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【製作年 : 1990年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  青春神話 《ネタバレ》 蔡明亮の処女作にあたる本作にはまだどこか不完全でごつごつとした手触りが残っている。だがその原石めいた無骨な感触こそが強烈に本作を青春映画たらしめてもいる。窃盗目的で破壊される公衆電話からはじまり、受け手不在のまま鳴り響くテレクラの電話で終わるこの映画が、所謂“コミュニケーション不全”を描いているのは明白だろう。蔡明亮は、若者たちが内に抱える不全感を心象として強くふちどることで、都市生活のざらついた不毛をくっきりと炙りだしていく。コンパスで刺しても死なないゴキブリの強靭さにたじろぎ、苛立ちにまかせてガラス窓を突き破る予備校生・小康。心配を見せる母親と叱責する父親双方に等しく向けられる敵意と拒絶。あるいは公営アパートに住む不良少年・阿澤もそうだ。意図せぬ4階で決まって一時停止するエレベーターにも、排水孔から逆流し部屋を浸食する大量の下水にも、他人のように暮らす兄にも、彼は一切動じない。彼にとってそれらは日常なのだ。機能を失った排水孔のように決して疎通することのない彼の意思。だが少女阿桂との出会いによって、塞がれていたはずの排水孔はゆっくりとその機能を取り戻す。澱んだ水は一滴のこらず阿澤の部屋から流れ落ち、水は大量の雨となり、今度は小康めがけて降りそそぐ。土砂降りの中、何かに反撃するかのように小康が振り下ろすのは、鬱屈した勉強部屋でゴキブリを刺し貫いた件のコンパスだ。羨望とも、嫉妬とも、復讐とも、憧憬とも、恋慕ともつかぬ、その衝動。そうして無残に破壊されたオートバイを黙々と押し歩く阿澤に、ここに至り、ついに声をかける小康。けれど阿澤の眼中に小康が捉えられることは最後までない。それは彼がはじめて自ら他者に歩みより働きかける一瞬であり、そしてそれが即座にこの他者によって打ち砕かれる瞬間でもある。その残酷と痛みが胸を抉る。翼をもぐことでようやく対等になり得たはずの相手=阿澤からの強烈な拒絶の一撃に呆然と立ちすくす小康。家を追われテレクラの個室へと辿り着いた彼が無感動に眺めるのはヒステリックに鳴り響く電話器だ。狂ったように疎通を希求し誰彼かまわず、けれど特定の誰宛でもなく虚しく鳴り続けるその呼出音を背に、彼はどこへ向かうのか。分厚く垂れ込める雲はいまだ突破口を見せず、出口を失った小康は気づかぬままだ。それでも、閉ざされていたはずの扉はほんの少し開かれ、静かに彼の帰りを待っている。[DVD(字幕なし「原語」)] 10点(2013-05-25 23:41:07)

2.  エドワード・ヤンの恋愛時代 《ネタバレ》 楊徳昌は、4時間にも及んだ前作『牯嶺街少年殺人事件』に匹敵するほど複雑に相関する登場人物を、このたかだか127分の中に無造作に配置し、配置された彼らはのべつまくなし饒舌にまくしたて、そのややこしく入り組んだ人間関係に言及する。説明描写の一切を放棄したまま、彼らの夥しい会話=情報だけがひたすらぎっしりと詰め込まれていく様は圧巻だ。だが、膨大な台詞を膨大な字幕で追いかけなければならない我々外国人にとっては、もはやお手上げである。『牯嶺街』でその名を世界に轟かせながら、続く本作がカンヌに出品されつつ無冠に終わったのは無理もない。(台詞を極端なまでに排した蔡明亮の『愛情萬歳』が、同年のベネチアでグランプリを獲得したのは皮肉な話だ。)この映画を初見で完全に理解することは、ほぼ不可能だからだ。だが二度観なければ理解できないとすれば、その映画ははたして映画失格だろうか?おそらく映画祭の審査員にとってはそうだ。多くの一般の観客にとってもそうだろう。しかし私にとっては違う。過剰にして饒舌なこの映画には、けれど恐ろしいほどに一切の無駄がないのだ。その映画的ボルテージは傑作『牯嶺街』にすら引けをとらない。そしてそれを今度は他愛のないラブコメの枠組みでやってのけたのだから、やはり楊徳昌は恐るべき天才だ。孔子の論語の引用から物語りはじめる小賢しく皮肉屋の楊徳昌だが、本作において彼が最後の最後に見据えるのは、物質社会に翻弄され困惑する儒者の末裔=現代人が、それでもひたすらに誠実であろうとするその有り様だ。打算や虚栄が前提の世界だからこそ八方美人と揶揄されるチチ。親友モーリーとの友情にも亀裂が入り、「用もないのに来られたら目障りだわ」となじるこの友人に対して彼女が出す答え。「会いたかったの。あなたもでしょ?」それは途轍もなくシンプルで美しい、ありのままの感情だ。そしてラストシーン。去りゆく相手をそれでも想って一度閉じたエレベーターを開くこと、あるいは去りゆく相手をそれでも想ってエレベーターの前に舞い戻ること。扉が開き、そうして目の前に現れるのは、あまたのラブコメにおける御都合主義的ハッピーエンドとは決定的に違う、必然の邂逅だ。楊徳昌は言う、これこそが真実なのだと。心のままに向かいあった「もう片方」を、彼らは心のままに、力いっぱい抱きしめる。いつかではなく、そう、今すぐに。[DVD(字幕)] 10点(2013-05-02 21:00:54)(良:1票)

