SCAT/くちずさむねこ(2007)

 

君の名は。(2016)(2016年【日】)

ああ。秒5から随分経ったもんな。天を焼きながら砕け散るように新海誠愛を語らせてもらうよ、オイラは(苦笑)。

んで。まずは記号面から行きますか。この作品、まるで『テルマエ・ロマエ』のような美しさ(あ、ソコ笑わない!)を持ってますので。
…最初に断っておくけど、オイラは新海作品を「恋愛モノ」と思っていない。
恋愛は新海作品の骨になる要素だと思うけど、それは宮部みゆきがミステリ作家だというのと同じレベルの話で、要は観客(読者)を引っ張っていく《燃料》として「謎=ミステリー」「驚異=SF」があるように、男女の人間関係が利用されている、という風に見てる。

そこでまず、『秒速5センチメートル』を復習するところから入ってみたいかな。
アレのレビューでは、「空の物語だった、と断言したい」と書いた。
具体的に詳しくは書かなかったんだけど、第一話の雪、第二話の雨から晴れへ、第三話の快晴…と、世界はどんどん明るくなっていくように構成されている。それに呼応して、地上のドラマは子供時代の不自由さ・息苦しさ・世界の狭さがどんどん解消され、行動圏は広がり、自由が増していき、人間は空虚になっていく。地上のドラマの代わりに、空が代演してるわけだ。たとえば二話目のロケット発射シーン、夜天に広がる垂直の噴煙と巻雲、そしてその先の天、星々…これはあからさまに空がセックスシーンを代演していて、わかりやすい。
そして終わりの方の、掟破りな弾けっぷりで『秒速5センチメートル』とタイトルがデデーンと入る瞬間、画面は鳥の目線になって、空の中を舞い、世界を俯瞰する。
この作品は子供から大人への通過儀礼をバックボーンとして、それを特定のドラマで描こうとするのではなく、抽象画とも言える自然の光景で表現してやろうという狙いで作られた…と捉えて、今に至る。

そういう観方で今回の『君の名は。』を観始めると、最初にいきなり雲を突き破って星が落ちてきた。
ロケット打ち上げシーンの逆。もう少し観続けるとこの星が「ティアマト彗星」らしい、というのがわかってくる。ティアマトって創世神ですよ。『秒5』では大人世界を象徴していた宇宙を目指し、科学をいっぱい突っ込んで飛んでくロケットとは、真逆に近い立ち位置にあるもの。しかも後半になって観客は、それが山に囲まれた湖に落ちてくると知らされる。
絵的にはコレ宇宙規模の壮大な受精ショーとして観ることができて、その場所に暮らしている主人公が女性、という図式まで頭の中で出来上がると、『秒速5センチメートル』の真逆の記号の使い方をしているというのがわかってくるわけですよ。
ここで、雑然と散っていたいろいろなパーツが整理ができてくるんですね。
動かなくて静かなもの・ひっそりと目立たず佇むもの…そういう記号を、湖が、糸守町が、もっと一般的に田舎という土地が、主人公とその家が、伝統という名の思考停止状態が、背負っていると思います。もっと整理を進めていくとこれは古今の文芸作品が「女性」に割り当ててきた記号類でもあるわけです。
これに呼応して、華やかな・アクティブな・攻撃的で破滅的なものを象徴して反対側にあるのが、彗星であり、東京という大都会であり、イタリアンなレストランでのホール担当であり…。

そんな二者の出会いは死と破滅を生み出すわけです。普通に考えてね。ところが新海誠はここに、両者が建設的に出会える《たそがれ》という空間と、《愛》というモチベーションを置いた。
この出会いはご神体のある山の中で実現されるんですけど、実はもうひとつ三葉が父(この人は明らかに彗星側のキャラ)に会いに行くシーンでもリフレインされていて、絶望的な破滅から辛くも逃れる直接の引き金になるわけです。昼に瀧が会いに行った時には前向きな結果は出なかった。そこには男性的な衝突があったから、という伏線まで引かれていて。
だからこの、三葉と父が会うシーンで彼女の決定的な表情が描かれていないのは画竜点睛を欠いたなあ、と本気で落ち込んでます。減点理由はほぼここです。
そして、この不満は次のファンタジー面の考察でもリフレインしてしまうのだった…。


