SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

時をかける少女(2006)(2006年【日】)

これ『時をかける少女』ってのは間違ってないけど、『岸辺のふたり』の日本版とも言えますな。そっちのパートの方が個人的には好きです。

ただ、本作の後の主人公の行く末までわかってしまうのが悲しいといえば悲しいけど…いや、本作の主人公は「走って迎えに行く」んだからいいのか(笑)。多分あの川辺で待ち続けるキャラじゃないでしょうね。ある意味、あの名作に対する日本からの返球と言えなくもない。フランスアニメと日本アニメは、得てしてこういう「作品のキャッチボール」を楽しんでますから(『パプリカ』なんかもそうだよ! YouTube とかでネタを探してみるべし (^-^)/)、またキレのいい一球を返したのが日本勢として気持ちいいかもです(注:2/14、いま調べててわかったんだけどオランダアニメだった…! (゚.゚;オドロキ!)。
終わりの方の「すぐ行く。いま行く。走って行く」というセリフなんか、もはや『時かけ』を忘れて『岸辺』の文脈で解釈しないと理解できないくらい、ズッポリあっちの物語に入ってしまった言葉ですな(河を背景にして固定アングルだし)。あのセリフでは本当に涙が出ました。
時間軸は前後しますけど、序盤に河原から駆け下りてジャンプするくだりも『岸辺』文脈の中では本気で泣けるっす。このシーンはまた『デジャヴ』すらも軽々と超えたのかな(個人的な感触)。

音楽が素晴らしい。
映画を構成する要素の中で、音楽は進行する映像・シナリオから離れている事を慣習的に許されている。この特質を精一杯使い、主人公よりではない、「物語」に寄り添った劇伴にフォーカスしている。これはリアルタイムに画面を観ていても潔く、また物語の構造がよくわかる。
本作の構造上の特徴である、《ジュヴナイル≒ライトノベル=非教養小説》の枠組み…主人公が成長も変化もせず、さらにその「今のままでいたい」という子供っぽさ自体を徹底して肯定する(そう、この物語の中で悲惨な未来が訪れないための解はポジティブな現状維持、それしかない)場合には、主人公から少し離れた立場の「合いの手」が必要だ。だが本作はタイムトラベル物であって、中盤以降は超主観的な展開になるのはお約束されている。
音楽が、表面的なドラマから切り離されたのは、この「主人公以外の観点がありえない」という欠点を補うためだろう。そして見事に成功した。劇伴で盛り上げようとか余計な色気を出さずに、徹底して目的を絞り込んだ結果だと言える。

SFとしての凄い点。
時間旅行モノは、たいてい「世界 vs. 個人」という構図に納まって、そこに終始する。世の中を変えてやりたい、とか、ここでこんなコトが起こってたら…というアイデアの発展形なわけですよ。でも結局、時間旅行者は旅行した時点で世界から切り離されているので、「自分がいる世界」を変えているわけじゃない。エンタープライズ号がどこぞの星に行って、現地住民が恐れるモンスターを科学兵器で退治してるのとあまり変わりのない「よその家での他人事」になってしまうワケっすよ。
なので、ここにとことんこだわった作品はつまらない。時間旅行(というか歴史改変)に対する認識が深まってきて、受け手の気持ちが「できる、できない」以前に「そんなもんつまらん」という方向へ向かい始めた90年代以降、この枠組みはいったん崩壊したと言える。
この枠組みを破った草分けがかの『恋はデジャ・ブ』なんだけど、話の制約があまりにキツく、以後量産されたタイムとラベルものも「限定された場所」「制約を受けた主人公」というちんまりとした世界から出ようとしないのが、悲しい現状。「世界 vs. 個人」から「世界」を抜いちゃったので、当然といえば当然なんだが。2000年代、時間旅行の物語は既に「自分という存在を見つめる」物語へと変貌していたのは間違いない。

さてここで『時をかける少女』。
この物語はそういう潮流を踏まえて、とことん個人の物語に徹する。原作もまあそういう流れだったんでごく自然な展開なんだけど、これは真琴の物語であって、彼女の「自由選択」の物語であって、それに徹する事が、周囲に置かれた様々なモノとリンクしていく構成になっている。
自由選択、という言葉が卒業後の進路にリンクする。
もっと大きく青春というキーワードにもリンクする。
そしてそれは、さらに遠くの未来像ともリンクしている。
SFという物語ジャンルは戦時中のアメリカで発展してきた経緯で、「自由選択」という言葉を神聖視し金科玉条のように扱ってきたきらいがある。ポピュラーな例を挙げると『スパイダーマン』。自由を享受するには相応の責任も伴うのだ、と説くのがアメリカSFのお約束だ(これにこだわって自滅した『ジャンパー』も、アメリカならではの文化を引きずっとるねえ)。
本作『時をかける少女』は、このアメリカ流儀にぶちかまされた強烈なカウンターパンチであって、ドラえもんの世界を理詰めで本格SFにつないだ、日本流儀のタイムトラベルの完成形とも言えるだろう。
この意義は大きい。アメリカが10年拘泥しつづけた泥沼の枠組みに、全然違うベクトルから見事な解答を出してしまったのだから。無限の選択肢を試し続ける一人の主人公を見つめることで、遥かに巨大な、様々なモノが見えてくる…これが時間旅行SFの枠組みの「今」なんだと思う。

この項、続く…。

●数年後(2010/3/21)の追記
てか、数年もしないうちに映画版でリメイク(?)されるとは…。
これは末期的な、何かのサインなのかもしれない。

おまけ:本作鑑賞時の実況中継
評価:8点
鑑賞環境:DVD(邦画)