3.  ファイト・クラブ 《ネタバレ》 タイラー・ダーデンが人畜無害な家族向け映画のフィルムに挿し込むたった1コマのサブリミナル映像は、なぜ「男根」なのか。この行為が猥褻物陳列を意図した単に道徳に反するだけのイタズラであるのなら、それは女性器でも構わないはずだ。レイティング規制の問題でそれが無理ならば、ソフトなポルノグラフィであってもいい。だがタイラーは、そして監督デヴィッド・フィンチャーは、大いなる意味をもって、あからさまな「男根」をそこに挿入する。またこの映画は、タイラーとマーラ・シンガーの獣じみたセックスやトイレに浮かぶコンドームなどの性的ニュアンスを多分に含むが、血色の悪いマーラや乳癌のクロエら登場する女たちにことごとく(アメリカ人男性の好む)グラマラスなセックスアピールが欠如していることが象徴するように、実は徹底的にセクシャルの対極にそのベクトルを向けている。つまり本作は言わば、女性器を拒む「男根」の映画なのだ。細胞レベルから、グロテスクに拡大された毛穴や皮膚へ、そしてジャックの喉奥に挿入されたそれこそ「男根」の如き銃創へと這い上がっていく導入部からしてそうだ。そこに同性愛的な意味合いを見出すのは早計だろう。『ファイト・クラブ』はあくまでポルノやセックスではなく「男根」そのものの映画だからだ。先述したサブリミナルの「男根」が勃起した状態のものでないのは、その意味でも必然だ。IKEAの家具を買い占め、コーヒー浣腸で美容と健康を追い求め、トレーニングジムで筋肉を美しくデザインする男たちは、さして必要に迫られているわけでもない鬱病対策に高価なプロザックを過剰服用し、その副作用で勃起不全となる。理想的な都市生活という強迫観念に去勢され「男根」を勃たせることすらままならない彼らは、それがゆえ、性衝動ではなく野蛮な暴力衝動を取り戻すことで「男」になろうとするのだ。高層ビルの窓辺に立ち、崩壊する夜景を見下ろすジャックとマーラ。キスすらせずにただ手をつなぐ彼らは、まるで少年と少女だ。だがそれは永遠に去勢されたはずの少年が、ついに性衝動に目醒める、その瞬間なのかもしれない。フィンチャーは最後の最後にイタズラめいた目配せをする。それはフィンチャーなりのメイヘム計画だ。頭を垂れた「男根」が、お前らはどうだ?と問いかける。「男」になれ、そして勃起せよ、と。それは映画を観る男たちへの覚醒の合図だ。[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-01-02 21:13:01)

4.  欲望の翼 《ネタバレ》 人影無いサッカー場の売店で、来るはずのない客を怠惰に待つ女スー。そこは言わば世界の喧騒から隔絶されたシェルターだ。時を刻む秒針の音にただ埋もれるばかりの彼女は、まるで人類が死に絶えた核戦争のただ一人の生き残りのように、平和で退屈でそして孤独である。そんな彼女に、ある日思いがけず近づいてくる靴音。力強いその音は、永遠に思えた彼女のまどろみを打ち破り、女にその顔を上げさせる。孤独な人間にとって他者との出会いとは、規則正しい心音に護られた胎児が光射す世界に産み落とされる、その一瞬でもあるのかもしれない。ウォン・カーウァイが描くこの冒頭は、その後も彼が数々の映画で憑かれたように変奏していくこととなる、人と人との邂逅、まさにその雛形であると言える。腕時計の秒針が1周する1分間を身じろぎもせず見守るスーと、運命の男ヨディ。魂と魂がことりと音を立て奇跡のように共鳴しあうその60秒は、けれど過ぎた瞬間もはや取り戻せぬ過去となり、止まることなく先へと進む秒針が、1秒ごとに刻々とその過去をさらに彼方に遠ざけていく。とまどい怪訝なまま顔を寄せあった一瞬。ただ静かに目の前を通り過ぎていった一瞬。それでもゆっくりと遠のいていくにつれ、かけがえのない幸福の意味を強めていく、その一瞬。ヨディとの忘れえぬこの1分間に囚われるスーが、夜道をならんで歩く心やさしい警官タイドとの時間もまた取り戻せぬ幸福な一瞬であることに、気づくことはない。決してつなぎ止めることのできぬ一瞬を、それでも人はつなぎ止めたいと切に願う。そして永遠を夢みる。おそらくそれは、等しくヨディを追い求め、彼の弟分サブの恋心に応えられず涙するミミもまた同じだろう。幸福な一瞬は彼方に過ぎ去り、手の届かぬ懐かしいその光に、人はただやるせなく胸を痛めるばかりだ。この世界に永遠などないのだと、ウォン・カーウァイは断言する。どれほどに希求しようと、人がこの手に出来るのは、過ぎたそばから過去となっていくかけがえのない一瞬一瞬、その積み重ねに過ぎないのだと。そしてそれでも、と映画は語る。1960年4月16日、3時1分前、自分がどこにいたか、そしてだれと何をしていたか。決して忘れず胸に刻んだその一瞬こそが、私たちにとって、かけがえのない永遠となりうるのだと。[DVD(字幕)] 10点(2010-05-30 14:57:30)

5.  ファニーゲーム 《ネタバレ》 ミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーは似ている。共に世界的に注目を浴びた欧州の映画監督であるというだけでなく、ヨーロッパ映画特有の陰影に富んだ映像も、観る者の神経を逆撫でするような挑発的なその作風も、まるで双子のように似ている。だが、二人が決定的に違うのは、不快感を煽るその挑発の種類である。フォン・トリアーの映画は、執拗にダークサイドを描きながら、ある種のねじくれた幻想として存在する。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でも『ドッグヴィル』でもフォン・トリアーが描くのは、哀れな主人公を矢継ぎ早に襲う、幾多の悲惨な出来事だ。非現実的なまでに畳み掛けるそれらの不幸は、明確な作為をもって生贄たる彼女たちに与えられる。そうすることでフォン・トリアーは恐怖や絶望を第三者として愉快犯的観点から支配しようとするのだ。そして安全地帯からそれを見つめる私たちを共犯者に、恐怖や絶望を見世物=他人事とする、どす黒くも安全な「幻想」としての映画が出来上がる。一方、ハネケは身も蓋もないほどにありふれた現実として、恐怖を描こうとする。私たちは目撃者でも傍観者でもなく、当事者となる。そうして冷淡にハネケが突きつけるのは、今日も世界のどこかで起きているはずの、そして明日は我が身を襲うやもしれぬ、身近な、それゆえ恐ろしく生々しい、そんな絶望だ。ぎりぎりのところで精神の均衡を保っていた『ピアニスト』のエリカも、ささやかなバカンスを楽しむはずだった本作『ファニーゲーム』の家族たちも、ハネケは彼らを、明日の私たち自身の血腥い絶望の姿として、そこに置くのだ。そんな中にあって、あからさまに緊張感を削ぐテープの巻き戻しやカメラに語りかける犯人の構図だけが異質だ。場違いに(それこそフォン・トリアーのような悪意と作為で描かれる)「幻想」的なこの二つのシーンは、あまりに生々しくおぞましいスナッフフィルムの如き本作における、ハネケなりの良心だったのだろうか。そんな彼は自身によるハリウッド資本でのセルフリメイクを、ただ俳優を替えてそのまま焼き直しただけの、単なるコピー商品として完成させた。それはまるでヒッチコックの傑作『サイコ』を、変えるべきところなど一つも無いとばかりに、まるごと模したガス・ヴァン・サントのように。[DVD(字幕)] 8点(2010-03-14 00:47:49)

