公開である。こちらも子供の視点とアングルを多用した静謐で丁寧な作風が非常に好ましい。微かな音楽、あるいは無音を活かした世界構築と共に、全編にわたり無駄な台詞を極力切り詰めた優れた脚本が本作の静謐さを生む美質のひとつである。一例として挙げれば、亡くなった少女の家庭の状況を、部屋の中を移動する1ショットの合間に、遺族たちの最小限のささやき声と壁の写真のみで十二分に語りきってしまう卓越した手腕。大幅な省略ゆえに、逆に個々の台詞が重み、深みを湛える。または画面の美点。印象的ならせん階段に浮かぶ赤い風船、扉、ドアノブやテントに用いられる赤い配色は余計な宗教的意味合いなどに還元されずとも純粋にワンポイントカラーとして美しく、妖しく映画を彩っている。そしてこれはフィラデルフィアの映画、歴史に埋もれた被迫害者たちの慰霊の映画として忘れ難い。[映画館(字幕)] 9点(2009-04-17 20:59:51)

20.  ヒート カフェで対峙する主役二人の対話が二人の後方からそれぞれごくシンプルな切り返しによって捉えられる。その構図は二人がまるでお互いに自分自身の鏡像と対話しているかのような印象も同時に与える。立場としては対極にある相手に自分との同質性を認め合う場面とも解釈できようか。かつてのノワール映画では、低位置のキーライトで人物の相似形の影を作り出し、オルター・エゴ(もう一人の自我)を仄めかすスタイルがあるが、これに近い印象でもある。終盤の最終対決にみる光と闇のモチーフも同様、背後の誘導灯の点灯によって逆光の中に浮かび上がるロバート・デニーロの黒いシルエットは、対照的に照らし出されたアル・パチーノ自身の投影でもあろうか。対極でありながら一体でもある光と闇の領域の対立、実景主体の写実的市街犯罪と、俯瞰撮影も交えながら印象的な夜景を捉えた都会的ルックはまさに大戦直後(1945~1949)のノワール第二期作品群を髣髴とさせつつ、シネスコ画面の水平ラインをより意識した新たなノワール様式を創出している。[映画館(字幕)] 10点(2009-03-28 17:31:42)

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