この作品、実は『インスタント沼』を彷彿とさせる豊かさ(だから、笑わないッ!)を隠しています。
糸守町が1200年前に隕石衝突にあったらしい、と作中で暗示されますが、序盤の授業シーンでは「万葉言葉が残っている」と言及されていて、過去の大災害を生き延びた人たちがいたらしいというのも、わかります。
さらに宮水家のご神体のある《あの世》空間も隕石孔が土砂で埋まったような地形になってて、いったい糸守の惨劇は何度繰り返されたんだ…と気にせざるを得なくなる。
つまり、本作で起こったドラマは初めてではないってコトですな。
1200年前に何が起こったかは伝承が失われてわからない、という設定が、時間モノのなかでは新味。土地自体が伝統の意味を再発見しなければならない状態で、観客は主人公ふたりと一緒に再発見をしていくコトになります。
ここで、宮水の神様は三葉を3年後の世界に送り込んで(しかも彼女の希望を聞いて都会暮らしのイケメンにまでして!)、何が起こるのか知らせようとしたはずなんですが、本作の主人公たちはドはずれのバカなので、糸守町の事を調べようとしない。このあたりの青春っぷりは、後から神様視点で考えると「そうとうヤキモキしてたはずだよなあ」と思いますね(苦笑)。
完全にどうにもならなくなってから、ようやっと瀧が動き出すわけです。この、後の祭り感。大震災にかぶらせるつもりでやってるはずですが、観客には相当堪えます。
そっからは何やらよくわからない《愛》だけで駆動する男が物語を担う事になり、足で歩いて伏線を回収しに行く。このあたりの非現実感を強調するのに、バイト先の先輩と級友をセットしたのは抜群に巧かった。古典的なゴーストストーリーのステレオタイプな道具立てをうまく再利用したなあ、って感じでした。新海作品としては、この長野行きの場面の喪失感が一番の醍醐味なんじゃないかと思います。

「メルヘンとファンタジーの違いは何か」という物語の歴史上すごく重要な問いがあります。
動物が普通に人間に語り掛けてくるのがメルヘンの世界。そこには「合理的な」理由はなにもなくて、人間と動物は会話できる、というのが世界観の根底にあったりします。今でいう「設定」ってやつ。
これは科学技術が登場する前、どの民族にも通じる現象で、実際のところは他民族を動物・怪物として捉えていたりする過去の伝統を引きずっているわけです。ある軸でメルヘンを見てやると、別に不合理でもなんでもなくなる。神様なんてモノだって右脳の非言語領域のコトだったって学説がありますからね(ウィキペディアで「二分心」を参照よろしく)。
これが科学が発展してきて、世界を捉えるのにひとつの視点しか許されなくなってくると、ググッと浮世が狭く感じられてくる。豊かさが消えていくような。見通し良く、明るくはなるけれど。
この世界の喪失感がファンタジーの原動力であって、どんどん明らかになっていく世界の秘密のベールの中で、合理的に、かつての「神」「不思議」を探し求めようとするわけです。つまらなくなった自分を、世界を、もう一度豊かにするために。
もうひとつ、世界が科学の発展で明らかになって行く上で、またそれ以外にも多くの発明で今まで交流しなかった文化圏が大量に接触・混合していく中で、過去の不合理なもの・理不尽な習慣・大勢からは許されない少数者の奇異な価値観…そんなものを描いていくのが原初の(19世紀前半のイギリスで誕生した)ミステリーであったり、ホラーであったりします。ホラーは基本的に科学的(公共的・一般的)な視点や評価軸があってはじめて成立する物語なので、ファンタジーのアプローチとは逆になるわけです。まあそこをどうアレンジするかがジャンル作家の力量なんですけど。