6.  トゥルーマン・ショー 《ネタバレ》 モニターに映るトゥルーマンの頭を撫でながら、我が子をいとおしむように、年老いたプロデューサーは言う。「君をずっと見てきた。君が生まれた時、最初のヨチヨチ歩き、学校に上がった日、最初の歯が抜けた時。」彼はトゥルーマンにとって創造主でもあり、また父でもあるのだろう。町は大掛かりなベビーサークルだ。その箱庭の中、意のままに息子を操ってきた父にとってたった一つの誤算は、従順な駒として動かし得た息子にもけれどいつしか一個の人間として自発的な恋という感情が芽ばえてしまうということだ。父が選びあらかじめ用意した娘とではなく、父の思惑ではエキストラに過ぎなかったはずの娘とアクシデントのような恋におちるトゥルーマン。それは予定調和の庇護の下、安全に飼い殺されるばかりだった彼に芽ばえるはじめての自我だ。情報はすべてパブリックに管理・操作され、一片のプライベートな秘密すら許されぬ筒抜けのその世界で、それでも彼が胸にひた隠し貫く恋。全てが監視下に置かれているとも知らずこっそりとファッション雑誌を切り抜き、初恋の記憶を辿るままに遥かフィジー島を目指すトゥルーマンの姿が感動的なのは、絶対なる父の手をもってしても決して届かぬ私的なその感情だけが、盤石でありながらすべてが作り物の彼の人生において、ただ一つの、ウソ偽りない「本物」だからなんだろう。そうしてトゥルーマンは絶対的な神の手を、つまりは強大な父の支配を、かいくぐり突き進む。まるで永遠のモラトリアムから脱出を図るように。一方の父は、かつて神が人間にそうしたように、自我を持ち意に背く恩知らずな息子に、罰を下す。巻き起こす天変地異により愛する息子を死の危険に曝してでも、その巣立ちを阻害しようとする。そんなすさまじい父と子の姿から浮かび上がるのは、自立とは決死の闘いであるということ。この一人のいい年をした男の遅咲きの成長譚は、だからこそ意外性に富み、実に感動的だ。ついに遂行されるトゥルーマンの力強い羽ばたき。彼の勇敢なその突破に我々は快哉を叫ぶだろう。だがそんな私たちもまた結局は見世物としてトゥルーマン・ショーを消費しているに過ぎないという痛烈な皮肉が、安直なカタルシスを頑なに拒む。扉の向こうからやってきたトゥルーマンが辿り着くのはハッピーエンドなのか、それとも次なる関門なのか。それを決めるのは、まさに私たち次第なのだ。[DVD(字幕)] 9点(2010-02-27 11:18:25)(良:1票)

7.  夏時間の大人たち HAPPY-GO-LUCKY 《ネタバレ》 父親役の岸部一徳を除けば、主人公タカシを含めた登場人物たちは無名の俳優ばかりである。根津甚八や石田えり余貴美子ら顔の売れた俳優は、現実世界と同様にブラウン管の中で陳腐な昼メロを演じるか、C.C.ガールズの青田典子のように夢に登場するだけ、というのが面白い。サエない小学生タカシの日常と、そこにシンクロしていく彼の父母それぞれの子ども時代。彼らは当たり前に父であり母であり子どもである。けれど父であり母であり子である彼らからその当たり前な時系列を取り除けば、そこに残るのは、アツオとジュンコとタカシという対等にサエない3人の子どもの姿だ。中島哲也監督は魔法もSFも用いずサラリとそれを見せてくれる。妹のイタズラ描きを誤魔化すためダイナミックに塗りたくっただけの風景画がコンクールに入選してしまうこと。欲しくもない賞状をもらうこと。それがちっともうれしくないこと。あるいは病弱で寝たきりのお母さんがヘビ女であること。お母さんの部屋につづく階段を昇るとき、だから少し足がすくむこと。だけど、雨に濡れ自分もヘビ女になったって構わないくらい、お母さんが大好きなこと。本当はお母さんに甘えたいこと。子どもたちそれぞれの悩みや人には決して言えない思い。彼らかつての子どもたちを現在のタカシの延長線上に置かず、そっと並列させるのがいい。タカシの目下の悩みは逆上がりができないこと。おっぱいの大きな女の人が好きなこと。ダメ人間になりたくないこと。人には言えないそんな思い。それは逆上がりができない自分が許せないトモコも、さらには何度叱られても校則違反の買い食いをやめないヤスノキヨミだってそうだ。悩みは尽きなくて、だれにも話せない自分だけの思いがあって。逆上がりができたら今度は跳び箱が「乗りこえなきゃいけない人生の障害」として立ちはだかって。世界の仕組みは謎だらけで。だけど河原に吹く風はとても気持ちよくて。そうこうしているうちに鉄棒でつくった手のひらのマメはいつのまにやら消えている。それが人生だ。ラスト、神様に願いごとをするタカシ。逆上がりの悩みはまた別の悩みに変わっている。トモコが好きで、そんなトモコも同じように悩みを抱えていて。でもトモコが悩みを一つだけでも乗りこえたら自分のことのようにうれしくて。だけどトモコのおっぱいは小さくて。やっぱり悩みは尽きなくて。人生、それでいいのだ。[DVD(邦画)] 10点(2009-11-29 01:42:11)(良:3票)

