|
タイトル名 |
国宝(2025) |
レビュワー |
鉄腕麗人さん |
点数 |
10点 |
投稿日時 |
2025-06-17 21:44:12 |
変更日時 |
2025-06-21 10:31:26 |
レビュー内容 |
「芸」という、その価値の本質がひどく曖昧で、故に悪魔的な魅力を放ち続けるモノの狂気と、深淵。 174分という映画の尺があまりにも短く感じられるほどに、光と闇が濃縮された映画世界に恍惚となり、うまく言葉を紡ぐことができない。 正しい言語化のためにも、再鑑賞は必須と考えているけれど、とりあえず初回鑑賞後の「記憶」として記しておこうと思う。
こういう圧倒的に完成度が高い映画の感想を綴るとき、あまりキャストやスタッフ個々の功績に言及することは、個人的に避ける。俳優や監督の個人名を挙げて、それぞれの演技や演出を文章化してしまうと、なんだか当たり障りのない批評的な表現になってしまい、作品に対する私自身の「感情」を、正しく表現できていないと感じるからだ。 でも、「役者」という生き方と文化、その陰と陽をひたすらに追求したこの作品においては、やはり何を置いてもそれを身一つで体現した“役者たち”を軸に語ることが、筋なのではないかと思う。
つまるところ、“立花喜久雄”という役者の天賦と狂気に等しく支配された主人公を演じた、役者・吉沢亮が、「圧巻」だったということ。 これまでこの俳優の演技をそれほど見てきておらず、既に確固たる人気俳優の一人であることは勿論認識していたけれど、個人的な印象が薄かったことは否めない。 ただ、独特な眼差しの奥に何か仄暗い闇と光を秘めた俳優だなという、予感めいたものは前々から感じていて、本作でその「正体」が、ついに顕になったという感覚が強い。 吉沢亮という役者が秘めた仄暗さの中の光は、まさに本作の主人公が孕む美しくも禍々しい狂気性と呼応し、入り混じり、唯一無二のキャラクター像を作り上げて見せていたと思える。
極道一家の御曹司として生まれ、父親の惨死を目の当たりにして、行く宛もなく歌舞伎役者の家に転がり込み、自身の「芸」のみを研鑽し、邁進し、凋落と絶望を経て、「国宝」と成る男。 そんな荒唐無稽な人間の人生を、疑問も違和感もなく、体現してまかり通してみせた吉沢亮の表現力にこそ、この映画の本幹に通じる“深淵”を見たように思う。
そしてもう一人、主人公・立花喜久雄と文字通り“対”を成し、共に役者人生を全うする“大垣俊介”を演じた横浜流星も、素晴らしかった。 名門歌舞伎一家の「血」を受け継ぎ、役者としての華を持ちつつも、主人公との圧倒的な“ギフト=天賦の才”の差を感じ続け、苦闘し続ける人物像を、こちらも見事に体現しきっていたと思う。
物語の中の立花喜久雄と大垣俊介の関係性は、そのまま現実世界の吉沢亮と横浜流星の俳優としての性質や立ち位置にも通じているように見えた。 李相日監督の言葉にもあるように、本作の製作に当たって主演の吉沢亮のキャスティングは、ほぼ大前提として確定していたようだが、相手役のキャスティングにおいては熟慮の末、「横浜流星に賭けてみよう」という決定プロセスだったらしい。 そこには、横浜流星という俳優における重圧や葛藤、そしてそれらを凌駕する熱情と努力が溢れ出ていた。
主人公の喜久雄以上に、その終生のライバルであり“親友”である俊介の、人物的な存在感を高められなければ、この映画世界の構造は成立しなかっただろう。 無慈悲で明確な“ギフト”の差を突きつけながら、病で足を腐らせ、片足になりながらも、舞台に立ち続ける大垣俊介の姿も、役者・横浜流星の人間性と呼応し、魅力的な人物像を作り上げていたと思う。
「役者」という生き様そのものが、「人間国宝」として認定されるというこの国の文化は、よくよく考えると少し異様にも感じる。 “自分”ではないものを演じ、芸術として表現し、それを「国宝」と呼称されるレベルにまで高めるという行為は、そもそも普通の人生や、まともな価値観を逸脱しなければ、成り得ない。 本作の主人公がそうであったように、それはすなわち「人間失格」の烙印を押されようとも、悪魔にすべてを投げ売って、ようやく垣間見える境地なのだろう。
社会的な倫理観とは程遠く、嫉まれ、憎まれ、恨まれ、歩み続ける孤独な狂気の道。 そこから放たれる一瞬の「芸」の光に、私たち人間は熱狂し続ける。 |
|
鉄腕麗人 さんの 最近のクチコミ・感想
国宝(2025)のレビュー一覧を見る
|