ここで『君の名は。』に戻ると。
映画の序盤の男女入れ替わりは明らかに根拠も理由もなく起こっている(ように観客へ見せている)ので、明らかにメルヘンの語法なんですね。まあそこまで言わなくてもプロダクション物の作品で機械的に消費されるようになった「設定」依存の世界観です。
これが中盤、瀧が動き出した段階で、やっとわけのわからないモノに触れていたと気付く「いや冷静に考えればおかしいよなコレ」という観方ができるようになり、この時点で援用されているのがクラッシック・ホラーの語法。幽霊や怪奇現象に取りつかれた一人と、彼を見守る常識人の二人(多くは男女で構成される)という組み合わせで展開し、この時点で観客は過去の能天気な「メルヘン気分」「アニメ気分」を捨てなきゃならなくなる。
伏線は十分に引かれているので、ご神体の元に行って酒を飲めば何かが動き出すのは、頭では理解できます。でもこのシーンでの瀧はそれを心の底からは信じてない。この「どうにもならないけどどうにかしたい」というやるせなさを、狂気として描き出す冷たさが、311と被らせることで効果倍増する、という。
そして、最後のギリギリの入れ替わりが起こった後は、世界の枠組みはすっかり明かされていて、瀧も三葉も怪異現象をちゃんと受け入れ消化して動き出し、堂々とファンタジーの世界へ入っていく。

いまや明かされた糸守は、周期的な破滅から逃れるために未来を見せたり、未来と過去を融合させる力があり、逆にそういう力がなければ生き残れないほどの災厄がある世界。全ての変化を黙って受け入れていく、女性的な田舎世界(すんげー古典的な女性観ですが、おそらく意図的)。
この日を生き残るために宮水家の存在があったというのに、身内を説得できないばかりに事態は動いてくれない…。
だから、ここでリフレインしますが、父と三葉が役場で会うシーンでは、彼女の表情に1200年の歴史の全部が、平安時代から女性の怨念が、あり得ないと思っているファンタジーへの入口が、土地神の力を借りて出てくるはずで、父親はおそらくそこに亡き妻の面影や、かつて理解できなかった部分の彼女についても啓示を読み取るのだ…と。物語上、そうでなければならないと思うわけです。
そうなんだよ。画竜点睛を欠いたんだよなあ…。
べつにその表情を描かなくたって、切り返して父の表情変化で表現するとか、いろいろやれたと思うんだよね。


さてタイムスリップ関連のSF面。彗星系の宇宙関係は外して。
新海誠がどこまで意識してやってるかが不明なんだけど、タイムパラドックスが発生した後の「忘れていく」という現象が実は、オイラ的にとっても素敵です。それはまた、作品全体の視点・人間観にも反映されてるように見えます。
素粒子を数式上で扱うのにファインマンの提唱した経路積分って方法がありまして、要は「素粒子が粒子として存在が特定できないんなら、逆にどこにでも存在しうると仮定して、場所ごとの存在確率を求めればいいじゃん」っていうやり方です。
これは確率的にめっちゃ低い事でも、「まかり間違えばそういう状態は成立しうる」というのを認めたうえで世界を構築するわけで、本作のような世界観とは相性がいい。
この世界観で、時間線が一本の世界でタイムスリップを起こしてみる(意識は粒子じゃないんで時間を超えられると仮定する)と、未来で起こった事を取り消すのに過去側で行動を起こした場合、未来はどんどん姿を変えて(粒子の確率分布が変化して)行くはずで。瀧が糸守の破滅を知って、過去を変えたとしたら、瀧が行動を起こす理由がなくなる。でもって行動を起こさないとしたらやっぱり惨劇は起こってしまうわけで…タイムパラドックスが発生します。
この経路積分的な世界観の下では、タイムパラドックスは瀧が行動する/しない/する/しない…と存在確率が振動を始めて落ち着きどころを探し始め、普通ならたぶん「瀧は過去を変えずに、謎のトラウマを抱えたまま生きていく」という世界線に落ち着くでしょう。
本作はそれをさせないために、ここでも《愛》を置いた。
タイムパラドックスの末に過去を変える。因果が逆転するので世界のあり方の存在確率は大幅にブレて振動し、実際に何があったのか、3年後の世界ではあいまいになってしまう。人々の《記憶》《意識》というのは、脳髄の中だけに存在しているんじゃなくて、そういう存在確率の上の雲のように捉えどころのなくなった粒子群の上にあって、全部の可能性を無意識的に見渡しているんだ…そんな、あいまいな世界で、絶対出会いたい人を探し求めるという行動だけが世界の姿を定める事ができる。
記憶があやふやになる、というのは新海誠らしい、かなり穏便な表現で、まあオイラだったら最後のふたりはありえない過去に振り回される、狂気の人になっちゃってるんだろうなあ…と思います。
ただ、タイムパラドックス認めてストーリーを進めた場合に、そういう世界観・人間観になって、そういう末路が訪れるというのを明示した作品はほとんど記憶にありません(グレゴリー・ベンフォードの『タイムスケープ』くらいか? 『バタフライ・エフェクト』がもっとベタに、安っぽくやってる)。監督は原作もやってるわけで、「過去を変える」コトについて、たぶん相当真剣に考察したんじゃないかと感じてます。特に組紐作りの意味のくだりで、その時空の捉え方の片鱗が伺えます。時空を俯瞰し、連続性・周期性そしてたまに分断する様を示唆するあたり。