8.  告発 《ネタバレ》 映画はヘンリーが受けた残虐な仕打ちも彼が犯す殺人も、克明に描く。けれど克明でありながら、その描写はとても冷静だ。より露骨に声高に描ける可能性を、映画は勇気をもって捨て去る。裁判のシーンもその判決も、観客の求めるカタルシスをもっとドラマチックに感動的に満たすことはいくらでも可能だっただろう。しかし映画は誠実に、それをしない。ヘンリー・ヤングは弁護士ジムに言う。自分のように暗闇でクソにまみれて這い回っていたわけでもないのに野球中継を見ないなんて、と。俺は女を知らないと。穴蔵に迷い込んできた蜘蛛が唯一の友だちに思えたと。おまえと俺は一体どこが違うのかと。裁判の過程や事件の真相とは直接関係のないヘンリーのその焦点のズレた発言の数々は、けれど彼の台無しにされた悲しい人生を静かに物語る。看守の目を盗みジムがヘンリーに娼婦をあてがう一見下世話なそのシーンの持つ意味は、あまりに切実で痛ましい。人間の尊厳をあらかじめ奪われながら、人生の大半をただ生き延びたヘンリー。そんな彼がジムとならんで座り、トランプのカードを飛ばして遊ぶシーンが忘れられない。彼の人生たった一度きりのその幸福な瞬間が、肝心の判決が下る待ち時間の出来事というのは象徴的だ。ヘンリーが望むのは身の潔白や無実などではなく、ありふれた人間としての当り前の価値、ただそれだけなのだ。人としての価値を踏みにじり続けた副所長を裁判中もずっと直視することができなかったヘンリーは、けれど再び戻るアルカトラズの入り口で、ついにまっすぐしっかりと彼の目を見据える。恐ろしい穴蔵へと続く階段を降りながら、それでもその瞬間彼はようやく価値ある一人の人間として、誇り高き勝利のその意味を噛みしめる。彼はもう哀れなヘンリーではない。ようやく美しき一人の人間として、気高くそこに立つ。裁判でも判決でもなく、その時にこそ、彼は本当の意味で勝ったのだ。[DVD(字幕)] 7点(2009-11-24 21:10:22)(良:1票)

9.  東京夜曲 《ネタバレ》 結ばれぬ二人、叶わぬ恋。そんな胸を痛める激しいラブストーリーが幕を閉じた後も、男と女それぞれのその人生は延々と続いていく。この映画が描くのはそんな、ラブストーリーのその後だ。あとがきのような人生を日々に埋もれるようにひっそりと生きる康一もたみも久子も、かつての輝かしい恋愛物語の忘れられたその主人公たちである。彼らは、まさに市川準映画の主人公にふさわしい。市川が描くのは常に、世界の片隅で忘れられたように日々を暮らすそんな人々の姿だからだ。様式ばった美しさで切り取られる東京下町の風景、作為的なまでに静謐な時の流れ、そうした市川準映画の悪癖とも言える人工臭や退屈さが拭い去れない本作だが、それでもその中に主人公たちの灯す情感をゆっくりと滲ませていくその描写の繊細さには、心惹かれずにはいられない。商店街の人々に噂され、時にヤクザのようだと揶揄される康一は、実際粗野で無口なうえ、陰気な男だ。けれど、思いをよせあったはずの青年の結婚に打ちひしがれ宴席で所在無く一人唇をかみしめる近所の娘に、そんな彼が真っ先に声をかける。こっちにおいで。その声の別人のようなやさしさ。現在進行形の悲しみを必死に堪える若い娘は、かつての康一であり、たみであり、久子なのだろう。うれしそうに顔をほころばせる娘。その様子を柔らかな表情で見守るたみ。ただそれだけのそのショットに、たみがなぜかつて彼を愛したのか、言葉少なな彼女の思いが静かに滲むのだ。映画は東京をはなれ岡山で新たな暮らしをはじめるたみの姿で終わる。でこぼこ道を走る衝撃で自転車のカゴから飛びだすジャガイモに、不恰好な声をあげるたみ。ラブストーリーのその後を終えた彼女が行くのは、ラブストーリーのその後のその後だ。そうしてその後のその後のその後まで、彼女の人生はまだまだ続いていく。ひたすらに生き続ける、ただそれだけのことのなんというすばらしさ。人々をそんなふうに見つめる市川の視線は、限りなくやさしい。現在は過去のあとがきなどでは決してない。今を慈しむこと、それこそが、生きるということに違いないのだから。[DVD(邦画)] 6点(2009-11-14 23:18:18)

10.  ブッチャー・ボーイ 《ネタバレ》 アル中の父親と、情緒不安定な母親。唯一の親友。そしてきらびやかに広がる涯てしない夢想。それが主人公の少年フランシーにとっての全てだ。ニール・ジョーダン監督が描くのは、少年のささやかなそんな幸福さえ容赦なく一つ一つ奪いとっていくこの世界の非情さだ。彼の人生はただただ失うことの連続だ。「故障した」母を、ろくでなしの父を、ささやかな家を、噴水の広場を、そしてついにはただ一人の友だちすらも。形ある確かなものを一つのこらず失った彼がかろうじて持つのは、涯てのない夢想、それきりだ。そんなたった一つ彼が持ちうる夢想がしかし孤独と絶望に次第に蝕まれ、あたかも捨て犬が野犬と化すかのようにその内在する獰猛さを顕わにしていくさまは、あまりに悲しい。彼はこの無慈悲な世界に屠殺されまいと決死で逃げまどう豚だ。そんな彼が今にも頭上に振り下ろされるその鉄鎚を回避すべく選ぶのは、まるで悪意と欺瞞にみちみちた屠殺者=世界そのものとして君臨するようなニュージェント夫人その人への反撃である。それは自らこそがおぞましい屠殺者(ブッチャー・ボーイ)となることを意味する。ここに至り我々が知るのは、映画の冒頭で描かれる滑稽なほど包帯でグルグル巻きにされたフランシーの姿が、まさに満身創痍となった彼の魂そのものなのだということだ。彼をそのまま現実の少年殺人者とシンクロさせるのは、野暮というものだろう。赤頭巾をベースに『狼の血族』を徹底して寓話として完結させたジョーダンらしく、本作もまたあくまで悪夢的寓話として昇華されているからだ。ジョーダンはまるで泥水を濾し砂金を見つけ出すように、ひどくグロテスクな模様の濾紙の上にこの孤独な少年の粉々の魂をただひたすらに、掬いとる。その砂金は観る者によっては毒々しく、あるいは時に美しく光り、そして胸を刺すだろう。やがて大人となったフランシー。全てを失い孤独なまま、あるのは変わらず夢想ばかりだ。けれど少年の悪夢とはうって変わったその金色の光景は雄弁に彼の心の有り様を物語る。夢の中の聖母マリアが彼にさし出す一輪の花。それは奪われるばかりの人生でフランシーが初めてその手にする、愛だ。フランシーの犯した罪を理解することは出来ない。けれどこれだけは言える。その美しい花の意味は、その大切な意味だけは、フランシーにも私にも変わりなく等しいのだと。そしてその花を携えて私たちは生きていくのだと。[ビデオ(字幕)] 10点(2009-09-26 10:26:06)

