SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

雪の女王(1957)(1957年【ソ連】)

噂(でもないか)のジブリ新訳版、観て来ました。
オイラはかつて、人形劇で「雪の女王」を主要演目にして巡回してた事があって、このソ連バージョンは吹替え版を観飽きるほど観てまして。なのでちょっと違和感が大きかったんですが、原点を知る/ロシア語の響きを熟慮したセリフ回しに聞き惚れる等々、なかなかに有益でした(「DVD買えば済むじゃん」という突っ込みはナシの方向でネ (^^;)。

さて、アンデルセンの原作を骨までしゃぶった若かりし頃から幾星霜。勝手レビューとはいえ、ここで500作以上をレビューしちまった身ですから、目が肥えてしまった。観てはいけないモノまで画面に観えるようになってしまったのを痛感しました。
ユーカラさんが本作の重要なキーワードとして「雪解け時代」のタームを挙げていらっしゃいますが、本作は本当にもうこの言葉に「縛られている」と言ってもいいような気がします。「雪の女王=スターリン」なんですよ。「共産主義(と言って語弊があるならスターリン主義)=冬」なんですよ。アンデルセンのオリジナルをほとんどいじらずに、ここまで筋の通った解釈に「ねじ曲げ」たのは正直凄いと思いました。
誰の身にも、冬は平等にやってくる。だけど、冬の街は全てが雪の女王の監視下にあるわけで、女王の悪口を叩いたカイは氷のかけらを撃ち込まれて、モノの見方を変えさせられ、やがてしょっぴかれて行く。女王の宮殿で行われるのは徹底した再教育…という名の思考改造。生命の不安定さを否定し、氷片の持つ「正しい」結晶の形に美を見出すカイの姿などは、もうそれ意外の意味を見出すのが不可能です。若い頃は全然気付かなかったんだけどね。
他方、女王の目には止まらなかった主人公ゲルダは、カイを取り戻すために故郷を離れます。眠っているお婆さんに別れを告げる、なんてのは明らかに「警察の目から逃れる逃亡」です。1957年の公開時点で、スクリーンを前に、こういう経験を思い出したソ連人(もちろん大人)が多数いたであろう事は想像に難くない。
ゲルダは様々な人の助けを借りながら、クレムリンに迫って行く。身に付けたモノと交換で逃してもらったり(川に赤い靴を浮かべる場面)、思想家の元で慰留されるのを振り切って(春の魔法使い)、資産家から反体勢の運動資金を取りつけ(夏の宮殿)、ゲリラの元へ潜り込み(秋の盗賊)、その筋の一員に手引きしてもらってモスクワへ入り込み(トナカイ)、地下組織を転々として居場所を隠しながら(冬の魔法使い)、ついにクレムリン単独潜入に成功。今や政府要員となったカイに接触し、熱く自分の思いを伝えて彼の思想をスターリンのくびきから解放する…ってこれ、ゲルダ=フルシチョフって事やん!
まあ伝統的にあの国では当代の支配者に逆らうと命がないですから、見事な処理と言えますな。アンデルセンが元にした民話「雪の女王」の本質は、「絶対的な権力」と「自由」との対比/せめぎ合いにあるわけで、権力者はロマノフ朝でもあり得るしナチスでもあり得るように、高度に抽象化してある点がおミソです。時代が回ればフルシチョフ政権も雪の女王になってしまう仕掛けです(ショスタコービッチがこういう手を使って、スターリン/フルシチョフ/ブレジネフの3代を生き抜いた)。

この作品の真の価値は、こういう残酷なスターリン時代のバックボーンを当時のソ連人観客に突き付けながらも、その地獄を生き抜くゲルダの姿に微塵の思想性をも与えなかった事だと思います。
愛だけが、シベリアのような雪を解かす。一途な想いだけが、無関心な人々を協力的にしてくれる。好きであればこそ、どんな危険が待っていても進んで行ける。それを何度も何度も繰り返して言い続ける。
このスタッフは最初から、本作が時代を越える事を想定していたんじゃないかな。(おそらく)残酷な実体験をベースにしながらも、それを「詩」にまで昇華し、遥か後の時代にも通用するメッセージとなって欲しいと思っていたんじゃないか。だからこそ全世界に知られている『雪の女王』を題材に選んだんじゃないだろうか。

ゲルダの解釈は80年代以後、大きく揺れている。今の流行りは戦うヒロインを消化吸収した「熱いゲルダ」だ。実は今日まで、このゲルダの解釈の方がいい、と思っていた。オリジナルのゲルダは、アンデルセンのプロテスタント臭が強すぎて「人間そんなに立派にゃなれねーよ」と突っ込みたくなるからだ。熱いゲルダなら、そういう部分の人間的な解釈を現代的にできる。
本作のゲルダは、今では想像もできないような苛酷な状況下で、厳格な思想主義に対置されるべく、みんなの希望や、理想や、夢になれるようにと描き出されたわけで、アンデルセンのそれと方向は同じだけれど、遥かに神話的な、遠い遠い気高い存在に思える。
みんなが納得する「私もなれるカモ」なゲルダよりも、「こうはなれないけど、こんな人がいたら確実に世界が変わる」と思わせるゲルダの方が、明らかに映画で描く人間として重要だろう。このアニメのスタッフたちは、命を削って描いたんだな…と、その重みに圧倒された1時間だった。

余談だけど、初めて大画面で本作を観て、女王の影の付け方や煽りの表現が日本のロボットアニメに受け継がれているのを確信。「原点はここか! 雪の女王の威圧感が始まりなのか!」と大納得してしまったのでした。
つまり、女王だけ輸入したのか…日本じゃゲルダは根付かなかったわけですな…。

●追記:
寝て、起きたら、あったり前の事を見逃していたのに気付きました。
雪の女王が住んでいるのはクレムリンでもあるけど、本陣はシベリアだわ。だから冬の魔女がイヌイットの姿だったんだ。カイは不穏当な政権批判でシベリア送りの刑を食らったんだ。
本国人が観ると、ゲルダはシベリアとモスクワが交差する仮想ポイントへ旅するわけですね。日本ならさしずめ、江戸でもあり京でもある仮想都市…といった感じかな。
評価:7点
鑑賞環境:映画館(字幕)