んで、それを救うのが《愛》なんだ、と。
時間壊したって、矛盾引き起こしたって、そのために自分が壊れたっていいじゃないか。そこまでしてやらなきゃならない事があるんだ! …って、高らかに宣言した本作には、そこんとこ本当に脱帽しました。
新海作品では、世界より愛の方が重い。それに耐えられるくらい、強くなれる。だからこそ、このどうにもならない「今」を耐えて探し続けろ。
オイラ的にはもう『プライマー』を超える(以下略

追記:
スマホの日記が消えてくトコだけはダメね。デジタル機器ではそういう時空のブレは表現しずらいっすよ…あそこは手書きの日記を使うか、落として壊しちゃうとか、軽く逃げを打ってほしかったなあ…。


他の方々のレビューを一通り読んでみました。
新海誠は多大な欠点と、ごくわずかな絶対的長所を持ち合わせたクリエイターで、その長所ですら「表現力は短編向き」「構想は長編向き」とマッチしない部分があるヒト。しかも自分の世界観を表現するために、観客には丹念に《画》を読み解く事を要求するので、伝わらない部分が多くなってしまう残念な才能に恵まれてる。
長編作家としてこの欠点を埋めるために、今回は製作委員会方式にしたんだと思うし、それによって欠点の過半をカバーすることができたんじゃないかと思う。無視できない致命的な個所はいくつかあるけど、立派に骨(=観客を引っ張る燃料)を持った作品になった。

多くの人が問題視してるのは、この過程で過去作品からの大量の「借り物」が発生してしまったという点に見えました。
そこは鑑賞中に即座に気付いたし、気にしなかった。ストーリーの陰に配置された記号類がちゃんとしてたからね。ある意味、新海誠作品に慣れた人間の眼なら、借り物部分は軽くスルーできていた。
これが、ストーリーだけを追って観てる場合はちょっと辛くなるのは想像に難くないところ。
アニメの「時をかける少女」は猛烈に巧いカッティングで畳みかけるので、同じようなシーンでも『君の名は。』の方はまだるっこしく見えると思う。
オリジナルの『君の名は』は現実の戦争時代を舞台にしているので、公開当時、観客を引き込む力は圧倒的だったはずだ。
ただ、そういう過去の名作を援用して自分の欠点を補っていくのは、今後しばらくは彼の定番スタイルになるだろうし、それを上手にやれるようになるのは、長編を作る上では必須のプロセスだと思う(借り物魔王の宮崎駿を見よ)。すべてを自分の内側から生み出すのは無理なことで、無理にそれをやれば普通、強靭でないクリエイターは壊れてしまう。結局、過去作品の引用の仕方に才気があるかどうか、それで観客の好悪が分かれるようになりそうだ。
もちろんそれは創作現場の話であって、売れるかどうかは別の話。新海誠作品がドル箱になるのは今回証明されたので、同じスタイルを観客からも製作からも強要され続ける(スティーブン・キングがかつて「グリーン・ジャイアント」と例えた)状況になるはずだ。

だから、長編の合間には、実験的な短編アートアニメを作ってほしいと切に願っています。
密度の濃い短編作品の土俵でなら、長編製作での欠点をカバーできる。新海誠の才能の両輪は、違うスタイルの上で成り立っているものだと本気で思っていますから。
評価:9点
鑑賞環境:映画館(邦画)