11.  少年時代(1990) 《ネタバレ》 戦時下における軍国主義的大人社会とその縮図として展開される子ども社会、そうした構図の見事さもさることながら、それ以上にすばらしいのは、少年期特有の幼くも常に真剣な彼らの感情やゆらぎをきちんとそこに写しとっていることだ。戦争のため都会から田舎へと疎開してきた少年の心もとない不安と、地元の少年たちが見せる他所者への軽蔑と畏怖いりまじる好奇心。少年社会における厳然たる階級と、ひそかに渦巻く野心。その中でもひときわ目をひくのは、ガキ大将武が主人公進二に見せる幼い恋にも似た複雑で入り組んだ感情だ。仲間内では高圧的にふるまう武が進二と二人きりの時にだけ見せる特別なやさしさ。自分自身わけのわからぬそんな感情にいらだつ武は、進二が上手だと褒めた零戦の絵を闇雲にぬりつぶし、時に無意味な乱暴さで進二を小突く。しかし反面、隣町で悪童たちに囲まれる進二のもとへと黒いマントをひるがえし駆けつける彼の疾走は、愛する者を守るため悪に立ちむかうヒーローのそれ、そのものでもある。秀逸なのはそれに続くシークエンスだ。追っ手から逃れ隠れた雪の納屋で子どもらしく小便する進二とその後ろ姿をただ見ている武のさりげなくも印象的なショットを経て、二人がその足で向かう写真館。再び湧き起こる厄介な感情に、武はやはりどうしようもなく進二を力でねじ伏せてしまう。そしてただただ涙をこぼすのだ。この一連の武の姿がたまらなく胸をしめつけるのは、それが彼の初恋の有り様にほかならないからだ。物語の終盤、クーデターにより失墜した武が頑なに進二を遠ざけるのは、ガキ大将として以上に幼い恋を前にした一人の男として、彼が敗北を喫した自分に厳しく課す、貫き守るべき最後の誇り、それがゆえだろう。トンネルのゆるやかなカーブにつれてゆっくりと彼方に閉じていく少年時代、やがてそれは写真館で撮った二人の写真へとつながる。身震いするほどにすばらしいラストシーンだ。飾られた写真の中の幼くも凛々しい二人。形にはなり得なかった、けれどもなにより確かなその思いの、なんと誇らしく美しいことだろう。たとえトンネルの向こうには二度と還れなくても、それはあの日の武のように誇らしげに胸をはり、確かにそこにあるのだ。輝かしくも傷だらけの少年時代の、そのかけがえのない勲章として。[DVD(邦画)] 9点(2009-09-16 21:04:43)(良:5票)

12.  どこまでもいこう 《ネタバレ》 この映画が描いているのは、変化だ。それは登場人物たちの心情の変化だったり、関係性の変化だったりする。年長けるにつれ生じる変化を人は簡単に成長と呼ぶ。けれど変化は必ずしも前進とは限らない。それでも人は常に変化していかなくてはならない。『どこまでもいこう』が見つめているのは、たとえば『ドラえもん』や『ちびまる子ちゃん』のような永久不変とは対極の不安定な小学生たちの現実の姿だ。変化していくあたりまえのかなしみをあたりまえにその背に負う彼らを、塩田明彦監督は驚くほど自覚的に描いている。小学校高学年という年齢は子どもならではの全能感を失う時代だ。主人公アキラと光一の、トム・ソーヤとハックルベリーのように世界が2人だけのものだった時間は唐突に終わりを告げる。そんな彼らのなすすべなくうつろいゆく繊細な変化を、カメラは的確に捉えていく。そしてその変化の過程で、アキラの中でそれまで目立たなかった野村くんというクラスメイトの存在がフォーカスをあてたようにくっきりと浮き上がってくる描写がひときわすばらしい。おとなしくてそれまで気づかれなかったという身も蓋もない現実的な理由からアキラの前にその姿を現し、そして痛ましくとても現実的な事件により姿を消す野村くんは、けれどアキラの目線から見れば、風の又三郎であったかもしれない。私たちがそうであるように、彼らもまた、風のようにやってきては風のように去っていくそんな時間の流れの中にいる。野村くんが描く絵、その中の彼とアキラの姿、それは、野村くんにとってのトム・ソーヤとハックルベリーの幸福な時間を意味している。しかし永遠に時を止めた桃源郷のような絵とはうらはらに、世界は、時間は、刻々とうつろい、変化し、過ぎ去ったものを取り戻すことは出来ない。それが、あたりまえなこの世界のあたりまえな過酷さだ。私たちも彼らも等しくその中を生きている。ラストで塩田監督が見せるのは「男子ってバカだよね」と悪びれていた女子が2人きりの時に見せるやさしい変化と、その変化に喜びを隠しきれないアキラの変化だ。そうやって喜びも悲しみもいっさいがっさいを背負い、彼らも、そして彼らの延長線上にある私たちも、生きている限り変化し続けていくのだろう。鳴り響くマーチが、そんな愛すべきバカな男子と女子のささやかな行進、その足音のように、しみじみとそして力強く胸に響き渡る。 どこまでもいこう、と。[DVD(邦画)] 8点(2009-09-11 16:46:18)(良:1票)

13.  牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件(188分版) 《ネタバレ》 映画とは暗闇の中で光を映写することだ。しかし『クーリンチェ少年殺人事件』は光よりもまず先に闇に重点を置く。それは、あまたの映画で見受けられる闇として描かれた光ではなく、視覚的情報を遮断するまでの真実の闇だ。暗闇の中に映し出される暗闇。そんな完き闇の中だからこそ、少年の持つ懐中電灯の光源だけが弱々しくけれどはっきりと、浮き上がる。この映画を映画館で観ることができないのは本当に不幸なことだ。楊徳昌監督は、あまりに不確かなこの世界の輪郭をそれでも不遜になぞろうとするのではなく、まぎれもなくそこにある空気そのものをありのままに写し撮ることで、世界を描こうとする。そのスタンスは、ヒロインとして登場する少女の描写にも適用されている。彼女がどんな少女で何を考えているのか、映画は一切の説明を加えない。登場人物によって語られる彼女に関する曖昧な情報だけが時に錯綜はしても、その真偽を確かめる手だては一切ない。少女は、不確かな世界同様に不確かなままそこに立ち、少年をただ見つめ返す。そこには、この不確かな世界を生きることの不安が常に漂っている。ブラスバンドの演奏の中で少年は少女に愛を宣言する。音楽にかき消されぬよう彼が声を強めた次の瞬間、響き渡っていた楽器の演奏がはたと止む。「きみを守る!」その声は、ふいにおとずれた静寂に一直線に放たれ、悲痛な叫びとなって世界にこだまする。けれどその切実な叫びは、彼女に届きようがない。「私はこの世界と同じ。だれにも変えることなんかできない。」少年は少女のその言葉に抗い反撃するかのように、憎むべき世界にナイフを突き立てるのだ。この世界は絶望に覆われている。それは60年代の台湾に限ったことではないだろう。少年は絶望の中で世界と対決すべくひたすら藻掻き、少女は絶望への抵抗を断念することで世界と折り合いをつけ、それぞれがそれぞれのやり方で生き延びようとする。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもない。それは彼らにとってどちらも等しく、のっぴきならないこの現実を生きぬくための手段なのである。母を雇う金持ちの家の少年に身をゆだねる少女は、穢く汚れているのだろうか。決してそうではない。そこには絶望があるだけだ。そんな彼らの魂は、本当は限りなく等しい。だからこそ少年がナイフを片手に立ちつくし、少女が崩れ落ちる時、我々はこの世界の、暗闇の、絶望の、その深さを思い知るのだ。[レーザーディスク(字幕)] 10点(2009-08-29 11:01:49)

14.  お引越し 《ネタバレ》 まず何よりも田畑智子がいい。縦横無尽に走りまわるその姿から畳の上でのムーンウォークに至るまで、彼女が画面の中で動いているだけで、まるで素晴らしいダンスでも見ているかのように胸が躍る。さらに感動的なのは相米慎二監督の型破りな長回しが、ここではこの田畑智子という興味深い生命体の面白さを如何に最大限に引き出すか、その一点にきちんと集約され、とてもスマートにその機能を果たしているということだ。相米は正面切ってとても誠実にこの少女に向き合う。前作『東京上空いらっしゃいませ』でも大いなる片鱗を見せていた彼のその「直球勝負」が、ここにきてさらに研ぎすまされ、ついに一つの完成形を見せる。思えばかつての相米映画の子どもたちは両親の不在の上にあった。『ションベンライダー』に親たちの姿は一切なく、『雪の断章ー情熱ー』の斉藤由貴に至ってはあらかじめ孤児である。『台風クラブ』で野球少年の父親は骸としてのみかろうじて存在し、工藤夕貴は一度もその姿を見せぬ母親の痕跡だけが残る布団にくるまり、ただ泣きじゃくるばかりだ。逆に父母の前から自らその姿を隠さねばならない『東京上空』の牧瀬里穂しかり、相米映画の子どもたちはみな一様に、ある種みなしごとしてそこに描かれてきた。『セーラー服と機関銃』が、主人公の父親の葬式からはじまるのは偶然ではない。薬師丸ひろ子演じる星泉は、みなしごとなってはじめて相米映画の主人公たる資格を得たのだ。そんな相米慎二が、まず父母ありきで描かれるこの少女の物語を選んだのもまた、偶然ではないだろう。彼は徹底して排除してきたその存在と、ここに至りはじめて決意をもって対峙している。母と娘、父との別居をめぐるその攻防戦。ガラス戸の向こうで娘が口にする『なんで産んだん?』その問いに咄嗟に答えられない母親は、ただ無言のままガラス戸を突き破り、娘を力の限りにつかむ。それが彼女が答えられるせいいっぱいの答えなのだ。その手の答えに泣いた。そしてそんな母娘の愛情と決闘を、ここまで真正面から相米慎二が描いたことにも。自分をしっかりと抱きしめ、胸をはっておめでとうございますと叫ぶ主人公レンコとしての田畑智子、それを描く相米慎二、その二つの輝きを余すことなく焼きつけることができた『お引越し』は、この上もなく幸運な映画である。 [映画館(邦画)] 10点(2009-08-08 11:28:53)(良:2票) 《改行有》

15.  渚のシンドバッド 《ネタバレ》 一見無駄の多い映画だ。物語を語る上でさして重要とは思えないささやかなシーンを、橋口亮輔監督は、けれどとても丁寧に描く。それは主人公3人以外の登場人物の描写、なかでもお調子者奸原くんと優等生清水さんの本筋とは無関係に描かれるシーンに特に顕著だ。落ちこんでいる無器用な清水さんにこれまた無器用な奸原くんが器用に披露するトンボ返り。学校の屋上でその脇役の二人が二人きりで見せるさりげなく心やさしいやりとり。その二つのシーンが主軸をさしおいて本編屈指の名場面になっていることからも分かるとおり、この映画の魅力はまさにその無駄さにある。さらに言えば、彼ら登場人物を延々とまるごと捉えようとする長回しや、描かれる人物の心情によりそうように二拍、三拍と長すぎる余韻をおいて切り替わる場面転換もまた、物語を語る上では冗長さやテンポの悪さを生じさせる無駄と言えるだろう。しかしながらそうした無駄の一つ一つが、そのくせなんとも魅力的なのが面白い。橋口監督にとっておそらくもっとも重要なのは、小気味よく物語を語ることではなく、彼ら一人一人の繊細な感情をじっくりとそしてしっかりと捉え、それを大切に大切に積みかさねていくことなのだろう。そしてそんな彼の、無駄を恐れず主役も脇役も等しく愛をもって見つめるそのまなざしこそが、この青春群像劇を心にふれる傑作たらしめている。まさに無駄ばかりの映画だ。けれどその無駄には一つのこらず愛がこめられている。ラストの自転車に乗って走り去る奸原くんの姿は、そんな無駄の上に咲くべくして咲いた大輪の花だ。その花は力強く、美しく、胸を打たれずにはいられない。無駄だらけのこの映画に本当は無駄など一つもありはしないのだ。[映画館(邦画)] 10点(2009-08-03 22:43:33)(良:1票)

16.  死んでもいい(1992) 《ネタバレ》 若い男が下車した駅の構内をゆっくりと歩いている。のんびりとした足取りと、進む方向を運まかせにするその様子から、彼が当てもなく放浪中の旅人であることが分かる。やがて男が改札を抜け駅舎を出るそのタイミングで、突然激しい夕立が降りはじめる。雨を避けるべく引き返そうとしたその時、男はすぐ後ろで傘を開こうとしていた女の肩にぶつかる。体勢を崩しよろめく女と、その姿を雷に撃たれたように見つめる男。男が詫びる間もなく女は赤い傘を差し、雨の中へと駆けて行く。冒頭で描かれる男と女、信と名美のこの邂逅の鮮烈さはただごとではない。偶然のめぐり逢いから一瞬で恋におちる衝撃を、こんなに美しく表現し得た映画は古今東西、稀だろう。この映画が凄いのは、得体のしれないそのボルテージが全編に渡って骨太に貫かれていることだ。二時間ドラマと大差ない不倫の果ての殺人という筋書きを、石井隆監督はあくまで映画として構築しようとする。生半可ではないその意気込みに、つくづく感嘆せずにはいられない。ネオン管に吹きかけられるアルコールの霧、暗いドアの郵便受けから名美を求めてのびる信の腕、夕景の船着場で逢瀬する二人を抒情的に描く長回しや、反対に、殺害シーンを直接見せずその場の生々しい空気だけを延々と捉えつづける固定の長回し、まさに枚挙に暇がないほどだ。映像の力だけで雄弁に語られるそれらのシーンのなんと映画的なことか!そんな映画表現への情熱的なこだわりの一方で、一般映画初監督作品であるためか主演の大竹しのぶへの配慮なのか、本作では、石井隆映画特有の過激で陰惨な性描写はかなり控えめになっている。夫と愛人の両方を愛しさらには自ら汚れないようにも見えてしまうこの名美像からしても、「名美」を屈折した愛をもって奈落の底へと叩き落とすのが信条の石井隆独特な世界観は、ここでは不完全燃焼とさえ言える。けれど、逆に言えば観客を食傷させないある種の節度あるその抑制が、この作品を傑作たらしめてもいるのだ。そういう意味では本作はデヴィット・リンチ映画における『ブルー・ベルベット』のような位置づけの傑作と言えるかもしれない。なにはともあれ、名美がナミィにとどまった『GONIN』と並んで、石井隆の最高傑作であると思う。[映画館(邦画)] 8点(2009-07-31 15:32:39)(良:1票)

17.  Kids Return キッズ・リターン 《ネタバレ》 ハードボイルド青春映画とでも呼べばいいだろうか。社会に足を踏み入れ、自分なりのサクセスストーリーを歩みはじめていたはずの二人の少年たち。彼らが、それぞれに過酷な現実に足下をすくわれ打ちのめされていく様が、徹底して乾いた視点で描かれていく。そのあまりの容赦のなさは、リアリズムというよりも、もはや悲観主義にすら見えるかもしれない。けれど夢敗れた者の目に映る世界とは、おそらくそんなものだろう。彼らの目に映るその世界。北野武はブレることなくただその一点ばかりを、憑かれたように丹念に描出する。この映画が青春映画の型を成しているにもかかわらずサイドストーリーとしての恋愛はおろか、過去の北野映画における石田ゆり子や国分亜矢らのような添え物的ヒロイン像すら描かないのはそれゆえだろう。北野はただ彼らの姿を、そして彼らが見る世界を、描くのだ。この作品以前の北野映画は大なり小なり「死」をその主題としてきた。昨日と今日の同じ風景の中に主人公だけがいないことでそれを表現した『あの夏、いちばん静かな海。』、あるいはやがて来たるべき死そのものを具現化した『ソナチネ』のように。けれど本作で北野武が一心に見据えているのは、生きるということだ。「俺達、終わっちゃったのかな?」「バカヤロウ、まだはじまってもねえよ」ラストの台詞は実に北野武らしい。北野特有の、きわめて日本人らしく、そして厄介なその照れ隠し。彼は、ふりだしに戻って自転車で校庭をグルグルと回るだけの二人の姿に、生半可な希望の光をさしこんだりはしない。ただありのままの姿をありのままに描くのみだ。先の未来なんてだれにもわからないとばかりに。それは照れ隠しであると同時に、力強いメッセージでもある。安直なハッピーエンドなんていらない。どれほどに打ちのめされようと彼らは生きているのだ。そして生きていくのだ。[DVD(邦画)] 10点(2009-07-30 21:16:23)(良:2票)

18.  東京上空いらっしゃいませ 《ネタバレ》 まず驚くのは、力技で組み伏してくるようだった80年代の一連の相米映画とのそのあまりの差違だ。わからない奴はわからなくていいとばかりにやりたい放題だった荒くれ者がジェントルマンのたしなみを身につけたかのように、相米はこの映画を相米らしくもとても真っ当な映画に仕上げている。続く『お引越し』で彼がその正しい真っ当さと相米的力技の最もバランスのとれた完成形を見せ、以降はよりその真っ当さを強めていったことを考えると、『東京上空いらっしゃませ』は相米映画の過渡期に位置した記念碑的作品でもある。おもちゃ箱をひっくり返したような美術にファンタジー的特撮、牧瀬里穂のやけくそのような芝居の非リアルなリアル、相米印とでも呼ぶべきそれらを長回しで生き生きと捉えながらこれまたおなじみの荒唐無稽なストーリーを、けれど彼はとてもとても丁寧に大切そうに語る。たとえるならば『ローマの休日』方式の、はじめから終わりを運命づけられた二人のタイムリミット付きの恋の物語を。天国までの猶予の時間を生きる主人公ユウは、貰ったばかりの薔薇をちぎって屋形船の上から夜風に飛ばす。一見共感しがたい刹那的なその行為はしかし大切な花束を前に彼女が出来うる、最大限の愛の表現だ。かけがえのないその花を枯れるまで慈しむ時間すら、彼女にはないのだ。そんな彼女が、今の自分がいちばんいい!と高らかに宣言するかなしさ。影踏みのやりきれなさ。途方にくれながら球体のジャングルジムをぐるぐると回し飛び乗るシーンの抒情。あるいはそれこそ大昔のハリウッド映画のように開きなおった吹き替えのミュージカルシーン、作りものめいた画面の中に牧瀬里穂の躍動だけが今を生きる本物としてくっきりと浮き上がる、そのせつなさ。大口を開けて笑い、喜び、怒り、また笑う、そんな美しくも当たり前の日常を彼女が生き生きと生きれば生きるほどに、すぐそこに迫りくる終わりを予感させる、その逆説がたまらなく胸をしめつける。やがてあらかじめ決められた終わりがやって来て、それでも相米はそれまでの彼からはとても考えられない、ささやかだがそれでいてとびきりすてきなラストシーンを見せてくれる。あとにもさきにもこんなにやさしい相米は見たことがない!へたくそな牧瀬里穂のすばらしい笑顔はオードリー・ヘップバーンにだって負けていないと思う。天国の相米もパラソルの下、地球を眺めながら日焼けしているだろうか。[DVD(邦画)] 10点(2009-07-25 00:09:24)(良:2票)

19.  ガタカ 《ネタバレ》 近未来を舞台としたSF映画でありながら『ガタカ』は、建築、自動車、衣装、さらには登場人物たちの髪型などといったあらゆるデザインを、ことごとくクラシックに描いている。そんな未来像がまず目をひく。そしてそれはうわべの美術的なデザインだけにとどまらない。遺伝子工学の発達という設定こそ未来的ではあるものの、生まれながらにして階級が決定しその階級が人の人生を左右するという思想は、旧時代にこそ色濃く社会を支配していたものだったはずだ。科学は飛躍的に進歩しても、ファッションや社会構造は循環し過去に遡行するという発想が面白い。つまりこの物語は、近未来に舞台を借りて現代人が描いた古典映画なのである。たとえば、兄弟での遠泳競争といった未来どころか前時代的な男同士のチキンレースは『理由なき反抗』を、そして不適正者としてのコンプレックスや屈折を見せる主人公ビンセントの姿は『エデンの東』のジェームス・ディーンを彷彿させるほどだ。あるいは宇宙飛行士として旅立つ「ジェローム」を見送る検査官が、旧き佳き時代の遺物のような伊達男っぷりを発揮するのもまた、それゆえだろう。そう考えるとアンドリュー・ニコル監督は、現代劇や時代劇として描くにはあまりに率直でアナクロニズム溢れるこの物語を語る照れ隠しとして、あえて近未来を選んだのではないかとさえ思えてくる。そんなすばらしきこのクラシック映画の中でもっとも現代的なのは、輝かしいはずの適正者の側の屈折を表現するユージーンの存在だろう。不適正者であるがゆえあらかじめ可能性を奪われたビンセントと、適正者でありながら自らその可能性を唾棄せざるを得なかったユージーン。対照的なはずの二人でありながら、それぞれに隠し持つ魂のその等しい痛みが重なりあいジェロームという1人の人物を創り出す展開が見事だ。ユージーンの最期は、尿や血液のサンプルとしてのみかろうじて存在してきたその肉体の抹消に他ならない。宇宙に旅立ったのはユージーンのサンプルをまとったビンセントではない。2人で1人のジェロームなのだ。ビンセントとユージーンそれぞれの魂を共に乗せて、ロケットは新たな地平を目指すのだろう。[ブルーレイ(字幕)] 10点(2009-07-24 23:59:13)(良:1票)

20.  トト・ザ・ヒーロー 《ネタバレ》 主人公トマは、向かいに住む金持ちの息子で同じ日に生まれたアルフレッドと自分は産院の火事で取り違えられてしまったのだ、と固く信じている。あらかじめ奪われた人生。そんな子どもの頃に思い描く貴種流離譚はつまり自分の置かれた環境や劣等感から逃避する手段としての夢物語であるが、そうした空想にふけるのは決して不遇な子どもに限ったことではないだろう。事実、トマの子ども時代は、愛する家族に囲まれて、彼の人生で唯一輝いていた時代でもあるのだ。にもかかわらずトマとしての自分の人生を否定し、アルフレッドへの羨望やトト・ザ・ヒーローへの憧憬をいつまでも捨て去れなかったことに、トマの不幸はある。この映画がすごいのは、子ども時代の空想やトマの姉アリスの美しい思い出に囚われつづけるそんな人生を、トマと相対するはずのアルフレッドにも等しく課してしまう点だ。終盤、老人となったアルフレッドが同じく老人となったトマに語る一言は、トマがアルフレッドだったようにアルフレッドもまたトマであったことを意味している。自ら創り出した空想が真実をも呑み込んでしまった時、きちんと与えられていたはずの本物の人生を、まがいものの人生として共に生きざるをえなかった2人。それを踏まえて行動するトマの最期は、ややもすれば被害妄想を貫きとおしたようにも見える。しかしそれは違う。自分の人生を一から否定しつづけてきたその思い込みの間違いに、彼は気づいている。彼がすべきは、真実を否定することでも人生を嘆くことでもなく、自分の手で台無しにしてしまった人生そのものをそれでもありのままに受け入れ肯定すること。アルフレッドとなって死んだトマだが、そうすることで彼はアルフレッドの人生ではなく、アルフレッドになりたかったトマとしての人生を見事に生ききったのだ。間違いだらけであっても灰色であってもそれでもすばらしい、彼の本物の人生を。灰となって空を飛ぶトマの笑い声はだからこそ底抜けに陽気で、そして人生賛歌のように薔薇色の世界に燦々と降りそそぐ。ぼくの人生はこんなにもすばらしいぞ、と。こんな思いがけないラストを用意してくれたジャコ・ヴァン・ドルマル監督に心から拍手を送りたい。[映画館(字幕)] 9点(2009-07-23 22:01:11)(良:3票)

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